二章

 柚子が帰ってきたことで、ようやく屋敷内は静けさを取り戻し、それぞれがいつも通りの自分の仕事に取りかかる。
 しかし、玲夜だけはいつも通りとはならず、仕事を休んで鬼龍院本家へとやって来た。
 もちろん、柚子と一緒である。
 玲夜の秘書である高道によると、明け方も近くなった夜中に突然スマホが鳴り、柚子がいなくなったとひどく動揺した声で玲夜が電話をかけてきたそうだ。
 柚子のこととなると冷静さを失う玲夜を高道もよく知っているので、きっと取り越し苦労だろうと思っていたら、本気で居所が掴めない。
 いつもなんだかんだと面倒ごとに巻き込まれる柚子なので、今回もなにか起きたのではないかと高道もいろんなところへ電話しまくり、捜索の手伝いをしてくれたらしい。
 なので、柚子が行方不明になったことを多くの人が知るところとなった。
 柚子が帰ってきた後も、高道は心配をかけた人たちへ謝罪とともに感謝の電話をかけ続けたそうな。
 どうやら柚子がいなくなったと知って、透子や撫子など、独自に人を使って探してくれた人がいたようだ
 それを聞いた柚子は、予想以上に大事になっていると、またもや頭を抱えた。
 これは柚子からもお礼と心配をかけたことへの謝罪をしに行かねばなるまい。
 その前に、とりあえず本家が先だ。
 気落ちした様子で本家の屋敷の前に立つ柚子は、叱られることを覚悟で敷居をまたいだ。
 しかし、待っていたのは柚子の姿を見て安堵の表情を浮かべる千夜と沙良だった。
「よかったわ。柚子ちゃんになにもなくて」
 そう言って沙良は柚子を抱きしめる。千夜も、ニコニコとした笑みを浮かべていた。
「ほんとだよぉ。無事でなによりだったね」
 と、おだやかな顔をしている。
 その優しさあふれる反応に、柚子は逆にいたたまれなくなった。
「本当にご迷惑をおかけして申し訳ありません」
 柚子は千夜と沙良に向かって、深々と頭を下げた。
「いいんだよ~。真夜中に一族の者を百人ばかり叩き起こして大捜索させたけど、大した問題じゃないから」
「えっ……」
 柚子の顔が一瞬で強張った。
 その様子を見て、あははと楽しげに笑う千夜は、実は柚子にめちゃくちゃ怒っているのではないかと勘ぐってしまう。
「嘘嘘。ほんとに大した問題じゃないからね。柚子ちゃんは気にしなくていいよ~。ちゃんと謝罪は受け取ったから」
「でも……」
 少なくともその夜中に叩き起こされた人たちへは、柚子自ら謝罪行脚に行かねばならないのではないだろうか。
 その時、部屋の外から声がかけられる。
「失礼いたしますぞ」
 そう言って入ってきたのは、ひとりの老人だ。
 白髪をオールバックにし、杖をついている。
 その眼光は鋭く、威圧感が体中からほとばしっている。
 柚子には見覚えのない人だったが、誰かに似ている気がした。
「やあ、天道さんも柚子ちゃんが心配で様子を見に来たのかい?」
 微笑みを絶やさぬ千夜が気さくに話しかけるが、『天道』と呼ばれた老人はギロリと千夜をねめつける。
「花嫁が来ていると耳にしましてな。心配などはいっさいしておりませなんだが、本家にまで迷惑をかける娘がどんな人間か見ておこうと参った次第です」
 その言葉には隠しようもない柚子への棘があった。
「それが花嫁ですかな?」
 天道の強い眼差しが柚子を射貫き、身がすくむような感覚に陥る。
 不躾なその視線に柚子は大した反応もできず、天道をうかがうことしかできない。
「あ、えっと……」
 言葉がうまく紡がれず、たどたどしくなる。
 それすら不快とばかりに眉をひそめる天道に、柚子は完全に萎縮してしまっていた。
 そんな柚子を守るように玲夜がにらみ返す。
「天道、やめろ。俺の花嫁だ」
「だから、なんですかな? 花嫁であるかなど私にはなんら関係ありません。そもそも私は花嫁を迎えることに常々反対していたはずです。花嫁は鬼の一族の害にしかならないと。千夜様も玲夜様も私の忠言を無視なされましたがな」
 皮肉っぽく口角を上げる天道はさらに続ける。
