—1—
最寄りの駅から3駅行った所にある普通科の高校に進学した僕は、部活に所属するわけでもなく、積極的に友達作りをするわけでもなく、極々平凡な日常を送っていた。
自分から変化を求めなければマイナスな出来事が起こる可能性も低い。
いつしか僕の目に映る世界は色の無い、灰色の世界と化していた。
無意識にあらゆるリスクを避けるようになったので、突拍子なイベントが発生するはずもなく、そのせいで喜怒哀楽という感情が表に出ることが少なくなってしまった。
それが良いことなのか、悪いことなのかは今の僕には分からない。
入学してから2ヶ月経つが、同学年の生徒の半分の顔も覚えていない。
同じクラスの生徒でさえ話したことがあるのは一握りだ。
自分のペースで徐々に交友関係を広げていけばいいと考えているうちに出遅れてしまっていた。
もう今更取り返しはつかない。
6月中旬。
高校に入ってから初めてのテスト期間に突入した。
クラスメイトは放課後を利用して同じ部活の仲間や打ち解けた男女でペアを作り勉強会を開いている。
当然だが、日陰モノの僕に声が掛かることはない。
いくら僕の周囲を取り巻く環境が変化しようと、僕自身には関係のないことだ。
もちろん、僕も思春期を迎えた男子高校生であるから羨ましいと思う気持ちが全く無いと言ったら嘘になるけれど、今さら輪に加わろうという気にもならない。
そもそも僕なんかを受け入れてくれるグループがあるはずもない。
そうして、テスト本番を翌日に控えたある日の朝。
通学鞄を背負い、玄関で靴を履こうとしていると母が話しかけてきた。
「瑠衣、そういえば昨日美緒ちゃんのお母さんに会ったわよ」
「美緒?」
聞き間違いかと思い、靴にかけていた手を止めて振り返る。
「瑠衣が小学2年生の頃に引っ越しちゃった美緒ちゃんよ。最後に夏祭りに行ったでしょ」
「ああ、でもどこで?」
美緒は県外に引っ越すと聞いていた。
母は昨日は夕方まで仕事だったから県外に行ける訳がないし、だとすれば美緒の母親が用事か何かでこっちに来ていたと考えるのが自然か。
「スーパーで買い物をしてたらなんか見覚えのある人がいるなーと思って見てたら向こうから話しかけてくれたのよ。望月さん、仕事の都合で去年からまたこの辺りに引っ越してきたみたいよ」
「そうなんだ」
頭の奥底に封印していた美緒の記憶が鮮明に蘇ってくる。
近くに引っ越して来たなら1度くらい会いに来てくれればよかったのに。
いや、あれから7年も経っているんだ。
僕にとっては美緒と過ごした日々はとてつもない大きな出来事だったけど、美緒も僕と同じように考えているとは限らない。
言ってしまえば小学校低学年の時の話だ。
普通であれば忘れていてもおかしくはない。
それでも、近くに住んでいるということが分かった以上、美緒に会って話をしたい。
たとえ美緒が僕のことを忘れていたとしても。
それが僕の今の素直な気持ちだった。
「あら、やっぱりその様子だと会ってないのね」
母の言葉を受けて僕の頭に疑問符が浮かぶ。
「美緒ちゃん、瑠衣と同じ高校に通ってるんだってよ。学校で会わなかった?」
「会ってない、な」
もしかしたら僕が気づいていないだけで廊下や昇降口ですれ違っていたのかもしれない。
周囲から目を逸らして生きてきたことがこんな時に裏目に出るなんて。
僕は今まで何をやっていたんだ。
「行ってきます!」
同じ高校に美緒が通っていると分かっただけで、心なしか足取りが軽い。
同じクラスではないはずだから隣のクラスか、はたまたその隣のクラスか。
なんの当てもなく探すのは結構難易度が高いな。
そんなことを考えながら駅に向かって歩いていると、道路の真ん中で小学生3人組が地面を見つめて戯れていた。
「なんだよこれ?」
「空から降ってきたし、カラスからの贈り物?」
「2人共、汚いから触っちゃダメだよ」
眼鏡をかけた真面目そうな男子が2人を注意すると、2人は地面に落ちていた何かから興味が無くなったのか石を蹴って走り始めた。
「なんだったんだ?」
僕は後ろに人がいないことを確認してから小学生が話していた場所に腰を下ろした。
電柱で休んでいたカラスが僕のことを見下ろして、カーカーと鳴いている。
「これって……」
落ちていた物を拾って自分の胸に押し当てた。
何とも言えない感情が込み上げてくる。
『探し物って忘れた頃に見つかるらしいよ。だから今いくら必死に探したところで出てこないんじゃないかな』
美緒の言葉が脳内で再生された。
酷く錆びているが間違いない。
