Toy Child2 -I Want You To Hold My Hand-

 カインは水差しに水を汲んでサイドテーブルに置き、ブランの顔を覗きこんだ。
「ブラン、2時間ほどオフィスに行ってくる。また戻るから」
 そう言うと、ブランはいやいやと首を振った。カインは身をかがめて彼女の髪を撫でてやった。
「本当に戻るよ。約束する」
「行っちゃだめ……」
 懇願するような口調だった。カインはため息をついた。
「じゃあ、1時間」
 しかし、ブランは首を振った。
「行っちゃだめなの……」
 カインはしばらく思い悩みながら彼女の髪を撫でていたが、結局立ち上がった。
 寝室を出る前にブランの小さな泣き声が聞こえたので可哀想だと思ったが、振り切るようにして部屋をあとにした。
 オフィスに入ったカインに気づいてティがすぐにやってきた。『ホライズン』に送ったにしては早すぎると思ったのだろう。
「ブランは?」
「熱を出したみたいだ。ぼくの部屋で寝かせてる」
「ひとりで置いてきたの?」
 ティは目を丸くした。
「リアとは連絡をとったんだけど、そのままでいいと言うし……」
 ティのことだから、必ず抗議すると思った。案の定彼女は口を開きかけたが、デスクの通信音が鳴ったので、彼女は不機嫌そうに口をつぐんだ。
「出社していたか。良かった」
 ヨクだった。ティをちらりと見上げると、彼女は口を引き結んでカインを見ていた。
「ウォーター・ガイドとの契約はうまくいったよ。昼食会をする予定だったんだが先方の都合でキャンセルになった。で、別件が入ったんだ。サウスエンド医療グループの代表がきみに会いたいと言ってる。出られるか? 12時半からなんだが」
 時計を見ると11時半だった。出られないと答えるわけにはいかないだろう。カインはうなずいた。
「分かりました」
「じゃあ、あと15分ほどしたらそっちに着くから、エントランスまで降りてきてくれるか?」
 ヨクがモニターから消えたので、カインは上着をとりあげた。
 その様子を見つめるティの視線とカインの目がぶつかった。
「ブランはどんな様子なの?」
「熱が出てる」
 カインは上着に腕を通しながら答えた。
「どのくらいの熱?」
「計ってない」
「どうかしてるわ……」
 ティはかぶりを振った。
「それで放っておいて仕事に行っちゃうの? リアさんを呼ぶべきよ。」
「ティ……」
 カインは眉をひそめて彼女を見た。
「リアがそのままにしておけと言ったんだ。彼女はできるだけ早くこっちに戻ると言ってる」
 『ノマド』の夢見のことを彼女にどう説明すればいいのかカインには分からなかった。何をどう言ってもティは納得しないだろう。
「サウスエンドにはアプローチしていてなかなかアポイントがとれなかったんだ。先方からのリアクションを断るわけにはいかないよ。それくらいきみにも分かるだろう」
 カインは引き出しの奥からクルーレが用意してくれた銃を取り出すと、上着の内側につけたホルダーに入れた。ティは険しい目でそれを見ていた。
「そんな状態でやらなきゃならない仕事って、いったい何なの」
 彼女はつぶやいた。カインはその顔をちらりと見て無言でデスクを離れた。
 部屋から出ようとするカインの背にティは言い募った。
「ブランのこと、心配じゃないの?」
 カインは足をとめて少し振り返った。
「じゃあ、時間があるときでいいから、きみが時々見てやって」
「最低」
 ティが思わず声をあげたが、カインは構わずオフィスを出た。

 心配じゃないわけないだろ……。カインは心の中でつぶやいた。
 エレベーターに乗り込んでひとりになった途端、ため息が漏れた。
 できるんなら、リアが来るまで一緒にいてやりたいよ。
 ブランには1時間といったのに、結局戻らないことになる。
 たぶん、自分の子供ができたってこういう生活になるのかもしれない。
 ティが最後に自分に向けた「最低」という言葉が胸を突いた。
 エントランスに着いて振り切るように足を踏み出したとき、カインは思わず立ち止まった。
 上階よりはるかに冷たい空気を感じたからだ。
 周囲を見回した。
 いつもと変わらない人の群れとざわめきの波。
 空調だってちゃんと効いている。……いや、効いているはずだ。
 だのに、どうしてこんなに空気が凍えているのだろう。まるでクラッシュアイスをばらまいたような冷たさだ。
 訝しく思いながら歩き出し、自分で気づかないうちに懐の銃を確認していた。
(勝てないって。青い目のお兄ちゃんに)
 ブランの言葉が思い出される。
 まさか、とカインは心の中でつぶやいた。
 こんな人ごみの中でいくらなんでも。
 でも、あいつはユージーを狙って撃った。
 心臓の鼓動が速くなった。
 吹き抜けの3階部分や、この広いエントランスの端から、もしあいつが狙っていたら自分には視線も殺気もきっとキャッチできないだろう。
 強烈な緊張感の中でヨクの姿を見つけた。
「カイン、こっちだ」
 ヨクはカインの姿を見つけて、いつもと変わらない表情で手をあげた。カインは早足で彼に近づくと、その腕を掴んだ。
「どうした?」
 カインの表情に気づいたヨクは目を細めたが、カインはそれに構わず彼の腕を掴んだままエントランスを飛び出した。
「どうしたんだ?」
 もう一度ヨクが尋ねたがカインは答えなかった。
 凍えた空気が消えた。

 サウスエンドを出たときには午後5時近くになっていた。
「いい手ごたえだったな。先方はきみのことをえらく気に入っていたみたいだ」
 ヨクは上機嫌だった。サウスエンドと契約を結べばエアポートの事件での損失もほぼ相殺されるかもしれない。ヨクが上機嫌なのも当然だった。
 カインはプラニカに乗りこむとすぐにティのオフィスに連絡を入れた。
「急ぎの連絡事項はありません」
 ティは事務的に答えた。
「No.42の最終結果が出ましたので、お戻りになられましたら報告書を見てもらいたいそうです」
「なんか、機嫌悪い?」
 ヨクが運転をしながらティの声の調子に気づいてつぶやいた。
「ブランは熱が下がったわよ」
 ティは画面の向こうでかすかにカインを睨みつけて言った。
「ずっとあなたの名前を呼んでいたわ」
 カインは無言だった。
「ブランが熱を出したのか?」
 ヨクが口を挟んだ。
「ええ。39度も出ていたわ。こんな子供を放り出して出て行くなんて信じられない」
「言ってくれりゃあよかったのに」
 無責任に言うヨクをカインは思わず険しい目で睨んだ。
「2時間くらい前だったかしら、リアさんが戻ってきたの。お母さんの顔を見たら安心したみたいで、すがりついて泣いていたわよ」
「15分くらいで戻る」
 カインはそう言って強引に画面を切った。向こうでティが憤慨しているだろうが、もう何を話す気もなかった。
「喧嘩でもしたのか?」
 ヨクが気遣わしげに尋ねてきた。カインはそれには答えず窓の外に目を向けた。
 ゆっくりと夕刻の色になっている。
 苛立たしいとも、情けないともつかない気分に陥った。
 どうしてこんなことで不信感を抱き合わねばならないのだろう。
 ティはなぜぼくのことを信じてくれない?
 ぼくはどうして彼女なら説明をすれば分かるはずだと信じてやれない?
 カインは外の景色を眺めながら思った。
 そのときには、出るときに感じた冷気のことを忘れていた。
 だから、駐車場にプラニカが入り、ビルの中に足を踏み入れた途端、カインはその冷たい空気を再び感じて緊張状態に陥った。
(まだいる? まさか……)
 ヨクはいつもどおり慣れた様子でエレベーターに乗り込んだ。
「どうした? 行くぞ?」
 彼が不思議そうな顔をしたので、カインは慌ててエレベーターに飛び乗った。
 ここからはエントランスは通らない。そのままオフィスのある上階に向かう。
 3階を過ぎてから視界が開けた。シースルーの壁から周囲の建物に灯り始めた明かりが見える。
「日が暮れるのが早くなったな……」
 ヨクは外を見てつぶやいた。
 隣のエレベーターが下から昇ってくるのが見えた。カインはヨクの肩越しにそれを眺めていた。空気が冷たい。ヨクはそのことを感じないのだろうか。
 9階で一度エレベーターが止まってドアが開いたが、誰も乗ってくる気配がないのでヨクがドアの外に顔を突き出して不思議そうな顔をした。その後ろで隣のエレベーターが追い越していくのを見たとき、カインは冷たい空気を吸い込んで心臓までが凍りついたように思った。
 青い目が、すれ違う一瞬の間にカインを捉えてかすかに笑った。
 カインは慌てて昇っていったエレベーターを目で追った。
 3階ほど上で止まっているようだ。
「どうしたんだ」
 ヨクが怪訝な顔をしたが、カインはそれには答えることができなかった。
 どうしたら……。どうしたらいいだろう。
 ヨクの顔を見た。
 彼と一緒にいるのはよくないんじゃないだろうか。
 自分と一緒にいると彼も巻き込まれる可能性がある。
「なに?」
 ヨクは相変わらず不思議そうな表情だ。彼の頭の中には今、仕事がうまくいったという喜びしかないだろう。
 エレベーターが再び動き始めた。隣のエレベーターは3階上でそのまま止まっている。カインは咄嗟に4階上の停止を表示させた。
「ヨク、忘れものをした」
「忘れ物?」
 ヨクはカインの言葉を聞いて首をかしげた。
「出る前に見たけど……」
「ぼくのプラニカだ。取りに行ってくる」
 ヨクは少し不審そうだったがうなずいた。忘れ物を取りに行くのに、なぜ4階上でエレベーターが停まるようにしたのか、そこまでは頭が働かなかったようだ。
 その間にエレベーターは隣のエレベーターを追い越していった。1階上ならお互いに相手の動きが分かる。
 ヨクじゃなくて、ぼくについて来い。おまえが狙っているのはぼくだろう?
 カインは祈るような気持ちでこちらを見あげる青い目を見た。
 開いたドアに向かうと、青い目も降りる姿が見えた。
「すぐ帰る」
 カインはヨクにそう言うなりエレベーターから走り出した。
(行っちゃだめ……)
 寝室を出る前にブランがつぶやいた言葉を思い出した。
 ブランは予見していた。彼が来ることを。
(行っちゃだめなの……)
 カインは銃を引き抜くと、非常階段の扉を開けて階段を飛び降り始めた。
 12階から10階はホールばかりがあるフロアだ。12階では今日は何も行われていない。
(勝てないって。青い目のお兄ちゃんに)
 ブラン……。
 12階のドアを開けてカインは口を引き結んだ。
「でも、もう、どうしようもないだろ……」
 ずきずきする頭の中で何度も聞こえるブランの声にカインは答えた。
 12階には人の気配が全くなかった。
 青い絨毯が敷いてある広い通路にうっすらとダウンライトがついている。
 両側に並んでいるガラス貼りのホールの中も同じように明かりがついているが誰もいない。広い空間が広がっているばかりだ。空間を挟んで向こうに外の景色が見えていた。
 あいつは追ってきていないのだろうか。カインは前方と背後に注意しながらゆっくりと歩いた。
 ここのフロアは櫛の目のように通路が走っているが、見通しはいい。特にイベントのない日は壁のガラスが透けたままになるので人の姿はすぐに分かる。それなのに誰もいない。いるのは自分だけだ。
 もし、あいつがヨクを追っていたら?
