お客が多い時にはお客が次々に来て店が満員になるが、お客が少ない時に限ってお客が来ない。今日は天気も良いのにお客が来ない。商売はままならない。もう秋も半ば過ぎで静かな夜になっている。
まだ10時を少し回ったところだ。歌を歌うこともなく二人の男性客が話し込んでいる。こういうときは静かに離れていることにしている。静かに話させてくれるところがいいというお客が少なくない。
落ち着いた40代位の見慣れないお客が一人入ってきた。静かに止まり木に座る。私はすぐにおしぼりを持って挨拶に行く。
お客が私の顔をじっと見ている。その顔が驚きの表情を見せると私もすぐに思い出した。私の驚いた顔を見て、彼も私が気付いたことが分かっただろう。
昔のなじみのお客だった。すぐに気を取り直してほほ笑んで「いらしゃいませ」と言った。
彼はどう言っていいか分からないみたいだったけど「こんばんは、ここは初めてです」と言った。
それを聞いて、私も「はじめまして、ママの寺尾《てらお》 凛《りん》です」と名刺を差し出した。すぐに彼も名刺をくれた。
返礼に名刺をくれる人は少ないので好意が感じられる。私はそれを両手で受け取ってじっと見ていた。有名企業の部長の肩書が書いてある。
「良いところにお勤めなんですね」
「そうかな、なんとか子供を育てていけるくらいの給料はくれたからね」
「お子さんは何人なんですか?」
「娘が一人いるけど、今年の3月に大学を卒業した。就職して大阪に住んでいるので、今は一人暮らしだ」
「奥様は?」
「10年前に無くした」
「そうだったんですか、お寂しいですね」
「家へ帰っても誰もいないので、ぶらぶらしていて偶然にここに寄せてもらった」
「ありがとうございます。これからもご贔屓にお願いします」
「水割りを作ってくれる? 薄めで頼みます」
「もう随分飲まれているんですか?」
「今日は招待する側だったから、そんなに飲んでいないけど、少し疲れた。ここが3次会かな」
他愛のない初めての客との会話が進む。他に客がいるので、彼も話を合わせてくれている。以前と変わらない優しさが見てとれる。安心した。
「ここはいつからやっているの?」
「この店は随分昔からあったと聞いていますが、私が勤めたのは2年前です。オーナーが高齢で引退したいと言うので、1年前にここを譲り受けました」
「一人でやっているの?」
「ええ、細々と。お陰さまでお馴染みさんも段々増えてきました」
カウンターの二人連れのお客が帰ると言っている。丁寧に挨拶してドアの外まで出て見送った。
私は戻るとすぐに看板の明かりを落としてドアをロックした。まだ、11時前で店を閉めるのには少し早いかもしれない。
「お久しぶりです。その節はお世話になりました」
「お世話になったのはこちらの方だよ、いつも癒されていたから」
「山路さんは本名だったんですね」
「君の名前は」
「名刺のとおりです」
「凛か、良い名前だね、響きがよくて」
「今日はゆっくりしていってください」
「急にいなくなったので、心配していたよ。身体を壊したのではないかとね」
「あの仕事に急に嫌気が差して、それにいつまでも続けることができないのは分かっていましたから」
「確かにそうだね、早く足を洗ってよかったかもしれないね」
「でもね、改めて働くとなると、どうしてもこういう水商売しかなかったの」
「水商売も立派な職業だ、あの仕事も人を癒してくれる立派な職業だと思うけど」
「普通の人はそうは思わないわ」
「人それぞれだからしかたがないさ」
「世間の目は厳しいのよ」
「僕は気持ちが沈んでいる時に癒してもらって随分助かった」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
「独り身?」
「私みたいな女を相手にしてくれる人はいません」
「もしそうなら、どうかな、僕と付き合ってくれないか?」
「付き合うって?」
「普通に付き合うってことだけど、休みの日にデートするとかそういうこと」
「私、男の人と普通に付き合ったことがないんです。男の人とはあの場所だけで、外では決して会わなかったし、会わないことにしていました」
「どうして?」
「店が禁止していたこともあるけど、情が移るといけないから」
「あくまで仕事上の関係としておきたかったの? きっと君のプライドがそうさせたんだね」
「いえ、先輩からもそう言われたからです」
「そういうものなんだ」
「悪い男に騙されないためと言われました」
「今はどうなの?」
「やはりお店以外でお客さんとお会いしたことはありません」
「それで付き合ってくれるの? 僕はよい男ではないかもしれないけど、君を騙したりはしない。普通に付き合いたいと思っているだけだ」
「しばらく考えさせていただくわ」
「いいよ、待っているから考えてみてほしい。だから今日はこれで帰る」
「もう帰るんですか、ゆっくりしていって下さい」
