三年前のあの日から、ずっと窮屈な夏を過ごしていた。仕方がないと諦めていた。でも、高校一年生の夏。優しいあなたと出会って、私の夏は、色づいた。
ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ。
少しだけくぐもった目覚まし時計のアラームが聞こえる。私はぼんやりと重たい瞼を上げた。見慣れた、自分の部屋の真っ白な天井が視界に飛び込んでくる。閉じたカーテンからは光の筋がフローリングの床に引かれていた。うっすらと蝉の鳴き声もする。
「……はやく夏、終わんないかな」
寝起き特有のかすれた声でつぶやき、ベッドから上半身を起こす。
枕元にあったリモコンを操作して冷房を切った。昨夜は熱帯夜だったので、エアコンをかけっぱなしにして眠ってしまった。ついでに、片耳に装着したままだったワイヤレスイヤホンを抜き取る。
コンコン、とドアがノックされる。
「水月ちゃん? 起きなさい。……お家にいたいなら、そうしてもいいけど」
お母さんの声だ。
私は「行く」と扉越しに短く返事をする。お母さんは「……そう」と少し残念がるように言い、やがてトントンと階段を降りていった。
今日もまた、憂鬱な一日が始まる。
パジャマから制服に着替え、リビングへ降りる。台所に立つお母さんは、ニコニコしていた。
「おはよう、水月ちゃん。朝ごはん出来てるからね」
ダイニングテーブルには、毎朝おなじメニューの朝食が置かれている。
狐色にこんがりと焼かれた、八枚切りのトーストが二枚。レタスとミニトマトのサラダ。半熟の目玉焼きにカリカリのベーコン。牛乳の注がれたコップ。
「今日は最高気温34度ですって。暑くなるわ。心配ね」
お母さんは、テレビを見てため息をついた。
6:45という時刻が左上に表示されたテレビ画面。ニュースキャスターのお姉さんが、あちこちに太陽マークが浮かんだ日本地図を指揮棒のようなもので指している。「午前中から午後にかけて、全国的に厳しい暑さになりそうです」とのことだ。
「ねえ水月ちゃん。水分補給、ちゃんとしっかりしてね。今日も水筒に麦茶いれておいたから持って行って。倒れたら大変なんだから」
「うん。わかってる」
「ほんとにわかってるの?」
お母さんがいきなり、真剣な声になった。
「お父さんみたいなことになっちゃったら大変なのよ……?」
お母さんは、カウンターキッチンを隔てたまま、潤んだ瞳になった。
「……大丈夫だよ。ちゃんとしっかり水分取るし。学校には皆もいるんだからさ。万が一倒れても、気づいてもらえるし、もし少しでも具合が悪くなったら、すぐにお母さんに電話するから」
こう言えばお母さんはきっと安心するだろう、ということがわかっている私。つくりものの笑顔を向けると、お母さんの表情はやわらぐ。
反対に、私の胸にはモヤモヤとしたものが広がる。
テレビのニュースでは、「記録的な暑さが続いている今年の夏ですが、皆さんに夏休みの予定を聞いてみました」と明るい声が流れた。
画面に小さな子供が笑顔を浮かべ、「おばあちゃんちに行って、カブトムシつかまえにいく」と言っているのが見える。親もにこにこと子供に温かい視線を送っていた。
「カブトムシって……。この暑い中わざわざ子供を外に連れ出すなんて。熱中症にでもなったらどうする気なのかしら」
お母さんはあきれと非難をまぜた声音になる。
ああ、この調子だと今年の夏休みも、去年と同じ感じになるのだろう。
でもお母さんは、夏が嫌いだから。仕方ない。夏の間だけ、私が我慢してお母さんとうまく付き合えばいい話だ。
そんな空虚な気分で、トーストにかぶりつく。
家をでるとき、「絶対、これを差していくのよ。ちゃんと帰りも忘れずに差してね。熱中症になったら本当に大変なんだから」とお母さんは私に日傘を持たせた。
「……ありがとう」
