Toy Child2 -I Want You To Hold My Hand-

(ケイナ)
 ケイナはセレスの声を聞いたような気がして顔をあげた。
 ヨクと入れ替わったアシュアがショップから出て来た。じゃあ、おれこっちね、というように指を指したので、ケイナはうなずいた。
 再び歩き始めたアシュアを見送って、ケイナはセレスがいるはずのビルに顔をめぐらせた。
「ケイナ!」
 今度は本当に聞こえた。
「カイン!」
 ケイナが叫ぶのと、
「伏せて!」
 セレスが叫ぶ声がかぶさった。銃を乱射する音が聞こえる。アシュアはヨクのコートをかなぐり捨てると自分のヴィルが停めてある方向に走った。
「ケイナ!」
 ケイナは声のほうに顔を向けた。カインがヴィルの上から彼に手を差し出した。その手を掴んでケイナはヴィルの端に足をかけて彼の後ろに飛び乗った。
「今、屋上だ!」
 クルーレの緊張した声が聞こえた。ケイナは唇を噛んだ。
 あいつはセレスのほうに来た。
 なぜ。『ノマド』の守護はどうなったんだ。
 違う……。
 『ノマド』はセレスをターゲットにするために彼女を起こしたのか?
 セレスとクルーレの待機していたビルまで来ると、カインは窓からヴィルでビルの中に突っ込んだ。ヴィルは上昇制限がある。いったん地上に降りるよりは、そのほうが早い。半ば廃墟となったビルはそういう意味では好都合だったかもしれない。もっと新しいビルだったらとてもヴィルではガラスを破って突っ込めなかっただろう。
 ケイナはがらんとしたフロアにヴィルが入り込むなり非常階段に続くドアを銃で吹き飛ばした。
「屋上!」
 ケイナは言ったが、カインは一瞬ひるんだ。
 階段なんかでヴィルを走らせたことがない。
「入らないよ!」
「ビビってんじゃねえ!」
 ケイナの言葉に少しむっとしながら、カインは歯を食いしばってハンドルを切った。
 階段部分に入るなりがりがりとあっちこっちでこする音がする。回り込むたびに壁に大きな穴を開けていく。上に辿りつくまでにヴィルが壊れるのではとカインは不安になった。
 体をヴィルにへばりつかせるようにして屋上のドアから外に飛び出したと思った途端、カインはケイナが後ろから自分の肩を踏み台にして前に飛び出していくのを見た。
 飛び出したと同時に撃っている。
 ケイナはやっぱり見ていない。昔から彼は目が捉えるよりも先に体が動いている。
 ケイナの向こうにさらに金色の髪が見えた。
「クルーレ!」
 カインは肩を押さえてうずくまっているクルーレを見つけて慌ててヴィルから飛び降りた。
「大丈夫、かすっただけだ」
 クルーレは顔をしかめて答えた。かすったにしては出血量が多い。
「クルーレが負傷した!」
 マイクに向かって叫んで再びケイナに目を向けると、その向こうの金髪があっという間にセレスの首を掴んで屋上から飛び降りるのが見えた。
 「了解」という声を耳で確認しながら慌てて再びヴィルに飛び乗ると同時にケイナもカインの後ろに飛び乗った。
 屋上の端から下を見ると、ふたりが落ちていく先にアシュアがヴィルで待ち構えているのが見えた。ケイナが銃を構えた。
 アシュアがセレスの腕を掴むのと、ケイナの撃った銃があいつの腕で小さな火花を散らすのが同時だった。セレスは腕からは逃れたが、そのまま落下していくあいつをカインもケイナも固唾を飲んで見つめた。このままこれであいつは死ぬのか? そう思ったが、彼は地面に着地する前にさらに下で待機していた兵士のヴィルに向かって腕を振り上げ、兵士を叩き落としてそのままバイクに乗って走っていった。
「アシュア、追え!」
 カインは怒鳴った。アシュアはセレスを後ろに乗せるとヴィルを走らせてあとを追った。
「行くぞ、30階分急降下だ。掴まってろ。」
 カインはそう言うとヴィルを屋上から浮き上がらせようとしたが、クルーレの声が響いたので思わず振り向いた。
「ケイナ!」
 クルーレが肩を押さえながら立ち上がって歩み寄ろうとしていた。
「なに」
 ケイナが駆け寄ると、クルーレは彼に握りこぶしを差し出した。
「これを持って必ず戻って来い」
 ケイナは彼が開いたこぶしの中を見て、口を引き結んだ。
 ダフルの作った木組みの人形が手の平の中にあった。
「もう一度、わたしのところに持って来るんだ」
 ケイナはクルーレの顔を見たあと、手を伸ばして人形を掴み、自分の首にかけた。
「分かった」
 そう言うと、身を翻して再びカインの後ろに飛び乗った。
 足元をなくした途端、ヴィルはものすごい勢いで落下し、地上から50m付近でようやく止まった。止まったと同時にバランスを崩しかけた。
「へたくそ!」
 ケイナが怒鳴った。
「いちいちうるさいんだよ!」
 カインは怒鳴り返した。
「カイン、あいつはダム湖のほうに自分から向かってる」
 ふたりの耳にアシュアの声が聞こえた。
「遊んでやがる……」
 ケイナがつぶやくのが聞こえた。
「行くぞ!」
 カインはヴィルを発進させた。
 しばらくしてセレスの声がカインの耳に聞こえた。
「ケイナ…… あれ、誰?」
 ケイナの返事は聞こえなかった。
「ケイナ…… 気づかないの?」
 気づく? 何を? ケイナはセレスの声に眉をひそめた。
「ケイナは…… ケイナだから分からないのかな……。わたし、覚えてるよ。あれ、ケイナの中にいた、もうひとりのケイナだよ」
 もうひとりのケイナ? カインは後ろにいるケイナの顔を振り向くこともできず口を引き結んだ。
 『グリーン・アイズ』の血を引いていることは常に死と隣合わせだった。
 セレスに入り込んだ『グリーン・アイズ・ケイナ』の父親は、ある日突然、周囲の者を死に追いやった。
 どこかで必ずそういう日が来る。それが『グリーン・アイズ』の宿命だ。
 ハルド・クレイは遺伝子をかなり操作されていたが、『グリーン・アイズ』の血が消えたわけではないとトウは言っていた。 
 ハルドの中の、別人格を作ってしまう部分をエストランドとバッカードが無理矢理起こしてしまったのだとしたら。
 暴走したときのケイナは止めることが難しい。唯一セレスを除いては。
 あのときのケイナと同じような状態だったとしたら、あいつを…… ハルド・クレイを止めることができるのはいったい誰だというのだろう。
 既に『グリーン・アイズ』の順序さえわからない状態かもしれない。
 ダム湖が見えてきたとき、カインは視界の先に走っていく数台の軍用ヴィルを見た。近づくにつれ、そのうちの一台にユージーが乗っているのを見て驚いた。
 ユージー、もうヴィルに乗れるのか?
「カイン、ターゲットW45、湖岸寄り!」
 ユージーを追い越すとアシュアの声が聞こえた。ちらりと視線が合ったとき、ユージーが小さく手を上げるのが見えた。視線を前に戻した途端、ガツリという鈍い音が耳に入ってきた。
「アシュア?!」
 後ろのケイナも緊張したのが分かる。
「アシュア!」
「大丈夫だ!」
 アシュアが応答したので、ほっとした。
「あの野郎、空中でアクロバットしやがった。ヴィルの宙返りなんて初めて見たぜ!」
「セレスは?」
「無事だ! すまん、ヴィルは落ちた!」
 その声が聞こえている間に、足元の砂浜で自分を見上げているアシュアとセレスの姿が目に入ってきた。近くに無残に車体のへこんだヴィルが転がっている。よくあれで無事でいられたものだ。
「あいつは?!」
 カインは周囲を見回した。
「上!」
 セレスが叫んだ。カインが上を見上げる前にヴィルの下部が頭の上をかすって思わず首をすくめた。ケイナがすれ違いざまに銃を撃つ音が聞こえた。
「カイン、降りろ!」
「えっ……!」
 カインは急に叫んだケイナの言葉に仰天した。ここが地上何メートルだと思ってるんだ。
「アシュアの近くに落としてやるよ!」
 ケイナはそう怒鳴ると、後ろから手を伸ばしてあっという間にハンドルを握ってヴィルを急降下させた。
「うっわっ!」
 アシュアの声が聞こえたと同時に、自分の体がヴィルから引き離されるのをカインは感じた。
 ケイナの右腕が義手だったことを思い出したのは砂浜に転がったときで、慌てて駆け寄ったアシュアに助け起こされて上を見上げたときには、ケイナの姿はもう見えなかった。
「南のほうに飛んでいった……」
 セレスが不安の滲み出る声で言った。
 カインは足元に転がっている通信機に気づいて慌てて自分の耳に手をあてた。
 違う。自分のものじゃない。じゃあ……。
 カインはケイナの飛んでいった方向に目を向けた。
 ケイナの通信機? なぜ外した?
 ヴィルの音が聞こえたので振り向くと、さっき追い越したユージーが兵士を引き連れて来たところだった。
「おまえらの速さに追いつけねぇよ」
 ユージーは3人の近くにヴィルを降り立たせると言った。
「ユージー、体は大丈夫なのか?」
 カインが言うとユージーはうなずいた。
「南は水の吐出し口になっている。下手なことをされるとまずい」
 ユージーは自分の後部座席をカインに顎で示した。
「乗れ」
 カインは即座にユージーの後ろに飛び乗った。ユージーがヴィルをひとつ空けるように部下に指示したので、アシュアとセレスはそれに乗って再び飛び立った。
「ここで待機していろ!」
 ユージーは残りの部下に怒鳴った。
「ユージー、クルーレは?」
 カインが尋ねるとユージーはちらりとカインに顔を振り向かせた。