「また来てもいいかな? 君とのことは誰にも話すことはないから心配しないでいい。でも昔のことを思い出すから来てほしくないと思っているなら、もう二度と来ないと約束する」
「また来てください、お返事はその時にします」
「じゃあ、お会計お願いします。それと車を呼んでくれる?」
「お呼びしますが、大通りまで出ないといけませんけど」
「それでいいから、呼んでくれる」
私は車を呼んで大通りの車が待っているところまで送っていった。久しぶりに会ったけど、あのころと少しも変わっていなかった。少し寂しげなところもそのままだった。
私はああいう少し寂しげな人から好まれるみたい。まあ、私も同じようにああいうタイプに弱いと言うか好みだ。
3軒目のお店まで通ってくれたもう一人のお客が彼だった。初めにあったとき、40歳位に見えたが、年の割にこういうところが初めてだとすぐにわかった。
はじめてのお客は部屋に入ると部屋の様子を見て促されるまで立っていることが多い。促されてベッドに座ってからも私の顔をじっと見ていた。
「じっと見られると恥ずかしいです」
「ごめん、とても美人なので見とれていた」
「ありがとうございます」
それからも私の顔をじっと見ていた。そんなに見つめられることがなかったので印象に残った。
しばらくしてから指名して来てくれた。彼のことはすぐに思い出した。年は40歳前後で落ち着いた感じで、いつも私を見つめていたから。好みのタイプとも言えなくはないがいやみもなく普通のお客さんだった。
それから月に1回くらいはずっと必ず指名して来てくれた。大体の客は他の娘と浮気するのが常だが浮気もせずに私をずっと指名し続けてくれた。
私が店を替わったときも探して来てくれた。そして、次に店を替わる時には知らせてほしいと携帯の番号を教えてくれた。
だから次の店に替わった時は電話をして店名と電話番号と源氏名を教えた。彼はすぐに指名して来てくれた。そんな誠実でいい人だった。歳が離れているので安心感があった。それにどことなく父親に似ているところがあってどこか懐かしさを感じたのを覚えている。
ただ、最後に店を辞める時には黙って連絡しなかった。お客としての関係が終わったからだ。通ってくれたお客はありがたい。来てくれるとなぜか満たされた気持ちになれた。
山路さんから普通に交際したいと言われたときは驚いた。何を考えてのことなのか想像もつかなかったが、嬉しい思いもあった。口から出まかせの冗談とも思ったので、即答を避けた。本当にそう思っているなら、また来てくれるだろう。
まだ10時を少し回ったところだ。歌を歌うこともなく二人の男性客が話し込んでいる。こういうときは静かに離れていることにしている。静かに話させてくれるところがいいというお客が少なくない。
落ち着いた40代位の見慣れないお客が一人入ってきた。静かに止まり木に座る。私はすぐにおしぼりを持って挨拶に行く。
お客が私の顔をじっと見ている。その顔が驚きの表情を見せると私もすぐに思い出した。私の驚いた顔を見て、彼も私が気付いたことが分かっただろう。
昔のなじみのお客だった。すぐに気を取り直してほほ笑んで「いらしゃいませ」と言った。
彼はどう言っていいか分からないみたいだったけど「こんばんは、ここは初めてです」と言った。
それを聞いて、私も「はじめまして、ママの寺尾《てらお》 凛《りん》です」と名刺を差し出した。すぐに彼も名刺をくれた。
返礼に名刺をくれる人は少ないので好意が感じられる。私はそれを両手で受け取ってじっと見ていた。有名企業の部長の肩書が書いてある。
「良いところにお勤めなんですね」
「そうかな、なんとか子供を育てていけるくらいの給料はくれたからね」
「お子さんは何人なんですか?」
「娘が一人いるけど、今年の3月に大学を卒業した。就職して大阪に住んでいるので、今は一人暮らしだ」
「奥様は?」
「10年前に無くした」
「そうだったんですか、お寂しいですね」
「家へ帰っても誰もいないので、ぶらぶらしていて偶然にここに寄せてもらった」
「ありがとうございます。これからもご贔屓にお願いします」
「水割りを作ってくれる? 薄めで頼みます」
「もう随分飲まれているんですか?」
「今日は招待する側だったから、そんなに飲んでいないけど、少し疲れた。ここが3次会かな」
他愛のない初めての客との会話が進む。他に客がいるので、彼も話を合わせてくれている。以前と変わらない優しさが見てとれる。安心した。
「ここはいつからやっているの?」
「この店は随分昔からあったと聞いていますが、私が勤めたのは2年前です。オーナーが高齢で引退したいと言うので、1年前にここを譲り受けました」
「一人でやっているの?」
「ええ、細々と。お陰さまでお馴染みさんも段々増えてきました」
カウンターの二人連れのお客が帰ると言っている。丁寧に挨拶してドアの外まで出て見送った。
