3日の朝、目が覚めて山路さんの顔を見ていたら、それに気づいた山路さんが求めてくる。私は彼にしがみついてまた愛し合った。心地よい疲れが眠りを誘った。次に目が覚めたらもうお昼少し前だった。
「散歩しないか?」
「そうね、原宿の街でも歩いてみましょうか」
「人出が多いかもしれないけど、雑踏の中を二人で歩くのもいいんじゃないか」
「腕を組んで?」
「いや、手を繋いで」
「じゃあ簡単なお昼を作ります。オムライスお好きでしたね」
「ああ、大好きだ、作ってくれる?」
「二人分作ります」
私は身支度を整えるとすぐにキッチンに立って料理を始めた。山路さんは出来上がったオムライスを口に頬張るとおいしいと言って食べている。
食べ終えると二人で出かける。私はメガネをかけなかった。彼はこのままどこかで別れて帰るつもりでいると言った。
原宿の正月の雑踏の中を二人でそれを楽しむようにゆっくり歩いて行く。私は始め腕を組んでみたが、雑踏の中では手を繋いだ方が歩きやすいと分かった。
若いカップルと同じように手を繋いで雑踏の中を歩くのを楽しんでいる。こうして人混みの中で手を繋いでいると、大都会の中でも一人ではないという安心感がある。
私は店のウインドウを横目で見ながら、気に入った店があると近づいてウインドウの中を覗いたり、店の中に入ったりしている。彼はそれを見守りながら戻ってくるのを入口で待っていてくれる。
原宿駅近くの店から私が出ると見覚えのない男が話しかけてくる。30歳半ばくらいか? 山路さんがすぐに男の後ろにきた。私は男の肩越しに彼の顔を見ると彼も緊張した面持ち。私はきっと怯えているような顔をしていたと思う。
「ねえ、亜里沙じゃないか? 僕のこと覚えていない?」
「知りません。人違いです」
「いや、君は亜里沙だ、髪を短くしているけど間違いない」
「どうかしたの?」
「この人が」
「君は誰ですか、僕の家内に何か用ですか?」
「昔のなじみの女の子に似ているから声をかけました」
「怯えているじゃないか、失礼だろう」
「申し訳ありません。悪気があった訳ではありません。人違いでした。失礼しました」
男は恥ずかしそうにしてすぐにその場を去って行った。山路さんが私の肩に手をかけて顔を覗き込む。私はうつむいて泣いていた。涙が止まらなかった。
「大丈夫かい。悪かったね、街中へ誘っていやな思いをさせてしまったね」
「いえ、それよりもあなたの方がいやな思いをされたのではないですか」
「前にも言っただろう、そういうことは百も承知している。気にしていない」
私は山路さんに抱きついていた。これは雑踏の中でも人目に付く。きっと私たちを見ながら多くの人が通り過ぎているだろう。でもそうせずにはいられなかった。彼は私を守ってくれた。嬉しかった。
人混みの中で私に抱きつかれているけど彼も私を抱き締めていてくれた。会社の誰かに見られるかもしれないのに身動き一つしないでじっと抱き締めてくれている。嬉しい。
私はもう周りが気にならなくなっている。彼もそうかもしれない。どれだけの時間抱き合っていたか分からない。ほんの数秒かも知れないし、数分だったかも知れない。私は彼から離れて顔を上げた。
「あの男の顔、覚えていたの?」
「覚えていないの、でも亜里沙と言っていたから」
「覚えていないなら、なおさら知らんぷりしていればいい。怯えていないで、もっと強くならないと、でもこれからも僕が守るから安心していていい」
「家内って言ってくれてありがとう。嘘でも嬉しかった」
「本当に家内になってほしいと思っているからそう言っただけだ」
「ええっ」
「僕の妻になってほしいと思っている」
「それはできません。付き合っているだけで十分です」
「付き合っていても、また急にいなくなってしまうのではないかと心配している。もう二度と君を失いたくはない」
「もうそんなことはしませんから」
「結婚を考えてみてくれないか」
「本当にそんなことを思っているのですか?」
「君と僕は年が離れているし、娘もいる。すぐに返事してくれなくてもいい。よく考えてからでいいから、待っている」
「ありがとうございます。身に余る申し出ですが、しばらく考えさせてください」
「分かった」
「すみません。すぐにお返事できなくて」
「このまま、ここで分かれるのもなんだから、店まで送ろうか?」
山路さんは私の手を引いて歩き出す。私はうつむきながらついて行く。店の前で別れる時、私はまた彼に抱きついた。そうしたかったから。
そしてしばらく声を出して泣いた。彼は私の気持ちが治まるまで抱き締めていてくれた。それから私がドアの中に入るのを見届けてくれた。
部屋に戻ると疲れがどっと出た。2日間山路さんと一緒にいたこともそうかもしれないけど、さっきの男が話しかけてきたのが堪えた。それから、プロポーズされたことも頭が真っ白になって混乱が収まらない。
彼は妻帯者でもなく独身なので、付き合っていても不倫にはならない。私は愛人のようなままでよいと思っていた。磯村さんとの関係も続いている。これもお互いに束縛していない都合の良い愛人のようなものだ。
外で冷えた身体を温めるためにホットウイスキーを作ってゆっくり飲んでいると気持ちが落ち着いて来た。
山路さんからの突然のプロポ―ズがとても嬉しかったのは事実だ。なぜあのときすぐに承諾の返事をしなかったのだろう。
山路さんが衝動的にプロポ―ズをしたのではないかと思ったからだ。私もとっさに受けてしまっては彼も後戻りできなくなる。そう思って答えを待ってと言ったのだと思う。いや、よく考えると磯村さんとのこともあったからだと思う。
お腹が空いているのに気が付いて、夕食を 摂る。2人で食べた残り物だけど食べながら一緒に食べた時のことを思い出している。穏やかな二日間だった。
お参りに行って、ここへ来て、お節料理を作って、食べて、お風呂に入って、愛し合って、また、食事を作って、愛し合って、抱き合って眠って、二人で過ごすのはいいものだと思った。電話が入った。山路さんからだ。
「2日間も付き合ってくれてありがとう。もう大丈夫かい」
「はい、今、夕食を食べているところです」
「再来週の日曜日の晩は空いているよね」
「はい、日曜日の晩は予定がありませんから」
