君に癒されたい!君を癒したい!ー君の過去何かどうでもいいんだ!

凜が店じまいすることが決まったと電話してきた。結婚と引越しの約束をしてから1か月ほど経っていた。店は知人に譲渡するとのことだった。それで引越しの日を決めた。

それから、栞に凜と同居を始めることを伝えた。栞は部屋を空けるつもりだけど、しばらく待ってほしいと言った。凜がそのままでいいと言っていると伝えたが、栞は自立しますときっぱり言った。

凜は3月初めの日曜日にマンションへ引っ越してきた。荷物は多くなかった。僕たちの寝室とリビングにすべて収まった。

凜は自分のセミダブルのベッドを持ってきたいと言った。僕のもセミダブルだから2つ入れると寝室がベッドでいっぱいになった。まあ、よしとしよう。ゆっくり眠れる。

凜の衣類もクローゼットにすべて収まった。二人でソファーに座って一息入れる。

「ここにはもう死んだ妻のものは何一つないから」

「私は気にしていないけど、それであなたはいいの?」

「元々ここへは持ってきていなかったから。それにはじめは君に死んだ妻の面影を求めていたが、そのうちに思いが君自身に移って行った。今は君しか思い浮かばないようになった。君がいれば十分だ」

「そんなものかしら、『去る者は日々に疎し』ですか?」

「今の君との生活を大切にしたいだけさ。思い出の中で生きていくのは辛いものだからね」

「私も今を大切にして生きていきたい。長い年月といえども今の積み重ねですものね」

「君も昔のことはすべて忘れて今を生きていけばいい。何も怖がることはない。僕はこれからずっとそばにいて君を守る。だからそばにいてほしい」

「分かっています。もう決してそばを離れません」

引っ越した日から凜は夕食を作ってくれた。

「お好み焼のほかに是非食べていただきたいものがあります」
「何?」

「手づくりの餃子ですが、お嫌いですか」

「いや、餃子は嫌いじゃない。是非食べてみたい」

「これも父が好きだったんですが、それでもいいですか」

「もちろん、そんなこと気にしないでいいから」

「じゃあ、作ります。材料は仕入れて来てあります」

凜は餃子を作って焼いてくれた。結構な数を作った。ニンニクを入れてもいいかと聞いて来たので大丈夫と答えた。だだし、今日の料理はこれだけと言う。二人はビールで引越し祝いの乾杯をする。

「ビールと合うから、これだけで十分だね」

「すみません、引越をしたばかりでこれしか準備できなくて」

「おいしい。味付けがいいからいくらでも食べられそうだ」

「あの時、ニンニクの匂いが気になりませんか」

「二人とも食べたのだから気にしなくていいんじゃないか」

「それならいいんですけど」

「私の餃子を喜んでもらえてよかった」

「僕とお父さんと重ね合わせている?」

「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」

「僕と同じ返事だね」

「すみません、どうしてもあなたに父の面影を見てしまうのです。私ってファザコンですね」

「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」

「また、そんな」

「娘と言うのはファザコンなものだと思う。一番身近にいた男性だからね。父親が好きな女性は男性を見る目があると思う」

「私自身は男性を見る目があるとは思っていませんけど」

「でも僕の申し込みを受け入れた」

「見る目があるっていうことを言いたいんですか?」

「すぐには分からないかもしれないけど、そのうち見る目があったと分かると思うし、分かるようにしたい」

「お願します」

約束したとおり、次の日に休暇を取って、二人で近くの区の特別出張所に行って婚姻届を提出した。

それから、結婚指輪を買いに出かけた。凜は印だけの簡単なものでよいといったけれども僕が気に入ったデザインのものを選んだ。凜も気に入ってくれた。1週間くらいで出来上がると言う。
凜との二人だけの生活がはじまった。朝6時に起きて雨の日でない限りは二人で公園を散歩する。凜の希望で、健康のためと朝寝坊しないためとか。池を1周して帰ってくると朝食を作ってくれる。僕は朝食を食べて8時前に出勤する。

凜はそれから洗濯と掃除をする。そして池の周りを散歩するとか。その時絵を描いたりするそうだ。午後は近所のスーパーへ買い物に出かける。それからゆっくり食事の支度をする。