 いやそんなはずはない。彼は降りた。
 じゃあ、見失ったのだろうか。
 後ろを見ていた顔を前に向けたとき、いきなり自分の横の壁のガラスが大きな音を立ててこなごなに砕けた。カインは思わず腕をあげて頭をかばった。
 離れていたのでガラスはかぶらなかったが、大きな警報の音が響くのが分かった。それがカインを余計に緊張に陥れた。警報が鳴ったということは人が来るということだ。つまり、自分は人が来る前にカタをつけられるということになる。
 反対側のガラスが再び大きな音をたてて割れた。
 カインは舌打ちをすると、急いでガラスになっていない壁に身を寄せた。
 いたぶられている、と思った。
 本当なら一発で済むところを関係のないところを撃っている。
「早くしろよ、人が来るだろ……」
 かすれた声でつぶやきながら周囲を見回したが、やはり人の気配を感じることができなかった。いったいどこで狙っている……。
 次の瞬間、足に猛烈な熱を感じて床に転がった。撃たれたと知ったのは倒れたあとだった。
「つう……」
 顔をしかめて身を起こすと、通路の向こうに初めて人の姿を見た。
 ダウンライトの下に立ったその姿を見たとき、体中が総毛立った。
 金色の髪に青い瞳。彼は銃をこちらに構えて立ち止まった。
「ふふっ……」
 薄情そうな口元に笑みが浮かび、彼は小さな笑い声を漏らした。
「おまえ、誰だ!」
 カインは足の痛みをこらえながら身を起こして銃を構えて言った。
 体重をかけた途端に撃たれた右足から猛烈な痛みが頭の先まで貫いていった。
 倒れるものか。絶対に。
 カインは歯を食いしばった。
 こいつはユージーを撃った。絶対に許せない。
「おまえは…… 誰だ!」
「ケイナ」
 彼は言った。
「ふざけやがって……」
 そうつぶやいた途端、カインの銃は弾き飛ばされていた。右手の甲が焼けた。
 冗談じゃない。こっちは一発も撃ってないっていうのに。
 痛みに顔を歪めながら無駄と分かりつつ、床に落ちた銃に手を伸ばそうとしたとき、再び手を撃たれた。今度は反対側の手だ。呻いた途端に右肩に熱を感じて倒れた。
 足と両手と肩。体中に響く痛みに起き上がることすらできない。
 こいつ、普通じゃない。
 捕まえた虫の足を一本一本むしりとるような危険な気配がする。
 何発も急所を外されながら弄ばれる自分の姿が脳裏に浮かんだ。
 熱で皮膚をえぐりとられた両手の甲からじくりと血が滲みだしているのが目に入った。
 もうだめだ、そう思ったとき、カインは自分の体を飛び越す黒いブーツの足を見た。
 足は弾かれたカインの銃を蹴り、その銃が弧を描いて空中を飛んで誰かの左手にキャッチされるのをカインは目で追った。
 手が銃を握った、と思った途端、すさまじい勢いで銃が連射されたので、あちこちでガラスが弾け、破片が飛び散った。自分の周囲に降り注ぐガラスにカインは思わず呻き声を漏らして身を縮ませた。
 しばらくして音がなくなり、カインは自分の顔の前にコトリと銃が置かれるのを見た。
 顔をあげてその手の先を見て呆然とした。
「7年もたつと、銃も性能がよくなるんだな」
 自分を見下ろす青い目をカインは見た。
「ケイナ……」
 かすれた声でつぶやくと、ケイナは小さく笑った。

 大慌てで駆けつけたヨクに連れられてビル内の病院で手当をしたあと、オフィスに戻ったカインはドアのところで思わず立ちすくんだ。
 ずらりと並んだ顔。
 ケイナ、アシュア、リア、ブラン、ティ、そしてアンリ・クルーレ。
 どうしてクルーレまでがここにいるのだろう。
 しばらくして、ケイナとアシュアを迎えに行ったのがクルーレ自身だったのだと思い当たった。
「ご無事でなによりです」
 ヨクに手を貸してもらいながらソファに腰をおろすカインにクルーレは言った。
「あなたがわざわざケイナとアシュアを?」
 カインが尋ねるとクルーレはうなずいた。
「カート社長の命令ですから」
「カート社長は意識を回復したのか?」
 ヨクがびっくりしてクルーレを見た。クルーレはヨクの顔に目を向け、それから呆然としているカインに再び視線を戻した。
「リィ社長、黙っていて申し訳ありませんでした。ユージー・カートはもうだいぶん前に復帰しています」
「……いつ?」
「意識を回復したのは、撃たれて1週間後です。左目の視力が若干落ちたのと、まだ歩行に難がありますが、1ヶ月ほどで復帰されました」
 ユージーが復帰した……。
 カインはほっと息を吐いた。
「良かった……」
「あなたのそういうところにカート社長も惚れこんでいるんでしょうね」
 怪訝そうに自分を見るカインに、クルーレは幽かに笑みを浮かべた。
「カート社長はよくあなたの話をします。普通なら、まず真っ先になぜ黙っていたと怒ってもおかしくない」
「おれは腑に落ちてないよ」
 ヨクは不機嫌そうに口を挟んだ。
「どうして今まで知らせてくれなかったんです?」
 クルーレは彼に視線を移した。
「復帰を対外的に口にしたのは、ここが初めてです。今はまだ『A・Jオフィス』も、『ゼロ・ダリ』も、もちろん世間も知らない」
「どうして『A・Jオフィス』にまで……」
 ヨクはつぶやいたが、クルーレはそれには答えず、カインに視線を戻した。
「あなたを襲った男、あなたはどうご覧になりますか?」
「どうって……」
 クルーレの言葉にカインは視線を泳がせ、自分の両手に巻かれた包帯に目を向けた。
 両方の手の甲に長さ10センチほどの焼け跡、右足にも肩にも同じような跡があった。
 皮膚をえぐりとられたような傷だったが、薬を塗れば1ヶ月程度で完治する。キイボードを打つときに多少支障があるだろうが、化膿止めと痛み止めを服用しながらだと、日常生活は何とかこなせるだろう。とはいえ、同じような傷を体中につけまくられていることが苛立たしかった。
「……こっちに決して近づいて来ない。ぼくの狙える距離を知っているみたいだった。そのくせ向こうは遠くからピンポイントで狙ってくる。……楽しそうに笑っていた。ケイナと同じ顔で。自分のこともケイナだと言っていた」
 クルーレには目を向けずにカインがそう答えると、それを聞いたティが身を震わせたので、リアが彼女の肩を抱いてやった。
「リア、ティと一緒に彼女のオフィスで待ってろ」
 アシュアがそう言ったので、リアはうなずいてブランの手を引いてティと一緒に部屋を出て行った。
「同じ顔で…… ね」
 クルーレがそれをちらりと見送りケイナを振り返ると、ケイナは不機嫌そうな表情で視線を床に落とした。
「腕はたいしたことないよ」
 ケイナはつぶやいた。カインはケイナに目を向けた。
 ケイナの姿をじっくり見るのはこれが初めてかもしれない。
 痩せて髪が短くなっているが、7年前の彼とあまり変わらないように見えた。むしろ、痩せた分だけ前より顔つきが精悍な感じになったかもしれない。
 義手義足という手足も服で覆われているとはいえ、言われても疑問を感じるほど全くそれと分からない。
 そう…… あいつの髪は長かった。今のこのケイナではない。
 7年前のあのときのケイナの姿だった。
「あれはたぶん銃の性能だ。銃だけでなけりゃ、腕が覚えていくのかもしれない……」
 ケイナは視線を床に向けたまま言った。
「腕が覚える?」
 アシュアが目を細めた。ケイナは肩をすくめた。
「おれと同じ、つくりものの腕だってこと」
「義手? なぜそんなことがわかるんだ……」
「単に勘でそう思っただけだ。狙う時間を与えなければ意味ない。でなきゃ、超接近戦。どっちにしても…… たいしたことない」
 カインは息を吐いた。だからケイナはあのときひたすら銃を撃ちまくっていたのだろうか。
 たいしたことはない、というのはケイナだから言える言葉なのかもしれない。
「結局、その男はどうしたんだ?」
「おれが追った」
 ヨクの問いにアシュアが答えた。
「だいぶん警備を配置していたけど、あっという間に消えちまった。逃げ足も人並みじゃねえよ」
 ヨクはそれを聞くと、クルーレをちらりと見て不機嫌そうに黙り込んだ。
 あんたの部下は今ひとつ使い物にならないんじゃないの? と言いたそうな表情だったが、さすがに口に出すのはためらわれたようだ。
「あなたは何か心当たりがあるんですか?」
 カインはクルーレを見上げて尋ねたが、彼は小さくかぶりを振った。
「正体は掴めていません」
 ケイナが彼の言葉に反応してちらりと視線を向けた。
「ケイナとアシュアは『A・Jオフィス』の人間に手引きされて『ゼロ・ダリ』を出ています」
 クルーレは言った。
「その者は出る前にケイナの治療に関するデータを『A・Jオフィス』に送り、なおかつ『ゼロ・ダリ』からは全て消去しています」
 クルーレの言葉にアシュアはナナと話したときのことを思い出した。
(わたし、『ゼロ・ダリ』を出る前に『A・Jオフィス』にごっそり情報流してきた)
 ナナは確かそう言っていた。
「データを流したのは、そのときだけではありません。数年前から少しずつ『A・Jオフィス』にデータを流出させています。ケイナが『ゼロ・ダリ』に行く前から。その話は長く我々には伏せられていた。カート社長はそのことを知ってから『A・Jオフィス』にも『ゼロ・ダリ』にも、必要な治療が終わったらケイナのデータの破棄を要求してきました。撃たれたのはその矢先です」
「それがカインが狙われる理由とどう繋がるんです?」
 ヨクが眉を潜める。
「『A・Jオフィス』はカートと『ゼロ・ダリ』の共同出資で買収計画たててましたよね? それがカート社長の狙撃で休止になった。『A・Jオフィス』が『ゼロ・ダリ』の情報を入手するのはそれなりの理由があったんだろうが、そこはリィとは関係のないことのはずだ」
 カインの言葉にクルーレはうなずいた。
「そうです。ただ我々とリィの共通点がひとつだけあります」
 カインはそれを聞いて目を細めた。
「……『トイ・チャイルド・プロジェクト』? データ破棄要求に、リィも加担していると思われた……?」
 カインがつぶやくと、ヨクが身を前に乗り出した。
「『トイ・チャイルド・プロジェクト』はもう終わったプロジェクトだ」
 彼は憤慨したように言った。
「情報も何も残っていないんだぞ?」
「残っています」
 クルーレは答えた。カインはクルーレを鋭い目で見た。
「ケイナとセレス……?」
「そう、それと、ブレスレットとネックレス」
「でも、今はもうダウンロード先には何も情報がない。治療のためにおろした時点で消去してます。ブレスレットとネックレスの記録メディアも持っているのはユージーだけのはずです」
 カインは眉をひそめた。
「それ以外に何か情報収集方法があったかもしれません。あるいは持ち出されたか」
「それはない」
 カインはきっぱり言った。
「プロジェクトの終了と同時に全てのデータは厳重な管理のもので破棄されました。ぼくが最後まで見届けています」
 そこで束の間、言葉を切った。
「……もっとも……。人の頭の中までは消去できないけれど」
 実際、カイン自身は覚えている。しかし、それは今後の管理のために頭に叩き込んだものだ
 カインとクルーレの会話を聞きながら、アシュアは首をかしげた。
 ブレスレットとネックレス……。ブレスレット……。
 この話最近どこかで聞いたような気がする……。
 そしてはっとした。
「待って、それさ…… クレイ指揮官のブレスレットじゃねえ?」
 アシュアの言葉に全員が彼の顔を見た。
「クレイ指揮官のブレスレット?」
 カインがつぶやくと、アシュアはこくこくとうなずいた。
「『アライド』でクレイさんに会うんだって言ったろ? あのとき、奥さんが言ったんだ。クレイ指揮官に渡したはずの形見のブレスレットがないから探してくれって、おれ、頼まれたんだよ」
 クルーレがカインの顔を見たので、カインはかぶりを振った。
「クレイ指揮官のブレスレットは、指揮官がアライドに行ったときにはすでに見当たらなかったみたいだぞ?」
 アシュアの言葉にカインは困惑した。
「ぼくはクレイ指揮官がブレスレットを持っていたという情報も持っていなかった。クレイ指揮官をアライドに亡命させたのはカートだったでしょう。そっちでは情報を持っていなかったんですか?」
 カインの言葉にクルーレはかぶりを振った。
「持っていません」
 クルーレを見たままカインはソファにもたれこんだ
「クルーレ」
 ケイナがふいに口を開いた。全員がケイナに目を向けた。
「回りくどい言い方するなよ。あんたほかに情報を持ってるんじゃないの?」
 射抜くようなケイナの視線にクルーレは眉を吊り上げた。
「それとも、カインにカマかけようとでもしてんのか?」
 ケイナは壁から背を離すとクルーレに歩み寄り、彼を見上げた。ケイナからするとクルーレはかなりの大男だ。
「『トイ・チャイルド』の資料が流出しても、元の媒体はあの氷の下でおれは全部壊してきたし、おれやセレスが生まれて来るまでに何十年もかかってるんだ。『グリーン・アイズ』もいない」
 クルーレは黙ってケイナを見下ろしていた。
「プロジェクトを再開させるつもりなら、おれとセレスを手に入れているやつが一番有利ってことになるじゃないか」
 ケイナは言った。それでもクルーレは黙っていた。
「カートは全員で『トイ・チャイルド』を独占再開させようとしているんじゃないのか?」
「ケイナ」
 カインが思わず口を挟んだ。
「ユージーはそれを一番望んでいないんだぞ」
 ケイナはカインの顔を見たあと、視線をクルーレに戻した。クルーレはケイナの顔を見てかすかな笑みを浮かべた。
 なぜ笑う? ケイナは目を細めた。
「ユージーが『A・Jオフィス』にケイナの治療情報の破棄を求めたのは、ケイナの遺伝子情報も一緒に出てしまうことを恐れたからですよね?」
 カインが尋ねると、クルーレはうなずいた。
「ええ。そうです。しかし、ケイナが言ったとおり『トイ・チャイルド・プロジェクト』はデータだけがあっても再開できるものではない。『ゼロ・ダリ』にも『A・Jオフィス』にもそこまでの経済的体力はないでしょう。もちろん地球のカートにもない。ただ、あくまでも単独再開で、という前提です」
 じゃあ、リィは?
 カインは視線を泳がせた。
 クルーレはそう聞きたいのか? ケイナの言うように何かを探ろうとしている?
