俺がこの世界___過去へ来てから、三日が過ぎた。地獄のような環境の中、わかったことがいくつかある。
一つ目は、人間らしい欲求がないということ。いわゆる、食欲や睡眠欲、排便欲すらないのだ。どれだけ動き回っていても疲労はないし、眠くもならない。まさに俺の目指していた身体になったのである。
二つ目は、元の世界には戻れないということ。きっとあの鏡に何かあるはずだ、と思い続けて何度も鏡に触れてみたり、鏡の前で変なポーズを取ったりしてみたが、元の世界へ戻るどころか、バレエの練習に訪れたひなに変な眼差しを向けられた。
三つ目は、外に出られるということだ。ユウレイというのは本来、いた場所に留まるものだと思い込んでいた。昔見ていたアニメの設定がそうだったから。だが、つまらなくなってダメ元で外へ出てみれば、なんと出られるではないか、と、今朝驚いたのである。
そして四つ目。それは___。
「は……?今って平成……なのか……?」
この世界は、俺が生まれるはるか前。
三十二年前だということだ。
たまたま見つけた新聞に書いてあった西暦と日付け。それは間違いなく、三十二年前を表していた。どうしてこの時代なのだろうか。今朝、外に出た時も、見知らぬ建物がたくさんあったほどだ。幼少期に壊されてしまった駄菓子屋が近くに残っていたことから、今がそれくらい前だということにも納得がいく。
「なんでこんな時代に……」
「いっずみくーん!何やってんの?」
「うわっ」
そして五つ目。
今も俺の隣で俺のポーズを真似する女、風原ひなは、約一ヶ月後にバレエの全国大会を控えていること、だ。正直言って、ひなにそんな能があるとは思いもしなかった。申し訳ないけれど。
ひなはこの三日間、学校が終わると一直線にここへ帰ってきて、バレエの練習をしていた。五時から三時間以上も、くるくると踊り続けるひなに、俺の目は惹かれる。まるで彼女の踊りが俺とひなの会話だと言わんばかりに、この時間だけは二人とも無言だった。もちろん、休憩時間に口を挟むことはあったけれど。
でも、今日は違ったみたいだ。
ひなは、俺の気がそれたことを確認すると、素早く立ち上がって、にぃっと笑った。
「着いてきたまえ、泉くんよ!」
「はぁ……?」
ふふん、と誇らしげに外を指差すひな。どこかへ連れて行ってくれるらしい。
「どこ行くの?別に俺、行きたいところなんてないけど」
「私が泉くんに着いてきて欲しいんですー」
どこへ行くか、という質問には答えてもらえず、彼女は薄暗い道をスキップしながら軽々しくかけていく。
本当に楽しそうにするもんだ。スキップなんて、何年していないだろうか。していなさすぎて、もうできなくなっているかもしれないくらいだ。
「ね、泉くんは夢とかあった?」
不意に彼女の長いポニーテールが、はらりと舞った。それと同時に、彼女の細められた瞳が俺を捉える。
「……あるわけないだろ、俺なんかに」
見た目から真面目じゃない俺なんかに、夢なんてあるわけがないだろう。夢を持つことができるのは、俺みたいなやつ以外。
「なんで?」
「は?」
「なんで俺なんかって言うの?まるで泉くんが夢を持つことが悪いことみたい」
汚い世間のことなんて何も知らなさそうな無垢の瞳を浮かべ、ひなは首を傾げる。
"俺が夢を持つことは悪いこと。"
なぜか、彼女の言う言葉が俺の胸に深く突き刺さる。のしかかるような重さが、俺の沸点を下げた。
イライラと頭を掻くと、俺はひなから目を逸らす。
「別に。ユウレイだから、覚えてねぇよ」
まずい、と瞬時に彼女に目を合わせた。思ったよりも低い声が出てしまったことに自分自身でも驚きつつ、ひなの反応を伺う。
でも、ひなの表情は変わらずに「確かにそうかも!」と再びポニーテールを揺らし、俺に背を向けた。
確かに、俺が夢を持つことは悪いことかもしれない。___いや、悪いことなのだ。
あの日、あの瞬間。俺の夢が散ったと同時に、俺が夢を持つことは許されなくなったのだから。
「……ひなは夢あんの」
「へ、私?」
「……うん」
なんとなく聞き返さなきゃいけない雰囲気が漂っていたので、前を歩くひなに尋ねてみる。まさか聞き返されることが目当てではなかったのだろうか、まるで不意打ちで聞かれたような質問に対する返事だった。
「一応、あるよ」
「……ふうん」
彼女の表情は見えなかった。俺が見ようとしなかったから。夢と希望を秘めたような彼女の表情を、直視できる気がしなかったから。
___夢を自分から諦めた俺が。
「って、そこは『何?』とか聞くでしょ、普通!」
「え、あぁ……何?ひなの夢って」
自分の夢を聞かれて嬉しそうにする人は初めて見たかもしれない。実際、人の夢について聞くのも数年ぶりだし。
