三途の川にデスポーンした
 向こう岸では、ボロ雑巾みたいな薄っぺらい布をまとった、腰のひん曲がった老婆が声を張り上げて子供を叱責している
 「ほら、しっかり詰みな」
 せっせと石を積んでいる健気な子供達。それを、老婆は枝みたいな足で蹴飛ばし、これまた、枝のような腕で薙ぎ払っている。
 子供達は、泣きも喚きもせずに黙々と崩された石を積み直している
 「お前さん、この川渡るのかい?」
 しゃがれた声が背後から聞こえた。帽子を目深に被った老人が立っていた
 「このさきに行くと死んでしまうんでしょう?」
 老人の背後にある、鬱蒼とした森を指差した
 木々たちはカサカサと風も吹いていないのに揺れた。嘲笑のように聞こえる
 老人は顎を触りながら、つまらなそうに尋ねた
 「では、君は帰るというのかね」
 「舟もないのに」と付け加える。チラリと川の方に視線を向ける。確かに川には薄らと霧がかっている。向こう岸は見えるのだが、上流や下流の方は全くと言っていいほど見えない。川の方も黒く澱んでおり、底は見えない。流れがないせいか沼の方が近い気もする
 「舟は時間がかかるので使いません。船頭は漕ぐのも遅いし、そのくせ、喋りだけはきっちりする」
 「失礼だが、お前さんの体は生きているのかね。死んでいるのなら、私は仕事として君を連れて行かねばならん」
 帽子の隙間からチラリと覗いた瞳は目尻に深い皺が刻まれており、鋭い眼光が覗いている。酷く落窪でもいるからだろうか余計に印象が強く感じられる
 蛇すら射抜くような目にたじろぐ。が、そこをグッと堪え、しっかりと視線を合わせて答える
 「生きていますよ。ええ、そりゃあ確りと。だから帰りますよ。急いでいるのでね」
 失礼。と軽く会釈して、俺は川のほうに向き直る
 タクシーを呼ぶようにして、片手を上げる
 何処からともなく、舟が現れる
 「舟は乗らないのでは?」
 カカっと老人が笑う。酷く乾いた笑いだ。隙間風の吹く歯が見えた
 大きな笠を被った船頭は長い棒で上手い具合に速度を調節して、目の前にピッタリ静止すると、
 「此岸へお行きになりますのでしょうか?」とゆったりした口調で言った。
 俺はそれを聞いてから、両手を大きく広げて、ガバっと、その船頭に飛び掛かった。
 船頭は驚く間も無く、俺に襲われる。
 「どけ!」
 事態を把握し、長い棒で突かれる。俺も負けじと押し返す。大きく揺れる舟の上で、男二人が押し相撲をする。死闘の末に勝ったのは俺だった。
 疲労した船頭から、棒を奪い取り、その棒で小突き落とした。哀れにも、船頭は泳げないようで、これまた哀れにあっぷあっぷと枯れ枝のような手足で水を数回掻いてから二度と浮かんでくることはなかった
 被っていた笠だけが水面に漂っていたが、暫くするとこれも、とぷりと沈んで行ってしまった
 「よし、いいぞ」
 俺は奪った棒を右左と忙しなく突っ込んでバランスをとった。動かすには大層骨が折れたが必死になって動かした。
 一部始終を見ていた老人が事態を理解して叫ぶ
 「これは裏切りだぞ。戻ってこい。殺してやる。お前さんはきっと地獄行きだ! 戻ってこい!」
 今は遥か遠くとなった岸でひたすら叫ぶ。だが、何処まで行っても声は耳元で鳴り響いていた
 俺は一言も言わず必死になって舟を漕いだ

 川の半分くらいを渡り切っただろうか。両方の岸が見えなくなった。不思議なことに老人といた時は霧の隙間から向こう岸が見えていたのに、今は全くと言っていいほどに見えない。辺りは霧しか見えず、それは、浅い舟の底も見えなくなるほどに濃かった
 また、しばらく漕ぎ続ける。手元は少しも狂うことは許されない。狂えばたちまちに方向を見失ってしまうからだ
