幸運。

 そう聞いて、一番に思い浮かぶものは人によって異なると思う。
 幸運と聞いて、宝くじが当たるみたいな、外側から良いことが起こることを考える人もいるかもしれない。

 僕の場合、気分が上がり調子になることが一番ハッピーだ。それは、良いことがあったかなかったかに関係なく、上機嫌でいられることで。そのためには悩みがなく、何だか調子が良いということが必要になる。これが案外難しい。

 僕、鍵原一歌(かぎはらいちか)は、現在中学二年生で、地元の公立中学に通っている。勉強も運動もそれなりにはできるけれど、早くも限界を感じてしまっている。みんなが目指す激戦区じゃなくて、誰も目指さない道を究めなければ、多分パッとしない人生。だから自分の生き方に対して、ある種戦略的に生きるしかない。
 そんな風に自分のことばかり考えていた、夏休み明けの日。

 こんな中途半端な時期に、転入生がやって来た。

 しかも女子。

 彼女、花城時亜(かしろときあ)は優しく微笑んだ。
 美人というよりは、にこにこと笑うその笑顔に癒される、そんな感じの、明るい雰囲気のする女子だった。すらりと華奢で、少し儚げな感じすらある彼女は、そのほのぼのとした明るさから、すぐにクラスに溶け込んだ。その溶け込みの速さは、すでにいる僕をはるかに置いていくレベルだった。

 確かに何となく、彼女がいると空気が良い。その笑顔であったり、透明感のある落ち着いた声であったり、周囲への気遣いだったり、時に堂々とした態度であったり。そういうものが居心地の良さを作っているのだとわかった。

 そんな彼女だが、今時珍しくスマホやSNSを持たないタイプで、学校以外で学校の連中と関わってはいないようだった。僕にはそれがちょっと不思議だった。

「最近、手首の調子が良いんだよ」
 柔道部に入っているクラスメイトの才田(さいた)がそんなことを言った。才田は、いつも右手首にテーピングしていたのだが、最近はそのテーピングを見ることがない。聞くと、手首の使い方を含め、たまたま来た柔道の先生に指導を受けたらしい。

 こんな話もある。
「最近、コンテストの要項が変更になって、秋の演劇コンテストに出られることになったの」
 演劇部の部長で幼馴染の女子、南木(みなみぎ)はそんなことを言った。演劇部は部員が数人しかおらず、これまでは出られないコンテストがあったが、要項が変わって大きなコンテストに出られるようになり、熱心に練習に励んでいる。

 他にも、ずっと探していたものが見つかったとか、レアなコンサートチケットを手に入れられたとか、そういう良い話がクラスの端にいる僕にまで舞い込むようになった。

 みんな何だか機嫌がよく、クラスの雰囲気が良くなったように感じる。

 クラスの不良男子の木野(きの)は、家出していた母親が戻って来たらしく穏やかになり、初恋相手に偶然再会したというクラスのボス女子は誰にでも優しくなった。

 何かわからんが、クラスの幸運度が上がっている。

 見れば薄汚れていた教室内はそうじが行き届いていて、黒板はいつもきれいだ。それには潔癖症で悩んでいた女子が、その行動をみんなに喜ばれるようになったことが関係している。それまではからかわれていた彼女だが、それがなくなりその潔癖力を生かしてくれているようだ。

 黒板がぴかぴかであることに気を良くした先生たちは何だか熱心で、クラス全体の成績すら上がってきている。

 何この、ハッピースパイラル。
 一見、気のせいに思えるちょっとしたハッピーが積み重なっている。

 僕はこの幸運の原因が、彼女にあるのではないかと思い始めていた。

 そう、例の転入生、花城だ。

 これは僕の推測にすぎないが、花城に悩みを聞いてもらった人たちは、自然とその悩みが解決してしまっているようなのだ。
 才田も、南木も、花城が居合わせた場で、悩みを話していた。
 もちろん、気のせいと言えばそうかもしれない。
 僕は自分に何か悩みがないだろうかと考える。このぱっとしない自分自身を、花城に相談したら改善する、なんてことがあるだろうか。
 しかしそうするのは格好悪いし、それを打ち明けるほど花城と仲がいいわけでもない。それに、花城に話したら改善するなんていうのは、推測にすぎない。

 とは言え、気づけば僕は花城を目で追い、耳を澄まし、彼女の周りで起こることに気を配るようになっていた。
 花城は自分から何かをするわけではない。でも、人の言うことにしっかりと耳を傾ける。だからとても話しやすい。相談を打ち明けても、きっと嫌な顔一つせず、丁寧に聞いてくれるだろう、そう思わせるところがある。

