(9月第2土曜日)
9月9日土曜日の朝、私は新幹線に乗って帰省する。この時間、東京駅はまだそれほど混んでいない。
いつも発車の30分前には到着することにしているけど、随分早く着いた。発車時間の40分も前だった。
東京のお菓子を両親は喜ばないから、お土産は買わないことにしている。時間があるから待合室へ向かう。待合室はそんなに混んでいないみたい。入る人も多いけど出て行く人も多い。
席も空いているので一休みする。15分ほど前になったらゆっくりとホームに向かうことにしよう。9月になったとはいえ、まだまだ外は朝から暑い。
全車指定席だから並ぶ必要もないけど、すでに何人もの人が並んで待っている。清掃作業が進んでいる。もう少し待合室でゆっくりしていても良かった。暑い!
座席は8号車12Cだ。新幹線はいつもC席にする。よっぽど混まない限りB席は空席になるからうっとうしさがない。D席かE席では少し混んでいると隣に誰か座る。
いつだったか中年のおじさんが隣に座ったけど体臭が酷くていたたまれなかった。あんな匂いをさせている人の奥さんの気が知れない。かまってもらえないのか、無視されているのか分からないけど、迷惑極まりない。
私の父もあれくらいの年齢だけどあんな匂いはしない。母が気を使っているからかもしれない。でも最近父も少し老人臭がするようになった。父も歳をとったのだと思う。
ドアが開いて乗り込み始める。席に着くともうA席には人が座っていた。だから棚に荷物を載せるのをやめておいた。
座るとすぐにスマホをチェックする。スマホ依存症ではないと思っているけど、いつも見ていないと不安になる。ひょっとするとこういうのを依存症というのかも知れない。でもスマホは手放せない。
新幹線が動きだした。金沢まで2時間半かかる。今日は午後からお見合いの予定だ。去年から始めたけど、これで4回目になるかな。
最初に入った会社を2年前に辞めて、今は派遣社員として商社に勤めている。以前と比べて収入が3割ほど減ったので、生活にゆとりがない。
それもあって結婚を考えるようになった。このままずっと一人でいることを考えると後々の生活が不安だ。
両親は地元へ帰って就職したらと勧める。確かに住居費がかからないし、生活は楽になるに違いないことは分かっている。
でも生活は苦しいけど今の東京の暮らしには満足している。何でもあるし、地元にない活気がある。若い人も多い。
それに比べて、実家の周りは高齢者ばかりになっている。父はそろそろ定年になる。それまでに結婚して安心させて上げたいと思うようになった。
今日のお見合いの相手は35歳と聞いている。私が今28歳だから7歳差だ。写真も見ていない。私は顔には特にこだわらないが好みはある。まあ、良いに越したことはないが、どちらかというとイケメンでない方が浮気の心配もなく安心だと思っている。
父と母は見合い結婚で丁度7歳離れている。それをそばで見ていたから年の差もそんなに気にならない。父と母は仲が良く、母はすっかり父に頼っている。確かに父は頼りがいがあるし、私も父が好きだ。だからお見合いをする気になった。
高校の同級生では結婚した人がもう半数以上になっている。夫と一緒に赤ちゃんを抱いている写真を見せられると結婚はすべきだと思ってしまう。30歳までには結婚したいと思うようになった。30歳を過ぎると相手を選べなくなるとはよく聞く話だ。
恋愛もしてみたいけど、いままでいろいろなことがあって、恋愛が怖くなっている。大体私に声をかけてくる人は、イケメンで自分に自信のある人か、ちゃらちゃらした遊び人風な人が多かった。
どうもそんな人とは付き合う気になれなかった。普通の真面目な人はきっかけでもないとなかなか声をかけてきたりしないものだ。職場でもそうだ。
私のこだわりもあって、たまたまお付き合いをすることになった人にもつきあう一歩か二歩手前を保って、付かず離れずにしてきた。それで、私には気がないのか、他に誰かいるのかと思って、自然と離れていく人がほとんどだった。
私もどうしてもあと一歩が踏み出せなかったのでここまできたと言える。ただ、真剣に付き合ってみたいと思える人と巡り会えなかったのかもしれない。
お見合いの方が手取り早いと思っている。いつもはきっかけがなくて話ができない人とも話ができるし、付き合うきっかけを作ってくれる。
お見合いとはいかないまでも、誰かの紹介があるときっかけができるのだけど、最近そういうおせっかいをする人がいなくなっている。
お見合いではいろいろな条件が分かるので確実に良い相手が選べるとも思っている。そして条件に合った相手が見つかれば、それから好きになればいいと思っている。
私の条件は、安定した職業、会社に勤めていること。経済力が保証されているから、安心して暮らせる。次に有名大学を卒業していること。友人への見栄もあるけど、私のプライドもある。私は東京の有名私立大学を卒業した。これら2点は事前に分かる。
次に性格が合うこと、それから誠実で、父のように頼よりがいがあって、優しい人が良いと思っている。ただ、こればかりは付き合ってみなければ分からない。これがかなり難しいことは分かっている。
これまで3回しているけど、学歴と勤務先は条件に適っても、あとの条件にかなった相手はいなかった。お見合いは毎回独立したイベントだ。会う相手が段々と良くなっていくということがない。また、すべてがそろっている人はなかなかいない。
でも、少しずつ慣れてきて要領が分かってきている。いまだに納得した相手に巡り会っていないが、何人とお見合いすればいいんだろう。最近少し不安になっている。
派遣される会社を替わるたびに思うことだが、会社には良いところも悪いところもある。ある会社は概ね良いがどうしても気になるところがあったりする。別の会社では前の会社では当り前のことだったことが当たり前でなかったりする。すべて満足できる会社はなかなかない。
