結局、私は誘いに乗ってしまった。
スマホにGPSのアプリを入れられているから出かけたらバレるかも、ということも伝えたら、「それならスマホを家に置いてでかければ、GPSの位置情報はずっと家に留まることになるんじゃない?」、と、とんでもない天才的な発想で返された。
たしかに私が外に出ても、スマホさえ家に置きっぱなしにしておけば、出かけたことがバレることはまずないのだ。なぜ今まで考えつかなかったのだろう。お母さんに怒られないのなら、でかけない理由なんてもうなかった。
通話が終わった直後、私は制服から、クロゼットの奥にしまいこんでいたお気に入りのワンピースを引っ張り出した。夏物の私服に袖を通すのは実に三年ぶりだった。
身支度を整えると、私は家の前で深見さんが来るのを待った。
深見さんは仕事が終わったら家に迎えに来てくれると言っていたから、私はラインで家の場所を深見さんに送っていた。見知って間もない成人男性に住所を教えるなんて、相手が深見さんじゃなければ絶対にしなかっただろう。
「水月さんお待たせ」
ドキドキしながら待っていると、白い車が家の前に停まり、運転席の窓が開いて深見さんが顔をだした。今日はスーツじゃなくて、ワイシャツを着ている。
「こ、こんばんは……! 深見さん、車もってたんですね……!」
「うん。この間までは、修理にだしてたから電車通勤してた。乗って乗ってー」
助手席と後部座席とどっちに座ればいいのか迷ったけど、彼女でもないのに助手席を選ぶのはおこがましい気がして、後部座席に座った。シートベルトを締めると車がゆっくりと出発する。少しずつ家が遠ざかっていき、「絶対に外に出ない」というお母さんとの約束を破ってしまったことへの実感がわく。でも、罪悪感はあまりない。意外なことに、非日常に足を踏み入れて高揚する気持ちの方がずっと大きかった。
「本当は会ってお茶するって約束だったけど、夕飯の時間だし、ごはん食べに行こうか。カフェじゃなくてレストランにしよう」
「あ、は、はい」
男の人の車に乗るのに慣れていなくて緊張しているせいか、どもってしまった。
「ごめんね。きょう急に誘っちゃって」
「えっ、いえそんな……! 私は全然」
「うれしかったんだよね、僕」
『うれしかった』……?
私は後部座席で一人首をかしげた。
なにか喜ばれるようなことをしたっけ……?
「最初、ホームで水月さんがお礼したい、って言ってくれた時は、年下の女の子に気を遣わせるのもバツが悪かったし断った。でも、本当はそれだけじゃなかったんだ。あのとき僕は中途半端な助け方をしてしまったから……。犯人をつかまえて駅員に引き渡すとか、そいつに注意をするとか、そういうふうにして水月さんを助けた方が、きっと世のためになったんだ。そうしないと、あいつは反省しないだろうし、きっとまた同じようなことをするだろうから、ほかに被害者がでるかもしれない。でも、そう思ってもどうしても勇気がでなくて……。結局ただ間に割って入っただけ。いい大人なのに、きちんと一人の女の子を助けることもできない、僕はそんな情けない人間なんだ。だから、お礼なんか受ける資格ないとも思ってた」
「そんなことは……」
「でも、その後、僕の曲に救われたとか、どうしてもお礼したいってめちゃくちゃ言ってくれるから……なんか、その気持ちに応えたくなって。それに僕みたいな情けない大人にそんなこと言ってくれる子がいるんだって知って、うれしかったんだ。だから、もう一回会ってもっと話してみたくなったっていうか……。それで、ちょっと今日は強引に誘っちゃったかも。ごめんね」
「いえ。うれしかったので」
私が言うと、申し訳なさそうな表情だった深見さんはちょっとうれしそうに表情をゆるめた。
でも、そうだったのか。そんなふうに思ってくれてたんだ……。
少し感動していたとき、深見さんが急ブレーキをかけた。シートベルトを締めていたのに、私は思い切りつんのめって前の座席にしがみついた。
「ふ、深見さん!?」
「ごめん、道おもいっきり間違えてた……」
運転席でステアリングを握る深見さんが、後部座席を振り向いた。なぜか私よりも驚いた表情をしている。
そういえば、この人ぬけてるところがあるとか、ドジとかよく言われるって前に言ってたかもしれない。私は、彼がホームで転んでいたことを思い出した。
