【9月18日(日)】結婚式の当日、私は10時に潤さんのマンションへ着いた。それから今日の打合せをして、お昼を一緒に食べてから、二人で式場へ向かった。
2時に到着するとすぐに係りの人との打合せを済ませて、私と潤さんは着替えにそれぞれ別室へ。母夫婦と竹本室長には3時に式場に来てもらうことになっている。
潤さんは着替えを済ませるとすぐに控室へ行って母夫婦と竹本室長に挨拶をしているはず。私は着付けに時間がかかっていた。母が様子を見に来た。
暫くして、ウエディングドレスを着た私は控室に挨拶に行った。潤さんは衣装合わせの時に見ていたので驚かないが、竹本室長の驚く様子が印象的だった。
「とってもきれいで可愛いね! 岸辺君が結婚したいと思ったのがよく分かった。君は見る目があるねえ」と言った。それから皆で式場に向かった。
私は野上さんとバージンロードを歩いた。そして式は順調に進んだ。私は嬉しくて、その喜びを噛みしめていた。母夫婦も嬉しそうなのでよかった。
誓いのキスをしたとき、私は我慢しきれなくなって涙を流してしまった。潤さんは私をじっと見つめていた。
式が終わると、二人の結婚記念写真を撮影、全員の写真はそれぞれのスマホで撮ってもらった。これで、すべて終了。着替えを済ませてから、5人で会食の会場のレストランへ向かった。
会食では話が弾んだ。皆、気の置けない人ばかりなので、楽しい食事だった。母は私が小さいころの話をした。潤さんは熱心に聞いていた。
竹本室長は研究所で潤さんと二人苦労して研究したことなどを話してくれた。やはり親しい人だけの食事会はとても楽しいものだった。
野上夫妻と竹本室長をタクシーで見送ると、二人は渋谷のホテルに向かった。私は高層のホテルの部屋は、夜景はきれいだけど落ち着かないと無理を言って、低層階の部屋にしてもらっていた。やはり今日はこの方が落ちつく。
部屋に着くと二人すぐにキスをして暫く抱き合う。それから二人でシャワーを浴びてベッドへ、しばらくはゆっくり休みたい。今日は結婚式、会食と続いて緊張していたのか二人ともかなり疲れていて、なかなか愛し合う気になれない。
「ひとつ教えて下さい。プローズしてもらった後に出てきたケーキにありがとうと書いてあったんですけど、お受けしないとは考えなかったのですか?」
「交際を申し込んだ時も、花火を見に来ないかと誘った時も、そして美沙ちゃんを抱いた時も、いつも受け入れてくれたから大丈夫と思っていた」
「随分、自信家なんですね」
「それから」
「それから?」
「美沙ちゃんは今を今日を精一杯生きるといつも言っていたから、このプロポーズされたこの時を大事にしたいと思うに違いない、大事にしない訳がない、だから絶対に受けると確信していた」
「そのとおりでした。さすがに潤さんです。もうかないません」
「でも、突然大声で泣かれたのは全くの想定外で慌てた」
「嬉しくて、嬉しくて、もう感情を抑えることができませんでした」
「あわただしかったけど、式を挙げてここまで来た。明日、婚姻届を出せば美沙ちゃんは完全に僕のものだ」
「今でもすべて潤さんのものです」
私は潤さんに抱きつく。
【9月19日(月)】二人ともぐっすり眠れたみたい。目が覚めたら6時。潤さんもほとんど同じころに目覚めたみたいだけど、じっと私に身体を寄せて動かない。肌が触れあって心地よい。
「もう少しこうしていよう」
「このままこうしていたい」
二人はまたまどろんだみたいで、今度は気が付くと8時だった。さすがにもうこれ以上は眠れない。おはようのキスをして身づくろいを始める。
9時前に朝食のラウンジに降りていくと、朝食を食べている人はまばらになっている。もうほとんどの人は朝食を終えたみたいだった。
ビュッフェスタイルで食べたいものを適当に集めてゆっくり食事。今日は休日だけどこれから二人で区役所に婚姻届を出しに行く。
10時にチェックアウトして、溝の口駅の近くの区役所へ向かう。昨日、式が済んでから竹本室長と母に署名捺印してもらった婚姻届、必要書類、身分証などすべて準備してある。
窓口で書類が確認されて受理された。婚姻届受理証明書を発行してもらった。これで潤さんは社内手続きを進めるという。