僕の帰宅は大体8時ごろになる。凜は食べずに待っていてくれる。それから二人で今日あったことなどを話ししながら食事をする。毎日、違う献立の夕食を準備していてくれる。

はじめは後片付けの手伝いをしようしたが、凜は座っていて下さいといって一切させなかった。だからリビングのソファーに座ってそれを見ている。凜は見ていてくれるのが嬉しいみたいで、ニコニコしている。

それから二人ソファーに座って、僕がコーヒーを入れる。凜はおいしそうに飲んでくれる。

お風呂には必ず二人で入る。ここのお風呂は大きめだからゆっくり入れる。お互いに身体を洗い合う。凜もこの時が楽しいみたいでゆっくりしている。凜の身体は美しい。その肌は触ると指が吸い付くように柔らかい。

そして、寝室の二人の大きなベッドで愛し合う。凜は僕が疲れていると思った時には積極的に愛してくれる。終わった後、上に覆いかぶさったまま眠っている。朝、目が覚めると横から抱きついている。この気持ちの通じ合うところがとてもいい。

それから、お互いに抱き合って眠る時もあれば、離れて眠る時もある。離れて眠っても明け方は抱き合っていたりする。臨機応変、気を使うこともなくゆっくり眠れる。もうすっかり長い間連れ添った夫婦のようだ。

「君は毎日の僕の気分や体調が分かっているみたいで感心する」

「帰ってきた時の玄関での様子で分かるんです。仕事が忙しかったとか、疲れているとか、面白くないことがあったとか」

「君に余分な気を使わせたくないから、できるだけそれが分からないように振舞っているつもりだけど」

「長い間、客商売をしてきましたから、顔を見ただけで直感的にと言うか分かるんです。あなたは私だけの大事なお客様ですから」

「だからいつも君と会うと癒されていたんだな」

「私は誰にでもできることだと思っていますが」

「いや、それはすごい特技だと思う。妻にして本当に良かった」

「そう言って褒めてくださると嬉しいです」

「でも僕はまだお客様なの?」

「はい、唯一人のお客様です」

「もうお客様はやめにしてもいいんじゃないか」

「でも、あなたもまだ私をお客様扱いしているみたいだから」

「大事な奥さんだからね」

「それなら私もやめません」

「まあ、それもいいかな」

凜は徐々により美しくなっている。僕の贔屓目かもしれないが、角がとれたしなやかな美しさと言うか、柔らかなほっとするような美しさだ。じっと見つめていると凜が聞いてくる。

「じっと私を見ていますが、何を考えているんですか?」

「きれいになったと思って」

「本当にきれいになりましたか? そうなら、ここでの生活にもなれて、ゆとりができたからかもしれません」

「何かしてほしいことはないの?」

「今のままでいいですけど」

「昼の間はどうなの? 暇を持て余している?」

「そうでもないです。時間があるとぼっーとしています。そうすることが好きですから」

「それならいいけど、休みの日にはどこかへ出かけようか」

「二人でここにいるのがいいです。二人で池の周りをゆっくり散歩するのが一番です」

「つまらなくない?」

「こんなのんびりした生活は私には贅沢です。楽しませてもらっています」

「贅沢というならそれでいいけど。僕は家に帰って君がいてくれるだけで嬉しくて」

「私もあなたが毎日そばにいてくれて心が満たされています。待っていても夜遅くなっても必ず私の元へ帰ってきてくれる。いつ来てくれるかと思いながら待たなくてもいいから、安心して待っていられます」

「必ず帰ってくるから、君ももうどこへも行かないでそばにいてほしい」

「もう、あなたの妻になったのだからずっとそばにいます。安心してください」

「世間では平凡な生活と言うけど、平凡な生活ってなかなか難しいと思う。僕は平凡な生活が今迄ほんの短い間しかできなかった」

「私はこんな平凡な生活ができるなんて思ってもみませんでした」

「平凡って難しいんだよ、平凡に見えているだけで平凡でなかったりしてね」

「平凡に生活するのが難しい世の中になっているのかもしれません」

「そう、平凡の幅が狭くなって、その中に入らないケースが増えているんだろうね」

「私たちだって、私は平凡な女じゃないし、あなたも奥さんを亡くされているし、こうしている私たち二人は決して平凡じゃない、特別だと思います」

「でもはたから僕たちを見るときっと平凡に見えるし、現に平凡な暮らしをしている」

「私はこんな暮らしを夢見て憧れていました。一方ではとうにあきらめていたので、今は夢の中で暮らしているみたいです」

「地に足が着いていない?」

「ふわふわした気持ちですが、心地よいです」

「この先も二人で平凡に暮らしていけることを祈るだけだ」

「私もそう思っています」

そばの凜を抱き寄せる。凜が身体を預けてくる。二人寄りかかってこの二人だけの時間を楽しんでいる。
今日は早く帰れそうだ。ここのところ凜の体調がよくないらしいので心配している。玄関のドアを開けると凜が嬉しそうに待っていた。その顔を見るとほっとする。