これは7年前に僕と美緒が必死に探していたネズミのストラップだ。
美緒とお揃いの、僕と美緒を繋ぐ大切な物だ。
今朝の母の話といい、ストラップといい、こうも偶然は重なるものなのだろうか。
しかし、実際にこうして立て続けに起きているのだから僕は受け入れるしかない。
偶然が続けばそれは運命だと信じざるを得ない。
僕は自分の直感を信じてひたすらに突き進むしかないのだ。
電車に揺られ、高校の正門を抜け、下駄箱で上履きに履き替える。
そして、何かに導かれるかのように図書室の前へと足を進めるとゆっくりとドアを開いた。
「美緒?」
高校生になった美緒はテーブルに頬杖を付き、ムスッとした表情を浮かべていた。
「久し振りだね瑠衣」
ぱっちりとした瞳にふっくらとした可愛らしい唇。肩まで伸びた黒髪は耳にかけていて後ろに流している。
7年経ってすっかり大人っぽい見た目になったが、当時の面影は残っている。
ダメだ。言葉が出てこない。
僕はずっと美緒に会いたかった。
美緒が転校してからしばらくの間、どの景色を見ても美緒のことを思い出していた。
美緒と過ごした楽しかった日々を。
しかし、その楽しかった日々は2度と戻っては来ない。
そう思うようになってからは美緒のことを思い出すのが辛くなった。
だから無理矢理楽しかった記憶に蓋をしようとしたんだ。
結果的にかなり時間が掛かってしまったけど、忘れることができた。
いいや、忘れたという表現は少し違うな。
初めから僕の人生に望月美緒という人物はいなかったと自己暗示をかけていたのかもしれない。
そうでもしないとあの頃の僕はやっていけなかったのだ。
会いたかった人が目の前にいる。
こんな幸せなことはない。
「探し物は見つかった?」
「ああ、今見つけた」
そう答えた僕の目から涙が溢れてきて、視界に映る美緒がぼやけた。
「遅いよバカ」
美緒が立ち上がり、僕の前まで小走りで移動すると、優しく僕の胸をグーで突いた。
そうは言っても仕方がない。
それだけ僕の中の君という存在が忘れられないほど大きかったんだ。
「瑠衣、またよろしくね」
美緒が上目遣いで恥ずかしそうにはにかんだ。
その瞳が涙で潤んでいた。
「ああ、こちらこそよろしく」
頬に流れた美緒の涙を右手で拭った。
今年の夏は忘れられない夏になりそうだ。
最寄りの駅から3駅行った所にある普通科の高校に進学した僕は、部活に所属するわけでもなく、積極的に友達作りをするわけでもなく、極々平凡な日常を送っていた。
自分から変化を求めなければマイナスな出来事が起こる可能性も低い。
いつしか僕の目に映る世界は色の無い、灰色の世界と化していた。
無意識にあらゆるリスクを避けるようになったので、突拍子なイベントが発生するはずもなく、そのせいで喜怒哀楽という感情が表に出ることが少なくなってしまった。
それが良いことなのか、悪いことなのかは今の僕には分からない。
入学してから2ヶ月経つが、同学年の生徒の半分の顔も覚えていない。
同じクラスの生徒でさえ話したことがあるのは一握りだ。
自分のペースで徐々に交友関係を広げていけばいいと考えているうちに出遅れてしまっていた。
もう今更取り返しはつかない。
6月中旬。
高校に入ってから初めてのテスト期間に突入した。
クラスメイトは放課後を利用して同じ部活の仲間や打ち解けた男女でペアを作り勉強会を開いている。
当然だが、日陰モノの僕に声が掛かることはない。
いくら僕の周囲を取り巻く環境が変化しようと、僕自身には関係のないことだ。
もちろん、僕も思春期を迎えた男子高校生であるから羨ましいと思う気持ちが全く無いと言ったら嘘になるけれど、今さら輪に加わろうという気にもならない。
そもそも僕なんかを受け入れてくれるグループがあるはずもない。
そうして、テスト本番を翌日に控えたある日の朝。
通学鞄を背負い、玄関で靴を履こうとしていると母が話しかけてきた。
「瑠衣、そういえば昨日美緒ちゃんのお母さんに会ったわよ」
「美緒?」
聞き間違いかと思い、靴にかけていた手を止めて振り返る。
「瑠衣が小学2年生の頃に引っ越しちゃった美緒ちゃんよ。最後に夏祭りに行ったでしょ」
「ああ、でもどこで?」
美緒は県外に引っ越すと聞いていた。
母は昨日は夕方まで仕事だったから県外に行ける訳がないし、だとすれば美緒の母親が用事か何かでこっちに来ていたと考えるのが自然か。
「スーパーで買い物をしてたらなんか見覚えのある人がいるなーと思って見てたら向こうから話しかけてくれたのよ。望月さん、仕事の都合で去年からまたこの辺りに引っ越してきたみたいよ」