「こうして一族に多大な迷惑をかけたのです。今からでも遅くはないので、花嫁を手放されたらどうですかな? それが一族のため、なにより玲夜様のためになるのではないですか?」
「なにが俺のためだ。柚子はなにがあろうと手放さない。誰の反対があろうとな」
 にらみ合う玲夜と天道は、まさに一触即発の状態。
 柚子は声をかけることもできず、オロオロするしかできない。
 そんな柚子を憎々しげに見る天道は悪意ある言葉を吐く。
「花嫁を得たあやかしというのは本当に厄介ですな。花嫁にいったいどんな魅力があるのやら、私には分かりかねます。花嫁は害でしかないというのに、なぜそれを分かってくださらぬのか。先代様もそうです。あの女のせいで──」
「先代? あの女?」
 玲夜がいぶかしげにすると、天道ははっとしたように途中で言葉を止めてしまった。
「なんでもありません」
 なんとも言えぬ不穏な空気がその場に流れる。
 柚子は勇気を振り絞って声をあげた。
 なにせ、問題となっているのは柚子が発端なのだから、玲夜に任せて黙っているわけにはいかない。
「ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません! 今後ないよう気をつけます。その、だから……」
 言葉が尻すぼみになっていく。
 勢いに任せて声を出したはいいものの、天道の眼光に気圧されてしまう。
 なんて意気地がないのかと、柚子は自分で情けなくなるが、あまりにも天道の迫力がありすぎた。
「その殊勝な態度がいつまで続きますかな? 花嫁とはしょせん人間。あやかしとは本質からして違うのです。本能で花嫁に囚われるあやかしとは違い、人間はすぐに裏切る。いつ他の男に走るか分かったものではない。花嫁殿もいつまで玲夜様だけだと言い切れるか楽しみですな」
「天道っ」
 玲夜が激しく怒っている。今にも飛びかかりそうな勢いに、柚子は慌てて玲夜の腕を掴む。
 柚子は天道とこれが初対面だというのに、なぜこんなにも言われなくてはならないのか。
 天道からは柚子への恨みや嫌悪感すら感じられ、柚子は戸惑う。
 柚子は彼になにかしてしまったのだろうか。
 まったく覚えがないので、対応に困っていると、すっと襖が開かれた。
「もう、それぐらいでおやめなさい、天道」
 入ってきたのは、どこか玲夜の面影がある老婦人だ。
 黒い髪に白髪が半分混じり、グレイカラーのようになった髪を、後ろで結んでお団子にしている。
 撫子とはまた違った品と迫力がある女性である。
 彼女が現れると、天道はすぐさま一礼した。
「これは、玖蘭様。あなたもここにいらしたのですか」
 これまでとは違い、天道の声色には尊敬の念が感じられる。
 誰だろうかと不思議そうに思っていると……。
「お母様っ」
 千夜が慌てたように立ち上がる。
 柚子は分かりやすく二度見してしまった。
 千夜は今この老婦人を『お母様』と呼んだのか?
 聞き違いかと思ったが、言われてみれば玲夜とどことなく似ている。
 いや、玲夜が彼女に似ているのか。
 すると、玲夜が柚子に耳打ちする。
「先代当主の妻で俺の祖母に当たる人だ」
 そっと囁かれた内容に、柚子は納得するのだった。
 玲夜は千夜とは真逆なほど雰囲気が似ていないなと思っていたが、祖母である玖蘭を見れば、血のつながりを確信する。
 その場を支配してしまう存在感と覇気は玲夜を彷彿とさせる。
「いい年をした年寄りが、若者を虐めるのもではありませんよ」
「虐めているわけではありません」
 天道はしれっとした様子で返すが、今までの発言はどう聞いても柚子を虐めているようである。
 玲夜の祖母である玖蘭は、やれやれというようにため息をついてから、柚子へと視線を向けた。
 じっと見られてドキリとする柚子は、慌てたように玖蘭へ頭を下げる。
「は、初めてお目にかかります! 柚子と申します」
 玲夜の祖母の存在は知っていた。
 結婚式をするにあたり、玲夜の親族の名簿を目にしていたからだ。
 玲夜の祖父であり千夜の父親でもある、先代鬼龍院当主はすでに亡くなっている。
