それから数日間、私は悩んだ。
彼には会いたい気持ちは本当だけど、でもお母さんの言いつけをやぶったらまた火傷することになるかもしれないし……。
そうして、「予定がわかったら連絡します」と伝えたまま、一向に彼には連絡できないまま一学期最終日の放課後になった。明日からはいよいよ夏休みだ。
どうしよう……。会わない方がいいのかな。でも、会いたいし……。
きちんと日傘を差して帰宅した私は、もやもやした気持ちのまま玄関でローファーを脱いで、傘をたたんだ。
そして、次の瞬間、驚いた。
お母さんが慌ただしい足音を立てて、玄関に出てきたのだ。それもよそ行きのグリーンのワンピースを着ていて、スーツケースを引きずっている。
「ああ、水月ちゃんおかえりなさい」
お母さんは、化粧を丁寧に施した顔で私を見た。さりげなく、私の手に傘があることをちらりと確認したのが目線でわかる。
「た、ただいま。どうしたの? どこかに行くの?」
「それがね……さっき電話があって。おじいちゃんが、軽い脳貧血で倒れちゃったみたいなの」
「えっ、だ、大丈夫なの?」
おじいちゃんは、今年で76歳になる。おばあちゃんを早くに亡くしたおじいちゃんは、ここから離れた田舎町に一人で住んでいて、昔は、遊びに行くと畑でつくったトマトやとうもろこしなんかを食べさせてくれたりした。
でも三年前からは、私はもう遊びに行けていない。そもそも夏休み中の外出はゆるされていないし、お母さんは、「おじいちゃんちの近くは盆地だし、夏は気温が高くなるでしょ。熱中症にでもなったらどうするの」と、身内の家に行くことさえも嫌なようなのだ。
「もう大丈夫らしいんだけど……、でも倒れたときに腰を強く打っちゃったみたいなの。それで腰が痛くて、身の回りのことができないっていうのよ。ほんと困っちゃうわ」
お母さんは頬に手を当ててため息をついた。
でも、命に別条がないとわかって私はホッとした。
「お医者さんが言うには、骨に異状はないから二週間もすれば元通りになるでしょうって。でも、おじいちゃん一人にしておくのは心配だから、お母さんがしばらく実家に帰ろうと思うの。自分でどうにか出来ないの?って聞いても、『一人じゃなんにも出来ん、わしを見殺しにする気か』って大げさに騒ぐからうるさくって」
「そ、そうなんだ……」
「悪いんだけど、しばらく水月ちゃんは一人でお留守番しててもらえる? 明日から夏休みだし、もう高校生なんだから一人でも大丈夫よね? お母さんがそばにいてあげれないのはちょっと心配だけど……、でも向こうは盆地だから気温が高いし、水月ちゃんが熱中症にでもなったらそっちのほうが心配だから」
一人でお留守番しててくれる? というセリフがお母さんの口から出てきたとき、私は思わず目を瞬いてしまった。
お父さんが亡くなったあの夏からずっと、私の夏休みは毎年ほぼ家に軟禁されて終わりを迎えていた。でも、今年はお母さんの監視の目がないなら。今年の夏休みは、深見さんとでかけることだって出来るんじゃないか……?
