鬼の花嫁 新婚編3~消えたあやかしの本能~

三章

 藤悟のお店から帰ってくると、柚子は自分の部屋でひと息ついていた。
 玲夜が帰ってくるまではまだ時間がある。
 どうしようかと考えていると、子鬼たちが窓へ向かい、閉めてあった窓を開けた。
「あーい」
「あいあい」
「子鬼ちゃん、どうしたの?」
 子鬼は窓の外を見ており、不思議に思っていると、外から龍が入ってきた。
 ここ数日、龍はちょくちょく姿を消すので、あまり柚子のそばにいないことが多かった。
 屋敷内にいるようでもなかったので、外に出ていると思っていたが、どこへ行っているのかまでは知らなかった。
 聞こうにも本人がいないのだ。
 それはまろやみるくも同じである。
 ご飯の時には帰ってくるので気にはしていない。
 なにせ二匹とも普通の猫ではない霊獣なのだから。
 だから、龍に神器について聞こうにもいまだに聞けずにいる。
 柚子としては早々に神からの依頼を果たすべく神器を探すためにいろいろと質問したいのだ。
 神器に関する情報は玲夜と千夜も待ち望んでいるので、あまり後回しにしたくない。
 神に問うのが一番早いのだろうが、昨日猫田家へ出かけた帰りに社へ寄ってみたが、神は柚子の前に現れてはくれなかった。
 桜の気配もなく、実は夢だったのではないだろうかと疑いたくなってくる。
 それとも昼間だったからいけなかったのだろうか。
 柚子が呼び出されたと同じ真夜中に見に行けばもしかして……と思うも、玲夜が夜中に出かける許可を出してくれると思えない。
 それとも神と会うためなら許してくれるだろうか。
 そこは聞いてみねば分からないだろう。
 しかし、現れるかどうか分からない存在に頼るよりは、確実に情報を持っている龍に聞くのが一番手っ取り早い。
 ようやく帰ってきた龍を逃がさぬというように、柚子は龍の胴体を鷲掴みにした。
『のあぁぁぁ! なにをするのだ、柚子!?』
「文句を言いたいのは私の方よ。いったいどこに行ってたの? ここ最近姿が見えないから困ってたんだから」
 ここぞとばかりに不満をぶつける柚子だが、龍はなんのことか分かっていない様子。
『なにかあったのか?』
「神器のこと。あなたにいろいろと聞きたいの」
『お~、なるほど』
 合点がいったというような顔をする龍を、ひとまずテーブルの上に置いて、柚子はソファーには座らず、龍と目線を合わせるように床に座り込む。
「今までどこに行ってたの?」
『あの方のところだ。ようやっと目覚めたのでちょくちょく様子を見に行っておったのだよ』
「神様は姿を見せた?」
『いいや。ずいぶんと長く眠りにつかれておったからなあ。まだ力が安定しないようだ。人間でいうと寝ぼけているというところか』
 神とは寝ぼけるのか?
 いや、龍は柚子に分かりやすいように表現してくれているだけだろう。
 どっちにしろ神が現れなかったというのは残念なお知らせだ。
 だが、とりあえずは龍から情報を仕入れるしかない。
「いろいろと聞きたいんだけど、神器ってどんな形をしているの? 大きさはどれぐらい?」
 烏羽家の人に渡すぐらいなのだから手で持てる大きさであるのは想像に難くない。
『分からぬ』
「は?」
 柚子は素っ頓狂な声をあげた。
 そして、龍を両手で力いっぱい握りしめる。
「分からないってどういうこと!?」
『ぎゃあぁぁ! 強い。掴みすぎだ、柚子!』
「そんなの今は気にしてる場合じゃないの。分からないってなに? あなたは当時、神器が烏羽家に渡された時のことを知ってるんじゃないの?」
 当時を知る生き証人。
 これほど確かなものはないはずだ。
『うぐ……。苦しい……』
 ぐてっとなった龍に、子鬼たちが慌てて駆け寄ってくる。
「柚子~」
「龍が危ないよ~」
 はっとした柚子は少し握る力を弱めた。
 霊獣である龍が、人間の握力程度でやられるわけがないのだが……。
 少々大げさな龍から手を離さないまま、再度問いかける。
「どういうこと?」
『柚子はだんだん我の扱いが雑になってきておらぬか?』
 グチグチと文句を言いながら、龍は神器について教えてくれる。
『神器とは神が作った神気の塊。それは決まった形があるものではないのだ。神が烏羽の当主に神器を渡していた時、それは水晶でできた数珠のようだった。だが、それを使う時、それは剣にもなる。他にも扇、笛、玉と、いかようにも形を変えるのだ』
「……神様はそんなものを探せと?」
『うむ』
 柚子は一気に脱力した。
 どんな無理ゲーなのだ。
『あれからずいぶんと時が経ち、今はどんな形をしているか、我でも想像がつかぬ』
「他になにか、これが神器だっていう見分け方はないの?」
『ある。それはあの方の神気から作られたもの。それゆえ、神器からはあの方の力が感じ取れる。だからこそ、あの方は鬼龍院ではなく柚子に頼まれたのだろう。神の力を感じ取れる神子の素質を持った柚子だからこそ』
「神様の力……」
 それは社がある場所で感じる澄んだ雰囲気のことだろうか。
 撫子の屋敷に訪れた時にもとても神聖な空気を感じた。
 あれが神の神気だというなら、確かに神器を探すのは柚子が適任だろう。
 透子には感じ取れなかったそれを、柚子なら分かる。
「でも、どの当たりにあるか見当もつかないのに、広いこの世界のどこにあるかなんて……」
『いや、神器を使用された可能性がある者がひとりおるであろう』
「……あっ」
 少し考えた末に柚子は声をあげた。
 芽衣を花嫁とつきまとっていた風臣だ。
 あれだけ花嫁と言っていたのに、急に興味をなくした風臣。
 神器を使われた可能性は大いにある。しかも神も同じことを言っていたではないか。
 ならば、風臣の行動範囲を調べればいい。
 それも、まだ風臣の執着が見られた借金を返す後から、その後芽衣に会って間違いだと言うまでの間、どこに行き誰に会ったかを。
「玲夜なら分かるかな」
『そやつには監視を置いていたようだし、すぐに行動を知れるのではないか?』
 可能性が見えてきたと、柚子は仕事から帰ってきた玲夜にすぐさま相談した。
「なるほど、それならかなり範囲を狭められる」
 玲夜は高道に連絡して、風臣の詳細な行動記録を送るように頼んだ。
 そして……。
「お手柄だな、柚子」
 そう微笑んで柚子の頭を撫でた。
『助言したのは我なのに……』
 部屋の隅でうじうじしている龍を、子鬼たちが慰めていた。
 風臣の行動を書いた書類は、夕食を食べる頃には届いた。
 いったん箸を置いて内容を確認する玲夜は、次第に眉間のしわを深くしていく。
「なにか分かった?」
「確かに行動と奴が会った者の記録は記されているが、少し厄介だな……」
「なにが?」
「奴は疑わしい期間の間、あやかしのパーティーに出席している。そこで多くの人物と会っているので、特定はかなり難しいかもしれない」
 そのパーティーとは、玲夜が風臣を牽制するために出席したパーティーではなかろうか。
「そういえば、そのパーティーの翌日だったかも。私が芽衣から聞いたの。間違えたって言われたって」
 パーティーの翌日に芽衣から聞いたのは、『昨日鎌崎がやって来た』であった。
 つまりはパーティーのあった日、それもパーティーが終わった後に芽衣に会いにいったことになる。
「なら、そのパーティーでなにかあったかもってこと?」
「まだ、その可能性が高いというだけだ」
 柚子は玲夜から一枚の紙を渡される。
 そこにはずらりと名前が書いてある。
「これは?」
「当日のパーティーの出席者の名簿だ。気になる人物はいないか?」
「そう言われても……」
 パーティーにはそれなりの人数が出席していたようで、柚子にも覚えのある名前もいくつか発見した。
 けれど、それだけ。
 名前を見ただけで、この人が疑わしいと名指しできるものではなかった。
 柚子は玲夜に紙を返しながら首を横に振る。
「分からない。ごめんなさい……」
 役に立たないのがもどかしい。
「いや、これだけの情報で見つけられるとは俺も思っていないから、柚子が気にする必要はない」
「うん……」
 玲夜に慰められてしまうが、こんなことで見つかるのかと柚子は心配になってきた。
 すると、玲夜は突然話を変える。
「柚子、明日パーティーがあるから、一緒に参加してくれないか?」
「パーティー?」
「ああ、急用ができた父さんの代わりに、急遽参加することになったんだ」
 玲夜が千夜に変わって会合やパーティーに出席することはよくある。
 鬼龍院グループの社長をしている玲夜と違い、千夜はいったいなにをしているのだろうかと疑問に思うことは多々ある。
 しかし、千夜は千夜で、それなりに忙しいらしい。
「私は夏休み中だし、特に予定はないから大丈夫」
「それならばよかった。そのパーティーには、先程見せた名簿に載っていた人物もいる」
 柚子ははっと玲夜の顔を見る。
「もしかしたらなにか収穫があるかもしれない」
「うん」

 そして迎えた当日。
 柚子は淡い水色のワンピースを着てパーティーに臨んだ。
 残念ながら子鬼たちと龍はお留守番である。
 今回はあやかしが多く出席するパーティーだ。
 あやかしの多くは仕事で成功した者が多くおり、自然とお金がかかった華やかなものになる。
 そういう場に玲夜の付き添いで何度か出席した経験のある柚子は、さすがに驚いたりしなくなったものの、やはり豪華さに気後れしてしまう。
 緊張した様子の柚子を見てクスリと笑う玲夜にじとっとした眼差しを向ける。
「笑わないでよ。桜子さんみたいに堂々はいかないもの」
「桜子のようにする必要はない。柚子は柚子らしくあればいい」
「私らしくしてたら絶対に鬼龍院に恥を掻かせちゃうこら駄目」
 なにせ柚子の実態は小心者の庶民である。
 せめて取り繕うぐらいのことはしなくては。
「俺がいるだろう?」
 柚子だけしか目に入っていないというに柔らかく微笑む玲夜に、柚子は頬を染めるが、外野からも押し殺した女性の悲鳴が起こる。
 そっと視線を移動させると、先程の玲夜の微笑みにノックアウトされた女性たちがクラクラしていた。
 気持ちは大いに分かるが、自分だけの玲夜を横取りされたようで、ちょっと嫉妬してしまう。
 そんな自分に柚子は苦笑した。
「柚子、とりあえず挨拶をしていくが、なにか気になることがあったらすぐに俺に教えてくれ」
「うん。分かった」
 神器の持つ神気は神子の素質がある柚子でないと分からないので、柚子の感覚だけが頼りである。
 柚子は意識を集中させながら、ひとりまたひとりと挨拶を重ねていく。
 けれど、今のところ神気を感じるどころか、変わった様子もない。
 そして、次となった時、柚子は見知った人と出会う。
「穂香さん……」
 初めて出席した花茶会で会った、穂香であった。
 花茶会が逃げ場だと訴え、結婚を喜ぶ柚子に噛みついてきた彼女とは一度しか会っていないが、記憶に強く残っていた。
 花嫁であることを喜ぶ柚子とは違い、息苦しさを感じている様子だった。
 隣にいるのは彼女の旦那だろうか。
 ニコニコとした微笑みを携えており、人当たりはよさそうに見える。
「おや、玲夜様の奥方は私の妻を覚えていてくださいましたか?」
「は、はい。もちろんです。花茶会でいろいろとお話をさせていただきましたし」
 柚子の口から『花茶会』という言葉が出ると、穂香の旦那は顔をしかめる。
「花茶会、ですね」
 なにやら棘を感じるのは柚子の気のせいだろうか。
「鬼龍院様の奥方や孤雪様のなさることを非難したくはないのですが、花茶会などというものは早々に解散させてほしいものです」
 険のある物言いに柚子は首をひねる。
「なにか問題でもありますか? 花嫁たちが気楽に過ごせる素敵な会だと思いますが」
「素敵……。本当にそうでしょうか。無理やり旦那から花嫁を引き離してしまう、忌むべき茶会です。私は彼女が自分の目の届かぬところに行くのが心配でならないというのに、私の気持ちも無視して、花嫁だけと言って旦那を排除する。そんな茶会が本当に必要なのか疑わしくてなりません。玲夜様もそうはお思いになりませんか?」
 口を挟ませずとうとうと語る穂香の旦那には、隣にいる穂香が見えていないのだろうか。
 怒りも悲しみも喜びも感じていない、あきらめきった表情。
 人形のように意思を感じさせない。
 旦那の肩を抱き引き寄せる手に抵抗もせず、かといって受け入れているようにも見えない、されるがままの姿。
 その顔には『無』だけがあった。
「一族にとっても大事な花嫁は、屋敷の中で旦那の目の届くところにいなければ。彼女には私しか必要としない。私も彼女以外いらない。花嫁とはそうあるべきだ」
 本気で言っているのだろうか。
 しかし、穂香の旦那は心の底から思っているのだろう。
 疑いすらしていないように感じる言葉に、柚子はなんとも言えない気持ちになりながら玲夜を見上げる。
 以前に、透子にも、花茶会で会った他の花嫁にも自分は恵まれていると告げられたのを柚子は思いだした。
 確かに目の前の彼を見ていると自分はかなり自由にさせてもらっていると自覚する。
 穂香がもっと花茶会に出席したいと撫子に訴えていた理由がよく分かった。
 愛だと言えばそれまでだが、かごの鳥のようにまるで飼い殺しにされているみたいだ。 
 もし自分が玲夜以外の花嫁だったら、今の自由がなかったのかと考えると、他人事に思えない。
「花茶会は花嫁には必要なものだ。俺は別に柚子を閉じ込めたいわけではない。鳥籠の中に入れて鑑賞したいわけでもない。俺は柚子が柚子らしく生きている姿が好きなんだ。生きながらに死んだ顔が見たいためじゃない」
「玲夜……」
 毅然とした玲夜の姿に、穂香の旦那が気圧される。
 穂香も目を大きくして玲夜を見つめていた。
「そ、そうですか。……まあ、花嫁への考え方は人それぞれですからね」
 無理やり話を終わらせると、彼は別の話題へと変える。
「そうそう。そう言えば、以前に玲夜様と話をしていた鎌崎という方ですがね……」
 柚子と玲夜はぴくりと反応する。
「自分の花嫁を間違えたというんですよ。そんな間違い起こり得るものなのでしょうかね? 玲夜様はどう思われますか?」
 穂香の旦那はなにか意図したわけではなさそうだが、ここで風臣の話が出るとは思わなかった。
 すると、それまで黙ったままだった穂香が口を開く。
「旦那様、それは本当でしょうか?」
「いや、どうせデマかなにかだろう。あやかしが花嫁を間違うなど、神のいたずらとしか思えないからね」
 はははっと軽快に笑う穂香の旦那を前に、柚子と玲夜は言葉を失う。
 穂香の旦那もまさかその通りだとは思うまい。
 いや、わざわざこんな話を出すなんて、彼が神器を持っているのではないのか。
「柚子。なにか感じるか?」
 耳打ちする玲夜の声を聞きながら、柚子は目の前の穂香の旦那に集中する。
 しかし、感じるものはない。
「なにもない、と思う……」
 柚子は自信なさげに答えた。
「そうか」
「でも……」
 なんだろうか。
 この言い知れない気持ち悪さは。
 喉に小骨が引っかかったような不快感。
 後もう少しで手が届きそうなのに届かないようななにか。
 ふと穂香を見ると、穂香は顔を俯かせ小さく笑っていた。
 きっとそれが見えたのは柚子だけだろう。
 その様子に違和感を覚えるも、特に何事も起こらぬまま、ふたりは去っていった。
 柚子は先程の穂香が気になった。
「柚子? なにかあったか?」
「ううん、なんでもない」
 穂香が笑っていたからなんだというのだ。
 別におかしなことではない。
 柚子は違和感がありつつも、口には出さなかった。