私のアパートは駅の反対側だけど、潤さんは見送り方々立ち寄って行くという。部屋の中にはもういくつか引越しの段ボールが積み上げられている。私がコーヒーを入れてここで一休み。二人で貰った書類を見る。
「本当に潤さんの奥さんになったんですね。今日から岸辺美沙ですね」
「美沙ってどういう意味?」
「父は沙というのは仏教で使われていてありがたい字だと言っていました。慈悲深い心のやさしい女の子になってほしいと付けたのだそうです」
「潤ってどう意味なんですか」
「人に潤いを与える人になってほしいと付けたそうだけど、呼びやすいのと響きも良いからとか言っていた」
「人柄に出ていますね」
「美沙ちゃんもね、一緒にいると心が癒される」
「一つ聞いてもいいですか?」
「いいよ、何?」
「潤さんは元カノと別れてから、女の人がほしくならなかったのですか?」
「健康な男だからね、そういう時もあるさ」
「それでAV見てたんですか?」
「はい、そうです。もう勘弁して、それに」
「それに?」
「それにプロの女性にご厄介になっていた。月1くらいかな、仕事の暇な時に」
「そういえば、会議がない日、午後に休暇を取っていましたね。まさかその時ですか?」
「そう、ウイークデイの午後はすいているから、それに休暇も使わないといけないから」
「まさか私と付き合ってからはないですよね!」
「それはない。だってそれからは午後の休暇を取っていないから。これからも絶対にありません。もう美沙ちゃんがいるから」
「誓って?」
「誓って!」
それを聞くと、私が潤さんに抱きついた。もう誰にも渡さない、もう誰にも遠慮はいらない。ただ、愛し合う。
それから、お昼になったけど、朝食が9時でそれもお腹いっぱいに食べたので、冷凍してあったケーキを二人で食べた。
折角の機会だから、関西へ持っていく家具や荷物のすり合わせをした。私も潤さんも家財が少ないのですぐに終わった。
もうすぐ二人だけの生活が始まるけど、あと10日ばかりは、プライベートは休日だけ! を継続して別々に生活することにした。もうしばらくの辛抱!
ブログにはこう書き込んだ。
〖結婚式を挙げた。感激して涙! でもあと10日は別居、寂しい!〗
コメント欄
[よかったね! しばらく別居ってどういうこと。離れてはだめ!]
[とうとうここまで来たのね、よかった。お幸せに!]
[入籍すればもう安心ね!これで心配なし!]
【9月20日(火)】岸辺さんに転勤の内示があった。岸辺さんは、業務部へ婚姻届受理証明書をもって、扶養家族の申請に行ってくれた。
業務室の係りの女性に内密にしておいてくれるように頼んだけど、守秘義務があるから心配しないでもいいですよと言われたとか。
それから転勤に伴う住居の手配もしてくれた。これで会社から契約している不動産会社へ依頼が行き、二人用の住居を探してもらえるそうだ。条件は2LDK、駅から歩いて5分程度、茨城研究所から通勤時間30分程度ということだった。
【9月23日(金)】業務室から転勤先の住宅候補が2件紹介されてきた。茨木駅前の物件と高槻駅前の物件。吉本さんが席を離れたので、岸辺さんは私に小声で相談する。
「関西の住まいが2件紹介されてきたので、二人で見に行かないか?」
「はい」
「26日(月)に茨木研究所で引継ぎの打合せをすることになっているので、25日(日)に行こうと思う」
「それでいいです。一緒に行きます」
「君は日帰り、僕は一泊する」
「分かりました」
【9月25日(日)】二人で物件を見に出かけた。茨木駅の駅前の不動産屋さんに着いたのが11時。すぐに歩いて5分くらいの賃貸マンションに案内してくれる。玄関はセキュリティーがしっかりしている。
部屋は5階だった。2LDKの間取り。築5年と言うだけあって最新の設備がついている。私はすぐに気に入ったので「ここでいいかなあ」と言った。でも、潤さんの勧めでもう1件見てからきめることにした。
次の物件は2駅離れた高槻にあった。ここは大阪と京都の中間地点で新快速も停車して便利は良いとのこと。駅前の不動産さんが案内してくれる。やはり歩いて5分くらい。近くにショッピングセンターがあるので買い物にも便利だ。