「それじゃあ、娘が帰ってくるので3人で会食しようと思う。是非、娘に会ってほしい」
「ええ、いいですが、娘さんは何とおっしゃっています?」
「会ってみたいと言っている」
「それならお会いします」
1月も早15日を過ぎた。そろそろ磯村さんが来てくれるころだ。金曜日の5時少し前に電話が入る。
「おめでとう。磯村です」
「おめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「今日、行ってもいかな?」
「いらしてください。待っています」
今日は10時半ごろにやってきた。店にはまだお客さんが大勢いた。
「今日は混んでいるんです。少し待っていてください」
「繁盛しているのはいいことだ。待っているから、お客さんを大切にしてほしい」
お客さんがすべて帰ったのは、12時少し前だった。こんなことはここへ通って初めてだった。
「ごめんなさいね、こんなに混むことは珍しいの、すぐに上に上がって下さい。すぐに行きますから」
磯村さんには、もう勝手は分かっているので、先に部屋に上がってもらった。店の後片付けをして少し遅れて上がっていった。
さすがに今日は少し疲れた。でもせっかく来てくれたのだからこれからの時間を大切にしたい。
「忙しかったから、疲れただろう。お風呂では僕が洗ってあげよう」
「お言葉に甘えさせていただきます。お願します」
私は今まで疲れていても疲れているところは見せないようにしていた。これはあそこで働いていた時から気を付けていた。私が疲れているのはお客さんとは関係ないことで、せっかく来てもらったのにそれじゃあ申し訳ないと思うからだ。
磯村さんは私が疲れていのに気付いてくれた。私のことを思ってよく見てくれているからだろう。
私が疲れていたのは、電話を受けてからずっと考え事をしていたからだと思う。山路さんからプロポーズされていることを磯村さんに話すべきか悩んでいた。
磯村さんに身体を洗ってもらっている今もどうするか悩んでいる。
お風呂から上がったところで、水割りで喉を潤す。このころには今日は話すのをやめようと決めていた。せっかくだから、何もかも忘れてただ愛し合いたいと思ったからだ。
いつものように二人は愛し合う。まず磯村さんが積極的に私を可愛がってくれる。
終わった後、磯村さんは私を後ろから抱いてくれている。私はその余韻に浸りながら、彼の回復を待っている。
「私のことどう思っている?」
「どう思っているって、好きだ。凜は身も心も癒してくれる」
「あなたも私の身も心も癒してくれているわ。ずっとこのままでいられたらと思っています」
「僕も君がいなくならない限りはこのままでいたいと思っている」
「急にいなくなったらどうします?」
「そんなことはないと思っている」
私は磯村さんに抱きついた。もう回復していてもいい時間だと思った。この時間を大切にしたい。
今度は私が磯村さんを好きなようにする。彼はそれを楽しみながら私と愛し合う。そして心地よい疲労の中で二人は眠りに落ちていく。
明け方、磯村さんが寝返りを打ったので目が覚めた。彼の寝顔を見ていると抱きついてしまった。大好き! 私が抱きついたので目を覚めました。
いつもなら彼の方が先に目覚めて、私を揺り起こして愛し合うところだった。けだるさの中でまた二人は愛し合う。
次に目が覚めたら8時を過ぎたところだった。磯村さんを起こさないように私はキッチンで朝食を作り始める。でもその音で目を覚ました。
「今日はいつもより早いね」
「今日は夕方に出かける予定がありますのでそうなったのかもしれません。気にしないで下さい。時間は十分ありますから」
「そうなの? 昨夜は忙しくて疲れているようだったけど、大丈夫?」
「十分に可愛がってもらったので、元気が出てきました。大丈夫です」
「じゃあ早めにお暇するよ」
「ゆっくりしていって下さい」
私はすっかり元気を取りもどしていた。好きな人に愛してもらうのが一番だ。私は幸せものかもしれない。二人の男の人に愛されている。なるようになる! なるようにしかならない! そう思うと気分が明るくなってくる。
一緒に朝食を食べたが、磯村さんは浮かない顔をしていた。私が昨夜からいつもとは違っていると感じたのかもしれない。
私は山路さんからプロポーズされているので、やっぱり嬉しくて、それが表情に出ているのかもしれない。
いつものように磯村さんはお礼を手渡して帰って行った。私は外まで出て見送った。磯村さんは直感的に何かを感じ取っていたかもしれない。いつもとは違って何度も振り向いて手を振っていた。
磯村さんは私が他の誰かとお付き合いしていることを薄々感じているのかもしれない。でもそうは思っても、またそう分かっても、磯村さんはそのことについて何か言ってくることはない。「ほかの人と付き合いのはやめてくれ」と言ってくれるのであれば、それはそれでとっても嬉しい。
ほかの誰かと付き合っているにしても、彼は絶対に言ってこない。結婚の約束をしている訳でもないし、恋人というわけでもない、せいぜい、愛人というような関係だからだ。
磯村さんは、今のところ、これ以上を望んでいない。これが彼らしいところでもあり、私の不満と言えは不満なところでもある。
今まではこれがベストの関係だった。ただ、山路さんにプロポーズされている今、私も踏ん切りをつけなくてはいけない。山路さんのためにも、磯村さんのためにも、そして私のために。
日曜日の午後6時に銀座のホテルのロビーで待ち合わせということだった。今日は和服にした。その方が年の割に落ち着いて見える。娘さんには良い印象を与えたい。
ホテルのロビーに入って行くとすぐに二人が待っているのが分かった。遠目に挨拶を交わして近づいて行く。娘さんが山路さんに何か言っている。娘さんはすらっとした美人で感じがよさそう。
「今日はご招待いただきありがとうございます。こちらが娘さんですね。初めまして、寺尾凜です」
「初めまして、山路《やまじ》栞《しおり》です。父がお世話になっています。今、父と話していたところです。亡くなった母にそっくりだと」
「お父さまもそうおっしゃるんですが、そんなに似ていますか」
「そっくり、なぜか懐かしい気がします」
「じゃあ、話は食事をしながらにしよう」