お見合の相手も同じだ。一長一短だ。どこか我慢していい加減に決めないと、婚期を逸してしまうと思うようになっている。
今日のお相手は地元の大学を卒業して東京の大手食品会社に勤務している。学歴と勤務先はクリヤーしている。あとは人柄だ。
こればかりは会って話してみないと分からないが、大体第一印象で分かる。私も30歳手前だ。1,2回話しただけで性格などは分かるようになっている。
A席に男の人が座っている。ときどき私をチラ見する。私はチラ見されるのには慣れている。街を歩いていても男の人の目線を感じることが少なくない。
とりわけ美人ではないと思っているけど、同級生からあなたはすごく美人で羨ましいと言われたことがある。まあ、普通よりも良い方だとは自負はしている。
A席の人は丁度30歳半ばくらいか、今日の見合い相手と同じような年齢のようだ。出入りの難しいA席には座りたがらないものだが、旅慣れているのかもしれない。
パソコンの雑誌を読んでいるが、ときどき読み疲れると外を見ている。確かに新幹線になってから、景色は良くない。私も景色よりもスマホを見ている。
スマホに疲れてうとうとしていると、あっという間に金沢に到着した。便利になったものだ。
今日は父がお見合いに同席すると言う。母が風邪を引いて体調が悪いこともあるが、気になって自分の目で相手を見たいようだ。私は母よりも父に見てもらった方が良いと思っているので好都合だ。
2時5分前に会場になっているホテルのラウンジに到着した。あいだに入ってくれた山村さんがラウンジの奥のテーブルで手を振って合図している。山村さんは母の高校の同級生と聞いている。
相手の方は母親とすでに席についていて立ってこちらに挨拶している。相手の男性はどこかで見たような気がした。近づくと山村さんが紹介してくれた。
「こちらが山野理奈さんです」
「はじめまして、山野理奈です」
「吉川亮です。新幹線でご一緒でしたね」
「そういえば、窓際の席におられましたか? どこかでお会いしたような気がしました」
「ええ……、そうでしたか、ご縁があるかもしれませんね」
山村さんが驚いた様子で言った。
「父親の山野信男です。母親の体調が悪いので私が付いてきました」
「亮の母親の吉川静江です。よろしくお願いします」
ひととおり自己紹介が終わって着席すると、ウエイトレスが注文を取りに来る。山村さんは紅茶、ほか全員はコーヒーを注文した。
父は吉川さんの勤務先について聞いていた。彼は名刺を父と私に渡して、会社の事業内容や自分の業務内容を説明してくれた。父は勤務時間や休日などについても詳しく聞いていた。結婚したら私の生活に直接係わることだから聞いてくれたのだと思う。
吉川さんは私に大学の学部と専門について聞いた。また今の勤務先と仕事の内容について聞いた。私は商社に派遣社員として勤めていることを話した。吉川さんは私が有名私立大学を卒業しているから不審に思ってその理由を聞いて来た。
私は今の段階ではあまり詳細に話したくなかったので、事情があって2年前に前の会社を辞めたとだけ答えた。吉川さんはそれ以上聞いては来なかった。もっと聞かれていれば話すつもりだったが、吉川さんの心遣いを感じた。いい人かもしれない。
吉川さんの母親の静江さんは私に料理が好きかと聞いた。私は自炊していて好きだと答えた。母親は息子の食事のことが気になるみたいだ。母親は優しそうな控えめな人だった。きついタイプではないみたい。私の母親に感じが似ている。
ひととおり話をして、話題が途切れたところで二人は席を変えることになった。吉川さんは私をここからすこし離れたホテルのラウンジへ連れて行ってくれた。ここは前回のお見合いの会場だったので、中はよく分かっている。
奥の方の隅に吉川さんは席をとった。今度は紅茶でいいかと聞かれたので、それでお願いしますと答えた。
「新幹線で席が近くだったなんて、本当にご縁があるのかもしれませんね」
「そうかもしれませんね、驚きました」
「隣にすごい美人が座っていると思っていました」
「私はときどき見られていたような気がしていました」
「こんな風に再会できるとは思いませんでした。僕はラッキーかもしれません」
「そういっていただけると嬉しいです」
「ちょっと聞いてもいいですか?」
「どうぞ、なんでも聞いて下さい」
「ご兄弟または姉妹はおられるんですか?」
「弟が一人います。3歳年下ですが、いま大阪に就職しています。あなたは?」
「同じく、2歳年下の弟がいます。東京に就職していて千葉に住んでいます」
「お互いに、長男長女ですね」
吉川さんは両親の老後をどう考えているか、私に聞かなかった。それを聞かれても今は答えがない。吉川さんも同じだろう。だからあえて聞かなかったのだと思う。
「どうして結婚する気になったのですか?」
吉川さんは率直に聞いてきた。
「この先の生活が不安です。ひとりで生きていくのが」
「それは収入の面ですか?」
「それもあります。お給料が多くないのでゆとりがありません。ひとり暮らしの漠然とした不安もあります」
「それは僕も同じです。これからもずっと一人と考えると心配になります。漠然とした老後の不安かもしれません。歳も歳ですから、親も勧めるのでそろそろ身を固めた方がよいかと思っています」
「私も同じです」
それから、吉川さんは話題を変えて、同期の親しい友人から聞いたという経済学の分野で「秘書問題」や「裁量選択問題」と呼ばれる理論分析が、お見合いにも応用できると言う話をしてくれた。
要するに「全体の約37%を見送り、それ以降に今まででベストの相手が現れたらその人を選ぶ」というのが最適なお見合いの方法らしい。
要するに10人見合いをするとして、3人目までは見送って4人目以降、それまで出会った人の中でベストな人が現れたら結婚するということのようだ。
その理論でいくと、まあ10回位はできるとして、私はもう3回しているので、今度それまでにない人が現れたら決めるのがベストということになるみたい。