「心配ないよ。彼はあれくらいのことじゃびくともしない」
「あいつ、軍用のサーベルを持ってやがったぞ」
 アシュアの声が聞こえてきた。サーベル……。カインは思わずぞくりとした。
 ケイナがノマドの剣を持っていることを知って調達したのかもしれない。
「たぶんこっちの護身用のサーベルじゃない。『アライド』のやつだ。比べ物にならないほど強度がある」
 ユージーが答えたそのすぐあとにケイナとあいつの姿が見えてきた。
 アシュアの言うように本当にヴィルに乗りながらアクロバットをしているような感じだ。
「何だよ、あいつら……。これじゃあ援護もできねえ……」
 少し離れた場所に空中でヴィルを止めると、ユージーが焦ったようにつぶやくのが聞こえた。
 それでも銃を引き抜いて狙いを定めようとしたが、すぐに苛立たしげに舌打ちをした。
「速すぎる……」
 ケイナはあくまでも近づいて攻撃するつもりらしく、何度も接近するのだが、そのたびに相手がくるりとヴィルごと身を翻してしまう。すれ違いざまにどんなに撃っても当たらなかった。逆に向こうが近づいてくると、ケイナはよけるのが精一杯のようなのが見ていても分かった。ふたりの動きが速すぎて見ているだけで頭がくらくらしそうだ。
 アシュアはセレスが自分の肩をぐっと掴むのを感じた。
「なにするんだ?」
 そう言って振り返ったときにはセレスは後部座席に立ち上がっていた。
「アシュア、頼むよ、できるだけ揺らさないで」
 狙うつもりか? 冗談だろ、ユージーが「速すぎる」って言ってんだぞ?
 そう思ったが、言われるままに唸り声をあげながら必死になってヴィルのバランスを保った。
 ユージーとカインが固唾を飲んでセレスを見ている。
 アシュアの肩を掴んでいたセレスの手が離れた。両手で銃を構えると、セレスは歯をくいしばった。
「当たって。お願い」
 つぶやきが聞こえたと同時に、アシュアの頭上を光の筋が鮮やかに直線を引いていった。
 それが相手のバイクの動力部を射抜いたと同時にセレスの足が滑ったので、アシュアは慌てて彼女の腕を掴んだ。その感触のあまりの細さに一瞬アシュアは「脱臼しないか?」と焦ったが、セレスは彼の腕を自分から掴むと軽々と再びアシュアの後ろに身を乗せた。
 アシュアが再び顔を前に向けたときに見たのは、落ちていくヴィルを追うケイナの姿だった。相手がバランスを崩している間に攻撃するつもりらしい。しかし『彼』はケイナを見て自分のヴィルを踏み台にすると、サーベルを振り上げてケイナに飛びかかった。振り上げられた銀色の刃をケイナは避けたが、体当たりをくらってヴィルから手を離してしまった。
 見ていた全員が息を呑んだ。このままだと、あいつはともかくケイナが転落死だ。
 カインはユージーが小さく唸り声をあげていきなりヴィルを発進させたので、慌てて体を支えた。
「アシュア! ケイナを受け止めろ!」
 ユージーが怒鳴った。その声が聞こえ終わる前にアシュアはヴィルを発進させていた。
 カインはユージーの思惑を悟って震えた。射撃の腕ならアシュアのほうが自分より上だ。もしケイナに当たったらどうする。
「カイン! 任せて!」
 セレスの声が聞こえたので顔を向けると、彼女はすでにヴィルにまたがったまま上半身を立ち上がらせていた。前に座るアシュアが大きいのと、細身の彼女は両手で構えないと銃が撃てないために必然的にそうせざるをえない。しかし動いているヴィルの上でその姿勢はセレスの転落を招きかねなかった。
 カインは息を吸い込んで銃を構えた。同時にユージーが護身用のサーベルを引き抜くのが分かった。視線の先にあいつがケイナに銃口を向けるのが見えた。もう躊躇していられない。カインは引き金をひいた。数発撃ったが、たぶんかすりもしなかっただろう。ユージーがサーベルを振り上げ、思い切り振り下ろした。すれ違いざまに鈍い嫌な音がした。
 アシュアがケイナの腕を掴んだ途端、ヴィルが重量オーバーで下降していく。まっさかさまに落ちなかったのは、一緒に乗っていたセレスが軽いおかげだったのかもしれない。
 飛び降りても大丈夫な高さになってアシュアはケイナから手を離した。
「ケイナ!」
 セレスが声をあげたが、ケイナの声は聞こえなかった。
 ケイナが降りたのはダム吐水口の上だった。厚さ50mの巨大な壁の上に飛び降りたケイナは、直後に足から落ちてくるあいつの姿を見た。普通なら折れてしまう足はすぐに体を支えて立ち上がった。
 やっぱりあいつは生身じゃない。そのことをまざまざと見せつけられたような気分だ。
 右腕の服が切り裂かれ、べろりと垂れた皮膚の隙間から鈍い銀色が見える。
 ケイナは相手の懐に飛び込むために走り出した。
 ティは向かい合って手遊びをする双子に顔を向けた。
 自分の父親が危ない目に遭っているかもしれないというのに、この子たちはどうしてこんなに落ち着いているのだろう。
 リアは腕を組んで壁にもたれかかり、ぼんやりと窓の外を見ている。
 たくさんの兵士が警護をしてくれているとはいえ、不安にならないのだろうか。
 リアの視線の先を辿って窓の外にちらりと目をやると、いつもと変わらぬビル群が目に飛び込んで来た。ドーム越しに見る空も青い。眩しいほど青い。
 ティは目を逸らせると自分の手元を見つめた。
 何もできない。ただ待っているしかない。そのことが辛かった。
「ねえ」
 ふいにリアが話しかけたので、ティは彼女に顔を向けた。
「この服、ほんとにもらっちゃっていいのかしら」
 彼女は身につけていた白いセーターの裾をつまんで言った。
「ええ……。もちろんよ」
 ティは答えた。
「前に着てた赤いやつも?」
「全部あなたのものだわ。どうしたの? そんなこと聞くなんて」
 ティは怪訝そうにリアの顔を見た。リアは少しはにかんだような笑みを見せた。
「こういうのを着たのって、生まれて初めてで、ちょっと嬉しかったの」
 リアは白いセーターの袖口を自分の頬に押しつけた。『ノマド』では感じたことのない優しい肌触りにうっとりする。
「ずっと『ノマド』にいて、外の生活って経験がなかったの。外の世界は柔らかい服やきらきら光るものがあって素敵ね」
「あたし、きらきらするのは嫌い」
 ブランが口を挟んだ。
「お母さんが持つ剣だって、ほんとうは嫌いなんだから」
 ティとリアは思わず顔を見合せた。リアがくすりと笑った。
「森の中で目立たないようにするから、くすんだ色の服ばっかりだったの」
「剣を持って戦うため?」
 ティが尋ねると、リアは肩をすくめた。
「好きだったから持ってただけで、あたしの剣術なんて、アシュアが教えてくれなかったらたいしたことなかったわ」
「アシュアが?」
 ティはびっくりしたように小さく目を見開いた。リアはうなずいた。
「ほんとはケイナに教えてもらいたかったのに、教えてくれなかったのよ。意地悪なんだから、あの子」
 ティは「意地悪」という言葉に思わず笑った。教えてと言ってもむっつりしてそっぽを向く彼の仕草が目に浮かぶようだった。
「ケイナは不思議な子ね。愛想が悪くていけすかない子だって、わたし、最初は敬遠してたの。でも、違うみたいね」
 ティは自分の手元を見つめて言った。
「なんていうんだろう……。生きることに必死みたい。必死過ぎて、ほんとは脆くて折れそうなのに、人に寄りかかることもできなくて……」
「みんな、そうよ」
 リアが言ったので、ティは顔をあげて彼女を見た。
「ケイナもカインもアシュアもセレスも…… みんな生きることに必死。あたしもティも」
 リアは少し首をかしげてティを見た。
「あたし、ティが大好きよ。なんだか妹ができたみたいで嬉しかった。笑いながらお洋服を見て、他愛もないおしゃべりをして、それがとても楽しかった。あなたはあたしが『ノマド』の人間でもためらったり、ものめずらしそうな目をしないし、対等に話をしてくれた。もっと早くに出会ってれば良かったのにって、何度も思ったわ」
 ティは目を細めた。
「なんだかお別れするような言い方ね」
「だって、あたしはもうすぐ『ノマド』に帰るんだもの」
「また来ればいいじゃない」
寂しそうな表情を見せるリアにティは言った。
「アシュアはよくここに来てるわ。あなたも来ればいいじゃない。わたしに会いに来て」
 リアはそれを聞いて笑みを見せた。
「そうね」
「今度一緒にモールに買い物に行きましょうよ。リアはスタイルがいいからいろんな服を着ることができるわよ。わたしよりずっと美人だからきれいなアクセサリーも似合うわ。わたしが選んで…… そうだわ……」
 ティは視線を泳がせた。
「セレスにケイナとおそろいでネックレスを買わなきゃって思ってたんだったわ……。わたしったら、すっかり忘れて……」
 そうつぶやいた途端、ぽろりとティの目から涙が落ちた。泣くつもりはなかったティは自分でびっくりした。リアは慌ててティに駆け寄った。
「ごめんなさい!」
「お母さん、失敗!」
 ブランが立ち上がると腰に手をあてて声を張り上げた。
「ほんと、失敗しちゃったわ。ごめんね、泣かせるつもりはなかったのに」
「わたしも泣くつもりはなかったわ」
 ティはぽろぽろとこぼれる涙に自分で途方に暮れながら答えた。
 肩を抱いてくれるリアに、ティはすがった。花の香りがする彼女の肩に顔を埋めて泣きじゃくった。