12階建ての7階の2LDK。セキュリティーも前の物件と同じで、部屋の造りや配置もほとんど同じ。ベランダからの見晴らしが良い。ただ、賃料が少し高い。
「どっちでもいいけどこっちかな?」
「茨木の物件は研究所に近くていいけど、近すぎる。ここは買い物にも便利だし、新快速も停まるから京都、大阪、神戸方面にも便利がいい」
「こっちにします?」
「通勤時間も30分以内だと思う。そうしようか、ここに決めた」
ここに決まったので、私はもう一度、室内を丁寧に見て回った。
「お風呂の広いのがいいし、ベランダからの眺めもいい。こんなマンションに大好きな人と住むのが夢だったんです。とっても嬉しいです」
「気に入ったところが見つかってよかった。でも、高槻の夏はかなり暑いと聞いているけど大丈夫かな?」
「大丈夫、暑いのは平気だから」
私は不動産屋さんから、部屋の図面を貰って、家具の配置案を書き込んだ。十分に見たからこれで大丈夫と思ったので、不動産屋さんに手続きをお願いして退出した。
高槻駅へ行くと丁度新快速が来たので乗車したら、次の停車駅は新大阪。すごく便利なところだと感心した。
潤さんは新大阪駅で新幹線に乗る私を見送ってくれた。潤さんは新大阪駅前のホテルに一泊して、明日の茨木研究所での引継ぎの打合せに出席する。
ブログにはこう書き込んだ。
〖新居の下見にいった。とても素敵なマンションが見つかった〗
コメント欄
[二人だけの生活が始まるのね!]
[早く生活に慣れるといいね!]
[ここで気を抜いてはだめよ、しっかり頑張って!]
【9月30日(金)】今日は朝から1日、岸辺さんは後任の笹島さんと仕事の引継ぎの打合せ。打合せには他に吉本さんと私と私の後任の業務室の同じ派遣の女子社員の神田さんも出ている。
笹島さんは有名大学卒で独身。岸辺さんの4年後輩にあたり、研究所では同じ部に所属していたとのこと。イケメンだけどとても感じのいい人だ。
神田さんは20歳になったばかりの気持ちの優しい女の子で、私と同じく地味にしているけど、変身すると私よりずっと可愛いと思う。
私が辞めることは内示の時に岸辺さんが吉本さんに話をしていた。「横山さんには随分助けられた。横山さんがいなくなると後任の笹島さんは困ると思います」といってくれたそうだ。
岸辺さんもそう思っていたので、大分前に室長に相談してくれていた。室長は「横山さんの後任は何とかするから、誰がいいか、横山さんに聞いて指名してくれ」と言われたそうで、私に相談があった。
「業務室に神田弥生という、同じ派遣会社から来た女子社員がいて、年は私より下で20歳位だけど、気が利いて仕事ができるので、彼女なら間違いありません」
と勧めた。彼女とはお昼ごはんを一緒に食べるようになって親しくなっていた。
何とか手続きが間に合ったみたいで、朝、神田さんが挨拶に来た。岸辺さんは業務室で扶養申請を受け付けてくれた女子社員だったと教えてくれた。私と同じ感じで、地味だけど、しっかりしていて私が推薦しただけのことはあると言っていた。
神田さんは嬉しそうでニコニコしていたが、私の指輪とブレスレットをジッと見ていた。
引継ぎの打合せは4時過ぎに終わった。それから、岸辺さんは関係部署に転勤の挨拶に行った。私は神田さんがもっと話を聞かせてほしいというので、会議室に残った。
6時からの送別会は会費制で行われる。同じビル内にある貸しホールにテーブルを準備して、お寿司、オードブル、つまみ、飲み物などを持ち込んで立食で行うのが通例になっているとか。参加が負担にならないように安価に済ませるみたい。時間も長くて1時間半くらいでお開きになるとのこと。
私は送別会などに出るのは初めて。普通だと派遣社員は送別会には出席しないし、やめるときも送別会はしない。今回は岸辺さんの送別会があるから一緒に私の送別会も兼ねるということになっていた。
5時になったので、私は「では会場で」と退席する。すでに私は室内と関係部門への挨拶は済ませていた。あとで岸辺さんに迷惑がかからないように丁寧に挨拶して回った。
6時丁度に、着替えをした私は会場のうしろの方にそっと入った。そっと入ったのと、プライベートスタイルになっているので、誰も私に気付いていない。