 ある日の放課後。僕は花城に話しかけてみることにした。
 悩み相談をするとか、そういうことではなく、ずっと見ていた彼女と、単に話がしてみたかっただけである。
 うちの学校は部活の入部率が高く、何も入っていない人は稀だ。そういうこともあって、部活に入っていない花城は一人で帰っており、声をかけることはそう難しいことではなかった。ちなみに僕は陸上部の幽霊部員だったりする。

「花城さん」
 僕が声をかけると、花城はすぐにこちらを振り返った。にこっと優しそうな笑顔を浮かべる。何か用ですか? と聞かんばかりに。
「ちょっといいかな」
「うん。どうしたの?」
 花城は足を止め、僕を見つめて言う。その吸い込まれそうな黒い瞳が、僕を見透かしているように見えた。
「花城さんって、前はどこに住んでいたの?」
「以前は、大阪に住んでいたよ。まだ関西のイントネーションが残っているかも」
「そうなんだ。どうしてこっちに?」
「父の仕事の関係で」
 差し障りのなさそうな話題を探す僕を、花城は不思議そうに見ていた。
「鍵原さんは、小さい頃からこの街に?」
「そうだね。生まれた時からここに住んでいるよ」
 僕がそう言うと、花城は少し遠くを見て、
「それはいいね」
 と、にこやかに笑った。
「引っ越しとか転校は、やっぱり大変?」
「新しいところは、やっぱり緊張するから」
「そっか」
 僕は話題が切れてしまって、どうしたものかと考える。
 すると、花城の方が話を切り出した。
「鍵原さん、何か話したいことがあるなら、そのことを先に話しちゃってね」

 見透かしたように僕を見つめる目。

 話したいこと。
 聞きたいこと。

 言って変に思われないかと思ったが、聞くために話しかけたのだ。今更考えても仕方ない。

「花城さん。その、変なことを聞くのだけど」

 花城は首を傾げる。

「君が来てから、このクラスが何と言うか、とても良い空気になってきているように感じるんだ。幸せ度が上がっていると言うべきか。それって何か、心当たりある?」

 花城はそれを聞くと、小さく口元に笑みを浮かべた。

「どうなんだろ。鍵原さんはそんなことあると思う?」

 その瞳は、僕を試しているようにも見えた。

「気のせいと思うにしては、随分いろんなことが起こり過ぎているように思えるんだ。花城さんが意識的にそうしているのか、そうじゃないのかが知りたい」
「どちらにせよ、私が関係していると?」
「僕はそうだと、ほぼ断定している」
 断定していたから、こうして話しかけようと思ったのだ。

「そう」
 花城は短く言うと、歩き始めた。僕はその後に続く。

「私もその、変なことを言うのだけど」

 僕は何を言うだろうと言葉を待つ。

「私、招き猫的な、招福の存在らしいの」

 招き猫、そうか、そういう感じか。

「じゃあ、僕の言っていたことは自覚あるんだ」
「うん。周囲に幸福を呼び寄せることができる。ただ」
「ただ?」
 花城は考えるように間を置いた。

「人間っていうのは、悪いことがあってはじめて、良いことが認識できる。私がいると、その悪いことの方が起こらなくなってしまうんだよね。だから、一言で言うと人間進歩しなくなると言うか。もちろん、良いことが起こってみんながハッピーになるのは、私も嬉しいことなんだけど。結果的に考えると、ダメ人間にしちゃうっていうか。そこが私も難しいところ」
「えっとつまり、良いことが起こり続けると、人はダメ人間になっちゃうってこと?」
「たとえばさ。マークシートの試験で、偶然当たり続けて良い点数が取れ続けちゃったとしたら、鍵原さんは勉強する?」
「しない、ね」
「でしょ? そうしたら、結果的に勉強全然していないのに、点数だけ高い人になっちゃって、結局その人のためにならないと思わない? そういう感じの幸運なの、私のは」
 花城は悩むように腕組みをする。
「私、もっとちゃんとした、招福の存在になりたいの。ただ良いことを起こすだけじゃなくて、人間的にちゃんとできるような、そんな存在になりたくて」
「それって、なんて言うか、人間の域を超えていない?」
 僕は思ったことを素直に言った。
「そ、そうだよね。自分でも、ちょっとおこがましいこと言っている気がする」
 花城は少し恥ずかしそうに、両手をぶんぶんと振り回した。
「私の『幸運』に気づいて、直接言ってきた人ってこれまでいなくて。だから、何と言うか、ちょっと嬉しくて調子に乗ってしまいました」
 調子に乗るなんてことあるんだ。花城は普段、にこにこしながらも淡々と人の話に耳を傾けている印象が強いので、こんな陽気な一面もあるのだと意外に思う。
「鍵原さんは、何かこうなったらいいなってこと、ある? 可能な範囲で叶えてあげられるかもしれないけど」
「それって、花城さんが何かするの?」
「ううん。特に何もしないよ。聞くだけ」
「そうか」
 花城に話をしたら、何かいいことが起こるかもしれない。
 でも、僕が求めているものはそういうものじゃない。
「僕は、いいかな」
 言えば叶うというのは、とても魅力的ではあるのだけど、彼女が言う通りそれが人をダメにすると言うのは確かにそうだと思うのだ。