「そうなんだ」
頭の奥底に封印していた美緒の記憶が鮮明に蘇ってくる。
近くに引っ越して来たなら1度くらい会いに来てくれればよかったのに。
いや、あれから7年も経っているんだ。
僕にとっては美緒と過ごした日々はとてつもない大きな出来事だったけど、美緒も僕と同じように考えているとは限らない。
言ってしまえば小学校低学年の時の話だ。
普通であれば忘れていてもおかしくはない。
それでも、近くに住んでいるということが分かった以上、美緒に会って話をしたい。
たとえ美緒が僕のことを忘れていたとしても。
それが僕の今の素直な気持ちだった。
「あら、やっぱりその様子だと会ってないのね」
母の言葉を受けて僕の頭に疑問符が浮かぶ。
「美緒ちゃん、瑠衣と同じ高校に通ってるんだってよ。学校で会わなかった?」
「会ってない、な」
もしかしたら僕が気づいていないだけで廊下や昇降口ですれ違っていたのかもしれない。
周囲から目を逸らして生きてきたことがこんな時に裏目に出るなんて。
僕は今まで何をやっていたんだ。
「行ってきます!」
同じ高校に美緒が通っていると分かっただけで、心なしか足取りが軽い。
同じクラスではないはずだから隣のクラスか、はたまたその隣のクラスか。
なんの当てもなく探すのは結構難易度が高いな。
そんなことを考えながら駅に向かって歩いていると、道路の真ん中で小学生3人組が地面を見つめて戯れていた。
「なんだよこれ?」
「空から降ってきたし、カラスからの贈り物?」
「2人共、汚いから触っちゃダメだよ」
眼鏡をかけた真面目そうな男子が2人を注意すると、2人は地面に落ちていた何かから興味が無くなったのか石を蹴って走り始めた。
「なんだったんだ?」
僕は後ろに人がいないことを確認してから小学生が話していた場所に腰を下ろした。
電柱で休んでいたカラスが僕のことを見下ろして、カーカーと鳴いている。
「これって……」
落ちていた物を拾って自分の胸に押し当てた。
何とも言えない感情が込み上げてくる。
『探し物って忘れた頃に見つかるらしいよ。だから今いくら必死に探したところで出てこないんじゃないかな』
美緒の言葉が脳内で再生された。
酷く錆びているが間違いない。
これは7年前に僕と美緒が必死に探していたネズミのストラップだ。
美緒とお揃いの、僕と美緒を繋ぐ大切な物だ。
今朝の母の話といい、ストラップといい、こうも偶然は重なるものなのだろうか。
しかし、実際にこうして立て続けに起きているのだから僕は受け入れるしかない。
偶然が続けばそれは運命だと信じざるを得ない。
僕は自分の直感を信じてひたすらに突き進むしかないのだ。
電車に揺られ、高校の正門を抜け、下駄箱で上履きに履き替える。
そして、何かに導かれるかのように図書室の前へと足を進めるとゆっくりとドアを開いた。
「美緒?」
高校生になった美緒はテーブルに頬杖を付き、ムスッとした表情を浮かべていた。
「久し振りだね瑠衣」
ぱっちりとした瞳にふっくらとした可愛らしい唇。肩まで伸びた黒髪は耳にかけていて後ろに流している。
7年経ってすっかり大人っぽい見た目になったが、当時の面影は残っている。
ダメだ。言葉が出てこない。
僕はずっと美緒に会いたかった。
美緒が転校してからしばらくの間、どの景色を見ても美緒のことを思い出していた。
美緒と過ごした楽しかった日々を。
しかし、その楽しかった日々は2度と戻っては来ない。
そう思うようになってからは美緒のことを思い出すのが辛くなった。
だから無理矢理楽しかった記憶に蓋をしようとしたんだ。
結果的にかなり時間が掛かってしまったけど、忘れることができた。
いいや、忘れたという表現は少し違うな。
初めから僕の人生に望月美緒という人物はいなかったと自己暗示をかけていたのかもしれない。
そうでもしないとあの頃の僕はやっていけなかったのだ。
会いたかった人が目の前にいる。
こんな幸せなことはない。
「探し物は見つかった?」
「ああ、今見つけた」
そう答えた僕の目から涙が溢れてきて、視界に映る美緒がぼやけた。
「遅いよバカ」
美緒が立ち上がり、僕の前まで小走りで移動すると、優しく僕の胸をグーで突いた。
そうは言っても仕方がない。
それだけ僕の中の君という存在が忘れられないほど大きかったんだ。
「瑠衣、またよろしくね」
美緒が上目遣いで恥ずかしそうにはにかんだ。
その瞳が涙で潤んでいた。
「ああ、こちらこそよろしく」
頬に流れた美緒の涙を右手で拭った。
今年の夏は忘れられない夏になりそうだ。