3人で最上階にあるメインダイニングへ向かう。席に着くとすぐに栞さんが私に問いかけてくる。
「父のどこが好きになったんですか」
「栞、最近付き合い始めたばかりだ。そんなこと聞くもんじゃない」
「お付き合いを始めたと言うのは、嫌いじゃないからでしょ」
「そうです。嫌いならお付き合いませんし、好意を持っているからです」
「真面目が取り柄の父ですので、どこが気に入られたのか知りたくて」
「お父さまはとても誠実な方です。私のような女に交際したいと申し込んでくれました。すべて承知していると言って、それに私を守ってくれるとまで言ってくれました。これほどまでに私を大切に思ってくれる人は今迄いませんでした」
「凜さんとお話ししていると、なぜ父があなたを好きになったのか分かります。父はあなたといると心が癒されるのでしょう」
「栞さんにそんなことを言われるとは思いませんでした。それはいつもお父さまが言われていることです」
「私もお話ししていると懐かしいような心が癒されるような気がします」
「亡くなられたお母さまに私が似ているからですか」
「そうかもしれませんし、そうでないかもしれません」
「うふふ、やはり親子ですね。お父さまと同じようなお答えです」
「父もそう言ったのですか」
「はい」
面白い親子だと思った。娘は父親を信頼しているのが言葉の端々でよくわかる。私も父子家庭だったから父親を信頼していた。ふと父親のことを思い出す。生きていれば60歳少し前のはず。
亡くなった母親に似ていると言われたけど、私には母親の記憶が乏しい。なぜだか分からない。でも今も私達を捨てて去っていった母親を疎ましく思っているから自然に記憶から消し去っているのかもしれない。
栞さんは私の過去の仕事やどうして父親と知り合ったのかついては聞かなかった。聞かれれば正直に話そうと思っていた。
彼に似て、そういうことはどうでもよいのかもしれない。過去にあったことよりも、これからどう生きていくことの方が大事に決まっている。
彼女も父子家庭だったから、私と考え方が似ているのかもしれない。男親は考え方がさっぱりしているし、娘はその影響を受けている。
栞さんは私に悪い印象を持たなかったみたいで安心した。私は娘さんの気性が分かってよかった。うまく付き合っていけそうだ。きっと親子は無理でも、友達付き合いか姉妹のような付き合いができると思う。
食事が進んでいく。私も緊張が解けてきて話しを楽しんでいる。栞さんの彼氏の話になった。私に相談したいことがあったら電話してもいいかと聞かれた。私は経験が豊富と思って相談にのってもらいたいらしい。
この辺については父親というのは頼りにされていないようだ。確かに私は母親か姉代わりとして、栞さんにとって頼りがいがあるかもしれない。食事が終わって別れ際に栞さんが私に言ってくれた。
「今日は私に会いに来ていただいてありがとうございました。お会いして父がプロポーズした訳が分かりました。どうか父をよろしくお願いします」
「私はお父さまにふさわしくない女です。でもできるだけお父さまのお力にはなりたいと思っています」
私はタクシーに乗って帰った。娘さんに会って良かったと思った。私は同じ父子家庭で育った娘として、栞さんの気持ちが良く分かった。彼女も私に同じ印象を持ったと思う。
バレンタインデーが近づいて来たが、特段いつもと変わりはない。なじみのお客さんがきた時のために、いわゆる義理チョコを準備しておく。これも商売の一環と割り切っている。
山路さんのためには本命チョコを準備しておくことも忘れていない。それに本命チョコをもう一つ準備してある。ここ2週間ばかりは山路さんの出張が重なって土日がつぶれて会えなかった。6時ごろに電話が入る。
「山路です。しばらく会ってないけど、元気にしている?」
「はい、元気です」
「今度の日曜日に会えないか?」
「なかなかお会いできませんでしたのでお会いしたいです」
「僕のマンションに来ないか?」
「はい、何か食事になるものを作りますから、準備していきます」
「何時ごろになる?」
「2時過ぎには行けると思います」
日曜日の2時少し前に彼のマンションに着いた。手には小さなバッグと駅前で買ったスーパーのレジ袋を提げている。部屋に入るとすぐに後ろから抱き締められる。
「しばらく会わないと、またどこかへ行ってしまうのではと思って心配になる」
「お付き合いいただいているので、今度は黙っていなくなることはありません。ご心配なく」
「それなら安心だけど」
「そんなに思っていただけるほどの女ではありません」
「こうして一緒にいると安心できる」
「はい、バレンタインのチョコレートです」
「ありがとう」
「夕食の準備まで時間があります。また、公園を散歩しませんか?」
「じゃあ、一回りしようか」
二人は散歩に出た。今日は天気が良くて散歩している人も多い。梅が咲いているが、他の草木はまだ冬姿のままだ。日差しが温かくなってきている。私から手を繋ぐ。
「本当にいいところですね。ここを散歩しているとのんびりします」
「僕も気に入っている。春は桜がきれいだし、夏は水辺が涼しい、秋には紅葉する。冬は日差しが温かい」
「ところで、あの返事、そろそろもらえないのかな?」
「本当に私みたいな女でいいんですか?」
「君の過去も承知の上だから、それ以上に君にはいいところがたくさんある。この先、他のいいところも、また気になるところも見つかるかもしれない。すべていいところばかりではないのは当たり前だ。すべて受け入れるしかないと思っている。僕にもいいところと、気になるところがあるだろう」
「いいところばかりですが」
「そのうち気になるところが見えてくると思う」
「そうかもしれません」
「一緒に住むと気になるところが見えてくる。でも受け入れてほしい」
「受け入れられると思いますが」
「君は会社勤めをしたことがないから分からないかもしれないけど、僕は今のポジションに付く前は人事で中途採用の担当をしていた。求職者に聞くと、僕の会社の良い条件の面しか見ていない。今いる会社に不満を持っているのでそれが満たされる条件しか見ていない。他の見えないところは今いる会社と同じと思っている。でも違う。見えない部分はたくさんあるし、それぞれの会社で違っている。入社して初めて見えなかったところが同じではないことに気が付く。そして前の会社の方にも良いところがいろいろあったと気が付くことになる。それでまた不満を持って辞めて行く人がいる。そういう人は次の会社でも不満ができて転職を重ねてしまう。結局、最初の会社が一番良かったという愚痴を聞いたことがある」