「ああ、でも一つあるとすれば」

 僕は足を止める。花城も足を止めて、振り返った。
 花城の、肩につくほどの短い黒髪が、わずかに揺れる。

「明日もこうして、一緒に帰ってもいいかな?」

 花城はどう答えるだろう。

「いいよ。でも、どうして?」
 どうして?

「君と話がしたいから」

 僕はシンプルに答えた。
 花城は何も言わず、じっと僕を見ている。
「あ、その、不思議な力について、色々考えてみようと思うから、そのこととか話したいなって」
 微妙な沈黙に耐えかねて、僕はそんなことを言った。本音を言えば、ただ花城と話がしたいだけだったのに。
「そう。じゃあ、また明日」
「あ、ああ、また」
 花城はそう言うと背を向けた。
 僕はどうしたかったのだろう。
 遠ざかる彼女の背を見つめながら、今日は一人反省会かなと思う。

◆ ◆ ◆

 僕は授業中、ノートの端に考え事をしていた。
 花城の能力は、彼女に悩み事を相談すると、それを解決する、というもののようだ。それも、多分間接的に。たとえばケガをしたら、良い医師が見つかる、みたいなもの。だから魔法みたいに自然と叶っているというよりは、誰かの手助けが入る。それ故、花城のおかげだとは気づきにくい。
 この花城の能力には、何か制限のようなものがあるのだろうか。
 たとえば、自分自身には適応できないとか。
 あるいは、使っているうちに自分の運が消費されるとか。単純に便利な能力なのだろうか。それか、ダメ人間にしてしまうということが、そのデメリットなのだろうか。
 うーん、どうなのだろう。
 こうした話を含めて、花城に聞いてみたいことがいくつかある。

 そういうわけで、僕は放課後、花城を待ち伏せした。
 一応本人に許可は取っているわけだし、大丈夫だよな。
「花城さん」
「あ、鍵原さん。本当に来たんだ」
 僕が今日も来るとは思わなかったのだろう。花城はそう言って笑う。
「聞きたいことがあって」
「何?」
「花城さんのその招福力って、自分自身には適応されるの?」
 横に並んで歩きながら、花城に問いかける。
「それがね。自分には効果がないのよ」
 普段は穏やかな花城が力説する。
「周りの人が幸せになれば自分も幸せ、確かにそう。でも、周りの願いばかりが叶って、自分の願いがかなわないというのも、何とも切ないものよ!」
「そ、そうなんだ」
 僕は花城の勢いに気圧された。
「たとえて言うなら、自分以外の周囲の女子が、みんな彼氏持ちなのに、自分だけいないとか、そんな感じ」
 それは何だか辛そうだ。
「花城さんの招福力は、本人にデメリットってあるの?」
「精神的に鍛えられる以外、私自身には、特に何もないと思うけど」
「花城さんの運が減ったり、不調をきたしたりとか、そういうことはないんだ?」
「無いよ」
「じゃあ、一つ頼んでも良いかな?」
 僕がそう言うと、花城は不思議そうにこちらを見る。
「僕らのクラスに、遠川(とおかわ)っていう、不登校の奴がいるんだけど、そいつを君の招福力でどうにかしてやりたいんだ」
「うん。どういう風に?」
「遠川の悩んでいることを解決して、学校に来られるようにしてあげたい」
「それはいいね」
「だから今度、そいつに話をしに行く時間、取れる?」
「ていうか、もうすでに、鍵原さんが悩みを相談してくれているので、遠川さんだっけ? 学校に来るよ」
「え?」
 そうか。確かに僕は、遠川の悩みと称して、悩み相談をしてしまっている。
 つまり、花城の招福力を、すでに使うパターンに入っているということだ。
「そ、そうか。僕自身の悩みのつもりはなかったんだけど、そう認識されるわけか」
「うん」
「それって便利過ぎないか?」
 聞けば聞くほど、花城の能力はすごい気がする。それ故に。
「花城さん自身が、何か悪用されないか心配だよ」
「私に何かあると辛い思いをする人がいるっていうだけで、それは発動しないから大丈夫」
「そうか。それを聞いて安心したよ」
 人の幸せが自分の幸せを守ってくれるわけだ。
「なあ、花城さん。たとえば僕が、君の悩みを解決できるよう、僕が話したら、君の悩みは解決されるのだろうか」
「多分発動しないと思う」
「そうなのか?」
「それとなく試してみたことがあるけど、自分の願いがメインになると、ダメね」
 人の願いは叶えられるのに、自分の願いは叶えられないのか。
「何か大変だな」
「ようやくわかってくれた?」
 花城は楽しそうに笑った。
「人の幸せを間近で見るには、本人もそれなりに幸せじゃなきゃ厳しいものだよ」
 自分を置いて人ばかりが幸せになっていく。
 それは言いようがないほど、面倒なものかもしれない。周囲の空気は良くなって、自分のいる場所も引き上げられたとしても。
「大変な思いをしている人を助けることができるなら、それでもいいんじゃないか?」
 僕は何気なくそう言った。
「どうかな?」