会場は20~30人位のパーティーに丁度良い大きさで、マイクも準備されている。岸辺さんは主賓だから前の中央に室長と司会者と並んで立っている。
司会者が「横山さんがまだみたいです」というと、岸辺さんが「もうきているよ」と言って「横山さん、前に来て」と手招きする。私は会場の隅をとおって中央に出て行った。みんな「あれ! 横山さん?」とあっけにとられて見ている。司会者が話始める。
「それでは、時間になりましたので、はじめます。岸辺さんが10月1日付で茨木研究所へご栄転、横山さんが今日付けて退職されますので、企画開発室の送別会を始めます。その前に岸辺さんからお話ししたいことがあるというので、お願いします」
「皆さん、本日は送別会をしていただいてありがとうございます。この場をお借りして私の方から皆様にご報告いたしたいことがあります。私、岸辺潤とここにいる横山美沙は9月18日に竹本室長にお立合いいただいて結婚式を挙げ19日に入籍しました」
会場からどっと驚きの声が上がる。
「業務に支障がないようにと今日まで内密にしてきました。ご理解いただきたいと思います。それから部下の横山と交際するにあたり、地位を利用したパワハラ、セクハラなどは一切ありませんでしたので、念のため申し上げておきます。今後ともよろしくお願い申し上げます」
私は思わず笑ってしまった。
「それでは横山さん、いや岸辺さん、一言お願いします」
会場が私に注目して静まり返る。
「皆さんの前で結婚のご報告をするとは、ここに配属になった時には思いもしませんでした。岸辺さんはこんな私に対等な立場で交際してほしいと言ってくれました。上司の立場を利用したことはありません。でも交際中にセクハラはありました。もちろん社外でのことですが。転勤の内々示のあった後にプロポーズされたときは大声で泣いてお受けしました。それからあっという間に今日ここにいます。主人共々今後ともよろしくお願いいたします」
会場から拍手とおめでとうの声が上がった。
「竹本室長、一言お願いします」
「ご結婚おめでとう。岸辺君がアシスタントに横山さんを取ってきてほしいと言ってきたけど、来てもらうと、皆も知ってのとおり、すごく地味な子でした。でも仕事はよくやってくれて、岸辺君もプロジェクトがスムースに進むようになったと喜んでいました。1か月前に岸辺君に転勤の内々示を出すとすぐに横山さんと結婚すると言ってきたので驚きました。内心、仕事はできるがあんな地味な子のどこがいいのかなと思っていました。結婚式の立ち合いを引き受けて式に出ましたが、今見てのとおり、別人かと思うほど、花嫁が可愛くて、とにかく驚きました。その時、岸辺君の人を見る目に感心しました。どうか二人赴任先でも仲良くやってほしい。終わり」
「ありがとうございます。それでは室長の音頭で乾杯します。室長よろしくお願いします」
「ご両人のご結婚を祝して乾杯」
乾杯後の雑談が始まった。事前にあまりしゃべり過ぎないようにしようと二人でしめし合わせていた。私も質問にはほどほどに答えているが、皆さんと改めてお話しできてとっても楽しかった。
私の左手首にはブレスレット、左手薬指には婚約指輪と結婚指輪が光っている。潤さんは結婚を内密にしておくため、私に断って結婚指輪を会社では送別会まで着けなかった。
二人への花束贈呈で送別会は終了した。私に名誉挽回の機会を作ってくれてとても嬉しかった。潤さんも人を見る目の良さが紹介出来て大成功だったと言っていた。
二人は花束を抱えて駅に向かう。このビルともこれでしばらくお別れと思うと少し寂しい。でも感慨に浸っている時間はない。明日は引越しの荷物を搬出して、高槻に向かわなければならない。これから、帰ってからそれぞれ最後の荷造りをすることにしている。
ブログにはこう書き込んだ。
〖送別会でカッコいいエリートの彼が可愛く変身した地味子の私と結婚したことを発表してくれた。皆、とても驚いていた〗
コメント欄
[地味子が見直されて本当に良かった]
[皆あなたを見直したと思う。良かったね!]
[嬉しかったでしょう。皆の前で結婚を発表してもらえて、彼はいい人ね!]