「私も数回お店を替わったことがあるので、おっしゃっていることは分かります」
「何事もすべていいところばかりではない。僕のまだ知らない面もあるだろう。それが分かったうえで、君にプロポーズしている」
「こんな私で良ければ、お受けいたします」
「ありがとう。娘も喜ぶと思う」
「君さえよければすぐにでも一緒に住みたいと思っているんだが」
「お店がありますが」
「一緒に住んで、家にいてもらえないか?」
「そうすると、店をやめなければなりませんが」
「僕のために家にいてほしい。絵でも何でも好きなことをしていていいから。我が儘かな」
「主婦になってほしいということですか」
「そうしてほしい」
「私には務まりそうもありませんが」
「そんなことはない。君は家庭的な女性だと思うし、いつもそばにいてくれるだけでいい」
「そこまで言って下さるのなら、分かりました。店を仕舞います。時間がかかりますが、いいですか?」
「ありがとう、僕の我が儘を聞いてくれて」
「私は誰かの奥さんになることはとっくに諦めていました。まして家にいてほしいと言ってくれる人が現れるなんて思ってもいませんでした。喜んでそうさせてもらいます。店は畳みます」
「それでいいんだね」
「はい。そうします。決めました」
気が付くといつの間にか池の周りを2周していた。それからマンションに戻った。
「娘は僕が君と結婚したら、部屋を開けると言っている。東京へ転勤になっても一人暮らしをしたいそうだ」
「そんなこと気にしないで、一緒に住みましょうよ」
「娘はもう十分に私のために生きてくれたのだから、これからは自分のために生きてほしいと言っている」
「お嬢さんはそう言われましたか。私はその気持ち分かります。私も父に育てられましたから」
「でも、本当に一緒に住んでもいいんですよ」
「まあ、娘にまかせようか」
「食事の支度を始めます。夕食はお好み焼にしてもいいですか」
「お好み焼?」
「はい、上手なんです、食べてみてください」
「お願いするよ」
「これはお店には出していません。あなただけのための料理です」
「僕だけのため?」
「父が好きだったんです。あなたにどうしても食べてもらいたくて」
「お父さんの代わりに?」
「あなたにはどこか父に似たところがあるんです。はっきりどこということは言えませんが、どこか懐かしいところがあるんです」
「それが僕の好きなところ?」
「それもあります。あなたといると、なぜか心が癒されて安心できます。この前も私を守ってくれるといってくれましたね」
「確かに、本心だけど」
「父も小さい時によく私を守ると言って抱き締めてくれました。これだけはよく覚えています。それだけで心が安らかになりました」
「こっちへおいで」
山路さんは私を引き寄せて強く抱きしめて「凛、君を守る」と言ってくれた。私は抱き締められたままじっと身体を委ねている。彼は気持ちが治まるまで私を抱き続けた。私は「料理の準備をしないと」と言って離れた。
彼は私のお好み焼がおいしいと言ってくれた。2枚焼いて二人で食べる。食べ終わるとまた2枚焼いて二人で食べる。
「上手だね。おいしい」
「そういってもらえると嬉しい。父もよくそう言って食べてくれました」
「私はあなたに父の面影をみているのかもしれません。ごめんなさい」
「それでいいじゃないか」
「僕も娘も亡くなった妻の面影をみているのかもしれないから」
「それでもいいんです」
「娘がそうかもしれないし、そうでないかもしれないといったのには僕も驚いた。そういう感じだから、気にしなくてもいいんじゃないかな、君は君だ。僕は君が好きだ」
「ありがとう。嬉しいです」
その晩も私は泊った。私は今ではすっかり二人でいることに慣れた。何も負担に感じない。自然に振舞っているだけでよかった。だからここにいると心が落ち着いている。山路さんが気を使ってくれているからだと思う。
私は店を引き継いでくれそうな人がいるから、当ってみると彼には伝えた。引継ぎができたらすぐにここへ引っ越してくるとも言った。
彼は引っ越して来たらすぐに式を挙げて入籍したい、それが僕の誠意だと言ってくれた。私は入籍だけで十分で静かに生活に入りたいので式はしないでいいと言った。
今日は今月最後の金曜日、6時に磯村さんから電話が入っていた。夕刻から春の冷たい雨が降って肌寒くて滅入るような夜だ。
こんな夜は誰もが早く家へ帰りたいと思うのだろう。お客さんが少ない。最後の二人連れのお客が帰ったので店を閉めようと思っていると、磯村さんが現れた。
「丁度いいころにいらっしゃったのね。寒くはないですか?」
いつものように、表の看板の明かりを落として、ドアにカギをかける。
「お湯割りを一杯作ってくれる?」
「今日は泊って行けるの? お話ししたいこともあるから」
「ああ、泊まって行くよ」
「話って何?」
「後でお話します」
磯村さんはゆっくりとお湯割りを空ける。促して部屋に上がってもらう。いつものようにシャワーを浴びるために浴室に案内する。私はすぐに服を脱いで入っていって身体を洗ってあげる。彼も身体を洗ってくれる。
二人は待てなくなって急いで浴室を出てベッドへ行って久しぶりに愛し合う。今日の私はこれが最後と思ったからいつもよりも気持ちが入ってしまう。私は抱きついたまま離れようとしなかった。彼は強く抱き締めていてくれる。
「今日、来てくれてよかった。最後のお別れができて」
「最後のお別れって?」
「私、今月いっぱいで店を閉めることにしたの。結婚することになったから」
「結婚! ええ、誰と?」
「あなたにはいつか言ったことがあると思うけど、もう一人あなたのように3軒目まで通ってくれた人がいたの」
「実はあなたとほとんど同じころに偶然にお店に来て」
「ほとんど同じころ? 偶然に? 不思議だけど何かのご縁だね」
「その時すぐに交際を申し込まれたの。足を洗ったのなら、普通に付き合ってくれと言って」
「それで」
「普通のお付き合いなんてずっとしたことが無くて、いいかなと思って、休みの日に会うことにしたの」
「プロポーズされたのはいつごろ?」
「2か月程前。お正月に会ったときだった。最初はお断りしたの、ああいう商売をしてきたからできませんと。でも、それは承知の上だからと言われた」
「君をすごく気に入っているんだね」
「あなたと同じように私といると癒されると言ってくれていました」
「やっぱり、そうか」
「彼は45歳、10年前に奥さんを亡くされて、娘さんがいたので、一人で育てて、今年大学を卒業して社会人になって一人立ちしたとか。2週間前に会わせてもらった」
「どうだった」
「彼は私のことを水商売していたことがあってその時に知り合ったと話していたみたい。確かに水商売だけど」
「それで」
「娘さんから、父は私を育てるために一人で頑張ってくれたので幸せになってもらいたいと思っていますので、これからよろしくお願いしますと言われました」
「父親思いの理解のある娘さんだね」
「私も母親が早くいなくなって父親に育てられたから、娘さんの気持ちは分からないでもないわ。私の父は再婚もしないで、それは私を可愛がってくれた。だから父の借金を返すために風俗で働くことにしたの」
「はじめて聞いた。何でここで働いているのかなんて、あえて聞かないからね」
「借金は1年で返せた。でも止められなかった」
「どうして?」
「お金も入るし、私自身Hが好きだと分かったから」
「確かに好きでないと続かない仕事かもしれないね」
「でもね、いやな人でも相手をしなくちゃいけないし、いつも好みの相手を待っていることがいやになってきて。今でもそう、あなたを待っているのが、待つことしかできなくなっている自分がいやになって」
「それでプロポーズを受け入れた?」
「待っていなくとも、彼はいつでもそばにいてくれるから」
「ごめん、君がそんな思いをしているとは気づかなかった。僕は自分のことしか考えていなかった」
「あなたにはあなたの生き方があるから、それでいいのよ」
「それでこれからどうするの?」
「店を閉じて、彼の家で二人一緒に住むことにしたの。主婦をしてほしいというの。主婦ってしたことがないから務まるかしら」
「君は料理が上手だから務まるよ」
「主婦になるなんて考えもしなかった」
「嬉しいんだろう」
「普通の暮らしをしてみたいと思っていたの。もうあきらめていたけど」
「よかったじゃないか、おめでとう。もう会えなくなるけど、幸せになってくれ。どこかのスナックに入ったら、また君がいたなんてことがないようにね」
「一緒にうまく暮らしていけるかどうか分からないけど、彼とやってみると決めたの。彼のためにも、私のためにも」
「僕は君が好きだけどプロポーズはできなかった。僕はそういう男だ。彼のような勇気がないんだ」
「あなたはこんな私を好きになってくれた。私はそれだけで十分で、時々来てくれれば、それだけでよかったのよ」
「でも、僕はとても彼には及ばない、いい男だよ、彼は、大事にしないとね」
「分かっています」
私はまた抱きついた。最後の逢瀬を惜しむように何度も何度も愛し合った。私は彼が好きだった。いつもきてほしかたった。でも彼にはそれが分かってもらえず、彼は私を待たせてばかりいた。彼も私のことが好きだったのは分かっていた。
もし結婚の話をしたときに、彼がそれをやめて僕と結婚してくれといったら、私はどう答えただろう? きっと、あなたと結婚しますと言ったに違いない。私は彼が好きだった。
でも彼はそうは言ってくれなかった。おめでとうと言って私から静かに去って行くことを選んだ。彼の言うとおり、彼には私と結婚する勇気がなかったのが分かった。それが普通だ。
山路さんは社会的地位もあるのに、こんな私にプロポーズしてくれた。もし私のことで山路さんに不都合なことでもあったらどうしたらよいか分からない。でもきっと山路さんにはすでにそういう時の覚悟ができているんだと思う。そう思うと山路さんを大切にしないといけない。
翌朝、目覚めると私はいつものように2人分の朝食を作った。きっといい奥さんになれると彼は言ってくれた。そして別れ際、いつものように握った何枚かの紙幣を私の手に握らせて言った。
「僕にはこんなことしかできなかった。だから君を失ったんだ。幸せになってほしい。さようなら!」
彼は私の元を去って行った。もう私の前には現れないだろう。そういう人だ。
山路さんと磯村さんとは再会してからは全く違った関係になっていた。山路さんは私と客の関係になることを始めから避けて嫌っていた。だから、店へは客としては決して来なかった。
磯村さんは始めからこれまでどおりの関係を継続して、私と客としての関係を望んでいた。若い彼としてはその方が、都合が良かったに違いない。私はあくまで愛人としてしか見られていなかったのだろう。それはそれで自然なことだと思っていた。むしろ、山路さんの方が変わった人なのだろう。
私は磯村さんが好きだった。あの、どこか寂しそうな陰が気になっていた。癒してあげたいようなそんな人だった。でも彼は自分の都合で月に1回くらい訪ねてきていた。お礼をするので自然とそうならざるを得なかったのだと思う。
私はお礼など最初から望んでいなかった。それより毎週でも来てほしかった。そしていつも彼を待っていた。でもこのごろは来る日が予測できるようになっていた。でも来てほしい時に着てくれないもどかしさは寂しさにつながる。
それに私には彼がいつか私を去っていくのではと言う不安があった。山路さんが私にいつも持っていた不安と同じものだと思う。
だから山路さんはいつも私とコンタクトを取っていてくれた。そして仕事でもないかぎり、日曜日毎に私を誘ってくれた。彼は私が突然いなくなるのが怖いと言っていたが、それほどまでに思っていてくれることが嬉しかった。
そのことが私を癒してくれる。私は癒されることに慣らされてしまったというか、そういう風に癒されることがとても心地よいことだと分かってきた。
彼なら私をきっと守ってくれる。そしていつでもそばにいて癒してくれる。だから彼のプロポーズを受け入れた。
磯村さんにはきっと彼を癒してくれるぴったりのいい人が見つかると思う。さようなら!