これは統計学を応用した考え方のようなので納得できる部分がある。面白い話をする人だ。思わず笑ってしまった。
「もう何回か、お見合いをなさっているんですか?」
率直に聞いてみた。
「想像に任せますが、これまでにない良い人と巡り会ったら決める時期と思っています。もちろん相手の気持ち次第ですが」
「良いお話を聞かせていただきました。参考になります」
それから取り止めのない話をした。まあ、本当に雑談と言うような内容だ。雑談した方が人となりが分かる気がしている。
ただ、話をしていて分かることもあるが、分からないことの方が多い。会った時、話した時の印象で決めるしかないと思っている。あとはお付き合いするかをきめて今日中に山村さんに連絡すればいいことになっている。
「それじゃあ、これで」
「ありがとうございました」
挨拶をしてラウンジを出ると私はホテルの入口でタクシーに乗って帰った。
家では父と母が待っていた。
「どうだった?」
「お父さんの印象はどうだった?」
「誠実で人柄も良いと思った。これはいままでの経験からだ」
父は地元企業の部長をしていて、部下もそれなりにいるから意見は参考になる。
「それから、自分と同じような匂いがすると言うか性格が似ていると思った。だから、理奈をまかせて安心という気がする」
「理奈はどうなの?」
「誠実な飾らない人で好感がもてました。おつきあいしても安心と言うか」
「それなら、私も会って見たかったわ。それでどうするの?」
「もう一度、会ってもっとお話をしてみたいと思います。もう一度会って良い人だと思えば決めます。だから、山村さんにはもう一度お会いしたいと伝えてもらえますか?」
山村さんから吉川さんの返事が伝えられた。吉川さんは交際したいとのことだった。それで、もう一度会うことになった。
私は東京ではなく金沢で会いたいと伝えてもらった。吉川さんは受け入れてくれた。
(9月第3土曜日)
2回目は前日の夜遅く帰省した。帰省するのならゆっくりしたいと思ってのことだった。家に帰って、自分の部屋に戻るとなぜかほっとする。私の部屋を両親は高校を卒業して上京したときのままにしてくれている。
就職するときに地元の企業か地方公務員になろうかとも考えたが、やはり都会での生活を続けたかった。地元には無い華やかさとか活気がある。
確かに地元で親元から勤めると経済的にも楽だし、食事の準備や部屋の掃除、洗濯までもしてもらえて快適なのも分かっていた。
でもそれで人生行き止まりのような気がして東京で就職口を探した。大学のネームバリューと勉強もしっかりしていたので、一流の商社へ就職できた。お給料もまずまずで1LDKのマンションが借りられた。
でも世の中順風満帆とはいかないものだ。セクハラが原因で会社を辞めざると得なくなった。次の就職先がすぐには見つからなかったので、派遣会社に登録して派遣社員として今は商社で働いている。
そのため収入は激減した。住まいを安いアパートに替えた。それでも生活がきつい。それで両親の勧めもあって、結婚を考えるようになった。
私も28歳になっている。30歳までには結婚しないと、難しくなると言うのが両親の持論だし、そういうことが言われているのも知っている。心配もかけたくないので、これまでもお見合いをしてきた。
吉川さんは4人目でこれまでで一番いいとは思った。だから、もう一度会って確信が持てれば決めたいと思っている。
この歳になるともう現実がすっかり見えてきている。いくつかの会社に勤めたけど、どこも女性には働きづらいところがある。結婚して子供ができるとなおさらだ。それに母親になるとやはり子供が一番みたい。分かる気がする。
待ち合わせは前回と同じホテルのラウンジにして、時間も同じの土曜日の午後2時としていた。私は随分早く着いた。まだ、1時半だ。早く来過ぎた。連れが来るからと言って注文を待ってもらっている。
15分前に吉川さんが現れた。約束の時間よりも随分早い。私と同じで時間には遅れない主義のようだ。私は手を振って合図した。
「お待たせしましたか?」
「いえ、私は約束の時間に遅れるのが嫌いで、早めに来ました」
「僕も同じで早めに来ました。気が合いますね」
「もう一度会っていただいてありがとうございます。それに会うのをこちらにしてすみません。向こうだと誰かに見られているようで嫌なんです」
「まだ、交際すると決まっていないけど、まるで遠距離恋愛みたいですね。それも良いかと思います。こちらなら確かに集中できる」
「こちらの方が、お見合いして会っていると言う感じがしていいんです。私は今日で決めますから」
「それなら、ここでしばらく話をして、公園を散歩でもしますか? それから夕食を一緒にするというのはどうですか?」
「それもよいのですが、これから私の家へ来ていただけませんか?」
「あなたの家へ、ですか?」
「母にも会っていただきたいのです。ご迷惑でしょうか?」
「いや、手っ取り早くていいんじゃないかな、今からでもいいんですか?」
「出かける時に相談してきましたので大丈夫です。電話だけ入れておきます」
私はすぐに立ち上がって入口付近まで行って電話した。両親とは来る前に、家で話をしたいから先方が承諾したら家に連れて来ると言っておいた。
母が出た。これから連れて行くと言ったら、私も会ってみたいと喜んでいた。
「大丈夫です。せっかちですみません」
「いや、その方が二人には都合がいいんじゃないかな。可否判断が早くできるから」
「それに家の方が周りを気にしないでゆっくりお話しできますから」
「住所は聞いていますが、近くですか?」
「タクシーでここから10分位です」
「じゃあ、すぐに行きましょうか? 時間を大切にしたい」
二人で席を立って、ホテルの入口でタクシーに乗った。私を先に乗せて吉川さんが乗り込んだ。私は行き先を運転手に伝えた。
車の中では何を話したらいいのか分からないので、黙っている。運転手に聞かれるのもいやだから。二人とも黙っている。