 パーティーが行われてから一週間ほど経ったある日、柚子の元に花茶会の招待状が届いた。
 今回もお手伝いとしての参加要請だ。
 柚子はほとんど考える時間も取らず、狐の折り紙に参加を告げた。
 トテトテと歩いて消えていく狐を微笑ましく見送ってから、花茶会に参加する旨を玲夜に報告へ向かった。
 それを聞いた玲夜は少しだけ不満そう。
「最近はずいぶんと頻繁に行われているんだな」
「そうなの? 花茶会がどれぐらいの頻度で行われるものなのか、私はまだ知らないから、なんとも言えないんだけど」
「母さんも、妖狐の当主も、早く柚子に仕切れるようになってもらいたいんだろ」
「まだ先は遠そうだなぁ」
 柚子には花茶会を仕切る自分の姿が想像できなかった。
 花茶会の中心にいるのが桜子だったなら、想像もたやすいのだが。
 しかし、主家の妻である柚子を置いて、仕える桜子が出しゃばるなどあり得ない。
 そんな下手をする桜子ではないだろう。
 なので、柚子がなんとか沙良と撫子から仕切り方を吸収して覚えるしかないのである。
「うーん……」
 自分にできるだろうかと、不安は尽きない。
 思わず唸ってしまう柚子の腕を引いて、玲夜はあぐらを掻いた足の上に柚子を座らせる。
 自然と近くなる玲夜との距離に、柚子はドキドキしてしまう。
 結婚したからと言って、玲夜を前に心がときめくのは結婚前と変わらないのだ。
「柚子のペースで頑張ればいい」
 そう微笑んで柚子の頬にキスをする玲夜。
 どこまでも甘く蕩けるように、甘やかすので、柚子はついついすがってしまうのだ。
「ほんと玲夜は私にもっと厳しくした方がいいと思う」
 不満だけど不満じゃない。
 この相反する気持ちをどう説明したらいいだろうか。
「柚子はしっかり頑張ってるからな。そうじゃなければ俺も厳しくしている」
「……ありがとう」
 注意しても玲夜が柚子を甘やかすのは変わりないようだ。
 玲夜の優しさに報いるように頑張るのが、柚子のできること。

 そして挑んだ花茶会。
 沙良と撫子を中心につつがなく進行する中、柚子は他の花嫁から驚愕の話を聞く。
「えっ! 穂香さんが離婚されたんですか!?」
 人違いかと思ったが、間違いなく柚子の知る穂香だという。
「そうらしい。聞いた時はわらわも驚いたが、事実のようじゃ」
 撫子のことなのできちんと確認したのだろう。
 それなら信じざるを得ない。
「あやかしと花嫁の離婚なんてあまり聞いたことぎありませんのにね」
「それにほら、穂香様の旦那様はあやかしの中でも特に執着が強かったですのに」
「ええ。花茶会に出席させることすら難色を示されるほどでしたよね」
「そんな方がよく穂香様を手放されたものです。とても考えられません」
 誰もが信じられないのか、穂香に関する会話が止まらない。
 彼女たちは花嫁だからこそ、あやかしの執着をよく知っている。
 一度結婚してしまえば、離婚したいと望んでも、あやかし側が受け入れるなんて奇跡に近い。
 柚子のように外で働くのを許される自体めったになく、それゆえ私財もなければ社会経験もない。
 そんな花嫁が離婚したとしても外の世界で生きていくのは難しいため、泣く泣く離婚できずにいる花嫁は少なくないようだ。
 そんな中での穂香の離婚は、花嫁たちに衝撃を与えた。
 だが、この場にいる花嫁の中で柚子が一番驚愕しているかもしれない。
 花嫁に執着するあやかしが離婚に応じるなんて。
 しかも、一週間前に柚子は穂香が旦那と一緒にいる姿を見たばかりだ。
 穂香の旦那から感じた病的なほどに強い執着心は、たった一週間で変わるようなものとは思えない。
 柚子の頭をよぎったのは、神器である。
 もし神器によってあやかしの本能が消されたのなら、離婚になったとしても合点がいく。
 風臣が突然芽衣への興味をなくしたように、穂香に興味がなくなったとすれば、説明がつく。
 柚子は静かに撫子の背後に回り、周りに聞こえないように囁く。
「撫子様、花茶会が終わった後、お時間をいただけるでしょうか?」
「かまわぬよ。わらわからも話があるのでのう」
 扇で口元を隠しながら撫子から了承の言葉をもらった。
 撫子には先日柚子が行方不明になった時に捜索をしてくれた礼もまだだった。
 もちろんその日のうちに手紙で礼状は送っておいたが、直接感謝を伝えたいし、こうして顔を合わせているのだから伝えるのが礼儀だろう。
 しかし、他の花嫁もいるこの場でする話ではないと、もともと花茶会の後に時間をもらうつもりでいた。
 神や神器についても、撫子には話していいかと千夜に承諾をもらっているので、諸々話す予定ではあった。
 そこに穂香の話が加わるだけである。
 おかげで神器の捜索が進展するかもしれない。
 いまだ行方知らずの神器は、鬼龍院の権力を持ってしても、捜索は難航していた。
 穂香の件が神器を探す手がかりになるといいのだが。
 早く茶会を終えて撫子と話したいのをそわそわしながら堪えていると、花嫁しか参加できないこの場に、突然男性が入ってきた。
 びっくりする柚子だけでなく、他の花嫁たちも驚いたように目を大きくして固まった。
 撫子と同じ白銀の髪に、整った容姿は撫子とどことなく似ている。
 困惑する一同の中で、撫子は今にも舌打ちしそうな表情で男性をねめつけた。
「藤史郎。なにゆえここに来たのじゃ。そちを呼んだ覚えはないぞえ」
「菜々子を迎えに来ただけです」
 藤史朗と呼ばれた男性は、花嫁の中のひとりに目をやる。
 彼女は菜々子と呼ばれる人で、柚子とは今回の花茶会が初対面だ。
 口数が少なく、どちらかというと自分から発言するより人の話を聞いて小さく笑っている方が多い彼女への感想は、大人しく淑やかな人である。
 そんな彼女が、先程までの柔らかな表情から一変して、男性が姿を見せるや、憎々しげな表情を浮かべているではないか。
 柚子が困惑していると、桜子がそっと教えてくれる。
「あの方は孤雪藤史朗様です。撫子様の一番上のご子息で、菜々子様の旦那様でいらっしゃいます」
 柚子は声を出しそうになったのをなんとか堪え、声なく驚いた。
 撫子の息子というには撫子と変わらぬ年齢のように見える。
 撫子が特別なだけなのか、千夜といい撫子といい、見た目が若すぎる。
「ということは、菜々子様は撫子様の義理の娘になるんですか?」
 柚子も桜子のように声を落として問いかける。
「ええ。そうなります」
 そこで柚子は思い出す。
 撫子の息子ということは、藤悟の兄ということだ。
 藤悟は、以前に長男が一番撫子に似ていると言っていた気がする。
 確かにじっくり見てみると、ふたりはよく似ていた。
 顔立ちだけでなく、髪や目の色までそっくりだ。
 藤史朗は、やや高圧的な様子で、菜々子のそばまで行くと、無理やり腕を掴んだ。
「いやっ」
 菜々子が藤史朗の手を振り払おうと動く。
「藤史朗!」
 撫子も窘めるように息子の名を呼ぶが、藤史朗は菜々子の腕を掴んだままだ。
「もういいだろう。十分花茶会を楽しんだはずだ」
「まだ終わっていないわ」
 菜々子は必死に逃れようと腕を動かすが、人間の、それも女性の力ではあやかしに到底かなわない。
 ますます撫子の顔が怖くなっていく。
「藤史朗、やめよ。たとえ息子のお前といえども、わらわの茶会を汚すことは許さぬ」
「母上は黙っていてください。そもそも俺はこの花茶会には反対なんだ。別に他の花嫁が参加するのまで止めませんが、菜々子まで巻き込まないでいただきたい」
「その菜々子が望んでおるのじゃ」
 玲夜にも負けぬ威圧感を自分の息子にぶつける撫子は、はっと息をのむほどに美しい。
 その場は完全に撫子に支配されていた。
 にもかかわらず、撫子の横でニコニコと微笑んでいる沙良は大物だ。
 さすが鬼龍院当主の妻をするだけあると感心する。
 さらには撫子が作り出した空気が、菜々子を後押ししているようにも感じた。
「お義母様の言う通りよ。あなたはいつもそう。私の意見を無視して、勝手なことばかり言って。花茶会に出たいと願ったのは私の方よ。他の方々に迷惑をかけないで! ここは花嫁のためのお茶会。部外者は出ていってちょうだい!」
 大人しそうな第一印象から打って変わって、自分の意思を強気に伝える菜々子に、柚子だけでなく菜々子の旦那である藤史朗も驚いた顔をしている。
 菜々子のあまりの剣幕に、言葉も失うほどびっくりしているようだ。
「よう言うた。それでこそ我が娘じゃ」
 撫子は満足そうに笑みを浮かべてから、一瞬で笑みを消して閉じた扇を藤史朗に突きつける。
「聞いたか、藤史朗? そちは招かれざる客である。即刻部屋から出ていけ」
 撫子の静かな怒りに、藤史朗は今にも舌打ちしそうなほど顔をしかめる。
 そして、一拍の後に己を落ち着かせるように小さく深呼吸した。
「……分かりました。今回は引きます。しかし、俺が認めていないことは心に留め置いてください。たとえ母上といえども、花嫁を奪う権利はない。俺の許可なく菜々子を外に出すのは許しません」
「そちの許可など必要としておらぬわ」
 しっしっと、ハエでも払うように手を動かして、撫子は藤史朗を追いやる。
 藤史朗が部屋からいなくなると、なんとも言えぬ空気が流れた。
「皆様にはご迷惑をおかけして申し訳ございません」
 菜々子が立ち上がると深々と頭を下げた。
「わらわからも謝罪を。わらわの愚息が騒がせた。許しておくれ」
「いいえ、そんな!」
「謝罪など不要ですわ」
「ええ。菜々子様も頭をお上げになって」
 撫子にまで謝られては、逆に花嫁たちの方が気を遣う。
「撫子ちゃんのところも大変ねぇ」
 ほのぼのと笑いながらそんなことを言う沙良は、完全に他人事だ。
 撫子は苦笑いする。
「藤史朗も、若ほどの懐の深さがあれば少しはマシなのじゃがな」
「うふふ。撫子ちゃんに褒められてたって玲夜君に伝えておくわ。苦い顔をされるだけだろうけど」
「やれやれ。あやかしの本能とは、ほんに面倒臭いものよの」
 撫子が花嫁たちを見回すと、おかしそうに笑う者、苦笑いする者、苦虫をかみつぶしたような顔になる者と様々だ。
「お義母様……」
 菜々子が眉を下げて撫子に目を向ける。
 困ったように、今にも泣きそうな顔で。
「そちの味方をしてやりたいところだが、わらわは藤史朗だけが悪いとは思っておらぬ。そちももっと話し合いをするべきではないかと思うぞ」
「はい……」
 しゅんと肩を落とす菜々子は静かに椅子に座った。
 その様子に、撫子と沙良は目を見合わせて苦笑するのだった。
 柚子も、旦那の惚気話をする者もいれば、菜々子のようにうまくいっていなさそうな夫婦を見て、複雑そうな表情になる。
「桜子さん。私、とても花嫁たちを仕切る自信がないです……」
 柚子の心からの叫びであった。
「大丈夫ですよ。柚子様ならなんとかなります」
 なんの確信があってそんなことを言うのか、桜子は自信満々ににこりと微笑んだ。

