久恵ちゃんは無事に調理師専門学校を卒業して調理師免許を取得することができた。これで手に職をつけさせてやることはできた。あとは本人の才能と努力次第だ。

卒業式のあった次の週末に僕への感謝のために、卒業記念謝恩夕食会を開いてくれるという。主賓はもちろん僕一人で、フランス料理風?のフルコースを作ってくれるという。「風」とつけたのは全部手作りできないのと材料費を安くするので味付けで勝負するという。

それから出来上がったものを二人で一緒に食べたいと言っていた。確かにせっかくだから二人で味わって食べた方が良い。でも一人二役は大変そうだ。

土曜日の午前中に久恵ちゃんはひとりで自由が丘まで食材の買い出し出かけた。僕は駅の近くのスーパーでお祝いだからと赤と白の少し高価なフランスワインを買ってきた。今日はゆっくり飲んで少し酔ってみたい気分だった。

久恵ちゃんは昼過ぎから料理の下ごしらえを始めている。今日は何もしないでただ席に座って出てくる料理を一緒に味わって食べてほしいと言われている。忙しそうにしていても手伝わないでほしいと言うので、準備の様子をソファーから見守っている。

良い匂いがしてくる。昨日のうちにフルコースのメニューが渡されていた。それによると、オードブル(前菜)、パン、スープ(コンソメ)、ポワソン(魚料理)、ソルベ(お口直し)ヴィヤンド(肉料理)/レギューム(肉料理と供されるサラダ)、フロマージュ(ブルーチーズ)、デセール(ケーキ)、コーヒーとなっていた。

5時になった。もう準備ができたので始めたいという。待ってました!

冷蔵庫からオードブルが運ばれてくる。お皿には3品載っている。すべて自分で作ったという。また、パンの美味しいお店で買ってきたというバスケットに盛ったパンも出てきた。

まず、3品の説明が長々とある。お腹が空いているので早く食べたい。黙って頷きながら聞いている。その間に白ワインをグラスに注ぐ。ようやく解説が終わった。食べて良し! 犬がご馳走を前にお預けをさせられているのと同じだ。

白ワインを飲みながら味わう。いける。味付けも良い。お腹が空いているので少量のオードブルはすぐに食べ終わる。まあ、オードブルってそういうもんだ。

「もう少し味わってゆっくり食べて下さい!」

「ごめん、お腹が空いていた」

久恵ちゃんは白ワインを口にしない。飲むと酔うことが分かっているからだ。

「どうだった?」

「美味しかった」

「それだけ?」

これではダメみたい。もう少し詳しい感想が欲しいと分かった。

「いろんな味がして味付けに深みがある」

無難な感想を加える。久恵ちゃんは不満な表情を見せるが、これ以上は期待できないとスープの準備にとりかかる。

下ごしらえはできているので温めるだけのようだ。スープ皿に丁寧に注いでくれる。ここでまた解説が始まる。手短にと言いたいが口に出せない。早く飲まないと冷めてしまう。早く飲みたいと何回も頷く。飲んでよし!

スプーンでそっとすくって口に入れる。確かに美味しい。

「どう?」

「美味しい。本格的なコンソメスープだ。コンソメの素でつくるのとは全く違う」

あまりにも本音を言い過ぎた。

「当たり前でしょ。ほかに言い方はないのかしら」

もう、あきれ返られている。一生懸命に作ってくれたのだから美辞麗句を探すが簡単には思いつかない。もっとペースを遅くと思いながらも、味を聞かれて考えているのとお腹が空いているので、これもあっという間に飲んでしまった。

久恵ちゃんは味を確かめるようにうんうんと頷きながら飲んでいた。

次は鯛のポアソンという。レンジで焼いてから仕上げるので少し時間がかかるという。レストランではおしゃべりしながら料理を待っていればいいから、お腹が空いたという感覚は出てこない。

ここでは久恵ちゃんがコックさんとお客さんの二役を演じなければならない。だから二人でゆっくりおしゃべりができないのと、料理の感想を考えていると間が持たなくなるのでますます空腹感を覚える。

ようやく料理が出てきた。今度は時間があったので出てくる前からずっと感想を考えていた。

聞かれたら、すぐに答える。

「鯛の皮のパリパリ間がすごくいい。鯛の本当のうまみが引き出されていて美味しい」

今度の感想はどうだ! 自分でも食べてみている。

「そうね。まあまあね」

感想が気に入ってもらえてよかった。感想の要領が分かってきた。この調子でいけばいい。料理番組のレポーターが大変なことがよく分かる。

口直しのソルベが運ばれてきた。買ってきたものでモモとブルーベル―の2種類が載っている。確かにソルベの方がアイスクリームよりもすっきりして口直しにはいい。

「美味しいソルベだね。もう少しないの?」

「残りは後でお風呂上がりに私がゆっくり食べるから」

「そうなの」

少しお腹が落ち着いてきた。次はメインのヴィヤンドとレギュームだ。僕は赤ワインを二人のグラスに注いだ。もう、これで料理は終わりだから、久恵ちゃんも少しは飲んでもいいだろう。