10分足らずで家の前に着いた。料金を吉川さんが払いそうだったので、私の都合だからと言って私が支払った。着くと同時に玄関のドアが開いて両親が出てきた。
「よくいらっしゃいました」
「突然、お訪ねして申し訳ありません」
「娘が我が儘を申しまして、母親の登紀子です」
「初めまして、吉川 亮です」
「どうぞ、おあがり下さい」
吉川さんをリビングへ案内する。ソファーでしばらく両親を交えて話をした。父はお見合いの席で吉川さんとは話しているので、母がいろいろ聞いていた。好きな食べ物だとか、趣味について聞いていた。
食べ物は嫌いなものは特にないと言っていた。趣味は特別にないが、パソコンをいじっているのが好きだと言っていた。あとは読書とか、ありきたりの趣味だ。まあ、何かのマニアやオタクでも困る。
母は吉川さんに好感を持ったみたいだった。長い間母娘をやっているから顔つきで分かる。吉川さんも両親を特に嫌がっている様子もない。どちらかと言えば良い印象を持ったみたいで、安心した。
私は吉川さんと二人だけで相談したいことがあった。両親の前では言いにくいことだったからだ。
「私の部屋で二人だけでお話ししてもいいかしら?」
「そうだね、せっかくだから、二人でゆっくりお話ししなさい」
両親は我々を二人にさせてくれた。二階の私の部屋に吉川さんを案内した。こうなっても良いように今朝部屋を掃除して整理しておいた。部屋は8畳の洋室。
部屋の真ん中にふわふわの絨毯を敷いて、そこに座卓を置いている。私が座ったので、反対側に吉川さんが腰を下ろす。近すぎず遠すぎず、話すのに丁度よい距離感だ。
母が飲み物を持って部屋に入ってきた。私は母が部屋を離れてから話を始めようと思っている。
母が部屋を出ていくとすぐに吉川さんが話しかけてきた。結構せっかちな性格かもしれない。
「どうして僕ともう一度会いたいと思ったのですか? 断らなかったのですか?」
「はっきりとこれだからと言うことはできません。自分でもどうしてか良く分からないんです。だからもう一度お会いしてそれを確かめようと思って」
「漠然と? 迷っている?」
「何故かしら、吉川さんには安心感があるんです。あなたとなら安心して生活できるみたいな」
「安心感といいますが、どんなところですか?」
「漠然とですが、私の気持ちを大切にしてくれて、平穏に幸せに暮らしていけそうな気がするんです」
「そういわれるとあなたの気持ちを大切にしなくてはいけない気になってくるから不思議ですね」
「それと父があなたを勧めるんです」
「お父さんは僕のどこを気に入ってくれているんですか?」
「はっきりとは言わないんですが、自分と同じ匂いがするから安心して私を任せられると言っていました」
「お父さんと同じ匂いって?」
「分かりません。父はあなたに何か感じるところがあったのでしょう。でも確かにあなたには父と似ているところがあるような気がします。感じだけですが」
「それが安心感につながっている?」
「分かりません。そうかもしれません。父と母は見合い結婚なんです。母は7歳年下です。でもとても仲がいいんです。父は母に頼りにされています」
「僕たちと同じ年の差ですね」
「だから、見合い結婚もいいかなと思って」
「お父さんとは仲が良いの?」
「父は私を小さい時からとても可愛がってくれました。いつも父に守られていると言う安心感がありました。今でも父が好きです」
「ファザコンかな?」
「どういうのをファザコンというのか分かりませんが、母よりも父を頼りにしています」
「お父さんに気に入られたとは意外だ。可愛い娘を奪っていく男なのに」
「あなたはどうして私と交際しても良いと思ったのですか? どこを気に入っていただけたのですか?」
「男は単純だ。君は美人だし、頭も良い。僕は素敵な美人に憧れていました。でも、なかなか自分では声をかけたりはできません。新幹線で席が隣だったけど、すごい美人でいい感じの人だな、こんな人が今日の相手だといいなと思って横目でみていました。ラウンジで会ってまさかと驚きました。こんなチャンスは二度とないと思いました。例の理論分析からもそう思いました」
「見かけだけでその気になったのですか?」
「人は見た目が9割というのを聞いたことがあります。ほかのことも感じているのかもしれませんが、言葉にして言うことができないだけだと思います」
「私がこんな容姿でなかったらその気にならなかったのですか?」
「仮定の話には答えられないけど、美人と言っても好みがあります。君は僕の好みの美人だ。いや好みだから美人なのかもしれないけど」
「容姿と学歴だけですか?」
「言葉にして言うことができないことがあると言ったけど、話していて、どうしてか君を守ってやりたい衝動に駆られた。君には寂しそうな何かを感じる。僕を含めて男って、そういうのには弱いんだ」
「何かってなんですか?」
「分からないけど、今までに会った女性にはなかったように思う」
「そういうものがあってもいいんですか? ない方がいいんじゃないですか?」
「そういう風にでも思わないと僕にとって君は眩しすぎる」
「気おくれするんですか?」
「そんな感じかな、そうでも思わないとね」
「それでいいんですか?」
「よいと思うから、付き合ってみたいと思った」
「父の言っていることが分かったような気がします」
「お付き合いするにしても、事前にいろいろと確認しておきたいことがあるのですが、いいですか? 後で性格の不一致でお断りするとお互いに時間も費用も無駄になりますから」
「確かに事前に気になることを確認しておくことは合理的だと思います。いいですよ。忌憚のない意見交換をしましょうか?」
「まず、結婚したらどうしても守ってほしいことがあります」
「もう、結婚したらの約束ですか? 交際したらじゃあないのですか。随分せっかちですね」
「大事なことですから、今確認しておきたいのです」
「分かった。じゃあ、結婚すると仮定して、始めから細かいところまで擦り合わせをしておきましょう。後から揉めるのもなんだから」
