灰色の夏が、きみの歌で色づく。

「でさー、昨日ね、彼氏がマジで頭おかしいこと言っててぇ」
「なあ、最悪! 数Aの課題やってくんの忘れたわ。しかも一限じゃん、ガチ終わった」
「夏休み皆で集まる日どうする? やっぱマリが土曜じゃなくて木曜にしたいって言ってんだけど」
 今日も、朝の教室はザワザワと騒がしい。私は一人で、隅っこの自分の席に座っていた。スマホの画面に表示させたmisizukuさんの動画の数々を、ジッと見つめる。
 部屋の白い壁を背景に、アコースティックギターを弾き語りしている動画のサムネ。首から下だけしか映っていないし、季節によって着ている服も様変わりしている。でも、その左手首にはずっと腕時計があった。
 見れば見るほど、misizukuさんの腕時計は深見さんのものと同じように思えて仕方がない。全体的にシルバーなのに、文字盤の数字がローマ数字なことと、針がメタリックな青色だったところは一緒だし……。
 一瞬しか見れなかったけど、misizukuさんの着けている時計と同じな気がする。
 いやいや、でも同じ腕時計を持っている人なんて結構いるかもしれない……。着けていた時計が同じものだったからって、misizukuさんイコール深見さんと結びつけるのはまだ早い……。第一、misizukuさんが時計を着けていたのは四年前だ。今もあの時計を着けているとはかぎらない。
 でも、偶然だと自分に言い聞かせようとしても、私の胸はドキドキと高鳴っている。
 だってもし、深見さんがmisizukuさんだったら……。
「ねえ、月宮さん!」
 頬がゆるみかけたとき、いきなり視界の外から声をかけられて驚いた。顔を上げると、クラスメイトの女子がニッコリと笑って立っていた。栗色に染めたふわふわの長い髪を、紺色のシュシュでポニーテールに結っている。あまり話したことない子だ。と言っても、私はクラスに親しくしてる人はいないからクラスメイトのほぼ全員とあまり話したことがないのだけど。
「あ、えっと……なに?」
「月宮さんさ、夏休み忙しい?」
「え……暇だけど」
「ほんと? じゃあさ、うちらと一緒に海に遊びに行かない?」
「へ?」
 思わず間抜けな声が出てしまった。
 なんで私……?
「いやー、入学してから三ヶ月経つけどさ、うち実はずっと月宮さんと喋ってみたかったんだよね」
 照れた様子の彼女を見て、何だか信じがたい気持ちになる。
 うちのクラスの女子は皆、髪を染めたり、ネイルをしていたり、化粧をしていたりと派手な感じの子が多い。でも私は黒髪だし、化粧もわからない。私みたいな地味女子なんかが、ギャルっぽい子や陽キャなグループに入っても話が合わなくて煙たがられるだろう……と思って、遠巻きに避けていた。そのせいでクラスでの交友関係は希薄になりかけていたのに。
「な、なんで私と喋りたいって思うの?」
「だって、月宮さん目立たないけどよく見たらけっこう美人だし! でも月宮さんクラス会にもほとんど来ないしさ、いつも一人でいるじゃん? 高嶺の花って感じして、だから、話しかけていいのかわかんなかったんだけど、最近はよくニコニコしてるからさ、『そんな顔するんだ!』って思って親近感わいちゃって。勇気だして話しかけてみたの」
「え、私、ニコニコしてた……?」
「うん。スマホ見て音楽聴いてる時とかめっちゃ幸せそう」
 それはきっと、misizukuさんの曲を聴いているからだ。私、他人から見てそんなにあからさまに楽しそうに聴いてたなんて……。自覚がないだけにちょっと恥ずかしくなった。
「で、どう? 夏休みの28日なんだけどさ、遊ばない?」
 明るく誘ってくれる彼女。
 でも、私は返答に困ってしまった。
 行きたくないわけではない。でも、夏休みは家から出してもらえないから、遊びには行けないのだ。
「ごめん。夏休みは暇なんだけど……ちょっと家から出られないっていうか……」
「え? なにそれ!? あ、弟とか妹の世話頼まれてるとか!?」
「いや、そういうのでもないんだけど……」
「やめときなよ、美奈」
 そのとき、前下がりボブの切長の目をした子が鋭い声をかけてきた。
「そんなの行きたくないから適当なこと言ってるだけでしょ。明らかに困ってるし。来たくない人むりやり誘わなくていいから」
 彼女はスマホの画面をいじりながら、去っていた。微妙な空気が流れる。
「あ、なんか、ごめん……」
 彼女は申し訳なさそうな表情になると、サッと私のそばから離れていってしまった。なにか言おうと思ったけど、なんにも言葉は出てこなかった。
 だってまさか、遊べない理由を詳細に述べるわけにもいかない。
 お母さんが、夏の間だけおかしくなっちゃうから、なんてそんなヘビーな家庭事情を説明したら、たぶんドン引きされておしまいだ。
 ちらり、と美奈さんの席のほうを見ると、両手を合わせて「ごめん」と口パクで謝られた。申し訳なさそうに笑っている。ずきりと良心が痛んだ。
 本当は、できることなら私も遊びに行きたい。でも、そんなことをお母さんに言ったらひどく叱られるだろう。わがままを言ってはいけない。夏の間だけ、私ががまんすればいいのだ。仕方ないことなのだ。
 机の下で、スカートをギュッと握りしめた。
「ただいま……」
 その日の夕方。無事に一日を終えて帰宅し、つぶやくような声量で言って、玄関の扉を開けた。キッチンからお母さんの「おかえりなさい」という明るめの声が飛んでくる。
 私は玄関の上がり框に腰を下ろして、ぼんやりとローファーを脱いだ。
 今日は、ずっとうわの空だった。misizukuさんと深見さんのことが気になって、まともに授業の内容も頭に入ってこなかった。
「水月ちゃん、おやつにアイスが……あら」
 玄関に出てきたお母さんは私を一目見て、訝しむような顔つきになった。
「なに?」
「水月ちゃん……、日傘は?」
「え? あっ!」
 しまった。
 ぼんやりしていて、うっかり学校に置いて帰ってきたことに気づいた。夏の間は、登下校の際にいつも差している傘だったのに、それを忘れてくるなんて……今日の私はどれだけボーっとしていたのだろう。
 私が日傘を差すのを忘れて帰ってきたと知るなり、お母さんの目が、どんどん剣を帯びていった。
「ねえ……水月ちゃんに、なにかあったら心配だから、お母さん傘さして行ってって言ったよね?」
「ご、ごめんなさい。考えごとしてて、うっかり……」
「朝、『傘さしていって』って言ったとき、水月ちゃん、『わかった』って言ったよね? なのに、どうして約束やぶっちゃったの?」
 無表情になったお母さんが一歩ずつ距離を詰めてくる。背筋が凍りつきそうだった。
「また、お仕置きしないと分からないみたいね」
 恐怖で動けない私の腕を、お母さんが乱暴につかむ。これから何をされるかは、去年も同じことをされたからよく覚えている。