深見さんは「ごめんね。ごめん」と照れ笑いしながら、車をUターンさせた。
なんか、この人かわいいな……と思ってしまったのはここだけの話だ。
深見さんがつれてきてくれたのは、小洒落た洋風のレストランだった。隠れ家的な存在なのか、夕飯時だというのに店内にお客さんはまばらだ。入店すると、ウェイトレスに奥のテーブル席へと案内され、私たちは卓を挟んで向かい合うように席に腰かけた。
「水月さん、何にする?」
深見さんがメニューを開いて机の上に広げる。どの料理も美味しそうだ。目移りしてしまって決められない。
「……深見さんのおすすめとかありますか?」
「なに頼んでも美味しいけど、特にハンバーグが絶品だよ」
「あ、じゃあそれにします……!」
初めて来るお店、オーダー迷っちゃうの私だけじゃないと思う。
「僕もこれにしよう」と言って深見さんが店員さんを呼ぶボタンを押した。軽い音が響いてすぐにウェイトレスがやってきた。
「すいません、チーズハンバーグセットAを二つ」
深見さんが注文をする。広い静かな店内で改めて聞くと、彼は地声もとても綺麗だった。
ウェイトレスのお姉さんは、「かしこまりました。チーズハンバーグセットAがお二つですね」と注文を繰り返し、一礼すると去っていった。
「私、misizukuさん……いや、深見さんの歌ってるときの声も好きなんですけど、普通にしゃべってる時の声も好きです」
「ええ?」
彩度の落ちた窓の景色を横目に、お冷に口をつけていた深見さんは正面の私を見て笑った。
「う、うまく言えないんですけど、なんか、歌ってる時よりも控えめで優しめの声っていうか……」
「そうかな……? そういえば訊きたかったんだけど、どうして僕がmisizukuって分かったの? やっぱり声? でも歌ってるときの声と地声はそんなに似てないと思うんだけど……」
「あっ、えっと、動画に映ってる腕時計と同じ時計を着けてるみたいだったので……」
「ああ、これか……! まさかこれで見つかると思わなかったなあ。これはね、大学の入学祝いに父がくれたんだよ。気に入ってて、学生の時からずっと着けてるんだ」
「そうなんですか……! いいですね」
うちはお父さんが亡くなっているし、お母さんはあんな感じだし、羨ましい。
けれど、一瞬だけ深見さんの表情が陰ったような気がした。あれ? と思ったが、そのときにはもういつも通りの深見さんだったから、もしかしたら気のせいだったのかもしれない。彼はつづけて言った。
「名前も……、あ、僕の名前、雫っていうんだけど。それも父さんがつけたんだよ。女の子みたいな名前で、子供の時は恥ずかしかったけど……」
そう言った彼は、少しはにかんだように見えた。
へえ、名前が雫ってことは、フルネームは深見雫さんになるんだ。ふかみしずく。ふか、みしずく……。
教えてもらった名前を脳内で何度も反芻して、気づいた。
「あっ、じゃあmisizukuってハンドルネーム、本名からとったんですか?」
「うん」
新事実だ。
「わ、私は月宮水月って言います」
「へえ~。名字にも月って漢字が入ってるんだ。綺麗な名前だね」
「でも、深見雫には負けます」
「いや、月宮水月のほうが」
「そんな、深見さんのほうが」
「いやいや、水月さんのほうが」
そんな漫才みたいなやりとりをしていたら、ウェイトレスが「チーズハンバーグセットA、お持ちいたしました~」と盆を持ってやってきた。
ジュワジュワと鉄板の上で音を立てるハンバーグは、思っていたのより4倍くらい大きくて。「ステーキ……?」と私がつぶやいたら、深見さんがこらえきれなかったみたいに笑った。
冷房の効いた店内で食べる熱々のハンバーグは、とても美味しかった(量が多くて結構お腹いっぱいになったけど……)。食べ終わってからも、私は深見さんから色々と話を聞いた。四つ年上の姉がいること、昔はカラオケに行ってよくそこで曲をつくったりしていたこと、作詞は苦手だけど本屋で色んな本を買って勉強したこと。
正直、全部録音して何度でも聴き返したいくらい貴重な話ばかりだった。
でも、そのうち店が混んできたので出ることにした。私がお金をだすと言ったら、「成人男性が、高校生の女の子に奢ってもらうわけにはいかないよ」と苦笑され、やんわりと断られてしまった。