「あなたを襲ったやつがケイナの言うように本当に作られた腕の持ち主ならば、『ゼロ・ダリ』は限りなく黒に近い灰色だ。現に『ゼロ・ダリ』でケイナは義手をつけられているのだから。だが、わたしはエイドリアス・カートはひとりで大きなことができるような能力の持ち主ではないと思っています。つまり、『ゼロ・ダリ』と組んでいる何者かがあるということになります」
 アシュアは記憶の中のエイドリアス・カートの顔を思い出した。確かに狡猾そうだが、肝っ玉は小さそうな気がする。
「その組んでいる相手が『A・Jオフィス』である可能性もあるということですか?」
 カインは尋ねたが、クルーレは肩をすくめた。
「今のところその可能性は低いでしょうが、全くの白、とも言えません」
 彼はそう答えると目の前に立つケイナの顔を見た。
「きみは、あの短い時間によく相手のことを分析していたね。たいしたものだ」
「それはどうも」
 ケイナは答えた。
「でも、あんたは絶対ほかに何か知ってるはずだ」
 クルーレは無言だった。
「本当のことを言わないあんたは好きになれない。子供扱いされるのも嫌いだ」
 ケイナはそう言い捨てるとクルーレの脇をすり抜けて部屋を出ていってしまった。
「ケイナは変わってないな……」
 カインがため息まじりにぽつりとつぶやいた。
「とにかく、身を守る対策をたてたほうがいい。今は関わる全員が狙われる可能性があります。プロジェクトの再開を望まない者はきっと相手にとっては邪魔な存在だ」
 クルーレの言葉にカインは目を伏せて小さくうなずいた。
 ケイナは薄暗いエレベーターホールに行くと、隅に置いてある椅子に腰掛け足を小さなテーブルの上に乱暴に乗せた。
 仏頂面で横のガラス張りの外に目を向けた。
 もうすっかり夜だ。小さな光の群れしか見えない。
 クルーレは何か隠してる。でも、それが見えない。ユージーはそのことを知っているんだろうか。
 人の気配がしたので、そちらに目を向けると女の子の姿が見えた。
 栗色の長い髪にちょっと泣き出しそうな顔。
 ブランだ。
 彼女はケイナに近づくと、その表情とは裏腹に、ケイナのテーブルに乗せた足を指差して強い口調で言った。
「お行儀が悪い」
 ケイナは無言で彼女から目を逸らせた。
「足、下ろしなさい」
 再び言ったがケイナが無視をしたので、彼女はケイナの足を叩いた。ケイナはうっとうしそうな表情でブランを見た。
「あっちに行け」
 そう言い捨てると再び彼女から目を逸らせた。
「勝てそう?」
 ブランは小首をかしげてケイナの顔を覗きこんだ。
「あの青い目のお兄ちゃんに」
 ケイナは黙っていた。
「あの青い目のお兄ちゃんには、青い目のお兄ちゃんしか勝てないってダイが言ってた」
「夢見か」
 ケイナは興味がなさそうにそうつぶやいた。
 ふいに組んだ腕にブランが手を伸ばしたので、ケイナはぎょっとした。
「触るな」
 拒んだが、ブランは両手でケイナの組んだ腕をひっぱってなんとかほどこうとする。
「なんなんだよ……」
 顔に不快感を滲ませてケイナは言ったが、ブランは全身の力をこめて腕を引っ張った。
「手、繋がせて」
「うるさいな」
「つな…… っ…… がせ…… っ…… てっ!」
 ブランはようやくケイナの腕をほどくと、すばやく彼の左手を掴んだ。ケイナは眉をひそめてそれを振り払うと立ち上がった。
「ぶん殴るぞ」
「お兄ちゃんはそんなことしない」
 ブランはケイナを見上げてそう言うと、再び彼の手をとった。振りほどこうとはしなかったが、ケイナはブランを険しい目で見つめた。
 ブランはケイナの手を両手でぎゅっと掴むと、その甲に自分の額を押しつけた。
 小さく温かな感触がケイナの手に伝わった。
 しばらくふたりはその状態でいたが、やがてケイナが口を開いた。
「ブラン」
「ん」
 ブランは小さな声で答えた。
「やめておいたほうがいい」
 ブランは顔をあげた。怒りが解けたケイナの顔があった。
「おまえの後ろにたくさんの夢見たちが繋がってるんだろうけど、出口が小さかったらドアが壊れる」
 ブランは小さな口を尖らせて俯いた。ケイナはその顔の高さまで身をかがめて彼女の顔を覗きこんだ。
「セレスと手を繋いだんだろ? そのときだって辛かったんだろ?」
「お兄ちゃん」
 ブランは言った。
「今日、お兄ちゃんのお部屋にお泊りして一緒に寝てもいい?」
 ケイナはブランの顔を見つめて、小さくかぶりを振った。
「だめ」
「怖くない?」
 ケイナはかすかに笑った。
「怖いよ。でも、自分でなんとかする」
 ブランはケイナの青い目をじっと見つめた。
「あたし、明日帰っちゃう。なにかしてあげなくちゃ」
 ケイナは少し目を伏せたあと、再びブランの顔を見た。
「辛いこと、無理にやらなくてもいいよ。もう十分頑張っただろ?」
 ブランの口がゆがんで、目にみるみる涙が溜まった。
「おれの前で泣くな」
 ケイナは言った。
「泣くんだったらリアかアシュアんとこに行け」
 ブランはこくんとうなずいて服の袖口で目をこすった。
「お兄ちゃん」
 ブランはケイナの青い目を見つめて言った。
「お兄ちゃんは緑のお姉ちゃんが好きなんだよね?」
 ケイナは少しびっくりしたような顔でブランを見た。
「あのね、緑のお姉ちゃんがふたりいるの」
 ブランは右手の人差し指を立てるとケイナの額にその指先をつけた。
「ひとりはね、このへんにいるの」
 そして今度はその指をケイナの胸のあたりに落とした。
「もうひとりのお姉ちゃんはね、このへんにいるの」
 ケイナは無言で彼女の顔を見つめた。ブランは指をもう一度ケイナの額につけた。
「あたしね、こっちのお姉ちゃんだと思ってたの。だからこっちのお姉ちゃんを起こしちゃったの。カインさんをずっと呼んでたから、カインさんの髪をもらったの。……でも、間違えちゃった……」
 ブランの目に再びじわりと涙が滲んだ。
「お兄ちゃんと手を繋いで分かったの。あたし、間違えちゃった。ごめんなさい……」
 ケイナは彼女が何のことを言っているのか分からなかった。セレスとはまだ会ってもいない。
「こっちのお姉ちゃんはお兄ちゃんを呼んでる。どうしたらいいんだろ……」
 泣き出しそうな声で話すブランの小さな手がケイナの胸に当てられた。ケイナはその手を見た。
「ブラン、もういいよ」
 ブランが小さくしゃくりあげた。
「泣くなって言ったろ」
「うん」
 ブランはまた袖口で目をこすった。そしてケイナの左手を再び持ち上げた。
「お兄ちゃん、勝つと思う。でも、緑のお姉ちゃんが呼んでくれるまで大変かもしれない」
「うん……」
 ケイナはつぶやいた。
「大丈夫だよ」
「お兄ちゃん」
 ブランはワンピースのポケットをさぐると、苦労して何かを取り出した。
「これ」
 彼女はそれをケイナに差し出した。ノマドの剣。柄しか見えない剣だった。
「渡しなさいって言われてたの」
 ケイナはうなずくと、彼女の手から剣を受け取った。
「お兄ちゃん、あたしのこと嫌いになったりしない?」
 ブランは少しおずおずとした口調でケイナの顔を覗きこんで尋ねた。
「なんで?」
「間違えちゃったから……」
 ケイナは小さく笑った。
「ブランは何も悪くない」
「あたしのこと怒ってない?」
「怒ってない」
 ブランの顔にほっとしたような笑みが浮かんだ。
 その彼女の肩越しに、アシュアの姿が見えた。
「こんなところにいたのか。どこに行ったのかと思った」
 アシュアを振り返るなり、ブランは彼のところに走りこんでそのまま大声を張り上げて泣き出した。アシュアが険しい目をケイナに向けた。
「おまえ、子供相手に……」
 ケイナに詰め寄ろうとするアシュアの足をブランは叩いた。
「お父さん、違う! お兄ちゃんじゃない!」
 アシュアは困ったようにブランを見て、彼女を抱き上げた。
「じゃあ、なんで泣いてるんだよ」
 ブランはそれには答えず、アシュアの首に腕を回してさらに泣いた。アシュアがケイナに目を向けると、彼はその視線から逃れるように目を伏せた。
「とりあえず、今日は軍のほうで護衛をしてくれるそうだ。おまえも休めとさ。ティが部屋に案内してくれる。明日からカインのそばにいることになるぞ」
 アシュアは言った。そしてブランを抱いたままケイナに背を向けた。


「今は最低限のものしかありませんけど、必要なものがあればそろえますからおっしゃってください」
 ティはケイナを部屋に案内して言った。
「カインさんの部屋は隣です。何かあれば部屋の通信音とこれが鳴ります」
 彼女はそう言って、小さな腕時計型の軍用通信機をテーブルの上に置いた。たぶんクルーレが置いていったのだろう。
 ケイナは部屋を見回した。記憶にある『ライン』の部屋よりずっと広い。
 あの小さなブースの仕切りが全て取り払われたほどの大きさのリビング、壁一面の大きな窓、椅子とテーブル、ソファ、コンピューターの置いてあるデスク……。
 もちろん、自分の住んでいたアパートよりも広い。
「こちらは寝室になってます」
 ティは奥のドアを指差して言った。
「クローゼットの中に部屋着も入っています。明日、クルーレさんがあなたのサイズに合う軍服を持って来られると思います。そのほうが動きやすいからとおっしゃってましたけど……」
 ティはケイナの顔を見て小首をかしげた。
「何か好みがあるんでしたら、そろえますよ?」
 ケイナはそれには答えず、ガラス張りの壁に寄った。
「ここ、閉めるときどうすんの」
「ウィンドウ」
 ケイナの問いにティは言った。一瞬のうちに透明なガラスが曇った。
「開くときも同じ。曇っていれば開くし、開いていれば曇るし。壁のモニターはオープンとクローズで。ほかの言葉に変えることもできます。もちろん手動も可能です」
 ケイナはティに目を向けず、興味がなさそうに小さくうなずいた。
「アシュアとリアさんは向かいの部屋です。わたしは一階下の左側の一番奥。ヨクはその対面です」
 ティはそう言うと、言葉を切った。
 ケイナの姿をまじまじと見つめて、この子はなんて綺麗な子なんだろうと思った。
 全身が美術品のようだ。人目も惹くだろうし、愛想が良ければ女の子にもてるだろう。それなのに妙に反抗的な態度はやはり18歳という年齢だからだろうか。
「あの……」
 彼女は口を開いた。ケイナの目がこちらを向いた。
 ぞくりとするほどの鋭い目にティは思わず目を伏せたが、顔をあげて思い切って口を開いた。
「あなたはクルーレさんを好きじゃないって言ってたけど…… あの人はいい人よ。あなたのことも迎えに行ってくれたんでしょう?」
 ケイナはデスクの端に体重を預けると、腕を組んで彼女の顔を見た。かすかに首をかしげて、いったい何を言い出すんだろうという表情だ。
「わたしのこともとても心配してくれたの。あの人はあなたの思うような人じゃないと思うわ。嘘をつくような人でもないわ」
 ティはそう言って、再び目を伏せた。
「……わたしが言うことじゃないかもしれないけど」
 ケイナはかすかに肩をすくめた。
「クルーレはユージーの命令で迎えに行ったって言ってた」
彼の言葉にティは思わずケイナの顔を見た。
「わたしが言うのはそれだけのことじゃないわ。これまでだってずっといろいろ尽力してくださってたのよ。今日だって警備をつけてくれてるわ」
「あんたさ……」
ケイナはかすかに首をかしげると、身を起こしてティに近づいた。
「クルーレはユージーの部下だって分かって言ってるの?」
「分かってるわ」
見上げるほどにケイナが近づいてきたので、ティは少し後ずさりながら答えた。
「ユージーは1週間で意識を回復したって言ってただろ。そりゃ、すぐにしゃべれたわけじゃないだろうけど、クルーレが自分の意思で動いたのは7日だけだ」
「あとは全部カート社長の命令だというの?」
 ケイナは顔をそむけるとティから離れてソファにどさりと腰掛けた。
 背もたれに肘をかけて馬鹿にしたように見上げる仕草が小憎らしい。
 実際にはケイナはそんなつもりで彼女を見上げたわけではなかったが、ティは彼の表情が無機質なだけに馬鹿にされているような気分に陥った。
「おれはいい人とか悪い人とかそんなことで言いたいことを選別したりしない」
 ケイナは言った。
「彼はたぶんユージーの右腕で有能な人なんだろうと思う。でも、おれは恩とか義理とかそんなの関係ない。それで言いたいことを押し込めてたら動かせるものも動かせない。カインだっておんなじだ」
 ティは言い返すことができず口をゆがめた。たかだか18歳の子供に言い負かされてしまったことが悔しかった。
 ケイナはしらけたような表情でティから目をそらせた。
「カインさんが一生懸命になっていたっていうのに…… こんな生意気な子だなんて思わなかったわ」
 ケイナのうっとうしそうな視線がこちらを向いた。
「カインさんは一生懸命だったのよ、あなたのことをずっと心配して!」
 ティは言った。悔しさのあまり気持ちを抑えることができなくなっていた。
「どんなに命令だっていっても、クルーレさんはあなたを迎えに行ったのよ。こっちはエアポートの事件でどれだけ混乱していたか分かってるの? その中であなたを迎えに行ったのよ? どうしてそんな言い方しかできないの?」
「おれに、どうして欲しいの?」
 彼の言葉にティは顔を歪めた。
「なんなの、それ……」
「あの状態でクルーレにぺこぺこ礼を言ってなんの意味があるんだよ」
 ティは口を震わせた。
 信じられない。この子は感情が欠落しているわ。
「おやすみなさい」
 ティはくるりと身を翻すと足音をたてて部屋を出て行った。
 ケイナはため息をついてソファに身を沈めた。
 彼女とはあまりうまくいきそうにない。
「ひねくれた子」とナナもつぶやいていた。
『ライン』にいたときは「無愛想」と言われたが、場所が変わると「ひねくれた」「生意気」人間になった。
 ケイナは顔をあげて視線を宙に泳がせた。
 ……いや、そんなことよりクルーレだ……。
 クルーレはユージーの直属の部下だ。ユージーの命令なしに個人で動くことはない。軍人世界のカートの一員ならなおさらだ。
 でも、彼は絶対何か知っている。
 7年前の自分を鏡で見るようなあの男。
 なんでおれのコピーみたいなやつがおれの前に現れる?