しかし、そんな淡い期待をいだいたのも束の間。希望はお母さんの次の一言ですぐに砕け散った。
「言っておくけど、くれぐれも絶対、家から出ちゃダメよ。おじいちゃんのところよりは暑くないってだけで、最近じゃこの辺りだって記録的な暑さが続いてるんだから」
お母さんは私の内心の喜びを見透かしたように冷たい目をしていた。背筋が冷える心地だった。
「わかってる。絶対、外に出たりしないから……」
「ほんとう? 約束よ。もし水月ちゃんが家から出たりしたら、お母さんはすぐにわかるの。水月ちゃんのスマホにGPSのアプリも入れてあるんだから」
釘をさされて、そういえばそうだった、と思い出す。一年前の夏に、学校帰りに友達とアイスを食べに行ったことがバレて、「この暑い中、外をほっつき歩いて熱中症にでもなったらどうするの!?」とひどく叱られた覚えがある。
それから、お母さんにGPSのアプリを強制的にスマホに入れられてしまった。勝手に削除すればどうなるかということくらい、私だって馬鹿じゃないんだから容易に想像がつく。
明るい気分は一気に萎んでしまった。
「いい? 本当にわかった? 外に出たりしたらダメよ。約束だからね?」
「ああ、うん。大丈夫だよ。一歩も家から出たりしないから。安心して」
「よかった。お母さん、水月ちゃんのこと信用してるから」
お母さんは柔らかい笑顔になって、私の両手を握った。
……これじゃあ、やっぱり深見さんとは出かけられないな。
内心で、肩をおとす。
もし、お母さんとの約束をやぶったりしたら大変なことになるだろう。私だって、もう肌にやけどはしたくない。
それから「家の中にいても熱中症のリスクはあるからきちんと冷房をつけて水分を取ること」、「冷蔵庫に作り置きのおかずがあるけど、食べるものが底をついたら外には買いに行かずにデリバリーを頼むこと」、「必要なものがあったらお母さんが宅配便で送るから連絡すること」、とお母さんはたくさんの条件を言った。私は何度もうんうんと頷いた。やがて、私がわかってくれたと知って安心したのか、お母さんは満足そうな表情で「行ってくるから」と出かけていった。
お母さんの姿が見えなくなって、私は玄関の扉を閉めてしっかりと鍵をかける。
自然とため息がこぼれでた。
「会いたかったな……」
GPSさえなければ、深見さんに会えたかもしれないのに……。
いや、だめだ。そんなこと考えては。
その場で一人、かぶりを振る。
私の夏休みはいつも退屈で窮屈なのが普通だったのだ。misizukuさんの曲と出会えただけでも大きな収穫だった。それ以上を望むなんて、図々しい。
私は、スマホをスカートのポケットからとりだす。トークアプリから深見さんのアカウントをタップすると、トーク画面を開いた。このままずるずる引き延ばしてもつらいだけだし、決心がにぶらないうちに、今すぐ断りの電話を入れてしまおうと思った。
「もしもし、水月さん?」
数回のコールの後に、深見さんが出た。
「はい、水月です」
「どうしたの? あ、夏休みの予定きまった?」
「あの……そのことなんですけど、ご、ごめんなさい、私やっぱり行っちゃだめなんです」
「え?」
「申し訳ないんですけど、本当にごめんなさい」
深見さんは黙ってしまった。
たぶん、意味が分からないのだろう。「あんなにお礼したがっていたのに、やっぱり会えないって何で?」って思ってるかもしれない。
それもそうだ。「なんなんだこいつは?」と思われててもおかしくない。ひょっとしたら、勝手な子だと呆れられたかもしれない。きっともう二度と彼に会えることはないだろう。
「ど、どうしてもお礼したいって言ったの私のほうなのに、やっぱりよく考えてみたら無理でした。ごめんなさい。助けてくれてうれしかったです。歌もいつも聴いてました。深見さんに、misizukuさんに出会えてうれしかったんですけど……」
深見さんは当惑していた。
私の夏休みは、いつも灰色なんだ。お父さんが亡くなってからの夏は、ずっと毎年お母さんの決めたルールに縛られた生活で、窮屈で退屈で、暗い気分で過ごしていた。それが私の普通だった。それなのに、たまたまmisizukuさんの曲や、深見さん本人にまで出会えて、ほんの短い間だったけど今年の夏は色がついたように気分は明るくなった。それだけでも、充分じゃない彼の