店外に出ると、来た時に比べてだいぶ空の彩度が落ちていた。
駐車場に停めていた深見さんの車に二人で乗り込む。時刻は20時半を回っていた。ずいぶん長い間、話し込んでしまった。
「おいしかったね」
運転席でシートベルトを締めながら深見さんが言った。
「はい。おいしかったです。ごちそうさまでした」
私も後部座席でそう笑ったけど、これでもう終わりだと思うと少しさみしかった。
だって、もともと深見さんと私の関係は、友達でも恋人でも家族でもない。他人なのだ。
私がお礼をしたいと何度も言ったから、深見さんが折れてくれて、今日は運よく二人で会ってお茶をすることができたけど……。
でも、そのお礼も終わってしまえば、深見さんが私と会う理由はもうない。今日が終われば、彼とは二度と会えない気がした。
「……あのさ、この後どっか行きたいところある?」
突然、深見さんが嬉しいことを言ってくれた。今日を引き延ばそうとしてくれているような気がして、私はそれがとても嬉しかった。
「えっ、い、いいんですか?」
「うん。せっかく出てきてくれたんでしょ? どこにでもつれてくよ。帰りはもちろん家まで送るし」
「え、えっと……えっと……、じゃあ」
――今度、海にあそびにいくんだけど月宮さんも行かない?
――俺んちは海につれてってくれるって言ってんだけどさ。
このとき、どうしてだか、クラスメイトの声と、知らない小学生の言葉を思い出した。
「海に、行きたいです」
そして私は、願望をそのまま口にしてしまった。
少しの間があって、深見さんはぎこちなく言った。
「み、水月さん……今から海に行ったら、片道で三時間はかかっちゃうよ……?」
「あ、ですよね! い、行けるわけないですよね……」
ハッとした私は、なんとか笑いを浮かべた。はずかしい。一回、外に出れたからって、どこへでも行けるわけがないのに……。
「すみません、ヘンなこと言って……」
「……水月さんあのさ」
「は、はい」
「今から行ったら夜中になっちゃうからさ、海はまた今度、晴れた昼間に行かない?」
彼がそんなことを言ったのを聞いて、心底びっくりした。顔を上げる。運転席からこちらを振り向いている彼は、笑顔だった。
「また、会ってくれるんですか……?」
こわごわとそう尋ねた直後に、もしかしたら社交辞令だったかもしれないと気づいて少し恥ずかしくなる。けど、深見さんは「水月さんが良いんなら」と笑顔を向けてくれた。
胸が熱くなる。言葉にできないくらい、嬉しかった。
「で、でもどうしてそんなこと言ってくれるんですか?」
深見さんは社会人だ。毎日仕事で疲れているだろうし、休みの日くらいは家でゆっくり休みたいんじゃ……。
「僕が、水月さんには、もう少し自由でいてほしいと思うからだよ」
彼は、私の先刻の問いにそう答えて、困ったような顔で微かに笑った。
あ、と思った。
そうか。私ずっと、夏の間は『不自由』だったんだ。
そう、気づいてしまった。
今まで、私の夏が窮屈なのは仕方ないと、夏休みは退屈なのが普通だと、そう言い聞かせていた。そうすることで、自分の心を守っていた。でも、今の私はもっと深見さんと出かけたいと思ってる。もっと自由で楽しい夏を過ごしたいと。お母さんにもしバレてしまったらと思うと怖いけれど……。
「それに、水月さんと喋るのすごく楽しいから。僕はもっと話したいんだけど……水月さんはどう? 僕と海、いきたいと思う?」
薄暗い車内。後部座席を振り向いたまま、彼が尋ねてくる。
少しの間、迷って、答えた。
「――海、行きたいです。深見さんと」
「今日はありがとうございました」
家の前まで送り届けてもらい、車から降りると、私は運転席の深見さんに頭を下げた。
「ううん。僕も水月さんと話せて楽しかったよ」
運転席の窓を開けた深見さんはそう言って笑った。
「じゃあ海いく日、あとで決めようね」
「はい」
私は明るい気分で頷いて見せた。今年の夏休みは楽しくなりそうだ。
「じゃあ、おやすみなさい」、と言って深見さんと別れようとしたそのときだった。背後で、玄関のドアが開く音がしたのだ。
驚いて振り向くと……そこには、お母さんが立っていた。
あまりの出来事に、私の頭のなかは真っ白になる。