 私はフローリングの床をほとんど引きずられるかのようにして、キッチンの流しへと連れて行かれた。私の腕の上で、お母さんが勢いよく蛇口のレバーを上げる。真水だったそれは、途端に温度を上げ、熱湯が容赦なく腕に降り注いできた。思わず息を呑む。
「あっ、熱……ッ! お母さんっ、お母さんやめてっ!」
 抵抗しようとしても、後ろから私の腕をつかむお母さんは、とんでもない馬鹿力でとても敵わない。
「熱中症になったら、これより熱いんだよ!? これより痛いんだよ!? これよりも、ずっと、苦しいんだよ!? ねえ、ちゃんと分かってるの!?」
 顔を見ると、お母さんは血走った目で私に向かってまくしたてていた。あまりにも恐ろしくて、抵抗をする気も失せてしまう。ただただ腕が焼けるように熱い。
「ごっ、ごめんなさい……っ!! ごめんなさい!!」
 何度も謝罪を口にしたが、お母さんの指の力が緩むことはない。数分ほど、私の腕を熱湯にさらしつづけると、ようやくお母さんは解放してくれた。腕は真っ赤になっていて、熱と痛みで痺れていた。
 私は肩で息をしながら、食器棚に背をつけたまま床に座り込む。お母さんが無言で、蛇口のレバーを下ろして熱湯を止めた。その視線は私の腕へと注がれている。
「早く冷やさないと火傷になるわね」
 また、腕を引かれる。今度は手荒い感じではなく、迷子の子どもをインフォメーションセンターへ案内するかのような穏やかさがあった。
 私は浴室へと連れていかれた。お母さんは、タライに水を張ると、そこに私の腕を沈めた。冷たさで体が凍てつくようだ。幹部に、鋭く水が染みた。思わず顔を歪めると、お母さんが甘い声で言った。
「お母さんだって、水月ちゃんの体に傷をつけたいわけじゃないし、苦しませたいわけじゃないよ。でも水月ちゃん、熱中症になったら苦しくて辛いってこと、まだよくわかってないみたいだったから、わからせてあげようとしただけ」
 浴室に妙に響くその声を、泣きたいような気持ちで聞いた。
 火傷の痛みと、熱中症の苦しみはまた別のものだろうに、どうして私はこんな目に遭わされないといけないんだろうか……。
 夏の間のお母さんと分かり合うことは諦めているくせに、仕方ないことだと割り切ろうとしているくせに、そんなことを考えてしまう。私の腕は熱でひりついて、心は悲しみに焼かれていた。
「ね、水月ちゃん。今度からはちゃんと傘さして行けるよね? 熱中症になっちゃったら、すっごくつらいってこと、もう今のでよーくわかったもんね?」
 浴室の入口に立つお母さんは、こちらを見下ろしていた。まるで、聖母のような微笑みで。娘の腕を熱湯に晒したり、氷水に突っ込んだり、今さっきまで悪魔のようなことをしていたというのに。
 けれど、私は無感情に「はい。ごめんなさい」と小さな声で呟いた。「わかればいいの」とお母さんは嬉しそうに言い、夕食の支度をしにキッチンへと姿を消す。
 火傷した腕を一人で冷やしながら、まだ明るい風呂場でゆっくりと息を吐く。
 ……大丈夫。
 お母さんがおかしくなるのは、夏の間だけなんだから。今日みたいに言いつけを破ったりしない限りは、こんなふうに手を下されることはない。私が言うことさえ聞いていれば、平和でいられるんだ。次からはちゃんと日傘を差すのを忘れないで気をつければいいだけの話。私が、今だけ我慢してればいい。
「なあ、聞いて聞いて! 今年の夏休みさ、俺んち、父ちゃんがキャンプしに連れてってくれるんだぜ!」
「まじ!? いいなあ、うちは海に連れてってくれるって言ってたけど、俺もキャンプいきたいって、親に頼んでみよっかなー」
 開けていた風呂場の窓から、近所の小学生がはしゃぐ声がうっすらと聞こえてきた。
 あんなに小さい子供たちですらちゃんとした夏休みの予定があるというのに、私の夏休みには何の予定もない。キャンプや海なんて論外。それどころか夏休みは、コンビニへ出かけるようなちょっとした外出さえ、許されていない。
 外では小学生たちが「じゃあ、もう翔太も一緒にキャンプいこーぜ」、「いいの!?」、「いいって、うちの母ちゃん翔太のこといっつも褒めてるし! 絶対いいって言ってくれるって!」、と会話を弾ませていた。
 ふと、今日、教室で「夏休み、海に遊びに行かない?」と誘いを持ちかけてくれた子の顔が思い浮かんだ。
「いいな……」
 本当は、私だって海とか行ってみたかった。
 でも、そんなのは今の生活からしたら、どだい無理な話だ。私の高校時代の夏休みは、きっと三年間、色褪せたまま終わるだろう。
 ひぐらしの鳴く声を聞きながら、私は火傷した腕を、しばらく水に浸し続けていた。そこに涙が数滴だけ混入した。制服から伸びた腕で目元をぬぐう。
 早くmisizukuさんの歌が聴きたいと、それだけしか考えられなかった。
 夕飯のそうめんを食べ終えて、お風呂に入り、自分の部屋のベッドに横になる。
 しっかりと冷やしたはずなのに、まだヒリヒリと腕の皮膚が痛んでいる。壁に掛けた時計を見上げると、21時過ぎだった。今日の分の課題は特にないし、眠るのにはまだ早い。
 私はベッドに寝転んだまま、机に置いていたスマホとワイヤレスイヤホンに腕を伸ばした。イヤホンを片耳に装着し、misizukuさんの動画をタップして再生する。流れ込んでくる歌声に、瞼を閉じて聴き入った。
 低いとも高いとも言えない、不思議な声。柔らかく耳朶に染み込んで、聴いていると、小さな炎が灯ったかのように胸があたたかくなる。もう何十回も聴いたけど、歌詞も、メロディーも、声も、雰囲気も全部好きだ。何度聴いても全く飽きない。飽きないのだけれど。
「早く新曲ききたいな……」
 動画の投稿日時が四年前になっているのを見て、つい口に出してしまった。
 misizukuさんのチャンネルは、四年前で更新が止まっている。
 一度音楽を再生するのをやめて、彼のプロフィール欄を開いた。そこには、「音大生。趣味で音楽やってます」という簡素な自己紹介文が載っているだけで、ツイッターやインスタに飛べるリンクなどは貼られていない。
 きょう、電車で助けてくれたお兄さん――深見さんのことが頭をよぎる。
 深見さんはスーツを着ていたし、今は会社勤めをしているみたいだった。でも容姿を見る限り、20代なのは確実だと思う。今から四年前までは大学生だったとしてもおかしくない。
 どっちなんだろう。深見さんはmisizukuさんなのか、違うのか。似た腕時計を着けていたから、私の中で疑惑は消えないでいた。
 いっそ、もう直接確認してみようかな……。そうしたほうが手っ取り早いかも。いや、でも身バレするの嫌なタイプだったりしたら、迷惑かな。偶然、電車で助けた女子高生が、自分のファンだったなんて知ったら、人によっては恥ずかしいかもしれないし。
 どうすべきか。ここは大人になって何も知らないふりをするか。それとも勇気をだして尋ねてみるか。
 ベッドでスマホ片手に懊悩していると、ふいに画面の中から軽快な音が鳴った。心臓が跳ねる。見ると、深見さんからメッセージが届いていた。

