「明日花ちゃん。今日もありがとうね」
「いえ、大したことありません」
わざとらしくならない程度に、私は柔らかい声色を使う。
クラスメイトであり、不登校の桑島くんに学校の配布物を届けるのは私の日課となっていた。
私は桑島くんのお母さんに学校の配布物が入った封筒を渡す。
「桑島くん、何かあったんですか?」
「うーん……。いつもはぐらかされて、答えてくれないのよね」
「そうですか…」
桑島くんはある日を境に急に学校を休むようになってしまった。
いつも明るくてクラスの中心にいるような人だったから、不登校になるなんてきっと誰も思ってなかった。
もしかしたら、その先入観が桑島くんを苦しめていたのかもしれない。
桑島くんと隣の席の私は、桑島くんが最後に学校に来た日をよく覚えている。
一番近くにいたのに何も気づかず、何もできなかったことが悔しかった。
もし、あの日に戻れるなら、私はどんな言葉をかけてあげられるだろうか。
「桑島くんが学校に来る日を待ってます」
「ありがとう…紡に伝えておくわ」
私は深くお辞儀をして、その場を立ち去った。
もっと伝えたいことがあったはずだけど、上手く言葉にできなかった。




通学路である海沿いの道を歩きながら、在りし日の桑島くんを思い浮かべていた。
細身な体型に、少し焼けた肌。
くせ毛が特徴的で、クワガタのような髪型がクラスメイトたちの笑いのツボとなっている。
良くも悪くも自由で、底抜けに明るい性格がみんなから愛されていた。
でも危なっかしいところもあって、少しでも目を離すとすぐにいなくなってしまう。
いつしか、そんな桑島くんを目で追うようになっていた。
桑島くんが最後に学校に来た日は、高校二年生になって間もない四月二十七日。
その日は桑島くんが日直だった。
学級日誌には
『今日は何でもないような一日でした。でも、必要な一日だと思いました。』
と書かれていた。
何度も読み返したけれど、この短い文章から桑島くんの意図を読み取るのは難しかった。
「あ、やばっ」
ふと腕時計に目をやると、夕方五時を過ぎていた。
もうスーパーのタイムセールが始まっている。
早く材料を買って帰らないと、お父さんが仕事から帰ってきてしまう。
うちは父子家庭だから、料理や洗濯などの家事は私が担っている。
物心ついた時にはもう、私には"お母さん"という存在がいなかった。
もともと身体の弱かった私のお母さんは、病気で亡くなってしまったらしい。
お母さんについて知っているのはそのことと名前ぐらいだ。
なぜか、お父さんはお母さんの話をしたがらない。
他に何か複雑な理由があるのだと予想しているけど、
それを聞く勇気はない。
知らない方がいいことだってあると思うから。
私は自分が傷つくことが怖い。
今さらお母さんがいなくて寂しいとか、よそと違って大変だなんて思わないし。
あれこれと考えるのはやめ、私はスーパーまで駆け出した。





「明日花ちゃん。今日はカレーかい?ずいぶんと具の少ないカレーだねぇ」
行けつけのスーパーで働いている川上さんにいつものごとく、声をかけられた。
「川上さん、違いますよ。昨日作った肉じゃがの残りを使ってカレーにするんですよ」
「そりゃあ、たまげた。若いのにすごいねぇ。明日花ちゃんは料理上手の良いお嫁さんになるよ」
嬉しいけれど、どう返して良いか分からず、愛想笑いをする。
こんな会話はわりと日常的にある。
川上さんを含め、大人たちによくほめてもらえるけど、私にとっては当たり前のことなのだ。
学校の友達や先生からよく大人っぽいと言われるけれど、本当の私は未熟で、弱くて脆い。
せっかくほめてくれたのに、いつも謙遜してしまう私は素直じゃないのかもしれない。





私がキッチンでカレーを煮込んでいると、玄関のドアがガチャッと開く音がした。
お父さんだ。
お父さんが帰ってきたんだ。
今日はいつもより遅いな…。
お父さんは何も言わず、リビングに入ってくる。
"ただいま"くらい言えばいいのに。
「おかえり、先にご飯食べる?」
「ああ」
お父さんは相槌だけ打ち、仕事着から部屋着に着替えるために荷物を置き、自分の部屋へと向かった。
夕飯を毎日一緒に食べるというルールを決めたわけではないけど、昔からの習慣であって、今さら変えられないし、変えようとも思わない。
「いただきます」
「いただきます」
食事中はもちろん、お父さんとの会話が弾むことはない。
テレビの音がこの空間をなんとか和ませている。
「学校、どうだ?」
「……普通だよ」
「そうか」
お父さんから定期的に聞かれる質問に深くは答えず、相槌を打つ。
聞いてくる割にはあまり興味が無さそうに見える。
「なんかあったら、すぐ言えよ」
「うん」
「明日も遅くなるぞ」
「うん」
「腹減ったら先に食っていいからな」
「……分かった」
そんなこと言われなくても分かっている。
でも明日の私はきっと、どんなにお腹が減っても何も食べずにお父さんの帰りを待っているだろう。
昔、お父さんが「飯は二人で食べた方が美味いな」と言ってくれた。
お父さんはそんなこともう覚えてないだろうけど、その言葉が忘れられずに、私は今でも二人でご飯を食べるようにしている。
「ごちそうさま」
お父さんは私よりも食べるスピードが遥かに速い。
あっという間にたいらげてしまった。
「あっ……」
「ん?」
「……何でもない。何言うか忘れちゃった」
「そうか」
お父さんの視線はすでにテレビに向いていた。
本当はもっと他愛も無い話をしたかった。
いつからか、言いたいことが言えなくなってしまった。
誰といても常に相手の顔色をうかがい、当たり障りのない言葉を並べる。
その場の雰囲気が悪くならないことが最優先だからだ。
お父さんが仕事で忙しいことは、帰ってきたときの顔を見れば分かる。
だからどこに行きたいなど、あれが欲しいなど、これが食べたいといったワガママは必然的に言わなくなった。
本当はもっと可愛い服がほしいとか、メイクに興味があるとか、年頃の憧れはそれなりにあるけど、それをお父さんに伝えるのはなんだか恥ずかしい。
お互い素直になれないから年々、溝が深くなってしまっている。
言葉足らずで無愛想で不器用な私のお父さん。
私が素直になれないところはきっと、お父さんに似ているのだ。