私は戻るとすぐに看板の明かりを落としてドアをロックした。まだ、11時前で店を閉めるのには少し早いかもしれない。
「お久しぶりです。その節はお世話になりました」
「お世話になったのはこちらの方だよ、いつも癒されていたから」
「山路さんは本名だったんですね」
「君の名前は」
「名刺のとおりです」
「凛か、良い名前だね、響きがよくて」
「今日はゆっくりしていってください」
「急にいなくなったので、心配していたよ。身体を壊したのではないかとね」
「あの仕事に急に嫌気が差して、それにいつまでも続けることができないのは分かっていましたから」
「確かにそうだね、早く足を洗ってよかったかもしれないね」
「でもね、改めて働くとなると、どうしてもこういう水商売しかなかったの」
「水商売も立派な職業だ、あの仕事も人を癒してくれる立派な職業だと思うけど」
「普通の人はそうは思わないわ」
「人それぞれだからしかたがないさ」
「世間の目は厳しいのよ」
「僕は気持ちが沈んでいる時に癒してもらって随分助かった」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
「独り身?」
「私みたいな女を相手にしてくれる人はいません」
「もしそうなら、どうかな、僕と付き合ってくれないか?」
「付き合うって?」
「普通に付き合うってことだけど、休みの日にデートするとかそういうこと」
「私、男の人と普通に付き合ったことがないんです。男の人とはあの場所だけで、外では決して会わなかったし、会わないことにしていました」
「どうして?」
「店が禁止していたこともあるけど、情が移るといけないから」
「あくまで仕事上の関係としておきたかったの? きっと君のプライドがそうさせたんだね」
「いえ、先輩からもそう言われたからです」
「そういうものなんだ」
「悪い男に騙されないためと言われました」
「今はどうなの?」
「やはりお店以外でお客さんとお会いしたことはありません」
「それで付き合ってくれるの? 僕はよい男ではないかもしれないけど、君を騙したりはしない。普通に付き合いたいと思っているだけだ」
「しばらく考えさせていただくわ」
「いいよ、待っているから考えてみてほしい。だから今日はこれで帰る」
「もう帰るんですか、ゆっくりしていって下さい」
「また来てもいいかな? 君とのことは誰にも話すことはないから心配しないでいい。でも昔のことを思い出すから来てほしくないと思っているなら、もう二度と来ないと約束する」
「また来てください、お返事はその時にします」
「じゃあ、お会計お願いします。それと車を呼んでくれる?」
「お呼びしますが、大通りまで出ないといけませんけど」
「それでいいから、呼んでくれる」
私は車を呼んで大通りの車が待っているところまで送っていった。久しぶりに会ったけど、あのころと少しも変わっていなかった。少し寂しげなところもそのままだった。
私はああいう少し寂しげな人から好まれるみたい。まあ、私も同じようにああいうタイプに弱いと言うか好みだ。
3軒目のお店まで通ってくれたもう一人のお客が彼だった。初めにあったとき、40歳位に見えたが、年の割にこういうところが初めてだとすぐにわかった。
はじめてのお客は部屋に入ると部屋の様子を見て促されるまで立っていることが多い。促されてベッドに座ってからも私の顔をじっと見ていた。
「じっと見られると恥ずかしいです」
「ごめん、とても美人なので見とれていた」
「ありがとうございます」
それからも私の顔をじっと見ていた。そんなに見つめられることがなかったので印象に残った。
しばらくしてから指名して来てくれた。彼のことはすぐに思い出した。年は40歳前後で落ち着いた感じで、いつも私を見つめていたから。好みのタイプとも言えなくはないがいやみもなく普通のお客さんだった。
それから月に1回くらいはずっと必ず指名して来てくれた。大体の客は他の娘と浮気するのが常だが浮気もせずに私をずっと指名し続けてくれた。
私が店を替わったときも探して来てくれた。そして、次に店を替わる時には知らせてほしいと携帯の番号を教えてくれた。
だから次の店に替わった時は電話をして店名と電話番号と源氏名を教えた。彼はすぐに指名して来てくれた。そんな誠実でいい人だった。歳が離れているので安心感があった。それにどことなく父親に似ているところがあってどこか懐かしさを感じたのを覚えている。
ただ、最後に店を辞める時には黙って連絡しなかった。お客としての関係が終わったからだ。通ってくれたお客はありがたい。来てくれるとなぜか満たされた気持ちになれた。
山路さんから普通に交際したいと言われたときは驚いた。何を考えてのことなのか想像もつかなかったが、嬉しい思いもあった。口から出まかせの冗談とも思ったので、即答を避けた。本当にそう思っているなら、また来てくれるだろう。