「えぇっとねぇ!プロのバレリーナになること!」
大体、夢を聞かれたやつは、恥ずかしそうにモジモジするか、口を閉ざすやつのどちらかだ。
でも、こんなに自分の夢を生き生きと語れる人は少なくとも俺の周りにはいなかった。
なんでこんなに笑って夢を語れるんだ、と理不尽なイライラがつのる。
「あっそ」
「えぇっ、冷たい!いいでしょ、大きい夢!」
別に夢を持つことが悪いなんて言ってない。でも、少しは現実を見ろよ、なんてことを言いたくなる。この世の中で、でかすぎる夢が叶う人なんて片手で数えられるくらいしかいないんだから。
そんな思いばかりが頭の中を埋め尽くして、ひなに返す言葉は見つからなかった。何を言っても嫌味にしかならないような気がする。
「ついたよ!」
「え……」
何も気の利いた言葉がひなに言えないまま、目的の場所についてしまったらしい。目の前に建つ綺麗な四角い建物。
「私が通ってるバレエスタジオだよ!」
ひなのポニーテールが楽しげに揺れる。ひなは、軽々しい足取りで中へ入っていくけれど、俺の足は進まなかった。
ここに入ってどうしたらいいのか、一体ひなが俺に何を見せたいのか。ひなの考えていることがわからない、という感情が俺の足取りを重くする。
「ほら、入って入って!」
彼女が手招きをする。まるで褒められた犬のしっぽのようにぶんぶんと手を振り回すものだから、つい小走りで彼女の後についていく。
中は広かった。ばあちゃんの家の近くに、こんな場所があったのか、と疑いたくなるほどだ。
オレンジ色の淡い照明が等間隔で並んでいて、前方には壁一面を使った鏡が全ての景色を映していた。
どうやらここでひなは練習をするらしい。動きやすそうな服装に着替えたひなが俺を見ると、わずかに口角を上げた。
おかしい人だと思われたくなかったのか、さすがにいつも騒がしいひなも俺が周りから見えないことにも配慮しているようだった。
『見てて』
ひなの口元がそう動いたのは、俺の見間違いではないだろう。
ばあちゃんの家にあるあの鏡の大きさと部屋の広さでは、さすがに踊る激しさにも限度があるのだから、ひなの全力で踊る姿を見るのが少し楽しみだったりする。
「あ……」
十人ほどいる中でも、ひなは中心に配置されていた。
やはり、センターにいる人ほど優れている、というのは本当らしい。
相当な人数の割に、まるでスポットライトを浴びたモデルかのようにしなやかに踊る彼女がセンターにいることは、じゅうぶんに納得できた。
曲はわからないけれど、曲調にあったゆったりとしたきめ細かい動きや表情。
ひなの持っている全てが、曲に馴染んでいた。
わけもなく、頭がふわふわする。なんでだろうか、ひなの踊りを見ていると、大空に飛び立つ大きな白鳥と照らし合わせてしまうくらいだ。
「風原!つま先!爪の先まで意識を巡らせなさい!」
曲が流れているはずなのに、静かで落ち着いた空間は、誰かによって遮られた。
なんだというのだ、こんなに完璧な動きをしているのに。
眉を顰めて声の主を目でたどる。
「ぜんっぜんダメね!血を巡らせるの!」
「はい!」
イライラとした様子の女性が、扉の近くで壁にもたれかかっていた。このバレエ教室の先生なのだろうか。厳しい言葉をかけられたにも関わらず、ひなは、間髪入れずに張りのある返事をホールに響かせた。
じゃああんたはできんのかよ、と、偉そうにひなたちの踊りを見る女にイライラが募る。
「風原!もっと表情を作って!感情を入れるの、曲に!」
「はい!」
「風原!手!」
「はい!」
「風原!あたしがさっき言ったこと、ちゃんと覚えてるの!?」
「はいっ!」
さすがに俺も座っていられなくなる。こんなに必死に綺麗に踊ろうとしている奴らの曲をわざわざ中断してまで言うことなのか?と拳を握りしめる。
さっきから突っ立っているだけで、何も自分のお手本を見せようとはしていない。
「じゃあ自分がやって見せろよ」
ボソリと呟く。自分ができないくせに、人にガミガミ言う権利などないのだから。今すぐこの場から出て行ってほしい、という思いが頭の中をせわしなく埋め尽くした。
「この時、手はちゃんと背中のこの位置って言ったわよね?今日、体調でも悪いの?」
「いいえ!できます、次からは必ず!」
舌を強く打つ前に、長いため息が出た。こんな場所、もう居たくなんてない。十人もいるのに、厳しい口調で注意されるのはひなだけだ。
何がおかしい?じゅうぶんに綺麗だろう。
どうやら俺のような素人が持つ彼女の踊りへの感想は、あの女にはわからないらしい。
俺は、長く息を吐いた後、静かにその場を後にした。