 どうしておれの姿でないといけないんだ?
 ケイナはブランが渡してくれたノマドの剣を取り出した。
 この剣を最後に持ったとき、とても後悔した。
 もう誰とも戦いたくないと思った。
 殺めたくない人を殺めなければならないような気がする。
 今はそれもただの予感でしかなかった。
 ケイナは翌日『ホライズン』で検査を受けた。必要な情報はドアーズに渡された。
「義手や義足のシステムは今すぐにこちらでは詳細が把握できないが、ほとんどもう自由に動くようだし、痛みがなければ大丈夫なのではないかな?」
 ドアーズはケイナの右手に触れながら言った。
「それにしてもこんな精巧な腕ができるとはねぇ……」
 ドアーズはつぶやいた。確かにむき出しになったケイナの義手は、見ただけでは義手とは分からない。一緒についてきたアシュアも不思議そうにケイナの腕を眺めている。
「必要な治療も全て完了しているようだし、そうだね、あとはたくさん食べて体力をつけるくらいかな」
 ドアーズはそう言うと笑った。
「長く眠って痩せてしまっているからね。これから少しずつ取り戻しなさい」
 ドアーズはそう言って、まるで孫でも見るような目でケイナの顔を見てまた笑った。案外彼にはケイナくらいの孫がいるのかもしれない。
 ケイナ自身はにこりともしなかったが、ドアーズはあまりそういうことは気にならないようだ。
「あの……」
 アシュアが口を挟んだ。
「セレスに会えますか? こいつに会わせてやりたいんだけど」
「ああ、それはもちろん」
 ドアーズはアシュアを見て立ち上がった。
「あのお嬢ちゃんも帰ってしまったし、ひとりでいると思う。寂しがっているかもしれん」
 リアはブランをコミュニティに送って行くために今日はセレスのそばにはいない。
「セレスの記憶はどうなんですか?」
 セレスの部屋に向かう廊下でアシュアはドアーズに尋ねた。アシュアもセレスが目覚めてから初めて会うことになる。どういう状態なのか心配だった。
「記憶はどうもあいまいなようだね。リアはどうしても昔のことを言いたがるんだが、セレスも困惑するようなのであまりたくさん情報を与えないようにと指導させてもらっているよ」
 ドアーズは答えた。
「まあ、一時的なものだと考えているがね。脳の損傷もないし、体も健康だ。一番心配するのは、かつて自分は男だったのに、今は女性として生きなければならないのだと悟ったときかもしれん」
「セレスの今はどっちなんですか?」
 アシュアは言った。
「あ、ええと、リアクションが男なのか女なのかってことなんですけど」
「女性だよ」
 ドアーズはこともなげに言った。
「最初から女性の感じだ。それがちょっと不思議でもあるが」
 ケイナは黙ってドアーズの言葉を聞いていた。
(お兄ちゃん、ごめんね、あたし間違えちゃった……)
 ブランの言葉が蘇る。ブランはいったい誰と間違えたというのだろう。
 セレスの部屋の前でドアーズは立ち止まった。
「なんだか、今日の午後から軍の警備が入るらしいが?」
 彼がアシュアを見上げたので、アシュアはうなずいた。
「ええ。ちょっといろいろあって、ここも警護をしたほうがいいと思うので」
「そうですか」
 ドアーズはあっさり納得したらしい。彼はドアを開いた。
 部屋は前にアシュアが入ったときとはずいぶん変わっていた。
 計器類はなくなり、普通の居住スペースになっている。いわゆる病室らしい雰囲気は一掃されていた。
「リアがそろえてくれたよ。なかなかいい雰囲気だ」
 ドアーズはそう言いながら足を踏み入れた。
 いい雰囲気かな? アシュアは首をかしげた。いたるところに観葉植物や花が置かれている。床の敷物は妙にノマドのテントのような模様だし、家具類も無骨だ。わざわざこういうものを選んだのだとしたら、リアのセンスはとても都会的とはいえないだろう。
「セレス、お客さんだよ」
 セレスは部屋の隅に置かれたベッドの上に腰をかけてぼんやり窓の外を見ていた。
 ドアーズの言葉に振り返った彼女を見て、ケイナは足を止めた。
(グリーン・アイズ……)
 思わずそうつぶやきそうになった。
 緑色の長い髪、細い手足、大きな目。セレスだけれどセレスじゃない。
 セレスの中に『グリーン・アイズ』が入っている。ケイナは確信した。
 ブランは彼女とセレスを間違えたのだ。でも、いったいどうして。
 セレスは立ち上がって3人に向き直ると、少し怯えたような表情を見せた。
「セレス、元気か」
 アシュアは身をかがめるとセレスの顔を覗きこんだ。
「おれの嫁さんといつも一緒にいただろ? リアと」
「リア?」
 セレスは小首をかしげてアシュアを見た。アシュアは『グリーン・アイズ』を知らない。彼の頭の中ではあくまでセレスはセレスなのだろう。
「うん。そうだよ」
 アシュアは笑ってみせた。セレスの顔にかすかな安堵の笑みが浮かんだ。
「ごめんな、ブランは今日、家に帰ったんだ。明日からまたリアが来るから」
「うん。大丈夫だよ」
 セレスは答えた。その口調は以前のセレスだ。
「ブランはそろそろ帰って休まなくちゃ」
「だいぶん話せるようになったね」
 ドアーズが言うと、セレスは嬉しそうに顔をほころばせた。
「リアのおかげ。前はね、あんまり口が動かなかった。でも、ときどき男の子みたいなことを言っちゃだめって叱られる」
 これもセレスだ。
「いろいろ記憶が混乱している部分があるのかもしれないね。焦ることはないよ」
 ドアーズは優しく言った。
 セレスはケイナに目を向けた。アシュアは気を使ってセレスの前から体をどかせた。
 ケイナはこれまでセレスのことを一切口にしなかった。
 セレスのことを考えると自制心がなくなりそうだったからだ。
 だからあえて思い出したくなる気持ちを抑えていた。
 今、目の前にいる彼女を見て、手を伸ばして触れたいと思うのにどうしてもそれができない。
「セレス、ケイナだよ」
 アシュアが黙っているケイナに代わって言った。
「……ケイナ……」
 セレスはケイナを見上げた。
「きれいな目……」
 そうつぶやくとセレスの手がゆっくりとケイナの頬に伸びた。細い指が頬に触れて、ケイナはぞくりとしたものを背筋に感じた。
「赤いピアス……」
 彼女がそうつぶやいたので、アシュアがびっくりした。
「覚えてるの?」
 しかし彼女は首を振った。
「ううん。なんだかそんな気がしただけ。つけてたの?」
 ケイナの耳に空いた小さな穴を見つけてセレスは尋ねた。ケイナは困惑したように目を伏せた。赤いピアスにはあまりいい思い出がない。
「ピアスが似合いそう……」
 ケイナは曖昧にうなずいた。そしてしばらくして口を開いた。
「セレス……」
 その途端、セレスの手が弾かれたように引っ込められた。大きな目に不安が宿り、ケイナから身を遠ざけると両手を握り締めてせわしなく周囲を見回した。
「カイン」
 セレスはつぶやいた。そしてドアーズのほうを向いた。
「ドアーズさん、カインさんはいつ来るの?」
 アシュアが困惑したようにドアーズの顔を見た。ケイナは無言でセレスの様子を見つめている。
 ドアーズはセレスに近づくと、彼女の顔の高さに身をかがめた。
「ご子息は忙しい方だから、なかなかここには来ることはできないんだよ」
「来てくれないの?」
 セレスは不安そうに言った。
「カインさんに会いたい」
 ドアーズはアシュアを振り返った。アシュアは困ったような表情になった。
 カインは同行したがったが、山のような仕事で身動きがとれなかったのだ。
「あの人、怖い」
 セレスはケイナをちらりと見てつぶやいた。
「あの人の声…… 怖い」
 アシュアがケイナの顔を見ると、ケイナはかすかに眉をひそめていた。
「カインさんなら……」
「今日はこれくらいにしましょうか。あまり混乱させるとよくない」
 ドアーズが身を起こして言った。
「あ、じゃあ、おれたち帰ります」
 アシュアは慌てて言った。送ろうとするドアーズを彼は手で押しとどめた。
「帰れます。セレスを見てやってください」
 アシュアは突っ立ったままのケイナの腕を掴むと、そそくさと部屋を飛び出した。
「ごめん、ケイナ、こんなことになるとは……」
 部屋から出るなりうろたえたように言うアシュアの顔を、ケイナはかすかに笑みを浮かべて見た。
「アシュアのせいじゃない」
「う…… うん、でも……」
「あれ…… セレスじゃないよ」
 ケイナはそう言うと背を向けて歩き出した。アシュアは慌ててあとを追った。
「セレスじゃないって…… どういうこと」
「昨日、ブランが言ってたんだ」
 ケイナは歩きながら言った。
「ブランが? 何を?」
 ケイナはアシュアの顔を見上げた。
「『間違えて起こした』って」
「……」
 アシュアは訳がわからないというように彼の顔を見た。
「あれは『グリーン・アイズ』の娘だ」
 アシュアはまだ分からないようだった。
 ケイナはそれきり何も言わなかった。
 カインのオフィスに戻ると、彼はティと書類を前に話をしていた。
 ふたりが帰って来たことに気づいてカインが顔を向けるとティも振り返り、ケイナの姿を見てかすかに眉をひそめた。
「じゃあ、それで伝えます」
 彼女はそう言うと書類をとりあげそそくさとオフィスを出ていった。
 アシュアはティの後姿を怪訝な顔で見送った。いつものティなら「お帰りなさい」と笑顔で言うからだ。
「ごめん、忙しかったか?」
 カインを振り向いて言った。
「いや、一段落ついたところだ」
 カインの表情はいつもと一緒だ。
「どうだった?」
 彼がデスクから立ち上がってソファに向かったので、アシュアとケイナもそれに続いた。
「ケイナの体の具合は特に問題ないみたいだ。とりあえず食って体力つけろってさ」
「そう、良かった」
 アシュアの言葉にカインはほっとしたような顔でケイナを見た。
「ぼくのガードはきみにしてもらったほうがいいとクルーレは言っていたけれど、あちらからもビル内の警護にかなりの人数を出してくれるようだから…… 無理はしなくていいよ」
 ケイナはかすかにうなずいただけだった。カインはその顔を覗きこむように見た。
「『ノマド』に帰りたかったら…… それでもいいよ?」
「それは考えてない」
 即座にケイナが答えたので、カインはうなずいた。
「セレスがいるしな……」
 目を伏せてそうつぶやいて、再びケイナを見た。
「『ホライズン』で、会った? セレスに」
 アシュアはケイナの横顔を見た。ケイナは考え込むような顔をしている。
 カインはその表情を見て眉をひそめた。
「何かあったのか?」
「『グリーン・アイズ』」
 ケイナはそう言ってカインの顔を見た。カインの表情が変わった。
「やっぱり気づいてた?」
 ケイナが尋ねると、カインはかぶりを振ってソファにもたれこんだ。
「いや…… そう考えたこともあったけど…… 確信を持ってたわけじゃない」
「なんで『グリーン・アイズ』の娘だって分かるんだ?」
 アシュアがふたりの顔を交互に見て言った。
「カインを呼ぶから」
 ケイナは答えた。アシュアはまだ怪訝そうだ。
「『グリーン・アイズ』は死ぬまでずっとカインと声だけで交信し続けてたんだ。頭の中で」
 ケイナの言葉にカインは視線を落とした。あの時の記憶は思い出すたびに辛くなる。
「カインと会いたかったんだよ……」
 ケイナはつぶやいて目を伏せた。
「いや、でも……」
 アシュアは口を開きかけて視線を泳がせ、額に手を当てた。
「『起こし間違えた』? ブランが?」
 彼はケイナの顔を見た。
「じゃあ、本当のセレスはまだ眠ったままってことか?」
 ケイナは口を引き結んで何も言わなかった。
「どうなってんだ……」
 アシュアはため息をついた。
「もう一度ブランを呼び戻そうか?」
「それでも父親かよ」
 ケイナはじろりとアシュアを見た。
「ブランが死んじまうぞ」
 アシュアは口をつぐんだ。
 しばらく沈黙が続いたあと、アシュアが再び口を開いた。
「あのさ…… セレスが『グリーン・アイズ』の女の子の記憶になってて、何が一番問題になる?」
 その言葉にカインとケイナが同時に目を合わせて、同時に逸らせた。
「いや、あの、だって、とりあえず元気になっていってるんだし、『間違えた』ってことは、なにも元のセレスの記憶がなくなったってわけじゃないんだろ? だったら時間かければ記憶は戻るんじゃないか?」
 カインは大きく息を吐いて窓に目をやった。
「困ったな……」
 そうつぶやいて、アシュアの鈍感さにはつくづくあきれかえると心の中で付け足した。
 ケイナもたぶん分かっているのだろう。