【10月1日(土)】今日は、午前10時に私の荷物を引越し屋さんが取りに来て、午後1時に潤さんの荷物を引き取りに来る予定になっている。どちらの家電や家具を持っていくかの仕分けはすでに終えていて、不用品はすでに処分してある。
8時に潤さんがアパートに来た。部屋の中はもうダンボールが積見上がっている。すぐに私を抱きしめてキスしてくれる。
でものんびりイチャイチャしている時間はない。最後に残ったものを段ボールに詰めるのを手伝ってくれる。でも段ボールの数はそんなに多くはない。元々家具や食器、衣料なども最小限のものだけだったから。
9時に母が訪ねてきた。お弁当を作ってきてくれたという。それから私と母は大家さんへ引越しの挨拶に行った。10時に引越し屋さんが荷物を取りに来たけど、積み込みはあっという間に終わった。
これから二人で潤さんのマンションに移動する。私と母はここでお別れ。こんなに遠く母と離れるのは初めてで、二人抱き合って泣いてしまった。
「美沙のこと、よろしくお願いします」
「お母さんも遠慮しないでお二人で泊まりに来てください」
「落ち着いたころにお邪魔するかもしれません」
「是非そうしてやって下さい」
母は駅まで送ってきてくれた。
午前11時には潤さんのマンションに到着した。ここでも残った荷物を段ボールに詰める。掃除をする。お昼になったので、母が作ってくれたお弁当を二人で食べた。私と味付けが全く同じというので「当たり前、料理を教えてもらったから」と言った。
午後1時に引越し屋さんが来た。段ボール箱、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、本棚、ベッドを運ぶ。
ベッドはセミダブルなので二人では少し小さいけど、私が小さいこのベッドがくっついて寝られてよいと気に入っていたので持って行くことになった。それから、例のAVも、いつか二人で見たいと言うと段ボールに入れてくれた。
荷物を出すのにそう時間は掛からなかった。荷物を出し終わった部屋で潤さんが一休みしているので、私は後ろから抱きついた。
「この部屋で花火大会の日に初めて結ばれて、思い出がいっぱいあるのに、もう二度とここへは戻ってこないのね」
「そう、少し寂しいね。でも今度のマンションでは一緒に暮らせる。最高だと思わない? 二人切りなんだよ。誰にも邪魔されないし、気兼ねもいらない。嬉しくない?」
「嬉しい、もう帰らなくてもいいから、夢みたい」
「じゃあ、出発するか」
二人、スーツケースを引きずって部屋を出た。ありがとう、さようなら、よい思い出をいっぱい作ってくれて!
東京駅から新幹線で新大阪へ、それからJRで高槻へ、マンションの鍵はすでに受け取ってある。先週に確認済みなので、すぐにそのまま駅前のホテルにチェックイン。荷物をおいて、近くの食堂で食事をする。
「おなかがすいたね」
「少し疲れました」
「軽く食べて、早く休もう。明日も忙しいけど大丈夫?」
「大丈夫です。もう高槻にいるんですね」
「明日の今頃は新居でゆっくりしていると思うよ」
「ここ1か月はあっという間でした。いよいよ二人きりの生活が始まるんですね」
「ああ、本当によかった。ここまで来れて」
潤さんは生姜焼き定食、私はおかめうどんを注文。関西のうどんは東京より薄味でずっとおいしい。コンビニで明日の朝食のパンと牛乳を買ってホテルへ戻る。
ホテルについて、シャワーを浴びたら、疲れがどっと出てきて、2人共ベッドにダウン。抱きついていたけど、そのまますぐに眠ってしまった。
【10月2日(日)】早く寝たせいか、翌朝は目が覚めたらまだ5時だった。はじめは寝ぼけてどこにいるのか分からなかったので、きょろきょろしたが、ホテルのベッドで潤さんの腕の中にいることが分かって安心した。
潤さんの身体の温もりを感じながらまどろむ、幸せな時間が過ぎてゆく。潤さんが目を覚ました。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日も1日忙しいよ、大丈夫?」
「早く生活ができるようにしたいので頑張ります」
「まだ6時だからもう少し抱き合って寝ていたいけど」
「そんなこと言っている場合じゃないでしょ」
私はさっと起き上がるとバスルームに入って身づくろいを始める。しぶしぶ潤さんも身づくろいを始める。昨日帰りに買ってきたパンと牛乳で朝食を摂り終えると、7時にはチェックアウトして、マンションへ。
部屋はハウスクリーニングが入っていたけど、時間が経っていると見えてよく見るとホコリが薄くついている。二人で持ってきた雑巾で拭き掃除を開始。ついでに窓も拭く。
私は満足が行くまでそこら中を磨く。ひととおり掃除が終わったころに、部屋のモニターに引越し屋さんから連絡が入る。丁度10時だった。
荷物の搬入が始まる。部屋は2LDK。家具の置き場所を指示するが、家具は少ない。大きめの部屋を寝室にするので、ベッドと中型テレビを配置、小さめの部屋を書斎にするので本棚と机を配置。
リビングにはテーブル、大型テレビ、リクライニングソファー。二人で座れるソファーがほしい。段ボール箱がリビングに積み上がる。荷物の搬入はすぐに終わった。
それから、ひとつひとつ段ボール箱を開けてゆく。大体、お互いに荷物は少ないので2時ごろにはすべて開けて所定のところにしまい込んだ。
「お昼ごはん食べてないけどどうする」
「お腹が空いているけど、疲れたのでお昼寝したい」
私はソファーに座ったけどそれから意識がない。気が付くと潤さんはパソコンをいじっている。身体に毛布が掛けられている。眠ってたみたい。
「ごめんなさい。今何時ですか」
「5時を過ぎたところだよ」
「こんな時間まで眠ってしまってごめんなさい」
「疲れていたんだね。大丈夫?」
「疲れが取れました」
「そろそろ晩御飯を食べに行こうか」
「はい」
「関西に来たのでお好み焼でも食べてみないか、ネットで調べたら、駅前にお好み焼の店があるみたいだから」
「いいですね、食べてみたいです」
お好み焼屋さんでは、私はミックス、潤さんは豚のお好み焼をそれぞれ注文して、焼きそばもおいしそうなので注文した。ビールで引越し完了の乾杯。
おいしかったのですっかり平らげた。お腹が一杯になると二人とも元気が出てきた。帰りにスーパーに寄って明日からの食材を買って行くことにした。
「冷蔵庫の中が空っぽだから、できるだけ買っていきます」
「おそらく明日は簡単な歓迎会があると思うから、夕食は食べないかもしれない」
「ちゃんとした夕食が作れるまでには少し時間がかかりそうですから、丁度良いです。メールで連絡してください」
スーパーで食料品を二人で持ちきれないほど買ったが、まだ足りない。明日、私が買い足すことにした。
マンションに帰って、すぐに買ってきたものを片付ける。私は眠ったのとお好み焼を食べたのですっかり元気になっていた。潤さんに、ここのお風呂は広いので一緒に入りたいと言うと、潤さんもそうしたいと言ってくれた。
二人でお風呂に入って身体を洗い合う。私はまたこれがしてみたかったので張り切ってしまう。一生懸命に背中を洗ってあげた。お返しにしっかり身体を洗ってもらった。楽しいお風呂だった。
それから、寝室の少し小さめのベッドで愛し合った。誰にも邪魔されない二人きりの生活が始まった。
ブログにはこう書き込んだ。
〖引越しが済んで、やっと誰にも邪魔されない二人きりの生活がはじまった!〗
コメント欄
[これからがまたたいへん、気を引き締めて、新しい生活を始めなくちゃね!]
[勝って兜の緒を締めよ!浮かれていてはダメ!気を引き締めて!]
[思いっきり彼に甘えたらいい!羨ましい!]