そう思ったとき、「水月さん」、と優しく名前を呼ばれた。なんですか、と私は涙声になりそうなのをこらえて尋ねた。
「――何か、あったの?」
てっきり、「わかった」、「じゃあね」とか、そういう返事があると思っていたので、そんな問いかけがされたことに、たじろいだ。
「えっ……な、なんでですか?」
「いや、なんか……、この前の電話の時はすごく明るかったのに、今日は何だか声が暗い気がして。気になったんだけど……」
さすが、歌を歌っている人だけある。ちょっとした声の違いがわかるんだ。
深見さんは「誰かに行くのやめろって言われちゃった?」と続けて尋ねてくる。
「え、えっと……」
「うん」
言うつもりなんてなかったのに、彼の優しい相槌を聞いたら、ぽろりと口から言葉がこぼれていた。
「……その。夏休みは、外に出ると母に叱られるので……」
「え? なんで?」
深見さんは不可解そうな声になった。
「その……、熱中症になったら大変だからって」
「……でも、学校とかは行かせてもらえてるんだよね?」
「学校は行っても怒らないんですけど、でもまっすぐ帰ってこなきゃいけないですし、それに日傘とか水分補給とか熱中症対策もきちんとしないといけなくて……。もし、一つでも破ったら、お母さんはすごく怒ります」
「水月さんって、もしかして体が弱いの? だから、お母さんが過保護気味みたいな感じ?」
「体は弱くないです。普通です。うち、お父さんが熱中症で亡くなっていて。それから、お母さんは夏になるとずっと、ちょっと変な感じになるっていうか……」
言いながら、お母さんのことをこんなふうに言うなんてひどいかもと思った。でも、事実だったし、本当のことを口にしたらなんだかちょっと胸がすいた心地がした。
「つまり、水月さんのお母さんはそのせいで熱中症を恐れるようになって、水月さんにも夏は過保護気味で、それで今くらいの季節のときは熱中症対策を強制したり、夏休みは毎年お家から出したりしないってこと? ……それ、水月さん大丈夫なの?」
「平気です……、私、もう慣れてますし」
「でも家から出ちゃいけないってことは、せっかくの夏休みなのに友達とも遊ばせてもらえないってことでしょ? それはちょっとやりすぎなんじゃ……」
「…………まあ。でも今年はお母さんが実家に帰るから、去年の夏休みよりは気楽なんですよ。GPSで監視されてるから外にはでられないですけど……」
「……ねえ、本当に水月さんは、その生活で満足してる?」
「……」
その指摘に黙り込んでしまった。満足なんて、してるわけない。
深見さんは重ねて言った。
「ねえ、夏休みさ、もし外に出てもお母さんに怒られることがないんだとしたら、水月さんはどうしたい? それでも家に居たい? それとも外に出てみたい?」
「そ、れは」
そんなの、一択しかないに決まってる。でも、口に出してしまえばお母さんを裏切ったみたいになってしまうんじゃないかと思うと、その言葉はなかなか言えずにいた。
「いいんだよ。今は僕しか聞いてないから。僕は水月さんの本心が知りたいんだ」
その深見さんの諭すような優しい声は、胸に響いた。
「……外に、出てみたいです」
気が付くと、玄関の扉に背を向けたまま、そう口に出していた。
結局のところ、それが私の本心だったのだ。
少しの間があって、スマホの画面の奥から声がした。
「じゃあ、行こうよ。今から」
えっ……?
一瞬、思考が停止した。今……から?
「水月さんなにか予定ある?」
「ない……ですけど」
「じゃあ今からお茶しに行こう。あ、でも時間的にはご飯たべるほうがいいかな。お母さんにバレないようにこっそり出ておいで」
「あ、いえ、さっきお母さんは出かけたので今は家に私ひとりで、こっそりする必要はないですけど……」
「お、じゃあチャンスじゃん。僕、もうすぐ仕事終わるし、水月さんの家まで車で迎えに行くよ。待ってて」
果たして、電話越しの深見さんは朗らかな口調だった。
……え…………っ!?
