教室にいるときは、いつも息を潜めてひっそりとしている。
 スマホを見ることはあまりない。うちの教室じゃフリーWi-Fiが使えないから。
 でもクラスの子たちと全然共通の話題がない以上、なにもしないでぼんやりとしているしかなかった。
 その中、ガラリと誰かが教室から入ってきた。アルコールと薬のにおいを漂わせた榎本くんだった。
 私はなんとはなしに声をかけてみる。

「おはよう」

 彼はほんの少しだけ驚いた顔をした。
 声で挨拶をすることはなく、ただ会釈だけをしてくれた。私にとっては、それだけでありがたかった。
 一時間目から四時間目を一生懸命終わらせてから、昼休み。私はご飯にわずかな漬物と梅干しだけ入れている恥ずかしいお弁当とペットボトルのお茶を持って、こそこそと出て行った。
 廊下を出ると、榎本くんと出会う。榎本くんは気まずそうな顔で、手にラップでくるまれた不出来なおにぎりを持っていた。
 なんとなく声をかけてみる。

「どこで食べるの?」
「人のいないところ」
「私、美術室で食べてるけど行く?」
「行く」

 こうしてふたり連れだって美術室に行くことにした。
 美術部の油絵の具の匂いが充満していて、普通の神経ではここで食事はまずしない。
 ただ昼休みの間は誰もいないため、安心して食事ができた。ときどき美術の先生が変な顔をして覗き込んでくることはあったけれど、特に悪さもしていないから、ときどきペットボトルのお茶をおごってくれて、世間話だけをして解散していた。
 私は丸椅子を取ってきて、お弁当を広げた。私の詰めた残念なお弁当の中身に、榎本くんが尋ねる。

「自分でつくってるの?」
「うん。お父さんもお母さんも、お姉ちゃんが優先で、よく食材買い忘れるから。お小遣いがあるときは、自分で材料を買ってきてつくるけど、今はもう全然。おばあちゃんのお年玉をやりくりして一年生活しているから」

 大人は自分の食事くらい自分で買えるし、私はしっかりしているからと放っておくけれど。せめて食事代だけは置いて行って欲しい。食材がないところからは空気しかできない。
 それを榎本くんは「ふうん」と言いながら、大き目なおにぎりを食べた。

「それは?」
「家のご飯。ばあちゃんから目を離すと、喉詰めたり気管に詰めて肺炎になったりするから、つくる時間があんまりないんだ。誰かがばあちゃん見てたら、その間にかっ食らってる。おにぎりもラップにご飯くるんで振り回してつくってる」
「偉いね」
「そっちも」

 皆、もうちょっとキラキラした話をしているような気がする。
 どこの大学に行きたいとか、ペットを飼いたいとか、どんな家で独り暮らししたいとか、いろいろ。
 でも私たちは、目の前のタスクをクリアするのに精いっぱいで、そんな先の未来まで見通すことなんてできないでいる。
 私たちは、ポツンポツンと家の話をした。

「おばあさん、施設に入れられないの?」
「地元の施設全滅だってさ。遠いところだったらあったけど、料金が高過ぎて入れられなかった。父さんも母さんもばあちゃんの介護代稼ぐために働いてる。俺も学校休んでやっているけど、できてるかどうかわかんねえ」
「できてるんじゃないかなあ、多分」
「東上さん家は?」
「うち? 家の中心はお姉ちゃんだから。気付いたら私はしっかり者だからひとりでも大丈夫みたいになってた。別にしっかりなんてしていないだけど」
「ふうん」

 中学時代、私が家の話をなんの気なしにしたら、周りからずいぶんと同情されてしまった。
「大変だね」「可哀想だね」「それって虐待じゃないの?」って。それからは私がいたら家族の日常が話せないみたいな気まずいことになってしまい、私からグループを外れるしかできなかった。
 どんなテレビを見てるとか、どんなアプリ使ってるとか、そんな普通の会話を私は同級生と共有できない。
 そこで思い知る。私は普通から外れちゃったんだって。
 多分気を遣ってくれていたんだろうけど、私はそれでも普通の会話がしたかった。でも下手に同情されたら、それもできなくなってしまう。
 その点、榎本くんとの話は楽だった。彼は私の話の相槌は打ってくれていても、下手な同情はしなかった。私も彼のことを上っ面だけの激励なんてできなかった。
 それが大変だって身を持って知っていたら、「大変だよね」以外にかけられる言葉が見つからなかったんだ。
 私たちは、互いに学校に行ったり行かなかったり。お見舞いや介護で学校に行けないとき以外は、ふたりで美術室でご飯を食べるようになっていた。
 ふたりともご飯をつくる暇も食べる間も惜しんでいるせいで、その弁当を見て気まずい思いもしなくて済んだ。彼とだったら、恥ずかしくなかった。
 学校は普通の子以外には居場所がないのかと思っていた中、ここでだったらふっと呼吸がしやすくなった。
 そのせいか、私が姉のところに着替えを持ってお見舞いに行った際にも、突っ込まれてしまった。

「蛍、最近どうかした?」
「ええ……?」

 着替えを袋に入れているときにそう声をかけられ、私はきょとんとする。
 相変わらず綺麗な姉はにこにこしながら言う。

「このところ、不貞腐れた顔してないから。なんだか楽しそうだなって」
「そ、そんなこと……別に」
「私は、蛍が楽しそうなのがいいなあ……お父さんもお母さんも、おばあちゃんたちも。もっと蛍のこと考えてあげればいいのに」

 普段、姉はそんな咎めるようなことを言わず、私は違和感を覚えた。

「お姉ちゃん?」
「私ねえ、今月中に死ぬかもしれないんだってさ。ずっといつ死ぬいつ死ぬって言われ続けていたから、何度目なんだろうと思ってたけど、とうとう。だって最近体が重くって、トイレの行き来だけでベッドで倒れているのよ?」

 あまりにも今日の天気の話をするように言われてしまい、目の前が真っ暗になる。
 姉は、私がもらえるはずだったものを全部もらっていると思っていた。実際に私は小学校のときの学芸会にも、参観日にも、親が来られたことはない。
 でも当然の話だったんだ。
 いつ死ぬ。もう死ぬ。今月死ぬ。この季節は越せない。そんな言葉を呪いのように受け続け、実際に体が弱くてとうとう病院から出られなくなってしまった姉が、一番苦しいはずだったんだと、当たり前なことに気付いた。

「お姉ちゃん……どうして今言うの?」
「蛍が、ようやく幸せそうな顔になったから。もし蛍が不貞腐れたままだったら、私それも言えずにお別れになっていたと思うから。そしたらしこりが残るじゃない?」
「なんでそんなこと言うの……」

 私はとうとう泣き出してしまった。
 姉はにこやかに笑う。

「私、蛍に姉らしいことなにもしてないで、嫌われてお別れするの嫌だったから。もしやけを起こして、なにもかも無茶苦茶にしてたら、私が死んでも『ようやく死んだ、ざまーみろ』と思われるだけじゃない。私、なんにもできなくってもお姉ちゃんなのよ?」
「お姉ちゃん……もう嫌いでいさせてよ……そんなこと言うから、嫌いになれないのに……」

 姉はどこまで行っても姉のままだった。
 ただ彼女は本当に嬉しそうに笑うのだ。

「よかったぁ……蛍に忘れられなくって」

 それが、姉と話をした最後の会話だった。