【10月3日(月)】7時前に私は目を覚ました。潤さんはもう起きていた。潤さんはベッドに座って窓の外を見ている。東京とはまた違った空だと言う。すぐに抱きついて、おはようのキスをする。
「寝坊をしてしまいました」
「昨夜は可愛がりすぎたかな?」
「すごく幸せでした」
「朝食の準備をします」
「ゆっくりでいいから、8時を過ぎてから出かけても十分間に合うから」
「朝、ゆっくりできるのが良いですね」
研究所までは30分も見ておけば十分だから8時過ぎに家を出ればよいという。ここでは室長だから、あまり早く出勤すると迷惑になるから、朝はゆっくりでいいみたい。職住接近は楽みたいでよかった。ここが東京とは違うところかな。
潤さんは8時10分に家を出た。これでも少し早めだという。
研究企画室のメンバーは室長を含めて6名と聞いている。研究企画室の仕事は研究所の研究管理、本社との予算折衝、研究所内の予算配分、研究の進捗管理、研究部間の調整など、本社との折衝が多いけど、潤さんは本社の関係者とは今まで何回も腹を割った話をしてきたので、電話1本で調整できるから心配していないと言っていた。
10時ごろに、部屋で簡単な歓迎会をしてくれるからとのメールが入る。それから、スーパーへ買い出しに行った。潤さんは家にいてほしいと言うので、しばらくは勤めにも出ないで主婦をすることになっている。
朝、主人を送り出して、掃除、洗濯、買い物、料理をする。これが平凡でも幸せな生活に違いない。まして大好きな潤さんとの二人きりの生活。帰りが待ち遠しい。
6時40分に[これから帰る!]のメールが入る。7時過ぎには家に帰ってくる。
私には送別会からずっと悩んでいることがあった。ブログのこと。潤さんに話そうか、やめとこうか、迷っていた。でもそのうちにバレると信頼を失うことになる。それが怖い。悩んだ末に今夜話そうと決めた。
帰宅すると玄関までとんで行って抱きつく。
「夕ご飯は食べたの?」
「まだです。お帰りを待っていました。夕食はカレーにしました。食べるかどうか分からなかったから。夕食、食べます?」
「歓迎会はビールと乾きものだけだったので軽く食べようかな」
「あのー、食事が終わったらお話ししたいことがあるんですが」
「なに?」
「食事が終わって、後片付けが済んでからにします」
潤さんは心配そうに私の顔を見ている。きっと思いつめた顔をしているに違いない。
「実は内緒にしていた私のブログのことなんですけど」
「ブログがどうかしたの?」
「実は、私が『地味子のひとりごと』のブロガー本人であることが、後任の神田弥生さんにバレてしまいました」
「ブログは『地味子のひとりごと』と言うんだ」
「ブログを始めたのは手首を切って入院していた時に、友達がそれを聞いてお見舞いに来てくれて、ブログをして何でも書き込めば、友達ができて相談に乗ってくれるようになると、ブログを進めてくれたんです。始めたのはそれからです」
「始めてどうだったの」
「辛いことなんかを書いていると、私もそうだったからとなぐさめてくれたり、アドバイスをくれる人とコメントのやりとりをするようになりました。そのうちに、料理の写真や、気に入った服や、靴や、バッグ、アクセサリー、アンティーク、食器などを紹介したりしているうちに、フォロワーが増えて、いまは3千人くらいになっています」
「すごいね、それで」
「フォロワーの中に神田弥生さんがいたんです。ブログは匿名だし、私の身元が絶対にばれないように、すごく気を使っていました」
「でも、潤さんにプロポーズされたときにもらったブレスレットの写真や婚約指輪の写真、結婚指輪の写真などをブログに載せました。とっても嬉しかったので、応援してくれた皆さんに見せてお礼を言いたかったのです」
「それで」
「送別会の日、引き継ぎが終わってから、神田さんがもう少しお聞きしたいことがあるというので、会議室に残りました」
「そういえば、打合せの後、残って何か話していたね」
「その時、神田さんが『地味子のひとりごと』のブロガーは横山さんだったんですねと言ったんです。私はそんなブログがあるんですか、知らなかったととぼけましたが『でも、そのブレスレットと指輪、あの岸辺さんからのものでしょう。私は岸辺さんの扶養申請も受け付けていましたから、それを見てピンときました』と言われて、ブロガー本人であることを認めました。そして、ブログのことは内緒にしてほしいと頼みました。もちろん、『私はファンなので絶対ほかの人には言いません』と約束してくれました」
「それでよかったじゃないか。秘密は守ってくれると思うよ。だって、後任に推薦してあげて喜んでいたんだろう」
「とっても喜んでいました」
「後任の笹島君も独身だからね」
「打合せでとっても素敵な人だと喜んでいました。それで、どうしたら私のように気に入ってもらえるのかを教えてほしいと言われて」