かろうじて何とか笑顔をつくる。お母さんは「何度も言ってるけど、学校が終わったら寄り道せずにまっすぐ帰ってくるのよ。気を付けてね」と私に言い聞かせた。私はどこか重苦しい気持ちのまま頷いて、「いってきます」と家をでる。通学用のリュックに入れた、麦茶と氷入りの水筒が重たい。
うちにはお父さんがいない。
でも最初からいなかったかと言われるとそうではない。正確には、三年前まではいた。
私のお父さんは工事現場で建設作業をする仕事をしていた。筋肉質で、背が高くて体格もよかった。日焼けしているせいで唇の間から覗く歯が、やけに白く見えたのを覚えている。
お父さんは、私が小さい頃はよく肩車をしてくれた。「お父さん力持ちだね」と私が褒めると、お父さんは「そうだろう」と嬉しそうに笑った。「お母さんのことだって抱っこできるんだぞ」と、私の目の前でお母さんをお姫様抱っこしてみせたことだってある。お母さんは「ちょっと、この子の前でやめてよ」と言いつつもすごく嬉しそうに笑っていた。あのころは、ごく普通の幸せな家庭だった。
だけど、三年前。私が中学一年生だった夏に悲劇は起こった。あの日は、うだるような暑さの日だった。
「月宮さん、お父さんが病院に運ばれたらしいの」
給食の時間に先生が血相を変えて教室にやってきてそう言ったとき、私は言葉を失った。わけもわからず、帰り支度をするように言われ、そのままお母さんが学校へ迎えに来てくれて、その足ですぐに病院へ向かった。けれど、私たちが救急病棟へたどり着いた時には、手遅れだった。
ベッドの上でたくさんの管につながれたお父さんは、すでに息を引き取っていた。
外で建設作業をしていたお父さんは、休憩と水分補給をきちんととっていなかったようだった。トイレに行ったまま戻らず、同僚が見にいくと、そこで倒れていたのだという。いつから倒れていたのかはわからない。仕事場の人が慌てて救急車を呼んだものの、お父さんは重度の脱水症状を起こしていて、病院に搬送された時には呼吸もだいぶ薄かったそうだ。
あまりに唐突な別れだった。葬儀が終わっても、告別式が終わっても、四十九日が過ぎても、お母さんは泣いてばかりいた。私もショックで、一か月で四キロやせた。
その翌年からだ。お母さんが夏になると少しおかしくなってしまうようになったのは。
夫が亡くなったことを思い出してしまうのか、お母さんは肌が汗ばむ季節になると過剰に熱中症のことを心配した。通学だって、夏の間は毎日2Lの重たい水筒と、日傘をもっていかないと行かせてもらえない。夏休みのときは特にひどくて、「学校がないんだから、家で大人しくしてなさい。熱中症で倒れたらどうするの」と言って、私はいっさい外に出してもらえない。せっかくの休みなのに、家に軟禁される夏休みが、もう数年連続で続いている。
正直、少し重荷に感じてしまう。
でも、もう仕方のないことなのだ。きっと、お父さんがいなくなってしまったことがお母さんにとってはよほどショックだったのだ。
私が夏の間だけ、おかしくなったお母さんとうまくつきあうようにすればいいだけ。たとえ、どれだけこの生活に息苦しさを覚えたとしても。
駅にたどり着くと、私は日傘を畳んで、改札をくぐった。
ホームではスーツ姿の会社員や、同じ学校の制服の子、他校の制服を着た男子生徒が電車を待っていた。反対の路線で「人身事故が起こったため、電車に遅れがしょうじております」という駅員のアナウンスが響いている。私は、近くの列の後ろに並んだ。
やがて、電車がホームに到着し、私は降りてくる人たちの間を縫って電車に乗り込んだ。毎朝のことだけど、車内は人でごった返している。私はいつもドアの近くに立つことにしていた。席が空いているところなんて、ほとんど見たことがないし、それに、水筒を入れているせいで膨らんだリュックや、荷物になる日傘を「邪魔だな」と言いたげな疎ましそうな目で見られることも多いから。
電車が走り出し、スカートのポケットに入れていたスマホとワイヤレスイヤホンを取り出した。学校へはここから電車で二駅ほどの距離で、15分くらいかかる。そこまで長い時間ではないけど、少しでもいいから聴きたいものがあった。
