どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しい――こんな自分のことが大嫌いだ。
言いたいことも言えない、私なんて。
「朱音、課題写させてくれない?」
朝、教室の席に着くなり挨拶もなしにそう尋ねられた。
申し訳なさそうな表情だが、私はちょっと戸惑ってしまう。
「えっと、この間も、写したばっかりだよね……。美緒、そういうのはちゃんと自分でやらないと」
美緒に課題を写させて欲しいと頼まれたのは、つい一週間前も同じだった。
ここのところ、美緒はロクに自分で課題をやっていないように見受けられる。
さすがに頷くわけには、とやんわり断ろうとするが。
「何それ?私は朱音と違って頭良いからわざわざこんな課題やる必要ないのに」
「でも」
「いきなりいい子ちゃんぶるのやめてよね、ほんと朱音って笑えない」
だんだん美緒の声が低くなっていく。
騒がしい朝の教室では、周りの人には聞こえないくらいの小さな声だが、美緒の機嫌が悪くなっているのは分かる。
どうやら私はまた、間違えてしまったみたいだ。
「……ごめん、そうだね。美緒はいつもテストの点数良いから、やらなくても大丈夫だもんね。私も美緒みたいに頭良くなりたいなぁ」
そうやって笑って誤魔化せば、美緒は満足したようにいつもの明るい表情に戻る。
「ありがと、朱音!さすが私の親友!」
私のノートを持って、そのまま行ってしまう。
残された私は、何も言わずに席に着いて、何事も無かったかのように振る舞うしかできない。
また今日も、美緒に振り回される一日になりそうだった。
倉島美緒と出会ったのは、高校に入学した時のことだ。
知らない人ばかりのクラスで、友達作りをどうしようかと躊躇していた時に向こうから話しかけてくれた。
お互い、他に親しい人が見当たらなかったこともあって、私と美緒はすぐに仲良しになった。
担任の先生やクラスの子からもこの二人は仲良しだってすぐに認知されるぐらい。
でも、私たちの関係に少し問題があるのではないかと気づいたのはそれからしばらくしてのことだった。
美緒は何かと私に面倒なことを押し付けようとしたり、平気な顔で酷いことも言ってくる。
例えば、日直の仕事だったり明日提出の課題だったり、そういう些細なことからなんでもだ。
私はその度に美緒からの頼みを断ろうとするが、すぐ不機嫌になってしまう彼女にどう接して良いのか分からず、結局引き受けてしまう。
そんなことを続けてもう何ヶ月、気づけばもうすぐ冬の季節だった。
こうなってしまったのは、私が悪いのだ。
元々内向的なところのある私は、美緒のように引っ張ってくれる存在がいてくれるおかけでクラスの中に自然に溶け込めているのだ。
美緒はちょっと怖いと思われがちかもしれないけれど、言い方がきついだけで、本当に嫌な人なんかじゃない。
もっと私がハッキリ言える性格だったら、美緒との関係も今より上手くいっていたはずなんだと。
そう、私は思っている。
放課後、支度をして帰ろうとしたところで、美緒に呼び止められてしまった。
「朱音、今日日直の仕事頼んでもいいかな?どうしても外せない用事があるの」
困り顔をして大きな声でそう言うので、周囲からの視線が一気に集まる。
ちょっと気まずい。
「また……?美緒、用事って」
「お願い!今日だけでいいから!」
美緒は私の言葉を遮ってまで頼み込んでくる。
この前も頼まれたばかりだが、そんなに大切な急用なら仕方がないか。
それに、こんなに注目されていては断るに断れない。
きっぱり言いたいけれど、また今日も何も言えないで終わるのだろうか……。
だが、そう思った直後だった。
「美緒ー、まだ?うちらもう行くよ?」
教室のドアから、複数の女子が声をかけてくる。
私はあまり関わりのない、隣のクラスの子たちだ。
まさか、と思って美緒を見れば、一瞬焦ったような表情を見せたものの、それはすぐに消える。
「待って今行く!じゃ、よろしくね」
そう言って美緒は私にクラス日誌を押し付ける。
こちらを振り向きもしないで、隣のクラスの子たちと楽しそうに会話をしながらどこかへ行ってしまった。
用事って、他のクラスの子と遊びに行くんだ。
他の子と遊びたいが為に、私に仕事を押し付けた。
周りから見てもそれは明白で、教室に残っていたクラスメイトたちはこそこそとこちらを見て何かささやきあっていた。
倉島、またやってるよ。
佐野さんはどうして断らないんだろう。
朱音ちゃんってやっぱり、美緒にいじめられてるんじゃない。
そういう言葉が聞こえてくるが、私に直接言う人は誰もいない。
分かっている。
周りから見えているように、美緒は都合のいい時だけ私を親友と言うけれど、私はきっと彼女の本当の友達ではない。
分かっていながらも、何も出来ない。
入学してからずっと美緒と一緒だったため、私には美緒以外に特別親しい友人もおらず、美緒に嫌われたら学校から孤立してしまう。
それに、ぎすぎすした空気で過ごすくらいだったら、少しぐらい我慢すれば済む話なのだから、耐える方が私にとってそれが一番いいのだ。
心の中で自分を納得させて、日誌のページを開く。
当然、美緒が書くべき箇所は真っ白だ。
シャーペンを握り、書くことを考えようとした、その時。
「佐野、お前はそれでいいのか」
ぱっと横を向けば、隣にいたのはクラスメイトの矢上くんだった。
「それでって……」
「だから、佐野はこのまま倉島のいいなりでいいのかって聞いてるんだ」
背の高い彼に見下ろされると威圧感がある。
いつもより険しい表情も相まってそれを際立たせているが、私は矢上くんが怖い人ではないことを知っている。
矢上くんは、数学の移動教室で隣の席なのだが、いつも私の分からないところを教えてくれるのだ。
ちょっと口が悪いからみんなからは誤解されがちだけれど、言いたいことはストレートにハッキリ言うタイプだからそう思えるだけで、言いたいことも言えないような私にとっては羨ましささえ感じられる。
「矢上くん、別に私は美緒のいいなりになってるわけじゃないよ」
誤魔化し笑いで否定するも、矢上くんには通じない。
矢上くんは隣の席に腰掛けると、そのまま私の手からペンと日誌を奪う。
「あっ」
さらさらと文を書きながら、矢上くんはこちらを見ることなく話を続けた。
「何が違うって言うのかな。今の佐野は、倉島にいいように扱われているようにしか見えない」
彼の言う通りだ。
それでも私は頑なに否定する。
「そうかな?美緒も忙しいし、友達なんだからたまには手伝ってあげてもいいじゃん」
「たまには、と言うけれど今朝も課題を写させていたようだったけど」
「それは……、美緒は賢いから課題なんてやらなくても大丈夫なんだよ」
「何を言う。日頃の課題すらこなせないような奴に出来ることなどあるものか」
さすが、容赦ない。
が、彼の言っていることは概ね正しいのだから言い返しようがない。
「厳しいね、矢上くん」
「佐野は甘すぎる。倉島が成績を落とそうがそれは自分の責任なのに、いちいち気にする佐野は優しすぎると、俺は思うんだが」
「そんなことないよ」
「もう一度聞くが、佐野はこのまま倉島のいいなりを続けるつもりか」
矢上くんは顔を上げ、私の目を見つめる。
彼の瞳は美しく澄んでいて、芯の強さが感じられる。
私とは違う。
彼のように堂々とした人間になりたい。
そう思ったのは一度ではない。
それでも、この狭い学校社会において余計な軋轢を生むのは不本意なのだ。
「これでいいの。私たち、友達でいたいから」
「理解不能だな」
「……矢上くんには分からないよ」
そう吐き捨てるように行ってから、今のはよくなかったとすぐに気づく。
「ご、ごめん……。今、私」
せっかく矢上くんは私の為を思って言ってくれたのに、なんて冷たい態度を取ってしまったのだろうか。
急いで撤回しようとするも、矢上くんの表情は変わっていなかった。
「別にいい。事実だ」
矢上くんは日誌を書き終わったようで、私にそれを手渡した。
「ただ、一つ言っておくが、佐野が変わらなければ現状はこのままだというのは覚えておくといい」
私が変わらなければ。
矢上くんの言葉が胸に刺さる。
彼は呆然とする私をよそに、鞄を持って早々に教室を出ていってしまった。
返された日誌は、矢上くんの綺麗な文字で埋まっていた。
嫌われちゃったかなぁ。
そう思っても、もう取り返しはつかない。
散々注意してもらったというのに一向に態度を改められない私に、きっと矢上くんは失望しただろう。
確実に矢上くんからの好感度は下がった。
彼のように周りに流されない芯の強い人なら尚更、私のような正反対なタイプには付き合いきれないはずだ。
友達には都合のいいように扱われて、叱ってくれた憧れの人には嫌われて。
本当に、私はなにをやっているんだろうか。
この時期になると日が暮れるのも早いようで、いつの間にか薄暗くなった教室には、誰も残っていなかった。
その夜、私は一晩中矢上くんに言われたことについて考えていた。
ほとんど眠れないまま朝を迎え、また嫌々ながらも学校へ行く。
布団から離れるのも辛い時期だとぼやきながらもなんとか支度したが、いつもより起きるのが遅くて時間はギリギリになってしまった。
でも遅刻にはならなかったのでセーフだろう。
母からは呆れられたが、母は私が眠れない理由なんて知らないし、言えるわけがない。
親に余計な心配をかけさせたくなくて、美緒のことはずっと黙ったまま、仲良しの友達と言って隠し続けている。
矢上くんとのことなんて、もっと言えやしないだろう。
このままじゃ、良くないよね。
そう分かっていても、どうすれば現状を変えられるのかが分からない。
とぼとぼと沈んだ足取りで階段を上る。
教室の手前まで来た、その時だった。
「───────別に、あいつ何頼んでも断らないから扱いやすくていいよ」