 ヨクの声が耳に響いたのは、切っ先の反り返った相手のサーベルをほんの少しのタイミングでよけ損なってケイナが左耳の横に細い傷を作ったときだった。全員がひやりとした。
 それでも見ているだけで全く手出しができない。ケイナと『彼』の動きは人並みはずれていて、銃で狙うこともできなければ直接向かっていくこともできなかった。
アシュアはケイナとの約束を守って、今にも飛び出して行きそうなセレスの腕を必死になって掴んでいた。
「答えろよ! カイン! 今どこだ!」
 ヨクが怒鳴っている。ユージーやアシュアの耳にも聞こえているだろう。
「カイン! ……って、おい! 離せ!」
 ばきりと鈍い音が遠くで聞こえた。ヨクはどうやらプラニカで追いかけてきたようだが、ダム湖の対岸で兵士に止められたらしい。
「総司令官、ヨク・ツカヤ氏をどうすればいいですか」
 兵士の声が聞こえた。
「殴り飛ばしてプラニカでリィのビルに戻せ!」
 ユージーが怒鳴った。
「なんだと……っ! 離せ! はな……」
 途中で声がぷつりと切れた。通信機をもぎ取られてしまったらしい。
「……すまないな」
 ユージーが言ったが、カインはちらりと彼に目を向けただけだった。
 さすがに殴り飛ばしはしないだろうがいたしかたない。ヨクがここに来てもかえって足手まといなことは確かだ。
 ユージーが言わなくてもたぶん自分も同じことを言っていた。
 ヨクは社にいてもらわなくては困る。自分に何かあったときのために……。
 ケイナが疲れてきている、と誰もが感じたのは、それから5分後だった。
 もう30分以上最大限の力で飛び回っている。耳のピアスが光るたびに汗が飛び散るのが見え、表情も苦しそうだ。
 同じだけ動いているのに相手の呼吸が全く乱れてこないのが不気味だった。ケイナと同じ顔をしながらその口元に笑みが浮かんでいる。
 一瞬後にガツリという音がして、全員がぎょっとした。相手のサーベルを左手のノマドの剣で払い退け損なったケイナが顔を庇おうと前に出した彼の右腕に振り下ろされていた。
「ケイナ!」
 押されて仰向けに倒れてしまったケイナを見てセレスが悲痛な声をあげた。アシュアは駆け寄っていきそうになる彼女の腕を必死になって掴んだ。
「離して! 離してよ!」
 セレスはアシュアの顔を睨みつけて叫んだ。
「だめだ!」
 アシュアはきっぱりと言った。
「ケイナがおまえには手出しをさせるなと言ったんだ!」
「なんで!」
 あって当然の問いにアシュアは口を引き結んだ。
「……ケイナとの約束だ」
 セレスは小さな呻き声をあげた。
「そろそろ…… 終わりにしないか?」
 ケイナは必死になってサーベルの力に耐えながら『彼』の声を聞いた。
 力が強い。痛みは感じなくても義手がそのまま切り落とされる恐怖を感じた。このまま振り切られたらそれでもう終わりだ。
おれが死んだら終わりなのか?
 ケイナは歯を食いしばりながら考えていた。『ノマド』のシナリオはおれが死ぬことだったんだろうか。
「ハルドさん……」
 ケイナは必死になって言った。
「ハルドさん、目を覚ましてくれ……。おれの声、聞こえないのか……」
 『彼』は可笑しそうに笑った。
「おまえの呼んでいるやつはぐっすり眠ったまんまだよ」
 ケイナは自分の腕がかすかに軋む音を聞いた。左手の剣で相手の刃を押し返そうとしたが、びくともしなかった。
「アシュア、行け!」
 今なら動きが止まっている。ユージーが自分のサーベルを投げて寄越したので、アシュアは慌てて受け止めたが面食らった。
 セレスをどうすればいいんだ。
「カイン、こいつをしっかり捕まえてろ!」
 しかたなくアシュアはそう怒鳴ると、駆け出した。カインは慌ててセレスの腕を掴んだ。
「手ぇ出すな!」
 ケイナは叫んだが、次の瞬間にはアシュアの雄叫びと鈍い音がして、目の前から相手が消えていた。
 何本もの光の筋が頭上を走って行った。ユージーとカインだ。
「ケイナ、うしろ!」
 起き上がってすぐにセレスの声が響き、ぎょっとして振り向きざまにノマドの剣で弧を描いたが、刃は空しく宙を切っただけだった。相手の飛び退った先にアシュアがサーベルを構えている。
「アシュア!」
 思わずケイナは叫んだが、雄たけびをあげて鈍い音と共に相手の服を切り裂いたのはアシュアのサーベルのほうだった。
「ケイナ…… どうして?」
 セレスのかすかに震える声でつぶやいた。
 どうして? 何が?
 カインは思わずセレスの顔を見た。
「ケイナはどうして手加減してるの……?」
 カインははっとして、拾ったケイナの通信機を思い出した。
 ケイナはもうずいぶん長く動き回っているのに、相手に全くダメージを与えていなかった。
 彼は、何とかして自分の声でハルド・クレイを呼び戻そうとしている?
 通信機を外したのはセレスに自分の声が聞こえないようにするためだったのか?
 ケイナ…… それは無茶だ……

 顔を巡らせて相手を見つけ、ケイナは左手で剣を握り直した。
 自分に向かってくる自分と同じ顔を見て一瞬眩暈を感じ、小さな呻き声が漏れた。
 藍色の瞳。自分と同じ海の色の瞳。
 そしてハルドの目。

 ――首から上はハルド・クレイだ。――

 エリドの言葉が蘇る。首を切り落としたらこいつは死ぬ。
 分かっているのに剣を振り下ろせない。
 時間が急に遅く流れていくような気がした。
 目は確実に相手の動きを捉えているのに体が動かない。

「ケイナ!!」
 セレスの声が聞こえたが、それでもケイナは動けなかった。
 頭の中で自分の声が聞こえた。

 ――これからは何度目が覚めても『明日』がくる……――

 サーベルの切っ先が左腕の皮膚を破りながらノマドの剣をもぎとっていった。
 向こうに反れていった切っ先が再び自分に向かってきたとき、ケイナは初めて相手から目を逸らせた。

 ――ほんとうに、そうだったらいい……――

 心臓まで響くようなガツリという衝撃があった。
 戦意を失いながらもケイナは本能的に右腕で自分を庇っていた。
 さっきの一撃で相手のサーベルの力を覚えた義手は重い刃を受け止めはしたが、作り物でない生身の自分の体はもう動かなかった。
 急激に力が抜けていく。アシュアが声をあげて飛びかかり、相手が自分の前から消えた。
「ハルドさん…… 目を…… 覚ま……」
 左腕から流れる赤い血を見つめながら、ケイナは膝が地面に落ちるのを感じた。重い衝撃が体に伝わる。
 ノマドの剣……。
 肩で息をつきながら顔を巡らせた。

 ノマドの剣はもう…… ない。
 ケイナの手から鮮血が飛び散るのを見て息を呑んだと同時に、カインはセレスが金切り声をあげながら自分の手から逃れて駆け出して行くのを見た。慌てて腕を掴みなおす余裕もなかった。
「セレス! だめだ!」
 アシュアの声が響いたが、セレスは転がっていたケイナのノマドの剣の柄を掴み、声をあげて『彼』に飛びかかっていった。 金属がこすれあうような嫌な音が響いて、次の瞬間、ゴツリという音とともに、鈍い銀色の内側から幽かな火花を散らして腕が地面に落ちた。セレスの一撃で切り落とされたということは、やはりケイナはどこかで躊躇をしていたのだ。
「ケイナを……」
 束の間、転がった腕に怯んだが、セレスは叫んだ。
「ケイナを傷つけるな!」
 残った腕で『彼』のサーベルが再び振り上げられる。
 アシュアが必死になって飛び掛かっていったが、あっという間に避けられた。
 ケイナの持つノマドの剣は重い。
 セレスは歯を食いしばって両手で剣を構えた。