お母さんは、硬い表情のままこちらへと一歩ずつ近づいてきて――平手で私の頬を打った。避ける間もなく、乾いた音がして頬に痛みが走る。
「水月ちゃん、どうして約束やぶっちゃったのかなああああっ!!?」
血走った目をしたお母さんが、ほとんど悲鳴に近い声で言った。その剣幕に、反射的にびくんと肩が跳ねる。
「LINE送っても一向に既読がつかないから、家の中で倒れてるんじゃないかって心配で戻って来てみれば……まさか家を空けて若い男の人と遊んでたなんてね」
地を這うような低い声で、ぞっとしてしまう。
私は頬を押さえながら、この後なにをされるのか想像して戦慄した。全身にやけどを負うことになるかもしれない。
「やっぱり水月ちゃんを一人にさせたのは失敗だったわ。昼間じゃなければ外に出てもいいとでも思ったの? 最近の夏は、熱帯夜ばかりで、夜でも気温が高いんだから! なに考えてるの!? 熱中症になったらどうするの!? また熱湯かけられないとわからないの!?」
「水月さん!」
運転席から、あわてた様子の深見さんが転がり出てきた。お母さんは、つまらなそうな顔で深見さんを一瞥する。
「どなたですか? うちの水月ちゃんを連れまわして……」
「すみません。僕の配慮が足りませんでした。でも、心配されるようなことは誓ってしていません」
「お母さん、私、ただご飯食べにいっただけだから……」
「そんなこと言われても証拠もなしに信じられるわけないでしょう。それよりも水月ちゃんが、熱中症にでもなったらどうしてくれるの? 心配でたまらなかったんだから」
「申し訳ないです。……でも、いくらなんでも暴力はだめですよ。虐待です」
「虐待って、そんな」
お母さんは大げさだとでも言いたげに冷笑する。
「虐待です。水月さんに平手打ちしてましたし、また熱湯かけられないとわかんないのとか言ってましたよね? こんなの立派な虐待じゃないですか」
いつになく深見さんは険しい表情をしていた。いつものふわふわした雰囲気とは全然ちがう……。
深見さんが私を庇う姿勢を見せると、お母さんは「ふっ」と鼻で笑った。
「ふ、あはは、あはははっ、虐待? ばか言わないで、私は水月ちゃんが熱中症にならないかが気が気じゃないのよ!」
「いくらなんでも度が過ぎてます」
「なんとでも言えばいいわ。子育てもしたことないような若造にはわかんないでしょうから!」
「や、やめてよっ!」
気が付くと、私は叫びに近い声でそう言っていた。
お母さんは目を丸くして私を見ていた。いつも従順で大人しい私が、いきなり大きな声を出したことに驚いたのだろう。このときの私には、体の奥からこみあげてくる謎の衝動があった。
「お母さん……、お父さんがいなくなってつらいのはわかるよ。熱中症だって、気をつけないといけないのはわかる。でも、さすがにやりすぎだよ。やっぱりちょっとおかしいよ……」
「やりすぎ……? じゃあ、水月ちゃんは熱中症になって死にたいって言うの?」
「そうじゃないけど……!」
「じゃあ、いいじゃない。別に今のままで。なにが不満なの? お母さんの言うことを聞いて対策してれば、熱中症で苦しむことは一生ないのよ?」
お母さんはキョトンとしていた。
私が、なにを言ってももう届かないんだろうか――……。
そう、あきらめかけたそのときだった。
「なにをやっとるんだ」
視界の外から声がした。顔を上げると、長らく会っていなかったおじいちゃんが立っていた。
「ちょっと……、なんでここに? 腰が痛いんじゃなかったの?」
お母さんが目を丸くしておじいちゃんを見た。
「ああ、でも歩けないほどではないからな。いくら待ってもお前が家に来ないから、こっちから出向いてきてみれば、一体お前は水月に何をやっとるんだ。しかもこんな夜に、近所迷惑だろう」
じろりとおじいちゃんはお母さんを見た。お母さんはバツが悪そうに黙り込む。
「それより、今の話は本当なのか? 水月に手を上げたり、家の中から出さないようにしたりしているというのは」
「……それのなにが悪いって言うの? 外にでなければでないだけ、熱中症になるリスクもなくなるんだからそれでいいじゃない。私は、水月ちゃんが心配で」
おじいちゃんはその言葉を聞いて、大きなため息をついて眉間を指でもんだ。お母さんはどこか不安げな表情になった。叱られるのをこわがる子供みたいだ。
