お見合い結婚します―でもしばらくはセックスレスでお願いします!

(10月第3土曜日:第1夜目)
荷物は二人ともスーツケース1個とバッグだけ、駅から徒歩5分で新居の2LDKのマンションに到着した。

吉川さんが鍵を開けて中に入れてくれる。なぜだか緊張する。後ろからくる吉川さんが気になる。部屋の中は引越しの荷物を搬入した時と変わっていない。

吉川さんが選んだ食卓用のテーブルがダイニングキッチンに置かれていた。丁度良い大きさだ。

「疲れたでしょう。まず、お湯を沸かしてお茶を入れてあげよう。その間にお風呂を準備するから」

「すみません。ありがとうございます」

「いいんだ。僕はもう何回か使って要領が分かっているから。後で教えてあげる」

「ちょっと疲れました。式を土曜日にしてよかったですね。明日一日あるから」

「そうだね、明日は二人でゆっくりこれからの生活の準備をしよう」

吉川さんはここに1週間住んで慣れているので任せることにした。今日は疲れた。お茶を飲んでようやく一息ついた。

でも二人だけになると何となくぎこちなくて緊張する。私が緊張しているのが分かるのか、吉川さんもぎこちない。

「緊張している?」

「えっ、いいえ」

「安心していいよ。襲い掛かったりしないから」

「信頼しています。でもなぜか緊張して身構えてしまうんです」

「頼みがあるけど、いい?」

「内容によりますが」

「僕のこと、名前で呼んでくれないか? あなたでは疎遠な気がするんだ」

「いいですよ、亮さんでいいですか?」

「それでいい」

「それなら私のことも名前で呼んで下さい」

「理奈さんでいい?」

「はい、理奈でもいいですが?」

「呼び捨てでは気が引けるので、やはり理奈さんの方がいい」

「それでいいです」

「もうバスタブにお湯が溜まったころだから、先に入って」

「あなた、いえ、亮さんの後でいいです」

「いいから、先に入って。のぞいたり、入っていったりしないから。でも浴室の鍵はかけておいて、安心だから」

「じゃあ、お先に入ります」

「ああ、鍵がかかると言ったけど、10円玉で開けられるのは知っている? もともとそういう造りになっているから。おそらく小さい子供が中から間違って鍵をかけても親が開けられるようになっているのだと思う。理奈さんの部屋の鍵も同じだから」

「分かりました」

私は部屋から着替えを持ってきて、お先にお風呂に入る。ここのお風呂は広くて快適だ。私が前に住んでいたアパートのお風呂に比べると雲泥の差だ。足が伸ばせてゆっくり入れる。

私はお風呂が好きでいつまでも入っていられる。今日はお風呂が快適なのでつい長湯になる。今日は朝から結婚式、食事会、新幹線での移動、レストランでの話し合いなどでとても疲れた。お風呂に浸かっていると、心地よい疲労が眠気を誘う。

浴室のドアをたたく音で気が付いた。

「理奈さん、大丈夫?」

「大丈夫です」

お風呂で眠っていたみたい。

「長い時間出てこないので心配した」

「ごめんなさい。バスタブで眠ってしまったみたいです。もう大丈夫です。すぐに上がります」

「それならよかった」

すぐにお風呂から上がった。新しく買ったパジャマに着替えた。リビングに行くと吉川さんにじっと見られた。緊張する。

「ありがとうございました。声をかけてもらって」

「なかなか上がって来ないので心配になった。長風呂とは聞いていなかったし」

「結婚式や会食や移動などで疲れていたみたいです。とても気持ちよくて、眠ったみたいです」

「緊張が解けたようでよかった。でも返事してくれたからよかった。返事がなければ鍵を開けて中へ入ったところだった」

「気が付いてよかったです」

「でもちょっと残念だった。返事がなければ、鍵を開けて入って、理奈さんの裸がみられたところだった」

「危ないところでした」

「いままでお風呂で眠ってしまうことはあったの?」

「ありません。疲れていたからだと思います。それに緊張が解けたからだと思います」

「僕に対する緊張が解けたのだったら嬉しい。これからこういうことがあって返事がなかったら鍵を開けて中にはいるけど、いいかな?」

「もし、返事しなかったらいいです」

「それなら今度は完全に寝入るまで声をかけないでおこう。楽しみがひとつできた」

「そんなことを楽しみにしないでください」

「じゃあ何を楽しみにしたらいい?」

「夕食を楽しみにしてください。一生懸命に作りますから」

「それは毎日楽しみだ。じゃあ、今度は僕がお風呂に入るから、もう先に休んでいて、お休み」

そういうと亮さんはお風呂に入った。私が眠ってしまったように亮さんが眠っても起こしてあげられるようにリビングでテレビを見ながら上がって来るのを待っていた。

亮さんは意外に早くお風呂から上がって、パジャマに着替えてリビングにやってきた。

「先に休んでいてくれればよかったのに」

「亮さんもお風呂で寝込んだらと心配だったので待っていました」

「ありがとう。じゃあ、おやすみ。おやすみの握手」

「握手?」

「じゃあ、ハグしてキスする?」

「それは……」

「握手が良いと思うけど」

「はい」

亮さんがボディタッチと言っていたのを思い出した。確か、状況次第と答えていた。私はこれからよろしくと亮さんの手をしっかりと握った。

寝具は二人とも布団だ。ベッドもいいけど場所をとるし、掃除もしにくい。私は布団の方が部屋を広く使えるから良いと思っている。このあたりも気が合うみたいで良かった。

部屋に入って鍵をかけた。鍵と言っても亮さんが入ってくる気になれば、10円玉で開けて入ってこられる。

でも亮さんはそんなことはしないと思っている。これは直感的に分かる。だから亮さんと結婚する気になった。私の気持ちを大切にしてくれると確信したからだ。

でも、まさか入籍を延期する提案をされるとは思わなかった。よっぽど当分の間はセックスレスが気になっているみたいだ。私は気持ちが通じあうまではしないというのが、自然だと思っている。

私は入籍するつもりだったから、いずれはそういうことになるという覚悟はできている。でも今はその気になれないと言うだけのことで、いずれ時間が解決してくれることだと思っている。男の人はそれまで我慢ができないみたい。

亮さんは自分の努力次第と言っていたが、私も努力しないといけないと思っている。そうしないとようやく巡り会った人を失いかねない。

入籍しないということは、亮さんにだって私と別れる気持ちが全くないとは言えないからだ。そうは思いたくはないがそうなってはいけない。
(10月第4日曜日)
6時に目が覚めた。窓から明かりがさしている。今日は日曜日だからゆっくりできる。隣の亮さんの部屋から物音がしないので、まだ眠っていると思う。7時まで寝ていようと、まどろむ。私はこれが一番好きで幸せな時間。

7時になったので、静かに部屋を出てバスルームへ行って身繕いをする。化粧も薄くする。みっともない姿を亮さんには見せたくない。鏡を見てほほ笑んでみる。OK!