 分かっているけれど、とても口に出せない。
『グリーン・アイズ・ケイナ』は目が覚める前からひたすらカインの名前を呼び続けた。目が覚めてからはカインの姿を追い求めた。
 カインの顔を自分の目に焼きつけるように眺め、肩を抱いて笑みを浮かべた。
 それが何を意味していたのか。
 カインが求められても決して応えてやることができない「愛情」だ。
 助けられなかったと悔やみ続けたカインの傷口に、セレスの姿を借りて彼女は入り込もうとしている。
 モニター越しに見たセレスは時々以前のセレスを思い出させる仕草をした。
 つまり、セレスは完全に眠っているわけではない。
 アシュアの言うように、もちろん身体的にはセレスは回復していくだろう。
 ケイナを呼びたくても体は『グリーン・アイズ・ケイナ』に支配されている。そのことをセレス自身が認識しているのだとしたら、これくらい残酷なことはない。
 彼女の中で自己崩壊が起こらないだろうか。
 全部憶測でしかなかったが、ちらりとケイナに目を向けると、彼も同じことを考えているらしいことがカインには分かった。口を引き結んで床を見つめているが、瞳の奥の動揺が隠せないでいる。勘のいいケイナなら、初めて会った彼女の姿を見て容易に察しがついただろう。
 あんなに名前を呼び合っていたのに。
 やっと目が覚めて一緒にいられるはずなのに。
「ブランは…… 『間違えて』なんかいないのかもしれない」
 ケイナがつぶやいたので、アシュアとカインは彼に目を向けた。
「どうして?」
 カインが尋ねると、ケイナは束の間ぎゅっと口を引き結んだ。
「ブランは『出口』だよ。リアとアシュアの娘だし……。全く見知らぬ他人よりセレスに近い立場で手を繋ぎやすかっただけだ」
 ケイナが何を言おうとしているのか、カインとアシュアには分からなかった。
 ふたりは視線を交し合って、再びケイナを見つめた。
 ケイナは目をしばたたかせた。
「これ以上言いたくない」
 彼はそう言うと立ち上がった。カインが見上げると、ケイナは彼の顔をしばらく見つめた。
「近いうちに、ユージーに会いに行くことってできる?」
 いきなりの問いにカインは戸惑ったようにケイナを見たあと、うなずいた。
「アポイントをとってみる。ぼくも彼には会いたいと思っているから」
 ケイナはそれを聞くと、踵を返して部屋を出て行った。

 その日の夜、『ノマド』のコミュニティから戻ってきたリアにアシュアは昼間のことを話した。
「『グリーン・アイズ』?」
 シャワーを浴びたあとの濡れた髪をタオルでこすりながら彼女は言った。
「あの何十年も前に消えた女の子の?」
「うん……」
 アシュアはうなずいた。
「そうか…… どおりで目が覚めたらいきなり女の子だなって思ったわ」
 リアはソファに座るアシュアの隣に腰掛けながらつぶやいた。
「ブランは起こし間違えたってケイナに言ったみたいなんだけど…… 『ノマド』で夢見たちは何か言ってなかった?」
 リアはそれを聞いて首をかしげた
「ううん、何も。ブランも何も言わなかったから……」
 リアは宙に視線を向けた。
「やっぱりあれかなあ……」
「あれって?」
 アシュアは目を細めた。
「うん、ドアーズさんが言ってたんだけど、セレスはケイナが仮死状態になってから、何時間も眠らないままでケイナの体を抱き続けてたみたいなのよ」
 彼女はアシュアの顔をちらりと見た。
「カインにもそれは話したみたいなんだけどね」
「それが何か関係あるのか?」
「つまり、その間セレスはどんどん冷たくなるケイナと『グリーン・アイズ』をずっと見ていたことになるらしいの」
 アシュアはぞっとした。
「いったいどれくらいの時間だったんだ?」
「あたしは聞いてないわ。でも、相当辛かっただろうって、ドアーズさんは言ってた。あたしもそう思う」
 すぐに助けに行ってやればよかったと思ったが、あのとき、あの状態で行って数時間で助けられたはずもなかった。アシュアはため息をついた。
「それでね、『ノマド』の夢見は亡くなってもしばらく気持ちが残ることがあるの」
 リアは言った。
「あたしは夢見の力がないから分からないんだけど、夢見たちはよく残った気持ちを見ることがあるらしいわ」
 アシュアはエリドの言葉を思い出した。エリドはトリの気持ちが残ってアシュアについていると言っていた。
「残った気持ちって、亡くなるときに考えてたことが一番強く出るらしいの。『グリーン・アイズ』って、カインとコンタクトとってたの?」
 アシュアは首をかしげた。
「カインはあんまりあのときのことを話したがらないんだ。でも、ずっとモニターを見ながら『グリーン・アイズ』に話しかけてたってちらっと言ってたかな」
 アシュアは視線を下に落とした。
「何があってもモニター越し。あいつはそれが一番悔しかったんだと思う」
「そっか……」
 リアは切なそうなアシュアの顔を見て、彼の手にそっと自分の手を重ね合わせた。
「『グリーン・アイズ』はきっとカインに会いたかったんだと思う。声だけじゃなくて彼の手を握ったり、顔を見たりしたかったんじゃないかな」
 アシュアはリアの顔を見た。
「セレスはきっとそれを受け取ってしまったのよ」
「残った気持ちはどうやったら消えるんだ?」
 アシュアは尋ねたが、リアはかぶりを振った。
「あたしには分からない。だって、人の中に入り込んだのって聞いたことないもの。夢見たちなら分かるかもしれないけど…… でも……」
「でも?」
 リアは口をかすかにゆがめて肩をすくめた。
「いいのかな。その子の気持ち、いらないから消しちゃうっていうの」
「セレスの体だぞ?」
「そうよね……。でも、カインに会いたくてたまらないんでしょ? しばらくの間でも一緒にいれば納得するのかもしれないじゃない?」
「うーん……」
 アシュアは唸った。カインとケイナが困ったような顔をしてお互いを見ていた理由がやっと分かったような気がした。
「カインは助けられなかったっていう負い目をずっと持ってるんだ。だからってセレスの姿をした『グリーン・アイズ』を受け止められるはずがないよ。セレスはセレスだ。ケイナがいるんだし……。あいつはケイナにもセレスにもすまないって気持ちを持ち続けてるんだぞ?」
 アシュアはため息をついた。
「みんなが辛いだけじゃねぇか……」
 リアはそれを聞いて黙って目を伏せた。

「もう8時か。今日はこのへんにするか」
 ヨクは顔をあげて言った。カインと6時くらいから仕事の打ち合わせを始めてすでに2時間がたっていた。
「腹が減った。メシはどうする?」
 お腹をさすりながら言うヨクに、カインは苦笑した。
「さっき、ティが運んできたサンドイッチをつまんだじゃないか」
「あれはメシじゃないよ。間食」
 お皿に盛られた小さなサンドイッチの3分の2は彼が食べたのではないだろうか。
 カインは呆れたように首を振りながら書類をまとめるとソファから立ち上がった。
「ちったあ、まともに食べる癖をつけたほうがいいぞ」
 その背にヨクの声が追いかけてきた。
 自分がほとんど食べたくせに……。よく言うよ。
 カインはちらりと彼のほうを見た。
「社員用のレストランはもうとっくに閉まってるよ」
 そう言ったあと、彼が足を痛そうに押さえたので、ヨクは目を細めた。
「まだ痛むのか?」
「昨日の今日だからね……。たまに痛む程度だけれど」
 カインは足をさすりながらデスクの椅子に座り、ティが入ってきたので視線をそちらに向けた。
「すみません、最後の報告書です。これは明日以降、見ていただければいいそうですので……」
「まだ帰ってなかったのか」
 ヨクが言うと、ティは曖昧に笑った。
「わたしもいろいろ仕事が残ってしまって」
「カインが心配なだけじゃないの?」
 ティはヨクを睨むとかすかに顔を赤らめた。
「ティ」
 カインは彼女が置いた報告書をとりあげながら言った。
「明日、クルーレにユージーへの面会を申し込んでみてくれないかな」
「カートに行くのか?」
 ヨクが聞きつけて目を剥いた。
「外出は気をつけないと……」
「ケイナも一緒だ」
 カインはヨクの言葉を遮って言った。それを聞いてティがかすかに眉をひそめたが、カインは気づかなかった。
「ユージーに直接連絡してみたけれど繋がらなかった。やっぱりまだクルーレを介さないとだめらしい」
 カインは書類から顔をあげるとヨクに目を向けた。
「……どう思う?」
 カインの言葉にヨクは首をかしげた。
「さあなあ……。とりあえずリィへの疑いは晴れたような気はしたけれど……」
「疑い?」
 ティが思わず口を挟んだ。
「クルーレさんがリィを疑っていたっていうんですか?」
「クルーレじゃなくて、カートとしてだろう。まあそれが普通だよ。状況的に疑われてもおかしくない」
 カインの言葉にティは戸惑った。
 カートがリィを疑っていた? クルーレはそんなそぶりは一度も見せなかった。
 いや、自分がそう思っていなかっただけか。
「でも、クルーレさんはいろいろ尽力してくださってるわ。リィは何も後ろめいたことはないでしょう?」
「何が言いたいの?」
 カインはティを見上げた。彼の鋭い目にティは思わず顔を伏せた。
「……いえ…… なんでもないです」
「まあ、ケイナをこっちに寄越したし、ユージーの復帰も宣言した。それはリィがカートの敵ではないと分かってのことなんだろうけれど、おれたちはずいぶん前から怪しまれていたんだというのはよく分かったよ」
 ヨクは手に持った書類を弄びながら言った。
「『ゼロ・ダリ』の買収計画を話したときから、こっちの表情や出方を相当探っていたんだろうな。ケイナがあんまりはっきり言うからひやっとした。あの子はちょっと…… 怖い子だね」
 彼の言葉にカインは苦笑した。
「あの場であんなふうに言うか、って感じだけど……。ただ、もうクルーレからは情報は出ないだろう。だからユージーに会ったほうがいいと思うんだ。ケイナはユージーとは兄弟なんだし、彼が会いたいって言ってるって言えばクルーレも断る理由が見つからないだろう。それに乗っかるよ」
「兄弟なんですか?」
 カインの言葉にティが声をあげていた。
「カート社長と?」
 カインは少しびっくりしたような顔でティを見た。
「そうだよ。血は繋がってないけど……。ケイナの姓はカートだ」
「そう…… そうですよね…… わたしったら……」
 ティはつぶやいた。
「だからクルーレさんは彼があんなふうに言っても怒らなかったのね」
「怒る理由がないよ。警戒はしただろうけど」
 カインはため息をついた。
「ユージー・カートは話してくれるかな」
 ヨクが言うとカインは小さくかぶりを振った。
「さあ…… どうかな……。カートの内紛だったら彼もリィを巻き込みたくはないだろう。でもプロジェクトが絡んでいて、こっちも命が狙われているんだったら、知っていることを教えてもらう必要はある」
「わたし……」
 ティがつぶやいたので、カインは彼女に目を向けた。
「わたし、ケイナにひどいこと言っちゃったかもしれないわ。最初にここに来たときに、クルーレさんにあの態度はひどいんじゃないのって怒ってしまったの」
 カインとヨクは思わず目を見合わせた。
「ケイナはそんなことをいちいち気にしないよ」
 カインは少し笑ってティに言った。
 ヨクの顔をちらりと見ると、彼は少し眉をつりあげてみせた。
 いろんな人間と接してきた彼のことだ。ケイナがどういう性格なのかもすでにそれとなく察していたのだろう。
「クルーレにユージーへの正規のアポイントを申し込んでください」
 カインの視線を感じてティはうなずいた。うまく言えるかどうか、すっかり自信をなくしていたが、カインの命令なら拒否はできない。
「クルーレがごねたらこっちに回して」
 カインは笑みを浮かべてティに言った。
 ティがオフィスを出て行くのを見送ったカインは、頬杖をついてため息をついた。
「後ろめたいことね……」
 彼はつぶやいた。
「リィは後ろめたいことだらけじゃないか……」
「カイン・リィが経営者であるんだから、そういうことはないと思っているんだろ」
 ヨクは笑って答えた。
「秘書としてはそれが一番だよ」
 カインは頬杖をついたまま、ヨクの顔をじろりと見た。
「そのうち、きみから教えてやりなさい。社長としてはそれが一番」
 まったく…… よく言うよ。秘書の教育はあんたの役目だろう。
 カインは顔をしかめた。
 ユージーとのアポイントがとれたのは2日後だった。
 思いのほかクルーレはすんなりと受け入れたらしい。