 花城は嗤う。見たことのない表情で。

「これまでの幸運例から推察してみるとね。この後遠川さんの元には幼馴染的な女の子がやって来て、その子と恋が起きるかも的などきどきで学校に出てくる。でもそのどきどきは最終的に叶わなくて、引きこもりに逆戻り。今度は思うだろうね。誰か別の可愛い女の子がまた助けに来てくれるって。そんな都合のいいこと、一回起こっただけで幸運なのに」

 花城は空を見上げる。

「一度うまくいった方法が、たとえ正しくなくても成功すると思ってしまうのが人間だよ。きっと何度も待ち続けるだろうね。本当は実現しない方法を、何度も」

 彼女は。

 本当に招福的な存在なのだろうか。

 僕はわからなくて恐ろしくて、でも知りたくて、背筋がびりびりした。

◆ ◆ ◆

 学校にいるときの花城は別段いつもと変わった様子はなく、にこにこと、やわらかな太陽みたいな笑みを浮かべていた。

 花城の宣言通り、遠川は僕らの幼馴染である南木に声をかけてもらって、学校にやって来た。花城の言った通りなら、遠川は南木のことが好きということになる。僕はその話には首を突っ込まないようにしようと思った。あるいは、僕が遠川の恋が叶うことを願ったら、それは叶ってしまうのだろうか。
 人の気持ちまでは動かせない、と思うのだが、どうだろう。
 僕は花城と歩いて帰りながら、そんなことを分析する。

「私に恋愛相談をした人は、彼氏ができているよ」
「じゃあ、人の気持ちも動かせるってこと?」
「うーん、必ずしも、希望した人と付き合っているわけじゃないから、彼氏が欲しいという部分しか叶っていないかな。もちろん、当初希望した人と付き合った人もいるけど」
「付き合いたい、が願いの本質ってことかな?」
「多分」
「たとえば遠川の話だけど、花城の話で言うなら、南木に振られるわけだろ。でもそのときに、引きこもりに逆戻りしない可能性だってあるんじゃないか? たとえばここで僕が、遠川の恋が叶うといいな、とか言っておけばさ」
「なるほど。恋がうまくいって、引きこもり回避ね。それは確かにできそう。でも、それだけで解決できるかな?」
「こうなったら、遠川が無事軟着陸するまで、どうにかしてやろうかな。何か起こるたびにこうして話してみるとか」
「それもいいかもね。でも」
 花城はふと、ため息をついた。
「残念だけど、私はここに長くはいられない」
「どういうこと?」
「父の栄転でね。今度は海外に仕事に行くことが決まったの。私が一緒に行かなかったら、それが止まってしまうし、仕方ないんだ」
「そんな」
「心配なのは、私が去ったあと、すべて元に戻ってしまうこと。それによって、偶然起きたこれまでの幸運に、みんなが執着しないかってこと。間違った成功体験を、何度も待ちわびないかってことが、一番気がかり」
 そう言う花城は、そのことにはもう慣れっこのようにも見えた。
「みんなそれぞれ新しい方法を見つけるよ」
 僕はそう言いながら、本当にそうだろうかと考える。