昨日コンビニで買ってきたものをお皿に盛って食卓に並べる。何とか朝食らしくなった。テレビのボリュームを下げてニュースを見る。ここのところニュースを見る時間と余裕がなかった。世の中は平和みたい。

8時過ぎに亮さんがリビングへ出てきた。

「おはよう。よく眠れた?」

「はい、とても良く眠れました」

「朝食にする?」

「準備はできています」

亮さんは食卓の朝食を覗き込む。それからバスルームへ入って行った。しばらくして部屋に戻って部屋着に着替えてきた。席に着くと食事を始める。

「明日から朝食はどうします? 献立は何がご希望ですか?」

「朝食は必ず食べることにしています。でないと昼前にへたってしまうから。献立と言うほどは必要ありません。理奈さんの負担にならないように簡単なものでいいです。例えば、トースト、牛乳、ヨーグルト、リンゴやバナナなどの果物があればいい」

「それじゃあ、トーストとミックスジュースでいいですか?」

「ミックスジュースって?」

「果物、野菜、ヨーグルト、牛乳などをミキサーにかけてミックスしたジュースです。栄養満点でそれを飲むだけでいいですから」

「それでいいから、作って下さい」

「お弁当は作りません。結構手数と時間がかかりますから、昼食は外食でお願いします」

「それでいいよ。今までどおりだ」

「夕食は必ず作りますから」

「楽しみにしているから」

「時間は遅くていいですね」

「帰る時間は早くはないから、会社を出る時にメールを入れます。ここには8時前後になることが多いと思う」

「それならなおさら好都合です。ゆっくり作れますから」

「食材などの買い物はどこでするつもり?」

「乗換駅がありますから、そこでします。ここからはスーパーが少し遠いですから」

「あとから近所のスーパーを案内しようか? この辺は土地勘があるから」

「このあたりに長く住んでいるんですか?」

「洗足池駅の近くに独身寮があったので、入社してしばらく住んでいたことがあった。それにここに来てもう5年位になるかな」

「ここから散歩がてら、公園を通って行ってみないか?」

「夕食の準備もありますから、連れて行って下さい」

それから二人でそれぞれの部屋をひととおり掃除して、身のまわりの持ち物を整理した。それから亮さんはお風呂の掃除をしてくれた。私はリビングや台所を掃除した。

11時前に二人そろって外出した。荷物が多くなることを想定してか、亮さんがリュックを持ってきてそれを背負った。私は笑ってしまった。

亮さんが言うには、先の震災からリュックを通勤に使う人が増えたとのことで、使ってみると両手が使えるので便利と分かって、いまは通勤用と買い物用に2つのタイプのリュックを使っているそうだ。確かに言うとおりかもしれない。

道に出ると亮さんの方からなにげなく手を繋いできた。私は一瞬亮さんの顔を見て、そのまま手を繋いだ。とても自然だったから違和感がない。

亮さんはこういうことに慣れているように思った。亮さんは何食わぬ顔で手を繋いでいる。私は黙って従っている。すぐに公園に入った。

「せっかくだから一周りしないか? 案内してあげる」

「はい」

池の周りを二人でゆっくり歩いた。もう、紅葉の季節が近づいてきている。今日は清々しい良いお天気だ。私はこの公園が初めてで珍しかったので周りを見ながら歩いている。この時間は散歩の人がほとんどだけど、私たちのような若いカップルは少ない。

「理奈さんとこうして歩いているのが夢のようだ。今年の春先には一人侘しく散歩していた」

「私もこんなことになろうとは思いもしませんでした。ご縁があったのでしょうか?」

「ご縁というのはあるかもしれない。前世の因縁とか? そうでないとあんな出会いはないと思っている」

「私たちは運命の赤い糸でつながっていたのかしら?」

「今はそう思いたいし、そう信じたい。この繋がりを大切にしたい。理奈さんを放したくない」

「そうですね。大切にしたいですね」

「理奈さん、ボートに乗らないか? 少年は彼女をボートに乗せたがるものなんだ」

「少年?」

「気持ちだけだけど」

「いいですよ。私も彼氏とボートに乗ってみたいと思ったことがありました」

「じゃあ、今実現と言うことで」

ボート乗り場に行くと、ボートが2種類あった。手漕ぎのボートと脚でペダルを漕ぐタイプ。亮さんは手こぎタイプを選んだ。

私を乗せるとゆっくりと漕ぎだした。意外と力が必要みたいで無言で漕いでいる。

「気持ちいいですね」

「ああ、水面は周りよりも涼しいね。清々しい。理奈さんをボートに乗せているから最高の気分だ」

「そう言ってもらえてうれしいです」

亮さんはボートを漕ぎながら私をジッと見つめる。見つめられると緊張する。目をそらす。

「一周したら上がろうか?」

「はい」

亮さんは漕ぐのに精いっぱいで話辛そうだった。ボートから上がるとほっとした。すぐに亮さんが手を繋ぐ。手を繋ぐのにはすぐに慣れた。今度は池の周りの遊歩道をゆっくり歩く。

「休みの土曜日には、二人でどこかへ出かけることにしないか? デートするみたいに」

「毎日二人でデートしているみたいですが、わざわざ外へ出かける必要がありますか?」

「外の方が話しやすいこともあるんじゃないかな? 部屋で面と向かって話すと理奈さんは緊張するみたいだから」

「私、そんなに緊張していますか?」

「そういうふうに感じるけど」

「すみません。そんなふうに感じさせてしまって」

「なぜか自然と身構えるようなので、こちらも気にしてしまう。もっと信用してくれてもいいんじゃないかな」

「信用しています。だから一緒に住んでいるんです。そんな感じを与えてすみません。もっと亮さんと親しくしたいんですが」

「そういってくれるのは嬉しい」

亮さんが手を強く握った。私も強く握り返してあげた。亮さんは嬉しそうだった。良かった。少しずつだけど、気持ちが通じ合っているように思えた。

お昼は洗足池駅の近くのハンバーガー屋さんに入って昼食を食べた。それから、長原のスーパーまで大通りを歩いて食料品の買い出しに行った。

二人で持てる精一杯の食料品を購入した。これで3~4日分は十分あると思う。亮さんはリュックを持って来ていたので、重いものは中に入れてしょって帰ってくれる。あとの軽いパンなどは私が持って帰った。

日曜日は二人で食料品の買い出しに来ようと歩きながら決めた。亮さんが夕食に食べたいものがあれば、その時に材料を買っていけばよい。

マンションに帰ると、私は冷蔵庫に食料品を整理してしまった。亮さんはキッチンでお湯を沸かしてコーヒーの準備を始めている。

「一緒にコーヒーでも飲まないか、僕が入れるから」

「はい、飲みます」

「新橋駅のコーヒーショップで買ったキリマンジャロだけど」

「レギュラーコーヒーですか?」

「そう、豆から挽いてドリップで入れる」

「本格的ですね」

「理奈さんは茶道の経験は?」

「学生のころ、茶道のサークルにも入っていたので、ひととおりのことは知っています」

「僕はテレビで見たくらいで、お茶会に行ったこともないけど、コーヒーを入れていると茶道が分かるような気がする」

「共通するところがありますか?」

「豆をミルに入れて、ゆっくり挽いて粉にして、ドリップにセットして、少しお湯を注いで、豆を蒸らして、それからお湯を注いで一杯分を作る。お客様のために気持ちを込めて作る」

「私がお客様?」

「こうして人のためにコーヒーを入れるのは初めてだ。一緒に飲んでくれる人ができてよかった」

「初めてのお客が私?」

「そう、飲んでみてくれる?」

「いただきます」

私はソファーの亮さんの隣に座って、淹れてくれたカップのコーヒーをゆっくり味わって飲んだ。私はいつもコーヒーをブラックで飲んでいる。

「おいしいです」

「いつもブラックで飲んでいるの?」

「その方がコーヒーの味が分かりますから」

「コーヒーは好きなの?」

「大好きです」

「知らなかったけど、それはよかった。入れた甲斐があった。またひとつ理奈さんのことが分かった」

「私も亮さんのことが一つ分かりました」

「いままで一人で入れて飲んでいたけど、こうしてお湯を注いで作っていると、心が落ち着くと言うか穏やかになる」

「そうですね。丁寧に入れてもらって、気持ちが伝わります」

「気持ちが伝わったのなら嬉しい。入れた甲斐があった」

亮さんは私がコーヒーを喜んで飲んだので機嫌が良かった。私も亮さんのことがまた一つ分かって良かった。
コーヒーを飲みながら亮さんが真剣な顔をして話しかけてくる。

「理奈さん、ちょっと聞いておきたいことがあるけど、いいかな」

「何ですか?」

「事情があって会社をやめて、派遣社員になったと言っていたけど、よかったら理由を聞かせてくれないか?」

私は余りこの話はしたくなかった。良い思い出ではなかったからだ。でも亮さんには話しておかなければならないと思った。

「大学を卒業して就職した会社は大手の商社でした。入社して3年経った頃、異動になったときに配属された部署の上司からセクハラを受けてそれを会社に訴えました。40歳手前の独身の課長だったんですけど、最初は食事に誘われて、お受けしたんです。それで私が好意を持っていると勘違いしたみたいで、それから何回も誘われました。でもその気がなかったので断りました。断ると仕事で嫌がらせをされました。それから、わからないところで、手を握ったり、肩に手をかけられたりしました。だんだんエスカレートするので、怖くなって思い切って人事に相談しました」

「それでどうなった?」

「会社は私の訴えを認めて、その上司は地方へ異動になりました。かなりのやり手で、将来も期待されていたので、皆さんは不思議がっていました。でもその理由がどこからか漏れて、私も非難されるようになりました。居辛くなって、会社を辞める決心をしました」

「訴えるには相当な覚悟がいるということかもしれないね。理由は良く分かった。大変だったね」

「私の不用意な態度が招いたことかもしれません。そんな非難もありました」

「そういうことをする奴はやはり普通じゃないんだ。ストーカーと同じようなものだ。理奈さんのせいじゃないと思う」

「そういっていただけるとありがたいです」

「そのことがあったので、派遣されて行った先ではできるだけはっきりと言いたいことを言うようにしています」

「例えば?」

「契約にない仕事を頼まれたら、契約にないのでできませんと言います」

「先方がゴリ押ししてきたらどうする?」

「契約にないことはできませんから、契約内容を変えてくださいと言います」

「それで」

「大体収まります」

「それが理由で辞めさせられたことはあるの?」

「ありますが、派遣会社を通じて私が労働基準監督署に連絡しました」

「結構やるね」

「生活が懸かっていますから」

「残業はしないの?」

「大体、時間内で終わらせています。サービス残業はしません。そういうことがあったら労働基準監督署に連絡しますと言います」

「それで、仕事はうまくいっている?」

「周りの人も分かってくれるようになってきました。仕事は無難にこなしていますから。正社員の人よりも仕事はできるという自信があります。時給も上がりましたから」

「それを聞いて安心した。困ったことがあったら何でも相談にのるから」

「ありがとうございます」

亮さんは私の気持ちを分かってくれた。分かってくれると思って話した。話をして良かった。少し疲れたので一人になりたかった。それで部屋を片付けると言ってその場を離れた。

亮さんも部屋を片付けると言って部屋に入っていった。私をひとりにしてくれた。亮さんは心遣いのできる人だ。

5時になったので、夕飯の支度を始めようと部屋を出た。その音を聞きつけて亮さんが手伝うことがないか聞いてきた。

気を遣ってくれているのがよく分かる。でも亮さんにはゆっくりしていてほしい。そう言うと亮さんは部屋に戻って行った。その方が夕食の準備に集中できる。

今日は簡単な献立にしようと思っている。でも最初の食事だから丁寧に作る。まずまずの出来かな。6時には準備ができた。亮さんを呼びに行く。

「今日は、簡単にカレーと野菜サラダにしました」

「カレーは大好きだから」

「味を見てください」

「うん、結構いける。どこのカレー?」

「3つのカレールーを混ぜていますので、どこのカレーとは言えませんが」

「そんな作り方があるんだ」

「混ぜると意外と良い味が出るんです」

「そうだね、コーヒーもブレンドするとマイルドになって良い味になるから、ありだね。理奈さんは料理のセンスがいいかも」

「直感で作っていますから、次に作るときは違う味かもしれません」

「直感は大事だ。はかりで量って作ってもおいしい料理ができるとは限らないと思う」

「大雑把なだけです」

亮さんは美味しいと言って残さずに全部食べてくれた。あまり味にうるさくなさそうで安心した。私の味付けでいいみたいなので、これならあまり考えないでいろいろ作ってあげられる。

「後片付けを手伝おうか?」

「いいえ、今日は私がすべてやります。できない時はお願いします」

「じゃあ、お風呂の準備をしてあげる。今日は早めに休もう。明日から二人は元のように働き始めなくてはならないから」

「そうですね。お願いします」

亮さんはお風呂の準備をしてくれた。すぐにできたので、今日は先に入ってもらった。でも今日はゆっくりと入っているみたいでなかなか上がってこなかった。

亮さんが上がるのを待って私はすぐに入った。亮さんは昨晩のこともあるのでソファーで待っていると言っていた。

私は昨日と同じくゆっくり入った。元々お風呂が大好きだから、今日も長風呂になった。

亮さんが「今日は大丈夫?」と聞いてくる。すぐに「大丈夫です」と答える。早く答えないと鍵を開けて入ってこないとも限らない。

すっかり気持ちよくなって上がった。昨日とは別のパジャマを着た。以前から着ているものだけど、こちらの方が可愛くて好きだ。

上がって行くと亮さんがじっと見ている。じっと見られると気になる。亮さんは悪いと思ってか、目線をそらした。私もあまり神経質にならないでおこうと亮さんのところへ行った。

「さすがに今日は眠らなかったんだね」

「疲れていませんから、もう不覚はとりません」

「心配しないでいいから、いつも理奈さんのことを見守っている。一生守るから安心していて」

「二人でいるってある意味、安心ですね」

「病気になったとき、一人では不安だからね」

「そんな時は私が看病しますから安心していてください」

「ありがとう。それと今日は寝る前にハグしてもいいかな。軽くするだけだから」

「軽くならいいです」

「じゃあ、立って」

亮さんが軽くハグする。こんなことは初めてなのでドキドキした。耳元で「おやすみ」と言ってくれた。私は下を向いたまま「おやすみなさい」と言った。

それから部屋に入って鍵をかけた。そっとかけたつもりだったけど、その音が大きく響いた。

亮さんの部屋のドアの閉まる音が聞こえた。おやすみなさい。二人だけの1日が終わった。

二人になるとやはり緊張する。亮さんは私に無理やりしないことが分かっているけど、緊張してしまう。

申し訳ない気持ちでいっぱいになる。努力しなければいけないのは私の方だ。明日はもっとうまくいきますように!
(10月第4月曜日)
6時前に目が覚めた。すぐに起きて朝食の準備をしなくちゃいけない。朝食はトーストとミックスジュースと決めている。身繕いをしたら、出勤の服装に着替える。その上からエプロンをする。

冷蔵庫から果物と野菜、牛乳、ヨーグルトを出して、味が良いように配合して、ミキサーのスイッチをON。レンジのオーブンに食パンを入れて焼く。これで準備OK。

まだ、亮さんは起きてこない。6時30分になったので部屋のドアをノックする。

「食事の用意ができました」

「ごめん、寝坊した。目覚ましをセットするのを忘れていた」

亮さんが慌てて部屋を飛びだしてきてバスルームへ駈け込んだ。洗面所で水の音がする。

10分もすると出てきて、部屋に戻った。

戻ったと思ったら、もうスーツに着替えて出てきた。早い! 男性は化粧をしないから早いんだ。ダイニングに来ると私をジッと見た。

「エプロンが良く似合うね。結婚した気分が味わえる」

「そうですか? ひとりで生活していた時よりもずっと緊張感がありますね」

「他人がいるからかな? でも新鮮な感じがしていいね」

「そう思うのかもしれませんが、私は朝から緊張しています」

「そんなだと一日持たないよ」

「会社に行けば大丈夫です。それより食べて下さい。トーストとミックスジュースだけですが、ジュースはお代わりがありますからたくさん飲んで下さい」

「ありがとう」

ジュースが美味しかったと見えて、2杯おかわりしてくれた。私のミックスジュースが気に入ってもらえてよかった。

ジュースのおかわりを見届けると、私は乾燥機から昨日洗濯しておいた衣類を取出して畳んだ。それぞれの衣料は自分で片付けることになっているので、亮さんにも片付けてもらった。これで朝の仕事は一段落。

7時30分になると亮さんが出勤する。亮さんらしいかなり早めの出勤だ。私はもう少しあとからでもいいので、亮さんを見送りに玄関までついて行く。

廊下の端へきて亮さんが突然振り向いて私をハグした。私は突然のことなので避けることができずに亮さんにぶつかった。

亮さんは「行ってきます」と言ってそっとハグしてくれた。私がぶつかることを意図して急に振り向いたのだと思う。胸がぶつかった。私の胸は大きくはない。亮さんは何事もなかったように出勤して行った。

「行ってらっしゃい!」

私はダイニングへ戻って、部屋の中を確認してからゆっくり出勤する。亮さんから5分ほど遅れてマンションを出た。

駅に着くと丁度電車が入ってきた。亮さんは前の電車に乗って行った? この電車? 分からないけど階段の近くの車両に乗った。

大井町で乗り換えるけど、亮さんの姿は見えない。もう通勤客でホームは混んでいる。また、いつもの生活が始まる。違うのは結婚して亮さんと同居していることだけだ。

今の会社は浜松町の駅前にある。駅から1分くらいだ。だから通勤にはすごく便利。先週は休暇を貰って休んだので、今日は忙しいかもしれない。勤務時間中は家のことは考えないでおこう。また、考えるゆとりがないかもしれない。

帰りが少し遅くなっても、前に住んでいたところよりもずっと近くなったので、帰りの時間は短くなってゆとりがある。それに亮さんの帰宅時間は8時頃だと聞いているので、帰ってからゆっくり夕食の準備ができると思う。

幸い溜まった仕事はなかった。完全に任されているという仕事がないので、楽と言えば楽だし気楽だ。仕事は付いている主任が上手くこなしてくれていた。まず、休ませてもらったことのお礼を言った。

今、付いている人は苦労人で私のことも考えてくれる良い上司だ。気は合うし、恵まれていると思っている。だから、できるだけのことはしてあげているつもりだ。それは分かってもらえている。

今日は定時に帰れた。主任は私が婚約指輪をしていることに気づいていて、彼との関係を大切にするように、仕事で無理をすることはないと言ってくれていた。ありがたい。奥さんと共働きで子供が一人いると聞いている。よいイクメンパパのようだ。

大井町で買いものをして6時半にはマンションに着いた。これなら十分に時間がある。一休みしてから、夕食の準備にとりかかる。これまでなら、お弁当や出来合いの惣菜を買ってきていたが、これからはそうはいかない。

「家事は私がします。夕食は私が作ります」と言った手前、あまり手抜きはできない。でもなかなか適当な献立が思いつかない。高校生のころ母が夕食の献立を考えるのが大変だと言っていたのがよく分かった。

もう8時になる。夕食はもうできている。[これから帰ります]のメールは受け取っている。帰ってくるころだと思っていると玄関の鍵を開ける音がして「ただいま」の声がする。「おかえりなさい」と玄関へ迎えに行く。

玄関を上がった亮さんがすぐに「ただいま」のハグをする。一瞬のことで身体が固まった。すぐに下がって身体を離す。

「夕食の準備ができていますが、先にお風呂に入りますか?」

「いや、お腹が空いているので、早く食べたい。それから、新しいブレンドのコーヒー豆を買ってきたから後で一緒に飲もう」

亮さんは部屋に行ってすぐに部屋着に着替えて食卓に着いた。

「今日は野菜炒めとシュウマイと中華スープです」

「レパートリーは多いのかな?」

「それほどではありません。期待しないで下さい。シュウマイは冷凍食品です」

「毎日作ってもらえるだけで十分、贅沢は言わない。ありがとう」

「味はどうですか?」

「うん、この野菜炒め、結構いける。缶ビールを飲んでいいかな?」

「気が付きませんでした。晩酌なさるんですね」

「少しでいいから、夕食の時にアルコールがほしい。緊張が解けるからいままでも食事の時に飲んでいた。これは僕の負担にするから、そうさせてほしい」

「父も晩酌をしていました。やっぱり緊張が解けるんですね」

「理奈さんはどうなの、アルコールは飲めるの?」

「とても弱くて少し飲んでも酔ってしまいます。母も弱いみたいです」

「少し飲んでみる?」

「後片づけができなくなりますから止めておきます」

「酔わせて、どうこうしようなんか考えていないから、安心して」

「飲みたいときは飲ませてください」

「いいよ、ワインなら飲みやすいから、小さめの瓶でも1本買ってきておこう」

食事が済んだ。亮さんは「後片付けは僕がする」といってくれたが「休んでいてください」と私が後片付けをした。

その間に亮さんは今日買ってきたというコーヒーを入れてくれている。後片付けが終わったので一緒にソファーに座って飲んだ。

おいしいコーヒーだった。少し酸味が効いて、苦みもほどほどで、バランスの取れたブレンドだった。

それを亮さんに言うと、自分と同じ感想だと言って喜んでいた。そして私の味覚が優れていると言ってくれた。

亮さんはどんなことでも喜んでくれる。気を遣ってくれているのが良く分かる。悪い気はしないし嬉しい。

今日は私がお風呂に先に入って亮さんが後から入った。二人の普段の生活の1日目が無事終わった。
(11月第1月曜日)
同居生活を始めてからもう2週間ほどになっている。ようやく生活にリズムができてきた。私も家事に慣れてきてゆとりが出てきた。ただ、相変わらず夜は別々に休ませてもらっている。

お風呂はどちらが先に入るかは決まっていない。でも、どちらもソファーで上がって来るのを待っている。最初の晩に私がお風呂で寝込みそうになったことがあったから、意識してそうしている。

亮さんは私が寝込んだら、これ幸いと鍵を開けて助けに行くと言っている。だからお風呂では絶対に眠らないように気を付けている。

二人の入浴が終わると、おやすみのハグをするようになっている。今はこれが私の受容限度だと亮さんも思っている。

亮さんは今のところこれ以上のことは期待していないみたい。少し申し訳ないような気がしているが、ここまでが精一杯だ。おやすみなさい。

◆ ◆ ◆
(11月第1木曜日)
週の半ばの今日は朝から亮さんがそわそわしている。何となくだけどそう思う。朝食を食べながら、亮さんが今日の予定を話してくれた。

「今日は同期との懇親会があるので、夕食はパスします。2次会まで行くかもしれないので、帰りは11時過ぎになるかもしれません。先に休んでいてください」

「分かりました。飲み過ぎに気を付けて無事に帰って下さい」

飲み会は同居を始めてから今回が初めてだ。久しぶりの同期会で亮さんも気持ちが弾んでいるみたい。いつものように亮さんは軽くハグして先に出かけた。

今日の帰りは久しぶりに品川の駅ビルの中をウインドウショッピングして回った。ここのところ毎日夕食の用意をしなければならなかったので、必要なもの買うとすぐに帰宅していた。久しぶりにのんびりした気分になれた。

結婚すると生活が安定するけど、引き換えに自由な時間も少なくなる。分かっていることだったがすこし窮屈だ。それに何となく心が晴れない。

きっと亮さんとまだ十分に気心を通じ合えていないからだと思う。でも精一杯やっているけど、今一歩がやはり踏み出せていない。

今日は一人だけの夕食だから気に入ったお弁当を買って帰ることにした。やはり一人分を作る気にはなれない。

マンションに着くとまだ7時前だった。お湯を沸かしてお茶を入れてお弁当を食べる。なかなかおいしい味付けだ。遅くなったら二人分買ってきて食べても良いと思えるほどおいしいお弁当だった。

9時になったので、お風呂に入った。独身時代に戻ったような気分だ。ゆっくりお湯につかる。眠っても亮さんが入って来る心配もない。ゆっくり入る。でも眠ったらだめだ。

上がってから飲む冷たい牛乳がおいしい。まだ、10時前だ。やっぱり亮さんの帰りは11時ごろになるのだろう。無事に帰ってほしい。テレビを見ていたら、うとうとしてしまった。

ドアの鍵を開ける音で目が覚めた。亮さんが帰ってきた。すぐに玄関まで迎えに行く。

「ただいま」

「おかえりなさい。遅かったので無事か心配していました」

亮さんはいつもならするハグを今日はしなかった。

「ありがとう、大丈夫だ、そんなに飲んでいないし、すぐにお風呂に入るから」

「上がるまで起きています。その間に着ていたものを洗濯機にかけておきます」

そういうと亮さんがワイシャツの匂いを嗅いだ。なぜ? いままでそんな素振りはしたことがなかったので気になった。

私がそれを見ていたのに気がついたようで、目が合ったら亮さんは目線をはずした。何か後ろめたいことでもあるのかな?

亮さんが匂いを嗅いでいたので私も洗濯を始める前に匂いを嗅いでみた。居酒屋のような匂いがする。でもそんなに気にすることはないのに、なぜ?

もう一度匂いを嗅いでみる。居酒屋の匂いとは違ったかすかな香水のような甘い匂いがする。これだ!

亮さんとの約束を思い出した。でもまさか? 言っているだけでそれを実際にするような人ではないと思っていた。

それもまだ同居を始めてから2週間しか経っていないのに、本当ならショックだ。明日、それとなく聞いてみよう。

亮さんがお風呂から上がってきた。「お洗濯をしておきました。おやすみなさい」とだけ言って自分の部屋にすぐに入った。
(11月第1金曜日)
翌朝、私はいつものように朝食の準備をする。亮さんはいつものように身支度を整えてから、テーブルで私の作ったミックスジュースを飲んでいる。これまでと変わりのない朝だ。確かめたいことを聞いてみた。

「昨晩は女性とご一緒でしたか?」

「いや、同期と飲んだだけだけど」

亮さんは普通に答えたつもりのようだけど、動揺が隠せないのが分かった。鎌をかけてみる。

「洗濯して匂いで分かりました」

「匂いで?」

「女性の匂いがしました」

亮さんはもう動揺が隠せない。正直な人だ。

「そうか、御免なさい。理奈さんに分からないようにすると約束しましたが、分かりましたか」

亮さんはあっさり浮気を認めた。ショックだった。私がいるのになぜ? 理由は自分でも良く分かっている。私のせいでもある。

「やはりそうですか。謝らなくていいんです。私が認めたことですから」

素直にそう言った。亮さんも素直に認めたからだ。

「気分を害した?」

「約束した時には平気だと思っていましたが、いざとなるとショックでした」

「同期の友達に誘われて一緒に行った。理奈さんには絶対に分からないという自信があったから」

「亮さんは私のために精一杯してくれているのに、今の私のままでは亮さんを満足させてあげられていないということが改めて分かりました」

私はそれ以上何も言えない。もう行かないでほしいとは言えなかった。自分のせいだ。亮さんは悪くないと思いたかった。

でもなぜかとても悲しい。私はなぜ亮さんを拒んでいるのだろう。分からなくなった。私は黙って朝食の後片付けをした。

亮さんもどう言ったらいいか分からないようで、黙ったまま出勤の準備に部屋に戻って行った。そして「今日はいつもと同じころに帰ります」と言って出勤した。

私はしばらくテーブルに座って茫然としていた。悲しい。なぜ? 裏切られたから? 自分が招いたこと? 出かける時間だ。ひとりになって少し考えてみたい。テーブルにメモを書いた。

『実家に帰ってきます。ご心配なさらないで下さい』

無難な書き方にした。亮さんはこれをどんな気持ちで読んでくれるだろう? 今日は金曜日だから、実家に帰ってこよう。両親の顔が見たくなった。

今日は仕事に集中できなかった。仕事を終えてすぐに東京駅に向かう。18時24分の「かがやき」に乗車できた。9時には金沢に到着する。7時過ぎに実家へ電話を入れる。父が出た。

「理奈です。今、新幹線に乗っています。家には9時過ぎにつきます」

「どうしたんだ、急に、亮さんと何かあったのか?」

「いいえ、何も、ただ、両親の顔が見たくなって、家に帰りたくなったから」

「分かった、気を付けて、待っているから」

電話を終えると、携帯の電源を落とした。亮さんとは今、話したくない。しばらくそっとしてほしいと思った。

2時間半はあっという間に過ぎた。その間、居眠りしていたわけでもなかった。A席から真っ暗な外を見ていただけだった。

時計を見ていなくとも、どこを走っているのかが分かった。何も考えたくなかった。考えると自分を責めることになる。亮さんを責めることになる。

家についたのは9時を少し回ったころだった。母親がすぐに聞いてくる。

「どうしたの? 亮さんと喧嘩でもしたの?」

「いいえ、二人の顔が見たくなったから、帰ってきました。日曜には戻ります」

「亮さんから電話があったよ。携帯の電源を切っているから繋がらないといっていた。亮さんは気持ちの行き違いがあって理奈が気分を害したようだと謝っていた。日曜の朝に迎えに来ると言っていた」

それを聞いて嬉しかった。亮さんが迎えに来てくれる。期待していた訳ではなかった。でも迎えに来てほしいと思っていたのかもしれない。

自分でも分からなかったが、そうだったに違いない。迎えに来てくれることが分かったら鬱積していたものがなくなってすっきりした。自分でもこれを期待していたのだと思った。

「私の我が儘です。亮さんには心配をかけてしまいました」

「そういうことなら、こちらも安心した」

「そういうことがあってだんだん理解し合えるようになるのよ、お父さんともそうだったから」

「そうなの?」

「そんなことあったかな」

両親は痴話げんかと思ったみたいだ。そう思ってくれた方がこちらも気が楽だ。本当のことを知ったら亮さんも私もなんと言われることやら。

土曜日は一日中自分の部屋に閉じ込って亮さんとのことを考えていた。実家はいい。母親が食事を用意してくれる。それも私が好きな献立だ。呼ばれると食べに行って、また部屋に戻る。久しぶりにのんびりした。

考えることは亮さんのことばかりだ。好きになっていると思った。これまで亮さんはとても気を遣ってくれた。約束はしっかり守ってくれている。私が嫌がることはしない。

ただ、ぎりぎりの線まではしてくる。亮さんなりに何もしないと返って私に悪いと考えてのことだろうけど。

私は亮さんに何をしてあげているだろう。朝食と夕食を作ってあげている。美味しいと言って食べてくれている。でも、肝心なところでは期待に応えてあげていない。私の努力が不足していると言えば間違いなく言える。

私も努力すると約束したが、約束を十分には果たしていないことはよく分かっている。何とかしないと、また亮さんがあれを繰り返してしまう。悲しい。どうすればいいか分かっているけど、どうしても前に進めない。

(11月第2日曜日)
日曜日の朝、母と買い物に出かけることにした。亮さんが迎えに来るというので、お昼に何か美味しいものをと考えてのことだった。デパートの地下の食料品売り場の開店に合わせて出かけた。それから駅まで足を延ばして、美味しそうなお弁当とお寿司を仕入れてきた。

12時少し前に家に帰ると、もう亮さんが着いていて父と話していた。私は両親に心配をかけまいと、笑顔を作って亮さんにお礼を言った。

「迎えに来ていただいてありがとうございます。母と金沢のおいしいものを買い出しに行ってきました。お昼用と夕飯用にいろいろなお弁当も買って来ました」

亮さんは私の笑顔を見て安心したみたいだった。私も安心した。

それから買ってきたお弁当やお寿司をお昼ご飯に4人で食べた。その時に父が亮さんに言った。

「亮さんは私と似ているところがあるので安心しています。どうか、我が儘な娘をよろしくお願いします」

「分かりました。ご心配をおかけしました。もうこのようなことはないと思います」

私はそれを微笑んで聞いていた。そして私も謝った。

「本当にご心配をかけました。これからはこのようなことがないようにしますから、安心してください」

亮さんと両親に言ったつもりだった。

食事を終えると二人で駅に向かうことにした。両親は心配なのか駅まで見送りにきてくれた。

私は新幹線が動きだすまでは亮さんに話しかけなかった。でも自分の気持ちを伝えようと亮さんの手をしっかり握っていた。亮さんは私の気持ちが分かったようでほっとしたようすだった。

「ご心配かけて申し訳ありませんでした」

「ああ、心配した。でも二人で一緒に戻れてよかった。ご両親には何も話さなかったんだね」

「心配かけたくないし、私たちの約束事を説明できるはずがありません。でも父から迎えに来てくれると聞いて嬉しかったです。わざわざ迎えに来てもらって本当にありがとうございました」

「僕を試した?」

「そんなことありません。でも意識していないけど、そうだったのかもしれません」

「『神を試してはならない!』という聖書の言葉を知っている?」

「聞いたことがあります」

「僕は神ではないけれど、信じてほしい。試されると悲しくなる」

「ごめんなさい。もう二度とこういうことはしませんから」

私はずっと亮さんの手を握り続けていた。亮さんは嬉しそうに私の手を握り締めていてくれた。ご機嫌が直ったみたいで安心した。わざわざ迎えに来てくれた亮さんの気持ちがありがたかったし、また亮さんが好きになった。
意外と早く、6時前にはマンションに帰ってこられて良かった。金沢で買ってきたお弁当を二人で夕食に食べた。

いつものように食事を終えてから、亮さんがコーヒーを入れてくれた。私はずっと考え事をしていた。どうしたら亮さんが喜んでくれるだろうかと。結論は分かっているが、まだ前に進めない。その勇気がない。

亮さんは私が考え事をしているのに気が付いたみたいだったけど何も言わなかった。でも不安な様子が見て取れる。

今日は新幹線に揺られて疲れたから、早めに休むことにした。亮さんに先にお風呂に入ってくれるように頼んだ。

その後に私が入った。私がお風呂から上がったら、亮さんが冷たいお茶の入ったコップを渡してくれた。気を遣ってくれている。

私が飲み終えるのを待って、亮さんがハグしようとする。とっさに私から亮さんに抱きついていつもよりしっかりハグして「おやすみ」と言った。思いがけないことだったのか、亮さんは嬉しそうに部屋に入っていった。

そのあと、どうしようかしばらく迷ったが、私は亮さんの部屋のドアをノックした。

「入ってもいいですか?」

「いいけど、どうかした?」

私はドアを開けて中に入った。亮さんの匂いが部屋いっぱいに満ちている。以前だったら不快に思えたかもしれないけど、今日は何とも思わなかった。どちらかというと懐かしい匂いだ。

「布団に入りますから、抱いて寝てください。ただ、軽く抱くだけでお願いします」

「言うとおりにする。喜んで」

私は恐る恐る亮さんの布団に入った。まともに亮さんの顔を見られないので、自然と目を閉じている。亮さんの手が伸びてきて私を抱き締めようとする。緊張してドキドキする。

「理奈さん、身体がガチガチだ。無理することはありません。部屋に戻ったらどうですか」

「すみません。緊張してしまって、これじゃあ、亮さんに悪いですね」

「その気持ちだけで十分嬉しい。どうするこのままここにいる?」

「はい、迷惑でなければ居させてください」

「迷惑なはずがない。それじゃ、向きを変えて後ろを向いてくれる」

私は素直に向きを変えた。

「後ろから軽く抱いてあげる。それなら緊張しないと思う」

「それでよければそうして下さい」

亮さんの右手と左手が私をそっと包み込んだ。私はとっさに亮さんの両手を掴んでいた。私がそうしたことで亮さんは動きが取れなくなった。我ながら良い判断だと思った。

でも、手を握っているので亮さんはまんざらでもなさそうで、動こうとはしなかった。私はこれで安心だ。後ろの亮さんは落ち着いていて、黙ってそのままにしていてくれる。良い感じだ。

亮さんは何を考えているんだろう。このまま無理やりにということも考えているかもしれない。でもきっと亮さんは何もしてこない。そう信じることができた。

確かに亮さんは何もしてこなかった。手を握ったことでそれが抑えられたのかもしれない。背中が温かい。いつの間にか眠ってしまった。

朝、目が覚めたら、まだ暗かった。5時を少し過ぎたところだった。握っていたはずの手は離れて私の背中にあった。

亮さんが起きないようにそっと部屋を離れた。幸せな気持ちでいっぱいだった。抱いて寝てもらってよかった。
(11月第2金曜日)
亮さんの布団に入った日から4日ほどたった。それからはあえて行かなかった。私としてはちょっと冒険だった。もう少し冷静になった方が良いと思ったからだ。

金曜日、食事の後片付けが辛かった。身体がだるくて熱っぽい。週の後半は仕事が忙しかったので疲れが出たと思った。それを亮さんに話して、お風呂に入ってからすぐに部屋で横になった。

亮さんが私の体調を気にしてドアをノックした。

「大丈夫? 熱は出ていないの?」

「悪寒がして、身体が震えるんです」

身体がだるい。亮さんが「入るよ」といって部屋に入ってきた。額に手を当てて熱があるかをみていた。熱いと思ったのか、体温計を持って来て計ってくれた。38℃あった。

亮さんは部屋を出て行って、解熱鎮痛薬とお湯の入ったカップを持って来てくれた。それを飲み終えると、今度はタオルでくるんだアイスノンを持って来て、首の下あたりに入れてくれた。冷たくて気持ちいいけど、相変わらず寒気がする。

「毛布を出して使っているのにとっても寒いんです」

「身体は熱があって熱いのにね?」

「分かりません」

「布団に入るよ。誓って何もしない。温めてあげるだけだから」

亮さんはあっという間に私の後ろに入ってきた。そして、この前のように私を後ろから包むようにそっと抱いてくれた。突然そうしたので、何も言えなくて黙ってじっとしている。

「足を僕の足の間に入れたらいい、温まるから」

私は黙ってそのとおりにした。足を亮さんの足の間に入れる。

「心配しなくていいから、おやすみ」

亮さんの足は毛むくじゃらだった。父の足に感じがそっくりだ。なつかしい感触。しばらく足を動かしてその感触を確かめていた。そのうちに背中が温かくなって眠ってしまった。

夜中に亮さんが私を揺り起こした。

「理奈さん、身体が汗でびっしょりだ。着替えをした方がいい。今タオルを持って来てあげるから、待っていて」

「はい」

私が着替えを用意していると亮さんが戻ってきた。私にタオルを渡すと部屋の外に出た。私は汗で濡れた下着とパジャマを着替えた。

「入ってもいい?」

「どうぞ」

「パジャマとタオルを洗濯機に入れてこよう、僕も着替えたから」

亮さんは洗濯物を持ってまた部屋を出て行った。私は布団に入って横になった。亮さんが戻ってきて体温を測ってくれた。熱は36.8℃まで下がっていた。

「良かった、熱が下がった。このまま朝まで一緒にいるから」

「はい」

亮さんはまた私の後ろに入った。私はすぐに眠ってしまった。

明け方、目が覚めた。どういう訳か私は亮さんに抱きついて顔を胸に埋めていた。亮さんが額に手を当てたので気が付いた。

「熱は下がったみたいだ。よかったね」

私はどうして良いか分からずただ頷いた。どうしよう、動くことができない。こういう形になって寝ていたとは思いもしなかった。

無意識にしたことだろう。幼いころ父にそうして抱きついて寝ていたから、自然とこうなったのかもしれない。

亮さんの身体の温もりが心地よく感じられる。じっとしているしかない。

「ありがとうございました。温かくてよく眠れました」

「よかった。嫌がられなくて」

「小さい時、病気になると父はこうして私を抱いて寝てくれました。すごく安心して眠れました。亮さんは父と同じ匂いがします。それもあるかもしれません」

「前にお父さんが自分と同じ匂いがするとか言っていたと話していたよね」

「そうです。おもしろいですね」

「それから寝る時にしばらく足を動かしていたね。僕の足は毛むくじゃらだから、気になっていやだったろう」

「いいえ、父の足も毛むくじゃらで、いつも動かしてその感触を楽しんでいました」

「それでか、まあ、毛むくじゃらが嫌われなくてよかった」

「しばらくこうしている?」

「はい」

亮さんが背中を撫でようとしたので、緊張した。

「だめ、お願い、そのままにしていてください」

「分かった。このまま、このまま」

亮さんは手を止めて、じっとして動かない。それで私はまた眠ってしまった。

次に気が付くと8時少し前だった。亮さんはもう布団にいなかった。朝食を作ってくれていた。熱を測ると36.8℃だった。大丈夫みたい。起きて身繕いをした。

朝食を食べてから近くに内科医院へ行った。風邪の診断だった。薬を貰って帰ってきた。でも身体が少しだるい。

その日は亮さんが朝昼晩の3食の食事を作ってくれた。思っていたよりも味付けが良くておいしかった。幸いその晩はもう発熱しなかった。

そして、日曜日には何もなかったように二人でスーパーへ買い出しに行った。亮さんがいてくれて本当によかった。
一緒に住んでもう1か月位になる。いままで二人でショッピングにも出かけたことがないと言って、亮さんが二人で街中へ行ってみたいと私を誘ってくれた。

確かにいつも家で話していて、代り映えがしなくなったのは事実だった。私の誕生日が来週の11月24日(金)なのを覚えてくれていた。20代最後の29歳の誕生日だ。

「明日の土曜日、二人でショッピングにでも行ってみないか? 理奈さんの誕生日は来週だったね。婚約してから何もプレゼントをしていなかった。誕生祝いに何かプレゼントをしたいと思っている」

「高価な婚約指輪をいただきました。それで十分です。それに私のお願いを聞き入れてもらっているので、気が引けていただけません」

「僕は理奈さんにブレスレットをプレゼントしたいと思っているんだ。きっと似合うと思う」

「それほどまでおっしゃるのなら、お受けします」

「じゃあ、明日買いに行こう」

「私もお洋服を見たいので出かけましょう」

「どこへいく?」

「原宿と青山へ行ってみたい。随分行っていないから」

「了解した。ジュエリーショップを調べておくよ」

◆ ◆ ◆
(11月第3土曜日)
亮さんが調べておいてくれたジュエリーショップを2軒ほど回ると、二人が気に入ったブレスレットが見つかった。亮さんはそれを買ってその場で手に付けてくれた。嬉しかった。

それから亮さんと手を繋いで青山通りのブティックをウインウショッピングして歩く。私は気に入った店があると中に入って見て回る。亮さんは「ゆっくり見ていいから、外にいる」と言って中には入らない。

ひととおり店の中を見て回って外に出ると、亮さんが二人の若い女性と立ち話をしていた。年のころは私と同じくらいと思えた。亮さんと話している女性は見た目も素敵で着ているものもセンスがいい。

亮さんがニコニコして話している。私は気付かれないように店を出て隣の店のウインドウを見るふりをする。そして、3人の様子をうかがう。亮さんは私が店を出てきたのに気付いている。時々こちらをチラ見している。でも私を呼んで彼女たちに紹介しようとはしなかった。

彼女たちが私の出てきた店に入ると、すぐに私に合図して歩いて行った。私は急いで亮さんに追いついた。

「素敵な方ですね」

「会社の女性だ。二人でいるところを見られなくてよかった」

「見られてもいいじゃないですか?」

「社内で言いふらされるとうっとうしい。根掘り葉掘り聞かれるし。そこの店で一休みしよう」

コーヒーショップがあったので、亮さんはすぐに中にはいった。歩いていてまた会わないとも限らないからと言う。少し時間をおいてやり過ごしたいみたい。ブレンドコーヒーを注文した。

私は不機嫌そうな顔をしていたと思う。亮さんがほかの女性と嬉しそうに話しているのをみたから嫉妬したのかもしれない。

それに私を婚約者とは言わないまでも付き合っているとか言って紹介してくれてもよかったのにと思っていたからだった。私は亮さんが相当に好きになっている?

「意外ともてるんですね。素敵な女性でしたね。歳は私と同じくらいでしょうか?」

「そうだね、同じくらいだと思う」

「彼女は亮さんに好意を持っているように見えました。これは女の感ですが」

ちょっと嫌みかもしれないと思ったけど口から出てしまった。少し絡みたい気分だった。

「彼女とそばにいた女性、二人は同期だ。僕が本社に来た頃、僕は30歳位で彼女たちはその年に入った新入社員だった。僕の同期の誰だか忘れたけど、音頭をとって合コンをした。僕も誘われて参加した」

「結構、積極的だったんですね」

「丁度、本社に来たばかりで物珍しさもあってね」

「その時知り合ったのですか?」

「可愛い子だったので、思い切って食事に誘ってみた。そのあと2~3回食事に誘ったり誘われたりした。月に1回ぐらい、付かず離れずの関係だったかな、お互いにフリーで、付き合っているというより、その一歩手前の友達みたいな微妙な関係だった」

「ありえますね」

「彼女にはほかにも男性の友達がいたみたいだった。だから僕はOne of them だったと思う」

「彼女のことをどう思っていたのですか?」

「見てのとおり男好きのするタイプで可愛くてチャーミングだった。東京出身で東京の有名私立大学を出ている。実家から通っているので、経済的にも余裕があるように見えた。僕には少し生活が派手な感じがして付き合うのは大変かなと思っていた」

「確かに、実家から通っている娘は経済的にゆとりがありましたね。大学でも勤めてからも」

「まあ、それで夢中になることもなかったのかもしれない。彼女も追っかけてくるというようなタイプではなかった。まあ、僕にもその程度の魅力しかなかったということだろう。徐々に疎遠になった。別れたというほどの関係でも元々なかった」

「何となく感じ分かります」

「今思うと、その時彼女は20代前半で、まだ就職したばかりで、ベストの相手を求めて、いろいろ付き合ってみていたのではないかと思う」

「そうですね、私も20代前半ではまだ結婚はないと思っていましたから」

「お見合いの時だったかな、『秘書問題』や『裁量選択問題』と呼ばれる理論分析が、お見合いにも応用できると言う話をしたのを覚えている?」

「興味深いお話だったのでよく覚えています」

「彼女から見れば、その時の僕は最初に見送るという全体の37%に入っていたのだと思う」

「もったいなかったですね。今の彼女なら、37%よりも良い人が現れたらその人に決めるというその人に亮さんがなっていると思います」

「そうかな? 出会う時期が早過ぎた? いや、もう遅過ぎた? 出会いの時期もご縁なのかもしれないね」

「よく考えてみると、私にも当てはまることだと思います」

「それを聞いて嬉しい。今日、プレゼントを買いに来たかいがあった」

亮さんは女性の扱いがうまいのかもしれない。私は機嫌が直っているのに気が付いた。