 花茶会が終わった後、柚子はあらかじめ約束していたように、撫子と話し合う時間を作ってもらった。
 その場に沙良も桜子もおらず、撫子とのふたりきり。
 撫子を前にするとどうにも緊張してしまう。
 撫子といるのが嫌なわけではない。
 悪い緊張感というよりは、いい意味での緊張感だ。
 女性でありながら当主として一族をまとめ、誰よりも強い存在感と艶やかさ、独特な空気持つ撫子には憧憬すら浮かぶ。
 とても超えられるとは思えない人。
 お手本にしたいと思う桜子とはまた違った憧れである。
「今日は騒がせてしまったのう。愚息に驚いたのではないかえ?」
「えっと、す、少しだけ……」
 取り繕ったところで、撫子にはお見通しだろうと、柚子は素直な感想を述べた。
 撫子は別に怒りはせず、むしろ楽しげに笑う。
「ほほほっ、ほんに柚子は素直な子じゃのう」
「すみません……」
「よいよい。それが柚子のよいところじゃ」
 一通り笑い終えると、扇をパチンと閉じ、やや困り顔で口を開いた。
「わらわには三人の息子がおってのう。三人ともなんとも個性的に育ってしまった……。特に三男の藤悟ときたら……」
 やらやれというように撫子は扇で頭を押さえた。
 撫子は柚子が藤悟と面識があるた知っているからこそ彼の話題を出したのだろう。
 困り顔の撫子の、言葉に出さぬ言いたいことがなんとなく伝わってくるようだ。
 柚子はあえて口をつぐんだ。
「その中でも、先程姿を見せた長男の藤史朗は常識人に育ったと思っておったのだが、花嫁を得て花嫁中心の生き方に変わっていきおった。まあ、花嫁を迎え入れる自体は一族としても喜ばしいことなのじゃが、花嫁を得たあやかしは限度というものを知らぬ。花嫁が大事なあまり、少々やりすぎるのじゃよ」
 撫子は、はぁとため息をつく。
「わらわが、花嫁はまるで呪いのようじゃというのも、近いし身内にそれがおって、藤史朗を見てきたからでもある」
「菜々子様たちはあまり仲がよろしくはないのでしょうか?」
 柚子の問いに、撫子は苦い顔をした。
「あのふたりはのう……。なんというかいっそ面白いほどのすれ違いを起こしておるせいでもある。ふたりとも思い込みが激しくて、それが関係をややこしくしておる。まあ、それは孤雪家の問題。柚子が気にする必要はないので案じるな」
「はい」
 柚子は素直に頷いた。
「先程も言ったように、わらわには男児しかおらぬ上、花茶会をよく思っておらぬ長男がいるため、菜々子に花茶会の後継を任せるわけにもいかぬ。そんなことをしたら余計にあのふたりの関係がこじれかねない」
 再度困ったような息を吐いた撫子は、視線を柚子へ向ける。
「だから、柚子が引き受けてくれたのはほんに嬉しいよ。三者三様の花嫁たちをまとめるのは大変であろうが、頑張っておくれ」
「正直、自信はないですが、やれるだけのことはやってみます」
 本当に自信はないのだが、撫子にそこまで言われたら、そう返さざるを得ない雰囲気である。
「うむ」
 柚子の言葉に、撫子は満足そうに頷いた。
「さて、では本題に入ろうか」
「はい。まずは、先日の感謝を伝えさせてください。私の行方が分からなくなって、ご心配をおかけしました。撫子様が私を探すために尽力してくださったと聞いています。本当にありがとうございました」
 正座する柚子は畳に手をついて、深々と頭を下げる。
「かまわぬよ。わらわが勝手にしたこと。礼はいらぬ」
 頭を上げた柚子は困ったように微笑む。
 撫子ならそう言うと思ったのだが、やはり誠意は見せたかった。
 その件に関しては終わりというように、撫子の話題は変わる。
「それで、わらわに話とは、それが関係しておるのかえ?」
 柚子は幾度となく繰り返した状況の説明を行う。
「目が覚めると私は一龍斎の元屋敷にいました。そこで人間とあやかしの神様に会ったんです」
 神に会ったと話すと、撫子は大層驚き、前のめりになって問い返す。
「本当かえ!? あの方にお会いしたと?」
「はい」
「どのような方であったのじゃ!?」
「とても美しいのひと言です。社の周囲にあった桜の木が一斉に咲いたんです。そしたら桜の花びらが集まって神様になって。撫子様よりも真っ白な髪をした、桜の化身のような人でした」
 身振り手振りも交えながら、当時の状況を伝えると、撫子も興奮しているようだった。
「神様は撫子様のことをご存知のようで、会ってみたいとおっしゃっていましたよ」
「それはなんという誉れ! かように嬉しきことがあるだろうか」
 頬を紅潮させる撫子はまるで恋する乙女のようだ。
 実際は恋ではなく崇拝という言葉の方が相応しいだろう。
「突然のことだったので私もびっくりしてしまったのですが、龍も間違いなく神様だと」
「それはさぞ驚いたであろう。わらわならば卒倒しておるかもしれぬ」
 撫子は柚子の当時の気持ちを自分に置き換えて、柚子を憐れんだように話すが、その目はどこか羨ましそうだ。
「そこで神様に神器を探してくれと頼まれたんです」
「神器とな?」
「はい」
「もしや、その神器というのは、烏羽家に与えられたという……」
 やはり撫子は知っていたようだ。
 三つの家に神が与えられたもの。
 その話を以前にしていたのは撫子だ。
 花嫁を得た鬼龍院。分霊された社を得た孤雪。
 その時の撫子は、もうひとつの家を口には出さなかったが、そこまで知っているなら当然残りのひとつの家に与えられたものの情報を手にしていてもおかしくない。
「撫子様は神器がどんなものかもご存知なのですか?」
「いや、神器が烏羽家に与えられたことは記録にあるが、それがどんなものかまでは伝わっておらぬ」
「……花嫁へのあやかしの本能を奪ってしまうものらしいです」
「なんと……。それほど大事なものをあの方は烏羽家に渡していたというのか」
 撫子はひどく驚いて目を大きく見開くが、次の瞬間、その目を鋭くした。
「なるほど。柚子は穂香の離婚を気にしておるのじゃな?」
「はい」
 さすが撫子。柚子が多くを語らずとも、柚子が撫子との話し合いを望んだ理由を察したようだ。
「神様は烏羽家に神器はなく、悪用されているとおっしゃっていました。そのため、」
「ふむ。神器がなぜ烏羽家にないかは置いておくとして、それほどの重要なものを放置しておけぬな」
「龍によると、神様に探すと約束してしまったために、見つからないとマズイらしいです……」
「神とそのように簡単に契約をするとは……」
 撫子はあきれたような目を向けるが、柚子は知らなかったのだから仕方ない。
 誰もそんな重要なことは教えてくれなかったのだから。
 しかも柚子は『やれるだけのことをする』と言ったのだ。
 絶対見つけるとは言っていないのにそれでも神との約束となるなるなんて理不尽さを感じる。
「ということで、意地でも探さないといけないんですが、神器は形を変えるらしく、鬼龍院でも捜索が難航しているみたいで……」
「なんとまあ」
「でも、手がかりがないわけではないんです。神器が使われた可能性のあるあやかしがいて、彼の周辺を玲夜が調べてくれています。それに、今日穂香様の話を聞いて、穂香様の旦那様も同じように神器が使われたんじゃないかと思うんですが、撫子様はどう思われますか?」
 反応をうかがうように見る柚子に、撫子は少し考える様子を見せる。
「……そうじゃのう。確かにあの穂香が離婚したというのは違和感がある。わらわも最初は耳を疑ったぐらいじゃ。穂香の旦那を知っているが、花嫁を持つあやかしの中でもトップクラスに束縛の強い男であった。同性であるわらわにすら敵意を抱くほどに」
 パーティーで顔を合わせた時、花茶会をよく思っていない様子だったのを思い出し、柚子は頷く。
「玲夜に穂香様のことを調べてもらおうと思いますが、よろしいですか?」
 穂香を調べるなんて、穂香を疑うようなもの。
 花嫁のために花茶会を作るほどに花嫁たちを気にしている撫子には、ひと言告げておくべきだと思った。
 もちろん、沙良にものちほど話をするつもりだ。
 いや、沙良には神器のことがすでに伝わっているので、もしかしたらすでに穂香の離婚に疑いを持って、先に千夜に話をしているかもしれない。
「ああ、かまわぬよ。というより、穂香の離婚に疑問を持ったわらわは、すでに穂香の周辺を調べさせておる」
「そうなのですか?」
 柚子は大きく目を見開く。
「花茶会を主催する者として、花嫁たちの動向に気をつけるのは当然のことよ。柚子も、ただ茶会をすればよいというわけではないと覚えておくとよいぞ」
「はい」
 撫子の代わりをできるようになるのは、まだまだ遠そうだ。
「まあ、穂香の件でなにか分かったら、柚子にも報告しよう」
「ありがとうございます。そうしていただけると助かります」
 柚子は再度頭を下げた。
 神器の話はこれで終わりと、頭を上げた柚子は撫子に問いかける。
「それで、撫子様のお話とは?」
 撫子も柚子に話があるようだったなを思い出す。
「ああ、そうであったな。あの方の話ですっかり忘れ去っておったよ」
 扇広げ目尻を下げる撫子は、じっと柚子を見つめる。
 口も閉ざされ、一心に向けられる眼差しを柚子も静かに受け止める。
 撫子の話とはなんだろうかと考える柚子に、ようやく撫子が口を開いたが、その内容は予想外のものだった。
「そちは花梨を恨んでおるか?」
「へ?」
 思わず素っ頓狂な声が漏れる柚子は、一瞬理解することができなかった。
 頭が回り始めて、ようやく妹の花梨の姿が頭に浮かぶ。
「両親を乗り越えたそちだが、花梨とはいまだ会っておらぬであろう? あの子がしたことは許されるものではないが、まだ憎々しく思っておるか?」
 憎々しい……?
 その言葉が柚子にはすごく違和感があった。
 確かに、玲夜と出会うまでの柚子の生活は幸福とは言えないものだったかもしれない。
 いつも両親の顔色をうかがって、好かれたくて、自分を見て欲しくて仕方なかった。
 そして、自分とは逆に両親の愛を一身に受ける花梨が羨ましかった。
 妬ましさすら覚えるほどに。
 けれど……。
「撫子様。私は花梨を憎いと思ったことはありません。これまでも、これからも」
 ただひとりの妹。
 あれほど歪んでしまった姉妹の関係は、元を正すと両親が作り出した環境のせいではないかと柚子は思っている。
 そして、花梨は今はその両親と別の道を歩んでいるようだ。
 どんな心境の変化があったのか柚子には想像もできないが、柚子にはとことん甘く、柚子の害悪となるものを許さないあの玲夜が、会いたいなら会ってみるかと言い出すほどの変化があったらしい。
 柚子には驚くべきことだ。
 花梨が今どのような生活を送っているのか知らないが、花梨を応援したい。
「ほほほっ」
 撫子は機嫌がよさそうに笑う。
「やはり柚子はよい子じゃのう」
 撫子は柚子に近付くと、よしよしと頭を撫でる。
 されるがままになる柚子は問う。
「どうして突然そんなことをお聞きになるんですか?」
「それがのう。瑶太がなんとも不憫で見てられぬのじゃ」
「瑶太?」
 瑶太とは、孤月瑶太のことでまず間違いないだろう。
 柚子の妹である花梨を花嫁に選んだ瑶太だが、鬼に楯突いたのを理由に、花梨を花嫁として一族に認められなくなってしまった。
 その後、何度かかくりよ学園で顔を合わせたが、以降一度も会っていない。
「彼がどうかしたんですか?」
「今は孤雪家傘下の会社で働いておるのだがの、どうやらちょくちょく休みの日に花梨の様子を見に行っておるようじゃ」
「そうなんですか? ですが、花梨と彼は……」
「そう。花嫁とは認めぬと、当主たるわらわが決めた。それゆえ、直接会ってはおらぬようじゃ。こっそりと陰から花梨の様子をうかがっているだけらしい」
 こっそりと陰から……。
 どうやら瑶太はまだ花梨を忘れられずにいるらしい。
 同じく花嫁を手放したのちに、杏那という彼女を作った蛇塚とは別の道を歩んでいるようだ。
 ただ見ているだけ。
 その様子を思い浮かべるだけでなんとも不憫に感じる。
 あのふたりが離ればなれとなった原因に自分が関わっているため、柚子は他人事に思えない。
「何年経っても一途に恋慕し続ける。ほんに花嫁を想うあやかしの本能とは厄介なものよのう」
 撫子はややあきれた様子で苦笑する。
「撫子様はどうして私にその話を?」
 瑶太が花梨の様子を見に行っているのを知っていながら、どうやら注意はしていないようだ。
「あれから約五年の時が経った。もうそろそろよいのではないかと思っておるのじゃよ」
「それはつまり、花梨を再び花嫁として一族に迎えるということですか?」
「そうしたいと思っておるが、柚子は嫌か?」
「先程撫子様もおっしゃったように五年の月日が経っています。あやかしは変わらずとも、花梨の気持ちが変わっているのではないでしょうか?」
 五年という時はとても長い。
 ただの人間である花梨の気持ちが変わらないとは限らない。
 新しい恋人ができていてもおかしくはなかった。
「わらわもそう思っておったのだが、なかなかどうして、花梨もずいぶんと一途であった」
「と、言いますと」
「花梨もまた瑶太を忘れられずにいるようじゃのう」
 これには柚子もびっくりだ。
 花梨のことなので、自分から離れていった己の利益とならない瑶太などすぐに忘れていそうに思っていたのに、本気で瑶太を好きだったというのか。
「これだけ時が経ってもなお想い合うふたりを、無視できなくてのう。妖狐の中でも、瑶太の健気さに胸打たれてわらわに進言してくる者もいる始末じゃ。しかし、ふたりの仲を認めなかった理由も理由じゃ。千夜と若に伝えたところ、柚子の気持ち次第だと答えが返ってきた」
「私ですか?」
 柚子はきょとんとする。
「辛い思いをしたのは柚子だからとな。それゆえ、先程恨んでおるかと聞いたのじゃ」
「なるほど」
 花梨を一族に迎え入れないと判決を出したのは撫子だが、花梨と瑶太を見て、撫子の心が動かされたというのか。
 撫子はふたりを許してもいいと思っているようだ。
 しかし、柚子がどう思うのか。それが気がかりであり、柚子の判断で瑶太と花梨の今後が決まってしまうらしい。
 なかなかに難しい判断を迫られたが、答えはすぐに出た。
「花梨とは、これまでのあれこれを忘れて姉妹仲よくとは、いかないと思います」
 仲よくするには、いろいろなことがありすぎた。
 わだかまりはいつまでもついて回り、修復することはない。
 血のつながっただけの他人以上になることはないだろう。
「そうであろうな」
 撫子は少し残念そうに目を伏せる。
「けれど、撫子様が許してもいいと思われるほど花梨が変わったなら、私が花梨の幸せを決める権利もないと思います」
 柚子はそう言って微笑んだ。
 その微笑みにはたくさんのものを乗り越えた強さがにじんでいる。
 柚子の笑みを受けて、撫子もゆるりと口角を上げる。
「あい分かった。頃合を見計らって、瑶太に花梨を迎えに行く許可を与える」
「すぐではないんですか?」
「すぐではつまらんじゃろう? もう少し泳がせて、会いたくても会えないジリジリとした気分を味わわせてやらねばのう」
 先程瑶太が不憫と口にしていたのではなかったのか。
 なんとも意地が悪い。
 瑶太が少しかわいそうに思った。





 花茶会を終えて屋敷に返ってきた柚子を、子鬼たちが出迎える。
「あーい」
「あーいあーい」
「ただいま。子鬼ちゃん」
 ぴょんぴょんと柚子の肩に飛び乗った子鬼に続いて、まろとみるくが自分たちもいるぞと寄ってくる。
「アオーン」
「ニャウン」
 スリスリと頭を寄せる二匹の頭を撫でてあげてから、柚子は辺りをうかがう。
「龍は今日もいないの?」
「うん」
「どこにもいない」
 子鬼の答えに「そう……」とつぶやく。
 いつもなら花嫁しか出席できない花茶会にすら、撫子にわがままを言って無理やりついてきていたのに、今日はついてこなかった。
 今も龍の姿はない。
 まあ、そばにいずとも加護の効果が消えることはないそうなので、柚子の護衛に四六時中一緒にいる意味はないのだ。
 柚子になにかあったとしてもすぐに分かり、駆けつけられるそうな。
 本当なのか正直疑っているが、龍は霊獣。
 いつもまろやみるくの餌食となり、頼りなさそうに見えるが、一応霊獣なのである。
 龍は夕食前に、玲夜とともに帰ってきた。
「おかえりなさい、玲夜」
「ただいま、柚子」
 いつものように頬へキスをされると、玲夜は着替えに部屋へ向かった。
 その場に残った龍はくるんと柚子の腕にからみつく。
「今日もお社へ行っていたの?」
『うむ。あの方のご機嫌うかがいにな』
「でも、神様は姿を見せるの?」
『見せずとも声は聞こえる。まあ、今はまだ寝ておられる時間が長いがな』
 神様がどういう状態なのか、柚子にはいまいち理解できていない。
 目覚めたかと思ったら寝ぼけていると言ったり、寝ていると言ったり、いったいどれなのか。
『柚子に会いに来るそうだ』
「会いに、来る?」
 呼び出されるではなく、“会いに来る”とはいったい全体どういうことだ。
『その時になれば分かるであろう』
 できれば周りに迷惑にならない形で会いたいものだ。
 少しすると雪乃が夕食の準備ができたと呼びに来た。
 向かえば玲夜もちょうど着いたところ。
 ふたり向かい合うようにして座る。
 高級料亭で出てくるような料理を、勉強のためになるとじっくり観察して味わいながら食べる柚子は、玲夜に話すことがあったのを思い出す。
「玲夜」
「どうした?」
 甘く囁くような返事とともに微笑みが返ってきて、柚子は一瞬ときめいてしまったが、気を取り直す。
「今日花茶会に行ってきたでしょう? そこで、穂香様っていう、この間パーティーでもお会いした花嫁が離婚したらしいの」
 途端に険しくなる玲夜の顔。
「鎌崎と同じと言いたいのか?」
「うん。パーティーの時の穂香様の旦那様はとても執着しているように見えた。穂香様が外へ出る理由になってる花茶会も、それを主催する撫子様やお義母様のことすら不満そうに文句を言ってたぐらいだったもの」
「……ああ、あのあやかしか」
 納得した様子の玲夜は、どうやら、たくさんいた出席者の中で、柚子の言っている穂香の旦那がどの人物なのか一致したらしい。
「離婚するなんておかしいって、撫子様も穂香様の周辺を調べてらしたみたい。神器のことを話すと、なにか分かったら教えてくださるって」
「そうか。確かに妖狐の当主の協力もある方が見つけやすいとは思うが……」
 その時、玲夜はなにかに気付いた様子で「そういえば……」と、つぶやいた。
「今思い出したが、鎌崎に会いにいったパーティーの時、その穂香という花嫁とも会っているな」
「そうなの?」
「ああ。柚子と花茶会で一緒したと言っていた。死んだような目をした女だったのを記憶している」
 玲夜が険しい顔をするものだから、柚子まで釣られて難しい顔をしてしまう。
 これはただの偶然か、それとも……。
「玲夜」
「分かっている。その穂香という者も調べてみよう」
「うん」
 玲夜が動いてくれるなら安心だ。
 しかし、そうなると、もう柚子にできることはない。
 ただ、報告を待つだけだ。
「話は変わるんだけど、花梨のこと、玲夜は聞いたんだよね?」
 柚子は顔色をうかがうように玲夜に視線を向ける。
「ああ、妖狐の当主から聞いている。あのふたりをどうするかは柚子次第だと答えてある」
「玲夜はそれでいいの?」
 鬼龍院と孤雪で決められたふたりの処遇なのに、自分が決定権を持っていいものなのか疑問だった。
「あのふたりに危害を加えられたのは柚子だからな。決めるのは俺でも父さんでもなく柚子だ。父さんもそれで問題ないと言っているし、柚子の好きにしたらいい」
「……ふたりを許してもいいって思ったんだけど、それでもよかった?」
「柚子がそれを望むならな」
 玲夜からの反対がなく、柚子はほっとした。
「花梨がいまだに瑶太を思い続けているってのは、正直びっくりしたの。花梨はあやかしの花嫁に選ばれた優越感で彼と一緒にいるんだと思ってたから」
「俺も同じだ」
「あれからもう五年経った。人が変われるには十分な時間だと思うの。私だって変わったでしょう?」
「そうだな」
 両親のように変わらなかった人もいるが、自分は昔より強くなれたと思えるから……。
「たぶんね、もう仲よくはできないと思うの。どれだけ花梨が変わったか分からないけど、撫子様が許してもいいって思えるほどなんだから相当なんだと思う。でも、私たちの間には見えない大きな亀裂があって、それは一生ついて回る気がする。わざわざ会いに行こうとも思わないし、花梨も同じだと思う」
 会ったところでなにを話していいか分からない。
「今さら姉妹なんて都合のいい言葉は使えないし、使ってほしくないけど、花梨の人生は花梨のものだから、私が選んでいいものじゃない。瑶太とこの先どうしていくかは、花梨たちがふたりで決めていくことだと思う……」
 だから、柚子はもういいと思った。
「柚子がそれでいいなら俺は賛成する」
 いつの間にか隣に来ていた玲夜が柚子の頭を引き寄せる。
 玲夜の胸に頭を寄せる柚子はそっと目を閉じた。
「あやかしの本能は厄介なものだって撫子様がおっしゃってたんだけど、その時神器のことが頭をよぎったの。あやかしの本能を消してしまう神器。神様は悪用されてるって。だけど、蛇塚君は使ってみたいとも言ってた」
 柚子は玲夜から頭を離し、見上げる。
「玲夜はどう思う? 瑶太はいまだにあきらめられず花梨を思い続けていたみたいだけど、それほど強い想いは逆に苦しくはないのかな? いっそ本能をなくしてしまった方が、あやかしも花嫁も楽になるんじゃないのかな?」
 柚子の純粋な眼差しが玲夜を見つめる。
 玲夜は少し考えるように沈黙した後、柚子の頬に触れた。
「確かにあやかしが花嫁を想う本能は誰よりも強い。場合によっては、いっそなかった方が楽だと感じるのかもしれない。けれど、この本能のおかげで俺は柚子に出会えた。この尽きることのない感情に一生気付かぬまま過ごしていたかもしれないと思うと、俺は恐怖すら感じる」
 玲夜は柚子の両頬を包むように手を添えた。
「俺はなかった方がよかったなんて思わない」
「……でも、私ね、神様から神器の話を聞いてから考えるの。もしも花嫁じゃなかったら、玲夜は私を好きにはならなかったんじゃないかって。花嫁だから好きなのであって、花嫁じゃなくなったら、私は簡単に捨てられるんじゃないのかな? 神器を使われたあやかしが簡単に花嫁の興味をなくしたように。それが怖い……」
 花嫁を選ぶのはあやかしの本能。
 その本能をなくしただけで、あれだけ執着していた思いを忘れ去ったように興味をなくすあやかしたちに、柚子は恐れを抱いた。
 もしも玲夜に神器が使われたら。
 他の花嫁のように自分は用なしになってしまうのではないか。
 恐怖を訴える柚子に、玲夜は包むように添えていた手で柚子の両頬をつまむ。
 まろの猫パンチよりもずいぶんと弱い力ではあったけれど、そんなことをあまりされない柚子は目を瞬いた。
 玲夜は若干怒っているように見えた。
「玲夜?」
「俺を舐めるな。確かに出会いは柚子が花嫁だったからだ。そこはどうしようもない事実だから認めるしかない。けれど、今ある柚子への想いは、神器程度の力でなくすようなものじゃない」
 柚子の不安を吹き飛ばすように力強く告げられた想いに、柚子はなぜだが泣きそうになった。
「私が花嫁じゃなくなっても好きでいてくれる?」
「当たり前だ。そんなに不安だというなら、神器を見つけたら神に返す前に使ってみるか?」
 自分で言っていて良案だと思ったのか、「そうだな。そうしよう」と、玲夜はひとり決意を固めている。
 だが、神器を使うのはさすがにマズイ。
「……それはやめておいた方がいいかも。神様も神器が使われたらあやかしにどんな影響があるか分からないって言ってたし」
 本気で使いそうな勢いの玲夜に、柚子は表情を変えクスクスと笑う。
 また自分の弱さが顔を出してしまった。
 以前よりは強くなったと実感していても、どうしても弱かった頃の自分が消えてはくれない。
 変われたつもりでも変われていない。
 もっと強くありたい。
 多少のことでは揺れぬ強靱な心を手に入れたい。
 それがきっと玲夜の隣に立つ自信につながるはずだから。

