幼稚園の元園長の礼子は時折り記憶が蘇る。小さな子供たちに囲まれ、楽しくしている時のことが今起こっていることのように感じてしまう。
「何でも好きなものを自由に描いて下さいね。それを後でお父さん、お母さんにプレゼントしましょうね」
「はーい」
 素直に返事する子供たち。白い画用紙にクレヨンで絵を描き始める。それを優しく見守る礼子。自分にも同じ年頃の孫がいるが、違う幼稚園に通っていた。
 だからこの年頃の子供達のかわいさはよく分かっていたし、親や祖父母の目線で優しいまなざしを向けてひとりひとり観察していた。
 犬や猫といった身近な動物を描いている子、家族の絵を描いている子、中には判断しづらいものもあるけど、そこは自由な発想で微笑ましい。
 画用紙の隅々から乱雑にいろんな色を塗りつけているだけの子もいた。色だけを塗って楽しんでいる。それもありかもしれない。
 その隣で丁寧にゾウを描いている女の子がいた。長い鼻、大きな耳、特徴をよく掴んでいてこの中で一番しっかり描けていた。でも描いている女の子の表情がどこか元気なさそうだ。
「先生見て」
 早く描き上げた子供は絵をほめて欲しいと礼子に見せにくる。
「はい、よく描けましたね」
 褒めれば子供は得意気になって自信をつける。ひとりひとりの気持ちを大切に礼子は子供たちに接していた。
 描き上げた子供たちが増えてくると教室はざわざわとしてくる。そこで言い合う声が耳に入ってきた。
「ゾウはピンク色なんかしてない」
「いいじゃない、そんなゾウだっているかもしれないじゃないの!」
「ピンクのゾウなんているわけないじゃん!」
 することがなくなった園児が他の子の絵を見て批判していた。
「みんなまだ描いているんだから、静かにしようね」
 礼子が宥めに入る。そこに絵が目に入ってくる。先ほどしっかりと描けていると思ったゾウの絵は現実ではありえないピンクの色で塗られていた。
「ねぇ、先生、ピンクのゾウなんていないよね」
 男児がはっきりと尋ねてきた。
「うーん絵だから、好きな色を塗っていいんですよ」
 向きになってしまう園児を優しく諭す礼子。
「でも、ピンクのゾウなんて本当にいないでしょ、ねぇ、先生」
 ちょっと拘ると白黒はっきりするまで収拾がつかなさそうだ。
 確かにピンクのゾウなんて実際いない。でもここで否定することもできない。どうやって静めようかと思案していると、隣の男の子が声を上げた。先ほどいろんな色を画用紙に塗りたくっていた子供だ。それが今、全体が黒一色に塗り変わっていた。それにもぎょっとしたけど、その子は言い放った。
「ピンクのゾウはいるよ。僕ね、見たよ」
「うそつき! そんなゾウいないよ」
 女の子を庇おうとしたのだろう。でもそれが却って油に火を注いだ。批判した男の子は向きになって「うそつき」と連呼する。
「はいはい、言い合いはやめましょうね。今日は好きな絵を描いていいんだからね」
 礼子はうやむやにごまかそうとしていた。
 その時、真っ黒い画用紙に鮮やかな色が浮かび上がる。ピンクのゾウを肯定した男の子は爪で引っかいていた。自分の指が黒く汚れるのも気にしないで、黒く塗りつぶした画用紙を爪で削って絵を描いている。これはスクラッチ技法だ。
 礼子だけじゃなく、批判していた男の子までもがはっとした。
 そこには迫力のあるゾウの絵が現れ、それはまさに圧倒させる出来栄えだった。
「僕、本当にピンクのゾウを見たよ」
 あっけらかんとまた繰り返す。しかし誰もその言葉を聞いていない。その男の子が描いた絵に興味を鷲づかみにされ、論争することを忘れさせた。それほどその絵は幼稚園児の域を超えて大人顔負けにとてもうまく描かれていた。稀にこういった才能を持つ天才が現れる。
「すごい」
「上手だな」
 あっという間に人だかりになって、子供たちは褒め称えた。その事柄はピンクのゾウと絡んで礼子の記憶にいつまでも刻まれた。
 そして礼子は長い年月を経て、本当にピンクのゾウを見てしまうことになった。
「あっ、ピンクのゾウが遊びに来てくれたわ」
 ソファーに座ってぼんやりと宙を眺める礼子。日に日に記憶が零れ落ち、誰かの助けなしには生活が送れなくなってしまった。
 このとき、その言葉を聞いた家族の者たちは悲しくなってしまう。
「ピンクのゾウが見えるなんてやめてくれよ、ばあちゃん。それって頭がおかしくなったっていう例えの言葉そのものじゃないか」
 孫の翔平は嘆いていた。認知症が進んで幻覚を見ている祖母に耐えられない。
「そろそろ施設のことを考えた方がいいかもな」
 ダイニングテーブルで新聞を読んでいた父親が顔を上げて言った。片付けをしていた母親も側で難しい顔つきになっていた。
 祖母を慕う翔平にはそれが辛かった。いつも優しくて、自分をいい子だと褒めてくれた祖母。
『翔ちゃんは友達を助けてあげられる優しい子になってね』
 その教えを守ろうと翔平は誰にでも声を掛け、誰からも好かれるようになっていた。
「ねえ、ばあちゃん、しっかりしてくれよ」
「えっと、ヨウちゃんだっけ?」
「違うよ、ショウヘイだよ。ヨウじゃなくて、ショウの翔平!」
「ショウちゃん?」
 あまりピンときていない祖母の表情に翔平は泣きそうになってしまった。