パスコードを入れてスマホのロックを解除すると、昨日の晩まで聴いていた「misizuku」さんの動画が画面に表示される。
電車のなかだというのに、うっかり顔がにやけそうになってしまう。
misizukuさんは、オリジナルの曲をつくっている男の人だ。といっても、プロのアーティストとか、有名なシンガーソングライターというわけじゃない。プロフィール欄には「音大生。趣味で音楽やってます」と短く記載されているし、チャンネル登録者数も100人にも満たない。再生数も、平均して500回くらい。無料で誰でも見れる動画投稿サイトに、自身の楽曲を弾き語りしている動画を10本ほど投稿している人。
初めて彼の曲を聴いたのは三週間ほど前のことだった。自分の部屋で何となく動画サイトを見ていて、アコースティックギターを引いている手元しか映っていないサムネの動画を見つけた。左手首には、銀色で凝ったデザインの腕時計を着けているけど、顔出しはしていないようだ。457回という少ない再生数といい、「君に嘘はいわない」という平凡なタイトルといい、たいして期待もせずに、何となくその動画を再生して、私は軽く衝撃を受けた。
とても、いい曲だった。
この世のどんな悪人をも包み込んでくれそうな優しい声で、切ない愛を歌っていた。
その2分強の曲を最後まで聴き終えたとき、気がつくと私の頬には涙が流れていた。
歌を聴いて泣いたのは、あれが初めてだった。それから、私はmisizukuさんのつくった歌を毎日狂ったように聴いている。
昨日の夜もずっと聴いていた。最近じゃ、この人の声を聞かないと眠れないくらいだ。中毒になっているかも、と自分でも思う。
でも、この人はもっと評価されるべきだ。私は、一件しかコメントがないコメント欄を眺める。
『もっと、有名になってほしい』という、前に私が勇気を振り絞って書き込んだコメントには、何の反応もなかった。
misizukuさんが最後に曲を投稿したのは、四年前。もしかしたら、もう曲をつくる気はないのかもしれない。でも、この人の新曲を聴ける可能性があるんだったら、私は何年でも待つ。投稿されている曲を何度でも何度でも聴きなおして、待ってみせる。
顔も本名も知らないけど、きっと私はこの世でいちばん彼のファンだと思う。
イヤホンをつけたまま、私は気に入ってる曲のうちの一つを再生した。そうしてmisizukuさんの歌声に酔いしれていると、ふと、体に違和感を覚えた。スカートのあたりに。
痴漢になんてあったことがなかったので、自分が今されていることが何なのか理解するのに少し時間がかかった。
けど、それが痴漢だということを悟ってから、ゾッと全身に鳥肌が立った。身体中から一斉に冷や汗が噴き出してくる。心臓がバクバクと音を立てて、足が震えそうだった。
どこかで見聞きした、「痴漢にあったら、まず振り向いて相手の顔を確認する」、とか、「相手の足を踏む」、「手首をつかむ」、「相手の手をつよくつねる」などの方法が脳内をかけめぐった。
けど、内心パニックになってしまった私には、どれもができる気がしなかった。さわがれたくないし、大ごとになったら恥ずかしい。
いつもは癒されるmisizukuさんの歌声も、全然頭に入ってこなかった。
どうしよう。どうしよう……。
学校の最寄り駅に着くまでまだあと八分はある。車内は人でぎゅうぎゅうになっていて、「この人、痴漢です」なんて声を上げたらこの車両全員から注目されてしまう。そう思うと勇気はどんどん萎んでしまった。
最寄り駅まであと八分しかないんだから、私があと少し我慢すればいい。そう思ったそのときだった。
私と、痴漢の間に、誰かが割って入ってきてくれた。体の違和感がなくなる。
少し遠くから、小さく舌打ちのようなものが聞こえてきて、痴漢かはわからないけど作業着を着たおじさんが別の車両へと移動していくのが視界の端に見えた。
もしかして、だれか助けてくれた……?