 その日の夜、夢を見た。
 桜が舞う中、空には少し欠けた月。
 目の前には社と、長く白い髪をたなびかせた神が立っていた。
 柚子は真っ暗な周囲を見回す。
「神様……。ここは?」
『柚子の夢の中だ』
「夢?」
 夢と言うにはあまりにリアルだ。
 手足の感覚も、頬を撫でる風の心地よさまで感じる。
『少しだが力を使う余力ができたので、柚子の夢の中に入ったのだよ。夢の中ならいつでも会えるし、迷惑もかけないだろう?』
「そうですね」
 どうやら神なりに気を遣ってくれているらしい。
 以前に神に呼び出された時に多くの人へ迷惑をかけてしまったことを考えると、その気遣いは大変助かるが、夢の中に突然神が現れたら柚子もびっくりだ。
 これはちゃんと目が覚めるのだろうか。
 あまりにも現実的すぎて、ちょっと心配になってきた。
 それにしても美しい空間だなと、桜の花に気を取られていると、気付かぬうちに神が柚子の目の前に立っていた。
 手も届くその距離感に少し驚いた柚子だったが、顔には出さず神の様子をうかがっていると、おもむろに神が柚子の頭を撫で始めた。
 それはもう楽しそうに、にこやかな顔をしながら。
 あまりにも楽しそうというか嬉しそうだったので、拒否することもできなかった。
『柚子は本当にかわいいな。だが、ずいぶんと大変な時間を過ごしてきたようだ。それなのに、歪まずここまでよく育った』
 まるで孫の成長を喜ぶ祖父のように微笑む神に、柚子はなんとも言えない気持ちになる。
 こんなにベタベタとさわられているのに、嫌な気にはならないのが不思議だ。
 柚子に触れる手にいやらしさを感じないからかもしれない。
 他意はなく、心から純粋に柚子をかわいがっている。
「あの、神器のことなんですけど、まだ見つかっていなくて……」
『ああ、それならいつでも問題ない。見つかればいいし、見つからなければ、それはそれで構わない』
「えっ! 構わないんですか!?」
 早く神器を探さねばと多くの人が探し回っているというのに。
『前にも言ったが、あれはもともとサクのために作ったもの。サクはもういないのだから、どちらでもいい』
「でも、神器が悪用されているからって、気にされていたのではないのですか? あやかしにも影響があるからと」
『サクのための道具を勝手に使われているようだから不快なだけだ。神器が使われた時のあやかしの悪影響を気にしていたら、そもそも神器など作っていない』
「えー」
 思っていたのと違うと、柚子は呆気にとられた。
「じゃあ、どうして私に探すように依頼したんですか?」
『柚子には必要かと思ったから』
「私にですか?」
 まさかそこで自分の名前が出てくると思わず、柚子は困惑した様子。
『サクの時のように、鬼に愛想を尽かしたら、神器が必要になってくるだろう?』
 なんの悪気も悪意もなく、神は柚子の髪を撫でながら首を傾ける。
『鬼が嫌になったら使うといい』
「つ、使いません!」
 柚子は慌てて否定するが、神は『遠慮することはない』と、信じてくれない。
「私は玲夜とずっと一緒にいたいんです。なのでそんな神器なんて必要ないです」
 そう訴えると、神は目を丸くした後、くつくつと笑い出した。
『そなたはサクと同じことを言うのだな』
「サクさんも?」
『ああ。そんなもの必要ないから壊してくれと、大きな石を持ってきて叩き壊そうとしていた。まあ、そんなことで神の作った道具が壊れるはずもないというのに、かわいい子だ』
 柚子には分かる。
 その時のサクの必死さが。
 けれど、今と同じように、神には伝わらなかったのだろう。
「あの、じゃあ、神器は見つからなくてもいいんですか?」
『いや、念のため探しておくれ。柚子が使うかは別として、私の力によってできたものだ。管理もできない者に持たせておけないから』
 管理もできないとは、烏羽家のことを言っているのだろうか。
 そもそもどうして烏羽家は神器を手放したのだろうか。
 神なら知っているのか。
「あの……」
 柚子が声をかけたその時、以前のように神の姿が桜の花びらに溶けていく。
「神様!?」
『時間のようだ。また会いに来るよ、私のかわいい神子』
 桜吹雪が柚子を襲い、はっと目を覚ました柚子の目に飛び込んできたのは、見慣れた天井だ。
 目が覚めたのかと、ぼうとしていると……。
「柚子!」
 玲夜が視界に飛び込んできた。
「玲夜?」
「大丈夫か!? どこか悪いところはないか!」
 ずいぶんと鬼気迫った様子に、まだ少し寝ぼけていた柚子は一気に覚醒する。
「玲夜、どうしたの? そんな大騒ぎしなくても……」
「なに言ってるんだ。丸二日眠っていたんだぞ」
「二日!?」
 夢の中では体感で数十分程度だったというのに、現実世界ではそんなに経っていたなんて。
 驚きのあまり声を失う。
「そうだ。声をかけても揺すっても目を覚まさないから、どれだけ心配したか。医者に診せても眠っているだけだというし」
 よほど心配してくれていたのだろう。
 まだ不安そうにしている玲夜を見て、これはもうさすがに怒っていいのではないだろうかと、柚子は神に対して思った。
「夢の中で神様に会ったの」
「神に?」
「神様が、夢の中なら迷惑をかけないだろうって。それなのに、まさか二日も寝てるなんて……」
 どっちにしろ迷惑をかけているではないか。
 柚子の話を聞いて、玲夜のこめかみに青筋が浮かぶ。
「もういっそ社をぶち壊すか……」
 不穏な言葉を吐く玲夜を沈めてから、柚子は再び心配をかけた千夜や沙良、屋敷の人たちに謝罪行脚することになったのだった。
 今回は眠っているだけということで、透子や撫子には連絡がいっていなかったのが幸いだった。
 無駄に心配をかけずにすんだ。

四章

 二日ぶりに目を覚ました柚子に、子鬼が飛びついてくる。
「あい~」
「あーい」
「子鬼ちゃん、ごめんね」
 心配そうにする子鬼をなだめる。
 玲夜は柚子の隣でベッドに腰掛け、本家に連絡している。
 柚子が目覚めたことを千夜と沙良に報告しているのだ。
 また迷惑をかけてしまって、なんと謝ったらいいのやら。
 柚子自身は二日も眠っていたとは思えないほど体調はいい。
 むしろ調子がいいほどだ。
 けれど、玲夜は心配なのか、まだベッドの上の住人となっている。
 これから鬼龍院おかかえの医者がやって来るので、医者の許可が出るまで着替えるのすら駄目だと言われてしまった。
 柚子のことになると心配性になる玲夜の悪いところが出る結果となった。
 本当になんともないのだが、逆に玲夜が二日も目覚めなかった時の立場を想像すると文句が言えないので、柚子は仕方なく大人しく医者が来るのを待っている。
 どうやら電話が終わったらしく、玲夜がスマホをサイドチェストの上に置く。
 そして、柚子を横抱きにして膝の上に乗せた。
 柚子の首筋に顔をうずめる玲夜に、柚子は気恥ずかしそうに身じろぎすると、なにを思ったか柚子の首筋に吸い付いた。
 首筋に感じるわずかな痛みに、柚子は言葉を詰まらせる。
「れれ玲夜!」
 激しく動揺する柚子は、顔を赤くする。
 うろたえる柚子とは反対に、冷静そのものな玲夜はやや半目で恨めしそうに柚子を見る。
「仕置きだ。まったく、最近の柚子には心配をかけられてばかりだからな」
「うっ……」
 痛いところを突かれる。
 それを言われると柚子としても文句が言えないではないか。
「でも、神様がしたことなのに……」
 決して柚子が望んで心配をかけさせるようなことをしているわけではない。
「今度会ったら二度と顔を見せるなと言っておけ」
「それ、撫子様が聞いたらブチ切れると思うよ」
 誰よりも神を崇拝しているように感じる撫子である。
 神へ不満を述べるなど許されそうにない。
 当然のように龍も文句を言うだろう。
「俺の柚子を何度も呼び出す奴には当然の苦情だ」
 玲夜はそうとうお怒りらしい。
 今、神が目の前にいたら殴りかかりそうな勢いだ。
「まあ、私はなんともないから」
「当然だ。なにかあれば苦情だけで許すわけがないだろ」
 玲夜の眼差しが本気すぎてちょっと怖い。
 ご機嫌斜めの玲夜をどうにかこうにかなだめながら、しばらくして医者がやって来た。
 体調に問題なしというお墨付きをもらい、やっとこさベッドの住人を脱して、遅い朝食を取ることに。
 二日ぶりの食事なので、胃に優しい雑炊が卓に並ぶ。
 出汁のきいた熱々の雑炊を胃に収めてから、ほっとひと息つく。
「アオーン」
「にゃーん」
 ゴロゴロと喉を鳴らしてみるくが柚子に頭を擦りつけ、まろは柚子の膝の上で丸くなる。
 この夏の日に熱いものを食べたせいか、暑くなってきた。
 持っていたヘアゴムで髪を後ろでひとつに結いあげようとしていると、その様子を見た雪乃が困ったように止める。
「奥様。髪を結ぶのはやめておいた方がよろしいかと」
「どうしてですか?」
 分かっていない柚子に、有能な雪乃はなにも言わずそっと手鏡を渡した。
「お首の方に……」
 多くを語らぬ雪乃に言われるがまま首を見ると、雪乃が止めた理由が分かり柚子は恥ずかしくなった。
 そして、原因である玲夜にじとーっとした眼差しを向けた。
「玲夜、こんなとこにつけてどうするのよ~」
 思わず情けない声を出してしまう柚子が鏡で確認した首筋には、くっきりとしたキスマーク。
 向かいに座る玲夜はクスクスと意地悪く笑っている。
「さっき仕置きだと言っただろう」
「だからってこんなくっきりつけなくてもいいじゃない」
 見る者が見ればすぐにキスマークと分かる。蚊に噛まれたなんてごまかしはきかないだろう。
「透子の結婚式に出席するためにドレスを買いに行くって言ってたでしょう? これじゃあ、恥ずかしくて首元の開いた服は着られないよう」
 試着したら店員に絶対見られてしまう。そんな恥ずかしい思い、したくはない。
「なら、ちょうどいいだろ。露出の少ないドレスにしたらいい」
 玲夜の狙いは、最初からそれだったのではないかとさえ思い始める。
「着ていくドレスの目星つけてたのに……」
 がっくりとする柚子だったが、思い直す。
「結婚式までもう少し時間あるからそれまでに消えるかな?」
「なら消えたらまたつけてやる」
 玲夜なら本気でやりかねないので、首元の詰まったドレスにせざるを得なそうだ。
「そういえば、玲夜。仕事はいいの?」
 いつもならとっくに仕事に行っている時間だ。
 そういうと、玲夜から責めるような視線が返された。
「柚子が眠って起きない状況で、仕事に手がつくと思ってるのか?」
「そうでした」
 自分が元気いっぱいなために、二日間も目が覚めなかったのをすっかり忘れていた。
 最愛の花嫁がそんな状態で、平然と仕事をしていられる玲夜ではないのは、柚子がよく知っているのに。
「もしかして、玲夜寝不足じゃない?」
 今さらになって気付いた。
 いつ起きるか分からない柚子を前に、玲夜はちゃんと睡眠を取っていたのだろうか。
「問題ない」
 柚子のことは過保護なほど気を遣うのに、自分のことになると一転しておろそかになる玲夜の言葉はこういう時信用できない。
 柚子は事実を求めて雪乃へ視線を向ける。
「雪乃さん、どうでした?」
「奥様がいつ目を覚ますか分からないからと、この二日間ほとんど睡眠を取られておりません」
 あっさり主人を売った雪乃は、それだけ玲夜を心配してのことだ。
 それなのに、困ったように頬に手を当てる雪乃を、玲夜がにらむ。
 けれど、雪乃をにらむのは見当違いである。
「玲夜ったら」
 咎めるような柚子の視線はなんのその、玲夜はしれっとしている。
「玲夜を怒っちゃ駄目だよー」
「玲夜は柚子が心配なだけー」
 子鬼がすかさずフォローに回る。
 柚子の腕にひしっとすがりつく……いや、張りつく子鬼はかわいらしく、ほだされそうになるが、それとこれは別物だ。
 膝の上に乗っていたまろを横に移動させ、玲夜の腕を掴む。
「ほら、玲夜、行こう」
 柚子は腕を引っ張って立たせようとする。
「どこに?」
「部屋に。睡眠取らないと、今度は玲夜がどうにかなっちゃうよ」
「あやかしはそんなやわじゃない」
「問答無用」
 自分のせいで玲夜が倒れてしまったら、自己嫌悪に陥るに決まっている。
 自分のためにも玲夜には睡眠を取ってもらわねば。
 真剣な様子の柚子に、玲夜はクスリと笑ってされるがままに引っ張られると、寝室へ向かった。
 玲夜をベッドに寝かせて満足そうにする柚子は、ライトも消しカーテンも閉じて部屋を暗くする。
 一緒についてきたまろとみるくもベッドに上がり玲夜の足下で丸くなる。
 こうなったら皆でお昼寝だと、柚子も玲夜の横に転がった。
「気持ちよく眠れるように子守歌でも歌おうか?」
 いたずらっ子のように笑う柚子に、玲夜も優しく微笑む。
「柚子が隣にいてくれるだけで十分だ」
 柚子を腕の中に閉じ込め、少しすると玲夜は目をつぶる。
 それを見届けると、二日も眠ったというのに柚子もなにやら眠くなってきた。
 大きなあくびをして、規則正しく動く玲夜の胸に顔を寄せ眠りについた。

