おとなしい僕と、似たような彼女

通知表を飲み込んでしまいたい。
ガシガシとかみ砕いて、ひと思いにごっくんと。
そうすれば通知表に書かれた『おとなしい』という言葉が僕の中に溶け込んで、身体を構成する養分となってくれるだろうか。そうして出来上がった僕は、自分すらも納得する『おとなしい』人間となるのだろうか。

「さて、今日で一学期も終わるわけですが、わかっていると思うけどみんなは受験生だ。高校受験に夏休みはないんだということを忘れないでほしい」

先生の言葉は、しかし、夏休み前の浮かれたクラスの中には響かなかった。僕の耳からも通り抜けていった。
もう一度、通知表を睨む。
高校受験を迎えるうえで誰もが羨むであろう「A」の数。しかし僕の眼に映るのは、なんだかんだ言ってテストの成績がモノを言う各教科の評価ではなく、生徒をしっかり見ているはずの担任が一人一人に宛てて書いた所見だった。
どれだけ睨みつけても内容は変わらない。

『成績優秀で、学習への集中力はみんなのお
 手本のようです。少しおとなしいのがもっ
 たいないかな。もっと積極的に、公私とも
 にみんなのリーダーになってください。』

通知表をもらうたびに『おとなしい』という言葉が必ずいる。
最初にその言葉に出会ったのは小学校1年生の頃。そのとき、初めて自分がおとなしい子であることを知った。それからも毎学期の終わりに貼られる『おとなしい』というレッテルが鬱陶しく感じ始めたのはいつのことだろう。
中学に入ると学力が順位で測られるようになり、頭の良さと真面目さ、おとなしさは揃って告げられることが多くなった。どう振舞ってもあるいは振舞わなくても「彼はおとなしいから」「彼は真面目だから」というレッテルを抜け出せない。僕の周りにはずっと『おとなしい』の壁があるみたいだった。

周りの誰かが築き上げた身勝手な壁。

「僕の何を知っているというのか」

いっそのこと、本当におとなしい子になってしまえばいいとも思った。『おとなしい』の壁の中で安寧できるようなおとなしい子に。
けれど、やはり僕は『おとなしい』の壁を弱々しく殴り続けていた。


「以上のことをしっかりと守って、中学校最後の夏休みをしっかり楽しんでください。勉強も忘れるなよ~。じゃあ解散」

僕はそのとき立ち上がろうとしたはずだ。
立ち上がって先生に大股で近づき、通知表を机にバンと突き付ける。『おとなしい』ってなんですか。『積極的に』ってなんですか。
しかし、威勢よく啖呵を飛ばす僕は空想の存在で終わった。
誰かが立ち上がろうとする僕の腕を掴んだからだ。

榛原月見(はいばらつきみ)
隣の席の女の子。
隣の席だったけれど一度も話したことがなかったため、掴みどころのないアンニュイなクラスメイトというイメージしかない。
そんな彼女がふいに僕の腕を掴んで、言った。

「今から通知表燃やすんだけど、一緒に来る?」

それは暴力的で、だけどひどく甘美な匂いのする言葉だった。
初めての会話にまったくふさわしくない第一声に、僕は夢うつつの状態で頷いていた。月見さんはこんなに綺麗な声だったのか、なんて思いながら。

彼女に呼ばれた場所は僕らの校区と隣の校区のちょうど境目あたりにある廃工場だった。存在こそ知っていたものの、実際に間近に来るのは初めてだった。
「やっと来た。迷った?」
廃工場の入り口、立ち入り禁止の黄色いテープが貼られた前に月見さんはいた。黒のノースリーブのワンピースが大人っぽくも健康的だ。それと傍らに置いた一斗缶がアンマッチで、少しだけ頭がくらくらしてくる。

「道に迷ってはいないよ。行くかどうか迷ったけど」
「へ、言うねえ」

彼女は一斗缶を引きづりながら立ち入り禁止を軽々とくぐった。一斗缶が引っ掛かってテープが破れた。だらんと垂れた立ち入り禁止は2着以降のゴールテープみたいだ。
それでもなおそこを動かない僕に向かって彼女が声をかける。

