君に癒されたい!君を癒したい!ー君の過去何かどうでもいいんだ!

外でデートするよりも自宅を行き来するほうが何かと都合がいいのは分かっていたが、凛を自宅に招くことは遠慮していた。

ただ、外で会うのはお互いに周りのことを気にするので疲れるのが分かってきた。それで凜も自宅なら気を使うことも少ないだろうと思うようになってきた。

「今度の日曜日は僕のマンションへ遊びに来ないか」

「いいんですか?」

「住んでいるところを見てもらいたいのと、ここの方が周りに気を使わなくていいと思うから」

「あなたが今どんなところでどんな生活をしているのか興味があるから、お邪魔してみようかしら」

「じゃあ、午後3時に池上線の洗足池駅の改札口で待っている」

当日、僕は朝から部屋の掃除、溜まった衣類の洗濯をした。娘がいなくなってからは休みの日にしか掃除はしない。

それから、夕食の代わりになるようなパンやオードブル、ワインなどを近くのスーパーへ買い出しに行った。何か僕の手料理とも考えたが、自信がないのでやめにして、出来合いのものを仕入れることにした。

3時に改札口で待っていると、凜は先に着いていたみたいで、商店街の方から歩いてやってきた。手には小さなバッグとスーパーのレジ袋を持っている。今日はメガネをしていないが、目立たない地味な服装だ。

「早く着いていたんだね」

「買い物をしようと思って、簡単なおつまみを作ります。お酒は準備していただいていると思いますので」

「ワインの赤と白を準備している。それにウイスキーと氷も、出来合いのオードブルも買ってある」

「それだけあれば十分に飲めますね」

「マンションに行く前に公園を散歩しないか?」

「この公園の池にはボートもあるし、池を回る遊歩道があるけど、始めにボートにでも乗る?」

「せっかくだからボートに乗ってみたいわ」

「僕もここに10年近くいるけど、1回も乗ったことがなかったから丁度いい」

この公園の池の周りはいつも散歩しているが、ボートからの景色は新鮮だ。凜は嬉しそうに周りの景色を見ている。ここは公園だがあまり人は多くない。ほとんどこの近くの人が散歩しているので、皆のんびり歩いている。凜もここでは人目を気にする必要がないと思う。

「ボートに乗るって初めてです」

「気をつけて、ここはそう深くはないと思うけど、立ち上がったりしないでね」

「大丈夫です。漕ぐのに疲れませんか?」

「1周ぐらいにしておこう、結構腕が疲れる」

「お天気も良くて気持ちいいですね」

「美人をボートに載せて漕ぐなんてことは若いころの憬れだった」

「今はどんな気持ちですか?」

「浮き浮きしているけど、結構疲れる。心地よい疲労を感じている」

「よくおっしゃっていましたね、心地よい疲労!って」

「よく覚えていてくれたね」

「そんなこと言う人はいませんから」

「好きな言葉、いや好きな状態かな」

「ご機嫌のいい時の言葉ですね」

「何かをして疲れているけど充実感があるとき、そんな時はぐっすり眠れる」

「確かにその意味、分かる気がします」

「もう相当疲れた、いいかげん陸に上がろう」

それから今度は遊歩道を二人で一周した。途中に八幡神社でお参り。二人並んで柏手を打つ。僕は凛との交際が続くように祈った。凜は何を祈ったのだろう。おみくじを引いていた。

「おみくじ、どうだった」

「末吉」

「末吉は末広がりで将来が吉だから一番いい。ところで何を占ったの?」

「二人の関係」

「考えてくれているんだ」

「はい」

「後々良しということだからよかった。マンションへ行こう」

この辺りは住宅地だからマンションは3階までしか建てられない。僕の部屋は2階。ベランダからは公園が見える。花見時は人出が多くて騒がしいが、それ以外はとても静かだ。

そろそろ夕暮れ時で薄暗くなっている。玄関の自動ドアを入ると、キーをボードにかざして中の玄関扉を開ける。2階まではエレベーターで昇り、エレベーター横の209号室が僕の部屋。ドアを開いて凛を招き入れて、すぐにドアをロックする。

凜に中を案内する。10畳くらいのリビングに対面キッチンがついている。浴室の扉を開けると洗面所と洗濯機置き場、その奥がバスルーム。浴室の向かい側にトイレ。

二部屋の内、広い方が僕の書斎兼寝室でセミダブルのベッドと机、本棚が置いてある。小さい方が娘の部屋で今も身の回りの物が残されている。以前は娘が広い方の部屋を使っていたが、家を出る時に交換してもらった。

リビングにはテーブルに椅子、座卓、横になれる三人掛けのソファー、大型テレビ。

「素敵なお部屋ですね。高級マンションはこういうふうになっているんですね」

「そんなに高級でもないけど、いくつか見て回ってみたが大体皆同じだった」

「亡くなった奥さんとはここに住んでいたの?」

「亡くなって郊外から転居して来たんだ、すべて忘れようとして」

「でも忘れられなかった、私に会ったから」

「そのとおりだ。だから、あの質問の答えは、そうだったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれないだったんだ」

「でも分かっているんだ。君は君で、妻とは全く違うと。凛、その君を僕は好きになってしまった。僕は今、妻になかった君らしいところを探そうとしている」

「私はどちらでも良いと思っています。私を好きになってくれれば」

「凛、君は君だから」

「私もあなたの亡くなった奥さんの代わりはできません」

「それでいい、その君と付き合いたい。まあ、せっかく家に来てくれたんだから、お酒を飲みながら、おいしいものをつまんで、もっと話をしよう。もし、良かったら今日はゆっくりしていってほしい。泊まってくれたら、なおいいけど」

「お酒を飲むから泊まらせて下さい」

「じゃあ、ゆっくり飲もう、準備するから」

「私も手伝います。それに買ってきた材料でおつまみを作ります」

すぐに準備ができた。凜は慣れたもので手早くオードブルを3品ほど作ってくれた。赤ワインをそれぞれのグラスに注いで乾杯する。

「この先どうなるのかね、二人は?」

「どうなるか分かりませんが、定めがあるとしたらそれに従うことにします」

「僕は真摯に君と付き合いたい、誰が何と言おうとも」

「無理することはありません。あなたには社会的地位もあるし娘さんもいます」

「そんなことはもう気にしないことにした、この年になると会社での将来も見えてくる。娘も一人前になったのだから、これからは自分の生きたいように生きると決めている。君も過去を引きずらないで自信を持って生きてほしい。君ならそれができる」

「ありがたいです。そう言ってくれる人がいるってことは心強いです」

「絵が好きと言っていたけど、もっと勉強したらどう。目を引くいい絵を描いているから。絵は上手、下手ではなくて、人を引き付ける何かがあるかどうかだと思うけど」

「もしそうなら私の今までの生き方の反映かもしれません」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

「相変わらず、どちらともつかない意見ですね」

「絵は心情を表わしていると思うから、いずれにせよ、僕は君の心情を幸せに満ちたものにしてあげたい。そして君の絵がどう変わっていくのかも見てみたい」

「毎回描いたらお見せします。確かめてください。変わってきたかどうか」

「そうしよう」

赤ワインのボトルが空いてくる。凜も飲んでいる。お互いにもう少し酔いたい気分になっているのが分かる。ボトルが1本空いたところで、水割りに変更したい。これ以上、ワインを飲むと悪酔いする。