そっと、後ろに割って入ってきてくれた人を見ると、スーツを着た若い男の人がいた。私の視線に気づくそぶりなどなく、素知らぬ表情で窓の外をまっすぐに眺めていた。
たぶん、私が困っているのを察して、大ごとにならないようにさりげなく助けてくれたのだ。
助かった……。
ホッとしてしまった。
その後も、そのお兄さんは、ずっと私の後ろに立っていてくれた。嫌な思いもすることなく、私は学校の最寄り駅までたどりついた。ドアが開いて、ホームに降りる。後ろの彼もここが目的地だったのか、降りた。
「あ、あの」
思わず私は振り向いて声をかけていた。お礼を言おうと思ったのだ。
でも、いつもの駅に着いたことでホッとして、なんだか胸が詰まって。
情けないことに私はホームで泣きそうになってしまっていた。ただ一言、ありがとうございました、って言えばいいのに声が上手くでてこない。
「ちょっとおいで」
見かねたのか、やがてお兄さんは優しく言った。顔を上げると、困ったような顔で笑っていた。
そのまま、ホームのベンチに案内される。そこに腰を下ろすと、「ちょっと待ってて」と言い残し、彼は近くにあった自販機に向かっていく。そして、ペットボトルの水を一本買って私の元へと戻っ――。
「あっ」
――戻ってこようとして、彼はなにもないところで盛大に転んでしまった。電車から降りてきたおじさんに二度見されている。遠くで女子高生に指差されているのが見えた。
なんとか起き上がって、こちらへ戻ってきたお兄さんは、「はい……」とペットボトルの水を差し出してくれた。うけとりながら私は、「だ、大丈夫ですか?」と尋ねてしまう。彼は「僕、よくドジとか抜けてるとかって言われるんだよね……」とはにかんでいた。
ドジっ子なのかな。大人なのに。
「で、君のほうは大丈夫?」
かがんで目線の高さを合わせてくれた。痴漢に遭ったことを言っているのだと思った。
「だ、大丈夫です……」
「ああいうのによくあうんだったら、乗る時間帯とか変えるといいらしいよ。……ていうか、さっき僕があの痴漢つかまえて、駅員さんとかに引き渡したほうがよかったかな。ごめん、なんか、中途半端な感じで助けたみたいになっちゃって」
「そんなことないです……! むしろ、大ごとになるの嫌だったので、助かったっていうか……。ありがとうございました」
顔の前で両手を合わせていたお兄さんに、私はバタバタと手を振ってそう答える。
お兄さんは、「どうする? これから。学校いけそう? それとも家の人に迎えに来てもらう?」と心配そうに訊いてきた。
「いえ……、平気です。お兄さんが、助けてくれたので。あの時、すごくホッとしました……」
「あはは。よかった。でも僕も内心、心臓バクバクだったんだよあのとき。余計なお世話だったらどうしようとか」
彼は苦笑いしながらあのときの心境を明かした。あのとき彼はまっすぐに窓の向こうの景色を見ていたように思えたけど、それは緊張で表情がこわばっていたからだったのかもしれない。気が強いわけじゃないだろうに、それでも私のことを助けてくれたんだ……。そう思うと少しキュンとしてしまった。
「あっ、ついててあげれなくて悪いけど僕そろそろ行かないと会社に遅刻しちゃうから。行くね」
じゃあ、とお兄さんは笑って立ち去ろうとした。
自分でもどうしてだかわからないけど、このまま別れたらあとで後悔するような気がした。気がつくと、私はベンチから立ち上がっていた。
「あっ、あの……!」
お兄さんが振り向いた。
「お礼がしたいので、連絡先を教えてください……!」
たぶん、こんなに勇気をだしたのは生まれて初めてだったと思う。彼は一瞬ぽかんとして、その後、驚いたように目を見開いた。
「えっ!? いや、いやいやいいよ僕が年上だからってそんな気を遣わなくても……!」
「私の気が済まないんです……!」
「ええ? でも、本当に僕そんなつもりで助けたわけじゃ……」
お兄さんは、ちょっと当惑している様子だった。でも、せっかく助けてくれたんだ。それ相応のお礼はしたい。
「おっ、お願いします……!」
「ええ、でも……」
「連絡先だけでもいいので!」
「……うーん、じゃあ、連絡先だけね?」
これ以上引き留められてしまえば、遅刻は免れないと思ったのか、お兄さんは案外素直に応じてくれた。
スマホでLIMEを交換する。コーヒーカップのアイコンに「hukami」という名前のアカウントが登録された。
「ふかみ……さん?」
「うん。深見。君は水月さんって言うんだね」
「あ、はい。水月です」
私は本名のまま登録していた。
「でも、べつにお礼とか本当気にしなくていいからね。それじゃあ」
「転ばないでくださいね」
「うん、気をつける。じゃあ」
お兄さんは軽く手を振って、去って行った。私も手を振りかえす。深見さんの手首に装着したシルバーの腕時計が、陽光に鈍く反射した。
思わず息を呑んだ。
電車の中にいた時は気がつかなかった。
お兄さんの手首に、misizukuさんが着けていたのと同じ腕時計があることに。
……え? あれって……。
深見さんが階段を登っていって、姿が見えなくなった後。私はぺたんと、ベンチに腰を落とした。蝉の鳴き声がじわじわ響いている。
う、嘘……?