「見つけられたらいいけど」

 花城は遠くを見つめた。

「花城さんはさ、どう思っている? 自分を、招福的な存在っていうんだったらさ。みんなが幸せになるように願うべきなんじゃないの? 何だかそうならないことを、願っているようにすら見えるんだけど」
 僕は少しばかり感情を込めて、そんなことを言っていた。

「そんなことない。でも、そう見えるのかもね」
「ごめん、言い過ぎた」
「いいよ。確かに、私は心のどこかで、みんなの幸せを願いきれていないのかもしれない」

 花城はそう言って、下を向いた。

「だから、自分が去ったあと、元に戻ることを、仕方ないと思えるのかも」

 周囲の幸せが勝手に叶って。

 それが元に戻るだけのこと。

 だけどそれで、それだけのことで、人は足を踏み外す。本来起こらない幸運が起こってしまったことによって、過度な期待によって。慣れてしまった幸運によって。進もうとする意欲を失ってしまう。

 元に戻るだけのことなのに。

 花城が何かをしたわけじゃない。ただそこにいて、話を聞いただけのこと。それだけで、勝手に叶うみんなの幸せを、良いものとは思いきれなかったのは、当たり前なのかもしれなかった。

「今までと、一つ違うことがあるとしたら、鍵原さん、あなたが私のことを知っているってこと。だからもしかしたら、これまでとは違う展開を、迎えられる人が出てくるかもしれない」
 花城は悲しそうな顔で、そう言った。

 だから僕は言う。

「君がいなくなったから幸せは二度と来ないなんて、言わせない。みんな、新しい幸運を見つけて、幸せに歩き続けてみせる」

 君が悲しむ顔を、これ以上見たくない。僕が決意をするのに、それ以上の理由はいらなかった。

「絶対に、幸せになるから」

「そうなることを、私も願っているよ」
 花城はそう言って、優しい笑みを浮かべた。

◆ ◆ ◆

 花城が転校したのは、それからわずか一週間後のことだった。
 転校後、窓が開け放たれたかのように、冷たい空気がどんどんと教室に雪崩れ込んできた。

 みんなに不調がおき、解決していたすべてのことに終わりが来て、空気は悪くなり、いじめはおき、遠川は不登校に逆戻りした。

 そうなることがわかっていた僕は、一つ一つのことに、首を突っ込むことにした。
 それまで、人のために何かをするなんてなかった僕だ。不慣れだし、意味がわかんないと罵られることもあった。だけど一つずつ、一人ずつ、できるところから話をしていった。花城の話をしたわけじゃない。ただ、このままくじけていちゃだめだと、新しい方法を試してみようと、説得し続けただけだ。

 たとえば遠川。
 僕は遠川の家に行って、づかづかと上がりこんだ。遠川は少し迷惑そうにしていたけれど、そこは図々しくいこうと決めた。
「なあ、学校来ないのか?」
「行かない。行きたくないんだ」
僕の説得では、遠川は動かないように思えた。でも、話をしているうちにわかった。彼はひどく孤独で、その孤独を埋められるものを探しているのだと。僕がそれを埋めるというのは、ちょっと違うように思えた。誰かに依存すること自体が、そもそも解決策ではない。
 それでも、伝えておきたかった。
「遠川には、良いところがいっぱいある。たとえば、数学の授業の時、眠っている人をこっそり起こして答えを教えてあげていたこと。そういう、人を放っておけないお節介なところ。休み時間が終わると、時間ぴったりに座っているところ。そんな、時間に律儀で、相手に対して誠意ある対応をするところ。図書室の本を、丁寧に扱っていているところ。何をするにも丁寧だよな。それと……」
僕が知る、彼の良いところを全部、可能な限り延々と言葉にした。遠川は黙って聞いていた。何も言わず、真剣に。彼の心に響いたらいいと思ったけれど、それで何かが変わるとは思わなかった。

 僕は時間をかけ、同時並行的に、クラスメイトに話しかけた。

 戻って来ていた母親が、また出ていってしまった木野に話をした。遠川のこと、みんなのこと、君が頼りだということ。
「お前に俺の何がわかるんだよ」
 木野はそう言って僕に怒りをぶつけた。
「君の辛さの、全部をわかることはできない。だけどここにいて、君の辛さに耳を傾けることはできる。一緒に悩むことはできる」
「そんなんで、解決なんかできないんだよ!」
「だからって、いつまでもそうしているつもりかよ!」
彼の辛さであったり、虚しさであったり、そういうものはよくわかったけれど。だからってそれで解決できるわけじゃない。
「勝手なことばかり言いやがって!」
 木野は僕を突き飛ばした。本気でないのはわかった。僕はそれを受け止める。
「痛……」
 僕が倒れこむと、木野は困ったように自身の両手を見つめた。