 ケイナが帰ってきているのだから遅かれ早かれそういう申し出があると最初から思っていたのだろう。そうでなければあの時ユージーが復帰していると話すはずがなかった。
 ヨクはカインの外出をかなり心配していたが、ケイナがいるということで何とか納得した。
 そのヨクにはアシュアがずっとへばりついている。雰囲気の似ているふたりがいつも一緒にいる姿はカインには少し可笑しくもあった。親子といっても疑う者はいないかもしれない。
 ユージーのオフィスはプラニカで1時間ほどの距離にある。カインの運転で向かう間、ケイナはずっと黙り込んでいた。
 カートのビルの周辺はものものしいほどの警戒態勢だったが、今はリィの入っているビルの周辺も似たような感じだ。
 エントランスではクルーレみずからが出迎えに出ていた。
 彼はカインとケイナの姿を見ると、ぴしりと敬礼をした。こうやって見ると彼はやはり軍人なのだなと思う。
 ユージーのオフィスにはカインはあまり出向いたことがない。ユージーもカインのオフィスには数えるほどしか来たことがなかっただろう。ふたりとも多忙を極めていたし、考えてみればこの数年間、モニターやマイクを通してお互いの声や顔を見ても、ゆっくり会って話をすることもなかった。こんなことでなければ会う機会もないというのは皮肉な話だった。
 ユージーのオフィスまで案内をしたクルーレはドアの前で立ち止まってふたりを振り返った。
 いいですか? というような目をしている。ふたりが黙っていたのでそれを了承と思ったのか、クルーレはドアを開いた。促されて入ると奥のデスクに人影が見えた。
 明るくシンプルなカインのオフィスと違い、ユージーのオフィスはどこか暗い。
 たぶん調度品が重厚だからだろう。大きなソファも、カーテンも、デスクから書架まで、代々引き継がれて使われていることがよく分かる。
「どうぞ」
 クルーレがさらに促したので、カインとケイナはデスクに近づいた。
 デスクに俯き加減で座っていた人物が顔をあげた。
 ユージーは一見何も変わらないように見えた。
 ただ、その左目は黒い覆いで隠され、顎から首につけられた銀色の機械と、口元に伸びた小さなマイクに気づいてふたりは思わず足を止めた。
 ユージーは二人を見て少し笑い、デスクから立ち上がると、ふたりに歩み寄った。
 体が左に大きく揺れる。
 ケイナの顔が見る間にゆがんだ。
「マだ、まっすグにあルけないんダ」
 近づいた彼の口から出た声は濁った音だった。
「聞きづラいだろ? イま、くるーレが、もうスこシ、いい装置ヲさがしテくれてイる」
 カインもケイナも言葉をなくしてユージーを見つめていた。
「けイな……。無事デよかっタ……」
 その言葉にケイナが解かれたようにユージーを抱きしめた。抱擁を交わすふたりを見て、クルーレがそっと一礼して部屋を出ていくのをカインは見た。
「かイん、ケイナをたのム。必要があれば、『ホライズン』で治療を続けて欲しイ」
 ケイナに支えられながらソファに座ってユージーは言った。
「もちろんです」
 カインは答えた。
「こいつのこトだ。どうセ、『ノマド』に帰ル気もナイと思うシ」
 ユージーはそう言うとケイナを見てかすかに笑った。
「体の調子はどうなんですか」
 カインが尋ねるとユージーは肩をすくめた。
「ごラんの通り。歩行ハもう少シ、時間ガかかる。平衡感覚ガにぶっていテ。声は装置ガないト無理らしイ」
「目は」
 ケイナの言葉にユージーはうなずいた。
「視力ハあるんダガ、使うト疲れル。この際だかラ、使わなイことにしタ」
 会話がたどたどしい。クルーレがユージーを表に出さないはずだ。せめて歩けるようになるまでは、ユージーにとっても完全復帰を宣言するのは苦しいことだろう。
「そンな顔ヲするナ」
 ユージーは笑って、横に座るケイナの頭をくしゃくしゃと撫でた。今は28歳になったユージーにとって18歳のままのケイナはまるで小さな弟のように思えるのかもしれない。
 子供扱いされるのは嫌いだとクルーレを突っぱねたケイナだったが、ユージーには何も言わなかった。
「『A・Jオフィス』と『ゼロ・ダリ』に復帰を通達しないのは、今の状態があるからですか?」
 彼の表情を気遣いながらカインが尋ねると、ユージーは緩くうなずいた。
「そレもあるガ、どウいう動キをするカ、見ルつもりダ。ドちらモ、だいブん小馬鹿二した態度ヲとっテいたからナ。『A・Jオフィス』モ、少しハ、カートの存在ノ重みヲ知るべキだろウ。そのあたりハ、クルーレが、かなり圧力ヲ、かけてイルよ。100%トはいかなイまデも、彼らハ、カートに逆らっテまで『ゼロ・ダリ』とハ組まない」
「狙撃に関しては、クルーレは『ゼロ・ダリ』がかなり怪しいと思ってるみたいだけど……。事前に何か掴んでいたんですか?」
「『ゼロ・ダリ』ニは当初カラ、カートの人間ヲ送り込んデいた。『A・Jオフィス』が、最新ノ技術情報ヲ盗むくらいハ、見て見ぬふりヲしていたガ、ケイナの遺伝子情報を添付シテいたので、差し止めタ。『ホライズン』からモ、出ないよう二しろよ」
「それは大丈夫です」
 カインは答えた。ユージーはソファに身を沈めると、長い足を組んだ。
「『ゼロ・ダリ』のエイドリアス・カートは、ただノ商人ダ。儲け一番」
 彼はそう言うと肩をすくめた。
「経営者トしてハ、それなり二手腕ガあると思うガ、大きな策略家でハない。ましてや、カートや『A・Jオフィス』ヲ敵に回してまデ、動きがデキるタイプデハない。彼が危険な橋ヲ渡る気二させた第三者ガいるはずだ。それが今は分かっていない」
「『ゼロ・ダリ』に送ったカートの人間は何も掴んでいないと?」
 カインは目を細めた。ユージーは彼の顔を見てうなずいた。
「行方不明二なってイルからな」
「行方不明?」
 カインは思わずおうむ返しに言った。
「二ヶ月くらイ前から音信不通になっタ。たぶん生きテいないだろう」
「ユージー、もしかしてそれでぼくにコンタクトを……」
 カインの言葉にユージーは眉を吊り上げた。
「まあ、そンなところダ。遅かったみたイだが」
「ユージー」
 ケイナが口を開いた。
「クルーレは何か掴んでるんじゃないか?」
 ユージーはケイナの顔を見て笑みを浮かべた。
「おまえハ、いつモ、勘がいいな」
 ケイナは無言で兄の顔を見つめた。
「クルーレは、おれにモ、言ワなイんだよ。確証ガ掴めてイなイらしい」
「彼は信用できるんですか?」
 カインの言葉にユージーは彼の顔をひたと見据えた。
「きみは、ヨク・ツカヤを疑えルか?」
 カインは戸惑い、視線を逸らせた。
「クルーレは、裏切ラなイよ。おれガ保証すル。おれにモ、きみにモ言わないトいうことハ、要する二、おれたちふたりに関係が深いこトなんだろウ。迂闊な情報デハ、彼も口に出さなイ。待つしかナイ」
 ユージーはそこでケイナの顔を見た。
「おまえ、クルーレを覚エていなイのか?」
「え?」
 ケイナが怪訝な顔をした。
「子供ノ頃ノことだからナ……」
 ユージーはくすりと笑った。
「『ジュニア・スクール』で、なんヤかやト諍いヲ起こして帰っテきタ、おまえの破れた服ヤ、かばん二、いち早く気づいテ揃えてクレたのハ、彼だっただろウ」
 ケイナは視線を泳がせた。そんな記憶はなかった。
「なにガあったカ、彼ガ全部おれに教えてクレていタ。そのたんび二、バッガスをおれハ、ぶん殴っテいたよ」
 ユージーは可笑しそうに笑った。
「バッガスも、今ハ、ちゃんとシタ軍人ダ。部下ヲ20ニンほど抱えていル。今、リィを警護シテいるのは彼だ」
「へえ……」
 カインは思わずつぶやいた。あのバッガスが。とても信じられない。
「ケイナ」
 ふいに声の調子が変わったので、ケイナは兄に目を向けた。
「アシュアが、そばにいるカ?」
 ケイナはカインの顔を見た。カインはどうしてアシュアの名前が出たのか分からないような表情をしてケイナを見つめ返した。
「いるよ。ヨクの護衛をしてる」
 その答えにユージーは視線を逸らせてうなずいた。
「彼に、『ノマド』とノ連絡ハ気をツケるよウ二、言っテおいタほうが、イい」
 カインが眉をひそめた。
「『ノマド』は、こチらの中の様子ヲ、知ル必要ハない」
 ケイナは再びカインの顔をちらりと見て目を伏せた。
 ユージーは『ノマド』も疑っている。それは自分も考えたことだった。
 『トイ・チャイルド・プロジェクト』に関わったのは、リィとカートだけではない。間接的にではあるが『ノマド』もいる。でも、今の段階で一番安全なのは『ノマド』だけだ。『ノマド』には誰も近づけないからだ。そう、今の時点ではアシュアとリア以外は。
 ユージーは待つしかないと言ったが、クルーレが持っているかもしれない情報はこれだ。
 『ノマド』。ユージーはそう感じている。
「そんなことは……」
 カインがつぶやいたが、あとの言葉は続けられなかった。カインもユージーの意見に反する意見を持てないのだ。
「クルーレが、どこかで確証ヲ得るだろウ。それまでハ、不本意デモ、しかたがなイ」
 ユージーは言った。そしてポケットの中からブレスレットとネックレスを取り出してケイナに渡した。
「中身は空ダ。焼却スルつもりだったガ…… 遺品だろウ? セレスにも渡してやってクレ」
 そういうことだったのか……。カインはケイナの手の中で光るブレスレットを見つめた。
「クレイ指揮官ノぶれすれっとハ、調査中ダ」
 ユージーの言葉にカインはうなずいた。
「たぶん、見つからないト思うが」
 彼はそう付け加えた。
「ユージー……」
 カインはケイナの手の中で光るブレスレットを見つめながら口を開いた。
「 『リィ・カンパニー』をあなたはどう考えているんです?」
 言い終えてカインはユージーに視線を向けた。
 ユージーは意外にも穏やかな目で見つめ返してきた。
「当初ハ疑った。おれと言ウよりモ、クルーレが」
 彼の答えにカインはうなずいて目を伏せた。当然のことだった。もし逆の立場だったら、ヨクは真っ先に一緒にいたカートを疑うだろう。
「カイン」
 ユージーの声にカインは目をあげた。
「初代シュウ・リィは最初のプロジェクト解散時二、カートだけハ潰さなかっタ。トウ・リィの時代二なって、両社の関係ハ変わったガ、オレは、今のリィにハ敵対心ハない」
 カインは無言でユージーの顔を見つめた。
「カイン・リィといウ、男をオレは信頼しテいる。いイ意味でも、悪イ意味でモ、きみハ策略家デはなイ」
 カインが思わず目を細めたので、ユージーはかすかに肩をすくめた。
「カイン・リィという男ハ、他人を陥れルよウなこトはしなイ。でモ、モう少シ、ずる賢ク生きタほうガいイ。ソんな、男ダ」
 カインは思わず口を引き結んだ。
「おれハ、ずるイ男なんだよ……」
 ユージーは小さく息を吐いた。
「だから、全部ヲきみに伝えるわけ二はいかなイことモある。……すまないな」
「いえ……」
 カインは答えた。
「それは当然のことです」
「ケイナは『ホライズン』デ看てもらウしかなイ。その代わりト言うわけデはなイが、カートはリィを全面的に守ル」
 カインはユージーから目を逸らせて小さくうなずいた。
 帰りも、カインとケイナは来たときと同じようにむっつりと黙り込んでいた。
 しばらくして運転をしていたカインが口を開いた。
「アシュアに…… 『ノマド』と連絡をとるなと言うのは難しいな……。ブランとダイもいるし……」
「アシュアは鈍いところがあるけど、分からないやつじゃないよ」
 ケイナは答えた。
「きみは、うすうす感づいていたことがあったのか?」
 カインは目を向けないまま言った。
「この間も、途中で言いたくないと言ってそのままだったことがあったね。『ノマド』が何らかの思惑を持っていると気づいていたんだろう?」
 ケイナはちらりとカインを見た。昔のカインはあまりここまで気づくことがなかった。流れていった時間が彼を変えていることをケイナはひしひしと感じた。
「ブランは……」
 ケイナは口を開いた。
「ブランは、夢見を繋ぐパイプで、単なる出口でしかない」
 そう言って窓の外に目をやった。
「ブランは、帰る前の日におれと手を繋いで、初めて『間違えた』ことに気づいたんだ。彼女は『グリーン・アイズ』もセレスのことも知らない。どっちかを選択することもできない。起こすほうを選んだのは、ブランじゃなくて、後ろに繋がってた夢見だ」
「彼らが意識して『グリーン・アイズ』を起こしたと?」
 カインは眉をひそめた。
「いったい何のために」
「分からないよ」
 ケイナは吐き出すように言った。
「確信があるわけじゃないけど、『ノマド』は何か知ってて操作しようとしてる。それがこっちの動きに合うことなのか、そうじゃないのかまで分からない」
「だから、アシュアの前で言いたくないと言ったのか……」
 カインはつぶやいた。そんなことを口に出せばアシュアのことだから早速『ノマド』にせっついてしまうだろう。こちらに有利に働くことなら彼らは教えてくれるだろうが、そうでない場合はアシュアの立場が危うくなる。
「どっちにしても、子供たちがコミュニティにいるんだから連絡をとるなと言うのは難しい。まあ…… 内部の情報はできるだけ『ノマド』にも話さないようにとそれとなく伝えるしかないな」
 カインはため息まじりに言った。
 また沈黙が続いた。
「ケイナ」
 カインに呼ばれて、ケイナは彼に目を向けた。
「セレスはたぶんあと一ヶ月もすれば『ホライズン』を出るんじゃないかと思う。いや、もっと早いかもしれない……。『ノマド』に返すのは…… 無理だな」
 ケイナはうなずいた。
「『グリーン・アイズ』が消えるまでは、あいつ自身が拒否するよ」
「どうしたら本体のセレスになってくれるんだろうな……」
 それはケイナにも分からなかった。
 『ノマド』が操作しているのなら、役目を果たすまでは『グリーン・アイズ』は消えないだろう。
 彼女にはいったい何の役目があるのだろう。
 その答えは見つからなかった。

 1ヶ月は何事もなく過ぎていった。
 サウスエンド医療グループの契約が成立したので、途方もなく忙しくなった。
 ヨクはほとんど外出となり、それに一緒について回るアシュアも多忙を極めた。
 そんな中でかなり暇を持て余していたのがケイナだ。
 カインの仕事が内部作業になっていたので、ひたすらじっと彼のオフィスで時間を潰すしかない。彼はオフィス内の書架の本を片っ端から読んでいたようだが、それもあっという間に底を尽きそうだった。
 髪が伸びたせいか、ケイナには前のように髪をかきあげる癖が出始めた。伸びた金髪を無造作にアシュアのように後ろでひとつにまとめてじっと本を見つめるケイナをちらりと見てカインは思案をめぐらせた。
 彼の立場をなんとかしなくちゃいけない。このままではケイナ自身も辛いだろう。
「ケイナ」
 カインは声をかけた。ケイナは顔をあげた。
「食事しに行こうか。社員用のレストランだけど」
「行ってくれば?」
 ケイナは目を逸らせると再び本に視線を戻した。
「ぼくの護衛なんだろ」
 カインはそう言うと立ち上がった。ケイナはむっとした様子で彼の顔を見たが、音をたてて本を閉じると不機嫌そうに立ち上がった。
「食事に行ってくる」
 ティのオフィスを覗いてそう声をかけると、彼女はびっくりしたような顔を向けた。
「食事に、行くの?」
 彼女はカインの顔をまじまじと見た。
 めずらしい。いつもヨクがかなりせっつかなければ自分から食事をしようとしないカインの口から出た言葉とは思えなかった。
 そして所在なさげに彼の後ろに立つケイナを見て、さらにびっくりした。
 この子を連れて行くつもりなのかしら……。
「あ、待ってください」
 ティはデスクの上を見て書類を掴むと慌てて立ち上がった。
「これだけ、午後2時までに」
 彼女はカインに書類を差し出した。
「食事しながら見るよ」
 カインは答えると、書類を受け取って歩き出した。ふたりの後ろ姿を見送ってティは小首をかしげた。
 いいのかしら、あの子を連れて食事なんて。
「大騒ぎになるわよ」
 彼女はそうつぶやくと、肩をすくめてオフィスに戻っていった。

 まだ時間が早いせいもあって、レストランの中は空いていた。
 ふたりは隅の席に座ったが、カインが書類に目を落としてしまったので会話もない。ケイナは退屈そうに窓の外を眺めながら皿をつついた。
「うーん……」
 カインが声を漏らした。
「変だな…… なんでこんな結果になるんだ……」
 ケイナは彼がテーブルの上に置いた書類の束のひとつをとりあげた。やたらと数字が並んでいる。カインは毎日こんなものを眺めて暮らしているのか。少しげんなりした。そしてふと目を止めた。
「カイン」
「ん」
 カインは顔をあげない。
「カイン」
 ケイナはもう一度声をあげた。やっと彼はケイナに目を向けた。
「なに?」
 ケイナは書類の一点を指差した。
「R225って……0.02が普通じゃないの」
「え?」
 カインはびっくりしたような顔になった。そしてケイナの指した書類を覗き込んだ。
「0.03になってる」
 そうつぶやいて、ケイナの顔を見た。
「なんで知ってるんだ?」
 ケイナは「あ」というように口を開いて、視線を泳がせた。
「悪い……。社内文書も読んでしまっていたかも……」
 カインは呆れたようにケイナを見つめながら体を反らせると、椅子の背に身をもたせかけた。
「E668の規定値は?」
 カインが尋ねると、ケイナは口を引き結んだあと、ぽつりとつぶやいた。
「0.5」
「D808」
「……2.8」
「FT2BB2」
「0.855」
「P253」
「0.918」
「C808とY79の化合」
「R2Y2、2.88」
「No.62プロジェクトの公開予定日は?」
「……2ヶ月後……」
「No.102のプロジェクトチーフは?」
「655チームのステア・ハリソン……」
 カインはため息をつくと、かぶりを振ってこめかみを押さえた。
 ケイナはそんなカインの様子を見て、口を引き結んで目を伏せた。
 やがてカインは笑い始めた。
 小さな笑いが肩を震わせるようになり、そのうち可笑しくてたまらないというような笑いになった。
「冗談じゃないよ…… 1ヶ月だろ? きみの頭はコンピューターか?」
 カインはくすくす笑いながら言った。
「部外秘だぞ、こら」
 笑いながら書類を丸めてケイナの頭を軽く叩くと、ケイナは肩をすくめた。
「ごめん……。覚えてしまうつもりはなかったけど……」
「何か役目をと思ってたけど……これはさすがにまずいんじゃないかな……」
「別に誰にも言わないよ」
 ケイナがそう言うと、カインは息を吐いた。
「当たり前だ」
 そう答えてかぶりを振った。
「でも、だめ」
 今はリィにいるとはいえ、ケイナはカートの人間だ。
 彼と一緒に仕事ができれば、確かに効率はあがるかもしれない。でも、それはできないことだった。何より、ケイナにはきっとこんな仕事は合わない。あまりにも突出した能力は彼自身にも精神的な負担をかける。
 彼は、ここでの自分の役目が終わったきっとセレスと共に『ノマド』に戻る道を選ぶだろう。
 『ノマド』がぼくらの味方なら。
 ……味方でなかったら…… ケイナはいったいどうするのだろうか。
 カートに行くのだろうか。
「ケイナ……」
 カインが呼んだので、ケイナは彼に目を向けた。
「きみが戻ってきてからずいぶんたつのに……。昔のように友人として会話をしたことがなかったな」
 ケイナはそれを聞いて少し目を伏せた。
「元気になって戻って来てくれて嬉しいよ」
 ケイナは目を伏せたままだった。
「お帰り、ケイナ。……それを、言っていなかったね」
 ケイナはかすかに照れくさそうな笑みを浮かべた。
 彼の素直な感情が垣間見えたような気がした。
 時間は止まっていたかもしれないが、彼は少し変わったのかもしれない。
 耳から消えた、赤いピアス。
 彼が命の期限を越えて少しずつでも人間らしい感情を取り戻していっているのなら、これほど嬉しいことはない。
 かすかな笑みであっても、8年前のあの時期、彼のこの表情をどれほど望んだことだろう。
 ふと気づいて周囲に目を向けた。いつの間にかレストランの中は満員になっていた。その多くの目が自分たちに向けられていることにカインは気づいた。
 社長と一緒に談笑しているあの少年は誰。その目はそう言っていた。
 忘れていた。ケイナの風貌が人の目を惹くことを。
「ケイナ。さっさと食べて退散しようか」
 そうささやくと、ケイナも周囲に目を向けてうなずいた。
 オフィスに戻る途中で、出かけようとするティに出くわした。
「出かけるのか? どこへ?」
 カインが声をかけるとティは笑みを浮かべた。
「セントラル・バンクです。定例のセキュリティチェックで……」
「ひとりはまずいんじゃないかな……」
 そうつぶやいて、ケイナに目を向けた。
「彼女の護衛を…… 頼んでもいいかな」
 ためらいがちに言うカインにケイナはうなずいたが、ティは躊躇した。この子は苦手だ。
「30分くらいの距離ですから……」
 彼女はそう言ったが、カインはそれを無視した。
「ケイナ、頼むよ」
 彼はそう言うとオフィスに戻っていった。ティはケイナを見上げてため息をついた。
「じゃあ、お願いします」
 ケイナは黙って彼女を見下ろした。

「プラニカの免許は持ってる?」
 駐車場で尋ねると、ケイナは肩をすくめた。
「持ってないけど、運転はできる」
 ティはかぶりを振ると運転席に座り、隣の席を指した。
「無免許の18歳の少年に運転させられないわ」
 ケイナは黙ってそれに従った。
 駐車場を滑り出たが、ケイナが何も話さないので気詰まりだった。
 ティは彼の横顔をちらりと見て口を開いた。
「あの……」
 青い目が自分のほうに向けられるのを感じた。
「もう、だいぶん前になるんだけど…… ひどいこと言っちゃってごめんなさいね」
 ケイナは何も言わなかった。
 目を向けると、彼はかすかに首をかしげて考え込むような顔をしていた。
(ケイナはいちいちそんなことを気にしないよ)
 カインの言葉を思い出した。
「あ、忘れてるんだったらいいの」
 ティは慌てて言った。
「えっと…… 今度…… 今度、ホームパーティを開こうと思ってるんだけど…… 来てくれる?」
 急いで変えた話題にもケイナは無言だった。
「前に、カインさんの部屋でやったの。ヨクと一緒に。今度はわたしの部屋でって言ってたの。セレスが退院したらそのときでもいいわ。どうかしら。もちろん、アシュアもリアも一緒に」
 相変わらずケイナは何も言わない。運転をしながらティは再びちらりとケイナを見た。
「何か、好きなものってある? わたし、あんまり料理は得意じゃないんだけど、好きなものがあるんなら頑張ってみるわ。ヨクはパンが焼けるし……」
 やはり反応がない。ティは口を引き結んだ。やっぱりこの子、扱いづらい。
 しばらくしてケイナがぽつりとつぶやいた。
「ホームパーティって…… なに」
「え?」
 ティは思わずケイナを見た。
「なにって……」
「あんたの部屋でメシ食うってこと?」
 ケイナの視線をもろに受けて、ティは面食らった。
「ええ…… まあ…… てっとり早く言えばそういうことね」
 彼女は答えた。
「親しい人と…… 家でパーティってやったことないの?」
 ケイナはそれを聞いてくすりと笑った。
「カートでそんなことやるわけない……」
 ティは首をかしげた。
「でも、レジー・カート氏はとても社交的な方だったって聞いてるわ」
 この人は何も知らない……。ケイナは彼女から目をそらせた。
 レジー。できることならまた会いたかった。
 目が覚めたら義父はもうこの世にいなかった。自分の友人たちは遥かに自分の年齢を超え、立場も違った。
 町並みは変わり、行きかう人のファッションも変わった。そして自分の耳からも赤いピアスが消えた。自分はこの世といったい何で繋がっているんだろう。
 ケイナがそっぽを向いてしまったので、ティは次の言葉を見つけることができず、しかたなく黙り込んだ。こんなに無愛想だとどう扱えばいいのか分からない。
 とても頭が良さそうな気がしたのに……。18歳の男の子って、こんなものなのかしら。
 ケイナと同じような年齢の少年と接したことのないティは困惑した。
 あまりいろいろ口を開いて、この間のように変な言い争いになるのも嫌だった。
 セントラル・バンクの駐車場にプラニカを停めると、ティはケイナを見た。
「10分くらいで戻るから、ここで待っていてもらってもいいけど……」
「一緒に行くよ。カインに頼まれているし……」
 ケイナが降りたので、ティもしかたなくそれに続くとため息をついて彼を見上げた。
「あなたを連れて歩くのは気が進まないわ……」
 ケイナは不思議そうに彼女を見た。ティはかぶりを振った。
 無愛想で、おまけに自分のことが全然わかってない。
 ケイナはクルーレが用意した動きやすい簡略化された軍服を着ていたが、上から下まで黒ずくめで、彼がその格好をすると護衛をしてもらうつもりが逆に目だってしまうのではないかと思えた。無造作に束ねた髪ですら、意図してそういうふうにしているのだと思えてしまう。
 案の定、セントラル・バンクのフロアに入ると、一気に自分が周囲の注目を浴びるのがよく分かった。
 人の視線がまずケイナに向けられ、それから横にいる自分に注がれる。
 どういう関係なのかと詮索しているのがありありと伝わる。
 軍服を見れば分かるじゃない。彼はガードをしてくれているのよ。
 ティは心の中でつぶやいた。
 だから、セキュリティ・オフィスのドアの前に来たとき、彼女は心底ほっとした。ここから先はケイナが入って来ることはできないからだ。

 ティは昔から目立つことが苦手だった。猛勉強をして秘書養成の『スクエア』に入り、『リィ・カンパニー』への就職を希望したのは出世欲や自己顕示欲があったからではなく、病気がちな母親にラクをさせてやりたいと思ったからだ。母親の病気の治療にはお金がかかった。
 父親は彼女が10歳のときに他界したが、あまり体が丈夫でなかった母が必死になって自分を育ててくれたことをティはよく分かっていた。
 ティが志望したとき『リィ・カンパニー』の業績は下落していたが、それでも他の企業に比べれば報酬は良かった。
 『リィ・カンパニー』に就職できれば母を『コリュボス』に移住させることもできる。気管支が弱い母にはできるだけいい環境が必要だった。だから、採用が決まったときは嬉しかったが、それが社長づきの秘書の席だと知ったときは戸惑った。
 『リィ・カンパニー』の社長が交代して、当時まだ20歳そこそこの息子のカイン・リィが就任して2年目だった。そのカイン・リィの秘書が公募されていることは『スクエア』内でも評判だった。
 だが、ティはまさか自分がそこに採用されるとは思っていなかったのだ。秘書の席はほかにもあったはずだ。
 あのとき面接をしたのはヨクだ。いろいろ聞かれたが、具体的に何を聞かれてどう答えたのかは無我夢中だったから全く覚えていない。採用通知を受け取ったあと『スクエア』内は大騒ぎだった。羨望と嫉妬の視線を彼女は毎日浴びせられることになった。
「こんな地味でぱっとしない子がどうして」
「おとなしそうな顔して、実は相当のやり手なのかもよ」
「あの子に何の裏の手があるっていうのよ」
「もうすぐ『間違いでした』って通知が来るわよ」
 くすくすと笑い、聞こえよがしにささやく声を聞いた。
 地味でぱっとしない。そう、それは事実だった。
 美人でもない。格別愛嬌のある顔でもない。
 小さな手は指が短くて、丸い爪がついている指先は赤ちゃんを彷彿とさせる。
 背も高くない。足も長くない。スタイルも良くない……。ティは容姿に関しては常に劣等感まみれだった。
 『スクエア』にいる女の子たちは自分よりずっときれいで頭も良かった。
 秘書だけでなく医療関係を志望する女の子たちもいたが、とりわけきれいなのはやはり秘書希望の女の子たちだった。自分の美しさや聡明さを自分で分かっているから秘書を目指すのだと思える。
 頭ひとつ分は背の高い彼女たちの中に入ると自分は小さな子供のようだった。
 辞退しようかと悩んだのも事実だ。いよいよ明日にでも連絡をしようと思っていたとき、前任の秘書のクーシェから呼び出しがあった。
 クーシェはもう60歳をとうに超えていたかもしれない。髪は全部真っ白で、穏やかな優しい茶色い目が印象的な女性だった。
 こまごまとした引継ぎを伝えたあと、彼女はティの顔を見て笑みを浮かべた。
「いい子が決まって良かった。あなたなら任せられる。お願い、社長をよろしくね」
 彼女はティの手を握って言った。ほっとしたような声だった。
「あの……」
 クーシェは手を握ったまま、なに? というようにティの顔を見た。ティは目を伏せた。
 言えなかった。ここまで引継ぎをして、どうして今さら辞退したいなどと言えるだろう。
「自信がないんでしょ?」
 クーシェの言葉にティは思わず彼女の顔を見た。
「最初から自信のある子なんて、いらないのよ」
 クーシェは笑って言った。
「どんなに事前に勉強してきたって、実際の仕事のスタートラインはみんな同じ。書類ひとつとっても、人によって指示の仕方は違うわ。誰もが同じものを見て、同じことを言うとは限らないでしょ? 頭でっかちになってて相手を認めず鼻高々になってる秘書なんて、うちには必要ないの」
 ティはクーシェの手を見た。皺だらけで荒れていたが、温かくてきれいな手だと思った。この手も昔はもっと張りがあって美しかったはずだ。でも、今のほうがずっときれいかもしれない。
 この人は自分と同じようにここに入り、前社長のトウ・リィの時代からずっと40年以上も頑張ってきた人だ。優しそうな目にうっすら涙が滲んでいるのを見たとき、ティはうなずいていた。
(頭でっかちになってて、相手を認めず鼻高々になってる秘書なんて……)
 ティはふとケイナの顔を見た。
 ドアを開けかけて立ち止まっているティを見て、ケイナが怪訝な顔をした。
 どうしたの? と問いたげだ。ティは彼に笑みを見せた。
「待ってて。10分程度だから」
 ケイナはうなずいて、対面の壁にもたれかかった。
 手続きを終えて外に出るとケイナは腕を組んで壁にもたれかかり、大きなガラスがはめ込まれた窓の外を眺めていた。自分の近くを通っていく人がぶしつけなほどじろじろと見ていくことも全く気にならないようだ。
「ケイナ」
 声をかけたが、彼が振り向かないので、ティは近づいてケイナの腕に手を置いた。
「ケイナ」
 青い目がようやくこちらを向いた。
「終わったわよ」
「ごめん」
 ケイナはめずらしく戸惑ったような表情を見せた。
「考え事してた」
「何を見ていたの?」
 ティは窓の外に目を向けた。外はビルが立ち並んでいるのが見えるばかりだ。
「あれ、海?」
 ケイナが指したので、ティは目を凝らした。ビル群の遥か彼方に小さく光るものがあった。
「ああ、あれ……」
 ティは答えた。
「あれは生活用水をろ過精製するためのダム湖だわ。あそこのシステムは『リィ・カンパニー』が組んでる。……海を見ようと思ったらもっと南に行かなくちゃ」
 ケイナは無言だった。
「海が好きなの?」
 なんだかかわいいところもあるじゃない、と思いながらティは尋ねた。
 ケイナは彼女の問いに首をかしげた。
「……分からない」
 彼は答えた。
「見たことはあるんでしょ?」
 ケイナはしばらく彼女の顔を見つめた。
 どうしてこんな切なそうな目をするんだろう?
 ティは彼の顔を見つめ返して思った。
「行こう」
 ケイナがいきなりそう言って歩き始めたので、ティは慌てて彼のあとを追った。
 海は見たことがある。
 セレスと一緒に『コリュボス』を出て、地球に戻ったときに軍用機から見た。
 ケイナはそれを彼女に説明する気になれなかった。
 あの青い水の中に沈んでしまいたいと思っていた。
 今はそんな気持ちはない。『グリーン・アイズ』が死んだからだ。
 そう、そのはずだ。
 それが今さらどうして海を見たいと思ったのか自分でも分からなかった。
 青い水……。青い色。
 ふっと気が遠くなりそうな気がした。
 我に返らせたのはティの声だった。
「ねえ、ケイナ、ちょっと待ってて」
 目を向けると彼女はセントラル・バンクのホールを出てすぐのモールの中の店に入っていくところだった。店の中は若い男女でひしめきあっている。
 あまり人ごみで長居しないほうがいいのに。
 ケイナは少し眉をひそめて彼女の後ろ姿を見送った。
 しばらくして出て来た彼女が握った手を突き出したので、ケイナはそれを怪訝そうに見た。
 ティは少しはにかんだ笑みを浮かべてケイナを見上げた。
「護衛をしてくれたお礼。包んでもらわずにそのままもらって来ちゃった」
 ケイナは目を細めた。彼が手を出そうとしないので、ティはケイナの左手を強引に持ち上げて彼の手のひらの上で握った手を開いた。
 淡く青い色の石が光っていた。
「ピアス…… つけてたんでしょ?」
 ケイナの耳を見てティは言った。ケイナが思わず表情を固くしたのでティは慌てた。
「ごめんなさい……。いけなかった?」
 ケイナはどう答えればいいのか分からず、戸惑ったように青い石を無言で見つめた。
「青いから…… あなたの瞳に合うかなと思ったの」
 そう、赤い色じゃない。ケイナは思った。
 これは、抑制装置じゃない。アクセサリーのピアスだ。
「つけてもいい?」
 ティが顔を覗きこむようにして言うのをケイナはどこか遠くで聞いていた。小さくうなずいたのも自分では理解していなかったかもしれない。
 ティの温かい手が耳に触れた。
「右の穴って、なんだか妙に大きいのね……」
 彼女はつぶやいた。手に触れるケイナの髪がびっくりするほどなめらかで柔らかい。
 この子はなにからなにまで宝飾品みたいだわ、とティは思った。
 両方の耳にピアスをつけ終わると、ティはケイナの顔を覗きこんで嬉しそうに笑みを見せた。
「良かった。すごく似合ってる。これ、セレスタインよ」
「セレスタイン……」
 ケイナはつぶやいた。
「『天』の意味を持つ言葉からきているらしいわ。セレスが退院したら、彼女にも同じ石でプレゼントするわね。彼女はピアスをつけていたのかしら。ネックレスのほうがいいかな」
 小首をかしげて自分の顔を覗きこむ彼女の目から逃れるようにケイナは目を伏せた。セレスの記憶が戻るのはいつになるか分からない。
「セレスの名前と似ているわね。天の青、海の青。……彼女が早く元気になるといいわね」
 ティは言った。
「わたしが『リィ・カンパニー』に入ったとき、セレスはもう『ホライズン』にいて、あなたは『アライド』にいたの。カインさんはあまり話してくれないから、詳しいことは知らないんだけど……。でも、みんながあなたとセレスが元気になることを願ってるっていうのはよく分かったわ。……いつか海を見に行けるといいわね。セレスとふたりで」
 ケイナは思わずティの顔を見た。
 彼女はなぜ、おれにこんな言葉をかけてくれるんだろう。
 セレスとふたりで海を見に行く……。
 そう、そんな約束をした。凍える空気の中で抱きしめあいながら、そうつぶやいた。
 だから海が見たいと思ったのかもしれない。
 口を開いて、ありがとう、ティ、と言いかけて、ケイナはふと顔をあげた。
 人ごみで立ち止まってしまったことを悔いた。
 視線を感じる。行きかう人の視線ではない。違う。
「どうしたの?」
 急に険しい顔で周囲を見渡すケイナをティは目を細めて見た。が、次の瞬間には彼女はさっきまでいた店の入り口まで弾き飛ばされていた。腰を打った。痛みに顔をしかめているとガキリという鈍い音が聞こえ、何が起こったか理解できずにいるうちに、あっという間に誰かに腕を掴まれていた。
「ケイナ?」
 自分の腕を掴んだ相手を見あげてティはつぶやいた。
 いや、ケイナではない。さっきつけたピアスがない。
 顔を巡らせると銃を構えるケイナの姿が目に入った。
「誰……?」
 ティは横の少年を呆然として見つめた。どうしてこの人はケイナとそっくりなの?
 モールを歩いていた人々が一斉に逃げ始めた。警報とともに店には次々と防犯用のシャッターが下りていく。
「銃はまずいんじゃないの?」
 ケイナとそっくりの少年が言った。ティは掴まれた腕を振り払おうとしたが、力が強くて全く動かない。
「だったら……」
 銃を構えていたケイナがそうつぶやいた次の瞬間には、再びガキリという音がして彼は目の前に立っていた。ティは自分の腕を掴む少年の腕に細いへこみができているのを見た。ケイナが剣の柄を握っている。なんだろう、この剣は。刃が見えない。
「接近戦」
 ケイナは言った。遠くで何人もの足音が聞こえる。警報を聞きつけてカートの警備隊が来たのかもしれない。
「そんなものじゃびくともしないよ」
 相手の少年が言った。ケイナはかすかに笑った。
「『ノマド』の剣は『覚えていく』んだよ」
 細い線が見る間に深くなっていく。ティは悲鳴をあげた。腕が目の前で切り落とされていく。彼女は少年が反対側の手で握った銃をケイナの頭につきつけるのを見た。
「やめて……」
 ティは懇願した。
「お願い、やめて!」
 銃の発射音がしたときには、ティは突き倒されていた。周囲でたくさんの足音がする。
「ケイナ……」
 夢中で呼んだ。
「ケイナ!」
「ここにいる」
 力強い腕が自分を助け起こすのを感じた。
「怪我は?」
 ケイナの声にティは震えながら彼の顔を見た。こめかみから一筋の赤い色が流れている。
「撃たれたの……?」
「かすっただけ」
 ケイナは答えた。周囲を見回すとたくさんの兵士にぐるりと背を向けて囲まれていた。
「あとはもうカートに任せればいいから。とにかく戻ろう」
 ケイナは言った。