 翌日、柚子は玲夜とともに買い物に出かけた。
 透子と東吉の結婚式に出席する時に着るドレスを買うためだ。
 玲夜の仕事は大丈夫なのか心配になったが、玲夜いわく「桜河がなんとかする」らしい。
 副社長も務める桜河のなんと不憫なことか。
 妹の桜子はすでに高道と結婚しているというのに、桜河にはいまだ決まった相手がいないらしいのだが、玲夜がことあるごとに面倒ごとを放り投げるからではないのかと思ってきた。
「玲夜。桜河さんにはもう少し優しくした方がいいよ」
 柚子に問題が起こるたび、なにかとしわ寄せが桜河に向かっている気がして、柚子は桜河がかわいそうになってきた。
 それなのに、玲夜ときたら……。
「問題ない。桜河だからな」
 それは桜河を信頼しているからの言葉なのか、都合よく利用しやすいという意味なのか定かでないが、後者だった場合、本当に不憫すぎる。
 桜河にいつか春がやって来るのを切に願うばかりだ。
 そんな話を交えながらやって来た店。
 透子たちは洋風の結婚式をするというから、着物では浮いてしまいそうなので、ワンピースかドレスを見に来た。
 透子のドレスの色が分からないので、被らないように気をつけたいところだが、当日のお楽しみといって教えてくれない。
「玲夜は何色がいいと思う?」
「露出が少ないのだ」
「色を聞いてるんだけど……」
 困ったように笑う柚子は、チラチラと玲夜が店の中ではなく外を気にしているのに気がついた。
「玲夜? どうかした?」
「なんでもない」
「そう?」
 気のせいかと柚子はドレス選びに戻る。
「これー」
「僕はこれー」
 子鬼たちも柚子に似合いそうなドレスを選んでくれる。
 もしここに龍がいたら子鬼以上に口を出しただろうに、柚子が二日も眠っていた時から姿が見えないらしい。
 玲夜も、眠り続ける柚子のことを龍ならなにか分かるのではないかと探していたのだが、屋敷にすら帰ってきていないのだとか。
 柚子が目覚めてからも帰ってきた様子はない。
 まろとみるくならなにか知っているのだろうか。
 しかし、二匹は無言を貫いたため、いつもなら二匹の言葉を理解し教えてくれる子鬼たちもお手上げ状態のようだ。
 玲夜ですら勝てなかった霊獣なので、龍の心配はしていないのだが、自分の知らぬところでなにか起きているような気がして、なんだがすっきりとしない。
 まあ、気にしたところで柚子にできることなどたかが知れている。
 神器の捜索も難航しているようだ。
 だが、神はそこまで重要視していないと夢の中で知ったし、とりあえずは目の前に迫った結婚式のためのドレスを選ぶことに集中する。
 何着か試着して、最終的に淡い水色のドレスに決めた。
 柚子の予想だが、透子は暖色系のドレスを選ぶと思ったのだ。
 これで間違っていたら落ち込むが、柚子好みのかわいらしいデザインに一目惚れだった。
 試着した姿を玲夜に見せると、玲夜の基準もクリアしたようで、許可が下りた。
 子鬼も手をパチパチと叩いて褒めてくれ、柚子はほっとする。
 この店にはアクセサリーも置いているとあって、ドレスに合わせたアクセサリーも一緒にそろえることにした。
 さすがに今から藤悟にオーダーメイドしてもらう時間はない。
 それに、藤悟には柚子のものより大事な、主役である透子のアクセサリーを作ってもらっているところなのだから。
 会計はもちろん玲夜。
 柚子が着替えている間に、さっさと会計をすませてしまうスマートさはさすがである。
 以前に龍の力を試すためにと買って当たった宝くじの当選金だが、祖父母の家のリフォームに使っただけで、それ以降減る様子はない。
 なにせ、必要なものは全部玲夜が用意してしまうのだから。
 玲夜と暮らすようになり、最初は遠慮していたものの、結婚したのだから玲夜が稼いだお金は夫婦の共有財産という考えが根付きつつあるが、やはりまだ気後れしてしまう。
 十年、二十年と経てば、遠慮もなくなってくるのだろうか。
 それはその時になってみなければ分からない。
 包んでもらったドレス一式は、護衛の人に渡り、店まで乗ってきた車に乗せられた。
「この後はどうするの?」
 柚子としてはせっかく玲夜とふたりで外に出たのだから、デートのように過ごしたい。
 厳密にはふたりではなく、柚子の肩には子鬼がいるし、護衛の人たちも少し離れてついてきている。
 だが、まあ、これはもう仕方ないとあきらめている。
 なにせ玲夜は天下の鬼龍院。柚子はそんな彼の花嫁なのだから。
「少し歩こう」
「うん」
 柚子はすぐに帰るということにならなかったと純粋に喜んだが、どこか玲夜の様子がおかしかった。
 柚子の肩に乗る子鬼も、警戒するように目を鋭くさせているのに、柚子は気付かなかった。
 ウィンドウショッピングを楽しみながら、祖父母へのプレゼントを選ぶ。
 柚子が神に呼び出されて行方不明となった時、当然祖父母にも連絡がされていた。
 柚子が向かう場所として可能性が高いのが、猫田家か祖父母の家だからだ。
 学校でのストーカー事件の時よりも心配をさせてしまい、ふたりには申し訳ないことをしてしまったと、柚子はすぐに電話をかけて無事を知らせた。
 度重なる問題に、ふたりの心労が気になるところなので、近いうちに泊まりで遊びに行こうと計画している。
 けれど、それは透子と東吉の結婚式の後になるだろう。
 祖父母のプレゼントを買うと、特に目的もなく歩く。
 玲夜となら、そんな無駄な時間すら愛おしく感じるから不思議だ。
 柚子は玲夜と腕に掴まり、玲夜主導で歩いていたのだが、大通りから離れ、だんだんと人通りの少ない方へと誘われる。
 特に店もなさそうな裏通りに来ると、さすがに柚子もおかしいと思い始めた。
 先程までつかず離れずいた護衛の姿も見受けられない。
「玲夜?」
 柚子は玲夜の顔をうかがうように見上げるが、玲夜は無言で険しい顔をしている。
 玲夜が柚子の声に反応しないなど、通常では考えられない。
 不安げにする柚子と険しい玲夜の前に、突如として人が飛び出してきた。
 驚く柚子は、それ以上に、飛び出してきた人物に驚く。
 それは最近離婚したと聞いたばかりの穂香だった。
「穂香さん?」
 柚子は戸惑いを持って穂香を見つめる。
「先程からずっとつけていたな?」
 玲夜の問いかけに、穂香は不気味に口角を上げる。
「なんの用だ?」
「おかしいの……。同じ花嫁だっていうのに、どうして私とあなたは違うの? どうしてあなたは幸せそうに笑っていられるの? おかしい……。おかしいわ」
 そう話す穂香の目はギラギラとしている。
 穂香は持っていた小さな鞄から、手のひらに載るほどの、水晶のような透明な玉を取り出す。
「おかしなものは正すべきなの」
 ジリジリと近付いてくる穂香の異常さに危機感を抱く柚子だが、穂香の手にある玉から目が離せない。
 けれど、玲夜は気付いていないようで、危険を感じてはいない様子。
「そんな小さな玉でどうする? そんなものであやかしに勝てるとでも思っているのか?」
 穂香を挑発する玲夜と穂香の距離は、数歩で手が届くほど。
 玲夜は柚子を庇うように前に立っており、子鬼たちも柚子の肩の上でいつでも攻撃できる態勢を取っていた。
 そして、それまで姿が見えなかった護衛たちが続々と姿を見せ、穂香の退路を断つ。
 そんな中で、柚子だけが様子が違う。
 ただひたすら、じっと穂香の持つ透明な玉に目が向けられていた。
「あれは……」
 違う。普通の玉ではない。
 最初は水晶玉かガラス玉かと思ったが、そんな簡単なものではない。
 玉からオーラのようにあふれ出る、柚子の見知った力。
 そう、あれは神の力だ。
 間違うはずがない。
 神と夢で会った時も、ずっとその神聖で清らかな力を感じていたのだから。
 玉からあふれる力が神気だと感じた柚子の中に、すぐさま答えが出る。
『神器』
 どんな形をしているかも分からない、いくらでも形を変えてしまうそれは、神の力を感じ取れる神子の素質を持つ柚子でなければ見つけられない。
「玲夜っ」
 焦りを滲ませて玲夜の腕を引く。
「柚子は下がっていろ」
 そうではない。そうではないのに、うまく言葉にならない。
 そうしている間に、穂香は玲夜に向けてその玉を差し出した。
 すると、透明だった玉の中にゆらりと光が渦巻く。
 その瞬間、玲夜はめまいを起こしたようにぐらりと体がふらついた。
「っつ。……なんだ?」
 頭に手を当てる玲夜は、自分の異変に驚いている様子。
「玲夜」
 それでも、心配そうに玲夜を見あげる柚子だけは守ろように前に立っている。
「あなただけずるいわ」
 穂香は柚子に視線を向けたまま、玲夜に向かって走ってきた。
 もとより数歩で手の届く位置にいた穂香が、玲夜に近付くのはたやすい。
 周囲には護衛が何人もいるが、玲夜はそんな護衛たちよりずっと強い力を持っているあやかしだ。
 護衛たちは『玲夜の』というよりは、柚子の護衛としてつき添っている。
 そんな護衛たちは、玲夜なら簡単に穂香をあしらってしまうと思ったのかもしれない。
 だが、穂香をあしらうどころが、玲夜攻撃も防御の仕方も忘れたように、無防備に正面から穂香を受け止めてしまった。
 ドンとぶつかった穂香の手には、先程まで持っていた玉はあらず、変わりに小刀が握られ、深々と玲夜の胸に突き刺さっていた。
「……あ……玲夜ぁぁ!」
 柚子の悲鳴のような声に、護衛たちが慌てて穂香を玲夜から引き剥がし、地面に引き倒してから後ろ手に拘束する。
 その際に穂香の持っていた小刀が地面に落ちたが、そんなことを気にしていられる余裕はなかった。
「玲夜。玲夜! 刺されたの?」
 玲夜が着ていたシャツには、小刀が貫通したように縦に裂け目ができていた。
 だが、どうしたことか血が出ている様子はない。
 確かに刺されたのを見たのに。
「玲夜!」
 返事のない玲夜は、呆然としたように胸を押さえ、足の力を失ったようにその場に倒れてしまった。
「やだ。やだ、玲夜! 玲夜!」
「奥様、そこをお退きください!」
 完全にパニック状態になっている柚子を、護衛のひとりが玲夜から離し、別の護衛が玲夜のシャツをまくり上げる。
 しかし、そこには刺された跡どころか傷ひとつなく、綺麗な状態の皮膚だけだった。
「えっ?」
 柚子は呆然としたように声が漏れる。
 玲夜の様子を見た護衛も、困惑した様子を隠せないでいる。
「どういうことだ? 傷がないなんて」
「玲夜様の意識は?」
「気を失っているだけのようだ」
「いったん病院にお連れした方がいいな。俺たちで勝手に判断できない」
 そんな会話をどこか遠くに聞きながら、柚子の視線は玲夜を刺した小刀へと向けられた。
 地面に転がる小刀を手に持つ。
 一見すると普通の小刀のように見えるが、神子の素質を持つ柚子からすると、どこか普通のものとは違う。
 なにがと問われたら困ってしまうが、ただの小刀ではない。
 そもそも、先程まで玉だったものが、マジックでもないのに小刀に変わるはずがない。
「玲夜にぶつかる瞬間に小刀に変わってた」
 柚子の見間違いでなければ間違いない。
「これがもしかして神器……?」
 だとしたら玲夜は神器に刺されたということになる。
 それはどんな意味を持つのだろうか。
 嫌な予感がしてならない。
 穂香ならなにか知っているはずだと、いまだ拘束された穂香に目をやり問いかける。
「穂香さん。玲夜になにをしたんですか?」
 穂香はふふふふっと、愉悦するように笑った。
「あなたの持っているそれはね、とてもすごいのよ。花嫁のための特別な道具なんですもの」
「…………」
 柚子は興奮する穂香を静かに見下ろす。
「それであやかしを刺すとね、あやかしは花嫁への興味をなくしてしまうの。花嫁にとって奇跡の道具でしょう? それのおかげで私はあの男から解放されたんですもの」
 小刀を持つ柚子の手が震えた。
 穂香の話が本当なら、これは間違いなく神器。
 そして、神器を使われてしまった玲夜は……。
 その先は考えたくなかった。
 玲夜からあやかしの本能がなくなったのだとしたら、自分はどうしたらいいのか、柚子には分からない。
 けれど、今優先させるべきなのは意識を失ってしまった玲夜だ。
 護衛が車をここまで持ってきて、気を失った玲夜を乗せる。
 柚子も急いで乗り込んで、玲夜の手を必死の思いで握り続けた。
 いろんな葛藤が柚子の中でされたが、考えるのは後だ。
 玲夜の無事を確認しなければいけないと、自分を奮い立たせた。