 ―― おまえは…… おまえは、あのとき消えちゃったはずだろ? ――

 ―― ケイナの中で、おまえを消したはずだろ? ――

 ―― なんでまた出て来るんだよ ――

 ―― なんでまたケイナを苦しめるんだよ ――

 おまえなんか、どっか行っちゃえ。
 いなくなってしまえ。
 機械まみれのケイナなんかいらない。
 本当のケイナはちゃんと血が通ってる。

「おまえなんか……!」

 セレスの声にケイナは呻いた。がくがくと震えている右腕を地面について立ち上がろうとしたが、足が動かない。汗が鼻を伝って落ちた。
 エリド…… トリ……。
 頼むから……。
 頼むから、セレスに言わせないでくれ……。

 振り上げた剣がすれ違いざまに相手の頬をかすめていったとき、セレスは小さな血の粒が自分の頬に飛んできたのを感じた。
 再び相手を振り向いたとき、彼女はふと動きを止めて目を見開いた。
 それはほんのわずかな時間でしかなかっただろう。
 次に向かってくる『彼』の姿を呆然と見つめながら、セレスは自分の頬に手をあてていた。
 その表情にケイナは力を振り絞って立ち上がった。
 彼女は気づいた。
 『彼』が誰なのかに気づいてしまった。
 『彼』のサーベルの切っ先が自分に振り下ろされようとしても、セレスは目を見開いたままノマドの剣を構えようとはしなかった。
 アシュアが走り出した。
「セレス!」
 ケイナは無我夢中でセレスの背後から彼女に飛びかかって彼女の頭を腕で覆い、ふたりの前でアシュアのサーベルが、がつりという音をたてて相手の切っ先を止めた。
「どうして……?」
 セレスは言った。ケイナにしがみつかれながら、大きな目で相手を見つめている。
「どうして?」
 アシュアは歯を食いしばって相手の刃を止めながら、セレスの顔を見た。
 セレス、だめだぞ、絶対だめだ。何も言うな。
 ケイナは必死になって予見に逆らおうとしてるんだ。
 セレスの顔が歪んで涙がこぼれ落ちた。彼女は身をよじるとケイナの腕から逃れた。
「セレス……!」
 ケイナが慌てて手を伸ばしたが、セレスはその手からも逃れて『彼』を見つめた。
「なんでだよ……」
 セレスは震える声で言った。
「なんで、こんなことになってるの? なんでそんな姿なの?」
 アシュアは自分のサーベルがふっと軽くなったのを感じた。
 まずい、と思ったときには『彼』のサーベルが再びセレスに振り下ろされようとしていた。
 次の瞬間、鈍い音とともに『彼』のサーベルをセレスが『ノマド』の剣で受け止めていた。
 力に押されて足がそのまま地面を滑ったが、必死になって踏みとどまった。
「アシュア! 手を出すな!」
 セレスが声をあげたので、サーベルを振り上げて飛び掛ろうとしていたアシュアはびくりとして手を止めた。銃を掴みかけていたケイナの手も止まった。
「誰も手を出すな!」
 かすかに懇願するような響きがこもる。
「おまえ…… 誰だ」
 セレスは『彼』を睨みつけながら言った。
「出て行け……」
 頬を涙が伝って落ちた。
「兄さんから出て行け!」
 ふいに、スイッチがぷつりといきなり切れてしまったかのように『彼』の動きが止まった。


 ハルド・クレイは弱り果てて首をかしげていた。
 『コリュボス』への異動を知らされたとき、真っ先に頭に浮かんだのはセレスのことだった。
 案の定、セレスはハルドの言葉を聞くなり、そそくさとクローゼットを開け、大きなバックを取り出して次々に荷物をそこに放り込み始めた。
「何してる?」
 ハルドが呆然として言うと、セレスは「ん?」というように兄を振り向いた。
「荷物まとめてるんだよ。だって、あさってには発つんだろ?」
 当然のように答える弟をどう説得すればいいか途方に暮れた。
「おまえは学校があるだろ?」
「転校手続きするだろ?」
 再び荷物を詰め込み始めるセレスに、ハルドはため息をついて弟の腕を両側から掴むと、無理矢理一緒にベッドの端に座らせた。
「どう考えたって……」
「行く」
 兄の言葉を遮るようにセレスは言った。
「絶対、一緒に行くからな。絶対」
 挑みかかるような声だった。
「お母さんが許してくれるわけがないだろ?」
「兄さんの荷物に潜り込む。密航してやる。ひとりで行く。それくらいのお金はおれだって持ってる。だから行く」
 あのときのことを思い出すと、いつも可笑しくて笑いがこみあげる。
 もちろん、当時は笑うどころではなかった。
 顔を真っ赤にして頑として一緒に行くと言い張るセレスと、泣き出す叔母のフェイの間に立って疲労困憊した。
 思えば、あれが始まりだったのかもしれない。
 あの時、もし自分が『コリュボス』に異動にならなければ、あるいは、どんなに駄々をこねてもセレスを連れて行くことなどなければ…… セレスはケイナと出会うことはなかった。
 こんな大きな歯車に巻き込まれることもなく、何も知らないままで短いながらもみんなが当たり前の人生を終えていた。
 でも、その代わりに会えていたはずの人に出会わずに終わってしまっただろう。
 セレスにとってはケイナだけでなく、アルという友人を持つこともなかった。
 時間の流れの選択肢はいったいいくつあるのだろう。
 万? それとも億単位? いや、きっと人知を遥かに超えた選択肢なのだ。
 自分で選んで来たのだろうか。それとも、選ばされていたのだろうか。
 ハルドは自分の手を見つめた。
 セレスとケイナが助け出されて、ケイナは自分と同じ場所で治療を受けることになったと聞いたとき、手術を受けることは怖くないと思った。
 ふたりに会えるのなら、どんな過酷な手術でも受けて必ず生きていこうと思った。
 今まで育ててくれた叔母と義理の父にも何もしてやれていない。
 やり残したこと、見届けられなかったことがたくさんある。
 だから、今度もまた、何万、何億もある選択肢から、自分はこれを選んだのだ。
 いや……。
 今回は2つだったのかな……。
 死ぬべきだったのか。生き残るべきだったのか。
 ぼくは間違えたのだろうか。
 選ぶ道をいつもいつも、間違えてきてしまったのだろうか。
 束の間、鏡に映った自分の姿を見た時、何をさせられようとしているのかを悟って呆然とした。次の瞬間には自らの手で鏡を叩き割っていた。
 時間がない。
 あっという間に『あいつ』が出てくるだろう。
 ケイナに会わなければと思った。
 彼ならきっとできるだろう。
 こんな血の通わない体でも、彼なら相手にできるだろう。彼はそういう少年だった。
 どうすれば相手を葬ることができるか、きっと瞬時に悟るだろう。
 ケイナ。
 結局ぼくは一番嫌なことをきみに託すことになるんだな。
 『あいつ』は自分の意思で動いていると思い込んでいるだろう。
 迷うことはない。ぼくも迷わない。迷わないことにする。
 今度の選択肢は間違っていないと思うよ。
 ぼくは帰るべきところに帰るのだから。
 唯一の心残りがあるとすれば、セレスの顔を見たかったことだけれど。
 全員が息を詰めて『彼』を見つめていた。
 『彼』はセレスをじっと見つめたあと、切り落とされたほうの腕を動かしかけ、そして気づいて「ああ、そうか」という表情を微かに浮かべた。
 その目をケイナに向けた。彼の視線の意図を感じてケイナは顔をこわばらせ、その後小さくかぶりを振った。『彼』はそれを見ると一瞬目を伏せ、片手でサーベルを構えながらゆっくりと後ずさりし、離れていった。
 やがて端まできて、あと一歩で後ろがなくなるというときに『彼』は足を止めた。
 はるか下に底の見えないダム湖の水面が広がっている。
 『彼』は笑みを浮かべた。
「瞬きを数回」
 『彼』は言った。
「それだけでも、会えて良かった」
 穏やかな笑みを浮かべながら、サーベルを持つ手がゆっくりとあがり、その刃が首にかかる寸前、『彼』は大きく後ろに倒れ込んだ。

 それはあっという間の出来事だった。
 セレスはケイナが小さな呻き声を残しながら走り出して『彼』に飛びかかるのを見た。
 次の瞬間には2人も視界から消えた。
 全員が慌てて壁の端に駆け寄った。巨大な壁を伝いながら落ちていくふたりの姿が見えた。軌跡のように血の筋が延びていく。セレスの悲鳴が響きわたった。
 一緒に飛び込んで行きそうになるセレスを必死になって抑えながら、カインはヴィルのエンジン音とともに、アシュアが勢いよく壁の上から飛び出すのを見た。足元をなくしたヴィルは落下していったが、アシュアは大きな水の柱を立ち上げてふたりが湖中の沈んでいくのを見ることしかできなかった。


