日頃から姉の病院に行くか、必死に稼いで姉の入院費を払い続けている両親に替わって家事をしているせいで、気付けば私はクラスの中でも浮いてしまっていた。
私自身も今の生活にいっぱいいっぱい過ぎるから、悲しいけどしょうがないと思っていたら。
「東上」
担任に声をかけられて、思わずビクリと身を震わせた。
担任はうちの姉の事情を知っているのかどうかは知らない。もし寒くも「クラスで浮いて、どうかしたのか?」なんて言われたら、私は担任をひっぱたいてしまうかもしれない。そしたら教師に暴力を振るった危ない生徒のレッテルが貼られるんだろうか。そうひとりで緊張を走らせていたら、全然違うことを言われた。
「お前、たしか住所はこの辺りだったな?」
「あ、はい」
大昔は学級名簿と一緒に、自宅の住所電話番号も書いていたらしいけど、個人情報保護法下の今では、担任しかそれらの情報を把握していない。
なんだろう。私は担任が言いたいことがわからず黙って眺めていると、なにかを渡してきた。
ひとつは今日配っていたプリント。ひとつは住所の書かれた紙だった。
「榎本、今日も学校休みだから、届けてくれないか? 本当は先生が帰りに届けたらいいんだけど、今日は予定が入って行けそうもないんだ」
「はあ……」
榎本くん。私はなんとか顔を思い出そうとするものの、どうにもぼやけて思い出せない。
ただ私と同じで特定のグループに入ることもなく、クラスの中でもなんとなく浮いていた子だと思う。学校には来たり来なかったりだったはずだ。
私は担任に何度も念押しで「頼んだぞ」と言われながら、住所と睨めっこして出かけて行った。
歩く先は住宅街で、昭和の街並みがそのまんま残っているような区画だ。古い和風建築が立ち並んでいるけれど、あまりに押し合いへし合い並んでいるものだから、立派な家なのかどうかが私の乏しい知識ではよくわからない。
先生からもらった住所と睨めっこし、それぞれの家に書かれている番号をひとつひとつ見比べた。ここだとスマホは使えない。スマホ代がもったいないから、フリーWi-Fiのある場所じゃなかったら使えないから。
ようやく目的の住所に辿り着いた。
古めかしいに加えて、道路にもこんもりとはみ出た庭木を眺める。ノウゼンカズラが垂れ流れて、道にもポタポタと花を落としている。
うちの近所ではこんなに昔ながらの園芸をしている人がいないから、庭木もこんなに大きくなるのはネットでしか見たことがなかった。少しばかり感心しながら、ポストにプリントを押し込もうとする。
でも、どうポストに入れようとしても、入らない。どうもポストの中に郵便物が詰まっているようで、薄いプリント束でも弾かれてしまって入らないんだ。
どうしよう。これ無理矢理入れたら、ポスト壊れないかな。
私が必死にポストと格闘していたら、いきなりガラリと引き戸が開いた。
今時引き戸の家が残っていたんだなあとぼんやりと考えていたら、ジャージにサンダルといういで立ちの榎本くんと目があった。
髪はもっさりしていて、心なしくたびれた雰囲気がする。同い年のはずだけれど、大人びているのか子供っぽいのか、纏っている空気が教室で浴びるキャラキャラしたものとどこかずれている。
「ええっと……」
榎本くんは、私の制服姿で同じ学校の人間とは気付いたものの、同級生の顔を覚えていないらしい。私も同級生の顔と名前が一致しない場合があるから、気持ちはよくわかる。
「私、東上。先生に近所なら持って行ってと頼まれて、プリント持ってきたの」
「あー……ありがと、東上さん」
そのまま申し訳なさそうに背中を丸めて、私のほうにやって来た。そしてプリントを受け取ったとき、私は嗅ぎ憶えのあるにおいがすることに気付いた。
「誰か寝ているの?」
そう聞いたら、榎本くんは気まずそうに口を結んだ。
アルコールに薬。病院で何度も何度も嗅いだことのある、胸を締め付けられるにおい。
「うちのばあちゃん」
「そう……ごめん」
「わかるってことは、誰か寝たきりなの?」
「……うちのお姉ちゃん、もう退院できないって言われてるから」
「そっか。ごめん」
「私のほうこそ……ごめん」
榎本くんは、どっさりとポストの中身を取り出し、その上に私の渡したプリントを載せると、のそのそと元来た道を帰っていった。
「学校次はいつ来られる?」
私は思わず尋ねていた。
それに榎本くんは背中を向けたまま答える。
「母さん、明日は休みみたいだから、明日は行けると思う」
「そっか」
それだけ言うと、榎本くんは家へと帰っていった。
私は少しだけ、心臓の音が耳から聞こえるのを感じながら、帰路に着いた。
健全な生活を送っている人は、病院や介護とも無縁で、においだけで話が通じない。でも私たちは、通じてしまった。
初めて、話ができる人に会えた。
流行がわからない、今時がわからない、ただ家と学校と病院を行ったり来たりする中で初めて出会った、少し似た人だった。
私自身も今の生活にいっぱいいっぱい過ぎるから、悲しいけどしょうがないと思っていたら。
「東上」
担任に声をかけられて、思わずビクリと身を震わせた。
担任はうちの姉の事情を知っているのかどうかは知らない。もし寒くも「クラスで浮いて、どうかしたのか?」なんて言われたら、私は担任をひっぱたいてしまうかもしれない。そしたら教師に暴力を振るった危ない生徒のレッテルが貼られるんだろうか。そうひとりで緊張を走らせていたら、全然違うことを言われた。
「お前、たしか住所はこの辺りだったな?」
「あ、はい」
大昔は学級名簿と一緒に、自宅の住所電話番号も書いていたらしいけど、個人情報保護法下の今では、担任しかそれらの情報を把握していない。
なんだろう。私は担任が言いたいことがわからず黙って眺めていると、なにかを渡してきた。
ひとつは今日配っていたプリント。ひとつは住所の書かれた紙だった。
「榎本、今日も学校休みだから、届けてくれないか? 本当は先生が帰りに届けたらいいんだけど、今日は予定が入って行けそうもないんだ」
「はあ……」
榎本くん。私はなんとか顔を思い出そうとするものの、どうにもぼやけて思い出せない。
ただ私と同じで特定のグループに入ることもなく、クラスの中でもなんとなく浮いていた子だと思う。学校には来たり来なかったりだったはずだ。
私は担任に何度も念押しで「頼んだぞ」と言われながら、住所と睨めっこして出かけて行った。
歩く先は住宅街で、昭和の街並みがそのまんま残っているような区画だ。古い和風建築が立ち並んでいるけれど、あまりに押し合いへし合い並んでいるものだから、立派な家なのかどうかが私の乏しい知識ではよくわからない。
先生からもらった住所と睨めっこし、それぞれの家に書かれている番号をひとつひとつ見比べた。ここだとスマホは使えない。スマホ代がもったいないから、フリーWi-Fiのある場所じゃなかったら使えないから。
ようやく目的の住所に辿り着いた。
古めかしいに加えて、道路にもこんもりとはみ出た庭木を眺める。ノウゼンカズラが垂れ流れて、道にもポタポタと花を落としている。
うちの近所ではこんなに昔ながらの園芸をしている人がいないから、庭木もこんなに大きくなるのはネットでしか見たことがなかった。少しばかり感心しながら、ポストにプリントを押し込もうとする。
でも、どうポストに入れようとしても、入らない。どうもポストの中に郵便物が詰まっているようで、薄いプリント束でも弾かれてしまって入らないんだ。
どうしよう。これ無理矢理入れたら、ポスト壊れないかな。
私が必死にポストと格闘していたら、いきなりガラリと引き戸が開いた。
今時引き戸の家が残っていたんだなあとぼんやりと考えていたら、ジャージにサンダルといういで立ちの榎本くんと目があった。
髪はもっさりしていて、心なしくたびれた雰囲気がする。同い年のはずだけれど、大人びているのか子供っぽいのか、纏っている空気が教室で浴びるキャラキャラしたものとどこかずれている。
「ええっと……」
榎本くんは、私の制服姿で同じ学校の人間とは気付いたものの、同級生の顔を覚えていないらしい。私も同級生の顔と名前が一致しない場合があるから、気持ちはよくわかる。
「私、東上。先生に近所なら持って行ってと頼まれて、プリント持ってきたの」
「あー……ありがと、東上さん」
そのまま申し訳なさそうに背中を丸めて、私のほうにやって来た。そしてプリントを受け取ったとき、私は嗅ぎ憶えのあるにおいがすることに気付いた。
「誰か寝ているの?」
そう聞いたら、榎本くんは気まずそうに口を結んだ。
アルコールに薬。病院で何度も何度も嗅いだことのある、胸を締め付けられるにおい。
「うちのばあちゃん」
「そう……ごめん」
「わかるってことは、誰か寝たきりなの?」
「……うちのお姉ちゃん、もう退院できないって言われてるから」
「そっか。ごめん」
「私のほうこそ……ごめん」
榎本くんは、どっさりとポストの中身を取り出し、その上に私の渡したプリントを載せると、のそのそと元来た道を帰っていった。
「学校次はいつ来られる?」
私は思わず尋ねていた。
それに榎本くんは背中を向けたまま答える。
「母さん、明日は休みみたいだから、明日は行けると思う」
「そっか」
それだけ言うと、榎本くんは家へと帰っていった。
私は少しだけ、心臓の音が耳から聞こえるのを感じながら、帰路に着いた。
健全な生活を送っている人は、病院や介護とも無縁で、においだけで話が通じない。でも私たちは、通じてしまった。
初めて、話ができる人に会えた。
流行がわからない、今時がわからない、ただ家と学校と病院を行ったり来たりする中で初めて出会った、少し似た人だった。