 だからこそ千夜が当主となっているのだろうが、柚子は何度となく本家を訪れたのに、玲夜の祖母である鬼龍院玖蘭とは顔を合わせたことがなかった。
 あえて会わなかったわけではない。
 何度か挨拶のために面会を希望しても、なにかと理由をつけて断られていたのだ。
 それならば結婚式に時に会えるかと思いきや、玖蘭は柚子と玲夜の結婚式には出席しなかった。
 玲夜や千夜に理由を聞くと、人間である柚子を鬼の一族に迎え入れるのを反対している勢力がいるという答えが返ってきたため、きっと玖蘭は玲夜との結婚を反対しているのだと柚子は思った。
 そんな玖蘭との初対面。緊張するなという方が無理である。
 下げた頭をなかなか上げられずにいると、玖蘭は柚子の前で膝をついた。
「顔をお上げなさい」
 そう言われ、おずおず玖蘭を見上げた柚子の目に飛び込んできたのは、柔らかな笑みを浮かべる玖蘭の顔だった。
 嫌われていると思い込んでいる柚子はそのような表情を向けられ、驚きのあまり目を大きくする。
「……かわいらしいお嬢さんね、玲夜」
「ええ、俺の最愛です」
 玲夜は自慢げに微笑んだ。
「ならば、ちゃんと守ってあげなさい。天道のような頑固じじいどもからね」
「言われずとも」
 揺らぎない玲夜の言葉に、玖蘭は満足そうだ。
 そして、畳についたままでいる柚子の手の上に玖蘭は手のひらを乗せた。
 温かく柔らかい優しい手だ。
「結婚式に出られなくてごめんなさいね」
「いいえ! とんでもないです」
「本当は出席したかったけれど、天道のような頭の固いじじいどもせいで、いろいろと理由があったのよ。私はふたりを反対してはいませんよ」
「玖蘭様!」
 天道が激しく責めるように声を大きくするが、玖蘭は視線だけで天道を黙らせてしまう。
「これからも困難はあるでしょうけど、ふたり一緒に頑張りなさい」
「ありがとうございます……」
 面会を拒絶するほどに玲夜との結婚を反対されていると思っていた柚子は、玖蘭から飛び出した柚子を気遣う言葉に拍子抜けする。
 玖蘭は立ち上がると天道へ厳しい視線を向ける。
「さあ、年寄りは早々に立ち去りますよ」
「玖蘭様」
 咎めるような天童の視線もなんのその。
 玖蘭は優雅に去っていった。
 天童は苦虫をかみつぶしたような顔をしてからため息をつくと、千夜へ一礼してから出て行く。
 ふたりがいなくなったことで、その場の空気がほっと緩んだ。
「台風みたいな人たちだよねぇ。ごめんね、柚子ちゃん。天童さんのせいで嫌な思いさせちゃったよね」
 いつも通りのひょうひょうとした様子で、千夜が柚子を気遣う。
「あ、いえ、全然大丈夫です」
「天童と会ったのは初めてだよね?」
「はい。たしか結婚式にも出席されていませんでしたね」
「そうそう。お母様が言えように、頭が固いからねぇ。困ったものだよ~」
 肩をすくめる千夜はヘラヘラしていて、本当に困っているようには見えない。
「いまだにねぇ、人間である柚子ちゃんを一族に迎え入れるのを反対している勢力があるって前に教えたかな?」
「はい」
「その筆頭が、さっきの彼、荒鬼天童なんだよぉ」
「荒鬼?」
 柚子は玲夜の後ろに控えていた高道に目を向ける。
 荒鬼とは高道と同じ姓ではないか。
 柚子の視線に気がついた高道が苦い顔をする。
「柚子様には申し訳ないことに、私の祖父になります」
 と、高道が眉を下げて教えてくれる。
「天童さんは僕の父親、先代当主の側近なんだよ~」
「そして、なぜか先代当主の側近ばかりが、柚子を花嫁として迎え入れることに反対している」
 玲夜が声に苛立ちを込めて話す。
「先代の側近ばかり……。なにか理由があるんでしょうか?」
 柚子が問うが、千夜もその答えは知らないようで、肩をすくめる。
「さあねぇ。でも、なにかあったっぽいのは確かなんだけどな~。お母様も天童さんも教えてくれないんだ。僕は当主なのにおかしくない?」
 ね?と柚子に問いかけられても、柚子も困ってしまう。
 愛想笑いをして誤魔化すと、ようやく本題へと入ることになった。
 目覚めた神と、神が探す神器。
 一通りの話を聞いた千夜は珍しく真剣な顔で腕を組んで考えている。