「お母さん」
 小さな声で自分を呼ぶ声にリアははっとして目を開けた。
 泣き出してしまったティに肩を貸しているうちに眠ってしまったらしい。
 横を見るとティは自分の肩に顔をもたせかけたまま静かな寝息をたてていた。
 リアは彼女をそっとソファに横たえ、立ち上がるとブランとダイを見下ろした。
「終わったの?」
 ふたりはリアを見上げてうなずいた。
「そっか……」
 リアはティの顔を見た。
「ごめんね……」
 腰を落としてティの頬に垂れかかった髪をそっと指でかきあげた。
「だって、あたしも辛かったし」
 あっという間に涙が溢れた。
「もっと一緒におしゃべりしたかった……。お買い物もしたかった。あなたに何かプレゼントをしたいと思っていたわ。カインとの結婚式だって見たかった……」
 リアは子供のようにしゃくりあげると目を拭った。
「ティ、カインと仲良くね。元気でね」
 そっとティの口の端にキスをした。
 それを見て、ダイとブランも小さな唇を彼女の口の端につけた。
 ティは全く起きる気配がない。それが『ノマド』の守護だ。彼女は目が覚めると同時に戻ってきたカインの姿を見るだろう。
 ティは立ち上がってブランとダイに手を差し伸べた。
「行こうか」
 ふたりともうなずいて左右から彼女の手をとった。
「さよなら。ティ」
「お姉ちゃん…… バイバイ」
 3人はオフィスをあとにした。小さな木箱が閉まるように、ドアがコトリと音をたてた。


 ケイナは必死になってハルドに手を伸ばしたが、血に濡れた左手は彼のサーベルを持つ手を掴んではくれなかった。
 深く食い込んでいく刃がハルドの首を切っていく。彼の首から細くほとばしる血がどんどん自分の後ろに流れていく。
「ハルドさん……」
 ケイナは呻いた。
「ハルドさん、手を……!」
 そう叫んだ途端、水の中に勢いよく突っ込んだ。
 無数の泡が自分の周りに広がる。
 ケイナは泡の向こうでハルドの体が暗い湖の底に赤い筋を残しながらどんどん沈んでいくのを見た。もう、どんなに手を伸ばしても届かなかった。

 ハルドさん……。あなたを取り戻したかった……

 ケイナは心の中でつぶやいていた。
 ハルド・クレイは、最期にセレスに会いたかったのかもしれない。
 『グリーン・アイズ』の血の宿命を無理矢理起こされた彼が『自分自身』に戻ることができる時間はわずかしかなかったのだろう。彼の願いは、そのわずかな隙に無事に目覚めたセレスの顔を見ることだったのかもしれない。
 でも……。
 ケイナはどんどん遠ざかっていく水面を見つめた。
 誰にも死んで欲しくなかった。
 生きていて欲しかった。
 透明な水の中に広がる泡が光の粒のように見えた。
 この泡は、どうしていつまでも消えずに自分の周りにあるのだろう。
 不思議と水の冷たさは感じなかった。
 ダフル…… ごめんよ。
 きみを死なせてしまったのに、おれはハルドさんを助けようとしてた……。
 ケイナはぼんやりと考えていた。
 この光景、どこかで見たことがある。
 ああ、そうか……。
 『ノマド』のコミュニティで見た光景だ。
 トリが見せたラストシーンだ。
 ゆっくりと目を閉じた。
 おれは結局、『ノマド』のシナリオ通りに動いてしまったんだな……。

 ―― ラストシーンじゃないよ…… ――

 トリの声が聞こえた。

 ―― 時間はまだ止まってはいないんだよ…… ――

 自分の頬を何かが撫でていった。目を開くと、ダフルの作った木組みの人形が、自分の首から抜けていこうとしていた。
(もう一度、これを持って戻って来い)
 クルーレの言葉を思い出し、はっとして腕を伸ばした。人形を掴んだと思ったとき、再び声が聞こえた。

 ―― ケイナ、変なこと言わないでくれよ ――

 ダフルの声だ。

 ―― ごめんだなんて。そんなこと考えてたの? ――

 ふふふ、と覚えのある笑い声がする。

 ―― 人形、ちゃんと父さんに渡してくれた? 約束は守ってくれよ? ――

 人形を掴んだ左手の感触が人の手の感触になった。誰かがしっかりと自分の左手を握る。
 目を凝らすと、人懐こい目が笑っていた。

 ―― きみと一緒にいた時間は楽しかったよ。きみに会えて良かったと思ってる。
 しっかりしなきゃ。ちゃんと手を握るんだよ ――

 ダフルの手は温かかった。

 ―― お兄ちゃん ――

 ブランの声がした。
 ダフルの手が離れて今度は小さな手が自分の手を握るのを感じた。

 ブラン……?
 ケイナは目を凝らした。リアそっくりの泣き出しそうな笑みが見えた。

 ブラン……。おまえには分かってたのか? ハルドさんは…… どうしてもだめだったのか……?

 ―― あの人は本当ならずっとずっと昔に眠ってたはずだったの ――
  だから、帰らなきゃいけなかったの――

 でも……。
 水の中をブランに引かれながらケイナは言った。

 でも、生きていた……

 ―― あの人はもう眠りたがってたの。無理矢理起こしちゃ可哀想だよ ――

 でも…… それは誰かが決めることじゃない……

 ―― うん……。そうだよね…… ――

 寂しそうに、ブランは答えた。

 ―― お兄ちゃん ――

 彼女の栗色の髪が水の中で羽のように広がっている。

 ―― あたしたちと一緒に帰ろう ――

 帰る……? どこに?

 ―― 遠い、遠いところに ――

 ……遠いところ……?

 ―― あたしたちは帰ることにしたの。だからお兄ちゃんも一緒に行こう ――

 帰る……。
 ケイナは彼女の顔を見つめた。
 帰るところって……?
 おれに帰るところなんか、あるんだろうか。

 ―― お兄ちゃん ――

 ブランは言った。

 ―― お兄ちゃんにはまだ手を繋いであげないといけない人がいるんだよ ――

 ブランの手に力がこもった。

 ―― 約束したんじゃないの? しっかりして ――

 ブランの手が覚えのある手の感触に変わった。

 ―― どこかで、手を繋いだこと、あったよね ――

 細い指。細い肩。緑色の目。大切な声。

 ―― もう、ひとりになろうとしないでね ――

 光が見えた、と思った瞬間、顔が水面に出た。

「ケイナ!」
 誰かが自分の左腕を力強く掴むのを感じた。喘ぎながら顔を向けると、ヴィルに乗ったアシュアが顔を歪めていた。
「もう…… 助けられなかったと後悔するのは…… 嫌なんだよ……」
 彼はケイナを引っ張り上げながら涙声で言った。
 湖岸の砂浜では全員が固唾を飲んでアシュアのヴィルを見つめていた。
 アシュアが体を後ろにねじってケイナを抱きかかえるようにしてヴィルのハンドルを握っている姿を見て、やっと緊張が解けた。
 ケイナが無事だった。
 アシュアは静かにヴィルを降り立たせると、ケイナを支えながら砂浜に足を下ろした。
「ケイナ!」
 セレスが駆け出した。
 勢いよく懐に飛び込んで来たセレスを受け止めきれず、ケイナはセレスと一緒に砂浜にがくんと膝をついた。全員が近づく気配を感じて、彼は半ば放心したような表情で顔をあげた。
 何かを言おうと口が動いたが、声は出てこなかった。
「ケイナ…… 無事で良かった……」
 カインが声を震わせながら言った。
 ケイナは小刻みに震えながらその顔を見つめ返した。
 切れ長の黒い瞳は変わらなくても、10代のときとは違う大人びた表情になったカイン。
 彼の声はいつも落ち着いていて、物腰も冷静だった。そんな彼が近くにいたから、自分も安心できたように思う。
 ケイナはゆっくりとまばたきをしてカインから目を離すと、顔を巡らせひとりひとりの顔を見つめていった。
 隠された左目、喉についた発声装置……。幼いときに髪をくしゃくしゃと撫でるようにする仕草。凛とした声、顎を引いて大股に歩く癖。兄としてずっといてくれたユージーの顔。
 燃えるような赤い髪のアシュア。自分は眠りにつく前も、そして目覚めてからも、どれほど彼に信頼を寄せて、彼を頼りにしたことだろう。アシュアがいてくれたからこそ乗り越えられたことが数えきれないほどある。
 動揺を目に浮かべているクルーレ。
 そうだ。
 クルーレに渡さなければ……。
 ケイナは小さく震える手をぎごちなく彼に差し出した。
「クル…… レ…… かえ……」
 掠れた声でそれだけしか発することができなかった。
 クルーレの大きな手が伸びてきた。彼は負傷していない手で冷たくなったケイナの手を包み込むと、彼の顔を覗きこんだ。
「ダフルが…… 最後のわたしへの通信で言っていたことがある」
 クルーレは言った。
「ケイナ・カートという人は、自分をアンリ・クルーレの息子ではなく、ダフル・クルーレとして見てくれる人だと」
 ケイナは唇を震わせた。
「誇らしげな顔だったよ」
 ケイナはクルーレの大きな手にダフルの人形を置いた。
 必死になってこらえながらもクルーレの顔は今にも泣き出してしまいそうだった。
 クルーレだけではない。
 全員が、帰ってきたケイナと、戻らなかったハルド・クレイの命の重みに堪えていた。
 クルーレが腕を離したあと、ケイナは自分の顔の下にあるセレスの頭に頬を押しつけた。
 彼女の体温が冷えた体に伝わる。右腕はもう自分の腕ではないのに、彼女の細い体の感触を感じ取る。
 守りきれなかったもの。守らなければならないもの。
 きっと繰り返し思い出し、考えていくんだろう。
 目が覚めると『明日』がくる。
 『明日』がくるたび思い出し、そして生きていく。
 ハルドさん、あなたの手をどこかで握り締めることができていたら、あなたは元に戻ることができただろうか。おれが呼び戻せても、あなたは同じ道を選んでしまったのだろうか。
 ダム湖の水平線に日が沈みかけていた。
 ゆっくりと広がっていくオレンジ色の光をケイナは見つめ続けた。