「水月、すまなかった」
おじいちゃんが私を見て、今度は眉を八の字にさせる。
え……。
「きっとたくさん窮屈な思いをしてきただろう? 気づくこともできなくて、申し訳ない。母親に生活を監視されて、外出を制限されて……今までよくがんばったな」
おじいちゃんの優しい言葉は、するっと私の心に入り込んできて、うっかり泣きそうになってしまった。それとは反対に、お母さんは声を張り上げた。
「な、なによ……監視って! 私は、水月ちゃんが熱中症にならないかが心配で、見守ってあげてただけなのよ!? なのに、私が悪いって言うの!?」
「……きっとお前は、まだ、崇くんを亡くした悲しみを乗り越えられていないんだな。だから、こんなことをするんだろう。一度、心療内科に行った方がいい。……でも、きっとお前だって、とてもつらかっただろう。お前の親でありながら、気づいてやれなくて悪かった」
おじいちゃんがお母さんに向かって頭を下げた。
お母さんはほうけていた。
でも、ゆっくりと表情がゆがんでいって、最後には涙をこぼした。顔を覆ってその場に泣き崩れてしまう。
私はその姿をみて、胸が痛んだ。
お母さんはお母さんで、苦しんでいたのだ。私のことを心配していた気持ちも、きっと本当だろう。でも、その気持ちが暴走して、こんなことになってしまった。
私はうずくまって泣くお母さんのそばに寄った。しゃがみこんで、そっと背中をなでる。
「……お母さんも、お父さんがいなくなってショックだったんだよね。もし、私までいなくなっちゃったらって考えると、すごくこわかったんだよね……?」
そう声をかけると、お母さんはさらに嗚咽した。「崇さん……」と亡き夫の名前を何度も、かすれた声で呼んでいた。私と深見さんと、おじいちゃんは、泣いている彼女を静かに眺めていた。
白い砂浜は熱い。ビーチサンダルの靴底が薄いせいで、足の裏がほのかに温かい。涼し気な潮騒の音が辺りに響いている。
「水月さん見て! 海きれい!」
水色の開襟シャツを着た深見さんは、海へ来るのはずいぶんと久しぶりなようで、とても浮かれていた。瞳を輝かせて水平線を指差している。
波打ち際を歩く彼の隣で「ですね」、と笑って言葉を返した。
レストランに行ったあの日、車内で「海に行きたい」と口にしてから約一週間が経った今日。私たちは車に乗って、海水浴場までやってきた。
「これで泳げたらもっとよかったんだけどな……。ごめん、僕が下調べをしなかったばかりに……」
深見さんがシュンと肩を落とす。
「いえ、べつに深見さんのせいじゃないので……!」
責任を感じている様子の彼に、慌ててフォローをする。
そう。長い時間をかけてここまでやってきたものの、あろうことかここの海は遊泳禁止区域だったのである。駐車場に「ここで泳がないでください」という看板があるのを見つけた時は二人で愕然としてしまった。どうりで夏真っ盛りなのに誰もいないわけだ。
でもせっかく来たんだし、せめて砂浜を歩くくらいはしておきたい。
そういうわけで、いま私たちは、潮の音を聴きながらゆっくりと海辺を散歩している。海に入れないのは残念だけど、でもそこまで落胆する気持ちはない。だって、以前の私だったら、海に行くという行為すらも不可能だったのだ。そう思うと、今日はひとまず海に来れただけでも十分な気がした。
「お母さんは、あれからどう?」
深見さんが唐突に尋ねてきた。
「夏の間は、おじいちゃんが家に来て一緒に生活することになったんです。お母さんも心の病院に行きはじめて、カウンセリングが始まってからはちょっと変わったんですよ。少しの時間の外出なら許してくれるようになりました。今日は友達の人と海にいくって言ったらすごく心配してましたけど、おじいちゃんは行ってきなさいって送り出してくれました」
お母さんがもとにもどるのは、まだ先のことになりそうだ。
でも、私には深見さんのつくった曲がある。
あの歌たちが、私の夏の生活に、潤いを与え、彩りを添えてくれるから。なにがあってもきっと大丈夫って、そう思える。
「そっか。よかった。水月さんが嫌な思いしてなくて」
彼はにっこりと笑みを浮かべた。
その瞬間、なんだか少し、胸がときめいた。
……あれ?
深見さんが優しいのはいつものことなのに……。
「あ、あの、今思ったんですけど、misizukuさんがつくった『ララバイ』って歌も海がモチーフでしたよね……!」
なんだか気恥ずかしくなってしまい、私は話題を変えることにした。
「あ、本当に全部聴いてくれてるんだ。よく覚えてるね」
「はい! それはもう何回も聴いてるので……! また、ああいう感じの歌つくってほしいです。……その、深見さんはもう、曲はつくらないんですか……?」
おずおずと、ずっと訊きたかったことを私は尋ねてしまった。すると、私のその問いに、深見さんは、足を止めた。
「? 深見さん……?」
「四年前にさ、僕の父親が事故に遭ったんだ」
息を呑んだ。
事故……?
「さいわい一命はとりとめたんだけど、意識が戻らなくてさ。もうずっと病院で眠り続けてる」
当時、音大生だった深見さんは、そのとき同じ学校の人とカラオケにいて、携帯をマナーモードにしていたせいで病院から着信があったことに気づけなかった。
最初の着信から数時間が経った頃に気づき、あわてて病院へ向かうと、そこには涙で目を真っ赤にした母と、ベッドでたくさんの管につながれ、変わり果てた姿の父の姿があったという。
「私とお父さんが苦しんでるときに、あなたはどこでなにやってたの!?」
母にそう責められて、深見さんはなにも言えなかった。
「私が、急いで向かったときは、まだ喋ってたのよ……。雫は、雫はどこにいるんだって、ずっと呟いてたのに……」
深見さんは、死んでいるかのように深く眠る父を見つめた。絶命するかもしれなかったときに会えなくて、申し訳なくて……。罪悪感に駆られ、何となくそれから曲をつくれない日がつづいた。そんな日々がつづくうちに、感覚がすっかりにぶってしまい、気づいた時には深見さんはまともな曲をつくることも、自分の思う通りに歌うこともできなくなってしまっていた。
「それで、音楽から距離を置きたくなって。ギターは捨てた。マイクとか機材とかも全部」
「……」
「友達には驚かれたけど音大も退学して、今は音楽と全く関係のない仕事に就職して働いてる」
淡々と深見さんは語った。けど、裏にとても大きな傷を背負っているような気がした。
「そう……だったんですね」
「うん。それでも、今までつくった曲を消すことはどうしてもできなくて、未練がましくずっとネットに残しておいてたんだ。でも、最近は自分が昔、音楽やってたってこともだいぶ忘れてた」
「……すみません。私……」
忘れることができて深見さんはホッとしていたかもしれない。それなのに私は、彼に「misizukuさんですか?」なんて安易に尋ねて、音楽をやっていたころのことを思い出させてしまった。もしかしたら傷を抉るようなことをしたんじゃないか。
けれど、私の心配とは逆に、深見さんは緩く首を振った。
「謝らないで。曲をほめてもらってうれしかったのは嘘じゃないんだ。それに水月さんと出会って、本当は、僕はまた音楽やりたいって思ってたんだって、改めて気づかされたよ。ありがとう」
そんな。お礼を言わなきゃいけないのはこっちのほうだ。
「また、曲つくってみようかな」
「えっ!!」
何ともなしといったふうに口にしたその言葉に、うれしくて思わず飛び上がりそうになった。
深見さんは私に笑顔を向ける。
「だって、水月さんは僕の曲を聴いてくれるんでしょ?」
「はい! 一生、聴きます!! つくってほしいです……!!」
あまりに威勢が良かったからか、私のその返答を聞いて、深見さんは笑った。まるで太陽みたいに、眩しい笑顔だと思った。