私は店仕舞いすることが決まったと山路さんに電話した。結婚と引越しの約束をしてから1か月ほど経っていた。店は昔親しかった仲間に譲渡することにした。それで引越しの日を決めた。
足を洗ってからは昔の仲間とはずっと連絡を絶っていた。仲良くしてくれた人やお世話になった人、面倒を見てくれた店の支配人などにも一切連絡を取らなかった。きっぱりと過去と決別するためと新しい生活を邪魔されないためだった。
ただ、ひとつだけ、スナックの前のオーナーとの約束があった。もし店を閉めるか譲りたいと思ったときには、昔の仲間に譲ってほしいと言われた。前のオーナーは、過去のある私がここで生きていけるようにと破格な値段で店の権利を譲ってくれた。
私は同い年だった「恵梨香」を探すことにした。彼女は最後の店の仲間で私と同じような理由からその店に移ってきていた。私とは気が合って時々一緒に飲みに行ったりしていたので気心は知れている。譲るのなら彼女をおいてほかに考えられなかった。そして彼女の器量なら店を引き継げると思った。
ただ、「恵梨香」は源氏名で本名も分からない。店に電話するとそのときの支配人がまだいたので「恵梨香」とようやく連絡をとることができた。足を洗いたいのならあなたに店を譲るというとすぐに譲り受けたいと言った。
すぐに店に来てもらって、引継ぎのために2週間ばかり店に通ってもらった。「恵梨香」はすぐに要領を覚えて店を引き継いでくれた。
彼女には前のオーナーからの約束を話して、同じようにそれを守ることを約束してもらった。それから、今後は一切連絡しないし、あなたのことを口外しないし、かかわらないとも伝えた。彼女はそれを承知した。
それに初めから彼女には、私が店を手放す理由や、これからどうするのか、どこで暮らすのかも一切話さなかった。「恵梨香」もそれを聞こうとしなかった。彼女にはその理由がよく分かっていた。
私は3月初めの日曜日に彼のマンションへ引っ越した。不要なものは「恵梨香」と相談して残してきたので、荷物は多くはなかった。二人の寝室とリビングにすべて収まった。
私は自分のセミダブルのベッドを持って来たいと山路さんに頼んだ。彼のもセミダブルだから2つ入れると寝室がベッドでいっぱいになる。まあ、いいかと、受け入れてくれた。これでゆっくり眠れる。私の衣類もクローゼットにすべて収まった。二人でソファーに座って一息入れる。
「ここにはもう死んだ妻のものは何一つないから」
「私は気にしていないけど、それであなたはいいの?」
「元々ここへは持ってきていなかったから。それにはじめは君に死んだ妻の面影を求めていたが、そのうちに思いが君自身に移って行った。今は君しか思い浮かばないようになった。君がいれば十分だ」
「そんなものかしら、『去る者は日々に疎し』ですか?」
「今の君との生活を大切にしたいだけさ。思い出の中で生きていくのは辛いものだからね」
「私も今日一日を大切にして生きていきたい。長い年月といえども今日の積み重ねですもの」
「君も昔のことはすべて忘れて今を生きていけばいい。何も怖がることはない。僕はこれからずっとそばにいて君を守る。だからそばにいてほしい」
「分かっています。もう決してそばを離れません」
引っ越した日から私は夕食を作った。二人で部屋にいたかったし、外出するのがいやだった。
「お好み焼のほかに是非食べていただきたいものがあります」
「何?」
「手づくりの餃子ですが、お嫌いですか」
「いや、餃子は嫌いじゃない。是非食べてみたい」
「これも父が好きだったんですが、それでもいいですか」
「もちろん、そんなこと気にしないでいいから」
「じゃあ、作ります。材料は仕入れて来てあります」
私は餃子を作って焼いた。ニンニクを入れてもいいかと聞くと大丈夫の答えが返ってきた。出来上がると結構な数になった。それから二人はビールで引越し祝いの乾杯をする。
「すみません、今日の料理はこれだけです。引越をしたばかりでこれしか準備できなくて」
「ビールと合うから、これだけで十分だね」
「食べてみてください」
「おいしい。味付けがいいからいくらでも食べられそうだ」
「あの時、ニンニクの匂いが気になりませんか」
「二人とも食べたのだから気にしなくていいんじゃないか」
「それならいいんですけど」
「私の餃子を喜んでもらえてよかった」
「僕とお父さんと重ね合わせている?」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
「僕と同じ返事だね」
「すみません、どうしてもあなたに父の面影を見てしまうのです。私ってファザコンですね」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
「また、そんな」
「娘と言うのはファザコンなものだと思う。一番身近にいた男性だからね。父親が好きな女性は男性を見る目があると思う」
「私自身は男性を見る目があるとは思っていませんけど」
「でも僕の申し込みを受け入れた」
「見る目があるっていうことを言いたいんですか?」
「すぐには分からないかもしれないけど、そのうち見る目があったと分かると思うし、分かるようにしたい」
「お願します」
山路さんが約束していたとおり、次の日に彼は休暇を取ってくれた。そして、二人で近くの区の特別出張所に婚姻届を出しに行った。
それから、結婚指輪を買いに出かけた。私は印だけの簡単なものでよいといったけれども彼は自分の気に入ったデザインのものを選んだ。私もそれが気に入った。1週間くらいで出来上がると言う。
二人だけの生活にはすぐに慣れてきた。朝6時に起きて雨の日でない限りは二人で公園を散歩する。健康のためと朝寝坊しないためと私が希望した。池を1周して帰ってくると朝食を作る。彼は朝食を食べて8時前に出勤する。
私はそれから洗濯と掃除をする。そしてまた池の周りを散歩する。その時に絵を描いたりすることもある。午後は近所のスーパーへ買い物に出かける。それからゆっくり食事の支度にとりかかる。
彼の帰宅は大体8時ごろになる。私は食べずに待っている。遅くなっても必ず帰ってきてくれるという安心感がある。ドアの鍵のあく音がするとほっとする。それから二人で今日あったことなどを話しながら食事をする。毎日できるだけ違う献立の夕食を考えている。
彼ははじめ、後片付けの手伝いをしようしたが、私は座っていて下さいといって一切させなかった。だから今ではリビングのソファーに座ってそれを見ている。私は見守ってくれるのが嬉しくてゆっくり後片付けをする。
それから二人ソファーに座って、一休み。彼がレギュラーコーヒーを入れてくれる。それがとてもおいしい。店で出していたコーヒーよりはるかにおいしい。昔からずっと自分で入れて飲んでいると言う。
コーヒーが好きだなんて知らなかった。どうしていれてくれなかったのと聞いたら、結婚前はすぐに抱き合っていたから入れる暇がなかったとのことだった。納得。
お風呂には必ず二人で入る。ここのお風呂は大きめだからゆっくり入れる。お互いに身体を洗い合う。私はお風呂が楽しい、もともとお風呂が好きだったのかもしれない。
彼はいつも私の身体をじっと見ている。恥ずかしいと言うときれいだからみとれているという。そして、私の肌は触ると指が吸い付くように柔らかいと言った。
そして、寝室の二人の大きなベッドで愛し合う。彼が疲れていると思った時には私は積極的に愛してあげることにしている。
そして終わった後、上に覆いかぶさったまま抱きついて眠る。朝、目が覚めると降ろされて横から抱きついている。
それから、お互いに抱き合って眠る時もあれば、離れて眠る時もある。離れて眠っても明け方は抱き合っていたりする。臨機応変、気を使うこともなくゆっくり眠れる。もうすっかり長い間連れ添った夫婦みたいになっている。
「君は毎日の僕の気分や体調が分かっているみたいで感心する」
「帰ってきた時の玄関での様子で分かるんです。仕事が忙しかったとか、疲れているとか、面白くないことがあったとか」
「君に余分な気を使わせたくないから、できるだけそれが分からないように振舞っているつもりだけど」
「長い間、客商売をしてきましたから、顔を見ただけで直感的にというか分かるんです。それにあなたは私だけの大切なお客様ですから」
「だからいつも君と会うと癒されていたんだな」
「私は誰にでもできることだと思っていますが」
「いや、それはすごい特技だと思う。妻にして本当に良かった」
「そう言って褒めてくださると嬉しいです」
「でも僕はまだお客様なの?」
「はい、唯一人のお客様です」
「もうお客様はやめにしてもいいんじゃないか」
「でも、あなたもまだ私をお客様扱いしているみたいだから」
「大切な奥さんだからね」
「それなら私もやめません」
「まあ、それもいいかな」
「でも私のことを君と言うのはやめてください。凛と呼んでください」
「名前を呼ぶのを遠慮していたかもしれない、これからは凛と呼ばせてもらうよ」
「そうしてください。遠慮はいりません」
「それなら、僕のことを時々山路さんと言うのもやめてほしい。それにあなたよりも名前で呼んでくれてもいいけど」
「とても名前では呼べません。それなら旦那様ではどうですか?」
「勘弁してくれ、それじゃあまるで、お妾さんから呼ばれているみたいだから」
「私の大事な旦那様という歌もあるくらいだからいいじゃないですか」
「勘弁してくれ、じゃあ、今呼んでくれているあなたでいいよ」
私は徐々に気持ちが穏やかになっている。彼は私が綺麗になってきたと言ってくれる。角がとれた丸みのあるしなやかな美しさ、柔らかなほっとするような美しさだと言ってくれる。じっと見つめているので聞いてみる。
「じっと私を見ていますが、何を考えているんですか?」
「綺麗になったと思って」
「本当に綺麗になりましたか? そうなら、ここでの生活にもなれて、ゆとりができたからかもしれません」
「何かしてほしいことはないの?」
「今のままでいいですけど」
「昼の間はどうなの? 暇を持て余している?」
「そうでもないです。時間があるとぼっーとしています。そうすることが好きですから」
「それならいいけど、休みの日にはどこかへ出かけようか」
「二人でここにいるのがいいです。二人で池の周りをゆっくり散歩するのが一番です」
「つまらなくない?」
「こんなのんびりした生活は私には贅沢です。楽しませてもらっています」
「贅沢というならそれでいいけど。僕は家に帰って君が出迎えてくれるだけでいい」
「私もあなたが毎日そばにいてくれて心が満たされています。待っていても、夜遅くなっても、必ず私の元へ帰ってきてくれますから。いつ来てくれるかと思いながら待たなくてもいいから、安心して待っていられます」
「必ず帰ってくるから、君ももうどこへも行かないでそばにいてほしい」
「もう、あなたの妻になったのですからずっとそばにいます。安心してください」
「世間ではこれを平凡な生活と言うけど、平凡な生活ってなかなか難しいと思う。僕は平凡な生活が今迄ほんの短い間しかできなかった」
「私はこんな平凡な生活ができるなんて思ってもみませんでした」
「平凡って難しいね、平凡に見えているだけで平凡でなかったりしてね」
「平凡に生活するのが難しい世の中になっているのかもしれません」
「そう、平凡の中に入らないケースが増えているんだろうね」
「私たちだって、私は平凡な女じゃないし、あなたも奥さんを亡くされているし、こうしている私たち二人は決して平凡じゃない、特別だと思います」
「でもはたから僕たちを見るときっと平凡に見えるし、現に平凡な暮らしをしている」
「私はこんな暮らしを夢見て憧れていました。一方ではとうにあきらめていたので、今は夢の中で暮らしているみたいです」
「地に足が着いていない?」
「ふわふわした気持ちですが、心地よいです」
「この先も二人で平凡に暮らしていけることを祈るだけだ」
「私もそう思っています」
彼が私を抱き寄せる。私は身体を預ける。二人寄りかかってこの二人だけの時間を楽しんでいる。
今日は彼が早く帰ってきてくれた。いつもより1時間は早い。私の体調を心配してくれているのかもしれない。ここ1か月くらい体調が優れなかった。
彼は病院へ行くことを勧めてくれた。それで不調の理由が分かった。すぐに玄関へ迎えに行く。いつものように私の顔を見ると安堵の表情を見せて微笑んでくれる。それが嬉しい。
「今日は元気そうだね、安心した」
「ご心配をおかけしました。原因が分かりました」
「原因が分かった?」
「とりあえず着替えをして下さい」
彼が寝室で部屋着に着替えてリビングに戻ってくるのをソファーに腰かけて待っている。
「どうした?」
「赤ちゃんを授かりました」
「ええ、本当かい?」
「今日、病院へ行ってきました。妊娠3か月だそうです」
「それはよかった。身体を大切にしてほしい。この年になってパパになろうとはね」
「大丈夫ですか?」
「もちろん大丈夫だ。元気で働いて一人前に育てないといけない。この子が成人する時には、僕は65歳か、まだ働けるかな、いや働かなくてはいけない」
「大丈夫です。私も働きますから」
「働けなくなったらその時は頼むよ、でも二人のために頑張って働くよ」
「私は妊娠できるとは思っていませんでした。でもこうして子供を授かってみると女に生まれてよかったと思います。私を愛してくれる人の子供を産めるなんてこの上もない幸せですから」
「そう言われるとますます元気で働かなくちゃいけないな」
「無理をしないで下さいね」
「ああ」
それから今日病院であった恥ずかしい間違いを話した。
「内科へ行ったら産婦人科の方が良いと言われて、産婦人科の待合室で自分の番を待っていたんです。人が多くて長い時間待っていたら、マイクから山路さん、山路さんと呼ぶ声がしたの、山路さんは他にもいるんだと聞いていた。なかなか山路さんが行かないので、まだ呼んでいる。どうしたんだろう、早く行って、混んでいるんだからと思っていたの。そうしたら山路凛さん、山路凛さんと呼ばれて、はっとしたの、山路さんって私のことだって分かって」
「苗字が変ったから山路さんだろう」
「呼ばれるまで全く自覚がなかったの。いままで寺尾さんだったから」
「考え事でもしていた?」
「いえ、じっと名前を呼ばれるのを待っていました」
「寺尾凛と呼ばれるのを?」
「無意識にそうだったみたいです」
「国民健康保険から会社の健康保険に切り替えた時に保険証の名前を山路凛と確認していたはずだけど」
「保険証を渡された時、生年月日は確認しました。間違えていると困ると思ったから、名前まであえて確認していませんでした」
「もう大丈夫かい、山路凛と呼ばれても」
「これからは大丈夫です。すぐに返事できます」
「今分かったけど結構オッチョコチョイなんだね」
「実はそうなんです。ばれてしまいました」
「そういう少し抜けているところが大好きだ。こういう話を聞くと癒される」
「男の人ってこんなことで癒されるんですか?」
「会社で威勢のいいキャリアウーマンを使っているとね」
「ほのぼのとしていい話だ」
「私は複雑な気持ちです」
私を引き寄せて抱き締めてくれる。私はまだ若く妊娠してもおかしくない歳だった。でも私はあんな仕事をしてきたので子供は授からないかもしれないと思っていた。
だから入籍した時からあえて避妊はしなくてもいいと言った。彼もこの年で子供を作る能力が残っているか疑問だからと言ってそうすることになった。
私は、子供は天からの授かりものだから自然でいいと思っていた。それに愛し合う時は避妊なんかしない方がずっといいにきまっている。
私は彼に妊娠を告げることができてとても嬉しかった。母性と言うものはそういうものかもしれない。男には絶対に分からない。
でもこれでほっとした一面もある。それに彼が喜ぶことを確信していた。彼はこれで私が彼のそばを絶対に離れないと確信すると思ったからだ。
子は鎹《かすがい》とはよく言ったものだ。これまで彼はいつも、いつか家に帰ったら私が突然いなくなっているのではという一抹の不安があると言っていた。
やはり、昔突然行方をくらましたことが心の片隅にあって、時々彼を不安がらせていたみたいだった。
でも私を失いたくないと思っていてくれることが嬉しくてたまらなかった。これで安心させて上げられた。
妊娠中、私は以前にも増して妻らしくなったと思う。気持ちがとても落ち着いていつも穏やかだった。昼間は音楽を聴いて絵を描いているけど、どこかのセレブみたいだと思わず笑ってしまった。
でもこんな夢のような生活が続くのか怖いとも思っていた。元気な赤ちゃんが無事生まれるかとても心配だった。
そして、私は元気な男の子を生んだ。彼は出産に立ち会ってくれた。手を握って頑張れと言い続けてくれた。
生み終わった後、私は精も魂も尽き果てて意識が朦朧としていた。赤ちゃんの泣き声と彼がありがとうと言ってくれたのが聞こえた。それを聞くと私は涙が止まらなかった。
私が赤ちゃんを初めて抱いた時の嬉しさも初めてお乳をあげた時の喜びも誰にも分からないだろう。
私達の赤ちゃんが生まれてもう3か月経った。出産後は実の母親がいると娘の面倒をみてくれるのだが、私には母親がいない。それで、私が病院から1週間ほどで自宅へ戻るのに合わせて、彼は会社に1週間の育児休暇を申請してくれた。
そんなことをすると出世に差し障るからしないでと言ったが、気にしないでしたいようにさせてくれと言って聞き入れなかった。休暇中は1日中付き添って私と赤ちゃんの世話をしてくれた。とてもありがたかったし、嬉しかった。
このごろ私は子育てにもすっかり慣れてきた。幸い乳の出もよく母乳だけで育てている。私が息子に乳を飲ませている時の幸せそうな顔を見ているのが好きだと彼は言っている。二人ともとても愛おしい僕の宝物だとも。
今日は天気もいいので私と赤ちゃんを銀座に連れて来てくれた。丁度歩行者天国で歩きやすい。私は3か月になる息子を胸に抱いて歩いている。栞さんが誕生祝いに買ってくれたベビー服を着せている。
彼は二人のようすを横目で見ながら紙おむつなどが入ったバッグを持って歩いている。子供が生まれたせいかこのごろ少し若返ったように見える。
久しぶりに銀座へ来た。私にとっていつも憧れの街だった。私が子育てに一生懸命で、気分転換に行ってみてはどうかと誘ってくれた。
婚約指輪を買っていないので、男の子を生んでくれたお礼と記念にプレゼントしたいといって、高価なブランドの指輪を買ってくれた。左手の薬指の指輪がそれだ。
私はすっかり落ち着いた気持ちで銀座の歩行者天国の人混みの中を歩いている。以前のようにメガネをかけることもなく、自信に満ちて歩いている。子供を産むことで女は自信を持って強くなれるのだと思う。私も母親になれたんだ。
正面から手をつないだカップルが歩いてきた。すぐに磯村さんだと気が付いた。可愛い女の子と仲良く手を繋いでいる。その女の子は以前一緒に店に来たことがある地味な女の子だと分かった。随分垢抜けて可愛くなっている。
彼も私に気付いてじっと私を見つめている。私は彼が話しかけてこないと思っている。
あっという間にすれ違った。その時、私は目をつむって挨拶した[私はこんなに幸せです。心配しないで]。彼も目で挨拶した[幸せそうで安心した]。山路さんはそれに気が付いたのか後ろを振り向いている。
「今の男、君をじっと見ていたけど」
「お分かりになりましたか。昔のなじみです。あなたと同じように3軒目まで通ってくれました。あなたが偶然お店へ来る少し前にやはり彼も偶然店に来たんです」
「彼だったのか」
「あの人は、あなたと同じように、私とのことは口外しないし、迷惑ならもう来ないと言ってくれるような優しい人でした。来ても構わないと言うと月に1度くらい店に来てくれました。お客も連れて来てくれました。隣にいた女の子を店へ2回ほど連れて来ていました」
「彼は声をかけなかったね」
「3人で幸せそうに歩いていたからでしょう。そういう人です。あなたと同じ優しさがありましたから」
「好きだったのか?」
「好きじゃなかったと言ったら嘘になりますね」
「結婚したことを知っているのか?」
「店を閉める数日前に丁度店に来たので、あなたと結婚することになったから店を閉めると言いました」
「彼は何て?」
「おめでとうって言ってくれました。そしてあなたには勇気があると言っていました、そして私が好きだけど自分にはプロポーズする勇気がなかったとも。でも私が本当に幸せになれるか心配してくれていました」
「君から目を離さなかった」
「私が赤ちゃんを抱いて幸せそうにしていたので安心したと思います。そんな目で私を見ていましたから。別れ際に、どこかのスナックに入ったらまた君がいたってことが無いように願っていると言っていましたから」
「そんなことは僕が絶対にさせない」
「先のことは分かりませんが、あなたとこれからも一日一日を大切に生きていくだけです」
私は彼にきっぱりとそう言った。そして赤ちゃんを抱いてゆっくり歩いていく。以前のように人混みの中で怯えたりはもうしない。一人の女として、妻として、母としての自信に満ちて歩いている。
これも山路さんのお陰だ。彼との一日一日の生活を大事にして過ごしていきたい。それが彼へしてあげられるすべてだ。
人に言えない過去を持つ私がその過去に係わる二人の男性の間で揺れながらも女の幸せを掴むまでのお話はこれでお仕舞いです。めでたし、めでたし。