「それで」
「仕事を一生懸命にやること、それに」
「それに?」
「もし笹島さんが病気で休んだら、必ず看病に行くこと、そしておいしいご飯を作ってあげること、それから」
「それから?」
「看病に行くときはできるだけ、可愛く変身していくこと、それから、もし、お付き合いを申し込まれたら、仕事とプライベートをはっきり分けて、交際を絶対に秘密にすること、プライベートではできるだけ可愛くすることを勧めました。そのためにセンスを磨いておくことも」
「なるほど、僕に使った手だね」
「いいえ、これは二人が結婚至ったプロセスに基づいてのアドバイスです」
「うまくいくといいね。ところで、さっき応援してくれたとか言っていたけど誰が応援してくれたの」
「私が明日、遊園地でデートすることになったけどどうしようと書くと、皆いろいろアドバイスをくれるんです、服装とか、お弁当とか、いろいろ」
「へー」
「お部屋で花火を見ようと誘われたけどどうしようと書くと、またいろいろアドバイスが入るんです。本当にいろいろと」
「それって、だいぶ前に話題になった『電車男』と似ていない? 美沙ちゃんは『電車女』だったのか?」
「『電車男』って何ですか?」
「恋愛に不慣れな男性が電車で知り合った女性に恋をして、その悩みをパソコンでサイトに書き込むとそれを見た人がアドバイスを書き込んで応援してくれて、恋が成就する話」
「知らなかったです」
「今はスマホの時代だからね。ところでブレスレットと指輪のほかには何を書いてUpしていたの?」
「コピー室で出会ってから、ほとんどすべてです。あの婚約記念の蝋燭の灯ったケーキも」
「ええ…すべて公開? 3千人が知っている? ええ…それってマジ電車女だ!」
「ごめんなさい。でも匿名だから絶対に分かりません」
「まあ、いいか。こうして美沙ちゃんと結婚できたのだから。アドバイスを貰っても、実行したのは、美沙ちゃん自身なのだから」
「ごめんなさい。私は以前のこともあるので不安で、不安で、誰かに相談したかったんです」
「『電車男』でも彼女にそのことがバレて別れてしまいそうになるんだけど、結局仲直りする。その気持ちは当事者になるとよく分かるよ」
「本当にごめんなさい。ブログ、これからはやめておきます」
「止めることはないよ。この成功に励まされる地味子ちゃんが沢山いるだろうから、続けるといいよ、絶対にバレないようにしてだけど」
「分かりました。ありがとうございます」
「でも神田さんが笹島君と付き合って結婚することにでもなったら、神田さんは笹島君にこのことを話すと思うよ」
「でも神田さんは絶対に笹島さんに口止めすると思います。私には分かります」
「まあ、それなら安心だ」
「ブログのことをお話しして、許してもらって肩の荷が下りました。結婚してからもいままで打ち明ける勇気がありませんでした」
「結婚前でも許したと思うよ、美沙ちゃんを絶対に離したくないからね」
「ありがとう」
「ところで、新婚旅行だけど、どうする? 急に婚約して式を挙げて、すぐに引越しだから日程が取れなかった。ハワイへでも行く?」
「ハワイもいいけど、関西へは初めてきたので、休みの日にお弁当を持って、京都や奈良や神戸を二人でゆっくり歩いてみたいです。安上りですし、ブログにも載せられますから」
「行ききれないくらいにいろんなところがあるから、それでいいなら当分の間はそうしようか」
「でもこのマンションが好きなので、休日はゆっくり二人で過ごしたいです。こんなところに住むのが夢だったから。お風呂も大きいし、お部屋は2つもあるし」
「それじゃ、土曜日は好きなところに行って、日曜日は家でゆっくり過ごそう」
「これからのお休みが楽しみです」
私が潤さんに抱きつくと力一杯抱き締めてくれる。そのままベッドで愛し合う。少し節操がないけど、もう誰に遠慮もいらない。
これで、訳あり地味子の私がブランド好きのオッサンの嫁になるまでのお話はおしまいです。めでたし、めでたし。
なお、後日談になりますが、4年後に潤さんは本社に転勤になりました。家族は4人、3歳の男の子と1歳の女の子のパパとママになっていました。潤さんはとても優しいイクメンパパになっています。住まいは母夫婦の近くにしました。母夫婦はたいそう喜んでくれました。
潤さんの本社の役職は竹本企画開発室長の後任で、竹本室長は野口本部長の後任になられたそうです。神田さんは笹島さんと結婚して退職していて、その後任は神田さんが推薦した山川さんと言うこれも地味な女子の派遣社員だとか。
山川さんは前任者2名が続いて上司と結婚したのを知っているのか、神田さんから引継ぎがあったのか、仕事を一生懸命にこなしているとのことです。
いずれ笹島さんも異動になるので、後任が来ることになる。こうして地味子の伝説は引き継がれていく。地味子、がんばって幸せになって!