『大丈夫? 帰りは変な人に会ったりしなかった?』

 通知を開いて、驚いた。
 や、優しい……!
 もしかしたら憧れのmisizukuさんかもしれない深見さん。そんな人に気遣われたんだと思ったら嬉しくなってしまった。
 なんて返そうか数分ほど悩んで、「大丈夫です」、と返信をした。でも、これだけじゃそっけないかなと思い、「今朝は助けてくれてありがとうございました」と打つ。そして、「よかったら、お礼させてください。なんでもします」とも打って、送信した。
 すぐに既読がついて、ドキドキと心臓が脈打った。十秒ほどした後に、深見さんからのメッセージが届く。

『そっか。それならよかった。ちょっと心配だったから安心した。お礼とかは気にしないで。本当に』

 どこまでも謙虚な言葉が返ってくる。「でも、それじゃ私の気がおさまらないんです」とメッセージを送った。またすぐに既読がついて返信が来る。

『僕そういうつもりで助けたわけじゃないんだし、本当に気にしないでいいんだよ。ていうか、けさ知り合ったばかりの僕に『なんでもお礼します』って言うのは危ないよ。もし、僕が怖い大人だったらどうするの』

 その文章を見てハッとした。
 でも、深見さんは悪い大人ではないと思う。けさ知り合ったばかりだけど。勘だけど。
 だけど、本当に彼はお礼を受ける気がないのだとわかって、なんだか私は焦ってしまった。
 この人は、私とこれ以上連絡をとる気がないのではないかと思ったのだ。
 けど、それは「迷惑だから」というより、「気を遣わせたくない」という気持ちゆえの行動という気がした。かといって、このままじゃもう深見さんとは連絡がつかなくなってしまうかもしれない。
 この人の正体は、もしかしたらmisizukuさんかもしれないのに。私の心を癒す曲をつくった本人かもしれないというのに。もう二度と、こんな出会いは起こらないだろうに。
 ――どうにかして、この人を繋ぎ止めたい。
 強くそう思った時、指は自然と動いて、気づけば深見さんにメッセージを送っていた。