「なるほどねぇ。神器か。烏羽家は知っているけど、そんなものを神様から与えられているなんて、僕は初めて聞いたなぁ」
「見つけられるでしょうか?」
 柚子は不安そうに千夜へ問いかける。
 柚子の力では砂漠の中から一粒の砂金を捜し出すようなものだ。
 しかし、日本国内において多大な影響力を持つ鬼龍院なら可能性はあるのではないか。
「神様も無茶ぶりするよねぇ。というか、神様ってどんな人?」
 ころりと表情を変え、興味津々に目を輝かせて身を乗り出す千夜に、柚子は苦笑する。
「えーと、真っ白な長い髪をしてたんですが月の光が当たってキラキラしてて、玲夜に負けないぐらいすごく綺麗な方でした」
「あらやだぁ。そんな神様なら私もお会いしてみたかったわ~」
 沙良が目を輝かせる。
「柚子ちゃんたら、その神様に惚れちゃったんじゃない? もしかして玲夜君のピンチかしら~?」
 沙良はなんだか楽しそうに玲夜を煽る。
 そんなことありはしなかったが、神に見惚れてしまったのは事実である。
「いえ、そんなっ!」
 柚子は心を見透かされたようで慌てて否定したのだが、その否定の仕方が玲夜は気に食わなかったようで……。
「柚子、どうしてそんなに動揺してるんだ?」
 玲夜はなにやら不満そうにしている。
「動揺なんかしてないよ!」
「いや、してる。柚子、新婚早々浮気か?」
 なんとも色気たっぷりに柚子の顎を捉え顔を近づけてくる玲夜に、柚子は心の中で悲鳴をあげた。
「浮気なんかしてないよ。私には玲夜だけです!」
 力強く否定したのがよかったのか、玲夜は満足して柚子から手を離した。
 ほっとする柚子の前で、千夜がからかう。
「駄目だよ、沙良ちゃん。玲夜君は柚子ちゃんのことになるとミジンコ一匹分より心が狭くなるんだから、柚子ちゃんが監禁されちゃったらどうするの?」
「あら、それは大変だわ。柚子ちゃん、玲夜君から逃げたかったら私たちに相談してね」
「うんうん。当主の権力を全力で使って、玲夜君から逃がしてあげるからねぇ。安心して連絡しておいで~」
 声をあげて笑う沙良と千夜の言葉に玲夜は青筋を浮かべている。
 柚子が逃げるなんて事態にならないと思っているからこそ、そのような冗談が言えるのだろうが、玲夜の機嫌が急降下していくのが分かるので、隣で柚子はヒヤヒヤする。
 後で被害を受けるのは自分なので止めてもらいたいと、柚子は冷や汗ものだ。
「あの、それよりも神器の話をしませんか?」
「あ、そうだったね」
 脱線しまくっていた話が柚子のひと言で修正される。
「そもそもなんだけど、その神器ってどんな形してるの?」
 柚子ははっとする。
「そういえば聞いてないです……」
 それでどう探すのかとなんとも言えない空気が流れたが、柚子は思い出す。
「龍が神器のことに詳しそうだったので、龍に聞けば分かると思います」
「なら、龍にできる限りの情報を聞き出してこっちに教えてくれるかな? その情報を元に調べてみるよ」
「はい、分かりました」
 龍は今この場にはいないので、屋敷に帰ってからになる。
 神器がサクのために作られたなど、その当時のことを知っている様子だったので、龍ならなにか分かるかもしれない。
 というか、なにか分からなければ完全に詰む。
 神器というだけでそのものを探すにはさすがに限度があるのだ。
 もしくは、再度神の元を訪ねるしかあるまい。
「あやかしの本能を消してしまうなんて、神様は初代の花嫁を本当に大事にしていたのねぇ」
 などと、沙良が難しい顔をしていると、千夜がへらりと笑う。
「ていうか、その神器使ったら玲夜君から逃げられるんじゃない?」
 まだその話は続いていたのかと、しつこい千夜に、柚子もがっくりとした。
「本能を消すごときで俺が柚子を手放すなんてありませんから、そんなもの無意味です」
 そう反論しつつ、柚子を後ろから抱え込んだ。
「神器を見つけたらたたき壊すか……」
 不穏な発言をする玲夜の声は本気のように聞こえる。
「駄目だと思うよ。頼まれたんだしちゃんと神様に返さないと」
 玲夜はちっと舌打ちした。