彼には会いたい気持ちは本当だけど、でもお母さんの言いつけをやぶったらまた火傷することになるかもしれないし……。
そうして、「予定がわかったら連絡します」と伝えたまま、一向に彼には連絡できないまま一学期最終日の放課後になった。明日からはいよいよ夏休みだ。
どうしよう……。会わない方がいいのかな。でも、会いたいし……。
きちんと日傘を差して帰宅した私は、もやもやした気持ちのまま玄関でローファーを脱いで、傘をたたんだ。
そして、次の瞬間、驚いた。
お母さんが慌ただしい足音を立てて、玄関に出てきたのだ。それもよそ行きのグリーンのワンピースを着ていて、スーツケースを引きずっている。
「ああ、水月ちゃんおかえりなさい」
お母さんは、化粧を丁寧に施した顔で私を見た。さりげなく、私の手に傘があることをちらりと確認したのが目線でわかる。
「た、ただいま。どうしたの? どこかに行くの?」
「それがね……さっき電話があって。おじいちゃんが、軽い脳貧血で倒れちゃったみたいなの」
「えっ、だ、大丈夫なの?」
おじいちゃんは、今年で76歳になる。おばあちゃんを早くに亡くしたおじいちゃんは、ここから離れた田舎町に一人で住んでいて、昔は、遊びに行くと畑でつくったトマトやとうもろこしなんかを食べさせてくれたりした。
でも三年前からは、私はもう遊びに行けていない。そもそも夏休み中の外出はゆるされていないし、お母さんは、「おじいちゃんちの近くは盆地だし、夏は気温が高くなるでしょ。熱中症にでもなったらどうするの」と、身内の家に行くことさえも嫌なようなのだ。
「もう大丈夫らしいんだけど……、でも倒れたときに腰を強く打っちゃったみたいなの。それで腰が痛くて、身の回りのことができないっていうのよ。ほんと困っちゃうわ」
お母さんは頬に手を当ててため息をついた。
でも、命に別条がないとわかって私はホッとした。
「お医者さんが言うには、骨に異状はないから二週間もすれば元通りになるでしょうって。でも、おじいちゃん一人にしておくのは心配だから、お母さんがしばらく実家に帰ろうと思うの。自分でどうにか出来ないの?って聞いても、『一人じゃなんにも出来ん、わしを見殺しにする気か』って大げさに騒ぐからうるさくって」
「そ、そうなんだ……」
「悪いんだけど、しばらく水月ちゃんは一人でお留守番しててもらえる? 明日から夏休みだし、もう高校生なんだから一人でも大丈夫よね? お母さんがそばにいてあげれないのはちょっと心配だけど……、でも向こうは盆地だから気温が高いし、水月ちゃんが熱中症にでもなったらそっちのほうが心配だから」
一人でお留守番しててくれる? というセリフがお母さんの口から出てきたとき、私は思わず目を瞬いてしまった。
お父さんが亡くなったあの夏からずっと、私の夏休みは毎年ほぼ家に軟禁されて終わりを迎えていた。でも、今年はお母さんの監視の目がないなら。今年の夏休みは、深見さんとでかけることだって出来るんじゃないか……?