「俺……」

 少し頭が冷えた様子の木野に、僕は言う。
「君は『俺の何がわかるんだよ』って言ったけど、僕は君の良いところを知っている。テスト前に教科書を忘れてぴりぴりしていた人に、教科書をまるっと貸してあげていたこと。そういう、人の不安に寄り添えるところ。マラソン大会で、転んだ人に肩を貸して、一緒に最後まで歩いてゴールしていたこと。そういう優しいところ、あと……」
「もういいよ!」
 木野は困ったようにそう言った。

「なあ。失ったものじゃなくて、これからできることを、考えてみないか?」

「これからできること?」
 木野は不思議そうに尋ねる。

「これからできること」
「たとえば、何だよ」
「それは君が考えるんだよ」
「何だよ、それ」
 僕が考えたんじゃ、意味がない。自分で考えて、切り開いていかなきゃ意味がないんだ。
「俺に何ができるんだよ」
「何だってできるよ」

 僕は励ますことしかできない。心の扉を、叩き続けることしかできない。

 でも。

「さっき、遠川の話、していたな」
「遠川?」
 そう言えばそんな話をした。遠川がまた学校に来ないと。
「どうにかしてくれるのか?」
「うるせぇ。できるかどうかなんか、わかんねぇよ」

 木野はそう言っていたけれど。

 彼が友人を連れて遠川の家を訪ねたのを、遠川が学校に来たことで知った。

 木野は、遠川のことをいつもからかっていた男子を、ちょっと懲らしめてくれたらしい。そして彼らが勇気を出して、遠川に謝ったのだとわかった。
「おはよう」
 遠川のあいさつが、言いようもなく嬉しかった。みんなも嬉しそうだった。その明るい空気感が、僕らの気持ちを押し上げる。

 僕のお節介は続いた。落ち込むクラスメイトに声をかけ、放課後長々と話をした。時に恋バナの相談に乗ることもあったし、勉強を教えることもあった。
 僕にできることと言えば、話を聞くこと。あと、その人の良いところをいっぱい羅列すること。相手を励ますには、良いところを伝えるしかない。だから、僕が知っている限りのその人の良さを、思いつくまま言葉にした。

 それでも、自分の力ではどうにもならなくて、周囲に助けを求めてばかりだ。最初はそんな自分がひどく格好悪くて、惨めに思えた。僕のダメなところを、周囲はこれでもかとばかりに教えてくれる。こんな点を直せとか、あんな本を読めとか。

 だけど僕のダメなところを教えてくれる人ほど熱心で、その分力になってくれた。僕のことを考えてくれる人ほど、僕の耳に痛いことを言うのだとわかった。今までだったら、そんな人とはかえって距離を取っていたかもしれない。僕は自分自身を反省した。

 段々と、自分の目的のために、誰かを助けるために、手助けを求めることは格好悪くなんかないのだとわかった。

「一人で抱え込むんじゃないよ」

 クラスメイトの悩みを解決できず、しばらく悩んでいた僕に、遠川が仲間を連れてやって来た。
「みんなで考えれば、何かできるかも」

 僕を囲んで、輪が広がっていく。

 僕が悩んでいる内容を説明すると、
「それだったら、俺がどうにかできるよ!」
 クラスメイトの一人がそう言って、誇らしげに胸を張った。

 助けるばかりじゃない。助けてもらっている。僕ばかりが何かをしているなんて思うのは、おこがましい。僕はヒーロー気取りだった自分を笑った。

 一人じゃない。
 大丈夫、何とかなる。

 みんなが、それぞれにできることをし始めて。
 僕が何かをするまでもなく、みんなが変わろうとしていた。

 才田は相変わらず右手首を痛めていたし、南木はまたコンテストに出られなくなったと嘆いていたけれど。再会した恋は叶わなかったり、見つけた物はまた見失ったりしたみたいだけれど。

 別の方法で、それぞれの方法で、みんな違う道を模索していた。

 誰一人諦めたりなんかしていない。
 暗くなった空気感を変えようと、藻掻いている。

 何度失敗してもいい。間違えたって構わない。
 だけどいつまでも、倒れたままでなんかいない。

 僕は花城に言ってやりたかった。君がいなくても、みんな、幸せになれるんだって。花城がいなくなったからだなんて、誰にも言わせたりしない。

 その意地が、僕を突き動かしていた。

◆ ◆ ◆

 花城が学校に来た最後の日。

 僕は花城と、いつものように帰っていた。
 僕らは取り留めのない話ばかりした。
 僕には言いたいことがたくさんあったのだけど、それを一つ言葉にしてしまうと、もう止められそうになかった。
「寂しくなる」
 花城がそう言って、足を止めた。
「こんな風に、一緒に帰ることも、もうないんだね」
 その言葉に、僕は勇気を振り絞って、彼女に尋ねた。