 ――お兄ちゃん、あたしたちと一緒に帰ろう ――

 ブランの声が聞こえた。


 『ノマド』の出生率は高いものではなかった。
 80年で増えた人口は6000人ほどだっただろう。そのうち、5年以内に寿命が尽きる者は約3割。アライドには『A・Jオフィス』を中心にして、50名ほどの『ノマド』と『アライド』との混血者がいた。『トイ・チャイルド』の血を引くケイナとセレス、そしてかつての『ビート』のメンバーを合わせると全部で6000余名になっていた。
 『ノマド』と『アライド』の混血は、いずれ淘汰されて『アライド』寄りの遺伝子に傾いていくだろう。『ビート』はもともと遺伝子の問題を改良するタイプではない。

 『ノマド』は悪夢を見ていた。最初はさほど具体的な悪夢ではなかった。
 夢見の能力は万能ではない。何が暗い闇なのか、それすらも見極めることは難しかった。
 エストランド・カートやバッカードは小さな点の存在でしかない。
 彼らが存在しようとしまいと、『トイ・チャイルド・プロジェクト』は白い布についてしまった染みのように、命の流れの中にこびりつく。そのことだけは夢見の能力を持つ誰もが感じていた。
 それでも夢見たちは、誰もが本能的に自らが侵してはならない領域というものを知っていた。
 どんな悪夢を見ようとも、命の操作だけはしてはならなかった。
 その時に死に行こうとしている者を再び起こし、目覚めるべき者を眠らせることはしてはならなかった。しかし、彼らは命の流れに手を出した。
 理由がどうであれ、アシュアを助け、ハルドを生かそうとした。
 眠りにつくはずのケイナとセレスを起こした。
 その結末は消せない染みをずっと残していくことになった。
 また同じことが繰り返されていくのだろうか。
 『ノマド』がこの世にいる限り。
 プロジェクトの子供がいる限り。
 オフィスに戻ったとき、既にリアと双子たちがいなくなっていたことにカインは違和感を覚えたが、アシュアが「受け入れの準備があるから先に戻ったんだと思うよ」と何気なく言ったので、腑に落ちない気もしたが自分を無理矢理納得させた。
 ケイナの外傷はさほどのものではなかったが、体力の損耗が激しいので、彼は3日ほど『ホライズン』に入院した。その間はセレスがずっとつきっきりだった。
 退院してから、ケイナはカインにずっと自分の首にかけていたネックレスを渡した。
「どうして? 形見だろう?」
 カインが怪訝な顔をすると、ケイナは微かに笑みを浮かべた。
「これがおれの命の元だった。今はもう中身は何もないけれど、持っていて欲しい」
 妙な気がしたが、カインはうなずいてネックレスを受け取った。
「別のものを渡せればいいんだけど、おれにはこれしかないから」
「変なことを言うんだな」
 カインは笑った。
「きみが元気でぼくの目の前にいてくれることが一番だよ。それ以上は何もいらない」
 ケイナは何も言わなかった。
「やっぱり『ノマド』に行くのか?」
 ためらいがちに尋ねると、ケイナはうなずいた。
「おれにはあそこしか行く場所はないと思うから」
「ユージーのところに帰ったら?」
 そう言うと、ケイナは目を伏せた。
「たぶん無理だ。ユージーも分かってる」
 カインには何も言えなかった。
 あまりにも突出し過ぎるケイナの能力は、普通の世界では逆に生きづらいだろう。
「アシュアと一緒に、たまには来てくれるだろう?」
 伏せたままのケイナの顔を覗きこむようにして言うと、ケイナはカインの顔を見て小さく笑みを浮かべた。
「その気になったら」
「アシュアに無理にでも引っ張って来させるよ」
 カインの言葉にケイナはくすりと笑ったが、それ以上何も言わなかった。
 『ノマド』がいなくなったことをカインが知ったのは、ケイナとセレスがアシュアと共に『ノマド』に帰ってから一週間後だった。

 ティがアシュアたちのいた部屋でカイン宛の手紙を見つけた。
 カインは細かい文字でびっしりと書かれた手紙を読んだ。アシュアがこんなにたくさんの文章を書いたのを見たのは初めてだったかもしれない。
 手紙は、あのダム湖での出来事の前に書かれたもののようだった。
 リンクにことの経緯を説明されたこと、『ノマド』の決心と、黙って出て行くことになることへの苦しみが綴られていた。
 ケイナとセレスを黙って連れて行ってしまうことへの赦しも書いてあった。
 ケイナはおそらく『ノマド』のことを許してはいないだろう。きっとこれからも許すことなないだろう。それでも彼は『ノマド』と行動を共にする。
 そうする以外にどうしようもないことが分かっているからだ。
 プロジェクトの血を引き、最新鋭の義手義足、義眼をつけられた自分が留まると、きっとカインやユージーに多くの負担をかけるだろう。彼にはそれがわかっている。
 だから、意にそぐわなくても『ノマド』と共に行くことを選ぶ。
 この星にはもうどこを探しても『ノマド』のコミュニティはない。コミュニティを出て散らばっていった者も5年以内に死亡する。
 おそらくどこのレーダーにもひっかからずに、ある日20隻ほどの船が飛び立っていくだろう。
 船は、星を出たら地球を離れていく大きな弧を描く軌道に乗る。
 もともと出生率の低い『ノマド』の最大の弱さは「地に足をつけないこと」だ。
 限られた空間の中で生きていくことは、さらに子孫の減少を強いるだろう。
 うまくいけばどこかで安住の地を見つけるかもしれない。
 あるいは、限られた空間でも生き抜く子孫が生まれるかもしれない。
 そのことについては『ノマド』は夢見をしなかった。これからも予見することはないだろう。
 やがて船は永遠に弧を描いて周り続ける星のひとつになるかもしれない。
 地球を離れて行き、次に近づくのは150年後だ。
 ただ、20年後に一度だけもう一度会うことができるとアシュアは書いていた。
 そこが小さな星間機で地球に戻ることができる限界点らしい。
 そしてその日は夢見たちが何かを感じている日なのだという。
 最後に別れた場所で同じ時間に行くから、とアシュアは書いて手紙を終えていた。