凜もそこのところはわきまえていて、水割りを2杯作ってくれた。席をテーブルからソファーへ移す。少し酔いが回ってきたのでソファーの方が楽ちんだ。

「ジョニ黒が好きなんですか」

「水割りはこれが一番好きだ。このスモーキーな香りと味が好きなんだ」

「お店にも1本キープしておきます。たまには寄って下さい」

「いや君の神聖な職場だから、行かないようにしたいと思っている」

「神聖な職場ですか? あそこが」

「じゃあ、付き合っている相手の会社に気軽に会いに行けると思うかい」

「それは」

「できないだろう。だから行かない」

「お店なんですから、考え方が真面目過ぎませんか?」

「本当は君がお客の相手をしているところを見たくなんだ。その笑顔を僕にだけ見せてほしいと思っている。そこまで言うと料簡の狭い我が儘な男と思うかもしれないけどね」

「客商売していると仕方ないです。客商売ってそんなものです。お客様には笑顔でお相手しなければなりません」

「すべて営業用の微笑み?」

「そうとは言いませんが、いやなお客もお客様にかわりありません。お客様を選べないんです」

「そうだね」

「いやなお客もはじめは本当にいやですが、段々慣れてきて、割り切ってお相手できるようになるんです。でも、一方で段々そういう自分にやりきれなくなってくるんです」

「だからやめたの?」

「そうです。好きな人だけを相手にできる普通の生活がしたくなって」

「それで、今はそういう生活ができているの?」

「はい、お店は商売と割り切るしかありませんが、お付き合いは好みの人とだけにしたいと思っています」

「僕も好みの人に入れてもらっているんだね」

「もちろんそうです」

「ありがとう」

凜を引き寄せてそっとキスをする。そして暫く抱きしめる。

「お風呂を沸かして温まろう」

「そうですね」

僕は立ち上がってお風呂の準備をする。凜はテーブルの上と座卓の上を片付けてくれている。お湯が満杯になるまでの間、僕は寝室の準備をする。凜は黙ってソファーに座って水割りを飲んでいる。

「一緒に入る?」

「はい、先に入っていてください。すぐに行きます」

先に入って身体を洗っていると凜が入ってきた。さっとシャワーを浴びるとすぐに僕の身体を洗ってくれる。今度は僕が身体を洗ってあげる。凜はじっとしている。

それから湯船からお湯の溢れるのも構わずに二人で浴槽に浸かる。後ろから凜を抱いて浸かっている。

「箱根を思い出しました」

「お風呂はいいね。今度また二人で温泉に行くかい?」

「それもいいですね」

「先に上がっていて下さい。髪を洗わせて下さい」

僕は先に上がってソファーで水割りを飲みながら待っている。凜はバスタオルを胸に巻いて上がってきた。髪にもタオルを巻いている。

「気持ちよかったわ。素敵なお風呂ですね」

「僕も気に入っている。少し広めで温かい」

凜を引き寄せてキスをする。そして抱きかかえて寝室へ運んだ。それから愛しあい、二人だけの長い夜を過ごした。

6時に目覚ましが鳴った。もう起きる時間だ。月曜日だから出勤しなければならない。デートが日曜日だとこのあたりが不都合だ。すぐに起きて朝食の準備をする。凜も起きようとする。

「朝食の準備は僕がするから、ここでは僕に従って、ゆっくりしていて」

「そういう訳にはいきません。お手伝いします」

「いいから、お客さんはじっとしていて」

「優しいんですね」

「娘と生活している時はずっとこうだったからね」

「いいパパだったんですね」

「それはどうかな? 遠くへ行ったところを見ると、口うるさかったんだろう」

「娘と言うものは父親が好きなものです」

「いずれ、君に会わせるよ」

「私のこと、どう思うかしら」

「どうかね」

凜は身支度を整えるとソファーで見ている。朝食の準備ができた。トーストとホットミルク、ハムエッグ、プレーンのヨーグルトにジャム、皮を剥いたリンゴのカットの簡単なもの。

「男の作る朝食はこんなもんだ。諦めて食べてくれる」

「私が作ってもこれ以上はできませんから、ご馳走になります」

「これに懲りずに、また遊びに来てくれないか。二人で飲んだり食べたりすると楽しいから」

「機会があればまたお邪魔します。今度は何か料理を作りましょう」

「ありがたい、楽しみにしている。これ予備キーだけど持っていてくれる?」

「預かれないわ」

「今日は遅くここを出てくれればいい。今帰ると朝のラッシュに合うから」

「構いません」

「いいからそうしてくれ」

「分かりました。私を信用してくれてありがとう」

「信用していないと付き合ったりしないよ。じゃあ頼みます」

僕は凜をマンションに残して出勤した。

夜、家に帰ると部屋が整っていた。掃除してくれたみたいだった。凜のいい匂いが残っていた。帰った時に凜が迎えてくれたらどんなだろうかと思った。

それから、デートは自宅のマンションですることが増えてきた。その方が凜も周りに気を使わなくてよくて気楽みたいなので自然とそうなった。

公園の散歩も気に入っているみたいだった。家に来ると料理を作ってくれる。それから泊ってくれて、月曜日の朝、ゆっくり帰っていく。
今年の年末年始は大阪で過ごしたいと娘の栞が電話をして来た。きっと恋人でもできたのに違いない。心配だがもう親が口を出すこともない。望みどおりにさせてやろう。それならと凜に電話する。

「年末年始はどうするの?」

「年末は31日までですが、年が明けても朝まで営業しています。3が日は休んで4日から営業を始めます」

「それなら、2日に初詣に行かないか。2日なら少しは神社も空いているだろう。それと初売りに行かないか? 君になにかプレゼントしたい。クリスマスにも会えなかったから」

「31日は年越しに店に来て下さい。年が明けたら一緒に初詣に行きましょう」

「いや、やめておこう。前にもいったとおり、君の職場に訪ねて行くのは遠慮するよ」

「私がお客さんの相手しているのを見るのがお嫌なんですか?」

「それもあるけど、僕は昔のように、君と客として付き合いたくないんだ」

「ありがとう、私をそんなに思っていてくれて。2日の待ち合わせ場所と時間をメールで入れてください」

「分かった。じゃあ、良いお年を!」

「良いお年を!」

◆ ◆ ◆
2日の10時に凛の店から表参道の大通りへ出る小路の出口で待ち合わせをした。丁度10時に凜が和服で現れた。メガネをかけている。

「おめでとう」

「新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」

「こちらこそよろしく、大みそかはどうだった」

「12時過ぎまでお客さんがいて、それから皆さん、初詣に出かけました。3時ごろにまたお客さんが戻ってきて朝まで飲んだり歌ったりでした」

「書き入れ時だね」

「12月と1月はまずまずですね」

「お参りに行こう、人出はどうかな」

「2日でも結構混んでいるみたいですよ」

凛の言ったとおり、まだ随分と混んでいる。元日はもっと混んでいただろう。時間がかかったがようやくお参りできた。凜は長い間手を合わせていた。覗きこんでいると目が合った。

「何をお祈りしていたの」

「このままの生活が続きますようにって」

「今の生活に満足しているんだ」

「満足と言うか、これ以上も望みませんので」

後に人が混んでいるので押された。すぐに横へ歩き出す。

「欲がないんだ」

「欲って限りがないですから」

「言うとおりだ」

「あなたはなんてお祈りしたんですか?」

「そばの人と結ばれますようにって」

「もう結ばれているじゃないですか」

「まだ、足りないから、それ以上をお願いした」

「どういうことですか?」

「今よりももっと親密になりたいってことかな」

「いまでも相当に親密だと思いますけど」

「君の言ったとおり、欲には限りがないんだ。君のように考えられると楽なんだと思う」

手を繋いで参道を出て大通りへ向かう。歩道は人でごった返している。

「今日はおみくじを引かなかったね」

「物事なるようにしかなりませんから」

「そうかな、何とかするのも大事だと思うけど」

「でも、大事な場面ではよくよく考えて悔いのないように決めています」

「それで後悔しないの、判断を誤ったって」

「ありません。その時に良いところも悪いところもよく考えてのことですから、想定外のこともありますが、結果が悪ければ諦めるだけです。自分が諦めれば済むことですから」

「諦めると気が楽になるのは分かる気がする。いつまでも引きずらないことが大事かな。随分時間がかかるけどね」

「亡くなった奥様のことをおしゃっているの?」

「それも含めてかな」

「プレゼントをしたいけど、何がいいかな」

「いままで、プレゼントはいただかないことにしていました」

「どうして」

「いただいたものに縛られるような気がして、でも、あなたからはいただくわ、今はあなたと繋がっていたいから」

「それは嬉しい、何がいい?」

「細い鎖のブレスレット、シルバーがいい。いつも着けるから無くすかもしれないので、高価なものでない方がいいです」

「指輪はどうなの?」

「指輪よりルーズでいいかなって、でも浮気がしたいってそういう意味ではないんですけど」

「そういってくれて嬉しい。プレゼントのし甲斐がある」

すぐに近くの目に入ったジュエリーの店へ行った。指輪が一番多くて、次がネックレス、意外とブレスレットは少ない。凜が望むようなものが数点見つかった。

凜はその中から、二重チェインのものを選んだ。値段もそこそこなのでカードで支払って、すぐに着けてもらった。

和服では目立たないが、白い肌にぴったりだった。店に出るとブレスレットはきっと客の目にも付くだろう。着けていてくれるかだが、確かめるすべはない。

「お店に寄って行きませんか、3日まで休業ですからお客さんは来ません」

「そうだね。ここまで来たので寄らせてもらおうか」

店の中は暖房が入っていないのでひんやりしていた。

「ここは寒いですから、上へあがりませんか? その方が落ち着きます」

「君がいいというのなら上がらせてもらうけど」

「じゃあ、ちょっと待っていてください、着替えと片付けをしますから」

店の中の奥のドアを開けると階段があった。凜は登っていった。しばらくするとどうぞの声がする。そこを上ると凜の住んでいると言う部屋があった。

広めのダイニングキッチン、その奥に板敷きの8畳くらいの洋室があり絨毯が敷いてある。それにビジネスホテルのようなバスと洗面所とトイレが一体になったバスルームがついている。

エアコンが効いていて温かい。部屋は新しくはないがきれいに整っている。窓際のセミダブルのベッドが目に入る。

凜は和服を脱いで部屋着に着替えていた。

「和服じゃ、お料理しにくいから、着替えました。ごめんなさい」

「お料理って、ご馳走でもしてくれるのかい」

「お正月ですから、何かご馳走します」

「それはありがたい。今年の正月は一人ぼっちで何も準備しなかった。娘がいればお節料理のセットでも買ったところだが」

「お嬢さんは?」

「今年は向こうで過ごすだと、いい男でも見つけたのならいいが」

「心配なんでしょう?」

「もう大人だから、本人に任せることにした」

「一人では食べきれないのであまり買ってありませんが、お節の材料は少し買ってあります。準備しますから、ゆっくりしていてください」

凜はホットウイスキーを作ってくれると下の店に降りて行って材料やらを持ってきた。飲みながら、凜が準備するのを見ている。

「一人ぼっちの正月より二人の正月がいいね」

「私も今同じことを考えていました」

小一時間もするとテーブルにお節料理が並んだ。十分すぎるご馳走だ。

「お雑煮のお餅はいくつ召し上がりますか?」

「お腹が空いているから3つにしてください」

お雑煮を作ってくれた。テーブルに並ぶ。

「どうぞ召し上がって下さい」

「ありがとう、いただくよ、お節料理をご馳走になるとは思わなかった」

「材料を買ってきておいて良かったわ」

「二人でお正月のお節料理を食べるのはいいね、のんびりした気持ちになれる」

「ブレスレットありがとうございます」

「喜んでもらえればそれでいいんだ。僕の気持ちだから」

「だから、嬉しいんです」

「店でも着けます」

「そう言ってくれると嬉しいけど、客に聞かれるかもしれないよ」

「プレゼントだと言います」

「誰からと聞かれるよ」

「付き合っている人からのプレゼントだと言いますよ」

「君を目当てにしているお客が逃げるよ」

「今時そんなお客はいませんよ」

「僕はお客になっていないけど君を目当てにしている」

「だからプレゼントを受け取りました」

本当に凜がそう思っていてくれると嬉しいのだが、よく分からない。

「今日はゆっくりして行ってください」

「ゆっくりさせてもらっているけど」

「いいえ、今日は泊っていってもらえませんか。一人のお正月は寂しいので」

「君がそういうなら、喜んでそうさせてもらうけど、僕も家に帰っても一人だから」

「ありがとう。嬉しい」

食べ終わると凜はテーブルを片付け始めた。僕は洋室へ行ってベッドに寄りかかって凜が後片付けをするのを眺めている。すぐに片付けは終わって、今度は水割りを二杯作ってきて隣に座った。

「ここなら人目を気にしないで、いつまでもお話しができます」

「僕のことをいろいろ聞かなくてもいいのかい」

「いいの、今までのお付き合いで性格も分かっているし、改めて聞くことなんかないわ」

「僕の方からひとつ聞かせて、君はいくつなの?」

「そうね、言ったことなかったし、いままで聞かれなかったわね、32歳です」

「思っていたとおりだ」

「あの仕事に入ったのが20歳、父親の借金を払うため、どこかで聞いたような話でしょ」

「お父さんは今どうしているの?」

「折角借金を払い終えたのに、22歳の時に亡くなりました。奥さんと同じがんで、肝臓がんでした、きっとお酒の飲みすぎね」

「兄弟は?」

「一人娘で、父子家庭でした。母親は小学校2年生の時にどこかへ行ってしまいました。でも父親は私をそれは大切にしてくれました。あなたが娘さんにしたように」

「父親は娘が可愛いものなんだ」

「だから風俗で働く決心をしたの」

「お父さんはそれを知っていたのか?」

「もちろん黙って、借金取りから聞いたかもしれないけど、何も言わなかった。ただ、お酒の飲む量が急に多くなったから、知っていたのだと思います。死ぬ前にすまなかったといって泣いて謝っていました」

「お父さんはとても辛かったと思う」

僕がそう言うと凜が抱きついてきて泣いた。

「私が父の死を早めたんです」

「しかたなかたんだろう、そうするしか」

「はい、でももっと楽をさせてあげたかった」

「亡くなられたのは定めとでも考えるしかないと思う」

「定めですか?」

「宿命と言ってもいいのかもしれない。そう考えると、君も楽になれる」

「悲しいことだけど定めだと思って受け入れるしかない。悲しいことばかりでなく、またいいこともきっとある。それを受け入れて生きていくしかないんだ。僕もそうしている」

「父もあなたと同じようなことを言っていました。でもとっても寂しそうだったのを覚えています」

「私があなたに惹かれるのは何か父と同じようなものを持っているように感じるからかもしれません」

「それはファザコンだな」

「そうかもしれません。話を聞いてもらって気持ちが少し楽になりました。ありがとうございます」

凜が身体を預けてきた。細い身体を受け止める。凜を抱きたいと思った。その思いが伝わったのか、凜が身体を急に離した。

「シャワーを浴びてください」

促されてバスルームへ入る。すぐに凜が入ってきた。

「ごめんなさい、昔の癖が抜けないみたい、シャワーをしないと気が済まないんです」

「清潔好きはいいことだ。僕も洗ってあげる」

凜は身体を丁寧に洗ってくれた。それから僕も凜の身体を洗う。冬だからシャワーを十分に浴びる。それからベッドに移って、愛し合った。

凜は布団の中で僕にしがみついている。部屋の暖房を強めてあるので寒くはない。

「姫始めだね」

「そうですね、今年もよろしくと言えばいいんでしょか?」

「よろしく」

そのまま、二人はしばらく眠ったみたいだった。凜がベッドから出て行くので目が覚めた。時計を見ると5時を過ぎていた。

「夕食を作ります。お肉があるから焼きます。元気をつけてもらいます」

「ありがとう。元気が出そうだ」

「二人分だと作り甲斐があります」

「姫始めで君をご馳走になって、ステーキをご馳走になるなんて、今年の正月は最高だね」

「私もこんな楽しいお正月は久しぶりです」

凜が作ってくれた夕食を食べた。凜には家庭的な雰囲気があるし、家庭に憧れがあるように思えた。夫婦二人の正月はこんなものだろうかと思っていると後片付けしながら凜が聞いてくる。

「二人の生活ってこんな感じになるのかしら」

「僕も今、それを考えていた。どうなの?」

「心が落ち着いて穏やかになっています。後片付けも楽しいし」

「こうして、君が後片付けをしている後姿を見ているとなぜかほっとするね」
「これが普通の夫婦の生活っていうものかな」

「こんな感じですか、私は経験がないから分からないですけど」

「僕も昔のことだから忘れてしまった。終わったらそばに座ってくれないか」
「ええ」

洗い物を終えて、凜が隣に座った。互いに寄りかかってベッドにもたれかかって座っている。凜の手にはまだ水がついている。荒れていないきれいな手だ。その手にそっとキスをする。

「夕食をありがとう」

「どういたしまして」

「しばらくこうしていたい」

「お茶をいれます」

「ありがとう」

「これからどうします」

「君を抱いて眠りたい」

「私も抱かれて眠りたい」

二人はベッドに移り、また、愛し合う。そして抱き合ったまま深い眠りに落ちた。
3日の朝、目が覚めると、抱いていた凜を起こしてまた愛し合った。それからまた眠って、目が覚めたらもうお昼前だった。

「散歩しないか?」

「そうね、原宿の街でも歩いてみましょうか」

「人出が多いかもしれないけど、雑踏の中を二人で歩くのもいいんじゃないか」

「腕を組んで?」

「いや、手を繋いで」

「じゃあ簡単なお昼を作ります。オムライスお好きでしたね」

「ああ、大好きだ、作ってくれる?」

「二人分作ります」

凜は身支度を整えるとすぐにキッチンに立って料理を始めた。出来上がったオムライスを口に頬張ると前に食べた時と同じ味がする。おいしい。

食べ終えると二人で出かける。凜はメガネをかけなかった。僕はこのままどこかで別れて帰ろうと思っている。

原宿の正月の雑踏の中を二人でそれを楽しむようにゆっくり歩いて行く。凜は始め腕を組んできたが、雑踏の中では手を繋いだ方が歩きやすいと分かったようで、手を繋いで歩く。

若いカップルが同じように手を繋いで雑踏の中を歩くのを楽しんでいる。こうして人混みの中にいると、大都会の中で生きているという実感が湧いてくる。

凜は店のウインドウを横目で見ながら、気に入った店があると近づいてウインドウの中を覗いたり、店の中に入ったりしている。僕はそれを見守りながら戻ってくるのを入口で待っている。

原宿駅近くの店から凜が出てきたところで、男が話しかけている。30半ばくらいか? 男の後ろから近寄る。凜がこちらを見る。怯えているような顔をしている。

「ねえ、亜里沙じゃないか? 俺のこと覚えていないの?」

「知りません。人違いです」

「いや、君は亜里沙だ、髪を短くしているけど間違いない」

「どうかしたの?」

「この人が」

「君は誰ですか、僕の家内に何か用ですか?」

「昔のなじみの女の子に似ているから声をかけました」

「怯えているじゃないか、失礼だろう」

「申し訳ありません。悪気があった訳ではありません。失礼しました」

男は恥ずかしそうにしてすぐにその場を離れて行った。

「大丈夫かい。悪かったね、街中へ誘っていやな思いをさせてしまったね」

「いえ、それよりもあなたの方がいやな思いをされたのではないですか」

「前にも言っただろう、そういうことは百も承知している。気にしていない」

凜が急に抱きついて来た。雑踏の中でも人目に付く。皆、僕たちを見ながら通り過ぎてゆく。

凜に抱きつかれるのは悪い気がしないし、人に見られるのも気にならない。正月からいい気分になっている。凜を抱き締めているが、原宿では見慣れた風景だろう。

「あの男の顔、覚えていたの?」

「覚えていないの、でも亜里沙と言っていたから」

「覚えていないなら、なおさら知らんぷりしていればいい。怯えていないで、もっと強くならないと、でもこれからも僕が守る」

「家内って言ってくれてありがとう。嘘でも嬉しいわ」

「本当に家内になってほしいと思っているからそう言っただけだ」

「ええっ」

「僕の妻になってほしいと思っている」

「それはできません。付き合っているだけで十分です」

「付き合っていても、また急にいなくなってしまうのではないかと心配なんだ。もう二度と君を失いたくない」

「結婚を考えてみてくれないか。君と僕は年が離れているし、娘もいる。すぐに返事してくれなくてもいい。よく考えてからでいいから、待っている」

「ありがとうございます。身に余る申し出ですが、しばらく考えさせてください」

「分かった。このまま、ここで分かれるのもなんだから、店まで送ろう」

凜の手を引いて歩き出す。凜はうつむきながらついて来る。店の前で別れる時、また抱きついて来た。

いつかはこうなるとは思っていたが、行き掛かりで凛にプロポ―ズをした。これで良かったと思っている。
今日は、行き掛かりとは言え、凜にプロポーズした。こんなことでもないとなかなか踏み切れなかったのも事実だ。駅前の弁当屋で弁当を買って、4時過ぎにマンションに戻ってきた。

明日から仕事だが、4日は新年の挨拶回りや挨拶を受けたりして1日が過ぎて、業後は年始の一杯があるから、仕事は5日からになる。

夕食の弁当を食べているところへ、(しおり)から電話が入る。元旦の朝の新年の挨拶の電話以来だ。

「パパ、お正月どうしてた?」

「元旦はあれから一日マンションにいて寝正月だった。2日と3日は初詣やら街歩きをしていた。さっき、戻ったばかりだ」

「一人で?」

「いや、連れがいた」

「女の人?」

「そうだが、気になるか? 栞こそ、どうしてた? 彼氏とでもうまくやっていたのか?」

「まあ、そういうところ、でも心配しないで、きちんと付き合っているから。パパこそどうなの? その女性とは」

「栞と同じようにきちんと付き合っている。一度、栞に会わせたい」

「いいわよ、私がパパに合う人か見てあげる」

「生意気を言うな。東京へ来る機会はないのか?」

「再来週の月曜日に東京の本社で会議があるから、来週の土曜日に東京へ行くわ、泊めてもらいます」

「それなら、日曜日の晩に3人で食事をしよう。どこかのホテルのレストランを予約しとこう」

「分かったわ。どんな人か楽しみだわ」

早速、凜に電話する。

「2日間も付き合ってくれてありがとう。もう大丈夫かい」

「はい、今、夕食を食べているところです」

「再来週の日曜日の晩は空いているよね」

「はい、日曜日の晩は予定がありませんから」

「それじゃあ、娘が帰ってくるので3人で会食しようと思う。是非、娘に会ってほしい」

「ええ、いいですが、娘さんは何とおっしゃってます?」

「会ってみたいと言っている」

「それならお会いします」

◆ ◆ ◆
娘の栞が土曜日の午後4時過ぎにマンションに着いた。実家へ帰ってまで食事の支度をしたくないからといって、大阪で買ったという駅弁やたこ焼きやらを持ってきた。夕飯にはそれを当てると言う。駅弁とたこ焼きをつまみに二人でビールを飲む。