 

食後、皿洗いを終えたら、自分の部屋で課題に取り組む。
高校一年生の時と比べたら、今の方が量も多くなっているし、難しくなっている。
分からないところはその日のうちに理解しないと、授業についていけない。
自分の将来のことを考えると不安になるけど、まずは目の前のことに集中しなければならない。
課題と明日の化学の小テストの勉強を終えた頃にはもう夜十時を過ぎていた。
「明日花、そろそろ風呂入れよ」
「はい……」
ドア越しにお父さんが言う。
いつものようにお父さんがお湯を張ってくれたので、すぐに入ることにした。
それに私にモタモタしている時間はない。
お風呂から上がり、今日の分の洗濯機を回す。
私は朝、洗濯を干す時間がないので、夜のうちから乾燥機にタイマーをかけて乾かしている。
そして、寝る前に明日の朝ごはんとお弁当に使うお米をとぐ。
これが一日の最低限の家事だ。
全てをこなした後、ベッドに吸い込まれるように横になる。
「はぁ……」
一日の疲れがため息と共にどっと出る。
自由ない生活はやっぱり息苦しい。
父子家庭だからしょうがないって分かっているけど、やっぱり辛い。
気を紛らすように、私はスマホを手に取り、無料で小説が読めるアプリを開いた。
本屋さんに並べられている本も良いけれど、ネット上に無数にある独創的で自由に書かれたものの方が好きだ。
ありきたりなハッピーエンドや世間から評価されている物語が全てとは限らないと思っている。
ネット上にある小説の中で自分好みのものを探すことが宝探しのようで楽しいのだ。
ここ最近で一番心に残った本は、「はんぶんこ」だ。この物語の主人公である双子が言っていた、
『一度きりの人生だから、自分のために生きていいはずだ。でも、周りの人間も一度きりの人生であることを忘れてはいけない』
という言葉が心に残っている。
自分に与えられた命や人生は自分のためにあるようで、周りの人間の支えがあって存在しているのであり、自分だけのものではないということを教えてくれた。
同時に、周りの人間に迷惑をかけてはいけないという現実を突きつけられるようにも思えた。
読み手によって捉え方が変わる言葉は不思議な力を持っていると思う。
ネット上だから全て匿名で、顔も名前も知らない、誰かが創った物語。
「はんぶんこ」は、まるで私に向けて書かれているようで、心が救われた。
読書をしていると、不意に涙が頬を伝っている時がある。
「大丈夫」とか「頑張れ」とかそんなありふれた励ましの言葉じゃなくて、独自の感性で、著者なりの言い回しで、物語として伝えてくれる優しさが沁みるから。
私が上手く言葉にできない気持ちを複雑に絡まった糸を解くように表現している。