駅員さんがやってきて、「すみません、顔が赤いですけど、体調が悪いんですか?」と真面目に心配されてしまった。
「でさー、昨日ね、彼氏がマジで頭おかしいこと言っててぇ」
「なあ、最悪! 数Aの課題やってくんの忘れたわ。しかも一限じゃん、ガチ終わった」
「夏休み皆で集まる日どうする? やっぱマリが土曜じゃなくて木曜にしたいって言ってんだけど」
今日も、朝の教室はザワザワと騒がしい。私は一人で、隅っこの自分の席に座っていた。スマホの画面に表示させたmisizukuさんの動画の数々を、ジッと見つめる。
部屋の白い壁を背景に、アコースティックギターを弾き語りしている動画のサムネ。首から下だけしか映っていないし、季節によって着ている服も様変わりしている。でも、その左手首にはずっと腕時計があった。
見れば見るほど、misizukuさんの腕時計は深見さんのものと同じように思えて仕方がない。全体的にシルバーなのに、文字盤の数字がローマ数字なことと、針がメタリックな青色だったところは一緒だし……。
一瞬しか見れなかったけど、misizukuさんの着けている時計と同じな気がする。
いやいや、でも同じ腕時計を持っている人なんて結構いるかもしれない……。着けていた時計が同じものだったからって、misizukuさんイコール深見さんと結びつけるのはまだ早い……。第一、misizukuさんが時計を着けていたのは四年前だ。今もあの時計を着けているとはかぎらない。
でも、偶然だと自分に言い聞かせようとしても、私の胸はドキドキと高鳴っている。
だってもし、深見さんがmisizukuさんだったら……。
「ねえ、月宮さん!」
頬がゆるみかけたとき、いきなり視界の外から声をかけられて驚いた。顔を上げると、クラスメイトの女子がニッコリと笑って立っていた。栗色に染めたふわふわの長い髪を、紺色のシュシュでポニーテールに結っている。あまり話したことない子だ。と言っても、私はクラスに親しくしてる人はいないからクラスメイトのほぼ全員とあまり話したことがないのだけど。
「あ、えっと……なに?」
「月宮さんさ、夏休み忙しい?」
「え……暇だけど」
「ほんと? じゃあさ、うちらと一緒に海に遊びに行かない?」
「へ?」
思わず間抜けな声が出てしまった。
なんで私……?
「いやー、入学してから三ヶ月経つけどさ、うち実はずっと月宮さんと喋ってみたかったんだよね」
照れた様子の彼女を見て、何だか信じがたい気持ちになる。
うちのクラスの女子は皆、髪を染めたり、ネイルをしていたり、化粧をしていたりと派手な感じの子が多い。でも私は黒髪だし、化粧もわからない。私みたいな地味女子なんかが、ギャルっぽい子や陽キャなグループに入っても話が合わなくて煙たがられるだろう……と思って、遠巻きに避けていた。そのせいでクラスでの交友関係は希薄になりかけていたのに。
「な、なんで私と喋りたいって思うの?」
「だって、月宮さん目立たないけどよく見たらけっこう美人だし! でも月宮さんクラス会にもほとんど来ないしさ、いつも一人でいるじゃん? 高嶺の花って感じして、だから、話しかけていいのかわかんなかったんだけど、最近はよくニコニコしてるからさ、『そんな顔するんだ!』って思って親近感わいちゃって。勇気だして話しかけてみたの」
「え、私、ニコニコしてた……?」
「うん。スマホ見て音楽聴いてる時とかめっちゃ幸せそう」
それはきっと、misizukuさんの曲を聴いているからだ。私、他人から見てそんなにあからさまに楽しそうに聴いてたなんて……。自覚がないだけにちょっと恥ずかしくなった。
「で、どう? 夏休みの28日なんだけどさ、遊ばない?」
明るく誘ってくれる彼女。
でも、私は返答に困ってしまった。
行きたくないわけではない。でも、夏休みは家から出してもらえないから、遊びには行けないのだ。