 カインは何度も手紙を読み返し、元通りに封筒に入れた。
 不思議と涙はこぼれなかった。
 しばらく封筒を見つめたあと、上着をとりあげそれを内ポケットに入れた。この手紙はこれから肌身離さず持つことになるだろう。
 ケイナが渡してくれたネックレスはあれからずっと自分の首にかかっている。
「カイン、そろそろ出るぞ」
 ヨクがオフィスに入ってきたので、カインはうなずいた。
 彼は、夢見たちの予見が外れたことを知らなかった。
 20年の月日は瞬く間に過ぎた。
「寒いかしら」
 窓の外から空を見上げながらティがつぶやいた。
 3年前にドームの一部が解除されてから、気温の変化が大きくなった。
「そろそろ行くよ」
 カインが言ったので彼女は上着をとりあげた。
「アキラ、ユイ、行くわよ」
 ティは子供たちに声をかけた。
「最後なのはお母さんだよ。早くして!」
 少女の甲高い声が聞こえて、ティは慌てて飛び出した。外のプラニカの脇に立つ少女の隣に黒髪の背の高い少年が立っている。
 カインとティは結婚してふたりの子供を授かった。
 カインそっくりの黒髪と切れ長の目を持つアキラは今年で18歳になる。
 妹のユイは15歳だ。栗色の髪とふっくらした唇を母親から受け継いだ。
 アキラは昨年から仕事に参加するようになった。
 ふたりの名前はヨクがつけてくれた。
 アキラは漢字で太陽と月を象徴する意味があるし、ユイは結ぶという意味があるらしい。繋ぎとめ、明るく照らす子供たち。ヨクはそんなふうに言って照れくさそうに笑った。
 ふたりが生まれたとき、ヨクは自分の孫ができたように喜んだ。
 もう今は引退して一人暮らしをしている彼に月に一、二度会いに行くことがカインたちの習慣になっていた。
 ユイはかたことで言葉を発するようになってから、ヨクのことをずっと「おじいちゃん」と呼ぶ。彼女はつい最近までヨクのことを本当の祖父だと信じていたらしかった。
 そのヨクももう70歳を過ぎた。
 一人暮らしは心配だから一緒に住もうと何度も言ったが、彼はそのたんびに突っぱねた。
 ティが煙草嫌いなので、煙草をやめることができないヨクは一緒に住むことで何度もティに注意を受けてしまうことを想像してうっとうしく思うようだった。
「今さら取り上げようなんて思わないわよ。度を越さなければ」
 ティは苦笑したが、やはり頑なに同居を断った。彼自身のプライドもあるのかもしれない。年寄り扱いされるのが嫌なのだ。
 今日は、いつもの習慣が変更になった。アシュアとの約束の日だったからだ。
 ヨクには帰りに寄るからと伝えて、カインは家族を乗せてプラニカを出した。
 本当に来るのだろうか。カインは半信半疑だった。あれから20年もたっている。
 アシュアの書いていた通り、船は確かに出たようだった。レーダーに影は映らなかったが、離発着のない時間にかなりのエネルギー周波の残像のようなものがエアポートで捉えられていたとクルーレが教えてくれた。おそらく、捉えられたときにはとっくに旅発ってしまったあとだったのだろう。
 アシュアからの手紙を読んだあと、カインはユージーに会って手紙を見せた。
 ユージーはそれとなく『ノマド』たちがいなくなることを感づいていたようだが、最後まで明確なことは分からないままでいたらしい。
「『A.Jオフィス』が相当加担していたみたいだが……。この件についてはガードが固かった」
 ユージーは不機嫌そうに言った。
「分かっていれば、行かせなかった。カートを見くびりやがって……」
 悔しそうにつぶやきながら、急にぷつりと糸が切れたように彼は泣き崩れた。
 ユージーは決して泣かない人だと思っていたカインは少しびっくりした。
 押し殺したように声を漏らして泣く彼の姿をしばらく見つめて、カインはそっと部屋を出た。彼を慰める言葉を見出せなかった。しばらく俯いてオフィスのドアの前に立ち尽くしていたが、結局帰るために足を踏み出した。
 涙が溢れそうになったのはプラニカに乗り込んだときだった。走り抜けた年月が一気に押し寄せる。彼は必死になって涙をこらえた。なぜこんなにも泣くことを拒んでいるのか、自分でもよく分からなかったが、意地でも泣くまいと思った。
 命の操作をしてはならないと言う『ノマド』が最後に自らの命を操作する。
 その選択は決して納得できるものではない。
 彼は口を引き結んでプラニカのハンドルを握った。

 カインがティと結婚した1年後、ユージーも結婚した。相手はクルーレの娘、ルージュだ。ダフルが亡くなったあと、何度か会っているうちに意気投合したらしい。
 ルージュは濃い眉と高い鼻梁が父親であるクルーレにそっくりで、表情があまり出ず冷たい感じがする。だが、話をするととても穏やかで優しいとティは言っていた。父親に似たがために、小さい頃から友達を作るのが一苦労だった、と冗談めかして話したそうだ。
「お料理がとても上手なの。ルージュにいくつも教えてもらったわ」
 ティは嬉しそうにそう言った。
 母親のいなかったカート家でユージーはルージュの手料理を口にしてきっと相好を崩していることだろう。
 今日はユージーの家族もダム湖に向かっているはずだ。
 ユージーの娘、サナは13歳になる。クルーレが早く二人目を作れとうるさい、と前にユージーがこぼしていた。
「おやじが生きていてもああなったかな。サナを前にするとあの顔が実にだらしなくなるよ。ルージュはしょっちゅう甘やかせるなと怒ってばかりいる」
 そう言うユージーも娘が可愛くてしようがないようで、今まで見たこともない彼の表情に思わず顔がほころんだのを思い出す。