葉物が中心のレギュームが運ばれてきた。ドレッシングはいわゆるフレンチドレッシングだ。少し食べてみるが、普通のフレンチドレッシングと変わりないような気がする。なんと言ったものか、ずっと考えていた。

フィレステーキが出てきた。肉に目が行くがとても小さい。ええ、それだけ? それにソースがかかっている。

「最高級の肉を買ってきたから小さめですが、食べてみてください」

もう少し大きい肉を想像していた。まあ、久恵ちゃんは少食だからこれでもいいだろう。しかたないか。少しずつよく噛んで味わって食べよう。

「とても美味しいお肉だね。高いだけあるね。でもこの倍くらいは食べたいね」

「安いお肉ならね。これは高くてとても無理。でも一度食べてみたくて買ってみたけど、もう少し安いのにすればよかった」

「ソースがよくできているからそれでもよかったかもしれないね」

暗にソースを褒めた。ついでにドレッシングも褒めておく。

「このドレッシングもなかなかよくできているね」

「ごめんなさい。それ、いつも買ってきているドレッシングなの。ソースをつくのに一生懸命でドレッシングを作るのを忘れていました」

それを先に言ってよ! やはり僕の舌はちゃんとしている。そう思った。

久恵ちゃんが赤ワインのグラスを口に運んでいる。もうこれで調理はないからだ。ほっとしているのが分かる。僕のために一生懸命に作ってくれたんだ。

フロマージュはブルーチーズを買ってきてくれていた。僕が好きな銘柄で時々僕がテレビを見ながら水割りを飲むときに食べているものだ。久恵ちゃんも気に入ってくれて、時々そばに来てつまんで食べていた。赤ワインにも実によく合う。

久恵ちゃんが赤ワインのグラスを空けた。この前のこともあるけど、ここは自宅だ。何とでもなる。

デセールは買ってきたチーズケーキとモンブランだった。一人で2個は多いので、半分ずつ食べるという。コーヒーはコーヒーメーカーで作っていれてくれた。これでおしまい。

久恵ちゃんは少し疲れたみたい。僕の隣へ来て坐った。そして寄り掛かかってきた。僕は酔いが少し回ってきている。食後のこのひと時がなんともいえなく楽しい。

「ありがとう。僕のために作ってくれて、本当に美味しかった」

「手抜きもあったけど、学校へ行かせてもらった成果をみてもらいたかったので、美味しいといってもらえて本当によかった」

「後片付けは僕がしてあげよう。もう少ししたら始めるから休んでいて」

「いえ、私がしますから。しばらく休めば大丈夫ですから」

もたれ合って坐っていたらすこし眠ったみたいだった。僕も白ワインをグラス2杯、赤ワインもグラス2杯は飲んでいた。

気が付いて後片付けをしようと立ち上がると寄り掛かっていた久恵ちゃんも気が付いた。

「跡片付けは私がします」と言って立ち上がろうとするがよろけて僕に抱きついてきた。それを受け止めてソファーに座らせた。

「ごめんなさい」

「いいから、いいから、休んでいて」

僕はキッチンに行って後片付けを始めた。洗い物には慣れている。研究所で散々実験器具を洗ってきた。食器を洗うのは神経を使わなくていいから楽だ。すぐに鍋、食器などの後片付けが終わった。

久恵ちゃんはと見ると、ソファーですっかり眠り込んでいる。疲れたんだな。このまま今日は寝たらいい。

「久恵ちゃん、部屋で寝た方がいいよ」

「ええ」

抱え起こして部屋まで連れて行く。ドアをあけると布団がもうきちんと敷いてあった。今日はゆったりしたワンピースの部屋着を着ているので、このままでいいいかと掛布団をのけてそこに横たえた。

そのとき「パパ大好き」といってしがみついてきた。酔って寝ていたとは思えないくらいの力だった。久恵ちゃんのいい匂いがする。驚いて顔を見るが目を閉じていて寝ぼけているみたいだ。

そういえばホテルのレストランで会食した時も帰って来てからこうだった。飲んだらいつもこうなるんだ。

大好きはいいとしてどうしたものか? そっと首に回した手をほどいて、寝かしつける。久恵ちゃんからは力が抜けて、それにあえて抵抗はしなかった。掛布団をかけて、頭を撫でて「今日は本当にありがとう。おやすみ」と言って部屋を出た。

抱き付かれたとき、すごい力だったので久恵ちゃんは僕を誘っているのか? と思った。このまま、自分のものにしてしまおうという衝動に一瞬かられた。

酔っている久恵ちゃんをこんな形で僕のものにしたとしても、後悔が残るだけだ。それにそうじゃなかったとしたら、久恵ちゃんを傷つけてしまうことが怖かった。

次の日の朝、顔を合わせた時、久恵ちゃんは微笑んで「おはよう。酔っぱらって寝ちゃってごめんなさい」と言ったけど、憂いのある寂しそうな目をしていたように思った。やっぱり、僕を誘っていた?