「ごめん。夏休みは暇なんだけど……ちょっと家から出られないっていうか……」
「え? なにそれ!? あ、弟とか妹の世話頼まれてるとか!?」
「いや、そういうのでもないんだけど……」
「やめときなよ、美奈」
そのとき、前下がりボブの切長の目をした子が鋭い声をかけてきた。
「そんなの行きたくないから適当なこと言ってるだけでしょ。明らかに困ってるし。来たくない人むりやり誘わなくていいから」
彼女はスマホの画面をいじりながら、去っていた。微妙な空気が流れる。
「あ、なんか、ごめん……」
彼女は申し訳なさそうな表情になると、サッと私のそばから離れていってしまった。なにか言おうと思ったけど、なんにも言葉は出てこなかった。
だってまさか、遊べない理由を詳細に述べるわけにもいかない。
お母さんが、夏の間だけおかしくなっちゃうから、なんてそんなヘビーな家庭事情を説明したら、たぶんドン引きされておしまいだ。
ちらり、と美奈さんの席のほうを見ると、両手を合わせて「ごめん」と口パクで謝られた。申し訳なさそうに笑っている。ずきりと良心が痛んだ。
本当は、できることなら私も遊びに行きたい。でも、そんなことをお母さんに言ったらひどく叱られるだろう。わがままを言ってはいけない。夏の間だけ、私ががまんすればいいのだ。仕方ないことなのだ。
机の下で、スカートをギュッと握りしめた。
「ただいま……」
その日の夕方。無事に一日を終えて帰宅し、つぶやくような声量で言って、玄関の扉を開けた。キッチンからお母さんの「おかえりなさい」という明るめの声が飛んでくる。
私は玄関の上がり框に腰を下ろして、ぼんやりとローファーを脱いだ。
今日は、ずっとうわの空だった。misizukuさんと深見さんのことが気になって、まともに授業の内容も頭に入ってこなかった。
「水月ちゃん、おやつにアイスが……あら」
玄関に出てきたお母さんは私を一目見て、訝しむような顔つきになった。
「なに?」
「水月ちゃん……、日傘は?」
「え? あっ!」
しまった。
ぼんやりしていて、うっかり学校に置いて帰ってきたことに気づいた。夏の間は、登下校の際にいつも差している傘だったのに、それを忘れてくるなんて……今日の私はどれだけボーっとしていたのだろう。
私が日傘を差すのを忘れて帰ってきたと知るなり、お母さんの目が、どんどん剣を帯びていった。
「ねえ……水月ちゃんに、なにかあったら心配だから、お母さん傘さして行ってって言ったよね?」
「ご、ごめんなさい。考えごとしてて、うっかり……」
「朝、『傘さしていって』って言ったとき、水月ちゃん、『わかった』って言ったよね? なのに、どうして約束やぶっちゃったの?」
無表情になったお母さんが一歩ずつ距離を詰めてくる。背筋が凍りつきそうだった。
「また、お仕置きしないと分からないみたいね」
恐怖で動けない私の腕を、お母さんが乱暴につかむ。これから何をされるかは、去年も同じことをされたからよく覚えている。
私はフローリングの床をほとんど引きずられるかのようにして、キッチンの流しへと連れて行かれた。私の腕の上で、お母さんが勢いよく蛇口のレバーを上げる。真水だったそれは、途端に温度を上げ、熱湯が容赦なく腕に降り注いできた。思わず息を呑む。
「あっ、熱……ッ! お母さんっ、お母さんやめてっ!」
抵抗しようとしても、後ろから私の腕をつかむお母さんは、とんでもない馬鹿力でとても敵わない。
「熱中症になったら、これより熱いんだよ!? これより痛いんだよ!? これよりも、ずっと、苦しいんだよ!? ねえ、ちゃんと分かってるの!?」
顔を見ると、お母さんは血走った目で私に向かってまくしたてていた。あまりにも恐ろしくて、抵抗をする気も失せてしまう。ただただ腕が焼けるように熱い。
「ごっ、ごめんなさい……っ!! ごめんなさい!!」
何度も謝罪を口にしたが、お母さんの指の力が緩むことはない。数分ほど、私の腕を熱湯にさらしつづけると、ようやくお母さんは解放してくれた。腕は真っ赤になっていて、熱と痛みで痺れていた。
私は肩で息をしながら、食器棚に背をつけたまま床に座り込む。お母さんが無言で、蛇口のレバーを下ろして熱湯を止めた。その視線は私の腕へと注がれている。
「早く冷やさないと火傷になるわね」
また、腕を引かれる。今度は手荒い感じではなく、迷子の子どもをインフォメーションセンターへ案内するかのような穏やかさがあった。
私は浴室へと連れていかれた。お母さんは、タライに水を張ると、そこに私の腕を沈めた。冷たさで体が凍てつくようだ。幹部に、鋭く水が染みた。思わず顔を歪めると、お母さんが甘い声で言った。
「お母さんだって、水月ちゃんの体に傷をつけたいわけじゃないし、苦しませたいわけじゃないよ。でも水月ちゃん、熱中症になったら苦しくて辛いってこと、まだよくわかってないみたいだったから、わからせてあげようとしただけ」
浴室に妙に響くその声を、泣きたいような気持ちで聞いた。
火傷の痛みと、熱中症の苦しみはまた別のものだろうに、どうして私はこんな目に遭わされないといけないんだろうか……。
夏の間のお母さんと分かり合うことは諦めているくせに、仕方ないことだと割り切ろうとしているくせに、そんなことを考えてしまう。私の腕は熱でひりついて、心は悲しみに焼かれていた。
「ね、水月ちゃん。今度からはちゃんと傘さして行けるよね? 熱中症になっちゃったら、すっごくつらいってこと、もう今のでよーくわかったもんね?」
浴室の入口に立つお母さんは、こちらを見下ろしていた。まるで、聖母のような微笑みで。娘の腕を熱湯に晒したり、氷水に突っ込んだり、今さっきまで悪魔のようなことをしていたというのに。
けれど、私は無感情に「はい。ごめんなさい」と小さな声で呟いた。「わかればいいの」とお母さんは嬉しそうに言い、夕食の支度をしにキッチンへと姿を消す。
火傷した腕を一人で冷やしながら、まだ明るい風呂場でゆっくりと息を吐く。
……大丈夫。
お母さんがおかしくなるのは、夏の間だけなんだから。今日みたいに言いつけを破ったりしない限りは、こんなふうに手を下されることはない。私が言うことさえ聞いていれば、平和でいられるんだ。次からはちゃんと日傘を差すのを忘れないで気をつければいいだけの話。私が、今だけ我慢してればいい。
「なあ、聞いて聞いて! 今年の夏休みさ、俺んち、父ちゃんがキャンプしに連れてってくれるんだぜ!」
「まじ!? いいなあ、うちは海に連れてってくれるって言ってたけど、俺もキャンプいきたいって、親に頼んでみよっかなー」
開けていた風呂場の窓から、近所の小学生がはしゃぐ声がうっすらと聞こえてきた。
あんなに小さい子供たちですらちゃんとした夏休みの予定があるというのに、私の夏休みには何の予定もない。キャンプや海なんて論外。それどころか夏休みは、コンビニへ出かけるようなちょっとした外出さえ、許されていない。
外では小学生たちが「じゃあ、もう翔太も一緒にキャンプいこーぜ」、「いいの!?」、「いいって、うちの母ちゃん翔太のこといっつも褒めてるし! 絶対いいって言ってくれるって!」、と会話を弾ませていた。
ふと、今日、教室で「夏休み、海に遊びに行かない?」と誘いを持ちかけてくれた子の顔が思い浮かんだ。
「いいな……」
本当は、私だって海とか行ってみたかった。
でも、そんなのは今の生活からしたら、どだい無理な話だ。私の高校時代の夏休みは、きっと三年間、色褪せたまま終わるだろう。
ひぐらしの鳴く声を聞きながら、私は火傷した腕を、しばらく水に浸し続けていた。そこに涙が数滴だけ混入した。制服から伸びた腕で目元をぬぐう。
早くmisizukuさんの歌が聴きたいと、それだけしか考えられなかった。