部屋の整理の大半を終わらせ、フーと一息ついた。もともと荷物は多いほうではない。生活する上での最低限のものやスケッチブック、イラスト集や好きな少女マンガぐらいだ。椅子に腰を下ろして、一休みをすることにした。キッチンのほうから、香ばしくおいしそうな匂いが漂ってくる。反射的にお腹からぐぅという音がなってしまった。気恥ずかしさはあったけれどなんだか心地がいい。クスリと笑みがこぼれた。そっと窓を開けて、外の風景を眺めた。そこから穏やかな風が流れ込んで来る。なんだか心がくすぐられる感じがして、笑みかこぼれてしまう。わたしは空を見上げた。とても晴れた青い空が、気持ちがいい。雲が少なく、とても爽やかな空だ。こんな平穏な気持ちが続けばいいのにと思えてくる。リビングに向かおうと、部屋の襖に手をかけたときだった。玄関から「楓さんいるー?」という男の子の声が聞こえて来た。わたしはビクッと肩を震わせ、襖から手を放した。年の近い人と出くわすのは、正直恐かった。それに相手は男の子だ。力で勝てるはずもない。わたしは息を殺し存在を悟られないように部屋に閉じこもった。変な汗や体の震えがとまることはなく、心臓もバクバクと踊っていた。わたしの心は恐怖に支配されている。自分ではどうすることも出来ない。今にでも泣き出しそうだ。何か話している声が聞こえたあと、軽い足音がこちらにやって来る。おそらく楓ちゃんだ。ノックを二回されたあとに襖が少しだけ開かれた。楓ちゃんは暖かい笑顔をわたしに向けてくれた。

「ハル、お昼出来たよ。リビングにおいで」

「で、でもお客さんが…来ているんでしょ。わ、わたし、お部屋で待ってるよ」

「大丈夫。悪い奴じゃないし。それにハルと同じクラスになる可能性がある子だよ」

 同じクラスになる。ということは、わたしと同じ中学二年生ということだろう。より一層に顔を青くさえてしまう。楓ちゃんはそんなわたしにやさしく頭を撫でてくれた。繊細な指な小さな手から温もりが伝わってきた。楓ちゃんの手は不思議だ。触れられただけで、心が安心をしてしまう。まるで彼女は親鳥のようだ。ようやくわたしは楓ちゃんの顔を見ることが出来た。楓ちゃんは微笑んで「一緒にお昼食べよ」と声をかけた。彼女の目は「大丈夫だよ」と言っているような暖かいまなざしで、わたしはうつむいて小さく「うん」と呟いた。わたしは楓ちゃんに手を引かれながら、リビングに向かった。そこにいたのは、百七十センチぐらいのすらりとした体型で、クセッ毛のある髪に黒縁メガネがトレードマークと思われる男の子だ。思わず、楓ちゃんの背中に隠れてしまう。男の子は、そんな様子を見て、おかしそうに笑みをこぼした。

「はじめまして、小久保駿人です。えーと、そうだな。よくみんなから『ボン』って呼ばれてます。よろしくね」

 簡単に自己紹介した彼は、わたしに近づいて手を指し伸ばした。わたしは楓ちゃんの背中に隠れながらも自己紹介をした。

「えっと、その…。み、水森晴香って言います。えっと、その、よく『ハル』って呼ばれています。えっとその、よ、よろしくお願いします」

 わたしは、指し伸ばされた手を恐る恐る握った。大きくてゴツゴツしていて、男の子なんだなと思ってしまう。正直、男の子は苦手だ。言葉も荒いし、声だって大きい。それに体も大きいからぶつかっただけでもこちらが押されてしまう。声かけられただけでもビクッとしまう。今も恐くて、彼の顔もまともに見れていない。楓ちゃんはにこやかに笑い「あんたも食べていくでしょ」と声をかけた。彼もまんざらでもないように「いいんですか。ごちそうになります」と返事をしていた。わたしは彼に弱々しく睨めつけるが、男の子の暖かな微笑みでかわされてしまった。わたしも観念をして、彼に「どうぞ」と椅子に促した。彼は「ありがとう」とお礼を言って、椅子に腰をかけた。向かい側に座るのを避け座ろうとする楓ちゃんが「ごめんねハル。ここはねあたしの特等席なんだ」と言われ、しぶしぶ彼の向かい側に座ることになった。絶対にわざとわたしと彼を向かい席にしたのだろう。少し頬を膨らませた。それからというものわたし自身、ずっとうつむいている感じで、駿人さんとはまともに目も合っていない。そんなわたしが彼と何を話せばいいのだろうか。話題があまり思いつかなかった。この場から離れるのも、なんだか違う気がして、席から立つことが出来なかった。クスクスと笑う声が聞こえてきて、ビクッと肩を震えた。変な子だなって思われていないか心配になってしまう。そんな心配を押しぬける問いかけだった。

「ねぇハルちゃん。ハルちゃんは休みの日とは何して過ごしているの?」

「えっと、その、絵を描いたり散歩に出かけたりですかね。え、えっとそのしゅ、駿人…さんは?」

「ボンでいいのに。そうだねぇ、写真撮ったり、友達をバスケしたりかな。あれ、なんか似てるね僕達」

「そう…ですかね」

 わたしは少しだけ顔を赤くして、よりうつむきになってしまった。未だに彼に警戒心を抱いているけれど、なぜかさっきよりは恐怖心などは感じることはなかった。むしろ安心感が強いに等しいだろうか。わたしは少しずつ顔を上げて、彼の顔を見た。彼はうれしそうに笑った。不意な笑みのせいで、わたしの胸がドキッと跳ね上がり、顔を赤く染めた。不思議な人だ。あったばかりなのに、恐怖心を抱かせないだなんて。なんと言えばいいのだろうか。不安から期待に変わる春のような人だろうか。

「やっと目を合わせてくれたね」

「そ、そんなことはないです」

「まぁそういうことにしいてあげる。ハルちゃんさ。どんな絵を描くの。すごく気になるな」

「そ、そうですね。えっと、その風景画とかです…かね」

「へぇ、観てみたいなぁ。ハルちゃんの絵」

「そ、そんな…、観せられるものじゃないです」

 必死に否定していると、脇から山菜パスタが現れた。わぁと目を輝かせていると頭をわしゃわしゃと撫でられた。犯人なんて他の誰でもない楓ちゃんだ。むぅと彼女を睨めつけたが、楓ちゃんはお日さまのような暖かくやさしい笑みをこちらに向けられた。彼女のその笑みを向けられると、いつも怒れなくなってしまう。その笑顔に救われたから。

「ハルは、自分の絵に自信を持ちな。あんたの年にしてはうまいほうだよ」

「楓ちゃん、お世辞はいいよ」

「お世辞じゃないさ。もっと基礎を固めていけば、もっとうまくなるよハルは」

 そう言われると、なんだか胸のあたりがこそばゆい。駿人さんのほうを見ると、にんまりと微笑みが浮かんでいた。そんな表情を浮かべられると、ドキッとしてしまう。この人も男の子と思い出すと、はずかしくなってしまう。男の子に素の部分を見られるのは、あまり慣れていない。それ以前に一緒に食卓に座っているというのが初めてかもしれない。

「つくづく見たくなっちゃったな。今度、描いた絵を見してよ」

「えっと、その、あの…」

「やっぱりイヤかな。僕、もっとハルちゃんのことを知りたいんだけどな」

「……べ、別にイヤじゃないです。でも、その、本当に人に観せられるものじゃないですよ」

「いいよ。お昼食べたら観せてよ」

「じゃあ、あとで持ってきますね」

 彼はクスリと笑い、「了解」と返答した。