『深見さんって、misizukuさんだったりしますか?』


 我に返ったときにはもう遅かった。私が送ったメッセージにはすでに既読がついていた。
 お、送っちゃった……っ!
 こんなに勢いに任せて行動してしまったことなんて初めてで、正直、自分で一番びっくりした。ベッドの上で頭をかかえる。
 ど、どうしよう、これでおしまいにしたくないからってこんなこと送っちゃった。しかももう読まれてしまった。もし違ったらどうしよう? ていうか、メッセージを送るにしてもここまでストレートに訊くことなかったんじゃ……!?
 ちょっと後悔していると、スマホから軽快な音楽が流れ始めた。肩が跳ねる。こわごわと画面を確認すると、深見さんが通話をかけてきていた。
 ごくりと唾を飲み込んで、応答をタップする。
「もしもし……?」
「な、なんで知ってるの!?」
 画面越しに、あわてた声が炸裂した。
 えっ、「なんで知ってるの」って言うってことは……。
「え、えっと……あの、深見さんはやっぱりmisizukuさんってことですか……?」
 ひかえめに質問すると、少しの間をあけて返答があった。
「……うん」
 羞恥をこらえるような、微かに震えた声で肯定される。
 その言葉を直接耳にした途端、胸の奥から熱がこみあげてきた。
 やっぱり、この人が……!
 うすうすそうなんじゃないかと思ってはいたけど、実際そうだったと分かると何だかとても高揚した。
「あ、あのっ、私、misizukuさんの曲すごい好きで、いつも聴いてて……っ」
「え、えっ? そ、そうなの!?」
 ファンだということを伝えると、思ってもみない展開だったのか彼は狼狽している様子だった。
「電車の中とか、学校にいるときとか、寝る前とか、暇さえあればずっと聴いてます……! まだ三週間くらい前にハマったばっかりなんですけど、でもmisizukuさんの曲って、どれもすごい雰囲気が優しくて、聴いてると、なにがあっても、『この歌があるから大丈夫』って思えるっていうか、安心できるんです……っ!」
「…………えっと」
 通話相手は少しの間、沈黙してしまった。
 我に返る。
 まずい。あまり息継ぎもせず、熱く語りすぎた。引かれたかも……。
「ありがとう」
 だけど、画面の奥からは感謝の言葉が返ってきた。
「まさか、そんなふうに聴いてくれる人がいると思ってなくて。ちょっと感動しちゃった。ありがとね」
「いえ、本当のことですから……! あの、やっぱりお礼させてもらえませんか?」
「え? いや、いいよそんな……!」
「私、misizukuさんの歌がすごく好きなんです。あんなに良い歌をたくさんつくってくれているのに、そのうえ痴漢からも助けてもらっちゃって……。だから、恩をめちゃくちゃ感じてるっていうか……、ぜひお礼がしたいです……! どうしてもしたいんです、させてください……!」
「……そっかぁ……どうしてもしたいかお礼……。なるほど……」
 うーん、と彼は電話越しにしばらく唸っていた。
「ちなみに、その水月さんのなかではお礼ってどういう感じの概念なの? 肩たたきとか雑用をするつもりでいるのか、それとも金銭が絡んできちゃうのか……」
「なんでもします」
 私は食い気味に答えた。misizukuさんのためなら、火の中水の中だ。
 けれど彼は、「なんでもするとか簡単に言っちゃダメだよ……?」とちょっと当惑している感じである。
 でも、私はこの人のためなら何でもしたかった。曲を聴いて泣いたのは初めてだったから。あんなに同じ歌を繰り返し何度も聴いたのも全部、misizukuさんの曲が初めてだ。私の毎年恒例の窮屈で退屈な夏の生活に、潤いを与えてくれて、さらに今朝は痴漢からも守ってくれたのだ、この人は。
 私が引き下がらないことを悟ったのか、やがて彼は言った。
「じゃあ、あのさ、もしよかったらなんだけど……僕と会ってお茶してくれないかな?」
 そう言われたとき、世界から音が消えた。
 一瞬ほんとにそう思ったくらい、そのくらいの衝撃を私は受けた。
 ……深見さんと……え? misizukuさんとお茶? 私が?
「あっ、あ、でも水月さんが嫌なら断っても……」
「行きたいです!!」
 思わず、食い気味にそんなことを口にしていた。
「そ、そう? 大丈夫?」
 あまりの勢いの良さにびっくりしているらしい深見さん。
「もちろんです、はい」
 相手には見えていないと言うのに、私は自分の部屋で一人、何度も頷いた。頬が熱かった。
「ありがとう。僕、自分の曲をそこまで熱心に聴いてくれる人に今まで会ったことなくて……。よかったら、また会いたいなって。水月さんがいいんなら、お茶でもしながらゆっくり曲の感想とか聞かせてほしいんだけど……」
 それがお礼ってことじゃだめかな? と言われる。
 だめじゃない。むしろご褒美。彼とまた直接会えるなんて……!
「だ、だめじゃないです。それがお礼ってことで大丈夫です……!」
「そう? よかった。じゃあ、いつがいいとかある? 僕は平日の18時半以降と、土日はだいたい予定あいてるんだけど」
「えっと私は……!」
 そう言いかけて、とんでもないことに気がついた。
 私は夏休みの間は家から出ることができない。そして、学校がある平日も余計な寄り道はしないでまっすぐ帰ってくることとお母さんに言われている。ふらふら外を出歩いて熱中症になったら大変だから、と。
 もしも、約束を破ったらまた……。
 腕の火傷がひりひりと痛んだ。
「水月さん?」
「あ……、えっと、ちょっとまだ予定がどうなるかがわかんなくて……また後で、連絡します……」
「そっか。わかった。曲きいてくれてありがとう」
 優しい声で、深見さんはおやすみと言い、通話を切った。
 おやすみ、というたった四文字の言葉なのに、胸があたたかくなった。
「でも、どうしよう……」
 困った私はベッドに横になって、つぶやいた。
 正直、めちゃくちゃ会いたい。
 でも、夏の間は学校以外の用事で外出するなんてこと、できない。学校に行く日ですら、日傘を差すのを忘れるとお仕置きがあるのに。知らない男の人と二人で会ってきたら、どんな目に遭わされることだろう。
 そう思うと、とても怖い。
 でも、会いたい。
 二つの気持ちがせめぎあって、ベッドで悶々としているうちに、いつのまにか眠りに落ちていた。
 それから数日間、私は悩んだ。
 彼には会いたい気持ちは本当だけど、でもお母さんの言いつけをやぶったらまた火傷することになるかもしれないし……。
 そうして、「予定がわかったら連絡します」と伝えたまま、一向に彼には連絡できないまま一学期最終日の放課後になった。明日からはいよいよ夏休みだ。
 どうしよう……。会わない方がいいのかな。でも、会いたいし……。
 きちんと日傘を差して帰宅した私は、もやもやした気持ちのまま玄関でローファーを脱いで、傘をたたんだ。
 そして、次の瞬間、驚いた。