 玲夜は鬼龍院お抱えの病院へと運び込まれ、そこで精密検査を受けることになった。
 人間とはまた違うあやかしという存在には、あやかしのための病院がある。
 そこを経営しているのも鬼龍院だ。
 まるでかくりよ学園の病院版のようなものだと柚子は認識する。
 実際は病院にやって来るあやかしは弱い下位のあやかしがほとんどだ。
 鬼のような強いあやかしが病院に運び込まれることは滅多にない。
 病院の医者も、あやかし界でも有名な玲夜が運び込まれてひどく驚いていた。
 意識のない玲夜の無事を祈りながら待合室で待っていると、沙良と桜子がやって来た。
「柚子ちゃん!」
「あ……お義母さま……。桜子さんも」
「玲夜君は?」
 沙良は切羽詰まった様子で柚子の肩を掴む。
「まだ検査中です」
 柚子の不安に彩られた表情が、暗く落ち込む。
「顔色が悪いわ」
 沙良とて玲夜が気になるだろうに、柚子の心配をしてくれる。
 その気遣いがありがたく、柚子を冷静にさせる。
 玲夜が心配なのは自分だけではないのだ。
「私は大丈夫です。それより玲夜が……」
「なにがあったの?」
 珍しく真剣な表情の沙良に、先程あった出来事を話す。
 穂香とは顔見知りである沙良と桜子はかなり驚いていた。
「穂香ちゃんがそんなことをするなんて」
 沙良は信じられないようだが、桜子はどこか納得げ。
「いえ、だからこそかもしれませんね。彼女は旦那様と折り合いが悪かったですから」
 悪いどころではない。
 憎んでいたといってもいい。
 それは柚子も知っていた。
 柚子は穂香が落とし、回収していた小刀を鞄から出す。
「柚子ちゃん、それは?」
「玲夜はこれで刺されたんです。でも、確かに刺されたのに傷がなくて、傷がないのに玲夜は倒れて……」
「玲夜君が素直に刺されたの? 抵抗もせず?」
「穂香様が持っていた時、最初は手のひらサイズの玉だったんです。それが玲夜に当たる前に小刀に変わって、玲夜もなんだが様子がおかしかったんです。それで、避けることもできずに刺されてしまった感じでした」
 柚子はなにもできなかった。
 それが悔しく、情けない。玲夜に守られてるだけの自分は、足を引っ張るばかり。
 なんの変哲もない小刀を柚子は苦々しい思いで握りしめる。
「穂香様が言っていました。これで刺されるとあやかしの興味をなくしてしまう、花嫁のための特別な道具だって」
 柚子の言葉を聞いて、沙良と桜子ははっとする。
「柚子ちゃんそれって!」
 柚子はゆっくりと頷く。
「もしかしたら、これが神様の探していた──」
『間違いなく神器のようだ』
 突然ぬっと現れた龍に柚子はびくりとする。
 当たり前のように現れた龍に柚子は目を丸くする。
「どうしてここに?」
『どうも柚子の心が不安を感じているようだったのでな。急いでやって来たというわけだ』
「不安を感じてるって……」
 確かに玲夜が刺されて不安でいっぱいだったが、龍はそんなことすら分かるのだろうか。
 だが、今追求すべきはそこではない。
「これが神器って、間違いないの?」
『うむうむ。我が教えずとも柚子とて分かっているのではないのか? これから発するあの方の力に』
 柚子は反論ができない。
 一見するとただの小刀でしかないのに、小刀から感じるこの感覚は間違いなく神のもの。
 神本人から感じるものと力の大小はあれど、柚子の中の神子の力が教えてくれる。
 これは神器だと。
「じゃあ、玲夜はどうなるの? 玲夜は刺されたのよ?」
 思わず涙声になってしまう。
『それは問題ない』
 不安でいっぱいの柚子に、龍は断言する。
『その神器はあやかしの本能を断つもの。肉体を傷つけるものではない』
「でも、玲夜は気を失って……」
『一時的なものだ。しばらくすれば目が覚めるであろうよ』
 一気に肩の力が抜ける柚子。
 沙良もほっとした様子だが、桜子だけは難しい顔をして口を開く。
「お待ちくださいな。玲夜様がその神器を使われたとなると、柚子様が花嫁でなくなるということではないのですか?」
 今になって気付く沙良が「あっ」と声をあげる。
『花嫁でなくなるわけではない。本来番えぬあやかしと人間が伴侶になれる、花嫁が持つ付加価値はあの方が人間に与えたものであるからして、なくなりはしない。ただ、花嫁と認識する本能がなくなるのだ』
「同じじゃないの~!」
 沙良が龍を両手でぎゅうっと握りしめてからブンブン前後に振る。
『ぬおぉぉぉ! なにをするのだぁ!』
「どうにかならないの!?」
『そう言われても、我にはどうすることもできぬ。なにせ我はしがない霊獣でしかないのだ。神の作った道具をどうにかできるはずがないであろう』
「もう! 役に立たないわね!」
 沙良はプリプリ怒りながら龍をぽいっと捨てた。
『ひどいっ。我は柚子が心配でやって来ただけなのに』
 よよよっと泣く龍を子鬼がよしよしと撫でて慰める。
「柚子ちゃん、玲夜君ならきっと柚子ちゃんへの想いは変わらないわ」
「いえ、玲夜の身が無事だって知れただけで十分です」
 たとえ自分が玲夜の唯一でなくなったとしても、玲夜が無事であるならば本望だ。
 そう自分に言い聞かせるも、やはり悲しい。
 もう玲夜が笑いかけてくれることはないかもそれない。
 柚子はぎゅっと手を握りしめる。
 そうすることで、噴き出しそうな感情を必死で抑えつけた。
 今はただ、玲夜が目覚めるのを待つだけだ。
 玲夜にもう自分が必要なくなったと確信ができたなら、玲夜から切り出される前に自分から別れを告げよう。
 玲夜から言われてしまったらきっと立ち直れないから。
 しばらくすると、玲夜の検査が終わり、面会がかなった。
 そうは言ってもまだ意識はなく、病室で静かに眠る玲夜を見るしかできない。
 検査をしても傷ひとつ見つけられず、検査でも異常はなかったようだ。
 龍の言ったように肉体を害しはしないようで、それだけが救いだった。
 眠っている以外はいつもと変わらぬ玲夜の綺麗な顔。
 玲夜は本当に自分を花嫁だと分からなくなってしまったのだろうかと、柚子は信じられずにいる。
 玲夜の寝顔をじっと見つめる柚子の肩に手が乗せられた。
「柚子ちゃん」
「お義母様……」
 柚子に向けられる温かな眼差しは、玲夜を彷彿とさせて、涙が出そうになる。
 あまり似ていないと自他ともに認められているが、やはり親子なのだなと実感させられる。
「千夜君は玲夜君の穴埋めと後始末のために忙しいから、ここには来られないないみたい。珍しくぶち切れていたわ。高道君も」
「そうですか」
 きっと千夜も高道も、仕事など放り出して駆けつけたいだろうに。
 特に玲夜至上主義の高道はひどく狼狽しているはずだ。
 それでも、その立場ゆえに感情にまかせて行動できない。
「お義母様、穂香様はどうなりましたか?」
 護衛に拘束されたところまでは知っているが、その後柚子は玲夜に付き添って病院へ来たので、穂香がどうなったか分からない。
 玲夜が傷ついていないとはいえ、鬼龍院に刃を向けたのだから、簡単に許されやしないだろう。
「穂香ちゃんはとりあえず鬼龍院本家に連れていかれたわ。どうするかは玲夜君が起きてからの体調次第かしらね。玲夜君に何事もなければ罰は軽くなるでしょうけど、そうでなかったら……」
 わずかに沙良の眼差しが鋭くなる。
 穂香と面識があったとしても、大事な息子を襲われたとあったら怒りを抱くのは当然だろう。
 柚子も彼女を庇う気にはなれない。
「そうですか……」
 どうして穂香は玲夜を狙ったのだろうか。
 旦那を毛嫌いしていたようだが、穂香はすでに離婚している。
 これまではその不審さから神器と関わりがあるのではないかという程度だったのに、神器を穂香が持っていたのなら話は変わってくる。
 離婚するために神器を使ったのは確実だろう。
 そうして自由を手に入れたはずなのに、玲夜と接触してきた。
 鬼龍院に手を出せばどうなるか、鬼龍院の影響力をあやかしの花嫁だった穂香が知らぬはずないだろうに。
 沈む気持ちを堪えきれない柚子に、沙良が告げる。
「柚子ちゃん。あなたにもやらなければならないことがあるでしょう? 玲夜君は私と桜子ちゃんが見ているわ。あなたはあなたのすべきことをしなさい」
 柚子は手にある小刀に視線を落とす。
 これが神の探していた神器ならば、神に返さなくてはならない。
 なのに尻込みしてしまうのは、神器であってほしくないと思っているからだ。
 この小刀が神器なら、玲夜は本能を失うことを意味する。
 どうしても信じたくない。
 けれど、こんな危険なものは早く返してしまいたいとも思う。
「……社に行ってきます。もしその間に玲夜が目覚めたら──」
「すぐに連絡するわ」
「それと、神器の捜索を撫子様も手伝ってくださっています。撫子様にも見つかったとご報告をお願いできますか?」
「任せてちょうだい。撫子ちゃんにはすぐに連絡を入れるわ」
 後は柚子のやるべきことをするだけだ。
 沙良に一礼してから、柚子は子鬼と龍を伴い、後ろ髪を引かれる思いで玲夜の眠る病室を後にした。
 向こうのは一龍斎の元屋敷にある社だ。
 到着すると、待ってましたとばかりにまろとみるくがいた。
「アオーン」
「ニャウーン」
「ほんと、いつもいるのね」
 二匹をそれぞれひと撫でしてから、社へ続く道を歩く。
 柚子を迎え入れるように動く、草木の不可思議さにはさすがに慣れた。
 当たり前の事象のように受け入れて歩む先には、神がおわす社。
 どこからともなく風が吹くと、一瞬で桜が満開に咲き誇った。
 初めて目にする子鬼たちは驚いたように目を大きくしてきょろきょろしている。
「あいー」
「やー」
 思わず声が漏れたという様子で、子鬼たちの驚きがよく伝わってくる。
『私の神子』
 桜が神を形取り、ふわりと微笑みかける。
「神様……」
 今にも泣きそうな顔と声で神を呼ぶ。
『分かっている』
 神はすべてお見通しというように、社の階段を降りてくると、柚子を優しく抱きしめた。
『強く生きよ。私の神子』
「玲夜がいないと無理です」
 そう。柚子の世界は玲夜によって彩られている。
 玲夜のいない世界でどうして強くあれるだろうか。
「神様。これ……」
 柚子は鞄から小刀を取り出す。
 小刀は神の手に渡ると、神のうちに取り込まれるようにすうっと消えていった。
「これは本当に神器なんですか?」
 嘘だと言って欲しい。間違っている。これは神器ではないと。
 否定してくれることを祈りながら問いかけるが、現実は残酷だ。
『いや。間違いなくこれは、その昔烏羽家に与えた神器だ』
 心が悲鳴をあげるようだ。
 龍が話していたので分かってはいた。それでも望みを捨てきれなかった。
「玲夜は私を花嫁とは思わなくなったということでしょうか?」
 震える声で問いかける。
『神器が使われたならそうなる』
「っ……」
 柚子は一瞬言葉を失ったが、絞り出した。
「正確にはどう変わるんですか?」
『花嫁と判別できなくなる。花嫁に感じる乾きにも似た渇望が消えさり、ただ普通の想いに変わる。花嫁だからこその執着も欲望も興味もなくなる』
 改めて言われると、今の柚子にはえぐられるような痛みを伴う。
『けれど気にすることはない。花嫁は花嫁なのだ。花嫁の伴侶は力を増し、花嫁の子供は強い力を持ったあやかしが産まれる』
 気にしないわけがないだろうに。
 あやかしの本能こそが花嫁を花嫁たらしめていると言っても過言ではないのに。
「もうどうしようもなかった時、玲夜に必要とされたから私は救われたんです。なのに、必要なくなったら、私はどうしたらいいんでしょうか?」
 迷子の子供のように寂しそうな目をする柚子に神は告げる。
『そなたの思うままに。私は柚子の幸せこそを願っている。本能をなくした程度で消え失せる想いなど、柚子が許しても私が許しはしない』
『うむうむ、そのとおーり!』
 龍だけがうんうんと頷いている。
『もし柚子を悲しませる結果となるなら、一龍斎もろとも鬼龍院にも責任を取ってもらうとするか』
 無表情でそんなことをさらっと告げる神に、柚子は固まる。
『神罰がなんたるかを思い知らせると言うならば、我も手を貸します』
「アオーン」
「ニャーン」
 龍に続いてまろとみるくまで声をあげる。
 柚子を慰めてくれているのだろうが、素直に喜んでいいものか判断に困る。
 すると、柚子のスマホが鳴った。
『どうやら目を覚ましたらしいな』
 まだ誰からかかってきたかも分からないのに、神は確信を持って口にした。
 神はもう一度柚子を抱きしめると、ポンポンと優しく背中を叩き、ゆっくりと離れた。
『行っておいで、柚子。そなたが笑顔でいられるようにいつだって私は見守っている』
 そうして神は桜の花びらとなって消えていった。
 それとともに周囲の桜も姿を消す。
 一気に現実へ戻された感覚になり、急いで鳴り続けるスマホを鞄から取り出した。
 電話をかけてきた相手は桜子だった。
「もしもし。柚子です」
『柚子様、神器は無事にお返しできましたか?』
「はい。無事に」
『それはよかったです。こちらも、玲夜様が目覚められました』
 玲夜が目覚めた。
 嬉しい気持ちとともに、恐怖心が柚子を襲う。
「すぐに戻ります」
 言葉通り寄り道せずに限界速度ギリギリで車を飛ばしてもらい、病院へと戻った。
 玲夜の病室の前で、柚子はなかなか扉を開けられずに立ち尽くしていた。
 本能を失ってしまった玲夜。
 花嫁とは思わなくなった柚子と会って、どんな反応が返ってくるのだろうか。
 冷たい、まるで他人のような目で見られたらどうしたらいいのか。
 あと一歩が踏み出せない柚子に、子鬼が柚子の頭を撫でる。
 小さな手で一生懸命よしよしと撫でる子鬼たち。
「柚子、大丈夫」
「うん。大丈夫」
 子鬼なりに状況を理解して柚子を慰めてくれている。
 子鬼たちの優しさに後押しされ、柚子は意を決して病室に足を踏み入れた。
 病室には沙良と桜子がいる。
 そして、ふたりの視線の先には、ベッドの上で上半身だけ身を起こした玲夜の姿が。
 ドクドクと嫌な緊張感で鼓動が鳴る。
 すぐに柚子に気がついた沙良と桜子だが、特になにか声をかけることもなく、柚子ではなく玲夜の反応をうかがっている。
 沙良と桜子のふたりも、玲夜の反応の予想がつかず、緊張した面持ちだ。
 手前にいた桜子が場所を空けてくれ、柚子はゆっくりと玲夜のそばへ。
「玲夜……」
 せめて他人を見るような視線は向けないでくれと願いながら名前を呼ぶと、玲夜は柚子を見てふわりと笑った。
 柚子の知る、柚子だけに向けられてきた笑顔だ。
 玲夜は手を伸ばし柚子の腕を掴むと、引き寄せられた。
 腕を掴むのとは反対の手で、柚子の頬に触れる。
「柚子、大丈夫か?」
 優しく、労り、そしてどこか甘さを含んだ声が柚子の名前を呼ぶ。
 変わらぬ玲夜に、柚子はくしゃりと顔を歪ませた。
「玲夜。玲夜……」
「どうしたんだ、柚子。社に行っていたそうだな。そこでなにかあったのか?」
「ふ……うぅ……」
 変わっていない。過保護で甘いいつもの玲夜だ。
 柚子は思わず泣き出してしまい、玲夜にしがみつく。
「う~。玲夜ぁ」
「神になにかされたのか? やっぱり苦情を言った方がいいな」
 沙良と桜子がいるのも忘れて玲夜にしがみつく柚子は、玲夜のおだやかな声に涙が止まるどころか次から次にあふれ出てくる。
 その様子を微笑ましく見ていた沙良は、どこかほっとした様子で問いかける。
「玲夜君。柚子ちゃんを見て、いつもと違って感じない?」
「違うとは?」
「興味なくなったなとか、かわいくなくなったとか」
「は? なぜ? 柚子はいつでもかわいいでしょう」
 問いかけの意味が分かっていなさそうな玲夜に、沙良と桜子だけでなく、柚子も不思議に思う。
 少し落ち着いた柚子が顔をあげると、ぐしゃぐしゃになった顔を玲夜が優しくタオルで拭ってくれる。
「玲夜。もし私が離婚したいって言ったらしてくれる?」
 これだけ玲夜に引っつきながら説得力に欠けるが、興味のあるなしを判断するにはちょうどいいはずだ。
 すると、言ったことを後悔するほど玲夜の顔が怖くなった。
「そんな話、許すわけがないだろう。どういうつもりだ。離婚したくなったのか?」
 これはどういうことだろうか。
 神器が使われ、あやかしの本能は消えたはずなのに、めちゃくちゃ柚子に執着しているではないか。
「あれ?」
 先程までの涙も引っ込んだ。
 疑問に感じているのは沙良も同じよう。
「柚子ちゃん。本当に神器が使われたのよね?」
「はい。神様もそうおっしゃってましたし」
 ならばなぜ玲夜は変わらぬのか。
 柚子たちの困惑を察したのか、玲夜が不機嫌そうに問う。
「どういうことだ? そもそも俺はどうしてこんなところで寝ている?」
「玲夜、なにも覚えてないの? お義母様も桜子さんも、玲夜になにも話していないんですか?」
「ええ、柚子ちゃんが着いてから話そうと思っていたから」
「えーっと……」
 玲夜から問いただすような視線を感じ、とりあえず穂香が現れたところから、これまでの経緯を話す。