「燃やさないの? 通知表」
「だってそこ立ち入り禁止だし」

「君はそのままでいいの? おとなしいままで。私は嫌だよ、嫌だ」

目の前にいる僕とは目が合わなかった。地面にはき捨てるように、もしくは自分の心の中に語りかけるように、彼女は零した。
僕に強制するでもなく、誘うでもない。そんな彼女に僕は受動的についていくことしかできなかった。


ほこりまみれの廃工場は7月の昼下がりにもかかわらず、薄暗くてひんやりとしていた。「ここでいっか」と立ち止まった彼女の声が反響する。
早速、通知表を燃やそうとライターを近づける彼女。しかし、通知表は思ったよりも分厚くて丈夫な紙でできているようで、うまく火はついてくれなかった。

「破ってちょっと小さくしたほうがいいのかな」

言うが早いか、彼女は通知表を何のためらいもなく縦横無尽に破った。
恨みを込めてというよりも、破ることが必然だから破ったように見えた。

「どうして月見さんは通知表を燃やすの?」
「たぶん君と一緒だよ」

彼女は破いたばかりの通知表を見せてくれた。一度割ってしまったガラスは目に見えないほど細かい破片が散ってしまって、完全に復元することはできないという。それと同じように、通知表もつなぎ目が歪な形になっていて途中までしかなかったが、文章を読むことに不自由はなかった。そこには確かに僕と同じあの言葉がいた。

『勉強も、運動も、なんでも器用そつなく
 こなす様子に感心します。お姉ゃん譲り
 の負けん気がありますが、大人しくて狡』

恥ずかしかったのか、彼女は僕が読み終えたくらいの時間が経つとバッと奪い返した。言い訳するように言葉を重ねた。
「隣の席で君の通知表がチラリと見えたんだ。『おとなしい』って文字をずっと睨んでた。自分のことなんて何も知らない先生が一言で決めつけてくる。そのことへの反抗心、みたいなものでしょ?」

彼女は僕が感じているモヤモヤとした鬱屈を見事に言葉にしてくれた。

「うん。そんなにうまく言葉にできなかったけど、僕の原動力はずっとそれに近いものだったと思う」
「でしょ。あー、この人私と同じなんだって思ったらいつの間にか声かけてた」

知らなかった。月見さんがおとなしいと言われるような人物であることも知らなかったし、彼女がこんなにも自分と似ているということはもっと知らなかった。

「声かけてくれて嬉しかった。かも」
「うん。……燃やそ」

小さく破り刻まれた通知表は端っこからジリジリとライターの火にあぶられ、ゆっくりと炎を蓄えていった。一度燃えてしまえば、あとは一斗缶の中に放り込むだけ。
僕のおとなしいも、彼女のおとなしいも、全部燃えて消えてしまえ。

薄暗い廃工場の中では、燃える炎がよく光る。
炎に照らされた彼女の横顔は彫刻みたいに陰影がはっきり見えた。僕はしばらくそこから目を離すことができなかった。

「なんだか『ぼくらの七日間戦争』みたいだね」
思わず僕が零す。

「なにそれ?」
「小説。中学生が大人に反抗して、廃工場に立てこもる話。さすがに通知表を燃やすシーンは出てこないけど、たぶん僕らは今登場人物と同じ気持ちになってると思う」
「ふーん。言うことが博識だね」

さすがオールAさん、とわざといじらしく言う彼女はそういえば僕の通知表をのぞいていたのだと思い出す。
博識と読書量は比例するのだろうか。

「その小説が大人への反抗だとするのなら、私たちはおとなしいへの反抗かな」
「まあ確かに」
「おとなしいへの反抗と言えばどんな行動?」
「んー。お酒、とか?」
「博識は得てして想像力が凡庸だね」

博識と想像力は反比例するのだろうか。
これに関しては僕の想像力が乏しいことを認めるしかない。

「まあいいや。それ採用。じゃあ行こうか」

『ぼくらのおとなしい戦争』は、廃工場だけではとどまらないようだ。
僕は苦笑いと多少の高揚感を携えて、彼女の後に続いた。

僕らは廃工場からさらに3駅ほど離れた場所にある街へと向かった。僕らの校区よりも栄えていて、歩いている人がみんな大人に見える街。スカートを何回も折り曲げた女子高生も、ランドセルではないカバンを背負った小学生も僕よりずっと大人びて見えた。
学校から離れようと懇願したのは僕だ。
「しょっぱなからおとなしさ全開だね」
と彼女は眉をひそめたが、井の中の蛙では意味がないとかお山の大将だなんとかという博識を盾に理論武装で無理やり押し切った。渋々とではありながら、「ちょうどいいや」という言葉で彼女も最終的には合意した。

駅に降り立つと同時に騒々しさが耳を衝く。

「都会はコンビニがいくつもあって迷っちゃうね」

言葉とは裏腹に、彼女は歩を緩めることなく駅向かいにあるコンビニへと入っていった。まっすぐお酒コーナーへと向かっていく。陳列棚には、20という数字の上に目立つ赤色で斜めに線を引いたマークが仰々しく掲げられていた。
そこの前に立つことすら億劫に思えて、いままでじっくりと眺めたことはなかった。いざ立つと、お酒の数に圧倒される。違いの分からないビールがいくつも並び、見た目美味しそうなフルーツの断面が描かれたチューハイがジュース然とした出で立ちで占拠していた。

「どれにしようか」

なんて尋ねられても飲みたいものがあるわけがない。僕は母親がよく飲んでいる青色の缶ビールを適当に引っ張り出した。彼女も毒々しいラベルをしたビールを一つ選びレジへと向かった。

彼女の後ろに隠れるように怯えていた僕に向かって、
「堂々としていれば大丈夫だよ」
と声をかけてくれた彼女は、本当におとなしい人なのだろうか。

効率重視のコンビニのレジは無慈悲に進んでいき、あっという間に僕らの番が来た。
彼女の後ろについていき、スッとビールを差し出す。店員は流れるような手つきでバーコードリーダーにかざす。彼女は堂々と財布を取り出し、お金の用意をしている。店員がこちらを気にする様子はなかった。
が。

「身分証のご提示をお願いします」

感情の欠片もこもっていないマニュアル通りのセリフが耳を衝く。
僕は慌てて謝ろうとした。もしくは逃げようとした。ドラマで見たような監視カメラが置いてある店舗裏に連れていかれて、親に電話される未来が見えた。親がドアを突き飛ばす勢いで駆け込んできて、泣きながら怒りながら謝りながら——。

しかし僕の斜め前にいる彼女は落ち着き払っていて、店員に身分証を差し出したのが肩越しに見えた。
店員は彼女の身分証を本当にチラリとだけ確認すると、すぐにありがとうございましたと言って返した。それから彼女がお金を払い、おつりが戻され、レシートが渡され、お酒が2本購入できた。

「ありがとうございました」

店員の心ここにあらずの挨拶を背に受けながら、何が起こったのかわからないまま僕はただ彼女についていくしかできなかった。

「これだよ」

そう言って公園のベンチで彼女が見せてくれたのはさっきコンビニで店員に見せた身分証だった。『榛原星奈(はいばらせいな)』という人物の。ここからほど近い場所にあるE大学の学生証。

「お姉ちゃん?」
「そ。盗んできた」
事も無げに言う彼女は早速ビールを開けた。夕暮れ時の公園でビールを飲むという、ひどく中学生離れしたその行為はなぜか彼女によく似合っていた。
紫とか橙とかなんと表現したらいいかわからないこの空はマジックアワーと呼ばれるらしい。なんとなく今の彼女には夕暮れなんて純和風な言葉よりもマジックアワーという横文字のほうがふさわしい気がした。

「そんなのあるなら先に言っといてよ。心臓止まるかと思ったんだから」
「私もできれば使いたくなかったよ。それ効果ないから」

そう言われて改めて見てみると、彼女のお姉ちゃんの年齢は19歳だった。

「店員が見ているのは身分証の年齢じゃなくて、レジに臨む姿勢ってことだね。通知表なんかよりもよっぽど正確だよ」

勝ち誇ったように笑う彼女に思わず肩の力が抜ける。
ハハッ。

おとなしいの壁の破り方を知った気がした。それは特別な方法なんかではなく、壁を思いっきり殴り壊すようなバカげたものかもしれない。それに、僕からすれば随分とかけ離れた方法だったけれど、彼女を見ていると僕にもできそうな気がしてくるから不思議だ。
思い切って缶ビールのプルを開けてみる。
小気味いい音がして、泡が飛び出してきた。さっき振っといた、と告白したのは彼女だ。

怒りよりも先に笑みが自然と浮かんだのは初めてのことかもしれない。
今は彼女の隣にいられることがなんだか嬉しかった。彼女が隣にいれば何でもできそうな、無敵感。
けれど、それとこれとは別の話。初めて飲むビールは苦みでしかなかった。

「まっず」
「もしかしてビール初めて?」
「当たり前でしょ。にっがい。まっずい」

僕のしかめっ面を微笑ましく眺めている彼女がふと、その表情に影を落とした。

「強がらない君はとても素敵だね」
「え?」
「かっこつけないで、怖かったら怖がって、苦かったらちゃんと苦いっていう君は本当に素敵だなって」

唐突にトーンを落とした彼女の声は僕を縛り付ける魔力を帯びていた。

「何言っているの。堂々としている月見さんの方が僕の何倍も魅力的だよ」
「じゃあ本当の私を見せたら幻滅されちゃうかな」
「本当の君?」

斜め下に視線を落としてから、彼女はビールをぐいっと一口飲んだ。
それから満を持して、とびっきりの笑顔で言った。

「ビールってまっずい!」

楽しそうに笑っていた。いろいろな笑い方をする子なんだと、僕も笑いながら思っていた。彼女を知れば知るほど、おとなしいから遠ざかる。それくらい、気づいたら彼女との仲は深まっていたし、絆のようなものが生まれつつあった。すべて彼女が支配する柔らかな空気感のおかげだった。

一瞬見えた気がした彼女の弱い姿。風が吹けば飛んでいきそうな儚げな彼女はもうどこにも見当たらない。もしあれが演技だとするなら末恐ろしい。
そんなことを考えていたことすらこのときはもうすでに忘れ去っていた。


それから、飲み切れなかった缶ビールを公園で寝泊まりしていた路上生活の方にあげた。彼女は現役JCとの間接キッスですよなんて言っていたけれど、その方はぽかんとしていてむしろ彼女の方が後で恥ずかしがっていた。
ホームレスさんは缶ビールのお礼にと、寝食している段ボールに案内してくれようとした。僕らはそれを口をそろえて丁重にお断りをした。
「帰る場所があるので大丈夫です」
「向かう場所があるので大丈夫です」

ホームレスさんとお別れした僕らは再び月見さんの先導のもと、次の目的地へと向かっていた。僕には目的地は知らされていない。これまで通り、ただ彼女の後ろをついていくだけだった。
もう夜も更けてきて街はすっかり大人専用の顔をのぞかせている。
その中を補導されないよう、彼女の言葉を借りれば堂々と歩いていった。

『ぼくらのおとなしい戦争』はもう少しだけ続いていく。

公園から歩いて15分ほど。ついたのは遊園地だった。
僕らの校区を含め近隣の中高生はほぼ全員が来たことあるだろう。けれど、長期休みには逆にがらんとしている。つまりお山の大将だ。
「こんなところに何の用が?」
「もちろん遊びに来たに決まってるでしょ」
「いやだって。ほら時間」

門の外にいてもその大きさが窺える観覧車の車軸部分、クリスマスのような装飾が年中施されたデジタル時計を指さした。
もう1時間もすれば閉園時間だ。

「だから来たんだよ。ほら行くよ」

彼女に振り回されるまま入った夜の遊園地は確かに楽しかった。
これまで何回と乗ってきたアトラクションも夜というだけで知らない世界に迷い込んだみたいだった。キャラになく興奮していた僕に彼女はしたり顔を浮かべてきたりした。
けれど遊園地の1時間はあっという間に過ぎていき、園内にはしっとりとした三拍子の『別れのワルツ』が流れていた。

最後まで遊園地に残っていた物好きな人たちも名残惜しいように、あるいは疲れ果てたようにとぼとぼと帰っていく。
その流れに乗って出口に向かいかけた僕の袖を彼女が引っ張った。

「君はこっちだよ」

今日何度目かの、斜め前にいる彼女。ポニーテールがまさに馬のしっぽのように左右に揺れて楽しげな様子が後ろ姿から見て取れる。
彼女の性格について今日一日を通してぼんやりと理解してきた僕には、これから彼女のしようとしていることの予測はついた。ただ、それをにわかには信じたくなくて、否定してくれるという一縷の望みをかけて彼女に尋ねた。

「どこに向かっているの?」
「閉園後の遊園地ってどうなってるか気にならない?」

やっぱり。

『別れのワルツ』なんて彼女には聞こえていなかった。むしろ彼女には楽しい時間の始まりを告げるファンファーレが頭の中で鳴り響いていたことだろう。

「どこに隠れればバレないかな」
ウキウキしながら隠れ場所を物色するその女の子はまるで新居を探すヤドカリみたいに輝きに満ちていた。その様子に僕は呆れつつも、彼女とならいいかと感じている自分がどこかにいることを自覚していた。
「観覧車の中とかは?」
なんて自分から提案するほどに。

「行った?」
「うん。大丈夫そう」

懐中電灯が照らす光の筋が遠ざかっていった。
止まった観覧車の中から僕らはミーアキャットのようにひょっこりと顔を出している。夜の遊園地は言葉が生まれる前のように静かで、ただときおりギーギーと観覧車が軋む音が不気味だった。
彼女も怖いのか、僕に身体を寄せて離れない。
ノースリーブの彼女の肩が触れて僕はほんの少しだけ緊張していた。

「ねえ、なんか楽しい話してよ」
彼女が小声で言うものだから僕も小声で答える。
「今日一日のことが全部楽しい話だよ」
「なんか告白みたい」

からかうように彼女は笑った。焦って弁解する僕を見て、彼女は声を殺してさらに笑った。

「もしかしてあれ本心だったの? 公園で言ってくれた『堂々とした私が好きだ』って言葉」
「好きだとは言ってないだろ」
「でも思ってた?」

そのとき遊園地の電気が一斉に消えた。
完全なる闇。

さらに身体を寄せた彼女の手を僕の手が掴んだ。握った。
電気が消えてくれてよかったと心から思った。僕の顔はきっと真っ赤だったから。


「ありがと」
小さな声が僕の耳に届く。つながった右手を除けば、彼女を感じられるには声だけが頼りだった。

「何が?」
「今日付き合ってくれて」
「こちらこそだよ」

今日、学校で始めて彼女の声を聞いた時のことを思い出した。スーッと通る綺麗な声だなって思った。多分一生忘れられない僕らのファーストコンタクト。それが随分前のことに思えた。

「私さ、ひとつ嘘ついてた」
「何?」
「卒論燃やしたのおとなしいに対する反抗なんかじゃないの。通知表に『お姉ちゃんと比べて』みたいな言葉があったの覚えてる? 私本当はそれが嫌だったんだ」

お姉ちゃん。榛原星奈さん。
公園で学生証を見たときから思っていたが、E大学は全国でもトップクラスの大学だ。それなりに学習面では自信のある僕が、高校生活のすべてを勉強に捧げてもたぶん届かないような場所。

「ずっとお姉ちゃんと比べられてきた。そのたびにお姉ちゃんと違って優秀じゃないのねってがっかりされた。勝手に期待したのはそっちなのに、私はいつも途中で梯子を外される。今日の通知表でもその言葉を見つけた瞬間になんかどうでもよくなっちゃってさ。だから燃やすなんて突拍子もないこと考えちゃった」
「でも僕はそんな突拍子もないことに救われたよ」

つないだ手から彼女の体温が直接伝わってくる。鼓動まで伝わってくるみたいだ。

「本当は今日したことだってお姉ちゃんの学生証使って、お姉ちゃんの悪評が広まればいいと思ったから。ごめんなさい、巻き込んで」

右手がぎゅっと強く握られる。それが伝えてくれるのは、謝罪の気持ちだったり、不安の気持ちだったり、あとはきっと後悔の気持ちだったりするのだろう。

「僕は今日楽しかったよ。月見さんは?」
「うん。楽しかった」
「通知表燃やしたのだって初めてだったし、ビールの味も知った。夜の遊園地を知ったのも君とだった。どれもこれまでの僕だったらできないことばかり。月見さんとだからできたんだ。他の誰でもない、月見さんが僕をここに連れて来たんだよ」

お姉ちゃんと比較した君ではない。君自身が僕を成長させてくれたんだ。
僕はそんなことを伝えたかった。
月見さんへの感謝を、尊敬を。

けれど僕の拙い想像力では彼女に伝えたい気持ち全てを言葉にすることはできなかった。
だからせめて、一番わかりやすくて伝えやすいこの気持ちだけでも。
おとなしい僕では気付きづらくて、なかなか伝えられないこの気持ちを。


「僕は君が——」

「誰かいる?」
懐中電灯の光の筋が僕らを照らした。

「行こう」
手をつないだまま僕らは走り出した。
光から逃れるように、2人の世界を求めるように。

もう今度は斜め前の君じゃない。
隣にいる君と一緒に。

つないだ手から熱を感じる。荒い息遣いが近くに聞こえる。
遊園地を飛び出したころ、街灯に照らされてようやく彼女の顔が見えた。
走ったからか、ほんのり赤かった。
きっと僕も。

遊園地を離れてからさらに10分程度。乱雑に、時折彼女が指示しながら街中を駆け抜けた。ようやく歩を緩めたのは大通りからは外れたところだった。
そのときになってようやくつないでいた手を離す。
顔を見合わせて僕らは笑った。

「怖かった」
「まだ胸どくどくいってる」

興奮している2人から出る熱気が静かな街の中へと揺らめきながら溶けていった。
呼吸を落ち着かせてから、携帯を確認する。

「もうこんな時間」
「終電もうないっぽい」

携帯で乗り換えアプリを調べていたであろう彼女が淡々と告げた。
ずっと暗闇の中にいたから時間間隔はまるでなかった。唐突に世界に2人だけ取り残された感覚に襲われる。そんな中でも彼女はやはり冷静だった。というより少し緊張しているような。

「で、今ココ」

と彼女は目の前を指さした。
ホテル。
寂れてはいない。かといって綺麗でもない。僕らみたいな緊急事態にはお誂え向きなホテル。

「どうする?」

今日一日、ずっと彼女についていくだけだった僕に意見が求められた。それはたぶん信頼の証。
答えは決まっていた。
おとなしい僕だったらどうなっていたかわからない。
けれど今の僕なら、いや、君といる僕なら。

「泊っていこっか」
「うん」

2人はまた手をつないで、ホテルへと入っていった。


「チェックインしてくるね。これ使って」
ホテルのエントランスで私は学生証を掲げて言った。もちろん姉、榛原星奈のだ。
「今回ばかりはお姉ちゃんに感謝かな。ここで待ってて」

スキップしたい気持ちを抑えて、鼻歌を歌いたい気持ちを抑えて、にやけそうになる表情を必死に抑えて、私は一歩ずつ確実にフロントまで歩いた。
チェックイン直前、念のため振り返って彼を確認した。
彼はしっかりと言われた通り、待っている。少し緊張しているのか肩が上がっていた。

可愛い、と思った。
私の大好きな人。


「いっらしゃいませ。ご宿泊ですか?」
「予約していた榛原です」
「お待ちしておりました」


***


『勉強も、運動も、なんでも器用にそつなく
 こなす様子に感心します。お姉ちゃん譲り
 の負けん気がありますが、大人らしくて狡
 賢い一面を良い方向に活かしてくれること
 を先生は期待しています。』

通知表が帰ってきたとき、『お姉ちゃん』の文字を見て思わず顔をしかめた。それと同時に私をたった数行で言いつくした先生の慧眼に驚いた。担任の先生は思ったよりも私たちをちゃんと見てくれている。

しばらく通知表を眺めていると、大発見をしてしまった。
横目で隣の席を確認する。

真面目でちょっとおとなしくて、可愛い彼。
通知表の『おとなしい』の文字をずっと睨んでいる。

私の通知表の担任所見、そこの右から5文字目を指で隠してみた。

『の負けん気がありますが、大人 しくて狡』

似たもの同士だね。

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