しかし、そんな淡い期待をいだいたのも束の間。希望はお母さんの次の一言ですぐに砕け散った。
「言っておくけど、くれぐれも絶対、家から出ちゃダメよ。おじいちゃんのところよりは暑くないってだけで、最近じゃこの辺りだって記録的な暑さが続いてるんだから」
お母さんは私の内心の喜びを見透かしたように冷たい目をしていた。背筋が冷える心地だった。
「わかってる。絶対、外に出たりしないから……」
「ほんとう? 約束よ。もし水月ちゃんが家から出たりしたら、お母さんはすぐにわかるの。水月ちゃんのスマホにGPSのアプリも入れてあるんだから」
釘をさされて、そういえばそうだった、と思い出す。一年前の夏に、学校帰りに友達とアイスを食べに行ったことがバレて、「この暑い中、外をほっつき歩いて熱中症にでもなったらどうするの!?」とひどく叱られた覚えがある。
それから、お母さんにGPSのアプリを強制的にスマホに入れられてしまった。勝手に削除すればどうなるかということくらい、私だって馬鹿じゃないんだから容易に想像がつく。
明るい気分は一気に萎んでしまった。
「いい? 本当にわかった? 外に出たりしたらダメよ。約束だからね?」
「ああ、うん。大丈夫だよ。一歩も家から出たりしないから。安心して」
「よかった。お母さん、水月ちゃんのこと信用してるから」
お母さんは柔らかい笑顔になって、私の両手を握った。
……これじゃあ、やっぱり深見さんとは出かけられないな。
内心で、肩をおとす。
もし、お母さんとの約束をやぶったりしたら大変なことになるだろう。私だって、もう肌にやけどはしたくない。
それから「家の中にいても熱中症のリスクはあるからきちんと冷房をつけて水分を取ること」、「冷蔵庫に作り置きのおかずがあるけど、食べるものが底をついたら外には買いに行かずにデリバリーを頼むこと」、「必要なものがあったらお母さんが宅配便で送るから連絡すること」、とお母さんはたくさんの条件を言った。私は何度もうんうんと頷いた。やがて、私がわかってくれたと知って安心したのか、お母さんは満足そうな表情で「行ってくるから」と出かけていった。
お母さんの姿が見えなくなって、私は玄関の扉を閉めてしっかりと鍵をかける。
自然とため息がこぼれでた。
「会いたかったな……」
GPSさえなければ、深見さんに会えたかもしれないのに……。
いや、だめだ。そんなこと考えては。
その場で一人、かぶりを振る。
私の夏休みはいつも退屈で窮屈なのが普通だったのだ。misizukuさんの曲と出会えただけでも大きな収穫だった。それ以上を望むなんて、図々しい。
私は、スマホをスカートのポケットからとりだす。トークアプリから深見さんのアカウントをタップすると、トーク画面を開いた。このままずるずる引き延ばしてもつらいだけだし、決心がにぶらないうちに、今すぐ断りの電話を入れてしまおうと思った。
「もしもし、水月さん?」
数回のコールの後に、深見さんが出た。
「はい、水月です」
「どうしたの? あ、夏休みの予定きまった?」
「あの……そのことなんですけど、ご、ごめんなさい、私やっぱり行っちゃだめなんです」
「え?」
「申し訳ないんですけど、本当にごめんなさい」
深見さんは黙ってしまった。
たぶん、意味が分からないのだろう。「あんなにお礼したがっていたのに、やっぱり会えないって何で?」って思ってるかもしれない。
それもそうだ。「なんなんだこいつは?」と思われててもおかしくない。ひょっとしたら、勝手な子だと呆れられたかもしれない。きっともう二度と彼に会えることはないだろう。
「ど、どうしてもお礼したいって言ったの私のほうなのに、やっぱりよく考えてみたら無理でした。ごめんなさい。助けてくれてうれしかったです。歌もいつも聴いてました。深見さんに、misizukuさんに出会えてうれしかったんですけど……」
深見さんは当惑していた。
私の夏休みは、いつも灰色なんだ。お父さんが亡くなってからの夏は、ずっと毎年お母さんの決めたルールに縛られた生活で、窮屈で退屈で、暗い気分で過ごしていた。それが私の普通だった。それなのに、たまたまmisizukuさんの曲や、深見さん本人にまで出会えて、ほんの短い間だったけど今年の夏は色がついたように気分は明るくなった。それだけでも、充分じゃない彼の
