全員が息を詰めて『彼』を見つめていた。
『彼』はセレスをじっと見つめたあと、切り落とされたほうの腕を動かしかけ、そして気づいて「ああ、そうか」という表情を微かに浮かべた。
その目をケイナに向けた。彼の視線の意図を感じてケイナは顔をこわばらせ、その後小さくかぶりを振った。『彼』はそれを見ると一瞬目を伏せ、片手でサーベルを構えながらゆっくりと後ずさりし、離れていった。
やがて端まできて、あと一歩で後ろがなくなるというときに『彼』は足を止めた。
はるか下に底の見えないダム湖の水面が広がっている。
『彼』は笑みを浮かべた。
「瞬きを数回」
『彼』は言った。
「それだけでも、会えて良かった」
穏やかな笑みを浮かべながら、サーベルを持つ手がゆっくりとあがり、その刃が首にかかる寸前、『彼』は大きく後ろに倒れ込んだ。
それはあっという間の出来事だった。
セレスはケイナが小さな呻き声を残しながら走り出して『彼』に飛びかかるのを見た。
次の瞬間には2人も視界から消えた。
全員が慌てて壁の端に駆け寄った。巨大な壁を伝いながら落ちていくふたりの姿が見えた。軌跡のように血の筋が延びていく。セレスの悲鳴が響きわたった。
一緒に飛び込んで行きそうになるセレスを必死になって抑えながら、カインはヴィルのエンジン音とともに、アシュアが勢いよく壁の上から飛び出すのを見た。足元をなくしたヴィルは落下していったが、アシュアは大きな水の柱を立ち上げてふたりが湖中の沈んでいくのを見ることしかできなかった。
「お母さん」
小さな声で自分を呼ぶ声にリアははっとして目を開けた。
泣き出してしまったティに肩を貸しているうちに眠ってしまったらしい。
横を見るとティは自分の肩に顔をもたせかけたまま静かな寝息をたてていた。
リアは彼女をそっとソファに横たえ、立ち上がるとブランとダイを見下ろした。
「終わったの?」
ふたりはリアを見上げてうなずいた。
「そっか……」
リアはティの顔を見た。
「ごめんね……」
腰を落としてティの頬に垂れかかった髪をそっと指でかきあげた。
「だって、あたしも辛かったし」
あっという間に涙が溢れた。
「もっと一緒におしゃべりしたかった……。お買い物もしたかった。あなたに何かプレゼントをしたいと思っていたわ。カインとの結婚式だって見たかった……」
リアは子供のようにしゃくりあげると目を拭った。
「ティ、カインと仲良くね。元気でね」
そっとティの口の端にキスをした。
それを見て、ダイとブランも小さな唇を彼女の口の端につけた。
ティは全く起きる気配がない。それが『ノマド』の守護だ。彼女は目が覚めると同時に戻ってきたカインの姿を見るだろう。
ティは立ち上がってブランとダイに手を差し伸べた。
「行こうか」
ふたりともうなずいて左右から彼女の手をとった。
「さよなら。ティ」
「お姉ちゃん…… バイバイ」
3人はオフィスをあとにした。小さな木箱が閉まるように、ドアがコトリと音をたてた。
ケイナは必死になってハルドに手を伸ばしたが、血に濡れた左手は彼のサーベルを持つ手を掴んではくれなかった。
深く食い込んでいく刃がハルドの首を切っていく。彼の首から細くほとばしる血がどんどん自分の後ろに流れていく。
「ハルドさん……」
ケイナは呻いた。
「ハルドさん、手を……!」
そう叫んだ途端、水の中に勢いよく突っ込んだ。
無数の泡が自分の周りに広がる。
ケイナは泡の向こうでハルドの体が暗い湖の底に赤い筋を残しながらどんどん沈んでいくのを見た。もう、どんなに手を伸ばしても届かなかった。
ハルドさん……。あなたを取り戻したかった……
ケイナは心の中でつぶやいていた。
ハルド・クレイは、最期にセレスに会いたかったのかもしれない。
『グリーン・アイズ』の血の宿命を無理矢理起こされた彼が『自分自身』に戻ることができる時間はわずかしかなかったのだろう。彼の願いは、そのわずかな隙に無事に目覚めたセレスの顔を見ることだったのかもしれない。
でも……。
ケイナはどんどん遠ざかっていく水面を見つめた。
誰にも死んで欲しくなかった。
生きていて欲しかった。
透明な水の中に広がる泡が光の粒のように見えた。
この泡は、どうしていつまでも消えずに自分の周りにあるのだろう。
不思議と水の冷たさは感じなかった。
ダフル…… ごめんよ。
きみを死なせてしまったのに、おれはハルドさんを助けようとしてた……。
ケイナはぼんやりと考えていた。
この光景、どこかで見たことがある。
ああ、そうか……。
『ノマド』のコミュニティで見た光景だ。
トリが見せたラストシーンだ。
ゆっくりと目を閉じた。
おれは結局、『ノマド』のシナリオ通りに動いてしまったんだな……。
―― ラストシーンじゃないよ…… ――
トリの声が聞こえた。
―― 時間はまだ止まってはいないんだよ…… ――
自分の頬を何かが撫でていった。目を開くと、ダフルの作った木組みの人形が、自分の首から抜けていこうとしていた。
(もう一度、これを持って戻って来い)
クルーレの言葉を思い出し、はっとして腕を伸ばした。人形を掴んだと思ったとき、再び声が聞こえた。
―― ケイナ、変なこと言わないでくれよ ――
ダフルの声だ。
―― ごめんだなんて。そんなこと考えてたの? ――
ふふふ、と覚えのある笑い声がする。
―― 人形、ちゃんと父さんに渡してくれた? 約束は守ってくれよ? ――
人形を掴んだ左手の感触が人の手の感触になった。誰かがしっかりと自分の左手を握る。
目を凝らすと、人懐こい目が笑っていた。
―― きみと一緒にいた時間は楽しかったよ。きみに会えて良かったと思ってる。
しっかりしなきゃ。ちゃんと手を握るんだよ ――
ダフルの手は温かかった。
―― お兄ちゃん ――
ブランの声がした。
ダフルの手が離れて今度は小さな手が自分の手を握るのを感じた。
ブラン……?
ケイナは目を凝らした。リアそっくりの泣き出しそうな笑みが見えた。
ブラン……。おまえには分かってたのか? ハルドさんは…… どうしてもだめだったのか……?
―― あの人は本当ならずっとずっと昔に眠ってたはずだったの ――
だから、帰らなきゃいけなかったの――
でも……。
水の中をブランに引かれながらケイナは言った。
でも、生きていた……
―― あの人はもう眠りたがってたの。無理矢理起こしちゃ可哀想だよ ――
でも…… それは誰かが決めることじゃない……
―― うん……。そうだよね…… ――
寂しそうに、ブランは答えた。
―― お兄ちゃん ――
彼女の栗色の髪が水の中で羽のように広がっている。
―― あたしたちと一緒に帰ろう ――
帰る……? どこに?
―― 遠い、遠いところに ――
……遠いところ……?
―― あたしたちは帰ることにしたの。だからお兄ちゃんも一緒に行こう ――
帰る……。
ケイナは彼女の顔を見つめた。
帰るところって……?
おれに帰るところなんか、あるんだろうか。
―― お兄ちゃん ――
ブランは言った。
―― お兄ちゃんにはまだ手を繋いであげないといけない人がいるんだよ ――
ブランの手に力がこもった。
―― 約束したんじゃないの? しっかりして ――
ブランの手が覚えのある手の感触に変わった。
―― どこかで、手を繋いだこと、あったよね ――
細い指。細い肩。緑色の目。大切な声。
―― もう、ひとりになろうとしないでね ――
光が見えた、と思った瞬間、顔が水面に出た。
「ケイナ!」
誰かが自分の左腕を力強く掴むのを感じた。喘ぎながら顔を向けると、ヴィルに乗ったアシュアが顔を歪めていた。
「もう…… 助けられなかったと後悔するのは…… 嫌なんだよ……」
彼はケイナを引っ張り上げながら涙声で言った。
『彼』はセレスをじっと見つめたあと、切り落とされたほうの腕を動かしかけ、そして気づいて「ああ、そうか」という表情を微かに浮かべた。
その目をケイナに向けた。彼の視線の意図を感じてケイナは顔をこわばらせ、その後小さくかぶりを振った。『彼』はそれを見ると一瞬目を伏せ、片手でサーベルを構えながらゆっくりと後ずさりし、離れていった。
やがて端まできて、あと一歩で後ろがなくなるというときに『彼』は足を止めた。
はるか下に底の見えないダム湖の水面が広がっている。
『彼』は笑みを浮かべた。
「瞬きを数回」
『彼』は言った。
「それだけでも、会えて良かった」
穏やかな笑みを浮かべながら、サーベルを持つ手がゆっくりとあがり、その刃が首にかかる寸前、『彼』は大きく後ろに倒れ込んだ。
それはあっという間の出来事だった。
セレスはケイナが小さな呻き声を残しながら走り出して『彼』に飛びかかるのを見た。
次の瞬間には2人も視界から消えた。
全員が慌てて壁の端に駆け寄った。巨大な壁を伝いながら落ちていくふたりの姿が見えた。軌跡のように血の筋が延びていく。セレスの悲鳴が響きわたった。
一緒に飛び込んで行きそうになるセレスを必死になって抑えながら、カインはヴィルのエンジン音とともに、アシュアが勢いよく壁の上から飛び出すのを見た。足元をなくしたヴィルは落下していったが、アシュアは大きな水の柱を立ち上げてふたりが湖中の沈んでいくのを見ることしかできなかった。
「お母さん」
小さな声で自分を呼ぶ声にリアははっとして目を開けた。
泣き出してしまったティに肩を貸しているうちに眠ってしまったらしい。
横を見るとティは自分の肩に顔をもたせかけたまま静かな寝息をたてていた。
リアは彼女をそっとソファに横たえ、立ち上がるとブランとダイを見下ろした。
「終わったの?」
ふたりはリアを見上げてうなずいた。
「そっか……」
リアはティの顔を見た。
「ごめんね……」
腰を落としてティの頬に垂れかかった髪をそっと指でかきあげた。
「だって、あたしも辛かったし」
あっという間に涙が溢れた。
「もっと一緒におしゃべりしたかった……。お買い物もしたかった。あなたに何かプレゼントをしたいと思っていたわ。カインとの結婚式だって見たかった……」
リアは子供のようにしゃくりあげると目を拭った。
「ティ、カインと仲良くね。元気でね」
そっとティの口の端にキスをした。
それを見て、ダイとブランも小さな唇を彼女の口の端につけた。
ティは全く起きる気配がない。それが『ノマド』の守護だ。彼女は目が覚めると同時に戻ってきたカインの姿を見るだろう。
ティは立ち上がってブランとダイに手を差し伸べた。
「行こうか」
ふたりともうなずいて左右から彼女の手をとった。
「さよなら。ティ」
「お姉ちゃん…… バイバイ」
3人はオフィスをあとにした。小さな木箱が閉まるように、ドアがコトリと音をたてた。
ケイナは必死になってハルドに手を伸ばしたが、血に濡れた左手は彼のサーベルを持つ手を掴んではくれなかった。
深く食い込んでいく刃がハルドの首を切っていく。彼の首から細くほとばしる血がどんどん自分の後ろに流れていく。
「ハルドさん……」
ケイナは呻いた。
「ハルドさん、手を……!」
そう叫んだ途端、水の中に勢いよく突っ込んだ。
無数の泡が自分の周りに広がる。
ケイナは泡の向こうでハルドの体が暗い湖の底に赤い筋を残しながらどんどん沈んでいくのを見た。もう、どんなに手を伸ばしても届かなかった。
ハルドさん……。あなたを取り戻したかった……
ケイナは心の中でつぶやいていた。
ハルド・クレイは、最期にセレスに会いたかったのかもしれない。
『グリーン・アイズ』の血の宿命を無理矢理起こされた彼が『自分自身』に戻ることができる時間はわずかしかなかったのだろう。彼の願いは、そのわずかな隙に無事に目覚めたセレスの顔を見ることだったのかもしれない。
でも……。
ケイナはどんどん遠ざかっていく水面を見つめた。
誰にも死んで欲しくなかった。
生きていて欲しかった。
透明な水の中に広がる泡が光の粒のように見えた。
この泡は、どうしていつまでも消えずに自分の周りにあるのだろう。
不思議と水の冷たさは感じなかった。
ダフル…… ごめんよ。
きみを死なせてしまったのに、おれはハルドさんを助けようとしてた……。
ケイナはぼんやりと考えていた。
この光景、どこかで見たことがある。
ああ、そうか……。
『ノマド』のコミュニティで見た光景だ。
トリが見せたラストシーンだ。
ゆっくりと目を閉じた。
おれは結局、『ノマド』のシナリオ通りに動いてしまったんだな……。
―― ラストシーンじゃないよ…… ――
トリの声が聞こえた。
―― 時間はまだ止まってはいないんだよ…… ――
自分の頬を何かが撫でていった。目を開くと、ダフルの作った木組みの人形が、自分の首から抜けていこうとしていた。
(もう一度、これを持って戻って来い)
クルーレの言葉を思い出し、はっとして腕を伸ばした。人形を掴んだと思ったとき、再び声が聞こえた。
―― ケイナ、変なこと言わないでくれよ ――
ダフルの声だ。
―― ごめんだなんて。そんなこと考えてたの? ――
ふふふ、と覚えのある笑い声がする。
―― 人形、ちゃんと父さんに渡してくれた? 約束は守ってくれよ? ――
人形を掴んだ左手の感触が人の手の感触になった。誰かがしっかりと自分の左手を握る。
目を凝らすと、人懐こい目が笑っていた。
―― きみと一緒にいた時間は楽しかったよ。きみに会えて良かったと思ってる。
しっかりしなきゃ。ちゃんと手を握るんだよ ――
ダフルの手は温かかった。
―― お兄ちゃん ――
ブランの声がした。
ダフルの手が離れて今度は小さな手が自分の手を握るのを感じた。
ブラン……?
ケイナは目を凝らした。リアそっくりの泣き出しそうな笑みが見えた。
ブラン……。おまえには分かってたのか? ハルドさんは…… どうしてもだめだったのか……?
―― あの人は本当ならずっとずっと昔に眠ってたはずだったの ――
だから、帰らなきゃいけなかったの――
でも……。
水の中をブランに引かれながらケイナは言った。
でも、生きていた……
―― あの人はもう眠りたがってたの。無理矢理起こしちゃ可哀想だよ ――
でも…… それは誰かが決めることじゃない……
―― うん……。そうだよね…… ――
寂しそうに、ブランは答えた。
―― お兄ちゃん ――
彼女の栗色の髪が水の中で羽のように広がっている。
―― あたしたちと一緒に帰ろう ――
帰る……? どこに?
―― 遠い、遠いところに ――
……遠いところ……?
―― あたしたちは帰ることにしたの。だからお兄ちゃんも一緒に行こう ――
帰る……。
ケイナは彼女の顔を見つめた。
帰るところって……?
おれに帰るところなんか、あるんだろうか。
―― お兄ちゃん ――
ブランは言った。
―― お兄ちゃんにはまだ手を繋いであげないといけない人がいるんだよ ――
ブランの手に力がこもった。
―― 約束したんじゃないの? しっかりして ――
ブランの手が覚えのある手の感触に変わった。
―― どこかで、手を繋いだこと、あったよね ――
細い指。細い肩。緑色の目。大切な声。
―― もう、ひとりになろうとしないでね ――
光が見えた、と思った瞬間、顔が水面に出た。
「ケイナ!」
誰かが自分の左腕を力強く掴むのを感じた。喘ぎながら顔を向けると、ヴィルに乗ったアシュアが顔を歪めていた。
「もう…… 助けられなかったと後悔するのは…… 嫌なんだよ……」
彼はケイナを引っ張り上げながら涙声で言った。