高蔵寺《こうぞうじ》高校といえば、都立の進学校として知られている。
学校前の大通り。二年特進コースの遠山明日香は、ビニール袋をカバンから出した。食べ終わったお菓子の箱やペットボトル、ストローを挿したままのジュースのパック。目に入ったゴミを、手際よくビニール袋に入れていく。
ほかの生徒たちは気にも留めず通り過ぎる。
時々、嘲るような笑いが投げかけられる。
そしてこの朝、ちょっとした出来事があった。明日香の目の前に、飲料水のペットボトルが放り出された。
振り返るとクラスメイトの結城がニヤニヤ笑っている。
「頼むぜ、清掃業者さん」
隣に生徒会会長の鈴木卓也がいた。長身で、女子の誰もがイケメンと認めている。明日香と同じ特進コース。
「おい」
苦笑いして結城に声をかけると、明日香の前から去った。
(恥ずかしいことなんかしていない)
明日香は心の中で何度もつぶやいた。ペットボトルをビニール袋に入れた。
そのときだった。明日香を見つめる誰かの視線に気がつき、急いで振り返ってみた。だが明日香の視界は、登校生徒の集団にさえぎられた。最近、登下校、校内を移動するとき、よく感じる視線だった。
(誰かにつけられている?)
すぐに明日香は気のせいだと首を横に振った。特進コースで成績トップでも、クラスカースト最下層の自分を、わざわざストーカーする人間なんているはずがない。家がお金持ちだと思い込む人間だっていないはず……。
だがクラスカースト最下層でも、家がお金持ちでなくたって、明日香をストーカーする人間は確かに存在する。
明日香はまだ、そのことを知らない。
その人物は、今も明日香の後ろ姿を見送っていた。だが登校中の生徒たちに埋もれてしまい、誰も彼に気がつくことはない。
二年特進コースの教室。明日香は一番後ろの窓際の席で、いつもひとりぼっち。
休憩時間もひとりで読書。ボランティアのグッズを作っていることもある。
セミロングの髪に銀縁の眼鏡。眼鏡の奥の切れ長の目が、誰に対してもやさしく向けられる。
小柄な身体にはブレザーが少しブカブカだが、細く白い脚は大理石のように艶やかに輝き、よく見れば魅力的な少女のはず。
性格だって真面目で優しく親切なのに。
成績だって学年上位なのに。
クラスの人気者になるには、もっと積極的でなければいけないようだ。無口な明日香について、男子はもちろん、女子も全く関心を持たなかった。
朝、学校前でゴミ拾いをしていることについては、
「内申点を上げたいんじゃない」
「結構ずる賢い。陰キャラにピッタリ」
なんて言われよう。クラスメイトの嘲笑と反感しか、かっていなかった。
母子家庭で、身の回りのもの全て百均やリサイクルショップにお世話になっていることも、ディスられるにはピッタリの話題だ。
「地味」「陰キャラ」「ぼっち」。そしてクラスカーストの最下層。
それがクラスで定着した明日香のキャラ。
お昼の休憩時間。弁当持参のクラスメイトたちは仲間同士で集まり、食堂に行くクラスメイトたちはグループをつくって教室を出ていく。
「鈴木くん、今日は私たちと一緒に食堂に行かない?」
教室の出入口近くで生徒会長の鈴木とクラスの女子四人が話をしている。
「ごめん、ごめん。一条さんと学園祭の打ち合わせも兼ねて一緒に食事するから」
「ガッカリ」
「でも一条さんじゃ仕方ないか」
鈴木とつりあいがとれるのは、クラス委員の一条沙織ひとりだろう。ロングの髪に知的な表情。一メートル八十センチと長身で、スラリとした印象を受ける。クラスメイトの男子の人気は抜群。だがそのうち九割は最初から自分に縁のない人と諦めている。ふたりが正式にカップルになるのは時間の問題という話。
「鈴木くん、この前の一斉朝礼での挨拶、カッコよかった」
「一年生に向かって、
『君たち、おとなしすぎるんじゃないか? あまり遠慮せず、いつでも僕ら生徒会役員のところに来て意見を出して欲しい。時間とか場所とかルールはなし。胸を張って色々聞かせてくれ』
感動した!」
鈴木のファンの女子生徒たちは、生徒会報告だって聞き逃しはしない。
「恥ずかしいな。やめてくれよ」
そう言いながら鈴木は、全然恥ずかしい様子も見せない。
明日香はチラリと彼らの様子を見ながら、弁当箱を持って席を離れようとした。
そこへクラスメイトの結城と宇野、松下の三人が近づいてきた。いつも鈴木の後ろにくっついているメンバー。机の上には空のペットボトル四本が並べられた。
「頼むぜ。清掃業者さん」
ハハハハハハハ アハハハ フフフ
複数の笑い声がおこる。一条沙織の取り巻きの女子生徒たちだった。沙織は興味なさそうに前を向いている。
明日香は黙ってペットボトルをトートバッグに入れた。そのまま足早に教室の出入口に向かった。
鈴木は横目で明日香の様子を見送った。
「清掃業者が学年一位なんて、許せんな」
結城が鈴木や沙織に媚びるように話しかける。
「まあ、そんなこと言わず」
鈴木は口ではそう言っているものの、その声には冷たい響きがあった。
沙織は微笑を浮かべている。
「それからうちは、学園祭のメインイベント、演劇フェスティバルに参加するんだ。みんな協力してくれよな」
そう言いながら沙織の方を見る。沙織はクラスメイトを見回し、ニコニコと笑った。
旧校舎は放課後のクラブ活動以外はシーンと静まり返っている。旧校舎のそばに花壇があり、古びたベンチがふたつ置かれていた。
明日香は旧校舎から持ってきたジョウロで花に水をあげ、それからベンチのひとつに腰を下ろした。深呼吸し、寂しげな笑みを浮かべた。
「私ってやっぱりダメなんだ」
そうつぶやくと、右手の人差し指の先で、そっと両目の縁をぬぐった。
「そ、そんなことないと思います」
突然、泣き出しそうな声が聞こえた。間違いなく男子の声だ。明日香は驚いて立ち上がった。自分のつぶやきに返事が聞こえてきたのだ。驚かないはずがない。
「誰かいるの?」
返事はない。
「私、二年の特進クラスの遠山明日香。誰かと間違えていない?」
あたりはシーンと静まり返っている。
「ほかの人に被害が及ぶといけないから、先生に報告するからね。旧校舎のどこかに不審者がいるって!」
明日香は左右を見回す。
「だけどね。私なんか、ストーカーして、せっかくの高校生活をダメにしたらもったいないよ」
明日香は声を大きくした。
「誰にも言わないから出てきて」
明日香の言葉に、消えそうな声で返事があった。
「僕、ずっと後ろにいるんですけど……」
明日香はあわてて振り返ってみる。ベンチから三メートルほど離れた場所に、男子生徒が立っていた。
「な、何してるの、君!」
思わず明日香は緊張した声で叫んでいた。一年生だとすぐ分かった。間違いなく明日香より背が低い。小柄な体に、明日香と同じく銀縁眼鏡をかけている。おとなしい性格ということもすぐに分かった。
それにしても、どうして一年生の男子が自分のそばにいるのだろう?
「君、何してたの?」
一年の男子生徒は、真っ赤な顔で明日香の方を見つめている。
「あの、その……」
悪いことするような少年には見えないが、無人の旧校舎のそばにひとりでいたというのは、やっぱり怪しい。
「何してたの? 正直に言いなさい」
一年の男子生徒の体がかすかに左右に揺れた。
「せ、先輩のこと見てました」
消えそうな声が返ってくる。
明日香のことを見てたなんて、どうしてすぐ分かるフェイクを言うのだろう。明日香は意識して、こわい顔をしてみせた。
「そんなフェイクに騙されないから」
自分のことをストーカーしてたなんて信じられるはずがない。
「ほ、本当なんです」
男子生徒の体が大きく左右に揺れた。口をパクパクさせ、目を大きく見開いている。
「僕、先輩のこと、ストーカーしてました」
明日香にとって、これはまさしくサプライズの一言。誰かと間違えたワケではなかった。明日香は、しばし少年の顔をまっすぐ見つめていた。そのうちにだんだんと、何だか嬉しい気分になってきて、口元にかすかな笑みを浮かべていた。
「あのね。私なんか、ス、ストーカーしてくれて……どうもありがとう」
男子生徒の体が、今度は前後に揺れた。
「よかったらこっちへ来ない」
明日香がやさしく手招きする。男子生徒は右手に小さなトートバッグを持っている。バッグの口から、パンとパックの牛乳が覗いていた。
「あのねっ、一緒にお昼ご飯食べよう」
明日香がもう一度、声をかける。一年生はそのまま、その場に崩れ落ちていた。
つまり、これは失神ということ。
ベンチに並んでふたりで話をする。明日香はまだ男子生徒の言葉を完全には信じられずにいる。後で突然、クラスメイトたちがゲラゲラ笑いながら出てきて、
「モニタリング大成功」
と手を叩くんじゃないだろうか?