「そういっていただけると相談しやすいです」
「それで、どうしても守ってほしいことって、何?」
「はっきり言っておいた方が良いと思って。これからも結婚してからも気持ちが通い合うまではセックスレスでお願いします。いやならこの縁談はなかったことにしていただいてもいいです」
「ええ……、結婚して夫婦になるんだよ」
「でも今のところ、恋愛感情もないし、好感を持っているだけですから、できないです」
「でも、これから交際期間もあるし、結婚式まで時間がある。その間にお互いに気持ちを通じ合って好きになればいいじゃないか? 見合い結婚ってそういうものだろう。今からそんなせっかちに考えてきめておく必要はないと思うけど」
「結婚までに気持ちを通い合わせられるか自信がありません」
「本当に僕と結婚したいのですか?」
「はい、この条件を呑んでいただければ、結婚したいと思います」
「結婚して入籍もするんだろう」
「はい、入籍します」
「それなら、セックスしても良いのではないですか?」
「今のままではどうしても抵抗があります」
「ううーん、セックスレスか? 昔も今も、見合いでも、結婚したらセックスしない夫婦はいないと思うけどね」
「だからお願いしているんです。恋愛結婚してもセックスレスの夫婦はいると思います」
「うーん、そういう夫婦もいるとは思うけど、僕たちは未来永劫セックスレスということはないだろうね」
「いつまでかは分かりませんが、気持ちが通い合うまではセックスレスでお願いします」
「分かった。お互いの努力次第、特に僕の努力次第とも言えることかもしれない。普通に付き合い始めてもそこまでいくのに時間がかかると思うから、それもありかな?」
「でも、働きかけはするよ、誘ってもいいんだろう」
「いいですけど、拒否権を行使しますが、それでもいいですか?」
「そのときはしかたないだろう。引き下がる」
「いいんですか。約束して下さい。力づくでなんかいやですよ。そういうことがあればすぐに離婚します」
「離婚は極端だ。でも力づくではしないと約束しよう」
「よかった。これで安心しました」
「それなら、僕の希望も聞いてくれる。もちろん君もそうなれるように努力することを約束してくれるのか?」
「お約束します」
「そうだなあ、そのほかに、僕も健康な男子だからそうなるまではたまに風俗にでも行って発散しても良いかな?」
「ええ……、うーん、そうですね、私に分からないようにしてくれればいいです。私の希望を聞いてもらえたのでしかたないです」
「ええ……、認めてくれるのか、本当にいいのか?」
「はい、しかたないです」
「でも素人の女性とは絶対にそういうことはしない。不倫は絶対にしない。これは誓ってもいい」
「私も不倫はしません。誓って」
「その不倫は気持ちだけであってもほかの男の人を好きにはならないと理解してもいいのか?」
「もちろんそうです」
「分かった。お互いに約束しよう。それから、Hビデオも見てもいいかな? もちろん僕の部屋でこっそりとだけど」
「そうですね、私に分からないようにしてくれればそれもいいです」
「じゃあ、この件はOKした。僕の君への働きかけは認めるということでいいね、あとは僕の努力次第、君も努力してくれるということで割り切った。僕の希望も聞き入れてもらったし」
「ほっとしました。これが一番気がかりでした。あなたなら受け入れてくれると思いました」
「僕に何か感じるものがあったのかな?」
「何となくですがそうです」
「お互いに努力をすればいいので期待が持てそうだ」
「すみません。あまり期待しないでください。ご期待に沿えないかもしれないので確認したかったのです」
「分かった、分かった。この話はここまで」
「じゃあ、気持ちが通い合うその時まではセックスレスでいいよ。でも夫婦なんだから、ボディタッチもなしでいいのかな?」
「ボディイタッチって?」
「手を握ったり、手をつないだり、肩を抱いたり、身体に寄りかかったり、腰に手を廻したりだけど」
「状況次第では、いいかも」
「状況次第か? それなら、ハグとかキスは?」
「少し抵抗があります」
「どうして? 友人同士でも久々に会ったらハグしない? キスなんか、親子でしているよ。出勤時と帰宅した時のハグくらいいいんじゃない。それに軽いキスも」
「挨拶替わりなら、ありかも。うーん、そうですね、挨拶替わり程度ならいいです。でも実際の場面でないとはっきりしたことは言えません」
「じゃあ、そういうことにしておこう」
他の人がこんな約束を聞いたらどう思うかしら? 両親にも絶対に言えない。でも私もよくこんな約束をお互いにとりつけたものだ。
まあ、受け入れる相手も相手だけど私も私だ。でもそういう人と分かったから私は安心して一緒に生活する気になっていった。
セックスレスを突破口に話は生活の具体的な相談にどんどん進んでいった。
「じゃあ、生活費の分担だけど、どうする? すべて僕の負担でもいいけど」
「家事を私がすべてすることでいいのならそれでもいいんですが、私の我が儘を聞いてもらった分、それだけじゃあ少し後ろめたいです。まるで寄生虫みたいですから、宿主のメリットが少なくはないですか?」
「家事をすべてしてくれるならそれでいいけど」
「それでも家事すべてというと、負担が大き過ぎます。私も働き続けますから、少しは手伝ってもらわないと無理だと思います」
「そうだね、共働きになるからね。家事はできるだけ手伝うよ。今も一人でやっているからその点は大丈夫だから、安心して」
「そう言っていただけるとありがたいです」
「食事も作るよ。僕の作った料理、味は保証できないけど、食べてもらえるなら」
「好き嫌いは特にありませんから、お願いします」
「土日は僕が作るとかでもいいよ」
「都合の悪い時に作ってもらえるとありがたいです」
「いいよ、言ってくれれば」
「掃除、洗濯は手伝うよ」
「洗濯は私がします」
「僕の下着も洗ってくれるの」
「当たり前です」
「僕はしなくていいの。取り込みも片付けも?」
「洗濯は私がすべてします。乾燥機にかけますから、取り込みは必要ありません。自分の分の片付けだけお願いします」
「分かった。じゃあ、それでお願いします」
「掃除は手伝うよ。掃除は休みの日くらいにしかできないだろう。自分の部屋は自分でする。お風呂とかはまかせておいて」
「お願いします」
「良いだんなさまになりそうで安心しました。本当にやってもらえるならですが」
「きちんとやるよ。男に二言はない」
「生活費の分担だけど、住居費はマンションの賃料になるけど、僕が負担する。1LDKを2LDKに借り換える必要があるから負担は増えるけど、住宅手当も出ているからなんとかなる。生活費のうち、食費と光熱水費などを分担してもらったらどうかな? それなら君も気が楽だろう」
「はい、それなら気兼ねがありません」
「いくら掛かるか分からないけど、折半でどうかな? その管理は君に任せる。口座を新設して、それぞれが分担金を振り込む。それを君が管理するということでどうかな?」
「分かりました。生活費は私が管理した方がよさそうですから」
「それぞれの給料は自分で管理する。お小遣いもその中から、被服費、交通費、医療費などもそれぞれが負担する。もちろん貯金もそれぞれ責任を持ってする」
「あなたの負担が多くなりますが、いいんですか? 結婚するメリットがないのでは」
「それでいいよ。負担もこれまで一人でいた時とそんなには増えないと思う。素敵な君と一緒に住めて、家事もしてもらえるなら、言うことはない」
「すべてご期待に沿えなくてすみません」
「いいんだ、僕が努力してなんとかすればいいんだから。それと君が僕を好きになってくれればいいことだから。努力はしてくれるね」
「もちろん努力します」
「その努力にも期待したいな」
結婚してからの話がどんどん進んでいく。吉川さんはきっちり決めておきたいみたいだけど、私もその方が良いと思う。一緒に生活してから揉めるよりも良いし、安心だ。
「まるで契約結婚するみたいですね」
「見合い結婚は契約結婚みたいなものだ。いろんな条件が折り合ってはじめて成立する。好き嫌いは条件のひとつに過ぎないんじゃないかな」
「好き嫌いは一番大事な条件だと思いますが」
「でも前提があってのことだろう。例えば収入とか学歴とか容姿とか性格とか、それが折り合って初めて好き嫌いの条件が入ってくる」
「それは普通のお付き合いから恋愛に入って結婚する場合でも言えることだと思います。いろんな条件をいつも当てはめてみて、お付き合いするか、結婚するか、決めているんじゃないですか?」
「一目ぼれもあるだろう。ほかの条件のことなんか考えないで一目で好きになる」
「でもその場合でも、すでに無意識で条件をクリヤーしているのではないですか? それに一目ぼれでも、お付き合いしている間にいろいろな条件に合わなければ別れてしまうと思います」
「恋愛結婚も見合い結婚も同じだといいたいの?」
「条件に合うか合わないかを判断する時期が好きになる前か後か違うだけではないかと思います」
「だから見合い結婚は契約結婚に近くていいんだと思う。あとから好きになればいいだけのことだから。終わり良ければすべて良し」
「確かにそうかもしれません」
「部屋割だけど、新しい住まいは2LDKにしたい。リビング・ダイニングは共有スペースとして、部屋はおそらく6~8畳と4畳半~6畳くらいの洋室になると思うけど」
「大きい部屋を主のあなたが使って下さい。私は寄生虫だから小さい部屋でかまいません」
「大きい部屋を使ってくれた方が良い。クローゼットも大きい。衣服がたくさん入る」
「小さい方でいいです」
「いや、大きい部屋を使ってほしい。僕の希望だ。君を大切にしたいし、広い部屋でゆっくりしてほしい」
「ご自分は狭くていいんですか」
「僕は狭い方が落ち着く。是非そうしてほしい」
「じゃあ、ご厚意を受けます」
「それから、自分のことを寄生虫と卑下することはやめてほしい。もしそう思っているのならペットといった方がよいかもしれないね。僕の大切な可愛いペットの子猫ちゃんだ。ペットがご主人になつくかどうかはご主人の愛情次第だからね」
「ペットですか?」
「心を癒してくれるペット。ペットを飼うのはお金と手数がかかるけど皆飼っているのは可愛くて癒されたいからだと思う」
「癒すなんて、そんな自信はありません」
「一緒に住んで暮らしてくれればそれだけでいい。ペットだってそうだろう。ペットはご主人を癒そうなんて考えていない。ただ、ご主人が好きで、かまってもらいたくて、ゴロニャンと鳴いて甘えているだけだと思う」
「気づかいはできると思いますが、ゴロニャンと鳴いて甘えることはできないと思います」
「ゴロニャンは例えだから笑顔でいい」
「笑顔ならなんとかなると思います」
「それで十分だ」
私のことをお金と手数がかかるペットだといった。ただ、悪気は全く感じられなかった。寄生虫と言ったから気を使って言い直してくれたのだと思う。
それを可愛いという誉め言葉ととるか、私を見下した侮辱の言葉ととるかは、私の気持ちの持ちようだ。まあ、ペットと思って可愛がって大切にしてほしい。その方が気楽だ。
相談はとうとう結婚式の話にまで及んでいった。どんどん話が進んでいく。
「結婚式はどうする?」
「披露宴はなしでいいのではと思っています。友人なども呼びたいとは思いませんし、結婚式もなしでもかまいません。こんな条件では気乗りがしないでしょう」
「式は挙げよう。入籍はするのだし、君を幸せにすると誓いたいから。結婚式はそういう誓いの儀式だ。それを家族や友人の前で誓う。君は誓えないのか?」
「そんなことはありません。誓います。でも一生添い遂げられるか今は自信がありません」
「ただ、努力すると誓えばいいと思っている」
「私もそう思います。そう言っていただけて嬉しいです」