「連絡先、聞いてもいい?」

 花城は首を傾げた。
「私はスマホとか持っていないから、引っ越し先の住所で良いかな」
「何で持っていないんだよ」
「私の能力の制限、とだけ言っておく」
 そう言いながら、花城はメモ帳に引っ越し先の住所を書いて渡した。
「手紙、書いてもいいか?」
「手紙。いいね。楽しみ」
 手紙なんて、小さい頃に祖父母に書いて以来出したことなどなかった。すべてがオンラインで成り立つこのご時世に、手紙か。

「鍵原さん」

「何?」

「またね」

 そう言うと、花城は笑みを浮かべた。

 あっさりと去っていく彼女の背を見送りながら、僕は行くなと叫びたかった。でも、それを言葉にする勇気はなくて。

 そんな臆病な僕は、あれからようやく手紙を書く勇気が湧いて、机に向かっている。

 木野も才田も南木も、書ききれないけれどみんな元気にしていると。遠川も、学校に来るようになったと。それぞれ新たな方法を模索し、前に進んでいると。

 そういったことをずらずらと書いて、それから僕は、書きたかった本心を何度か書いて、書いては消した。

 気軽に送れるメッセージなら、間違って送ってしまうこともあったかもしれない。でも手紙では、そんな気軽さは僕にはなく、何度となく推敲してしまう。

 すぐに出せると思ったのに、僕は数日、手紙のことばかり考えていた。

 花城のことが気になって仕方がない。
 
僕はそれが、ようやく恋だと気づいた。

初めての恋だった。

◆ ◆ ◆

 出した手紙の返事が来るまで、僕はずっと毎日郵便受けをそわそわと見ていた。手紙の返事はなかなか来ず、もう返事は来ないのではないかとすら思った。

 そんなある日。

 郵便受けを見ると、一通の僕宛の手紙が入っていた。
 
 花城だ。

 僕は部屋まで手紙を持って急いだ。
 慌てて手紙を開ける。すると、一枚だけ便箋が出てきた。僕は三枚ぐらい書いて出したので、少し不安になる。

 だが開けてみて変わった。

 日本に戻れそうだと。
 シンプルにそう書かれていた。
 それはどうやら春になりそうではあるけれど、確定事項らしい。僕は嬉しくて何度も読み返した。

 返事を書こう。
 
 もう一度、君に会いたい。その想いを、伝えたくて。

◆ ◆ ◆

 中学三年の春。

 クラス替えがあってバタバタした一日だったが、僕はそれどころではなかった。

 花城が戻ってくる。

 僕は、花城が待つという、いつもの通学路へと足早に向かった。
 思い出は美化されがちだ。花城と会って、思っていたのと違うなんて思うかもしれない。もしかしたら、向こうで何かあったとか、そんな話が出てくるかもしれない。ぐるぐると思考が巡り、ちょっとうるさいぐらいだった。

 花城はそこにいた。
 制服ではなく、白に花柄が鮮やかなワンピースを着て、こちらを見ている。小さなバッグを肩からかけていて、振り返るとそれが揺れた。
「花城さん」
「鍵原さん」
 僕らはお互いを呼んだ。
「久しぶり」
「うん。ちょっと見ない間に、背が伸びたんじゃない?」
 花城はそう言って、僕を見上げる。確かに少しばかり背は伸びた。花城はあまり変わったようには見えなくて、僕は少しホッとする。

「みんな、大丈夫なんだってね」
「ああ」
「声も、少し低くなってない? ちょっと会わないうちに変わっちゃったなあ」
「そうか?」
「そうだよ」
 花城はそう言って、楽しそうに笑う。その笑みにつられ、僕も少しばかり笑みを浮かべた。

