白い砂浜は熱い。ビーチサンダルの靴底が薄いせいで、足の裏がほのかに温かい。涼し気な潮騒の音が辺りに響いている。
「水月さん見て! 海きれい!」
 水色の開襟シャツを着た深見さんは、海へ来るのはずいぶんと久しぶりなようで、とても浮かれていた。瞳を輝かせて水平線を指差している。
 波打ち際を歩く彼の隣で「ですね」、と笑って言葉を返した。
 レストランに行ったあの日、車内で「海に行きたい」と口にしてから約一週間が経った今日。私たちは車に乗って、海水浴場までやってきた。
「これで泳げたらもっとよかったんだけどな……。ごめん、僕が下調べをしなかったばかりに……」
 深見さんがシュンと肩を落とす。
「いえ、べつに深見さんのせいじゃないので……!」
 責任を感じている様子の彼に、慌ててフォローをする。
 そう。長い時間をかけてここまでやってきたものの、あろうことかここの海は遊泳禁止区域だったのである。駐車場に「ここで泳がないでください」という看板があるのを見つけた時は二人で愕然としてしまった。どうりで夏真っ盛りなのに誰もいないわけだ。
 でもせっかく来たんだし、せめて砂浜を歩くくらいはしておきたい。
 そういうわけで、いま私たちは、潮の音を聴きながらゆっくりと海辺を散歩している。海に入れないのは残念だけど、でもそこまで落胆する気持ちはない。だって、以前の私だったら、海に行くという行為すらも不可能だったのだ。そう思うと、今日はひとまず海に来れただけでも十分な気がした。
「お母さんは、あれからどう?」
 深見さんが唐突に尋ねてきた。
「夏の間は、おじいちゃんが家に来て一緒に生活することになったんです。お母さんも心の病院に行きはじめて、カウンセリングが始まってからはちょっと変わったんですよ。少しの時間の外出なら許してくれるようになりました。今日は友達の人と海にいくって言ったらすごく心配してましたけど、おじいちゃんは行ってきなさいって送り出してくれました」
 お母さんがもとにもどるのは、まだ先のことになりそうだ。
 でも、私には深見さんのつくった曲がある。
 あの歌たちが、私の夏の生活に、潤いを与え、彩りを添えてくれるから。なにがあってもきっと大丈夫って、そう思える。
「そっか。よかった。水月さんが嫌な思いしてなくて」
 彼はにっこりと笑みを浮かべた。
 その瞬間、なんだか少し、胸がときめいた。
 ……あれ?
 深見さんが優しいのはいつものことなのに……。
「あ、あの、今思ったんですけど、misizukuさんがつくった『ララバイ』って歌も海がモチーフでしたよね……!」
 なんだか気恥ずかしくなってしまい、私は話題を変えることにした。
「あ、本当に全部聴いてくれてるんだ。よく覚えてるね」
「はい! それはもう何回も聴いてるので……! また、ああいう感じの歌つくってほしいです。……その、深見さんはもう、曲はつくらないんですか……?」
 おずおずと、ずっと訊きたかったことを私は尋ねてしまった。すると、私のその問いに、深見さんは、足を止めた。
「? 深見さん……?」
「四年前にさ、僕の父親が事故に遭ったんだ」
 息を呑んだ。
 事故……?
「さいわい一命はとりとめたんだけど、意識が戻らなくてさ。もうずっと病院で眠り続けてる」
 当時、音大生だった深見さんは、そのとき同じ学校の人とカラオケにいて、携帯をマナーモードにしていたせいで病院から着信があったことに気づけなかった。
 最初の着信から数時間が経った頃に気づき、あわてて病院へ向かうと、そこには涙で目を真っ赤にした母と、ベッドでたくさんの管につながれ、変わり果てた姿の父の姿があったという。
「私とお父さんが苦しんでるときに、あなたはどこでなにやってたの!?」
 母にそう責められて、深見さんはなにも言えなかった。
「私が、急いで向かったときは、まだ喋ってたのよ……。雫は、雫はどこにいるんだって、ずっと呟いてたのに……」
 深見さんは、死んでいるかのように深く眠る父を見つめた。絶命するかもしれなかったときに会えなくて、申し訳なくて……。罪悪感に駆られ、何となくそれから曲をつくれない日がつづいた。そんな日々がつづくうちに、感覚がすっかりにぶってしまい、気づいた時には深見さんはまともな曲をつくることも、自分の思う通りに歌うこともできなくなってしまっていた。
「それで、音楽から距離を置きたくなって。ギターは捨てた。マイクとか機材とかも全部」
「……」
「友達には驚かれたけど音大も退学して、今は音楽と全く関係のない仕事に就職して働いてる」
 淡々と深見さんは語った。けど、裏にとても大きな傷を背負っているような気がした。
「そう……だったんですね」
「うん。それでも、今までつくった曲を消すことはどうしてもできなくて、未練がましくずっとネットに残しておいてたんだ。でも、最近は自分が昔、音楽やってたってこともだいぶ忘れてた」
「……すみません。私……」
 忘れることができて深見さんはホッとしていたかもしれない。それなのに私は、彼に「misizukuさんですか?」なんて安易に尋ねて、音楽をやっていたころのことを思い出させてしまった。もしかしたら傷を抉るようなことをしたんじゃないか。
 けれど、私の心配とは逆に、深見さんは緩く首を振った。
「謝らないで。曲をほめてもらってうれしかったのは嘘じゃないんだ。それに水月さんと出会って、本当は、僕はまた音楽やりたいって思ってたんだって、改めて気づかされたよ。ありがとう」
 そんな。お礼を言わなきゃいけないのはこっちのほうだ。
「また、曲つくってみようかな」
「えっ!!」
 何ともなしといったふうに口にしたその言葉に、うれしくて思わず飛び上がりそうになった。
 深見さんは私に笑顔を向ける。
「だって、水月さんは僕の曲を聴いてくれるんでしょ?」
「はい! 一生、聴きます!! つくってほしいです……!!」
 あまりに威勢が良かったからか、私のその返答を聞いて、深見さんは笑った。まるで太陽みたいに、眩しい笑顔だと思った。