さて男子生徒の方はといえば、失神からは立ち直ったけれど、相変わらず顔は赤く、極限まで緊張した表情。
明日香は、いつもの無口な陰キャラが少しだけ快活になった。
「朝井悠馬くんだったよね。どうして、私のこと、ストーカーしてたの?」
悠馬は緊張した表情のまま下を向いている。ゴクンと唾を飲み込んで、ゆっくりと口を開く。
「遠山先輩のこと、あこがれてたんです」
「そんな人、絶対いないと思う。本当の理由を教えてよ」
悠馬は下を向いたままだった。
「毎朝、ゴミ拾いのボランティアしています。公園の掃除してるのだって見ました。花壇に水をあげているのも……」
振り絞るように声を出す。ゼーゼー息を吐いている。こんな光景、誰かに見られたら、確かに不審者そのもの。
「すごく……カッコいいと思いました」
明日香は小さく笑った。
「カッコいいかなあ。そんなこと言うの、朝井くんだけだと思う」
明日香は、悠馬の価値基準が一般人とは正反対なんだと考えて納得した。このままでは、自分と同じように不幸になる。明日香は心の底から悠馬の未来を心配していた。
「私のところ、シングルマザーなんだ」
明日香が優しく語りかける。
「何度か生活保護の申請をしたけどダメだった。福祉事務所に行ったとき、女性の担当者がお母さんに言った言葉を今でも覚えている。
『こうなったのも、ご自分の責任じゃないですか?それを行政に押しつけるんですか?』
お母さん、何度もペコペコ頭を下げてた。どうしてシングルマザーになったか、中学のときに教えてもらった。私、お母さんが悪かったとは思わない」
悠馬は黙ったまま、顔を上げた。真剣にまぶしそうに明日香の顔を見つめる。悠馬の真剣な表情を見ていると、この少年に何もかも打ち明けたくなってきた。
「お母さんは、時々、私に見えないように泣いている。だけどね。私、マッチ売りの少女なんかにはなりたくないんだ。冷たい社会かもしれないけど、前を向いて少しずつ世の中をよくしていくヒロインになりたい。そうすれば最後には、きっと私とお母さんだって幸せになれる」
そう言ってから肩をすくめて笑う。
「と、言うことだけはすごいよね。『陰キャラ』で『ぼっち』の女子がね」
ゴミ拾いやボランティアの人たちと公園の掃除、そして親と離れて暮らす子どもたちの施設の慰問……。それが本当に社会をよくすることになるのだろうか? 明日香をヒロインにしてくれるのだろうか?
明日香は結城たちの嘲笑を思い出す。
「クラスではね。ヒロインではなく『地味』で『陰キャラ』で『ぼっち』、そして『清掃業者』だと思われている」
悠馬ったら、これ以上は絶対ムリなくらい真剣な表情で、明日香の話を聞いている。
「そんなことありません」
悠馬が弾かれたように立ち上がった。トートバッグから百枚入りの「消臭ゴミ袋」を出してベンチに置いた。
「ぼ、僕のところも母子家庭です。遠山先輩みたいにカッコよくなりたいです」
そう叫んで明日香の前から走り去った。
明日香は後を追うため立ち上がった。けれども、その必要もなかった。
あわててたのは悠馬も同じ。足がもつれて、あっというまに地面に大の字。明日香は悠馬を助け起こしてベンチまで戻り、ブレザーの汚れを拭き取ってあげた。ティシュで顔の汚れを拭った後、明日香は悠馬がまた意識をなくしていることに気がついた。
つまり、これは二度目の失神ということ。
六時間目は臨時のHR。学園祭のメインイベント、演劇フェスティバルのキャスティングの決定。
『僕はどうしても君に告白する』という高校を舞台にした恋愛もの。沙織の取り巻きのひとり、寺尾真弓が執筆し、台本はクラス全員に一冊ずつ配られていた。
内容はと云うと---
クラスカーストのトップに立つ新川瑠璃にクラスメイトの西条司が告白するが、平凡なクラスメイトに過ぎない司を瑠璃はバカにして蔑む。瑠璃の取り巻きや崇拝者の男子生徒から散々ディスられ、イヤがらせをされる司。
そんな司を陰から慕うおとなしいが心優しい性格、白石麻衣子。司は麻衣子の気持ちに気がつき、たとえクラスカーストのトップでも心の冷たい瑠璃ではなく、麻衣子と結ばれるという純愛ストーリー。
ストーリーだけ聞くと、瑠璃が完全なヒールに思えるけれど、実は最後には今までの自分を反省。ラストシーン。司と麻衣子の前に現れて、ふたりにディズニーランドのパスポートを渡して立ち去る。
出番も見せ場もいっぱいの役。
「では最初は主役の新川瑠璃の役を決めます」
福島先生が泣きそうな顔でクラス全員を見回す。二十代後半。真面目だけれど、全く威厳のないのが悲しすぎる。まずは立候補。誰も名乗りをあげない。
推薦になったとき、すぐに結城が手を挙げた。
「遠山さんがいいと思います」
一番後ろの席の明日香の耳にもハッキリ聞こえる。決して気のせいなんかじゃない。だけどどうして?
推薦したのが、結城というのは偶然だろうか?空のペットボトルを突きつけられたことを思い出す。
すぐに三人が手をあげて、三人とも明日香を推薦した。あちこちから歓声と拍手が起こり、クラスカーストトップと真逆のスタンスに立つ明日香が、クラスカーストのトップの女子生徒、新川瑠璃を演じることとなった。
続いて司と麻衣子の役に移る。
鈴木と沙織が手を挙げ、拍手のうちに決定した。
明日香は一番後ろの席で、ブルブルと震えていた。溢れそうな涙を必死でこらえていた。
「地味」「陰キャラ」「ぼっち」の明日香がクラスカーストのトップの役で舞台に立つ。客席からの爆笑。
「頑張れ、ぼっちさん。陰キャラのトップ!」
結城たちがヤジを飛ばすことだろう。
演劇フェスティバルで明日香が演じるのは、ヒロインではなく惨めな笑い者のキャラ。
沙織がニコニコ笑いながら、そっと明日香の様子を伺っている。
福島先生がどうしたらよいか分からないまま、教壇に立ち尽くしていた。
学校近くのファミレスは学校帰りの生徒の集いの場所。今日は生徒会長の鈴木、クラス委員の沙織、ふたりの取り巻きの生徒たち十四人が大テーブルに向っていた。
テーブルの上にはファミレス自慢のサンドイッチ。全員がドリンクバーで、思い思いのドリンクを味わっている。
鈴木が他のメンバーを見回す。
「遠山が『地味』で『陰キャラ』、『ぼっち』なのはみんなに知られてる。モテモテのクラスカーストトップなんて超ギャグだ」
沙織は横でニコニコ笑っている。
「演劇フェスティバルのグランプリは演劇部のメンバーがいる三組か五組だろう。だがうちは特別賞を狙う。」
取り巻きの男女がうなずく。
「それに『陰キャラ』で『ぼっち』が定期テストで学年トップなのは、ちょっとな。まっ、舞台でお笑いのトップキャラになったら、少しはおとなしくなるだろう」
鈴木は冷たい笑いを浮かべている。その横では沙織が優雅に微笑んでいる。
「これからどうしたら?」
結城が尋ねる。
「遠山を知らないヤツもいる。陰キャラでぼっち、クラスカーストの最下層だと、ほかのクラスに広めて欲しい。知られれば知られるほど、本番で笑いがどんどん大きくなっていく」
詳しい打ち合わせの中、沙織がストローで美しくオレンジュースを飲む。
そして隣の席。親子連れだろうか?スーツ姿の五十代の男性とボタンダウンのシャツを着た少年が向かい合っている。
「私の勧めたレストランではなく、急にファミレスを選ぶとはね。何かワケがありそうだな。よかったら教えてくれないか」
五十代の男性が微笑んだ。