 神に神器を返したところまで話終えて、玲夜の様子をうかがう。
「つまり、俺は神器によって今まで気を失っていたということか」
「全然覚えてないの?」
「ああ。あの女が向かってきて強烈なめまいがしたところまでは覚えているが、その後はなにも」
 強烈なめまい。神器によるものだろうか。
 そうでなければ、玲夜なら避けるか、逆にやり返すかしていただろうし。
「玲夜に神器が使われたことは間違いないのに、玲夜は私を見てもなんともないの? たとえば離婚したくなったりしない?」
「なるわけないだろ」
 柚子の口から発する『離婚』というワードすら禁句というように、玲夜にギロリとにらまれてしまった柚子は慌てて視線を逸らした。
 その流れで沙良に目を向ける。
「どういうことでしょう?」
 聞かれた沙良にも分からない様子。
「不発だったのかしら? それとも本当は神器じゃなかったとか?」
「いえ、ちゃんと神様に渡してきましたし、神器だとはっきり聞きました」
 けれど、相変わらずな玲夜。
 柚子は腕に巻きついている龍を見下ろした。
「ねえ、どういうこと?」
『簡単な話よ。そやつの愛情は柚子だからこそのものだったということだ』
 柚子はよく分からないというように首をかしげる。
『確かに最初は花嫁だから柚子を見つけたのかもしれぬ。けれど、今や花嫁だとか肩書きなどは関係なく、そやつは柚子自身を愛しておったということだ。本能とは無関係に柚子を愛していたなら、あやかしの本能をなくしたとて、想いは変わらぬ』
 なぜ龍がドヤ顔するのか意味が分からないが、龍の言いたいことは理解した。
 そして、それが本当なのだとしたら素直に嬉しいと、柚子は思う。
 以前に玲夜が言っていた『柚子への想いは、神器程度の力でなくすようなものじゃない』という言葉通り、本能をなくしても柚子への想いは変わらなかった。
 柚子は喜んだが、沙良は若干あきれている。
「つまり、玲夜君の重たーい愛情は、あやかしの本能と言うより、元来の性格からくるものだったってことよね? 他人をそれほど愛せるのは素晴らしいんだろうけど、母親として喜ぶべきなのかしら?」
 沙良は困ったように頬に手を当てる。
「素直に喜んでいいものか迷いますね」
 桜子まで沙良と同じような顔をしている。
「俺は花嫁だから柚子と一緒にいるわけじゃない。なにがあろうと、俺の花嫁はお前だけだ」
 強烈な愛の言葉を告げる玲夜に、柚子は目を合わせられないほど恥ずかしくなる。
「本能がなくなっても離婚はしないからな。絶対だ」
 念を押すのは、先程から柚子が『離婚』というワードを連呼するからだろう。
 少々お怒りなのかもしれない。
 しかし、仕方ないではないか。
 目覚めた玲夜に面会するまでは、離婚を切り出される前に自分から告げようとすら覚悟していたのだから。
 それがどうだ。
 離婚するどころか、なにも変わっていないのだから拍子抜けである。
「なんだか気が抜けちゃったわ~」
 はぁっと息をつく沙良に、柚子も同意である。
 桜子もやれやれという様子。
「なにごともないようだし、私は千夜君に連絡してくるわ」
「でしたら私も高道様に。きっと今もご心配なさっているでしょうから」
 柚子に気を利かしてくれたか定かではないが、沙良と桜子がそろって部屋を出ていく。
 一気に静かになった病室で、柚子の肩に乗っていた子鬼たちが、ぴょんと玲夜の膝に乗って飛び跳ねる。
「あーい」
「あい!」
 玲夜が無事であることを喜んでいる。
「玲夜倒れて柚子泣きそうだった」
「それで神様にぎゅってされてたー」
「なんだと?」
 子鬼から発せられた情報に魔王が降臨した。
「柚子。ぎゅっとはどういうことだ」
 声が怖い。
「こうしてたの~」
「こう」
 子鬼がみずからを使って再現をする。
 柚子役の黒髪の子鬼を、白髪の子鬼が抱きしめる。
 その時の状況が綺麗に省かれると、まるで柚子が浮気したように見えるではないか。
「柚子。俺が寝ている間に……」
「ち、違うからね。神様は私をただ慰めてくれただけだから」
 慌てて否定すればするほどドツボにはまっていくような気がしてならない。
 現に、玲夜の顔がどんどん恐ろしくなっていく。
「本当に違うからぁ! 子鬼ちゃん!」
 思わず子鬼へ八つ当たりしてしまう。
 子鬼は自分たちのなにが悪かったのか理解していないようで、きょとんとしている。
 いつもなら愛らしく感じるその無邪気さが今は憎らしい。
「私には玲夜だけだから」
「当たり前だ。他の奴に少しでも目を向けてみろ。そうしたらそいつを……」
「どうするの?」
 玲夜は答えることなくニヤリと凶悪な笑みを浮かべ、柚子は背筋が凍った。
 本能をなくしても玲夜を嫉妬させるのは危険だと思い知った瞬間だった。
 その後、連絡を終えた沙良と桜子が戻ってきて、もう帰ると伝えに来た。
「玲夜君もなんともなさそうだし、後は柚子ちゃんに任せるわ。念のため今日は大事を取って、明日には退院できるそうだから、付き添ってあげて」
「ありがとうございます」
 玲夜の病室は柚子が知る一般的な病室ではなく、シャワーも完備のホテルのような個室だった。
 室内も広く、付き添人用のベッドも簡易ベッドではなくちゃんとしたもので、問題なく一日過ごせそうだ。
「なにかありましたら、私か高道様にご連絡ください」
「はい。桜子さんにもご迷惑おかけしてありがとうございます」
「なにもなくてなによりでしたわ。それでは」
 上品にふふふと笑う桜子は、一礼してから部屋を出ていく。
 そして沙良も。
「玲夜君が退院次第、穂香ちゃんのことも話し合われるから、明日は本家に寄ってちょうだいね」
「分かりました」
 そう、穂香の件が残っている。まだ終わってはいないのだ。
五章

 翌日、玲夜の体調が急変することもなく、無事に退院できた。
 安堵する柚子の肩を玲夜は引き寄せる。
 見上げれば、本能をなくしたとは思えないほど甘さを含んだ眼差しを向けてくる玲夜と目が合う。
 最悪の覚悟もしたのに、玲夜はこうして自分の隣にいる。
 花嫁だからじゃない。
 自分という存在を心から愛してくれているのだと分かって、柚子は嬉しかった。
 けれど、それと同時に恐れもあった。
「もう玲夜は私を花嫁って分からなくなったから、私はもっと頑張らなきゃだね」
 眉を下げてどこか悲しげな表情を作る柚子は、不安でいっぱいだ。
 自己肯定感が最悪だった昔よりは自信を持てるようになれたが、玲夜をつなぎ止めておけるほどの魅力が自分にあるとは到底思えない。
 これまでは花嫁だから玲夜が離れていくことはないという安堵感があった。
 けれど、神器によって取り除かれてしまった以上、柚子自身で勝負しなければならない。
 果たして自分にそれができるのか。甚だ疑問だ。
「頑張る必要はない。俺には柚子が柚子であることが重要なんだ。ありのままの柚子がそばにいてくれさえすればそれでいい」
 これほどに愛情深い人がいること。
 そんな人に選んでもらえたこと。
 そして、そばにいてくれることの奇跡。
 柚子はそれらたくさんの幸運を噛みしめながら玲夜に抱きついた。
「最初は玲夜に別れを告げられる前に私から切り出そうって思ってた。けど、そんな簡単に手放したくない。だから玲夜いらないって言われるまで絶対そばにいる。それで、たとえいらないって言われても、みっともなく泣き叫んですがりつく」
 これは決意表明だ。
 なにがあっても貫いてみせる。
 手の中にある大切なものを簡単に手放そうとしてしまっていた自分への決意。
 もう簡単に捨てたりなんかしない。
 強い眼差しで玲夜を見つめると、玲夜は柔らかく微笑んだ。
「柚子が俺に泣きすがる様は見てみたい気もするが、俺が柚子を必要しなくなることなんかない。たとえ本能がなくても、お前だけが俺の花嫁だ」
「うん」
 玲夜の言葉を素直に受け入れられるようになったのはいつだったろうか。
 最初はどんなに言葉を尽くされても不安で仕方なかったけれど、今は心の底から信じることができる。
 玲夜はここにいる。
 ずっとそばにいてくれる。

 退院した玲夜と柚子を乗せた車は、屋敷に帰るのではなく鬼龍院本家へと向かった。
 本家には玲夜を襲った穂香が保護されている。
 今はあくまで保護。
 けれど、鬼龍院次期当主である玲夜に危害を加えたとあっては、千夜も無視できない。
 玲夜自身は傷ひとつなかったとしてもだ。
 いや、穂香のせいであやかしの本能が消えてしまったのだから、害は与えられたと判断されるかもしれない。
 玲夜は相変わらず柚子を溺愛しているが、それは結果論でしかなく、他のあやかしのように興味をなくして大事な花嫁を捨てることになったかもしれない。
 それでいうと、穂香の罪は一族にとっては大きな不利益を与える大罪である。
「天道の一派にとっては残念な結果になったのだろうな」
 なんとも極悪に笑う玲夜を、柚子も否定しない。
 いまだ柚子を花嫁と認めていない、高道の祖父でもある天道を始めとした先代当主の側近たち。
 彼らは玲夜が柚子に興味をなくすことこそを望んでいたはず。
 むしろ天道たちにとっては穂香は渡りに船だった。
 けれど、玲夜の予想以上の重たい愛情は本能を超えてしまった。
 まあ、予想外なのは柚子も同じである。
 というか、一番驚いているのが柚子かもしれない。
「そもそも神器の話は高道さんのお祖父さんにしているの?」
 当初、神器の捜索は一部の者しか知らない話だった。
「今回は俺が倒れたからな。主要な側近には伝えられている。だが、神器という代物に対しては懐疑的なようだ」
 神から与えられた神器など、普通は信用しないかと、柚子も納得する。
「天道が率先して、その神器は鬼龍院で管理すべきだと騒いでいたが、すでにあるべき場所に返したと父さんが黙らせた。神に返したと言っても信じないだろうからな」
 社を与えられ神を信じ崇拝していた撫子と違い、鬼龍院はあまり神との距離が近いようには思えなかった。
 初代花嫁のことも、一龍斎との因縁も、これまで当主にしか伝えられてこなかったようなので仕方ないのかもしれない。
 今さら神がいると訴えても笑い飛ばされるだろう。
 実際に見せたら黙るだろうか。
 柚子はどうにか神を連れてこられないか考えてみたが、素直に現れてくれると思えなかった。
 よくよく考えれば、神がそんな神器を作ってしまったから悪いのではないかと思うも、いやいや神は大事な自分の神子であるサクのために作ったのだ。
 悪用する者が悪いのである。
「穂香様はどうなるの?」
「どうするか最終決定は当主である父さんの役目だ。だが、俺の意思が大きく反映されるだろう。あの女に対しても天道を始めとした先代の側近が口を挟んできたが、今の当主は父さんだとお祖母様が怒鳴りつけたおかげで静かになったらしい。本当にうるさいじじいどもだ」
 玲夜は舌打ちせんばかりに眉をひそめた。
 先代当主の側近は玖蘭が歯止めとなっているらしい。
 嫌われていなかったとほっとする柚子が今思い浮かべるのは穂香のことだ。
 最後に見た穂香は正気とは思えないほど目がギラギラとしていた。
 幾多いるあやかしの中でなぜ玲夜を狙ったのだろうか。
 そして風臣にも神器を使ったのは穂香なのか。
 分からないことが山ほどある。
「穂香様はどうして玲夜を狙ったのかな? 穂香様のあの様子じゃあ、私をあやかしから助けるためってわけでもなさそうだし」
 むしろ柚子を憎々しげに見ていた。
「母さんが事情を聞いているがだんまりらしい」
「穂香様と話をする時間はある?」
 知りたかった。なぜなのか、その理由を。素直に話してくれるか分からないけれど。
「柚子が望めば時間を作るのは可能だろう。ただし、ひとりでは会わせられないぞ」
「うん。それは分かってる」
 柚子に危害を与えないとも言い切れないのだから、そこは承知の上だ。
 鬼龍院本家に到着する。
 本家と言っても、本家は広大な土地があり、そこにいくつもの家族がそれぞれの家で生活している。
 まるでひとつの村のような敷地の中に、特に大きな屋敷がある。
 そこが当主である千夜とその伴侶である沙良の住む屋敷だ。
 玲夜の屋敷ですら開いた口がふさがらない柚子は、本家の屋敷を見た時本当に驚いた。
 ゆくゆく玲夜が当主を引き継げば、柚子もここに住むというのだからなおさらである。
 今ある玲夜の屋敷はのちに子供ができたら譲るそうだ。
 本家の屋敷の前で車を横付けすると、ふたりは車から降りる。
 屋敷の中へ入ると、屋敷の使用人たちが安堵したように微笑みながら出迎えてくれる。
「ご当主様がお待ちです」
 言われるままに案内された広い座敷に入れば、ドタドタと騒がしく足音を立てて、千夜が玲夜に飛びついた。
「玲夜く~ん。心配したんだよぉ」
 厳かで風格のある屋敷とは相反して、軽い調子の千夜に気が抜ける。
「柚子ちゃんの前でへたこいて、人間のか弱い女の子にあっさり刺されちゃうなんて、それを聞いた時は耳を疑って反論しちゃったよ~。僕の玲夜君がそんな弱っちいわけない!ってぇ。そしたら本当だって言うもんだから、びっくり仰天だよ~」
 千夜は玲夜の心配をしているのか、怒らせようとしているのかどちらだろう。
 前者だった場合、とんでもなく地雷を踏みつけている。
 それはもうグリグリと。
 玲夜のこめかみに青筋が浮かんでいるのに気付いているのかいないのか。
「あの、お義父様、そのくらいで……」
 でなければ玲夜の我慢が限界を突破する。
 千夜に声をかけると、矛先は柚子へ。
「柚子ちゃんも大変だったねぇ。玲夜君がへぼいせいでたくさん心配したでしょう~」
「へぼい……」
 柚子はなんとも複雑な顔をした。
 確かにただの人間にやられるなんて普段の玲夜からは考えられないが、今回は神器が使われたというのを考慮してあげてほしい。
「これで玲夜君が柚子ちゃんと離婚なんて言い出してたら破門しているところだよ~。よかったねぇ、柚子ちゃん」
 よかったのは、柚子なのか玲夜なのか判断に困る言葉だ。
「父さん。本題に入りましょう」
 地を這うような低い声を出す玲夜は明らかに怒っている。
 普通のあやかしなら卒倒するような覇気の前でも、千夜はひょうひょうとしている。
「そうだねぇ。あんまり長引かせたい話ではないし、さっさと終わらせちゃおうか」
 座敷の上座に千夜が座ると、斜め横に玲夜が座り、その横に柚子が座る。
 しばらくすると、穂香が左右から男性に腕を掴まれたまま入ってきた。
 一緒に沙良が入ってきて、玲夜とは反対側の千夜の斜め隣に座る。
 沙良は沈んだ顔でため息をついたが、柚子の視線に気付くとニコリと笑う。
「さて、それじゃあ、君の処遇をこれから決めようと思うんだけど、言いたいことはあるかな?」
 話し合う内容と相反して明るい声の調子で問いかける千夜に、穂香は暗く生気のないうつろな目を向ける。
 その目が千夜から玲夜へ、そして柚子へと向かうとニィと口角が上がった。
「ふふふふっ」
「なにがおかしいんだい?」
 突然笑い出した穂香に、千夜は一瞬眉をひそめる。
「だっておかしいではありませんか。あれほど仲のよさを言いふらし自慢しておきながら、今や捨てられる寸前。いえ、もう捨てられた後かしら?」
 柚子のことを言っているのは明白だった。
 柚子が口を開こうとする前に、玲夜が柚子の肩を引き寄せ、穂香に見せびらかすように柚子の頬にキスをした。
 突然のことにびっくりする柚子だが、なぜか穂香も驚いている。
「誰が誰を捨てると言った?」
 玲夜の鋭い視線が穂香を射貫く。
「そんな、どうして……? 確かに刺したのに……」
「残念だったな。この通り俺と柚子は変わらず相思相愛だ」
「どうしてぇ!」
 暴れ始めた穂香を、腕を掴んでいた男性が慌てて抑える。
 あやかしにはかなわずすぐに大人しくなった。
「お前が使った道具はあくまであやかしの本能を消すだけだ。すでに抱いている感情をなくすわけではない。俺が今も柚子を腕に抱いているのは、花嫁だからではなく柚子自身を愛しているからだ。まあ、お前の旦那は違ったようだがな」
「そんな……」
 一気に力をなくしてだらりとする穂香は呆然としている。
 そんな柚子は問う。
「穂香様。どうして玲夜を狙ったんですか? たくさんいるあやかしの中でどうして」
 穂香はすぐには反応しなかったが、しばらくして口を開く。柚子をギッとにらみつけて。
「あの道具を使ったら彼はあっさり離婚に応じたわ。あれだけ私に執着していたのに。愛していると言ったのに。花嫁じゃなかったらなんの価値もないというようによ!」
 次第に大きくなっていく声は、痛みを伴うような悲鳴であった。
「……その程度でしかない花嫁なのに、嬉しそうにしているあなたが憎らしかった。所詮は花嫁だから大事にされているだけで、あなた自身が愛されているわけじゃない! それを思い知らせてやりたかった。それなのに。それなのに……」
 くしゃりと顔を歪ませる穂香の声が小さくなっていく。
「本能をなくしても、なぜあなたは愛されているの? 私の隣には誰もいないのに、どうして……」
「穂香様……」
 痛々しいその姿が見ていられない。
 あやかしの花嫁となった彼女。
 どのような経緯で伴侶となったかは知らないが、少なくとも柚子と会った時点では穂香は花嫁であることを拒否しているようだった。
 そんな彼女は神器によって自由を手に入れたけれど、急に変わってしまった旦那に失望したのだろうか。
 その悲しみを他人にぶつけたくなったのか。
 柚子には想像することしかできない。
 この中で一番穂香と面識がある沙良は、静かに目を伏せていた。
 沙良の力を持ってしても、穂香を救うことはできない。
 言葉を発せずにいる中で、今回の被害者である玲夜が口を開く。
「みずから花嫁であることを放棄しておきながらほざくな。だったらそのまま花嫁であったらいいだろう。自分の意思で逃げておきながら、やっぱり花嫁に未練があるような言いよう。そんな面倒は自分で見ろ」
「玲夜……」
 さすがに言いすぎではないだろうかと穂香をうかがうと、驚いたように目を丸くしていた。
「お前は旦那から逃げることしか考えなかったんじゃないか? 話し合ったのか? 喧嘩したのか? 自分の意思を貫こうとしたのか!」
「……そんなの花嫁であると言われてできるはずがないわ」
「そうやって逃げ続けたから、旦那はお前自身を愛さなかったとは思わないのか? お前がもっと気持ちをぶつけていたら、また違った関係が築けていたんじゃないか?」
「あ……」
「少なくとも、柚子は花嫁だからと言われても俺に反論する。当然喧嘩もするが、それによって絆も深まることだってある」
 穂香は呆然としたように柚子を見た。
「お前はやり方を間違えたんだ」
「あ……あ……」
 穂香の目からホロホロと涙がこぼれ落ちる。
 畳に顔を伏せ静かに泣く穂香に千夜が問うた。
「君が持っていた神器はどこで手に入れたんだい?」
 これまで沙良が質問しても口を開かなかったらしい穂香だったが、話してくれるだろうか。
 話してくれることを願いながら少し待つと、ポツリポツリと話し始めた。
「あれは少し前、久しぶりに旦那様と出かけた帰りに会った方にいただいたのです。乗っていた車が軽い事故に遭って、私はその騒ぎに乗じて旦那様と離れて公園におりました。そこへ慌てた様子の男性がいらして、私にそれを」
「どうして君に渡したんだい? 知ってる人?」
「いいえ。存じあげない方でした。しかし、どこか玲夜様に似ているように感じました」
「玲夜君に?」
 穂香は小さく「はい」と答える。
「容姿からしてあやかしだとすぐに分かりました。絶対かと聞かれたら困りますが、常日頃からあやかしを見ている私はそうだろうと……」
 穂香があやかしだと感じたのなら間違いないのだろう。
 柚子も、たくさんのあやかしと関わることで、なんとなくあやかしか人間か見分けがつくようになった。
 感覚的なものなので、どこがどう違うのかと聞かれたら答えられないが、まず間違わない。
「その方は私に旦那様と仲はいいのかとお聞きになり、私は首を横に振りました。すると、私に透明な玉を見せ、それを小刀に変化させてみせたのです。いかようにも姿を変えるそれを私に渡し、これであやかしを刺せばあやかしの本能がなくなる。あやかしから解放されると告げ、去っていかれました」
「君はそれを素直に信じたの?」
「いえ、半信半疑でした。だから旦那様とのパーティーで見かけた、花嫁を手に入れようと必死になっているあやかしに目をつけて、彼に使用して様子を見ることにしたのです」
「鎌崎か」
 穂香はこくりと頷く。
「その後のパーティーで、旦那様と玲夜様がその方が花嫁を間違えたという話をしているのを聞いて、本能をなくすという男性の言葉は本当なのだと分かり、旦那様に使うことにしたのです。その後のことはご存知かと思います」
 話し終えた穂香は傷心したように肩を落としていた。
 先程までの勢いはない。
「どうしますか?」
 玲夜が千夜に問いかける。
「さて、どうしようかなぁ」
 ニコニコとした笑みを絶やさぬ千夜の感情を察することはできない。
 怒っているのか、あきれているのか、はたまた憐れに思っているのか。
「神器を渡した男ってのが気になるなぁ」
 玲夜に似ていたという男。
 そして、烏羽家にあるはずの神器を持っていたところからして疑問だ。
「他にその男の特徴とか思い出さない?」
 穂香はわずかな沈黙の後、首を横に振った。
「いいえ。ただ、玲夜様に似ていたということしか。その方よりも本能をなくす玉の方に注意が向いていたので」
「ま、そんな便利道具が目の前にあったら仕方ないよねぇ」
 ヘラヘラと笑う千夜はこの事態をどう思っているのやら。
 表には見せずとも、彼の裏はどうか分からない。
「今その男のことを考えてもしょうがないから、君の処遇を決めようか」
 穂香は抵抗も反論もせず、観念したように顔を俯かせた。
「玲夜君、希望はある?」
「父さんに任せます」
「柚子ちゃんは?」
 自分にも聞いてくれると思わなかった柚子は一瞬言葉を詰まらせつつ、答える。
「今回の被害者は玲夜なので、玲夜に従います」
「オッケー」
 どこまでも軽いテンションの千夜から、穂香への処遇が告げられる。
 穂香は大きく目を見開いた。