 ダム湖が見えてきてカインはプラニカを砂浜に下ろした。ユージーのプラニカは既に着いていて、サナが砂浜に足跡をつけて遊んでいた。
 ユイが彼女の姿を見つけて走り寄った。ふたりとも同じ『ジュニア・スクール』だったので仲がいい。サナは年齢よりもかなり大人びていて、ユイよりもずっと上に見える。落ち着いた物腰は父親であるユージーに似たようだ。
 ユージーがアキラを見て笑みを浮かべた。
「久しぶりだな。仕事は慣れたか」
 アキラは微かに笑ってうなずいた。
「ええ、少しずつですが」
「なんだか、どんどんおやじそっくりになっていくな。昔のカインを見ているみたいだ」
 ユージーはアキラの頭の先から足の先までを見て言った。アキラは確かにカインによく似ている。仕草までも似ているので、カイン自身も、母親であるティもびっくりすることがある。
「サナの進路は決まったんですか?」
 カインが尋ねると、ユージーは肩をすくめた。
「ユイと同じ『スクエア』がいいんだと。『ライン』は性に合わないらしい」
「へえ?」
 カインはサナに目を向けた。父親譲りの黒髪が風になびいている。ユイと何やら話をしてくすくす笑っている顔は大人びてはいてもやはりまだどこかあどけない。
「『スクエア』で医療関係に進みたいらしい。世話になるかもしれないからよろしくな」
「リィを志望してくれるのなら喜んで」
 カインは笑みを浮かべてうなずいた。
 サナとユイの小さな笑い声を聞きながら、ダム湖の水平線に顔を向けた。
 空がゆっくりとオレンジ色に染まっていく。
 あの日もこんな感じだった。
 沈んでいく夕日を見ていると、そのまま20年前に戻っていくような気がする。
 やがて夕日の中にぽつりと小さな黒い点が見えた。
 カインは無意識に、自分の胸元にあるケイナのネックレスを手で確かめていた。
 点は次第に大きくなり、機影が確認できて10分後にそれは水際に着陸した。
 最初に降りてきた人影を見てカインは思わず息を呑んだ。
 横に立つユージーからもさっと緊張が伝わる。
 夕日を背に降りてくる黒い影はケイナだった。続いてふたり降りてくる。
 近づいてくる3人を見てカインたちは声を無くした。
「ケイナ……」
 20年前と変わらない姿……? いや、違う。彼は金髪に青い瞳だった。
 目の前に立つ少年は栗色の髪にかすかにグリーンがかかった茶色の瞳だ。
 後ろから歩いてくるふたりは顔がそっくりの男女だ。ブランとダイだろう。
「カインさん、やっと会えたね」
 ブランはリアそっくりの顔で笑みを浮かべてカインを見た。
 もうすっかり大人になった彼女は昔のようなこましゃくれた雰囲気はない。
 隣にいるダイも思慮深い面立ちの男になっていた。くるくるとした巻き毛がアシュアを思い出させた。
「さすがにここまで来るのに地球の時間で半年かかったわ」
 ブランはそう言うとくすりと笑った。
 カインはケイナそっくりの少年に目を移した。
「彼、名前はケイナ。お父さんからそのままもらったの」
 カインの視線にブランが言った。
「お父さん……?」
 カインはつぶやいた。
「そうよ。ケイナとセレスの息子よ」
 それを聞いて、カインもユージーも呆然とした。彼の耳にはあのときの青いピアスが光っている。
 少年は少しはにかんだ表情を見せながらカインに手を差し出した。
「初めまして…… ケイナです」
 カインはその手を握り返しながら、まだ呆然として彼の顔を見つめていた。
 彼はユージーにも握手を求めた。ユージーの表情も不思議そうだ。時間が止まってしまったような錯覚を覚える。
「父と同じ名前なので、よく混乱したんです。でも、母が絶対この名前だと聞かなかったらしくて」
 『ケイナ』は笑った。
「あの…… ケイナとセレスは……」
 カインが尋ねると、息子のケイナはカインの顔を見た。
「父は、5年前に亡くなりました」
 くらりと眩暈がした。死んだ? ケイナが?
「いったいどうして……」
 つぶやくと『ケイナ』は少し目を伏せた。
「眠ったまま、朝にはもう冷たくなっていました」
 言葉が出なかった。ユージーも青ざめた顔で呆然としている。ティが震える手でカインの腕を掴んだ。
「母は、3年前に亡くなりました。衰弱死です。父が死んでからあまり食べ物を受け付けなくなって……」
 目の前にいるこの子はケイナそっくりなのに…… ケイナ自身はもういない。
「カインさん、悲しまないで。……これがふたりの決められた寿命だったの」
 ブランが言った。
 寿命だなんて……。ケイナはわずか33歳ではないか。眠り続けていた7年分をくわえても40歳だ。あまりにも早すぎる。
「知らせる手段はいくらでもあっただろう」
 ユージーが思わず非難めいた口調で詰め寄ったので、ブランが悲しそうな表情で彼を見た。
「ごめんなさい。……船には、一切の通信機器はないの……」
「それでも…… それでも、今、ここに戻って来ているんだ。その前に戻る手段がなかったわけじゃ……」
 言い募ろうとして、ユージーは言葉を切ると口を引き結んだ。
 もう、何を言っても遅い。ケイナはいない。
「……ごめんなさい」
 彼の辛そうな表情に、ブランは微かに頬を震わせた。
「ケイナは…… 苦しまなかったんだな」
 搾り出すような声で言うユージーの顔を息子のケイナが見た。
「ええ。伯父さん……」
 その言葉にユージーの顔が歪んだ。彼は腕を伸ばすと、半ば乱暴に引き寄せてケイナの息子を抱きしめた。初めて見る父親の姿に娘のサナがびっくりしたような顔になり、ティが鼻をすすりあげる。
「……アシュアは?」
 カインがブランに目を向けて尋ねると、ブランは横のダイにちらりと視線を向けて再びカインを見た。
「父ももうあまり長くないの。母がずっとそばについています。……ごめんね、カインさん…… 約束を守れなくて……」
 カインはうなずいた。泣くまいと必死になって涙をこらえた。
 ブランはそんなカインを見つめながら数歩彼に近づいた。
「ここにいられる時間はそんなにないの。だから言うわ」
 全員が彼女に目を向けた。
「お願いがあるの」
 ブランはちらりとダイを振り向いた。ダイはそれを見てうなずいてみせた。
「わたしたち、あと80年しないうちに全員いなくなるの」
 カインは彼女の顔を無言で見つめた。
「この子を……」
 ブランは『ケイナ』に目をやった。
「ケイナをこの星に置いてやって」
 カインは思わずユージーの顔を見た。ユージーもびっくりしているようだ。
「あの機は一度きりの往復しかできないの。置いていくなら今しかない」
「どうして……」
 つぶやくカインを見てブランは頬を震わせた。
「ケイナとセレスの願いは、できればこの星にいることだったの。ふたりは何も言わなかったけれど、わたしたちには痛いほど分かってた」
 ブランはこぼれそうになった涙を慌てて指でぬぐった。
「みんなそうよ……。この星で生きていきたかった。でも、あたしたちはだめなの。帰れない。だけど、この子はもう星に負担をかけないから」
 カインはかつてのケイナにそっくりな少年に目をやった。
「彼には『グリーン・アイズ』がもうないの」
 ブランは言った。
「皮肉な話よね。『グリーン・アイズ』の血を引くふたりが普通に子供を生んだら、『グリーン・アイズ』ではなくなるのよ。遺伝子操作じゃなくて、普通に子供を産んだら。こんなこと…… なんでもっと早く……」
「彼にはもう『グリーン・アイズ』の遺伝子がないんです」
 泣き出してしまったブランの代わりにダイが口を開いた。
「ぼくらと同じ船に乗る理由がない」
「今…… いくつになるの?」
 震える声でカインは『ケイナ』に尋ねた。
「18です」
 彼は答えた。アキラと同じ歳だ。ユージーに目を向けると、彼は小さく息を吐いた。
「こっちから連れて行くなと言うところだった」
 ユージーは妻のルージュの顔を見た。ルージュは一瞬戸惑ったような表情を浮かべたが、すぐにうなずいた。
「そうね。これで父も納得するんじゃない?」
 そして娘のサナを見た。
「お兄さんが欲しかったんでしょ? ユイが羨ましいって言ってたじゃない?」
 その言葉にアキラがサナに目を向けるとサナは真っ赤になった。
「うちがいいわ」
 ユイが言った。
「ねえ、お父さん、うちに来てもらって」
 彼女は『ケイナ』に走り寄ると彼の手をとった。サナの顔に不安が浮かぶ。
「お任せしていいですか」
 ダイの言葉にカインはうなずいた。
「もちろんです」
「なんだかひと悶着起きそうな気もするけど?」
 アキラが睨み合っているサナとユイをちらりと見て笑って言った。
 ブランとダイはひとりひとりにノマドのキスをした。
 『ケイナ』はかなり長い間、ブランとダイを抱きしめていた。
 歳は離れているが、3人はおそらく兄姉同然に育ってきただろう。かつてのケイナがリアやトリと過ごしたように。
「『ノマド』には別れの言葉がないの」
 ブランは言った。
「本当は見送りもしないの。また会えると思うから。今回は一度きりの例外よ」
 泣きながら笑みを見せて彼女はそう言うと、ダイと一緒に背を向けた。
 ふたりが乗り込み、飛び立って機影が見えなくなるまで、全員がずっと砂浜でそれを見送った。
 これで本当にさようならになる。
 ケイナ、セレス、アシュア、リア。今までありがとう。
 最後に大きな贈り物をくれた。
 カインはケイナそっくりの少年が空を見つめている横顔を見て思った。
 『ケイナ』はカートの家に引き取られた。
 ユージーは養子にはしなかった。サナと結婚させたいという思惑があったのかもしれない。
 だがその思惑は外れて、サナはカインの息子アキラと結婚した。サナは昔からアキラのことが好きだったようだ。
 『ケイナ』はクルーレのあとを継いでその仕事を担っていたが、飲み込みの早い彼はあっという間に頭角をあらわした。彼がユージーの跡を継ぐのかどうかは分からないが、カートを担う重要な人間になっていくことは間違いないだろう。
 アキラと『ケイナ』は、年齢が同じということもあって気が合うようだった。
 ふたりとも多忙だったのでなかなか会うことはできなかったが、『ケイナ』は時間ができればアキラのオフィスに訪れた。父親のケイナと違って息子の『ケイナ』はかなり社交的だ。ケイナと同じ顔でにこにこ笑う彼を見ているとカインは面食らってしまうことがある。屈託のない性格はきっとセレスから譲り受けたのだろう。
「『ケイナ』がこっちに来ると、面倒臭いんだよ」
 アキラは一度カインにこぼした。
「あの顔であの愛想の良さは、どうかしたほうがいいんじゃないかと思える。若いスタッフの女の子たちが騒ぐからうるさくって。カートでも大変なんじゃないかな」
 カインは思わず苦笑した。
「さっさと身を固めさせたら。ユイなんかどう」
 アキラの言葉にカインはかぶりを振った。
「そりゃ、無理だろう」
 ユイは医師免許を取得して仕事に燃えている。彼女が結婚する気になるのは相当先の話になりそうだ。
 『ケイナ』は来るたびにカインにいろいろと話をしてくれた。
 『ケイナ』の声は生前のケイナとよく似ていた。言葉の多さがなければケイナ自身が話しているような気持ちになる。
 彼にとって父親はとても怖い存在であったらしい。
 だが、よく手を繋ぎ、抱きしめてくれたと『ケイナ』は言った。
 言葉数が少なく態度も素っ気無い父の愛情をそれで感じることができた。
「母は父が亡くなってから、『先に眠らないでと言ったのに』とこぼしていました。どうも父とそういう約束をしていたみたいです。母が食べ物を受けつけなくなったのは、母の意志じゃなかった。体がそういう状態になっていったんです。『グリーン・アイズ』の血は、そんな定めがあったのかもしれません。次世代であるぼくには既に父と母の特化した遺伝がありません。『グリーン・アイズ』は、子孫を残すと長生できず、あっという間に滅びる種だったんだろうと長老は言っていました」
 『トイ・チャイルド・プロジェクト』は失敗に終わるプロジェクトだった。
 『グリーン・アイズ』の血を残すためには、相手は『グリーン・アイズ』であってはならなかった。
 しかし、そうすると『グリーン・アイズ』は自らの死に伴侶の死を伴わせることができず、吊り合うだけの死を周囲に求める。呼ぶ声だけを頼りに危うく生きていくしかない。
 危険な因子を消すためには混血を許すことができなくなる。でも、同じ血の者同士で子孫を残すと『グリーン・アイズ』は消えてしまう。結局、行き詰った種だったのだ。
 多くの犠牲を生みながら自然は結局人の手で作られた無理な種の存続を許さなかった。
「父は亡くなる前日、目が覚めると明日が来る、と言いました」
 『ケイナ』は言った。
「……独り言みたいでした。怖い言葉だなと思った」
 彼は目を伏せた。
「どういう意味なのか、あの時はよく分からなかった。でも、ここに帰って来てから怖くなくなった。うまく言えないけど…… なんだかずっと父や母と手を繋いでいるような気がする。父と母はこの青い星の大気と水に溶け込んでいるように思うんです。心から愛したこの星の上の命として。目が覚めると明日が来る、と思うとほっとする……」
 そう言って、『ケイナ』は空を仰いだ。
 父親の形見のピアスが耳元で揺れた。


 ある星間機が、地球からはかなり離れた宇宙空間で浮遊する古びた一隻の船を見つけた。
 中に入ってみたが誰もいなかった。
 船を航行させるための循環設備は、船の古さからは想像もできないほど優れた技術が駆使され、見た者を驚かせた。
 中にいたとおぼしき者の痕跡を探るために計器やコンピューター類を作動させてみたが、全てのデータは消去され、誰がいたのか、何のために航行していたのかは分からずじまいだった。
 同じ船があと十数隻あったことを知っている者は誰もいなかった。
 最終的に昔の遭難船と判断され、船は処分された。

 カインとユージーが他界して50年後のことだった。

END

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:0

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

Toy Child -May This Voice Reach You-
厚哉/著

総文字数/665,955

ミステリー160ページ

本棚に入れる
表紙を見る
KIRIE
厚哉/著

総文字数/76,482

現代ファンタジー48ページ

本棚に入れる
表紙を見る
ひとひら
厚哉/著

総文字数/3,996

ヒューマンドラマ1ページ

本棚に入れる
表紙を見る

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア