彼女に呼ばれた場所は僕らの校区と隣の校区のちょうど境目あたりにある廃工場だった。存在こそ知っていたものの、実際に間近に来るのは初めてだった。
「やっと来た。迷った?」
廃工場の入り口、立ち入り禁止の黄色いテープが貼られた前に月見さんはいた。黒のノースリーブのワンピースが大人っぽくも健康的だ。それと傍らに置いた一斗缶がアンマッチで、少しだけ頭がくらくらしてくる。
「道に迷ってはいないよ。行くかどうか迷ったけど」
「へ、言うねえ」
彼女は一斗缶を引きづりながら立ち入り禁止を軽々とくぐった。一斗缶が引っ掛かってテープが破れた。だらんと垂れた立ち入り禁止は2着以降のゴールテープみたいだ。
それでもなおそこを動かない僕に向かって彼女が声をかける。
「燃やさないの? 通知表」
「だってそこ立ち入り禁止だし」
「君はそのままでいいの? おとなしいままで。私は嫌だよ、嫌だ」
目の前にいる僕とは目が合わなかった。地面にはき捨てるように、もしくは自分の心の中に語りかけるように、彼女は零した。
僕に強制するでもなく、誘うでもない。そんな彼女に僕は受動的についていくことしかできなかった。
ほこりまみれの廃工場は7月の昼下がりにもかかわらず、薄暗くてひんやりとしていた。「ここでいっか」と立ち止まった彼女の声が反響する。
早速、通知表を燃やそうとライターを近づける彼女。しかし、通知表は思ったよりも分厚くて丈夫な紙でできているようで、うまく火はついてくれなかった。
「破ってちょっと小さくしたほうがいいのかな」
言うが早いか、彼女は通知表を何のためらいもなく縦横無尽に破った。
恨みを込めてというよりも、破ることが必然だから破ったように見えた。
「どうして月見さんは通知表を燃やすの?」
「たぶん君と一緒だよ」
彼女は破いたばかりの通知表を見せてくれた。一度割ってしまったガラスは目に見えないほど細かい破片が散ってしまって、完全に復元することはできないという。それと同じように、通知表もつなぎ目が歪な形になっていて途中までしかなかったが、文章を読むことに不自由はなかった。そこには確かに僕と同じあの言葉がいた。
『勉強も、運動も、なんでも器用そつなく
こなす様子に感心します。お姉ゃん譲り
の負けん気がありますが、大人しくて狡』
恥ずかしかったのか、彼女は僕が読み終えたくらいの時間が経つとバッと奪い返した。言い訳するように言葉を重ねた。
「隣の席で君の通知表がチラリと見えたんだ。『おとなしい』って文字をずっと睨んでた。自分のことなんて何も知らない先生が一言で決めつけてくる。そのことへの反抗心、みたいなものでしょ?」
彼女は僕が感じているモヤモヤとした鬱屈を見事に言葉にしてくれた。
「うん。そんなにうまく言葉にできなかったけど、僕の原動力はずっとそれに近いものだったと思う」
「でしょ。あー、この人私と同じなんだって思ったらいつの間にか声かけてた」
知らなかった。月見さんがおとなしいと言われるような人物であることも知らなかったし、彼女がこんなにも自分と似ているということはもっと知らなかった。
「声かけてくれて嬉しかった。かも」
「うん。……燃やそ」
小さく破り刻まれた通知表は端っこからジリジリとライターの火にあぶられ、ゆっくりと炎を蓄えていった。一度燃えてしまえば、あとは一斗缶の中に放り込むだけ。
僕のおとなしいも、彼女のおとなしいも、全部燃えて消えてしまえ。
薄暗い廃工場の中では、燃える炎がよく光る。
炎に照らされた彼女の横顔は彫刻みたいに陰影がはっきり見えた。僕はしばらくそこから目を離すことができなかった。
「なんだか『ぼくらの七日間戦争』みたいだね」
思わず僕が零す。
「なにそれ?」
「小説。中学生が大人に反抗して、廃工場に立てこもる話。さすがに通知表を燃やすシーンは出てこないけど、たぶん僕らは今登場人物と同じ気持ちになってると思う」
「ふーん。言うことが博識だね」
さすがオールAさん、とわざといじらしく言う彼女はそういえば僕の通知表をのぞいていたのだと思い出す。
博識と読書量は比例するのだろうか。
「その小説が大人への反抗だとするのなら、私たちはおとなしいへの反抗かな」
「まあ確かに」
「おとなしいへの反抗と言えばどんな行動?」
「んー。お酒、とか?」
「博識は得てして想像力が凡庸だね」
博識と想像力は反比例するのだろうか。
これに関しては僕の想像力が乏しいことを認めるしかない。
「まあいいや。それ採用。じゃあ行こうか」
『ぼくらのおとなしい戦争』は、廃工場だけではとどまらないようだ。
僕は苦笑いと多少の高揚感を携えて、彼女の後に続いた。