『君が笑えば僕が笑顔になるように、僕らはいつもはんぶんこだ。それが僕らの幸せの形なんだ。』

今日はこの言葉をお守りにして、眠りについた。






『先に出るぞ』
朝、テーブルに置き手紙と朝食が置かれていた。
黒のボールペンで書かれたお父さんの不器用な文字。
「わざわざ書かなくても、分かってるよ…」
お父さんの朝は早い。
家族を支えるため、もとい全ては私のために働いてくれているのだから、何も言えない。
私は父が作ってくれた朝食を残さず食べ、身じたくを済ませた。
身じたくといっても、洒落たことは何もしない。
制服に着替え、肩まで伸びた髪を一つに結んだら、私のいつもの学校スタイルが完成する。
高校生になって、メイクをしたり、髪を巻いたりする子が増えた。
地味な私は、そういう子の横に並ぶのが恥ずかしく思うようになった。
自分のモチベーションアップのためだとか、好きな人に振り向いてもらうためだというまっすぐな気持ちで、自分磨きをしている女の子はみんな可愛い。
自分ができないからこそ羨ましさがあった。
まあ、私はただ学校に行くだけだからそんなに気合いを入れる必要なんてないけど。
私は家の戸締まりをして、学校へと向かった。
今日も授業を受けて、桑島くんに配布物を届けて、帰ったら家事をこなす。
いつも通りの何でもないような一日。
でも、なぜか息苦しい。
私はどうしたらいいんだろう……。
「姫野さーん?」
「え?」
どこからか声がして、辺りを見回すが、誰もいない。
気のせいかな……。
「姫野さーん!上だよ、上!」
「上?」
見上げると、大木のてっぺんまで登った少年の姿があった。
あの細身でクワガタのような髪型は……
「桑島くん!?」
「やっぱり、姫野さんだー!」
「桑島くん、そこ危ないよ!ゆっくり降りてきて!」
なぜその木に登っているのかは置いといて、桑島くんの安全を確保しなければ。
私の声が届いたのか、桑島くんはゆっくりと降り始めた。
木にしがみつく姿がまるで本物のクワガタのようだ。
本人には決して言わないけれど。
「なんか、超久しぶりな感じ」
「そうだね。……名前覚えててくれたんだ」
「覚えてるよ。だって、隣の席だし」
「一回も呼ばれたことなかったから……」
「そうだっけ?」
桑島くんは首をポリポリとかいた。
これは本当に何にも気にしてなさそうな表情だ。
「姫野さん、俺といると遅刻しちゃうよ。優等生が遅刻しちゃダメでしょ」
「桑島くんは学校……行かないの?」
「うん。行かない」
桑島くんは何の躊躇いもなく答えた。
「そ、そうなんだ……」
「姫野さんは学校行かなくていいの?」
「……そうだよね。行かないと。またね、桑島くん」
私は自分に言い聞かせるように言った。
私は桑島くんと違って自分の気持ちに素直になれないし、自分がどうしたいのかもよく分からない。
桑島くんに背を向けて歩きだした。
「姫野さん。本当は学校行きたくないんでしょ」
その言葉にピタリと立ち止まる。
まるで、心を見透かされているみたいだった。
「姫野さん、本当はどうしたいの?」
桑島くんは私の答えを促すようにそう言った。
そんな風に言われたら、もう自分に嘘はつけない。
「学校……行きたくない……」
私は桑島くんの方を振り返り、震えた声でそう言った。
本当はずっと誰かに言いたかったけど、誰にも言えなかった。
私は学校が嫌いだ。
学校という括りに縛られて、限りある集団の中で協調性を強いられることが息苦しかった。
「じゃあ、優等生は本日までってことで」
桑島くんは私の手を取り、駆け出した。
「ちょっと待って、どこ行くの?」
「それは着いてからのお楽しみ!」
今ならまだ引き返せる距離。
でも、通学路とは違う初めて通る道に心惹かれている。
心の中で複雑な気持ちが揺らぐ。
学校に行かなければならないと頭ではちゃんと分かっている。
でも、桑島くんのこの背中についていけば、まだ誰も知らないような世界だって行ける気がした。
今日くらいはワガママな夢を見たい。
私は桑島くんの手を離さなかった。





着いたのはフェリーが複数ある港だった。
「洋平おじさん!この子も乗せてよ」
「んあ?」
フェリーに何やら荷物を詰めているおじさんが私たちをじっと見つめる。その視線の先は繋がれた手元に向いているようだ。
「なんだ?紡、彼女いたのか?」
「うん」
「えっ」
息をするように嘘をついた桑島くんに驚き、別の意味で驚いたであろうおじさんと驚きの声が被る。
「しょうがねぇな……。ほら、早く乗れよ」
「ありがとう洋平おじさん!」
桑島くんはあどけない笑顔でそう答えた。
「ちょっと……どういうこと?」
「ごめんって。彼女って言ったら快く受け入れてくれると思ってさ。今日だけ俺の彼女になってよ。」
こんな状況で断れないし、桑島くんも私が断れないことを踏んで言っている気がする。
「分かった……」
「洋平おじさん、優しいから大丈夫だよ。女の子には特に」
「その洋平おじさんと桑島くんってどういう関係なの?」
「親戚だよ。昔から俺のこと可愛がってくれてるんだよね。俺が今、不登校だってことも知ってるよ」
だから、さっき学校のことについて何も聞いて来なかったんだ。
私なんて制服着てるのに。
「あ、そろそろ出航だよ!」
「行き先はどこ?」
「だから、着いてからのお楽しみだって。その方がワクワクするでしょ?」
「そっか……そうだね」
笛の音を合図に船はゆっくりと進み始めた。
小さな船の中で、桑島くんと他愛もない話をして過ごした。
今日は雲一つない快晴というのもあって、船からの景色は美しく映えて見えた。
もし今日来ていなかったら、空の青さと海の青さが全く違う青であることに気づけなかったかもしれない。





「着いた!ここだよ」
二十分ほど経った後、自然豊かな小さな島にたどり着いた。
「ここって……」
「ここはアサギマダラの飛来地だよ。来たことない?」
「アサギマダラって…」
私は記憶の引き出しを開ける。
アサギマダラは非常に長い距離を移動することから、
"渡り蝶"や旅する蝶"とも呼ばれている。
最長で二五〇〇キロメートル移動したという記録があるということを以前、テレビで見たことがある。
半透明の羽が神秘的で美しい。
五、六月頃になると、この島で羽を休めるのだ。
昔、お父さんとこの島へ来た日を思い出した。
「久しぶりに来たよ。もうアサギマダラがやってくる時期だっけ?」
「さっき、大木に登ってアサギマダラがいるか確かめてたんだ。今日超天気良いし!……何も見えなかったけど」
「……でしょうね。もし、いなかったらどうするつもりだったの?」
「いるって信じて来た!」
そんな一か八かで賭けて来るなんて、私には理解できない思考の持ち主だな……。
アサギマダラはあの場所から見えるような距離じゃないけど、大木に登っていたことにちゃんと理由があったんだ。
何も考えずに行動しているイメージがあったから、変に安堵する。
「でもほら、何匹かいるよ。せっかくだし、マーキング活動していこうよ」
「マーキング活動?」
「え、したことないの?」
「うん。だって、ずいぶん昔に来たんだもん」
その頃はマーキング活動なんてなかった気がする。
「アサギマダラの羽に場所と日付と名前を書くんだよ。アサギマダラは謎の多い生き物だから、その謎を解明するために始まった活動なんだよ。どうやってそんなに長い距離を移動しているのかとかは未だに分かってないんだけどね」
桑島くんは説明しながら、アサギマダラを追いかけ、すぐに二匹を捕らえた。
「これ、姫野さんのアサギマダラね。蝶、触れる?」
「うん。触れるよ。ありがとう」
私は桑島くんが捕まえた片方のアサギマダラを受けとる。
「俺たちがまだ行ったことがないような遥か彼方へ届くかもしれないって思うと、夢あるよな」
「そうだね」
桑島くんが持っていたネームペンを借りて、優しい力で羽に書き込む。
桑島くんは最後にカタカナで『サチアレ』と書き足していた。
「誰かに見つけてもらえるといいね」
私も何か一言添えようとしたけど、良い言葉が思いつかず、にこっと笑った顔を描いた。
私たちは羽にそれぞれの想いをのせ、アサギマダラを空に放った。
「あの二匹、仲良しだな」
「本当だ」
私たちがマーキングした二匹のアサギマダラはお互いを追いかけるように交差しながら飛んでいった。
「姫野さん、いつも配布物届けてくれてありがとう」
「ううん。大したことないよ」
「姫野さんはいつも頑張りすぎなんだよ。たまには羽を休めるのも大事だよ。このアサギマダラみたいにさ」 
桑島くんはアサギマダラを見つめながら言う。
「……桑島くんは学校嫌い?」
「俺、勉強は嫌いだけど学校は好きだよ。友達はうるさいけど良い奴ばっかりだし。行かなくなったのはちょっと理由があって……」
「何?」
「俺……学校やめようと思ってんだよね」
「えっ!?」
「実は……俺の家、母子家庭なんだ。母さんが毎日、俺のために働いてくれてるんだけど、やっぱり経済的に厳しくてさ」
私はあまりの衝撃にしばらく言葉が出なかった。
「母さん……多分俺以上に痩せてるんだ。全部俺のためだって分かってるけど、母さんの苦しんでる姿をもう見たくないんだ」
私はどんな表情をしたらいいのか分からなくなって、うつむく。
「学校やめたら、洋平おじさんのところで働こうと思ってるんだ。今は研修期間。仕事内容はそんな簡単じゃないけどね」
「桑島くんは本当にそれでいいの……?」
「……分からない。でも、こうするしかないって思ってる。これで経済的にも精神的にも母さんを支えられるって思ったんだ」
正反対だと思っていた桑島くんが片親という同じ悩みを抱えていたなんて、今日まで知らなかった。
「……分かるよ」
「え?」
「私も片親だから分かる。私は父子家庭だけど、親の負担を背負うことがあってもしょうがないって思うの。でも、もしかしたら、私がいるからお父さんが苦しんでるんじゃないかって思ったこともあるよ」
桑島くんは私の話に驚ろきつつも共感するように何度も頷いていた。
「俺の両親はさ……俺が生まれてすぐ離婚したらしいんだ。もしかしたら、俺が生まれてくることを望んでなかったんじゃないかなって……」
"そんなことないよ"なんて、無責任に言えない。
他に何か適切な言葉がないか頭の中で必死に探す。
「俺たちが生まれてきた理由ってなんだろうな」
いつもと変わらない口調だけど、その声は哀しく聞こえた。
「俺、明日は学校に行くよ。短い間だけどさ、仲良くしてよ」
本当は何か寄り添える言葉があったはずなのに、私は頷くことしかできなかった。





その後は、洋平おじさんとその奥さんが働いているという島の食堂でお昼ご飯をご馳走になり、午後は桑島くんがこの島の観光スポットを案内してくれた。
桑島くんは顔が広く、島のほとんどの住民から顔と名前を覚えられていた。
初めて行く場所や初めて会う人ばかりで、冒険した気分だった。
あっという間に時は流れ、気づいた時には日が暮れ始めていた。
帰りの船も桑島くんの隣に座った。
行きの船とは違い、肩が触れるくらいに近い距離。
小波の揺れと暖かい潮風が心地良く、睡魔に襲われる。
「姫野さん……」
「ん?」
「今日、楽しかった……?」
「うん、楽しかったよ」
「良かった……」
桑島くんも眠いのか、柔らかくゆっくりとした話し方になっている。
案の定、私の肩に身を預けて眠ってしまった。
桑島くんは誰とでもこんなに距離が近いのだろうか……。
まあ、いいか。
今日の私は桑島くんの彼女なんだし。
それに、あと何回桑島くんの隣に座れるか分からないんだから。
この貴重な時間を噛みしめるように、黄昏ていた。





翌日、桑島くんは本当に学校に来た。
「桑島だ!桑島が学校に来たぞ!」
「まじかよ。超久しぶりじゃね?」
「休んでる間ずっと何してたんだよ~」
「相変わらずクワガタヘアだな!」
久しぶりに見る桑島くんにクラスメイトたちは分かりやすく喜んでいる。
桑島くんの席の周りにはあっという間に人が集まった。
「うるさいなー、くせ毛なんだよ」
桑島くんは頭を手で押さえながら言う。
「桑島がいない間、先生が寂しがってたぞ」
「ふーん。本当はお前の方が寂しかったんじゃねーの?」
「バカ、違うって!!」
桑島くんは屈託なく笑った。
まるで、何も悩みを抱えていない人のように。
周りのみんなも何も気づかず、笑っている。
桑島くんって男友達と話すときは少し尖った言葉を使うんだ。
そう思えば私、桑島くんのこと何も知らなかったんだな……。
「てか、お前昨日何してた?」
「昨日?」
「昨日の朝、港近くで桑島っぽい奴を見たんだよ。俺は遅刻しそうだったから、声かけれなかったけど」
「あー、昨日は……」
自然と桑島くんと目が合う。
桑島くんは下唇を噛み、意味ありげに笑った。
「秘密だよー」
「なんだよそれ!ぜってぇサボリだろ!」
「秘密主義者なので言いませーん」
二人のやりとりにどこからともなく笑いが生まれる。
桑島くんも笑っていた。
桑島くんの秘密を知っている私は笑えなかった。
何か私ができることはないのかな……。





放課後は課題未提出者の居残りがあると知っていたので、私は図書館で時間を潰したあと、教室へと向かった。
予想した通り、教室には桑島くんがいた。
「あれ、姫野さん。まだ残ってたの?」
「うん。みんなが帰るの待ってた。」
「なんで?」
「私も手伝うよ。授業受けてないから、難しいでしょ?」
「え、でも……。なんか、申し訳ないな」
「私は桑島くんの力になりたいの!」
思っていたよりも二倍は大きな声が出た。
「桑島くんの秘密を知ってるのは私だけだし、勉強は少しだけ得意だから……」
頼ってほしい。と言うのは少しおこがましいと思い、口ごもる。
そんな私を見て、桑島くんは小さく笑った。
「じゃあ、俺専用の先生になってよ。姫野先生」
「うん!」
この日から放課後は桑島くんとの勉強会が始まった。





「終わったー。疲れたー」
「今日もお疲れ様」
「姫野さん、教えるの超上手いと思う。めっちゃ分かりやすいし!」
「そ、そうかな……」
また、"ありがとう"と言うタイミングを見失う。
「俺、数学とか一生解けないと思ってたけど、理解しようとしてなかっただけかも」
「確かに、桑島くんは文系脳だよね。でも前と比べたら、数学の問題も確実に解けるようになってきてるよ」
「溜めすぎてた課題もあと少しで終わるなー。毎日課題提出してるみんな偉すぎ」
あの日から桑島くんは毎日学校に来て、授業を受けたあとに放課後は私と勉強会をしている。
勉強嫌いの桑島くんからしたら十分成長していると思う。
「日も暮れてきたし、そろそろ帰るか。姫城さん、時間大丈夫だった?」
「うん」
気づけば、夕方六時を過ぎていた。
今日は買い出しには行かず、冷蔵庫の中にあるもので何か作ろう。
そうすれば、きっと間に合うはずだ。


「うわー、雨降ってる」
「もう梅雨入りしたってニュースで言ってたよ」
「マジかよ。傘持ってきてないんだけど」
「じゃあ、私の傘に入る?ちょっと小さいかもしれないけど」
「え、でも……」
「いいよ。気にしないで」
「うん。じゃあ、途中まで」
小さな傘の中で身を寄せ合いながら、帰り道を歩いた。
「桑島くん。傘、もっと自分の方に寄せていいよ」
傘を持ってくれた桑島くんの片方の肩がほとんど濡れているように見える。
「大丈夫だよ。バカは風邪引かないって言うでしょ?」
「ふふっ、そっか」
「否定しないんかい」
桑島くんらしい言い分につい笑ってしまった。
「じゃあ、俺の家ここだから」
「知ってるよ」
「だよね」
くだらない会話も桑島くんと一緒なら楽しい。
こんな時間がずっと続けばいいのに。
「紡?それに……明日花ちゃん?」
「母さん……!」
振り返ると、買い物帰りだと思われる桑島くんのお母さんが立っていた。
「やだ、濡れてるじゃない。そんなんじゃ風邪引くわよ。ちょっと待って、タオル持ってくるから」
桑島くんのお母さんは家から白いふわふわのタオルを持ち出し、桑島くんの頭を撫でた。
「平気だってば……」
少し照れているような桑島くんの表情が珍しくて、微笑ましかった。
「ほら、明日花ちゃんもおいで。」
「え?」
拒むような理由も見当たらず、私は桑島くんのお母さんの腕の中で柔らかいタオルに包まれた。
「きっと、紡に傘を貸してくれたんでしょう。ありがとう。あなたは本当に優しい子ね」
よしよしと頭を撫でられた。
優しい声と温かい言葉が心に沁みる。
途端に、急に寂しさで胸が締めつけられた。
もし、私にお母さんがいたら、こんな風に抱きしめてくれたのかな……。





「遅かったな。何かあったのか?」
「あ……ごめんなさい」
間に合うはずだと思っていたけど、すでにお父さんが帰ってきていた。
「すぐ、ご飯作るから……」
「いい、俺が作る」
「えっ」
「炒飯でいいか?」
「うん!」
お父さんの手料理を食べるのは久しぶりだ。
昔は毎日のように作ってくれたけど、十歳を越えてからは徐々に私が作るようになっていった。
お父さんの手料理の中で一番好きだったのが炒飯だったのを思い出した。
ものの数十分でお父さん特製の炒飯が完成する。
「いただきます」
「いただきます」
良い匂いにそそられて、炒飯を勢いよく頬張る。
それは懐かしい味がした。
「美味いか?」
「うん。美味しいよ」
「そうか」
お父さんは安堵したように綻んだ。
「放課後に委員会でもあったのか?」
私の帰りが遅くなった理由をまだ気にしているようだ。
「ううん。最近、放課後に桑島くんと勉強してるの」
「桑島……?」
「それでね、帰り道に桑島くんのお母さんにあったんだ」
「……そうか」
お父さんは視線を炒飯に戻した。
このままでは会話が終わってしまう。
私は何かお父さんが食いつくような話題を必死に探した。
「ねぇ、お父さん。私のお母さんってどんな人だったの?」
私がそう聞くと、お父さんの手がピタリと止まる。
「急になんだよ」
「だって、今まで私のお母さんのこと全然教えてくれなかったじゃん」
「どうでもいいだろ」
お父さんは素っ気なく言った。
「どうでもいいわけないよ。家族だもん」
お父さんはきっと何か隠してる。
真実を知るのは少し怖いけど、この世にはいないお母さんも私の家族だから、大切にしたい。
桑島くんの秘密を知った日からそう思うようになった。
「明日花は関係ない」
目も合わせず、吐き捨てるように言われた。
お父さんは頑なに答えようとしない。
関係ないって何……?
お母さんの死は、お父さんにとっては忘れたい過去なのかもしれないけど、一生、忘れることができない。
私は真剣に聞いているのに、頑なに口を開かないお父さんが燗に障る。
「お父さんは私がいない方が幸せだったよね」
「は?適当なこと言うなよ」
「本当のことでしょ……」
今まで溜まっていた本音が溢れ出す。
こんなこと言いたいわけじゃないのに。
でも、一度言ってしまえばもう歯止めが効かない。
本当はずっと気づかないふりをしていたかったけど、この鬱憤は私が抱えるにはあまりに重すぎたのかもしれない。
「私が生まれてきた理由なんて、最初からなかったんだよ!」
「黙れ!!!」
お父さんの怒鳴り声ではっと我にかえる。
「いい加減にしろよ」
聞いたことがないくらいに低いお父さんの声。
怒鳴られた驚きと荒々しい声と言葉が心を突き刺し、自然と涙が溢れた。
自分でもよく分からないほど、涙が零れ落ちる。
涙で滲んでよく見えないけれど、お父さんの怖い顔を肌で感じた。
私は思い出の味を残したまま、自分の部屋へ向かった。
電気をつけず、真っ暗な部屋でひたすら泣いた。
どうしたらいいのか分からず、幼い子どものように泣きわめいた。
部屋で独り泣き続けた夜は、今までの人生の中で一番息苦しかった。





深夜二時、なかかなか寝付けずに、スマホをいじっていた。
いつものように無料で小説が読めるアプリを開くと、
『はんぶんこ』の物語の続きが出ていた。
「え?」
この物語にまだ続きがあったんだ。
勝手に完結したものだと思っていた。
私は『はんぶんこ』を読み始めた。

『いつもはんぶんこだと独り占めしたくなるけど、それは一人じゃないっていう証なんだよ』

最初のたった一文で心を掴まれた。
私もこんな風に言葉にできたらいいのに。

『幸せのはんぶんこも悪くないな』

そんな一文で物語は終わった。
今日はこの言葉をお守りにして、眠りについた。





「うわー!雨やべー!」
「なんか、さっきより雨激しくなってない?」
「今日早めに帰れるかもねー」
「大雨警報出たらあり得る!」
昼休み、教室の窓に打ちつける雨を眺めながらクラスメイトたちがはしゃいでいる。
朝の天気予報で、午後から十年に一度の豪雨だと言っていた。
土砂降りの雨に、不安を煽るような強風。
まるで私の心模様をそのまま表したかのような天気だ。
ピーンポーンパーンポーン……。
「えー、職員会議の結果、大雨警報により午後の授業を中止することになりました。生徒は速やかに下校するように。自宅が学校から距離のある生徒の場合は親御さんの迎えを……」
アナウンスの声を遮るように、クラスメイトたちの歓声があがる。
ほとんどの人が親に電話をかけ、学校まで迎えに来てもらうように頼んでいた。
クラスメイトたちは続々と帰り始め、気づけば私は一人ぼっちになっていた。
私は誰もいない教室の窓から下校する生徒たちを眺めていた。
遠くで唸るような雷鳴が聞こえる。
雷は嫌いだ。
昔、留守番中に天候が悪化し、激しい豪雨と雷に怯えながら過ごしたことがあった。
まだ幼かった私は、泣きながら玄関でお父さんの帰りを待っていた。
どんなに泣き叫んでも声は誰にも届くことなく、外の雨音にかき消された。
寂しさで胸が張り裂けてしまいそうだったあの日がトラウマとなって記憶に植えつけられている。
「みっけ!」
背後から聞き馴染みのある声が聞こえた。
振り返ると、レインコートを着た桑島くんの姿があった。
「く、桑島くん!?どうしここに……」
「それはこっちの台詞だよ。ここに一人でいて、どうするの?学校で一泊するつもり?」
「違うよ……」
「早く帰らないと、雨で道が通れなくなっちゃうよ。海沿いの道だってあるし」
「家に居場所がないの。だから、帰りたくない」
「お父さんと喧嘩でもしたの?」
「うん……。私が生まれてきた理由がなんてなかったんでしょって言っちゃって」
「……俺も考えたんだけどさ、そんな大層な理由がなくても生きてていいと思ったんだよね。今はまだ答えが分からないけど、いつか分かる日が来るよ。その日を目指して今日を生きるんだ。ただ、それだけだよ」
いつもより優しい桑島くんの声。
「姫野さん、一緒に帰ろう」
そっと私に手を差しのべた。
「早くしないと俺、先に帰っちゃうよー」
桑島くんはその場で駆け足をしながら待っている。
あの時と同じで私の答えを促すように。
前は半ば強引に私の手を取ったのに。
あの日とは違う、今度は私から桑島くんの手を取った。





外は傘に穴が空くのではないかと心配になるほどの激しい雨が降っていた。
隣にいる桑島くんに声が届くかも怪しい。
滑らないように、一歩ずつしっかりと踏みしめるようにして歩いた。
桑島くんは何も言わず、私の歩くペースに合わせてくれた。
「姫野さん!この橋気をつけて!欄干ないから!」
「分かった!」
雨音に負けないように声を張って話す。
傘も閉じた方が安全かもしれない。
濡れてしまうけれど、吹き飛ばされるよりかはいい。
傘を閉じようと手をかけた瞬間、強風に襲われ、身体を持っていかれた。
「キャーーー!!」
「姫野さん!」
一瞬、何がおきたのが分からなかったが、すぐに首もとまで水に浸かっていることに気づく。
体勢を崩し、氾濫した川に落ちてしまったのだろうか。
川の流れに逆らい、桑島くんが私の手を必死にを引っ張っている。
この川がどれくらいの深さなのか分からないが、足がつかないことに恐怖を覚える。
今までの人生の中で初めて"死"と直面した状況に陥った。
桑島くんは橋の上から身をのりだし、地面に這うようにして私の手を掴んでいる
このままだと、桑島くんまで巻き込んでしまうかもしれない。
二人とも助かる保証はない。
どうか、桑島くんだけでも助かってほしい……。
だって、いつも私を救ってくれたから。
今までの桑島くんとの思い出が走馬灯のように脳裏に浮かぶ。
私は死を悟り、桑島くんの手を離した。
「姫野さん!姫野さーーん!!」
桑島くんの声が遠のいていく。
水底へ勢いよく落ち、泡沫に包まれる。
冷たい。
暗い。
怖い。
このまま川の流れに身を任せれば、お母さんに会いに行けるのかな…。
そんなことを思い目を閉じた瞬間、水中で力強い波紋が伝わってきた。
状況が読めずにうっすらと目を開けると、そこには無数の泡沫が広がっていた。
誰かが私と同じように溺れてしまったのだろうか。
……違う。
助けに来てくれたんだ。
人影がこちらに手を伸ばしている。
私は最後の力をふりしぼり、手を伸ばした。
すると、痛いほど強い力で手を引かれ、抱きしめられた。

お父さんだ。

暗い水中で顔はもちろん見えないけれど、すぐにお父さんだと分かった。
なぜだかは分からない。
上手く言葉にできないけれど、この人は間違いなくお父さんだと声にならない想いを心から叫んでいた。





お父さんに抱えられ、なんとか岸まで辿り着いた。
「はあ……はあ……」
呼吸が整うまで何も考えられなかった。
ひとまず助かったけれど、全然頭が回らないし、何も言葉が出てこない。
「明日花……大丈夫か……」
「お父さん……」
「もう誰も…俺の前からいなくならないでくれ…」
お父さんは張りつめた糸がプチッと切れたようにその場に崩れ落ちた。
「……お父さん?」
「明日花、ごめんな。……ごめん」
「え…?」
「昨日のことだ。娘にあんなこと言わせるなんて、父親失格だ。桜が見たらなんて言うか……」
「桜って……私のお母さんだよね?」
「ああ。いつか、こんな日が来るって分かってたんだ……。全部話すよ」
私は息をのんだ。
すでに覚悟はできている。
「実は、明日花が生まれた日が桜の命日なんだ。出産中に急に容態が悪化して、そのまま息を引き取った。身体の弱かった桜は命懸けで明日花を生んだんだ」
私は、お父さんから告げられる事実に言葉が出なかった。
「桜を失ってから、どこにいても、何をしていても、どこか息苦しかった。まるで、自分が半分いなくなったみたいで……。誰かを、本気で愛することが怖くなったんだ。愛したほど、失ったときの絶望が何よりも大きいと知ってしまったから……。自分の娘さえも十分に愛せない、そんな自分が大嫌いだった」
お父さんもずっと息苦しかったんだ。
ずっと一人で抱え込んでいたんだ。
「どうして、今まで教えてくれなかったの?」
「明日花を傷つけたくなかった。知らない方が幸せだと思ったんだ…。明日花だけは命に代えても守るって桜と約束したんだ。本当だ。信じてくれ……」
「もう……お父さんのバカ!!なんでそうやって全部一人で抱え込もうとするの?私が今生きてるたった一人の家族なんだから、もっと頼ってよ!」
こんなに堂々とお父さんに言うのは初めてかもしれない。
自分でも少し自分に驚いている。
「私は父子家庭に生まれた自分を可哀想だなんて思ってない!勝手に同情しないで!大変なこともあるけど、お父さんがいたから頑張れたことだってあるんだよ」
誰かの犠牲で成り立っている幸せは幸せとは呼ばない。
「そうか……」
お父さんは温かい眼差しで微笑み、私を抱きしめた。
お父さんの腕に包まれて、懐かしい記憶を思い出す。
仕事が休みの日は私が喜ぶような場所へ連れて行ってくれたり、公園で自転車に乗る練習に付き合ってくれた。
授業参観の時、周りの母親たちに囲まれ、居心地悪そうな顔をしながらも毎回来てくれた。
遠足の日は朝早くからお弁当を作ってくれた。
夜は私が寂しくないように、夕飯までには帰ってきてくれた。
受験生の時、机で寝落ちしてしまった私に毛布をかけてくれていた。
今までのお父さんとの思い出がよみがえる。
私は十分に愛されていた。
「お父さんはずっと私のお父さんだよ」
お父さんへの私の素直な気持ち。
やっと言葉にして伝えることができた。
お父さんは静かに涙を流していた。
私はお父さんが泣いているところを初めて見た。
もしかしたら、誰にも見えない場所で独り泣いていた日もあったのかもしれない。
私を傷つけないために。
弱みを見せない強い父親であるために。
全て私のために……。





「姫野さーーーーーん!!無事ーーーーー!?」
桑島くんが大きく手を振りながら私の方へ走って来ている。
私の所に辿り着くまで待てずに話しかけいるのが桑島くんらしくて和む。
「君は……」
「ひ、姫野さんと同じクラスの桑島紡です」
「俺も姫野だが」
「え!じゃあ、さっき思いっきり川に飛び込んだのって……」
「私のお父さんだよ」
「え、あっ、えっと……」
桑島くんが分かりやすく動揺している。
「名前で呼んでやってくれ。明日花は唯一無二だからな」
「はい!」
「桑島紡くん、ありがとう。うちの娘を……明日花を救ってくれて。君がいなかったら間に合わなかったかもしれない」
「二人とも無事で良かったです!」
「桑島くん、本当にありがとう」
桑島くんが私の目をじっと見つめる。
もしかして、何かついてる?
「ちょっといい?」
「え?」
桑島くんは私の首に手を回し、後頭部を優しく抑えた。
そして、ひっつめた髪を結んでいたヘアゴムをゆっくりとほどく。
濡れて重たくなっていた髪から雫がボタボタと零れ落ち、ほんの少し楽になる。
「髪、下ろしてる方が似合うんじゃない?」
そう言って私の手のひらにヘアゴムを置いた。
桑島くんの髪はいつものクワガタヘアとは違い、雨で濡れていて大人しくなっている。
まるで、別人のようだった。
でも、自分の気持ちに嘘をつかないこの目を私は知っている。
「ありがとう」
一瞬でも、抱きしめられたのかと思った自分が恥ずかしい。
私は何を期待しているんだ……。
なぜ、今このタイミングで髪型が気になったのかは分からない。
でも、素直な桑島くんが言ってくれた言葉は素直に受け取るべきだよね。
「いつの間にか、そんな表情するようになったんだな……」
隣にいるお父さんが私の顔を見つめていた。
「明日花は桜に似てるな……」
雨の中、お父さんが呟いた言葉は私の耳には届いていた。





朝、桑島くんと待ち合わせをして登校するようになった。
「明日花、おはよう。元気になった?」
「おはよう。もう大丈夫だよ」
あの日、長時間雨の中にいたせいで風邪を引いてしまった。
桑島くんとは三日ぶりに会う。
「今日、髪下ろしてるんだ。いいじゃん」
「ありがとう」
「お父さんと仲直りできて良かったね」
「桑島くんのおかげだよ」
桑島くんがいてくれたから、お父さんに本音を話すことができた。
桑島くんがいてくれたから私は変われた。
「俺、やっぱり学校やめないことにした」
「え、本当!?」
「うん。母さんにそのこと話したら、子どもがお金のことなんて気にするなって怒られてさ。でも、洋平おじさんのところでバイトすることになったよ。週二でもいいから雇ってやるって。優しいよね」
「そうなんだ。良かった……」
「俺が学校やめるの寂しい?」
「へっ?」
「冗談だよ。その顔が見たかっただけ」
「もう……」
「ごめんって。でも、明日花がいなかったら俺、一学期で学校やめてたかも。明日花がいたから、学校に行こうって思えたし、勉強も頑張ろうって思えたんだ。明日花が俺を救ったんだよ」
「桑島くんはどこまで私を喜ばせるの……」
「全部本当のことだよ。明日花が嬉しいと俺も嬉しくなるんだよ。幸せのはんぶんこってやつ」
どこかで聞いたことのあるような……。
私は点と点が線で繋がったように閃く。
「桑島くんってもしかして…"はんぶんこ"読んでるの?」
「ん?読んでくれたの?」
「え?」
「あれ、俺が書いてるんだよ」
「え、えぇぇーー!!」
「明日花そんな声出るんだ」
桑島くんは豪快に笑った。
そんな、信じられない。
辛いとき、心の支えとなっていた物語を桑島くんが書いていたなんて……。
あなたの物語に私は救われたの。
でも、何もかも「はんぶんこ」だなんてやっぱり嫌だよ。
独り占めしたい人ができたから。
割りきれない想いだから、駆け引きなんてできないけと、素直なあなたにならきっといつか解けるよね。
この気持ちはきっと、あなたにしか解けないから。
「あ、アサギマダラだ!」
「あの島からもうここまで来たの!?」
「この前の雨にも負けなかったんだな」
「これからもっと空を渡って、旅をするんだよね」
「またねー!」
ひらひらと飛んでいくアサギマダラを見送る。
そこには私たちがマーキングしたアサギマダラの姿があった。
その羽には幸せを願う言葉と笑顔を背負っている。
お母さんも見ているかな。
私、お母さんの分まで生きてみせるからね。
この想いが空から天へと届きますように。
人生で一度きりしかない泡沫のような"今日"という日を大切にしたい。
未来でする過去話に花を咲かせられるように、私は今日を生きる。
そう思えば、何でもないような一日も悪くないよね。
涙で枕を濡らすような日もいつかの未来にきっと繋がるから。
「てか、俺が明日花って呼んでるんだから明日花も下の名前で呼んでよ」
今の私なら素直に言える気がした。
「紡、行こう」
「うん!」
この先の未来も紡が隣にいてくれるといいな。
梅雨明け、夏の始まりを感じさせる新しい風が吹く。
少しだけ、息がしやすくなった気がした。