「私ね、あれから反省したの。ちゃんと、信じるべきだったって。みんなを、鍵原さんの力を」
「何それ」
 花城はバッグから、手紙を取り出した。僕が出した手紙だった。
「私よりも鍵原さんの方が、きっと招福的な存在なんだって思うよ」
「そんなことないよ」
「そうだよ」
 問答を繰り返しても意味がなさそうなので、僕は黙った。
「鍵原さんは、自分の力でみんなを幸せにしてる。本当にすごい」
「みんなを幸せにできているなんて、思っていないよ」
「そうかな?」
「幸せかどうかを判断するのは、その人個人の問題だから」
 どんなに頑張ったって、無理なものは無理だ。
 他人の僕ができることは、限られている。
「ね、鍵原さん」
 花城は楽しそうに笑う。

「ありがとう」

「え?」

 予想外の言葉に、僕はちょっとだけ混乱した。

「私がいなくなった後、大変だったと思う。でも、それを良い方向に変えてくれた。本当にありがとう」
「僕が勝手にやったことで、君にお礼を言われる筋合いは」
「私、ずっと罪悪感があったの。自分の招福の力に。でも、鍵原さんが変えてくれた。解決してくれた。だから、会ってありがとうって、言いたかったんだ」

 花城の心の中には、ずっと周囲の幸せがあって。

 喜んでくれるみんなの笑顔が嬉しい気持ちと。自分が去っていくことによって崩壊することへの恐怖があった。

 彼女が誰とも繋がりたくないのは、そうしたことを知りたくないからだったのかもしれない。でも。

 すべてそうなるなんて、決まっていない。

 僕やみんなは、幸せになることを求めている。間違った方法でも、楽に叶うことを願っている。だけど、いつまでもそうしているわけじゃない。いつまでもそのままなわけがない。君が、花城がいつまでも責任を感じることじゃない。

「鍵原さんがいてくれて、初めて安心できた。私はここにいていいんだって」
 花城は僕を見て微笑む。

 そのために。

君の笑顔のために、僕は頑張ったのだけど。

「そんなの、僕がどうとか関係なく、君はどこにだっていていいんだよ。君は人に幸せをもたらすんだろ?」

 僕の口から出てくるのは、そんな言葉で。

「じゃなくて、その」
戸惑う僕に、花城はくすっと小さく笑った。
「私は、あなたが何を言ったかではなく、何をしてきたかを知っているから。だから、わかっているよ」
 見透かしたように言う花城に、僕は何と言っていいか、いよいよわからなくなった。

「花城さん」
 うまく言葉が出てこない。どうしたんだ自分。何でコントロールがうまくいかないんだ。
「その……」
 頭が真っ白になる。別に、告白するわけでもないのに。

 告白。

 いやいやいや。

 でも。今日を逃したら、次いつ会えるかわからない。だったら、でも。

「鍵原さん」
 黙っている僕に、花城は言う。

「最初、一緒に帰ろうって言ってくれて、嬉しかった。手紙を送って来てくれたのも嬉しかった。日本に帰ると伝えた時、また会おうと言ってくれたのも嬉しかったよ」
 彼女のその言葉に、僕はようやく背中を押された。

「僕も嬉しかった」

 思いを、言葉に。

「君が、好きだから」

 顔を真っ赤にして言う僕を、花城はじっと見つめ、笑顔を浮かべる。

「私も」

 僕らは互いに顔を赤くして、笑いあった。

 花びらが舞う。
 桜が咲いていることに、僕はようやく気付いた。それぐらい余裕がなかった。
 何かに集中しているときは、周囲が見えなくなる。不安な時ほどそうだ。でも、世界はいつでも変わらずそこにあって、僕らを見守っている。

 本当は、運とか不運なんてなく。

 僕らがただ、目の前の一点を見つめ、解釈しているに過ぎない。

「きれいだね」
 花城が花びらを掌に載せて笑う。

「ああ」
 見上げる僕らのその先に、風に揺れる桜。

 どうしようもないと思っていた、僕の日常を変えてくれた君。

「君に会えて良かった」
 僕は呟くようにそう言った。

 君に会えて良かった。君に会えたから、自分が幸せであるためには、周囲が幸せであることが大切なのだと知ることができた。そして何より僕自身に、彼らを動かす力があると、気づかせてくれた。

 うまくいかないことは山ほどある。失敗すると辛くて、もう二度と何もしたくないと思える。どうやったって受け入れられない時もある。

 だけど。

 君のことを考えたら、いつだって力が湧いた。君が悲しむ姿を思ったら、自分が思う以上の力が出せた。

 君に会えて良かった。

 君が幸せの風を巻き起こすなら、僕はそれが止まぬよう、いつまでだってあおぎ続ける。

 口下手な僕は、それ以上言うことはないんだけど。
 隣にいる君は、見透かしたように笑った。
 
 君は確かに、僕の招福の女神。


 <終わり>