 今日は待ちに待った透子と東吉の結婚式当日。
 待ち合わせ場所はなぜか港。
 首をひねる柚子は、招待所を何度も確認したが間違いない。
 それに、その場所には続々と見知った友人や親族と思われる人たちが集まっていくので、間違えようがない。
 港にはたくさんの船が停泊しているが、個人所有のものばかりらしい。
 その中でもとびきり大きな船……というか、もう豪華客船だ。
 そんな客船が大いに目立っている。
「玲夜。ちなみにあれぐらいの船持ってる?」
「ああ、あれより大きなのがいくつかな」
 さらっと告げられたが、とんでもないことだ。
 さすが鬼龍院と何度も思っただろうか。
 そうしていると、燕尾服を着た男女が招待客をその船に案内していくではないか。
 よくよく見てみると、船体にはとどんとにゃんこのマークがある。
 なんとも猫又のあやかしらしい印だ。
「もしかしてここで結婚式するのかな?」
「あーい!」
「あいあい!」
 元手芸部部長に作ってもらったスーツを着た子鬼たちも、興奮したように声をあげている。
「あっ、柚子~」
「子鬼ちゃんもー」
 高校時代の友人たちもお呼ばれしたようで、結婚式という場を借りた同窓会のようになってしまった。
 友人たちと会うのは柚子の結婚披露宴以来であるが、主役であった柚子は友人たちと談笑する時間をさほど取れなかったので、ゆっくりしゃべれるのは久しぶりになる。
「ここで結婚式なんてすごーい」
「船上パーティーなんて素敵ねぇ」
 友人たちはうっとりと船を見上げている。
 柚子も彼女たちの意見には同意だ。
 鬼龍院というビックネームの前で霞んでしまうが、東吉の家もそれなりに成功した名家なのだ。
 しばらくすると順番がやった来て柚子たちも船内へ足を踏み入れた。
 案内されるままに進むと、広いホールにつく。
 そこには立食パーティーさながらにテーブルと数々の食事が並んでいた。
 そしてデッキには結婚式をするための準備がされている。
 驚きと興味で船内を歩き回っていると、招待客全員が乗り込んだのか船が出航した。
 動いた瞬間に花火が上がり、わあっと歓声があがる。
 柚子も思わずパチパチと拍手した。
「すごいすごい!」
「柚子はこういうのが好きなのか?」
 目をキラキラさせている柚子を見て、玲夜が問う。
「うん。好き」
 嫌いな人間などそういないのではないだろうか。
 出席者には柚子も見知った友人が多く出席しているのもあって、余計に楽しい雰囲気に酔っている。
 しかし、簡単に返事をしてからはっとする。
「好きだけど、やりたいわけじゃないからね」
 釘を刺しておくのは大事だ。
 玲夜ときたら柚子のことになると財布の紐がゆるゆるに緩んでしまうのだから。
「なら、今度鬼龍院主催のパーティーでは船を使うとしよう。仕事ならば文句はないだろう?」
 やはり不可避のようだ。
 仕事と言われたら断れないのをよく分かっている。
 そしてきっと柚子が感激するような演出をしてくれるのだろう。
「ないけど、この結婚式と比べて透子が残念がるようなことにはしないでね」
 せっかくの結婚式を越えるような演出をして、透子の楽しく大事な思い出が上書きされてしまったら申し訳ないではすまない。
「そんなへまはしないから安心しろ」
「うん」
 少しして司会の進行でデッキに集まり、新郎側、新婦側の席に別れて座る。
 柚子はシャッターチャンスを逃すまいと、カメラをかまえた。
 音楽が鳴り、真っ白なドレスを着た透子が東吉と歩いてくる。
 今回はあやかしのしきたりとは関係ない人前式だ。
 自由なスタイルで結婚式ができると、透子がいろいろと調べてていたのを柚子は知っている。
 柚子が神器のことでいろいろ忙しい中、杏那が変わりに透子の話し相手になっていたようだ。
 意見を聞きたいだけのに、杏那が自分と蛇塚の結婚式を妄想して何度も遭難しかけたと文句を漏らしていた。
 それならば杏那に聞かなければいいのに、透子いわく、脳内で予行演習をしておいた方が、いざ本番という時に被害が最小限ですむとのことだ。
 蛇塚とともに新郎側の席に座る杏那を確認し、何事もありませんようにとただただ祈る。
 そうしている間に透子と東吉が誓いの言葉を読み終えた。
 続いては指輪の交換だが、これは藤悟お手製の世界にひとつしかない指輪である。
 最初はドレスに合わせたアクセサリーだけを頼んでいたのだが、藤悟からの結婚祝いだと粋な計らいがなされた。
 その細やかな細工に、透子は大層喜んでいた。
 柚子も同じく指輪を藤悟に作ってもらったので、その気持ちは大いに分かった。
 続いて結婚誓約書にふたりがサインし、司会者がふたりの結婚を宣言して人前式は終わった。
 その後は披露宴という名のパーティーだ。
 特に決まった席があるわけではないので、皆思い思いに動いて食事をしたり歓談したりしている。
 友人たちに囲まれている主役ふたりから少し距離を取った場所で食事をしていた柚子に声がかかる。
「よお、柚子。久しぶりだな」
 それは大学を中退して以降会えていなかった、幼馴染みの浩介だった。
「浩介君、久しぶり」
「ほんとほんと。柚子の披露宴には出られなくて悪かったよ」
「まったくだよ」
 結婚式には呼んでくれと言っていなくなった浩介だが、柚子の披露宴は風邪を引いて出られなかった。
 なんてタイミングが悪いのか。
「今日はちゃんと来られてよかったね」
「来なかったら透子にぶん殴られそうだからな。まあ、ちゃんと約束は果たせて安心だ」
 ニコニコと笑顔だった浩介だが、柚子から視線が外れると途端に頬を引きつらせた。
 なにだと浩介の視線の先を追うと、魔王降臨一歩手前の玲夜が仁王立ちしている。
「柚子の旦那めっちゃ怖いんですけど~」
「玲夜ったら、浩介君を威嚇しないでよ」
「柚子の初恋が俺だからやきもち焼いてんだな」
 あっと思った時にはもう遅い。
 浩介の頭を玲夜が鷲掴みにしてギリギリと圧を与える。
「ぎゃー、ほんとのこと言っただけなのに」
「れ、玲夜」
 慌てて柚子が玲夜の腕にしがみつくと、少し機嫌を取り戻したのか浩介から手を離した。
「やべ、焦ったぁ。あやかしってどんな指筋してんだよ。頭蓋骨粉砕するかと思ったぜ」
「望むならしてやるが?」
「誰が望むかぁ!」
 鼻息を荒くする浩介は、突然「むふふふふ」と気味の悪い笑いをし始める。
「旦那はさ、俺がまだ柚子に未練があるんじゃないかって思ってるから嫉妬してんだろ? けど安心してくれ。俺にも天使が舞い降りたんだからな! ほれ」
 浩介はスマホの画面を柚子と玲夜に見せる。
 そこにはかわいらしい女の子が写っていた。
「俺の彼女だよ。とうとう俺にも春が来たんだ」
「おめでとう」
 柚子は心から喜んで、微笑む。
「今の俺は彼女一筋だから、もう柚子は眼中にないぜ」
「透子には報告した?」
「まだ、これから。ちょっくら行ってくるわ」
 手を振る浩介に柚子も振り返した。
「浩介君に彼女ができたんだ……」
 皆少しずつ進んでいるのだと思うと感慨深かった。
「ねえ、玲夜、少し外に出ない?」
「ああ」
 デッキに出た柚子は、どこまでも続く海を見つめる。
 その手は玲夜とつながれていた。
「あのね、玲夜が私自身を選んでくれてすごく嬉しいの。なにを急にって思うかもだけど、昔から全然変わらない透子とにゃん吉君の姿とか、逆に変わったことで彼女を見つけた浩介君を見てたら急にね」
 柚子ははにかむ。
 変わることと変わらないことがある。
「玲夜は出会った時から変わらず私を好きでいてくれてるって思ってたけど、その想いは知らないうちに変わっていたんだなって今回の件で知れたのが嬉しい。そして、私もきっと少しずつ変わっていくんだろうなって思う。それがいいことなのか悪いことなのか分からないけど、穂香様のように、できることならハッピーエンドが待っていると期待してこの先を歩いていきたい」
 玲夜を害した穂香は、今は鬼龍院で預かりの身となった。
 とりあえずは沙良の監視下の元、沙良の使用人として働くことになった。
 現状、神器を持っていた者と接触したのが穂香だけだからというのもあるが、穂香にチャンスを与えたのだ。
 あやかしによって歪んでしまった人生を取り返すチャンスを。
「だったら、その隣には俺が必ずいる」
「うん!」
 視線を合わせたふたりの距離が近付くその時、なにやら中が騒がしいのに気付く。
 ぎゃあぎゃあと叫び声が聞こえてくるではないか。
 なにかあったのかと思い、急いで船内へ戻ると、そこはマイナスの世界に変貌していた。
「杏那が暴走しやがった!」
「誰よ、さっき杏那に誓いのキスしろとかはやし立てたお馬鹿は!」
「蛇塚、とっとと杏那を止めろー」
「杏那、落ち着いて」
 しかし、蛇塚が近付くことで余計に悪化した。
 カオスと化したホールの様子に、玲夜はやれやれとため息をつき、柚子も苦笑するのだった。

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:3,417

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

【スタ文クリスマス企画】  鬼花&龍神
クレハ/著

総文字数/2,584

あやかし・和風ファンタジー2ページ

本棚に入れる
表紙を見る
龍神と許嫁の赤い花印5~永久をともに~
  • 書籍化作品
[原題]龍神と許嫁の赤い花印5
クレハ/著

総文字数/28,011

あやかし・和風ファンタジー4ページ

本棚に入れる
表紙を見る
鬼の花嫁 小ネタ集
クレハ/著

総文字数/1,541

あやかし・和風ファンタジー2ページ

本棚に入れる
表紙を見る

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア