「あ、泉くん!ずっと待っててくれたんだね!おまたせっ」

 「……あぁ」

 カバンをぶんぶんと振り回しながら俺に駆け寄ってくるひなは、いつもと変わらない笑顔だ。どうしてそんなに笑顔でいられるのだろうか。

 あんなに怒鳴られていたのに。
 自分の精一杯の踊りを否定されていたのに。

 自分を他人から否定されているくせに。なんで笑えるんだよ。なんで……。

 疲れた様子なんてみじんも感じさせないひなの様子に、正体不明のイライラした感情が込み上げる。

 「泉くん?どうしたの?どこか痛いの?」

 そんな俺のことなんて全くわかっていないひなが、俺の顔を覗き込む。
 ひなのせいだよ。___いや、違う。あのバレエ教室の先生か。
 一瞬でもイライラの矛先が、何も悪くないひなへ向いてしまった俺へのイライラがまたどうしよもなく体にのしかかる。

 「別に。何も」
 「嘘だよ!だって泉くん、全然元気ないもん!私にはわかるからね〜?なんせ3日の付き合いなのですから!」

 おちゃらけて笑うひな。本来なら、俺とひなのテンションは逆でなければおかしい。


 ___本当に、何が楽しいんだ。


 ひなの笑顔を見た瞬間、俺の中の何かが切れた。


 「なに、なんでそんな笑ってんの?」
 「……え?」


 思ったよりも冷たい声が出てしまったことを気にする余裕もなく、驚いたように俺を見つめるひなに向かって言葉を被せる。

 「なんでそんな頑張んの?好きでやってること、ガミガミ口出しされて。なんとも思わねえの?」

 強めの口調で彼女に問いかけるけれど、即座に対応できるわけがない。イライラと頭をかく。
 
 「……」

 ほら、これがムカつくんだよ。心底、俺が何を言っているのかわからない、と言っているようなその顔が。
 本当に何も知らないんだな、ひなは。

 たった三日間の付き合い、それだけでも嫌と言うほど思い知らされる。ひなの性格。

 いつもいつも前だけを見て、決して投げ出すことをしない。
 きっと、努力をすれば報われるのだと信じているのだろう。

 そんなの、本当なわけがないのに。

 「……ごめん、今のは忘れ___」
 「好きだからだよ?」

 さらに強く手のひらを握りしめる。
 
 「私はバレエが好き。好きだから上手くなりたいの。好きだから頑張るの」

 あぁ、これ以上は何も聞きたくない。ここから先、俺が聞いてしまえば、どうしよもない自分への嫌悪でどうにかなってしまいそうだ。

 「口出しされてる、なんて言わないでよ。それが嫌ならとっくにバレエなんてやめてるよ!」

 珍しくひなが声を張り上げる。何がだよ、口出しされてる、って、何が違うんだよ。
 口出しされて嬉しいやつなんてどこにもいないくせに。


 ___なんにもわかってないくせに。


 夢を叶えると言うことが。夢を持つことがどれだけ大変で、リスクがあって、恐ろしいことなのかもわかっていないくせに。

 「夢を叶えるために頑張っちゃいけないの?ねえ、私は今、すっごく楽しいよ?それじゃダメなの?」

 ダメだ、ひな。これ以上は言ってはいけない。
 俺も。これ以上は、聞いてはいけない。
 ダメだ、ダメだ、ダメだ。

 ___言ってはいけないことを言ってしまう。


 「夢があることが楽しいって、泉くんは知らないからそんなこと言えるんだよ。私はこれからもずっとずっとバレエを頑張りたい!頑張って、頑張って。その毎日が楽しいから、笑えるの!泉くんだって___」


 ___心から全てが溢れかえってしまう。


 「ひなの方が知らないだろ」
 「……え……?」
 「好きだけじゃどうにもなんねーってこと、知らねーからそんなことほいほい言えるんだよ」

 すっかりと暗くなった空には、分厚い雲が全てを覆っていて。月明かりすら俺たちの足元には届いていなかった。

 「そんな甘い思考しかねえんだろ、ひなには」

 もうさ、と口に出して、少し間を開ける。
 言ってはいけない、と俺自身が警告を出すように手が震えているのに、俺の口は止まらない。

 こればかりは。

 言ってはいけないのに___。




 「夢なんて、叶うわけがないんだから」




 目の前に立つ彼女の表情は、暗くて見えなかった。

 あぁ、そうか。

 このどうしよもない怒りは本来___俺に向けられたものだったのか。

 俺の手からまたひとつ。
 何かがこぼれた。