「今日は元気そうだね、安心した」

「ご心配をおかけしました。原因が分かりました」

「原因が分かった?」

「とりあえず着替えをして下さい」

寝室で部屋着に着替えてリビングに戻ると凜がソファーに腰かけて待っていた。

「どうした?」

「赤ちゃんを授かりました。私たちの赤ちゃんです」

「ええ、本当か?」

「今日、お医者さんへ行ってきました。妊娠3か月だそうです」

「それはよかった。身体を大切にしてほしい。この年になってパパになろうとは」

「大丈夫ですか」

「大丈夫だ。元気で働いて一人前に育てないといけない。この子が成人する時には、僕は65歳か、まだ働けるかな、いや働かなくてはいけない」

「大丈夫です。私も働きます」

「働けなくなったらその時は頼むよ、でも2人のために頑張って働くよ」

「私は妊娠できるとは思っていませんでした。でもこうして子供を授かってみると女に生まれてよかったと思います。私を愛してくれる人の子供を産めるなんてこの上もない幸せですから」

「そう言われるとますます元気で働かなくちゃいけないな」

「無理しないで下さいね」

「ああ」

それから凜は今日病院であったという恥ずかしい間違いの話をしてくれた。

「内科へ行ったら産婦人科の方が良いと言われて、産婦人科の待合室で自分の番を待っていたんです。人が多くて長い時間待っていたら、マイクから山路さん、山路さんと呼ぶ声がしたの、山路さんは他にもいるんだと聞いていた。なかなか山路さんが行かないので、まだ呼んでいる。どうしたんだろう、早く行って、混んでいるんだからと思っていたの。そうしたら山路凛さん、山路凛さんと呼ばれて、はっとしたの、山路さんって私のことだって分かって」

「苗字が変ったから山路さんだろう」

「呼ばれるまで全く自覚がなかったの。いままで寺尾さんだったから」

「考え事でもしていた?」

「いえ、じっと名前を呼ばれるのを待っていました」

「寺尾凛と呼ばれるのを?」

「無意識にそうだったみたいです」

「国民健康保険から会社の健康保険に切り替えた時に保険証の名前を山路凛と確認していたはずだけど」

「保険証を渡された時、生年月日は確認しました。間違えていると困ると思ったから、名前まであえて確認していませんでした」

「もう大丈夫かい、山路凛と呼ばれても」

「これからは大丈夫です。すぐに返事できます」

「今分かったけど結構オッチョコチョイなんだね」

「実はそうなんです。ばれてしまいました」

「そういう少し抜けているところが大好きだ。こういう話を聞くと癒される」

「男の人ってこんなことで癒されるんですか?」

「会社で威勢のいいキャリアウーマンを使っているとね」

「ほのぼのとしていい話だ」

「私は複雑な気持ちです」

凜を引き寄せて抱きしめる。凜はまだ若く、妊娠してもおかしくない歳だった。でも凜はあんな仕事をしてきたので子供は授からないかもしれないと言っていた。だから入籍した時からあえて避妊はしていなかった。

僕もこの年で子供を作る能力が残っているか疑問だったからでもある。凜はなるようになるから自然でいいと言っていた。愛し合う時は避妊なんかしない方がずっといいからだ。

凜が僕に妊娠を告げる時はとても嬉しそうだった。母性と言うものはそういうものかもしれない。男には絶対に分からない。

でもこれでほっとした一面もある。凜が僕のそばを絶対に離れないと確信できたことだ。子は鎹とはよく言ったものだ。これまでは、いつか家に帰ったら突然いなくなってしまうのではという一抹の不安があった。