 そうやって漕ぎ続けてようやく反対の岸が見えてきた
 濃霧の隙間を縫って、石の塔が見える。と思えばそれは崩れ去る。啜り泣きが聞こえる。同時に怒号も
 「ほら! しっかり積みな!」
 来た時に聞こえた老婆の声だ
 途端、舟が大きく揺れた
 「なんだ」
 棒を握り締めふんばったがその甲斐虚しく、バシャンと川に投げ出された。船頭のように手足をバタつかせる。役立たずの棒切れは早々に投げ捨てた。
 川は粘り気を含んでいて、服に海藻のように張り付いてくる。
 「なんなんだ」
 ゴボゴボと半分沈みつつも叫ばずにはいられなかった。
 「よくも、よくも……」
 水底から淀んだ声がする。それは屈折せずに鮮明に聞こえた。聞き覚えのある声だ。しゃがれ声。小馬鹿にしたような含み笑い。あの老人だ。あいつはあの後追いかけてきたのだ。船頭とは違い、奴は泳ぎが得意らしい。確実に俺を殺そうとしている。
 舟と自分の真下だけが更に濃い黒となる。
 大きな不安に襲われて、足を掻いたが、その足を掴まれる。それも、両足共だ。俺はそのままどうすることも出来ずに、川底に引きずり込まれていった
 「捕まえたぞ! 小童が」
 老人は口から泡を吐きながら地響きのように叫ぶ。被っていた帽子は何処かに行ってしまったようで、つるりとした地肌が見える。ところがおかしなことに体は水で膨れて大きさは先ほどの何倍もある。ナマズみたいな体になっていた。それが時間とともに更に膨らむ。足を掴んでいる手は今では膨らみ過ぎて指の形がはっきりとわからないくらいにまでなってしまっている。それでも、これが指だとわかるのは、俺の足首に太い食い込み跡がついているからだ
 そのまま俺の足を持って、鈍重な動きでバタ足をした。太く大きな足から繰り出される推進力は凄まじかった
 俺はゴボゴボと溺れ、肺から酸素を消えていくのを感じながら「もうダメだな」と諦めていた。川底に洞穴が開いているのを見つけ、意識は深く沈んでいった。老人の高く勝ち誇ったような笑いが耳元でずっと鳴っていた


 「あ、先生起きましたよ」
 ピッピッピと規則的な音
 白い空間
 横たわる俺
 先生は俺の指に何かを嵌めて「うむ、数値は問題ないな」うんうん頷いた。それを聞いて、看護師はボタンを操作してベッドを起こした
 「どうだったかね」
 俺はぼんやりしながら記憶を辿った。思い出して、勢いよく足を手繰り寄せた。足首を見る。なんともない。細く白い足首があるだけだった
 「なにか嫌なことでも起こったかね?」
 優しく先生は尋ねた
 足を摩りながら「ええ、まあ」と曖昧に頷く
 感触がまだそこに残っていた
 「ところで本題だが、君はリタイヤしたね」
 「悔しい限りです。前回は三十分で帰ってこられたのに」
 先生は看護師の方に手を出すと、看護師はカルテを手渡した。それを受け取り、数枚ペラペラと捲った後に、こちらに手渡す。俺はそれをベッドのうえから一歩も動かずに受け取り、見た
 一枚目には老人に不審がられ殺され失敗
 二枚目には船頭に川へと突き落とされ失敗
 三枚目には向こう岸にたどり着くも老婆に石を積まされタイムオーバー
 四枚目には、なんとか成功。クリアタイムは三十分
 そして、新しく追加された五枚目には肥大化した老人に川底へ引きずり込まれる。と書かれていた。全てに目を通し終え、先生にカルテを返す。前屈みで先生は受けとると、また看護師に渡した
 「三途の川の攻略は出来そうかね」
 俺に繋がれた機械の線を弄りながら言う。手元が忙しいためか普段より口調がゆったりとしていた
 「攻略なんて簡単なことじゃないですよ。俺がやっているのはRTAです」