「ねえ、その女性ってどんな人、どこで知り合ったの」

「もう7年ぐらい前になるかな、水商売をしていたが、3年位贔屓にしていた」

「真面目なパパが水商売の人と親しくなるなんて意外だわ」

「付き合い出したのは最近のことだ、しばらくどこへ行ったか分からなくなっていたから」

「どういうきっかけで?」

「偶然、彼女の店に入って再会した。それで交際を申し込んだ」

「その人、歳はいくつなの?」

「32歳と言っていた。パパとは13歳も違う。栞より9歳位上」

「随分若い彼女ね、うまくやったね」

「プロポーズしたけど考えさせてと言われている」

「そりゃそうだわ、13も年の離れたおじさんだから、それに娘もいるとなると、考えるわ、振られる可能性もあるかもね」

「どうかな、パパは二度と失いたくないと思っているけど」

「私に会わせたいのはどうして」

「義理の母親になるかもしれないから、栞に気に入ってもらいたいし、できれば仲良くなってくれればいいと思って」

「それは会って見ないと分からないわ」

「そうだね。明日会ってみてあとで感想を教えてくれればいい」

「私が反対したら?」

「反対しないと思っているけど、その時はその時だ」

◆ ◆ ◆
日曜日の午後6時に銀座のホテルのロビーで待ち合わせをした。僕と栞が待っていると凜が6時前に現れた。和服を着ている。メガネはかけてこなかった。

見た目は32歳よりも上に見えるが、和服が似合っていて周囲も見ているくらいに美しい。こちらへ歩いて来るのを教えると栞が見つめている。

「きれいな人、ママに似ているね」

「パパも会った時にそう思った」

「パパが好きになった訳が分かったわ」

凜が僕たちを見つけて近づいて来た。栞を見ている。

「今日はご招待いただきありがとうございます。こちらが娘さんですね。初めまして寺尾 凜です」

「初めまして、山路 栞です。父がお世話になっています。今、父と話していたところです。亡くなった母にそっくりだと」

「お父さまもそうおっしゃるんですが、そんなに似ていますか」

「そっくり、なぜか懐かしい気がします」

「じゃあ、話は食事をしながらにしよう」

3人で最上階にあるメインダイニングへ向かう。席に着くとすぐに栞が凜に問いかける。

「父のどこが好きになったんですか」

「栞、最近付き合い始めたばかりだ。そんなこと聞くもんじゃない」

「お付き合いを始めたと言うのは、きらいじゃないからでしょ」

「そうです。嫌いなら付き合いませんし、好意を持っているからです」

「真面目が取り柄の父ですので、どこが気に入られたのか知りたくて」

「お父さまはとても誠実な方です。私のような女に交際したいと申し込んでくれました。すべて承知していると言って、それに私を守ってくれるとまで言ってくれました。これほどまでに私を大事に思ってくれる人は今迄いませんでした」

「凜さんとお話ししていると、なぜ父があなたを好きになったのか分かります。父はあなたといると心が癒されるのでしょう」

「栞さんにそんなことを言われるとは思いませんでした。それはいつもお父さまが言われていることです」

「私もお話ししていると懐かしいような心が癒されるような気がします」

「亡くなられたお母さまに私が似ているからですか」

「そうかもしれませんし、そうでないかもしれません」

「うふふ、やはり親子ですね。お父さまと同じようなお答えです」

「父もそう言ったのですか」

「はい」

娘も僕も正直そこのところは良く分からない。だだ、同じような気持ちなのは確かだ。栞は凛の過去の仕事やどうして知り合ったのかついては聞かなかった。聞かれれば凜は正直に話しただろう。娘も大人になったということだろう。社会に出て人の機微が分かるようになったのかもしれない。

栞は彼女のことを気に入ったみたいなので安心した。凜も栞に好感を持ってくれたみたいだった。娘と義母のつきあいでなくて、姉妹みたいに付き合ってくれたらいいのだが、これは二人次第だ。

食事が進んでいく。凜の緊張も解けて話が弾んでいる。栞の彼氏の話になった。凛に相談したいことがあったら電話してもいいかと聞いている。経験が豊富な凛に相談にのってもらいたいらしい。父親は頼りにされていないようだ。確かに凜は栞にとって頼りになるかもしれない。食事が終わって別れ際に栞が凛に挨拶する。

「今日は私に会いに来ていただいてありがとうございました。お会いして父がプロポーズした訳が分かりました。どうか父をよろしくお願いします」

「私はお父さまにふさわしくない女です。でもできるだけお父さまのお力にはなりたいと思っています」

凜はタクシーに乗って帰って行った。二人で見送るとこちらもタクシーに乗り込んだ。

「パパ、良い人じゃない、絶対に逃がしたらだめよ。もうあんな人見つからないわ」

その言葉を聞いて内心ほっとした。
バレンタインデーが近づいて来た。ちまたでは女性が男性にチョコをプレゼントするが、会社でも義理チョコのやり取りが普通になっている。義理ならやめたら良いと思っているが、禁止するまでもない。

ここ2週間ばかりは出張が重なって土日がつぶれて凛と会っていなかった。6時ごろに電話を入れてみる。

「山路です。しばらく会ってないけど、元気にしている?」

「はい、元気です」

「今度の日曜日に会えないか?」

「なかなかお会いできませんでしたのでお会いしたいです」

「僕のマンションに来ないか?」

「はい、何か食事になるものを作りますから、準備していきます」

「何時ごろになる?」

「2時過ぎには行けると思います」

日曜日の2時少し前に凜が訪ねてきた。手には小さなバッグとスーパーのレジ袋を提げている。部屋に入れると後ろから抱きしめる。

「しばらく会わないと、またどこかへ行ってしまうのではと思って心配になる」

「お付き合いいただいているので、今度は黙っていなくなることはありません」

「それなら安心だけど」

「そんなに思っていただけるほどの女ではありません」

「こうして一緒にいると安心できる」

「夕食の準備まで時間があります。散歩しませんか。また、公園を散歩したいです」

「じゃあ、一回りしようか」

二人は散歩に出た。今日は天気が良くて散歩している人も多い。梅が咲いているが、ほかの草木はまだ冬姿のままだ。日差しが温かくなってきている。凜が手を繋いでくる。

「本当にいいところですね。ここを散歩しているとのんびりします」

「僕も気に入っている。春は桜がきれいだし、夏は水辺が涼しい、秋には紅葉する。冬は日差しが温かい」

「ところで、あの返事はもらえないのかな?」

「本当に私みたいな女でいいんですか?」

「君の過去も承知の上だから、それ以上に君にはいいところがたくさんある。この先、他のいいところも、また気になるところも見つかるかもしれない。すべていいところばかりではないのは当たり前だ。すべて受け入れるしかないと思っている。僕にもいいところと、気になるところがあるだろう」

「いいところばかりですが」

「そのうち気になるところが見えてくると思う」

「そうかもしれません」

「一緒に住むと気になるところが見えてくる。でも受け入れてほしい」

「受け入れられると思いますが」

「君は会社勤めをしたことがないから分からないかもしれないけど、僕は今のポジションに付く前は人事で中途採用の担当をしていた。求職者に聞くと、僕の会社の良い条件の面しか見ていない。今いる会社に不満を持っているのでそれが満たされる条件しか見ていない。他の見えないところは今いる会社と同じと思っている。でも違うんだ。見えない部分はたくさんあるし、それぞれの会社で違っている。入社して初めて他の見えなかったところが同じではないことに気が付くんだ。そして前の会社の方にも良いところがいろいろあったと気が付くんだ。それでまた不満を持って辞めて行く人がいる。そういう人は次の会社でも不満ができて転職を重ねてしまう。結局、最初の会社が一番良かったという愚痴を聞いたことがある」

「私も数回お店を替わったことがあるので、おっしゃっていることはよく分かります」

「何事もすべていいところばかりではない。僕はそれが良く分かったうえで、すべて受け入れて君にプロポーズしている」

「こんな私で良ければ、お受けしようと思います」

「ありがとう。娘も喜ぶと思う」

「君さえよければすぐにでも一緒に住みたいと思っているんだが」

「お店がありますが」

「一緒に住んで、家にいてもらえないか?」

「そうすると、店を止めなければなりませんが」

「僕のために家にいてほしい。絵でも好きなことをしていていいから。我が儘かな」

「主婦になってほしいということですか」

「そうしてほしい」

「私には務まりそうもありませんが」

「そんなことはない。君は家庭的な女性だと思うし、いつもそばにいてくれるだけでいいんだ」

「そこまで言って下さるのなら、分かりました。店を仕舞います。時間がかかりますが、いいですか?」

「ありがとう、僕の我が儘を聞いてくれて」

「私は誰かの奥さんになることはとっくに諦めていました。まして家にいてほしいと言ってくれる人が現れるなんて思ってもいませんでした。喜んでそうさせてもらいます。店は畳みます」

「それでいいんだね」

「はい。そうします。決めました」

気が付くといつの間にか池の周りを2周していた。それからマンションに戻った。

「娘は僕が君と結婚したら、部屋を開けると言っている。東京へ転勤になっても一人暮らしをしたいそうだ」

「そんなこと気にしないで、一緒に住みましょうよ」

「娘はもう十分に私のために生きてくれたのだから、これからは自分のために生きてほしいと言っている」

「お嬢さんはそう言われましたか。私はその気持ち分かります。私も父に育てられましたから」

「でも、本当に一緒に住んでもいいんですよ」

「まあ、娘にまかせようか」

「食事の支度を始めます。夕食はお好み焼にしていいですか」

「お好み焼?」

「はい、上手なんです、食べてみてください」

「お願いするよ」

「これはお店には出していません。あなただけのための料理です」

「僕だけのため?」

「父が好きだったんです。あなたにどうしても食べてもらいたくて」

「お父さんの代わりに?」

「あなたにはどこか父に似たところがあるんです。はっきりどこということは言えませんが、どこか懐かしいところがあるんです」

「それが僕の好きなところ?」

「それもあります。あなたといると、なぜか心が癒されて安心できます。この前も私を守ってくれるといってくれましたね」

「確かに、本心だけど」

「父も小さい時によく私を守ると言って抱きしめてくれました。これだけはよく覚えています。それだけで心が安らかになりました」

「こっちへおいで」

凜を引き寄せて強く抱きしめて「君を守る」と言った。凜は抱き締められたままじっとしている。僕は気持ちが治まるまで凜を抱いていた。そして凜は「料理の準備をしないと」と言って僕から離れた。

凛のお好み焼はおいしかった。2枚焼いて二人で食べる。食べ終わるとまた2枚いて二人で食べる。

「上手だね。おいしい」

「そういってもらえると嬉しい。父もよくそう言って食べてくれました」

「私はあなたに父の面影をみているのかもしれません。ごめんなさい」

「それでいいじゃないか」

「僕も娘も亡くなった妻の面影をみているのかもしれないから」

「それでもいいんです」

「娘がそうかもしれないし、そうでないかもしれないといったのには僕も驚いた。そういう感じだから、気にしなくてもいいんじゃないかな、君は君だ。僕は君が好きだ」

「ありがとう。嬉しいです」

その晩も凜は泊ってくれた。今ではすっかり二人でいることに慣れてきた。凜も負担になっていないという。

このごろ二人でいる時の凛の表情が以前よりまして穏やかになってきたように思う。今までは研ぎ澄まされたような美しさだったが、今はやさしい美しさになってきた。気を許しているからだろうか?

凜は店を引き継いでくれそうな人がいるから、当ってみると言っていた。引継ぎができたらすぐにここへ引っ越してくると言う。

僕は引っ越して来たらすぐに式を挙げて入籍したい、それが僕の誠意だと言った。凜は入籍だけで十分で静かに生活に入りたいので式はしないでいいと言った。
凜が店じまいすることが決まったと電話してきた。結婚と引越しの約束をしてから1か月ほど経っていた。店は知人に譲渡するとのことだった。それで引越しの日を決めた。

それから、栞に凜と同居を始めることを伝えた。栞は部屋を空けるつもりだけど、しばらく待ってほしいと言った。凜がそのままでいいと言っていると伝えたが、栞は自立しますときっぱり言った。

凜は3月初めの日曜日にマンションへ引っ越してきた。荷物は多くなかった。僕たちの寝室とリビングにすべて収まった。

凜は自分のセミダブルのベッドを持ってきたいと言った。僕のもセミダブルだから2つ入れると寝室がベッドでいっぱいになった。まあ、よしとしよう。ゆっくり眠れる。

凜の衣類もクローゼットにすべて収まった。二人でソファーに座って一息入れる。

「ここにはもう死んだ妻のものは何一つないから」

「私は気にしていないけど、それであなたはいいの?」

「元々ここへは持ってきていなかったから。それにはじめは君に死んだ妻の面影を求めていたが、そのうちに思いが君自身に移って行った。今は君しか思い浮かばないようになった。君がいれば十分だ」

「そんなものかしら、『去る者は日々に疎し』ですか?」

「今の君との生活を大切にしたいだけさ。思い出の中で生きていくのは辛いものだからね」

「私も今を大切にして生きていきたい。長い年月といえども今の積み重ねですものね」

「君も昔のことはすべて忘れて今を生きていけばいい。何も怖がることはない。僕はこれからずっとそばにいて君を守る。だからそばにいてほしい」

「分かっています。もう決してそばを離れません」

引っ越した日から凜は夕食を作ってくれた。

「お好み焼のほかに是非食べていただきたいものがあります」
「何?」

「手づくりの餃子ですが、お嫌いですか」

「いや、餃子は嫌いじゃない。是非食べてみたい」

「これも父が好きだったんですが、それでもいいですか」

「もちろん、そんなこと気にしないでいいから」

「じゃあ、作ります。材料は仕入れて来てあります」

凜は餃子を作って焼いてくれた。結構な数を作った。ニンニクを入れてもいいかと聞いて来たので大丈夫と答えた。だだし、今日の料理はこれだけと言う。二人はビールで引越し祝いの乾杯をする。

「ビールと合うから、これだけで十分だね」

「すみません、引越をしたばかりでこれしか準備できなくて」

「おいしい。味付けがいいからいくらでも食べられそうだ」

「あの時、ニンニクの匂いが気になりませんか」

「二人とも食べたのだから気にしなくていいんじゃないか」

「それならいいんですけど」

「私の餃子を喜んでもらえてよかった」

「僕とお父さんと重ね合わせている?」

「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」

「僕と同じ返事だね」

「すみません、どうしてもあなたに父の面影を見てしまうのです。私ってファザコンですね」

「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」

「また、そんな」

「娘と言うのはファザコンなものだと思う。一番身近にいた男性だからね。父親が好きな女性は男性を見る目があると思う」

「私自身は男性を見る目があるとは思っていませんけど」

「でも僕の申し込みを受け入れた」

「見る目があるっていうことを言いたいんですか?」

「すぐには分からないかもしれないけど、そのうち見る目があったと分かると思うし、分かるようにしたい」

「お願します」

約束したとおり、次の日に休暇を取って、二人で近くの区の特別出張所に行って婚姻届を提出した。

それから、結婚指輪を買いに出かけた。凜は印だけの簡単なものでよいといったけれども僕が気に入ったデザインのものを選んだ。凜も気に入ってくれた。1週間くらいで出来上がると言う。
凜との二人だけの生活がはじまった。朝6時に起きて雨の日でない限りは二人で公園を散歩する。凜の希望で、健康のためと朝寝坊しないためとか。池を1周して帰ってくると朝食を作ってくれる。僕は朝食を食べて8時前に出勤する。

凜はそれから洗濯と掃除をする。そして池の周りを散歩するとか。その時絵を描いたりするそうだ。午後は近所のスーパーへ買い物に出かける。それからゆっくり食事の支度をする。

僕の帰宅は大体8時ごろになる。凜は食べずに待っていてくれる。それから二人で今日あったことなどを話ししながら食事をする。毎日、違う献立の夕食を準備していてくれる。

はじめは後片付けの手伝いをしようしたが、凜は座っていて下さいといって一切させなかった。だからリビングのソファーに座ってそれを見ている。凜は見ていてくれるのが嬉しいみたいで、ニコニコしている。

それから二人ソファーに座って、僕がコーヒーを入れる。凜はおいしそうに飲んでくれる。

お風呂には必ず二人で入る。ここのお風呂は大きめだからゆっくり入れる。お互いに身体を洗い合う。凜もこの時が楽しいみたいでゆっくりしている。凜の身体は美しい。その肌は触ると指が吸い付くように柔らかい。

そして、寝室の二人の大きなベッドで愛し合う。凜は僕が疲れていると思った時には積極的に愛してくれる。終わった後、上に覆いかぶさったまま眠っている。朝、目が覚めると横から抱きついている。この気持ちの通じ合うところがとてもいい。

それから、お互いに抱き合って眠る時もあれば、離れて眠る時もある。離れて眠っても明け方は抱き合っていたりする。臨機応変、気を使うこともなくゆっくり眠れる。もうすっかり長い間連れ添った夫婦のようだ。

「君は毎日の僕の気分や体調が分かっているみたいで感心する」

「帰ってきた時の玄関での様子で分かるんです。仕事が忙しかったとか、疲れているとか、面白くないことがあったとか」

「君に余分な気を使わせたくないから、できるだけそれが分からないように振舞っているつもりだけど」

「長い間、客商売をしてきましたから、顔を見ただけで直感的にと言うか分かるんです。あなたは私だけの大事なお客様ですから」

「だからいつも君と会うと癒されていたんだな」

「私は誰にでもできることだと思っていますが」

「いや、それはすごい特技だと思う。妻にして本当に良かった」

「そう言って褒めてくださると嬉しいです」

「でも僕はまだお客様なの?」

「はい、唯一人のお客様です」

「もうお客様はやめにしてもいいんじゃないか」

「でも、あなたもまだ私をお客様扱いしているみたいだから」

「大事な奥さんだからね」

「それなら私もやめません」

「まあ、それもいいかな」

凜は徐々により美しくなっている。僕の贔屓目かもしれないが、角がとれたしなやかな美しさと言うか、柔らかなほっとするような美しさだ。じっと見つめていると凜が聞いてくる。

「じっと私を見ていますが、何を考えているんですか?」

「きれいになったと思って」

「本当にきれいになりましたか? そうなら、ここでの生活にもなれて、ゆとりができたからかもしれません」

「何かしてほしいことはないの?」

「今のままでいいですけど」

「昼の間はどうなの? 暇を持て余している?」

「そうでもないです。時間があるとぼっーとしています。そうすることが好きですから」

「それならいいけど、休みの日にはどこかへ出かけようか」

「二人でここにいるのがいいです。二人で池の周りをゆっくり散歩するのが一番です」

「つまらなくない?」

「こんなのんびりした生活は私には贅沢です。楽しませてもらっています」

「贅沢というならそれでいいけど。僕は家に帰って君がいてくれるだけで嬉しくて」

「私もあなたが毎日そばにいてくれて心が満たされています。待っていても夜遅くなっても必ず私の元へ帰ってきてくれる。いつ来てくれるかと思いながら待たなくてもいいから、安心して待っていられます」

「必ず帰ってくるから、君ももうどこへも行かないでそばにいてほしい」

「もう、あなたの妻になったのだからずっとそばにいます。安心してください」

「世間では平凡な生活と言うけど、平凡な生活ってなかなか難しいと思う。僕は平凡な生活が今迄ほんの短い間しかできなかった」

「私はこんな平凡な生活ができるなんて思ってもみませんでした」

「平凡って難しいんだよ、平凡に見えているだけで平凡でなかったりしてね」

「平凡に生活するのが難しい世の中になっているのかもしれません」

「そう、平凡の幅が狭くなって、その中に入らないケースが増えているんだろうね」

「私たちだって、私は平凡な女じゃないし、あなたも奥さんを亡くされているし、こうしている私たち二人は決して平凡じゃない、特別だと思います」

「でもはたから僕たちを見るときっと平凡に見えるし、現に平凡な暮らしをしている」

「私はこんな暮らしを夢見て憧れていました。一方ではとうにあきらめていたので、今は夢の中で暮らしているみたいです」

「地に足が着いていない?」

「ふわふわした気持ちですが、心地よいです」

「この先も二人で平凡に暮らしていけることを祈るだけだ」

「私もそう思っています」

そばの凜を抱き寄せる。凜が身体を預けてくる。二人寄りかかってこの二人だけの時間を楽しんでいる。
今日は早く帰れそうだ。ここのところ凜の体調がよくないらしいので心配している。玄関のドアを開けると凜が嬉しそうに待っていた。その顔を見るとほっとする。

「今日は元気そうだね、安心した」

「ご心配をおかけしました。原因が分かりました」

「原因が分かった?」

「とりあえず着替えをして下さい」

寝室で部屋着に着替えてリビングに戻ると凜がソファーに腰かけて待っていた。

「どうした?」

「赤ちゃんを授かりました。私たちの赤ちゃんです」

「ええ、本当か?」

「今日、お医者さんへ行ってきました。妊娠3か月だそうです」

「それはよかった。身体を大切にしてほしい。この年になってパパになろうとは」

「大丈夫ですか」

「大丈夫だ。元気で働いて一人前に育てないといけない。この子が成人する時には、僕は65歳か、まだ働けるかな、いや働かなくてはいけない」

「大丈夫です。私も働きます」

「働けなくなったらその時は頼むよ、でも2人のために頑張って働くよ」

「私は妊娠できるとは思っていませんでした。でもこうして子供を授かってみると女に生まれてよかったと思います。私を愛してくれる人の子供を産めるなんてこの上もない幸せですから」

「そう言われるとますます元気で働かなくちゃいけないな」

「無理しないで下さいね」

「ああ」

それから凜は今日病院であったという恥ずかしい間違いの話をしてくれた。

「内科へ行ったら産婦人科の方が良いと言われて、産婦人科の待合室で自分の番を待っていたんです。人が多くて長い時間待っていたら、マイクから山路さん、山路さんと呼ぶ声がしたの、山路さんは他にもいるんだと聞いていた。なかなか山路さんが行かないので、まだ呼んでいる。どうしたんだろう、早く行って、混んでいるんだからと思っていたの。そうしたら山路凛さん、山路凛さんと呼ばれて、はっとしたの、山路さんって私のことだって分かって」

「苗字が変ったから山路さんだろう」

「呼ばれるまで全く自覚がなかったの。いままで寺尾さんだったから」

「考え事でもしていた?」

「いえ、じっと名前を呼ばれるのを待っていました」

「寺尾凛と呼ばれるのを?」

「無意識にそうだったみたいです」

「国民健康保険から会社の健康保険に切り替えた時に保険証の名前を山路凛と確認していたはずだけど」

「保険証を渡された時、生年月日は確認しました。間違えていると困ると思ったから、名前まであえて確認していませんでした」

「もう大丈夫かい、山路凛と呼ばれても」

「これからは大丈夫です。すぐに返事できます」

「今分かったけど結構オッチョコチョイなんだね」

「実はそうなんです。ばれてしまいました」

「そういう少し抜けているところが大好きだ。こういう話を聞くと癒される」

「男の人ってこんなことで癒されるんですか?」

「会社で威勢のいいキャリアウーマンを使っているとね」

「ほのぼのとしていい話だ」

「私は複雑な気持ちです」

凜を引き寄せて抱きしめる。凜はまだ若く、妊娠してもおかしくない歳だった。でも凜はあんな仕事をしてきたので子供は授からないかもしれないと言っていた。だから入籍した時からあえて避妊はしていなかった。

僕もこの年で子供を作る能力が残っているか疑問だったからでもある。凜はなるようになるから自然でいいと言っていた。愛し合う時は避妊なんかしない方がずっといいからだ。

凜が僕に妊娠を告げる時はとても嬉しそうだった。母性と言うものはそういうものかもしれない。男には絶対に分からない。

でもこれでほっとした一面もある。凜が僕のそばを絶対に離れないと確信できたことだ。子は鎹とはよく言ったものだ。これまでは、いつか家に帰ったら突然いなくなってしまうのではという一抹の不安があった。

やはり、昔突然行方をくらましたことが心の片隅にあって、時々僕を不安がらせていた。凜を失いたくない。帰宅して玄関で凛の笑顔を見てほっとするのも事実だ。

妊娠中、凜は本当に妻らしくなった。心が落ち着いていつも穏やかだった。元々話しているだけで癒されたが、そばにいてくれるようになって僕の心はいつも満たされている。

昼間は音楽を聴いて絵を書いているとか、どこかのセレブみたいだと笑っていた。こんな夢のような生活が続くのか怖いとも言っていた。

そして、凜は元気な男の子を生んだ。僕も出産に立ち会った。手を握って頑張れと言い続けた。

娘の時もそう思ったが、生み終わった後の憔悴した顔を見ると女が子供を産むのは命がけと言われているのがよく分かる。

でも憔悴した顔で僕に赤ちゃんを見せてとても誇らしげだった。ありがとうと何度も声をかけた。凜は泣いて頷くだけだった。
あれからもう3か月経った。出産後は実の母親がそばにいると娘の面倒をみてくれるのだが、凜には母親がいない。それで、凜が病院から戻ると僕は会社に1週間の育児休暇を申請した。

上からは驚きの目で見られたが、もう気にしないことに決めていた。ただ、若い社員からは称賛を貰ったみたいだった。このごろは夫の育児休暇も認知されるようになってきている。

このごろ凜は子育てにもすっかり慣れてきた。幸い乳の出もよく母乳だけで育てている。凜が息子に乳を飲ませている時の幸せそうな顔を見ているのが好きだ。二人ともとても愛おしい僕の宝物だ。

今日は天気もいいので凛と赤ちゃんを連れて銀座に出かけた。丁度歩行者天国で歩きやすい。凜は3か月になる息子を胸に抱いて歩いている。僕は二人のようすを横目で見ながら歩いている。

久しぶりの銀座だ。凜が子育てに一生懸命で、気分転換に久しぶりにどうかと誘ったところ、行きたいと言ったので連れてきた。

婚約指輪を買っていなかったので、男の子を生んでくれたお礼と記念に指輪を買ってプレゼントした。右手の薬指の指輪がそれだ。

凜はすっかり落ち着いて銀座の歩行者天国の人混みの中を歩いている。以前のようにメガネをかけることもなく、自信に満ちた様子で歩いている。子供を産むことで女性は自信を持って強くなるのだと思う。凜も母親になったんだ。

正面から手をつないだカップルが歩いてきた。男は30代半ばくらいで女は20代半ばくらいで仲良く手を繋いでいる。男は凜をじっと見つめているようだったが、あっという間にすれ違った。僕が気になって振り向くと連れの女の子が振り向いていた。

「今の男、君をじっと見ていたけど」

「お分かりになりましたか。昔のなじみです。あなたと同じように3件目まで通ってくれました。あなたが偶然お店へ来る少し前にやはり彼も偶然店に来たんです」

「彼だったのか」

「あの人は、あなたと同じように、君のことは口外しないし、迷惑ならもう来ないと言ってくれるような優しい人でした。来ても構わないと言うと月に1度くらい来てくれました。お客も連れて来てくれました。隣にいた女の子を店へ2回ほど連れて来ていました」

「彼は声をかけなかったね」

「3人で幸せそうに歩いていたからでしょう。そういう人です。あなたと同じ優しさがありましたから」

「好きだったのか?」

「好きじゃなかったと言ったら嘘になりますね」

「結婚したことを知っているのか?」

「店を閉める数日前に丁度店に来たので、あなたと結婚することになったから店を閉めると言いました」

「彼は何て?」

「おめでとうって言ってくれました。そしてあなたには勇気があると言っていました、そして私が好きだけど自分にはプロポーズする勇気がなかったとも。でも私が本当に幸せになれるか心配してくれていました」

「君から目を離さなかった」

「私が赤ちゃんを抱いて幸せそうにしていたので安心したと思います。そんな目で私を見ていましたから。別れ際に、どこかのスナックに入ったらまた君がいたってことが無いように願っていると言っていましたから」

「そんなことは僕が絶対にさせない」

「先のことは分かりませんが、あなたと1日1日を大切に生きていくだけです」

凜は僕にきっぱりとそういった。そして赤ちゃんを抱いて僕とゆっくり歩いていく。以前のような人混みの中での怯えた様子もなく、一人の女として、妻として、母としての自信に満ちているように見える。

これで良かったのだと思う。ただ、あまり自信を持ちすぎて自立したいとか言って、僕の元を去って行くことがないように祈るばかりだ。何せ13歳も若い美しい妻なのだから。

人に知られたくない過去に怯える女と真面目なオッサンのラブストーリーはこれでお仕舞いです。めでたし、めでたし。

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