そう思ったとき、「水月さん」、と優しく名前を呼ばれた。なんですか、と私は涙声になりそうなのをこらえて尋ねた。
「――何か、あったの?」
てっきり、「わかった」、「じゃあね」とか、そういう返事があると思っていたので、そんな問いかけがされたことに、たじろいだ。
「えっ……な、なんでですか?」
「いや、なんか……、この前の電話の時はすごく明るかったのに、今日は何だか声が暗い気がして。気になったんだけど……」
さすが、歌を歌っている人だけある。ちょっとした声の違いがわかるんだ。
深見さんは「誰かに行くのやめろって言われちゃった?」と続けて尋ねてくる。
「え、えっと……」
「うん」
言うつもりなんてなかったのに、彼の優しい相槌を聞いたら、ぽろりと口から言葉がこぼれていた。
「……その。夏休みは、外に出ると母に叱られるので……」
「え? なんで?」
深見さんは不可解そうな声になった。
「その……、熱中症になったら大変だからって」
「……でも、学校とかは行かせてもらえてるんだよね?」
「学校は行っても怒らないんですけど、でもまっすぐ帰ってこなきゃいけないですし、それに日傘とか水分補給とか熱中症対策もきちんとしないといけなくて……。もし、一つでも破ったら、お母さんはすごく怒ります」
「水月さんって、もしかして体が弱いの? だから、お母さんが過保護気味みたいな感じ?」
「体は弱くないです。普通です。うち、お父さんが熱中症で亡くなっていて。それから、お母さんは夏になるとずっと、ちょっと変な感じになるっていうか……」
言いながら、お母さんのことをこんなふうに言うなんてひどいかもと思った。でも、事実だったし、本当のことを口にしたらなんだかちょっと胸がすいた心地がした。
「つまり、水月さんのお母さんはそのせいで熱中症を恐れるようになって、水月さんにも夏は過保護気味で、それで今くらいの季節のときは熱中症対策を強制したり、夏休みは毎年お家から出したりしないってこと? ……それ、水月さん大丈夫なの?」
「平気です……、私、もう慣れてますし」
「でも家から出ちゃいけないってことは、せっかくの夏休みなのに友達とも遊ばせてもらえないってことでしょ? それはちょっとやりすぎなんじゃ……」
「…………まあ。でも今年はお母さんが実家に帰るから、去年の夏休みよりは気楽なんですよ。GPSで監視されてるから外にはでられないですけど……」
「……ねえ、本当に水月さんは、その生活で満足してる?」
「……」
その指摘に黙り込んでしまった。満足なんて、してるわけない。
深見さんは重ねて言った。
「ねえ、夏休みさ、もし外に出てもお母さんに怒られることがないんだとしたら、水月さんはどうしたい? それでも家に居たい? それとも外に出てみたい?」
「そ、れは」
そんなの、一択しかないに決まってる。でも、口に出してしまえばお母さんを裏切ったみたいになってしまうんじゃないかと思うと、その言葉はなかなか言えずにいた。
「いいんだよ。今は僕しか聞いてないから。僕は水月さんの本心が知りたいんだ」
その深見さんの諭すような優しい声は、胸に響いた。
「……外に、出てみたいです」
気が付くと、玄関の扉に背を向けたまま、そう口に出していた。
結局のところ、それが私の本心だったのだ。
少しの間があって、スマホの画面の奥から声がした。
「じゃあ、行こうよ。今から」
えっ……?
一瞬、思考が停止した。今……から?
「水月さんなにか予定ある?」
「ない……ですけど」
「じゃあ今からお茶しに行こう。あ、でも時間的にはご飯たべるほうがいいかな。お母さんにバレないようにこっそり出ておいで」
「あ、いえ、さっきお母さんは出かけたので今は家に私ひとりで、こっそりする必要はないですけど……」
「お、じゃあチャンスじゃん。僕、もうすぐ仕事終わるし、水月さんの家まで車で迎えに行くよ。待ってて」
果たして、電話越しの深見さんは朗らかな口調だった。
……え…………っ!?