 間髪入れずに先生が言葉を返す
 「それはなんだったけな」
 「リアルタイムアタックですよ。指定された場所の攻略を一番早くできた人が勝ちなんです。俺はその日本王者なんですよ」
 「それが君が仮死状態に何度もなる理由かね」
 言いながら先生は緑の線を引っこ抜いて、別の刺し口にさした。少しだけ火花が散った。後ろで黙って見ていた看護師が「もう少し優しく」と全然優しくない声音で言った。お構いなく先生は青色の線を引っこ抜く
 「医者としては死ぬ危険性もあるわけだから推奨は出来ないが、三途の川の全容が明らかになるのは願ったりだよ。帰り方が分かっているなら、亡者は生まれなくなるからね」
 「ところで先生。初めて川底に引き摺り込まれた訳ですが、底の方に穴を見つけましたよ。俺は次の仮死状態でそこに向かおうと思います。どう思われますか?」
 尋ねると、うーんと首を左右に捻りながら考えた。途中で看護師にも意見を募ったが看護師はぶっきらぼうに「従業員用出入り口なんじゃないですか」と言ったっきり一言も喋らなかった
 「俺は看護師さんの言うとおり、アイツらの出入り口で奥は行き止まりか、それか近道だと思うんです。近道ならあの老婆に見つからずに現世に帰るリスポーン地点まで辿り着けるかもしれない」
 「では、もう一度行くのか?」
 お願いしますとはっきりした声で言うと、看護師はフラッと部屋から姿をけして、注射器を持って帰ってきた。それを先生は今度はしっかり目で確認しながら受けとると、脱脂綿で腕を消毒してからプスリと刺した。
 視界がだんだん歪んでいき、すぐ様仮死状態へと入った。次に目を覚ました時には数刻前に立っていた場所に戻ってきていた

 「お目覚めですかな」
 巨大な影から声がする。それは確かに老人の声だった。嫌な予感がして俺は後ろを振り返る
 「やっと帰って来よったわ」
 老人はナマズを通り越していた。その姿はトロールのようでブヨブヨした体はあれから更に膨らんでおり、五メートルほどになっていた。俺は足が竦み、その場で動けずにいた。
 動けない俺を老人は片手で掴み持ち上げると高笑いを始め、よほど嬉しいのかそのまま上下に振り回した
 「バカめ俺は死なんぞ。時間が経てば先生が覚ましてくれる」
 それを聞いて老人はカカっと笑った。振り回すのをやめて、落ち窪んだ目で俺をみた
 「お前さんは何を言っているんだ。三途の川というものをまるで知らんようだ。川はなあ渡ってはいかんのだよ。お前さん四回目に渡ったな。その時点で死んでいるんだよ。ええ? 分かるかい?」
 「俺はさっきまで起きて先生と看護師と話していたんだ。あれが幻だっていうのか」
 唾を飛ばしながら喚き立てたが老人はさして気にもしていないようで、顎を掻きながら「ああ、あれはなあ」という
 「走馬灯だ。なにせお前さんが来た理由は本当だからな。ここで溺れて死んだのだからここで走馬灯を見るのは道理に叶っていると言えよう。まだ、質問するかね」
 すっかり項垂れてしまって、言い返す気力もない。三途の川で溺れて死んだなんて本当にお笑い草だ
 「俺は地獄に行くのか?」
 それを言ったのは、最後に老人がそう叫んでいたのを思い出したからだ。
 辛うじて、そう尋ねると老人は笑った。笑い過ぎて俺を手から離してしまい、体は地面に叩きつけられた。痛みが体を襲ったが、折れたりはしていなかった。全くの無傷だ
 「お前さんは船頭になるんだ。なにせあの船頭はお前さんに殺されてしまったからなあ。研修は要らんね。立派に漕いでいたものなあ」
 そういって、また俺をブヨブヨした手で掴んで持ち上げると、ノソノソと川の中へ入っていった