 お母さんが慌ただしい足音を立てて、玄関に出てきたのだ。それもよそ行きのグリーンのワンピースを着ていて、スーツケースを引きずっている。
「ああ、水月ちゃんおかえりなさい」
 お母さんは、化粧を丁寧に施した顔で私を見た。さりげなく、私の手に傘があることをちらりと確認したのが目線でわかる。
「た、ただいま。どうしたの? どこかに行くの?」
「それがね……さっき電話があって。おじいちゃんが、軽い脳貧血で倒れちゃったみたいなの」
「えっ、だ、大丈夫なの?」
 おじいちゃんは、今年で76歳になる。おばあちゃんを早くに亡くしたおじいちゃんは、ここから離れた田舎町に一人で住んでいて、昔は、遊びに行くと畑でつくったトマトやとうもろこしなんかを食べさせてくれたりした。
 でも三年前からは、私はもう遊びに行けていない。そもそも夏休み中の外出はゆるされていないし、お母さんは、「おじいちゃんちの近くは盆地だし、夏は気温が高くなるでしょ。熱中症にでもなったらどうするの」と、身内の家に行くことさえも嫌なようなのだ。
「もう大丈夫らしいんだけど……、でも倒れたときに腰を強く打っちゃったみたいなの。それで腰が痛くて、身の回りのことができないっていうのよ。ほんと困っちゃうわ」
 お母さんは頬に手を当ててため息をついた。
 でも、命に別条がないとわかって私はホッとした。
「お医者さんが言うには、骨に異状はないから二週間もすれば元通りになるでしょうって。でも、おじいちゃん一人にしておくのは心配だから、お母さんがしばらく実家に帰ろうと思うの。自分でどうにか出来ないの?って聞いても、『一人じゃなんにも出来ん、わしを見殺しにする気か』って大げさに騒ぐからうるさくって」
「そ、そうなんだ……」
「悪いんだけど、しばらく水月ちゃんは一人でお留守番しててもらえる? 明日から夏休みだし、もう高校生なんだから一人でも大丈夫よね? お母さんがそばにいてあげれないのはちょっと心配だけど……、でも向こうは盆地だから気温が高いし、水月ちゃんが熱中症にでもなったらそっちのほうが心配だから」
 一人でお留守番しててくれる? というセリフがお母さんの口から出てきたとき、私は思わず目を瞬いてしまった。
 お父さんが亡くなったあの夏からずっと、私の夏休みは毎年ほぼ家に軟禁されて終わりを迎えていた。でも、今年はお母さんの監視の目がないなら。今年の夏休みは、深見さんとでかけることだって出来るんじゃないか……?
 しかし、そんな淡い期待をいだいたのも束の間。希望はお母さんの次の一言ですぐに砕け散った。
「言っておくけど、くれぐれも絶対、家から出ちゃダメよ。おじいちゃんのところよりは暑くないってだけで、最近じゃこの辺りだって記録的な暑さが続いてるんだから」
 お母さんは私の内心の喜びを見透かしたように冷たい目をしていた。背筋が冷える心地だった。
「わかってる。絶対、外に出たりしないから……」
「ほんとう? 約束よ。もし水月ちゃんが家から出たりしたら、お母さんはすぐにわかるの。水月ちゃんのスマホにGPSのアプリも入れてあるんだから」
 釘をさされて、そういえばそうだった、と思い出す。一年前の夏に、学校帰りに友達とアイスを食べに行ったことがバレて、「この暑い中、外をほっつき歩いて熱中症にでもなったらどうするの!?」とひどく叱られた覚えがある。
 それから、お母さんにGPSのアプリを強制的にスマホに入れられてしまった。勝手に削除すればどうなるかということくらい、私だって馬鹿じゃないんだから容易に想像がつく。
 明るい気分は一気に萎んでしまった。
「いい? 本当にわかった? 外に出たりしたらダメよ。約束だからね?」
「ああ、うん。大丈夫だよ。一歩も家から出たりしないから。安心して」
「よかった。お母さん、水月ちゃんのこと信用してるから」
 お母さんは柔らかい笑顔になって、私の両手を握った。
 ……これじゃあ、やっぱり深見さんとは出かけられないな。
 内心で、肩をおとす。
 もし、お母さんとの約束をやぶったりしたら大変なことになるだろう。私だって、もう肌にやけどはしたくない。
 それから「家の中にいても熱中症のリスクはあるからきちんと冷房をつけて水分を取ること」、「冷蔵庫に作り置きのおかずがあるけど、食べるものが底をついたら外には買いに行かずにデリバリーを頼むこと」、「必要なものがあったらお母さんが宅配便で送るから連絡すること」、とお母さんはたくさんの条件を言った。私は何度もうんうんと頷いた。やがて、私がわかってくれたと知って安心したのか、お母さんは満足そうな表情で「行ってくるから」と出かけていった。
 お母さんの姿が見えなくなって、私は玄関の扉を閉めてしっかりと鍵をかける。
 自然とため息がこぼれでた。
「会いたかったな……」
 GPSさえなければ、深見さんに会えたかもしれないのに……。
 いや、だめだ。そんなこと考えては。
 その場で一人、かぶりを振る。
 私の夏休みはいつも退屈で窮屈なのが普通だったのだ。misizukuさんの曲と出会えただけでも大きな収穫だった。それ以上を望むなんて、図々しい。
 私は、スマホをスカートのポケットからとりだす。トークアプリから深見さんのアカウントをタップすると、トーク画面を開いた。このままずるずる引き延ばしてもつらいだけだし、決心がにぶらないうちに、今すぐ断りの電話を入れてしまおうと思った。
「もしもし、水月さん?」
 数回のコールの後に、深見さんが出た。
「はい、水月です」
「どうしたの? あ、夏休みの予定きまった?」
「あの……そのことなんですけど、ご、ごめんなさい、私やっぱり行っちゃだめなんです」
「え?」
「申し訳ないんですけど、本当にごめんなさい」
 深見さんは黙ってしまった。
 たぶん、意味が分からないのだろう。「あんなにお礼したがっていたのに、やっぱり会えないって何で?」って思ってるかもしれない。
 それもそうだ。「なんなんだこいつは?」と思われててもおかしくない。ひょっとしたら、勝手な子だと呆れられたかもしれない。きっともう二度と彼に会えることはないだろう。
「ど、どうしてもお礼したいって言ったの私のほうなのに、やっぱりよく考えてみたら無理でした。ごめんなさい。助けてくれてうれしかったです。歌もいつも聴いてました。深見さんに、misizukuさんに出会えてうれしかったんですけど……」
 深見さんは当惑していた。
 私の夏休みは、いつも灰色なんだ。お父さんが亡くなってからの夏は、ずっと毎年お母さんの決めたルールに縛られた生活で、窮屈で退屈で、暗い気分で過ごしていた。それが私の普通だった。それなのに、たまたまmisizukuさんの曲や、深見さん本人にまで出会えて、ほんの短い間だったけど今年の夏は色がついたように気分は明るくなった。それだけでも、充分じゃない彼の
 そう思ったとき、「水月さん」、と優しく名前を呼ばれた。なんですか、と私は涙声になりそうなのをこらえて尋ねた。

「――何か、あったの?」

 てっきり、「わかった」、「じゃあね」とか、そういう返事があると思っていたので、そんな問いかけがされたことに、たじろいだ。
「えっ……な、なんでですか?」
「いや、なんか……、この前の電話の時はすごく明るかったのに、今日は何だか声が暗い気がして。気になったんだけど……」
 さすが、歌を歌っている人だけある。ちょっとした声の違いがわかるんだ。
 深見さんは「誰かに行くのやめろって言われちゃった?」と続けて尋ねてくる。
「え、えっと……」
「うん」
 言うつもりなんてなかったのに、彼の優しい相槌を聞いたら、ぽろりと口から言葉がこぼれていた。
「……その。夏休みは、外に出ると母に叱られるので……」
「え? なんで?」
 深見さんは不可解そうな声になった。
「その……、熱中症になったら大変だからって」
「……でも、学校とかは行かせてもらえてるんだよね?」
「学校は行っても怒らないんですけど、でもまっすぐ帰ってこなきゃいけないですし、それに日傘とか水分補給とか熱中症対策もきちんとしないといけなくて……。もし、一つでも破ったら、お母さんはすごく怒ります」
「水月さんって、もしかして体が弱いの? だから、お母さんが過保護気味みたいな感じ?」
「体は弱くないです。普通です。うち、お父さんが熱中症で亡くなっていて。それから、お母さんは夏になるとずっと、ちょっと変な感じになるっていうか……」
 言いながら、お母さんのことをこんなふうに言うなんてひどいかもと思った。でも、事実だったし、本当のことを口にしたらなんだかちょっと胸がすいた心地がした。
「つまり、水月さんのお母さんはそのせいで熱中症を恐れるようになって、水月さんにも夏は過保護気味で、それで今くらいの季節のときは熱中症対策を強制したり、夏休みは毎年お家から出したりしないってこと? ……それ、水月さん大丈夫なの?」
「平気です……、私、もう慣れてますし」
「でも家から出ちゃいけないってことは、せっかくの夏休みなのに友達とも遊ばせてもらえないってことでしょ? それはちょっとやりすぎなんじゃ……」
「…………まあ。でも今年はお母さんが実家に帰るから、去年の夏休みよりは気楽なんですよ。GPSで監視されてるから外にはでられないですけど……」
「……ねえ、本当に水月さんは、その生活で満足してる?」
「……」
 その指摘に黙り込んでしまった。満足なんて、してるわけない。
 深見さんは重ねて言った。
「ねえ、夏休みさ、もし外に出てもお母さんに怒られることがないんだとしたら、水月さんはどうしたい? それでも家に居たい? それとも外に出てみたい?」
「そ、れは」
 そんなの、一択しかないに決まってる。でも、口に出してしまえばお母さんを裏切ったみたいになってしまうんじゃないかと思うと、その言葉はなかなか言えずにいた。
「いいんだよ。今は僕しか聞いてないから。僕は水月さんの本心が知りたいんだ」
 その深見さんの諭すような優しい声は、胸に響いた。
「……外に、出てみたいです」
 気が付くと、玄関の扉に背を向けたまま、そう口に出していた。
 結局のところ、それが私の本心だったのだ。
 少しの間があって、スマホの画面の奥から声がした。
「じゃあ、行こうよ。今から」
 えっ……?
 一瞬、思考が停止した。今……から?
「水月さんなにか予定ある?」
「ない……ですけど」
「じゃあ今からお茶しに行こう。あ、でも時間的にはご飯たべるほうがいいかな。お母さんにバレないようにこっそり出ておいで」
「あ、いえ、さっきお母さんは出かけたので今は家に私ひとりで、こっそりする必要はないですけど……」
「お、じゃあチャンスじゃん。僕、もうすぐ仕事終わるし、水月さんの家まで車で迎えに行くよ。待ってて」
 果たして、電話越しの深見さんは朗らかな口調だった。
 ……え…………っ!?
 結局、私は誘いに乗ってしまった。
 スマホにGPSのアプリを入れられているから出かけたらバレるかも、ということも伝えたら、「それならスマホを家に置いてでかければ、GPSの位置情報はずっと家に留まることになるんじゃない?」、と、とんでもない天才的な発想で返された。
 たしかに私が外に出ても、スマホさえ家に置きっぱなしにしておけば、出かけたことがバレることはまずないのだ。なぜ今まで考えつかなかったのだろう。お母さんに怒られないのなら、でかけない理由なんてもうなかった。
 通話が終わった直後、私は制服から、クロゼットの奥にしまいこんでいたお気に入りのワンピースを引っ張り出した。夏物の私服に袖を通すのは実に三年ぶりだった。
 身支度を整えると、私は家の前で深見さんが来るのを待った。
 深見さんは仕事が終わったら家に迎えに来てくれると言っていたから、私はラインで家の場所を深見さんに送っていた。見知って間もない成人男性に住所を教えるなんて、相手が深見さんじゃなければ絶対にしなかっただろう。
「水月さんお待たせ」
 ドキドキしながら待っていると、白い車が家の前に停まり、運転席の窓が開いて深見さんが顔をだした。今日はスーツじゃなくて、ワイシャツを着ている。
「こ、こんばんは……! 深見さん、車もってたんですね……!」
「うん。この間までは、修理にだしてたから電車通勤してた。乗って乗ってー」
 助手席と後部座席とどっちに座ればいいのか迷ったけど、彼女でもないのに助手席を選ぶのはおこがましい気がして、後部座席に座った。シートベルトを締めると車がゆっくりと出発する。少しずつ家が遠ざかっていき、「絶対に外に出ない」というお母さんとの約束を破ってしまったことへの実感がわく。でも、罪悪感はあまりない。意外なことに、非日常に足を踏み入れて高揚する気持ちの方がずっと大きかった。
「本当は会ってお茶するって約束だったけど、夕飯の時間だし、ごはん食べに行こうか。カフェじゃなくてレストランにしよう」
「あ、は、はい」
 男の人の車に乗るのに慣れていなくて緊張しているせいか、どもってしまった。
「ごめんね。きょう急に誘っちゃって」
「えっ、いえそんな……! 私は全然」
「うれしかったんだよね、僕」
 『うれしかった』……?
 私は後部座席で一人首をかしげた。
 なにか喜ばれるようなことをしたっけ……?
「最初、ホームで水月さんがお礼したい、って言ってくれた時は、年下の女の子に気を遣わせるのもバツが悪かったし断った。でも、本当はそれだけじゃなかったんだ。あのとき僕は中途半端な助け方をしてしまったから……。犯人をつかまえて駅員に引き渡すとか、そいつに注意をするとか、そういうふうにして水月さんを助けた方が、きっと世のためになったんだ。そうしないと、あいつは反省しないだろうし、きっとまた同じようなことをするだろうから、ほかに被害者がでるかもしれない。でも、そう思ってもどうしても勇気がでなくて……。結局ただ間に割って入っただけ。いい大人なのに、きちんと一人の女の子を助けることもできない、僕はそんな情けない人間なんだ。だから、お礼なんか受ける資格ないとも思ってた」
「そんなことは……」
「でも、その後、僕の曲に救われたとか、どうしてもお礼したいってめちゃくちゃ言ってくれるから……なんか、その気持ちに応えたくなって。それに僕みたいな情けない大人にそんなこと言ってくれる子がいるんだって知って、うれしかったんだ。だから、もう一回会ってもっと話してみたくなったっていうか……。それで、ちょっと今日は強引に誘っちゃったかも。ごめんね」
「いえ。うれしかったので」
 私が言うと、申し訳なさそうな表情だった深見さんはちょっとうれしそうに表情をゆるめた。
 でも、そうだったのか。そんなふうに思ってくれてたんだ……。
 少し感動していたとき、深見さんが急ブレーキをかけた。シートベルトを締めていたのに、私は思い切りつんのめって前の座席にしがみついた。
「ふ、深見さん!?」
「ごめん、道おもいっきり間違えてた……」
 運転席でステアリングを握る深見さんが、後部座席を振り向いた。なぜか私よりも驚いた表情をしている。
 そういえば、この人ぬけてるところがあるとか、ドジとかよく言われるって前に言ってたかもしれない。私は、彼がホームで転んでいたことを思い出した。
 深見さんは「ごめんね。ごめん」と照れ笑いしながら、車をUターンさせた。
 なんか、この人かわいいな……と思ってしまったのはここだけの話だ。
 深見さんがつれてきてくれたのは、小洒落(こじゃれ)た洋風のレストランだった。隠れ家的な存在なのか、夕飯時だというのに店内にお客さんはまばらだ。入店すると、ウェイトレスに奥のテーブル席へと案内され、私たちは卓を挟んで向かい合うように席に腰かけた。
「水月さん、何にする?」
 深見さんがメニューを開いて机の上に広げる。どの料理も美味しそうだ。目移りしてしまって決められない。
「……深見さんのおすすめとかありますか?」
「なに頼んでも美味しいけど、特にハンバーグが絶品だよ」
「あ、じゃあそれにします……!」
 初めて来るお店、オーダー迷っちゃうの私だけじゃないと思う。
 「僕もこれにしよう」と言って深見さんが店員さんを呼ぶボタンを押した。軽い音が響いてすぐにウェイトレスがやってきた。
「すいません、チーズハンバーグセットAを二つ」
 深見さんが注文をする。広い静かな店内で改めて聞くと、彼は地声もとても綺麗だった。
 ウェイトレスのお姉さんは、「かしこまりました。チーズハンバーグセットAがお二つですね」と注文を繰り返し、一礼すると去っていった。
「私、misizukuさん……いや、深見さんの歌ってるときの声も好きなんですけど、普通にしゃべってる時の声も好きです」
「ええ?」
 彩度の落ちた窓の景色を横目に、お冷に口をつけていた深見さんは正面の私を見て笑った。
「う、うまく言えないんですけど、なんか、歌ってる時よりも控えめで優しめの声っていうか……」
「そうかな……? そういえば訊きたかったんだけど、どうして僕がmisizukuって分かったの? やっぱり声? でも歌ってるときの声と地声はそんなに似てないと思うんだけど……」
「あっ、えっと、動画に映ってる腕時計と同じ時計を着けてるみたいだったので……」
「ああ、これか……! まさかこれで見つかると思わなかったなあ。これはね、大学の入学祝いに父がくれたんだよ。気に入ってて、学生の時からずっと着けてるんだ」
「そうなんですか……! いいですね」
 うちはお父さんが亡くなっているし、お母さんはあんな感じだし、羨ましい。
 けれど、一瞬だけ深見さんの表情が陰ったような気がした。あれ? と思ったが、そのときにはもういつも通りの深見さんだったから、もしかしたら気のせいだったのかもしれない。彼はつづけて言った。
「名前も……、あ、僕の名前、雫っていうんだけど。それも父さんがつけたんだよ。女の子みたいな名前で、子供の時は恥ずかしかったけど……」
 そう言った彼は、少しはにかんだように見えた。
 へえ、名前が雫ってことは、フルネームは深見雫さんになるんだ。ふかみしずく。ふか、みしずく……。
 教えてもらった名前を脳内で何度も反芻して、気づいた。
「あっ、じゃあmisizukuってハンドルネーム、本名からとったんですか?」
「うん」
 新事実だ。
「わ、私は月宮水月って言います」
「へえ~。名字にも月って漢字が入ってるんだ。綺麗な名前だね」
「でも、深見雫には負けます」
「いや、月宮水月のほうが」
「そんな、深見さんのほうが」
「いやいや、水月さんのほうが」
 そんな漫才みたいなやりとりをしていたら、ウェイトレスが「チーズハンバーグセットA、お持ちいたしました~」と盆を持ってやってきた。
 ジュワジュワと鉄板の上で音を立てるハンバーグは、思っていたのより4倍くらい大きくて。「ステーキ……?」と私がつぶやいたら、深見さんがこらえきれなかったみたいに笑った。
 冷房の効いた店内で食べる熱々のハンバーグは、とても美味しかった(量が多くて結構お腹いっぱいになったけど……)。食べ終わってからも、私は深見さんから色々と話を聞いた。四つ年上の姉がいること、昔はカラオケに行ってよくそこで曲をつくったりしていたこと、作詞は苦手だけど本屋で色んな本を買って勉強したこと。
 正直、全部録音して何度でも聴き返したいくらい貴重な話ばかりだった。
 でも、そのうち店が混んできたので出ることにした。私がお金をだすと言ったら、「成人男性が、高校生の女の子に奢ってもらうわけにはいかないよ」と苦笑され、やんわりと断られてしまった。
 店外に出ると、来た時に比べてだいぶ空の彩度が落ちていた。
 駐車場に停めていた深見さんの車に二人で乗り込む。時刻は20時半を回っていた。ずいぶん長い間、話し込んでしまった。
「おいしかったね」
 運転席でシートベルトを締めながら深見さんが言った。
「はい。おいしかったです。ごちそうさまでした」
 私も後部座席でそう笑ったけど、これでもう終わりだと思うと少しさみしかった。
 だって、もともと深見さんと私の関係は、友達でも恋人でも家族でもない。他人なのだ。
 私がお礼をしたいと何度も言ったから、深見さんが折れてくれて、今日は運よく二人で会ってお茶をすることができたけど……。
 でも、そのお礼も終わってしまえば、深見さんが私と会う理由はもうない。今日が終われば、彼とは二度と会えない気がした。
「……あのさ、この後どっか行きたいところある?」
 突然、深見さんが嬉しいことを言ってくれた。今日を引き延ばそうとしてくれているような気がして、私はそれがとても嬉しかった。
「えっ、い、いいんですか?」
「うん。せっかく出てきてくれたんでしょ? どこにでもつれてくよ。帰りはもちろん家まで送るし」
「え、えっと……えっと……、じゃあ」

――今度、海にあそびにいくんだけど月宮さんも行かない?

――俺んちは海につれてってくれるって言ってんだけどさ。

 このとき、どうしてだか、クラスメイトの声と、知らない小学生の言葉を思い出した。
「海に、行きたいです」
 そして私は、願望をそのまま口にしてしまった。
 少しの間があって、深見さんはぎこちなく言った。
「み、水月さん……今から海に行ったら、片道で三時間はかかっちゃうよ……?」
「あ、ですよね! い、行けるわけないですよね……」
 ハッとした私は、なんとか笑いを浮かべた。はずかしい。一回、外に出れたからって、どこへでも行けるわけがないのに……。
「すみません、ヘンなこと言って……」
「……水月さんあのさ」
「は、はい」
「今から行ったら夜中になっちゃうからさ、海はまた今度、晴れた昼間に行かない?」
 彼がそんなことを言ったのを聞いて、心底びっくりした。顔を上げる。運転席からこちらを振り向いている彼は、笑顔だった。
「また、会ってくれるんですか……?」
 こわごわとそう尋ねた直後に、もしかしたら社交辞令だったかもしれないと気づいて少し恥ずかしくなる。けど、深見さんは「水月さんが良いんなら」と笑顔を向けてくれた。
 胸が熱くなる。言葉にできないくらい、嬉しかった。
「で、でもどうしてそんなこと言ってくれるんですか?」
 深見さんは社会人だ。毎日仕事で疲れているだろうし、休みの日くらいは家でゆっくり休みたいんじゃ……。
「僕が、水月さんには、もう少し自由でいてほしいと思うからだよ」
 彼は、私の先刻の問いにそう答えて、困ったような顔で微かに笑った。
 あ、と思った。
 そうか。私ずっと、夏の間は『不自由』だったんだ。
 そう、気づいてしまった。
 今まで、私の夏が窮屈なのは仕方ないと、夏休みは退屈なのが普通だと、そう言い聞かせていた。そうすることで、自分の心を守っていた。でも、今の私はもっと深見さんと出かけたいと思ってる。もっと自由で楽しい夏を過ごしたいと。お母さんにもしバレてしまったらと思うと怖いけれど……。
「それに、水月さんと喋るのすごく楽しいから。僕はもっと話したいんだけど……水月さんはどう? 僕と海、いきたいと思う?」
 薄暗い車内。後部座席を振り向いたまま、彼が尋ねてくる。
 少しの間、迷って、答えた。
「――海、行きたいです。深見さんと」
「今日はありがとうございました」
 家の前まで送り届けてもらい、車から降りると、私は運転席の深見さんに頭を下げた。
「ううん。僕も水月さんと話せて楽しかったよ」
 運転席の窓を開けた深見さんはそう言って笑った。
「じゃあ海いく日、あとで決めようね」
「はい」
 私は明るい気分で頷いて見せた。今年の夏休みは楽しくなりそうだ。
 「じゃあ、おやすみなさい」、と言って深見さんと別れようとしたそのときだった。背後で、玄関のドアが開く音がしたのだ。
 驚いて振り向くと……そこには、お母さんが立っていた。
 あまりの出来事に、私の頭のなかは真っ白になる。
 お母さんは、硬い表情のままこちらへと一歩ずつ近づいてきて――平手で私の頬を打った。避ける間もなく、乾いた音がして頬に痛みが走る。
「水月ちゃん、どうして約束やぶっちゃったのかなああああっ!!?」
 血走った目をしたお母さんが、ほとんど悲鳴に近い声で言った。その剣幕に、反射的にびくんと肩が跳ねる。
「LINE送っても一向に既読がつかないから、家の中で倒れてるんじゃないかって心配で戻って来てみれば……まさか家を空けて若い男の人と遊んでたなんてね」
 地を這うような低い声で、ぞっとしてしまう。
 私は頬を押さえながら、この後なにをされるのか想像して戦慄した。全身にやけどを負うことになるかもしれない。
「やっぱり水月ちゃんを一人にさせたのは失敗だったわ。昼間じゃなければ外に出てもいいとでも思ったの? 最近の夏は、熱帯夜ばかりで、夜でも気温が高いんだから! なに考えてるの!? 熱中症になったらどうするの!? また熱湯かけられないとわからないの!?」
「水月さん!」
 運転席から、あわてた様子の深見さんが転がり出てきた。お母さんは、つまらなそうな顔で深見さんを一瞥する。
「どなたですか? うちの水月ちゃんを連れまわして……」
「すみません。僕の配慮が足りませんでした。でも、心配されるようなことは誓ってしていません」
「お母さん、私、ただご飯食べにいっただけだから……」
「そんなこと言われても証拠もなしに信じられるわけないでしょう。それよりも水月ちゃんが、熱中症にでもなったらどうしてくれるの? 心配でたまらなかったんだから」
「申し訳ないです。……でも、いくらなんでも暴力はだめですよ。虐待です」
「虐待って、そんな」
 お母さんは大げさだとでも言いたげに冷笑する。
「虐待です。水月さんに平手打ちしてましたし、また熱湯かけられないとわかんないのとか言ってましたよね? こんなの立派な虐待じゃないですか」
 いつになく深見さんは険しい表情をしていた。いつものふわふわした雰囲気とは全然ちがう……。
 深見さんが私を庇う姿勢を見せると、お母さんは「ふっ」と鼻で笑った。
「ふ、あはは、あはははっ、虐待? ばか言わないで、私は水月ちゃんが熱中症にならないかが気が気じゃないのよ!」
「いくらなんでも度が過ぎてます」
「なんとでも言えばいいわ。子育てもしたことないような若造にはわかんないでしょうから!」
「や、やめてよっ!」
 気が付くと、私は叫びに近い声でそう言っていた。
 お母さんは目を丸くして私を見ていた。いつも従順で大人しい私が、いきなり大きな声を出したことに驚いたのだろう。このときの私には、体の奥からこみあげてくる謎の衝動があった。
「お母さん……、お父さんがいなくなってつらいのはわかるよ。熱中症だって、気をつけないといけないのはわかる。でも、さすがにやりすぎだよ。やっぱりちょっとおかしいよ……」
「やりすぎ……? じゃあ、水月ちゃんは熱中症になって死にたいって言うの?」
「そうじゃないけど……!」
「じゃあ、いいじゃない。別に今のままで。なにが不満なの? お母さんの言うことを聞いて対策してれば、熱中症で苦しむことは一生ないのよ?」
 お母さんはキョトンとしていた。
 私が、なにを言ってももう届かないんだろうか――……。
 そう、あきらめかけたそのときだった。
「なにをやっとるんだ」
 視界の外から声がした。顔を上げると、長らく会っていなかったおじいちゃんが立っていた。
「ちょっと……、なんでここに? 腰が痛いんじゃなかったの?」
 お母さんが目を丸くしておじいちゃんを見た。
「ああ、でも歩けないほどではないからな。いくら待ってもお前が家に来ないから、こっちから出向いてきてみれば、一体お前は水月に何をやっとるんだ。しかもこんな夜に、近所迷惑だろう」
 じろりとおじいちゃんはお母さんを見た。お母さんはバツが悪そうに黙り込む。
「それより、今の話は本当なのか? 水月に手を上げたり、家の中から出さないようにしたりしているというのは」
「……それのなにが悪いって言うの? 外にでなければでないだけ、熱中症になるリスクもなくなるんだからそれでいいじゃない。私は、水月ちゃんが心配で」
 おじいちゃんはその言葉を聞いて、大きなため息をついて眉間を指でもんだ。お母さんはどこか不安げな表情になった。叱られるのをこわがる子供みたいだ。
「水月、すまなかった」
 おじいちゃんが私を見て、今度は眉を八の字にさせる。
 え……。
「きっとたくさん窮屈な思いをしてきただろう? 気づくこともできなくて、申し訳ない。母親に生活を監視されて、外出を制限されて……今までよくがんばったな」
 おじいちゃんの優しい言葉は、するっと私の心に入り込んできて、うっかり泣きそうになってしまった。それとは反対に、お母さんは声を張り上げた。
「な、なによ……監視って! 私は、水月ちゃんが熱中症にならないかが心配で、見守ってあげてただけなのよ!? なのに、私が悪いって言うの!?」
「……きっとお前は、まだ、崇くんを亡くした悲しみを乗り越えられていないんだな。だから、こんなことをするんだろう。一度、心療内科に行った方がいい。……でも、きっとお前だって、とてもつらかっただろう。お前の親でありながら、気づいてやれなくて悪かった」
 おじいちゃんがお母さんに向かって頭を下げた。
 お母さんはほうけていた。
 でも、ゆっくりと表情がゆがんでいって、最後には涙をこぼした。顔を覆ってその場に泣き崩れてしまう。
 私はその姿をみて、胸が痛んだ。
 お母さんはお母さんで、苦しんでいたのだ。私のことを心配していた気持ちも、きっと本当だろう。でも、その気持ちが暴走して、こんなことになってしまった。
 私はうずくまって泣くお母さんのそばに寄った。しゃがみこんで、そっと背中をなでる。
「……お母さんも、お父さんがいなくなってショックだったんだよね。もし、私までいなくなっちゃったらって考えると、すごくこわかったんだよね……?」
 そう声をかけると、お母さんはさらに嗚咽した。「崇さん……」と亡き夫の名前を何度も、かすれた声で呼んでいた。私と深見さんと、おじいちゃんは、泣いている彼女を静かに眺めていた。
 白い砂浜は熱い。ビーチサンダルの靴底が薄いせいで、足の裏がほのかに温かい。涼し気な潮騒の音が辺りに響いている。
「水月さん見て! 海きれい!」
 水色の開襟シャツを着た深見さんは、海へ来るのはずいぶんと久しぶりなようで、とても浮かれていた。瞳を輝かせて水平線を指差している。
 波打ち際を歩く彼の隣で「ですね」、と笑って言葉を返した。
 レストランに行ったあの日、車内で「海に行きたい」と口にしてから約一週間が経った今日。私たちは車に乗って、海水浴場までやってきた。
「これで泳げたらもっとよかったんだけどな……。ごめん、僕が下調べをしなかったばかりに……」
 深見さんがシュンと肩を落とす。
「いえ、べつに深見さんのせいじゃないので……!」
 責任を感じている様子の彼に、慌ててフォローをする。
 そう。長い時間をかけてここまでやってきたものの、あろうことかここの海は遊泳禁止区域だったのである。駐車場に「ここで泳がないでください」という看板があるのを見つけた時は二人で愕然としてしまった。どうりで夏真っ盛りなのに誰もいないわけだ。
 でもせっかく来たんだし、せめて砂浜を歩くくらいはしておきたい。
 そういうわけで、いま私たちは、潮の音を聴きながらゆっくりと海辺を散歩している。海に入れないのは残念だけど、でもそこまで落胆する気持ちはない。だって、以前の私だったら、海に行くという行為すらも不可能だったのだ。そう思うと、今日はひとまず海に来れただけでも十分な気がした。
「お母さんは、あれからどう?」
 深見さんが唐突に尋ねてきた。
「夏の間は、おじいちゃんが家に来て一緒に生活することになったんです。お母さんも心の病院に行きはじめて、カウンセリングが始まってからはちょっと変わったんですよ。少しの時間の外出なら許してくれるようになりました。今日は友達の人と海にいくって言ったらすごく心配してましたけど、おじいちゃんは行ってきなさいって送り出してくれました」
 お母さんがもとにもどるのは、まだ先のことになりそうだ。
 でも、私には深見さんのつくった曲がある。
 あの歌たちが、私の夏の生活に、潤いを与え、彩りを添えてくれるから。なにがあってもきっと大丈夫って、そう思える。
「そっか。よかった。水月さんが嫌な思いしてなくて」
 彼はにっこりと笑みを浮かべた。
 その瞬間、なんだか少し、胸がときめいた。
 ……あれ?
 深見さんが優しいのはいつものことなのに……。
「あ、あの、今思ったんですけど、misizukuさんがつくった『ララバイ』って歌も海がモチーフでしたよね……!」
 なんだか気恥ずかしくなってしまい、私は話題を変えることにした。
「あ、本当に全部聴いてくれてるんだ。よく覚えてるね」
「はい! それはもう何回も聴いてるので……! また、ああいう感じの歌つくってほしいです。……その、深見さんはもう、曲はつくらないんですか……?」
 おずおずと、ずっと訊きたかったことを私は尋ねてしまった。すると、私のその問いに、深見さんは、足を止めた。
「? 深見さん……?」
「四年前にさ、僕の父親が事故に遭ったんだ」
 息を呑んだ。
 事故……?
「さいわい一命はとりとめたんだけど、意識が戻らなくてさ。もうずっと病院で眠り続けてる」
 当時、音大生だった深見さんは、そのとき同じ学校の人とカラオケにいて、携帯をマナーモードにしていたせいで病院から着信があったことに気づけなかった。
 最初の着信から数時間が経った頃に気づき、あわてて病院へ向かうと、そこには涙で目を真っ赤にした母と、ベッドでたくさんの管につながれ、変わり果てた姿の父の姿があったという。
「私とお父さんが苦しんでるときに、あなたはどこでなにやってたの!?」
 母にそう責められて、深見さんはなにも言えなかった。
「私が、急いで向かったときは、まだ喋ってたのよ……。雫は、雫はどこにいるんだって、ずっと呟いてたのに……」
 深見さんは、死んでいるかのように深く眠る父を見つめた。絶命するかもしれなかったときに会えなくて、申し訳なくて……。罪悪感に駆られ、何となくそれから曲をつくれない日がつづいた。そんな日々がつづくうちに、感覚がすっかりにぶってしまい、気づいた時には深見さんはまともな曲をつくることも、自分の思う通りに歌うこともできなくなってしまっていた。
「それで、音楽から距離を置きたくなって。ギターは捨てた。マイクとか機材とかも全部」
「……」
「友達には驚かれたけど音大も退学して、今は音楽と全く関係のない仕事に就職して働いてる」
 淡々と深見さんは語った。けど、裏にとても大きな傷を背負っているような気がした。
「そう……だったんですね」
「うん。それでも、今までつくった曲を消すことはどうしてもできなくて、未練がましくずっとネットに残しておいてたんだ。でも、最近は自分が昔、音楽やってたってこともだいぶ忘れてた」
「……すみません。私……」
 忘れることができて深見さんはホッとしていたかもしれない。それなのに私は、彼に「misizukuさんですか?」なんて安易に尋ねて、音楽をやっていたころのことを思い出させてしまった。もしかしたら傷を抉るようなことをしたんじゃないか。
 けれど、私の心配とは逆に、深見さんは緩く首を振った。
「謝らないで。曲をほめてもらってうれしかったのは嘘じゃないんだ。それに水月さんと出会って、本当は、僕はまた音楽やりたいって思ってたんだって、改めて気づかされたよ。ありがとう」
 そんな。お礼を言わなきゃいけないのはこっちのほうだ。
「また、曲つくってみようかな」
「えっ!!」
 何ともなしといったふうに口にしたその言葉に、うれしくて思わず飛び上がりそうになった。
 深見さんは私に笑顔を向ける。
「だって、水月さんは僕の曲を聴いてくれるんでしょ?」
「はい! 一生、聴きます!! つくってほしいです……!!」
 あまりに威勢が良かったからか、私のその返答を聞いて、深見さんは笑った。まるで太陽みたいに、眩しい笑顔だと思った。

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