「結婚式を挙げて両家族だけで会食をするということでいいんじゃないか?」
「それがいいです。両親も納得してくれます」
「新婚旅行はどうする? どこか行きたいところはある?」
「どこって言っても、新婚旅行の目的は二人きりになって落ち着いてセックスすることだと思います。だったら、今の私達には意味がありません」
「二人になって落ちついて気持ちを通い合わせるというのは悪いことじゃないと思うけど?」
「でも行き着く先と目的が見えています」
「いやなの」
「そういうのはいやです。うまくいかないとすぐに離婚という話になりかねません」
「成田離婚っていうやつだね」
「気持ちが通じ合ってからでいいでしょう。無理やり急いで気持ちを通じ合わせるなんて、もっとゆっくりでいいじゃないですか?」
「そういうなら、新婚旅行はやめにしよう。すぐに二人だけの生活が始まるのだから、行かなくてもいいと思う」
「家具とか電気製品などはどうしますか?」
「それぞれの部屋にテレビは必要だろう」
「あなたはビデオを見るために必要でしょう。私はリビングにあればいいです。テレビはあまり見ないので、二人が今持っている2台でいいと思います」
「冷蔵庫、洗濯機、掃除機、炊飯器、電子レンジは今の私のものを使いたいです」
「僕のものは廃棄しよう」
「調理器具はどうする?」
「とりあえず見てから必要なものだけ選んで、後は廃棄してもいいですか?」
「いいよ、でもあまりないから」
「食器はどうする?」
「全部持ってきてください。これも見てから必要なものを選んで後は廃棄でいいですか?」
「食器も少ないし、かまわない。食器棚もいらないね」
「はい、私のものを使います」
「寝転べる大きさのソファーと一人掛けのリクライニングチェアーがあるけど」
「ソファーは使いましょう。リクライニングチェアーも持ってこられてもいいです」
「食卓のテーブルと椅子はどうする?」
「大きさはどのくらいですか?」
「小さいので二人で食べるのには小さすぎると思う」
「私のものも小さいので二人では無理です。新しいものを買いましょうか?」
「それなら費用は僕が出そう。一緒に見に行ってくれる?」
「いいですよ。一緒に買いに行きましょう」
「後は二人で生活してみてからでいいんじゃないかな。いろいろ買っても使わないと無駄になるから」
「そうですね。必要なら買うことでいいと思います。とりあえず生活できればいいですから」
「ここまで相談すると、すぐにでも一緒に生活できるような気になってきたから不思議だね。それにとっても楽しい。まるで恋人と相談しているみたいだ」
「意外と気が合うかもしれませんね」
「話し合うのはいいことだね。徐々に気心が知れてくるから」
「性格も分かってきますね」
「もう、分かった?」
「意外と几帳面ですね」
「意外はないと思うけど、君も几帳面だね」
「それほどでもありません」
「もう、交際を始める前に相談しておくことはないかな?」
「ほとんどのことを確認したと思います」
「それなら、交際を始めようか?」
「はい、でもこれだけのことを確認したら交際の必要はないと思いますが、交際期間が必要ですか? どうですか? 交際して何を知りたいのですか? 何を相談したいのですか?」
「ううーん、そうだね。確かに、もう会って相談することもないし、こうして相談している間に気心も分かってきた。それじゃあどうする? もう婚約する?」
「私は構いませんが」
「僕も構わないから、そうしようか。今日中にお互いの両親に話をしておこう」
私たちは階段を降りてリビングの両親のところへ行った。
「お二人にお話があるんですが。お嬢さんを私にいただきたいのですが、お願いします」
「ええ…、娘はどう言っているんですか?」
「私は承知しています」
「そんなに早く決めていいのか?」
「今2階で気になっていることを話しあって確認できましたので、それで十分です。これ以上交際期間を設けても時間の無駄になりますから」
「吉川さんもそれでいいんですか?」
「はい」
「それならめでたいことだ、吉川さん、娘をよろしくお願いします」
「承知しました。娘さんを幸せにします。ご安心ください」
それから今度は吉川さんの実家へ二人で行って、吉川さんの両親に婚約することを報告した。吉川さんのご両親も突然のことで非常に驚いていたけど、ご縁があったのだと喜んでくれた。
私自身もとんとん拍子で話が進んで、婚約することになって、驚いていた。ご縁があるとはよく聞くけれども、こういうことなのかと思った。私も結婚の決心がこんなに簡単にできるとは思っていなかったので自分自身に驚いていた。
おそらく、吉川さんが直感的に気に入っていて、この人を逃したらいけないと思ったのではないか、自分でもよく分からない。こうして二人は2回目に会った時に婚約した。
◆ ◆ ◆
(9月第4土曜日)
次の週も二人は帰省した。結婚式の日取りや会場の予約、食事会の打ち合わせのためだった。私は東京で会って打ち合わせるより、地元で打ち合わせたいと言った。
私は東京で二人だけで会うことに不安があった。できれば結婚するまで東京で会うのを避けたいと思った。それだけ吉川さんとの関係を大切にしたいと思っていた。
吉川さんは私の家へ来て、結婚式の日程と場所を決めた。私は早く式を挙げて一緒に住んだ方が良いと言った。吉川さんもそれに賛成してくれた。
式は1か月ほど後の10月21日(土)に決まった。それから婚約指輪と結婚指輪を二人で買いに行った。
私は結婚するまで準備で忙しいから東京では会えないと伝えた。それから、二人は何回か帰省して結婚の準備をした。
1回は結婚式の打ち合わせと衣装合わせだった。1回は私の家で両親と食事をした。二人とも金曜か土曜日に来て日曜日に帰るというとんぼ返りの慌ただしい帰省だった。行き帰りの新幹線も別々になって、ゆっくり二人で話をする時間がとれなかった。
吉川さんが新たに借りたマンションの2LDKの新居に、私は式の1週間前の日曜日に母親と一緒に荷物の搬入に行った。そして荷造りを解いて片付けが済むとすぐに引き上げて来た。
そのマンションは吉川さんが1LDKを借りていた同じマンマンションだと聞いていた。丁度空いていたのと引越しが簡単なのでそうしたと言っていた。
住居は吉川さんにすべてまかせてある。一緒に買いに行こうと言っていた食卓用のテーブルも吉川さんに任せた。近くの家具専門店で買ってくると言っていた。
私は引越しの後、会社に1週間の休暇を申請していた。理由は特に話していない。結婚するからとも話さなかった。今の立場からではそれは事後報告で十分だからだ。
結婚式は10月21日(土)の11時から始まった。私のウエディング姿をじっと見て、吉川さんはとても嬉しそうにしていた。それを見て私も嬉しかった。
出席者は両親と弟、吉川さんの側も両親とやはり弟だった。食事会は12時から始まった。親族の紹介は式の前にすでに終えていたので、すぐに食事が始まった。両家族8人だけの食事会はなごやかで打ち解けて話ができた。
2時にはすべて終えることができた。両家の両親にそれぞれ挨拶をして、これから二人で東京へ向かう。それぞれの弟たちは折角帰省したので実家に1泊して翌日帰ることになっている。
14時46分発の「はくたか568号」に乗車した。この時間帯は「かがやき」はないので3時間ほどかかり、17時52分に東京着の予定だ。車内で今日と明日の予定を吉川さんが話してくれた。
「東京駅から大井町経由で北千束に向かうけど、大井町で食事をしよう。たいした店はないけど、落ち着けるレストランを知っているから。それから、北千束の自宅へ向かうことでいいかな?」
「駅前のコンビニで明日の朝食を買いましょう。明日はスーパーで食料品などを買いたいので、ついてきてもらえますか? それと婚姻届けも提出しなければなりませんね。日曜日でも受け付けてくれます」
「まあ、急ぐことはないけど、そうだね」
新幹線で二人になると私は緊張して落ち着かなくなっている。それで窓際の席でじっと外の景色を見ていた。
吉川さんは私に話しかけることもなく、時々私を見て何か考え事をしているようだった。手でも握ってくるかなと思っていたけど、私には指一本触れてこない。
東京駅には6時ごろに到着した。住まいのある北千束へは大井町経由となるので、大井町で食事する。
吉川さんは大井町には土地勘があるからといって昔ながらの洋食屋の風情のあるレストランに連れて行ってくれた。
「この店は古くてきれいではないけど、味はすごくいいんだ。何にする?」
メニューを取って見せてくれた。
「私はオムライスで」
「僕はここのハンバーグ定食が好きなのでそれにする」
注文を済ませると吉川さんが小声で話しかけてきた。
「あの……婚姻届だけど、しばらく待ったらどうかな?」
「どうしてですか? 入籍しなくていいんですか?」
「君は入籍してもいいんだね」
「もちろんです。式も挙げたのですから覚悟はできています」
「その覚悟が良く分からないんだ」
「分からないって? 十分に話し合ったではないですか?」
「うん、でもどこか納得できなくて引っ掛かるところがあって」
「じゃあ、どうしたいんですか?」
「提出を延期する。君は働いていて収入もあるし、健康保険もある。扶養家族にする必要がない。今すぐに提出しなければならない理由がない」
「結婚式も挙げたのですよ」
「分かっている。会食が終わるまでは提出しようと思っていたが、新幹線の中でよくよく考えてみた。メリットが見つからなかった。それにこの前君は、僕が力ずくで君を自由にしようとしたら離婚すると言っていた」
「私を力ずくで自由にしようと考えているのですか?」
「いや、君の気が変わって離婚したいと思った時に、君が困らないようにしておいてあげたいと思ったからだ」
「私のことを思ってですか?」
「それとセックスレスが引っ掛かっている。僕は結婚して入籍したら、セックスはすべきだと今も思っている。身体のつながりができると情も移ると思うから」
「・・・・・・」
「君は気持ちが通い合うまではセックスレスにしたいと言った。だったら、それまでは入籍すべきでないと思った」
「あなたの言うことは分かります。それでは婚姻届の書類一式をあなたに預けます。好きになさってください。お任せします」
「君は自分の生活の保障のために入籍したいのか?」
「そう思っていただいてもしかたありませんが、入籍は私のあなたへの誠意です」
「それから、結婚指輪をどうする? 入籍しないし、扶養家族の申請も必要ないから、会社では同居生活も黙っているつもりでいる。だから僕は結婚指輪をしないでおこうと思っている。君はそれでいいか?」
「それで構いません」
「私も入籍しないのであれば、会社へ届ける必要がありません。住所の変更だけで済みます。勤め先では結婚指輪はしません。でも婚約指輪はするつもりです」
「どうして?」
「あなたへの私の誠意です。それと男除けになります」
「指輪のことを聞かれるよ?」
「聞かれても何も話しません」
「僕への誠意はよく分かった。ありがとう」
「分かってもらえて嬉しいです」
「僕たちのこれからの関係はなんというんだろう? 同居? 同棲? 事実婚? 契約結婚? 見合い結婚? それとも偽装結婚?」
「どれにも当てはまらないと思います」
「いずれにしても、今日からすぐに同居生活は始まるからよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
二人に注文した料理が運ばれて来た。
「ここのオムライスは最高なんだ。僕もよく食べていた」
「本当においしいですね」
私が入籍しないことを納得したので吉川さんは安心したようだった。新幹線で考え事をしていたのはきっとこのことだと思った。
すぐには入籍をしないことになったが、少し残念だった。私は覚悟していたのに、吉川さんはセックスレスが気になっているようだ。それも良く分かっている。