今日は彼が早く帰ってきてくれた。いつもより1時間は早い。私の体調を心配してくれているのかもしれない。ここ1か月くらい体調が優れなかった。

彼は病院へ行くことを勧めてくれた。それで不調の理由が分かった。すぐに玄関へ迎えに行く。いつものように私の顔を見ると安堵の表情を見せて微笑んでくれる。それが嬉しい。

「今日は元気そうだね、安心した」

「ご心配をおかけしました。原因が分かりました」

「原因が分かった?」

「とりあえず着替えをして下さい」

彼が寝室で部屋着に着替えてリビングに戻ってくるのをソファーに腰かけて待っている。

「どうした?」

「赤ちゃんを授かりました」

「ええ、本当かい?」

「今日、病院へ行ってきました。妊娠3か月だそうです」

「それはよかった。身体を大切にしてほしい。この年になってパパになろうとはね」

「大丈夫ですか?」

「もちろん大丈夫だ。元気で働いて一人前に育てないといけない。この子が成人する時には、僕は65歳か、まだ働けるかな、いや働かなくてはいけない」

「大丈夫です。私も働きますから」

「働けなくなったらその時は頼むよ、でも二人のために頑張って働くよ」

「私は妊娠できるとは思っていませんでした。でもこうして子供を授かってみると女に生まれてよかったと思います。私を愛してくれる人の子供を産めるなんてこの上もない幸せですから」

「そう言われるとますます元気で働かなくちゃいけないな」

「無理をしないで下さいね」

「ああ」

それから今日病院であった恥ずかしい間違いを話した。

「内科へ行ったら産婦人科の方が良いと言われて、産婦人科の待合室で自分の番を待っていたんです。人が多くて長い時間待っていたら、マイクから山路さん、山路さんと呼ぶ声がしたの、山路さんは他にもいるんだと聞いていた。なかなか山路さんが行かないので、まだ呼んでいる。どうしたんだろう、早く行って、混んでいるんだからと思っていたの。そうしたら山路凛さん、山路凛さんと呼ばれて、はっとしたの、山路さんって私のことだって分かって」

「苗字が変ったから山路さんだろう」

「呼ばれるまで全く自覚がなかったの。いままで寺尾さんだったから」

「考え事でもしていた?」

「いえ、じっと名前を呼ばれるのを待っていました」

「寺尾凛と呼ばれるのを?」

「無意識にそうだったみたいです」

「国民健康保険から会社の健康保険に切り替えた時に保険証の名前を山路凛と確認していたはずだけど」

「保険証を渡された時、生年月日は確認しました。間違えていると困ると思ったから、名前まであえて確認していませんでした」

「もう大丈夫かい、山路凛と呼ばれても」

「これからは大丈夫です。すぐに返事できます」

「今分かったけど結構オッチョコチョイなんだね」

「実はそうなんです。ばれてしまいました」

「そういう少し抜けているところが大好きだ。こういう話を聞くと癒される」

「男の人ってこんなことで癒されるんですか?」

「会社で威勢のいいキャリアウーマンを使っているとね」

「ほのぼのとしていい話だ」

「私は複雑な気持ちです」

私を引き寄せて抱き締めてくれる。私はまだ若く妊娠してもおかしくない歳だった。でも私はあんな仕事をしてきたので子供は授からないかもしれないと思っていた。

だから入籍した時からあえて避妊はしなくてもいいと言った。彼もこの年で子供を作る能力が残っているか疑問だからと言ってそうすることになった。

私は、子供は天からの授かりものだから自然でいいと思っていた。それに愛し合う時は避妊なんかしない方がずっといいにきまっている。

私は彼に妊娠を告げることができてとても嬉しかった。母性と言うものはそういうものかもしれない。男には絶対に分からない。

でもこれでほっとした一面もある。それに彼が喜ぶことを確信していた。彼はこれで私が彼のそばを絶対に離れないと確信すると思ったからだ。

子は鎹《かすがい》とはよく言ったものだ。これまで彼はいつも、いつか家に帰ったら私が突然いなくなっているのではという一抹の不安があると言っていた。

やはり、昔突然行方をくらましたことが心の片隅にあって、時々彼を不安がらせていたみたいだった。

でも私を失いたくないと思っていてくれることが嬉しくてたまらなかった。これで安心させて上げられた。

妊娠中、私は以前にも増して妻らしくなったと思う。気持ちがとても落ち着いていつも穏やかだった。昼間は音楽を聴いて絵を描いているけど、どこかのセレブみたいだと思わず笑ってしまった。

でもこんな夢のような生活が続くのか怖いとも思っていた。元気な赤ちゃんが無事生まれるかとても心配だった。

そして、私は元気な男の子を生んだ。彼は出産に立ち会ってくれた。手を握って頑張れと言い続けてくれた。

生み終わった後、私は精も魂も尽き果てて意識が朦朧としていた。赤ちゃんの泣き声と彼がありがとうと言ってくれたのが聞こえた。それを聞くと私は涙が止まらなかった。

私が赤ちゃんを初めて抱いた時の嬉しさも初めてお乳をあげた時の喜びも誰にも分からないだろう。