やはり、昔突然行方をくらましたことが心の片隅にあって、時々僕を不安がらせていた。凜を失いたくない。帰宅して玄関で凛の笑顔を見てほっとするのも事実だ。

妊娠中、凜は本当に妻らしくなった。心が落ち着いていつも穏やかだった。元々話しているだけで癒されたが、そばにいてくれるようになって僕の心はいつも満たされている。

昼間は音楽を聴いて絵を書いているとか、どこかのセレブみたいだと笑っていた。こんな夢のような生活が続くのか怖いとも言っていた。

そして、凜は元気な男の子を生んだ。僕も出産に立ち会った。手を握って頑張れと言い続けた。

娘の時もそう思ったが、生み終わった後の憔悴した顔を見ると女が子供を産むのは命がけと言われているのがよく分かる。

でも憔悴した顔で僕に赤ちゃんを見せてとても誇らしげだった。ありがとうと何度も声をかけた。凜は泣いて頷くだけだった。
あれからもう3か月経った。出産後は実の母親がそばにいると娘の面倒をみてくれるのだが、凜には母親がいない。それで、凜が病院から戻ると僕は会社に1週間の育児休暇を申請した。

上からは驚きの目で見られたが、もう気にしないことに決めていた。ただ、若い社員からは称賛を貰ったみたいだった。このごろは夫の育児休暇も認知されるようになってきている。

このごろ凜は子育てにもすっかり慣れてきた。幸い乳の出もよく母乳だけで育てている。凜が息子に乳を飲ませている時の幸せそうな顔を見ているのが好きだ。二人ともとても愛おしい僕の宝物だ。

今日は天気もいいので凛と赤ちゃんを連れて銀座に出かけた。丁度歩行者天国で歩きやすい。凜は3か月になる息子を胸に抱いて歩いている。僕は二人のようすを横目で見ながら歩いている。

久しぶりの銀座だ。凜が子育てに一生懸命で、気分転換に久しぶりにどうかと誘ったところ、行きたいと言ったので連れてきた。

婚約指輪を買っていなかったので、男の子を生んでくれたお礼と記念に指輪を買ってプレゼントした。右手の薬指の指輪がそれだ。

凜はすっかり落ち着いて銀座の歩行者天国の人混みの中を歩いている。以前のようにメガネをかけることもなく、自信に満ちた様子で歩いている。子供を産むことで女性は自信を持って強くなるのだと思う。凜も母親になったんだ。

正面から手をつないだカップルが歩いてきた。男は30代半ばくらいで女は20代半ばくらいで仲良く手を繋いでいる。男は凜をじっと見つめているようだったが、あっという間にすれ違った。僕が気になって振り向くと連れの女の子が振り向いていた。

「今の男、君をじっと見ていたけど」

「お分かりになりましたか。昔のなじみです。あなたと同じように3件目まで通ってくれました。あなたが偶然お店へ来る少し前にやはり彼も偶然店に来たんです」

「彼だったのか」

「あの人は、あなたと同じように、君のことは口外しないし、迷惑ならもう来ないと言ってくれるような優しい人でした。来ても構わないと言うと月に1度くらい来てくれました。お客も連れて来てくれました。隣にいた女の子を店へ2回ほど連れて来ていました」

「彼は声をかけなかったね」

「3人で幸せそうに歩いていたからでしょう。そういう人です。あなたと同じ優しさがありましたから」

「好きだったのか?」

「好きじゃなかったと言ったら嘘になりますね」

「結婚したことを知っているのか?」

「店を閉める数日前に丁度店に来たので、あなたと結婚することになったから店を閉めると言いました」

「彼は何て?」

「おめでとうって言ってくれました。そしてあなたには勇気があると言っていました、そして私が好きだけど自分にはプロポーズする勇気がなかったとも。でも私が本当に幸せになれるか心配してくれていました」

「君から目を離さなかった」

「私が赤ちゃんを抱いて幸せそうにしていたので安心したと思います。そんな目で私を見ていましたから。別れ際に、どこかのスナックに入ったらまた君がいたってことが無いように願っていると言っていましたから」

「そんなことは僕が絶対にさせない」

「先のことは分かりませんが、あなたと1日1日を大切に生きていくだけです」

凜は僕にきっぱりとそういった。そして赤ちゃんを抱いて僕とゆっくり歩いていく。以前のような人混みの中での怯えた様子もなく、一人の女として、妻として、母としての自信に満ちているように見える。

これで良かったのだと思う。ただ、あまり自信を持ちすぎて自立したいとか言って、僕の元を去って行くことがないように祈るばかりだ。何せ13歳も若い美しい妻なのだから。

人に知られたくない過去に怯える女と真面目なオッサンのラブストーリーはこれでお仕舞いです。めでたし、めでたし。

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