聞こえてきた声に、ハッとする。
教室の入り口にいる数人の女子、そのうちの何人かは他のクラスの人だが、中心にいる人物には見過ごせなかった。
「テキトーに親友とか言っとけば喜ぶし。あんなレベルの低い女、私が親友だって思ってるわけないのにバカみたいで笑えるわ」
美緒が、私の悪口を言っている。
信じたくない現実のようだけれど、実際、美緒の口から暴言が次々と飛び出してくるのは不思議としっくりきた。
親友なんて言っておきながら、あれこれ面倒事を押し付けている時点で、美緒が私のことを大切に思っていないことは分かっていたからだ。
まわりの女子たちが、美緒こわーい、なんて言いながらちっとも怖いと思っていなさそうにけらけら笑っている。
「……なに、それ」
ぽつりと声がこぼれた。
そこでようやく美緒は私がいることに気づいた。
「あっ、朱音!おはよ、いつもより遅いじゃん!欠席かと思ってた!」
さっきまで罵っていたというのに、美緒は笑顔で近づいてくる。
来ないと思ってたから、こんなところで悪口言っても大丈夫だと油断していたということか。
その取り繕った表情を見て、私はだんだんと頭が冷めていくのを感じた。
私、なにやってたんだろう。
たまたま遅れただけだったが、そのおかげで、私は決断をすることができそうだ。
「朱音、私のことそんなふうに思ってたんだ」
「違うよ!やだなぁ、朱音のことなんて一言も言ってないじゃん」
周りにいた女子たちが気まずそうに顔を見合せている。
美緒の声が大きくなったことで、教室内も静まり、皆がこちらに注目しはじめた。
「誤魔化さなくていいよ。美緒が私のこと、どう思ってたのかよく分かったから」
握りしめた手は震えるけれど、ここで引き下がるわけにはいかない。
いつもと違う私の様子を見て、美緒も下手な誤魔化しをするのはやめたみたいだ。
「……なに、なんか悪い?あんた見てるとイライラするんだから仕方ないじゃん。ウザいんだよ、あんたみたいな何も出来ないバカなんて」
「何も出来ないって、美緒のやりたくないことはなんでも私がやってきたのに?」
私が口答えしたのに一瞬虚をつかれたような表情をするも、すぐに美緒は逆上した。
「あんたなんなの!?いつもみたいにはいはいって頷いとけばいいじゃん!私に偉そうな口きかないでくれる!?」
険しい表情で、酷い言葉を次々と浴びせてくる。
美緒と出会ったばかりの頃には、想像もしなかった光景だ。
「あんたなんか友達じゃない!黙って私の言うこと聞いてればいいの!」
その剣幕に気圧されそうになり、ぎゅっと目を閉じてしまう。
けれど、その時だった。
『佐野、お前はそれでいいのか』
私の頭の中に、矢上くんの言葉が浮かび上がってくる。
学校で友達とケンカなんてしたくない。
だってそんなことをしたら、私は孤立してしまうし、きっと修復は不可能だ。
ケンカして、仲直りできなかったら、その後の学校生活は辛くなる一方。
だから黙って耐えればいい。
今までだったらそう思っていた。
でも、都合よく自分を受け止めて慰めてくれるくれる優しい人なんて、そうそう現れたりしない。
現実を変えてくれるような、そんな他人任せの夢は見ていたら、いつまで経っても変わらない。
美緒ともこのまま歪な関係のままで、本当の友達になんてなれやしない。
───────だったら、自分で変えるしかないんだ。
「美緒。私は嫌だよ。そんなの絶対に嫌。私は美緒と友達でいたいよ」
今はこんなふうになってしまったけれど、出会ったばかりの頃の思い出は、嘘じゃない。
入学したてで不安だった時に話しかけてくれた優しい美緒、いつも私を引っ張ってクラスの中心に連れていってくれた美緒。
私の心にあるたくさんの記憶は、 本物だ。
「なにいってんのよ!馬鹿じゃないの!?」
「馬鹿なんかじゃない。私は、美緒の本当の気持ちが知りたいんだよ」
私の抱えてきた思いが、言葉になって外に出ていく。
心が言葉で熱く染まっていく。
はじめてだった。
美緒の前で、いや、誰かの前でこんなにも本心をさらけ出したのは。
「ふざけないで……!あんたに私のなにが分かるのよ!あんたなんて大っ嫌い!」
「そこまでだ、倉島」
美緒の言葉を遮った声は、思いがけないものだった。
「矢上くん!」
騒ぎを見守ってくれていたのだろう。
困惑したように見物していたクラスメイトたちの中から、冷静な表情の矢上くんが歩み出てきた。
「はっ、矢上は関係ないでしょ!割り込まないでよ!」
美緒が矢上くんを睨みつける。
「割り込んで欲しくないのなら、公衆の面前でわめきたてるのはやめた方がいい」
その言葉に、美緒は今さっき気づいたかのように辺りを見回す。
困惑、驚き、侮蔑。
向けられる様々な視線に、美緒の顔色が変わってしまった。
「倉島。それ以上続けるのはおすすめしないぞ」
「なんなの……!」
矢上くんにまで酷いことを言ってしまうんじゃないかとはらはらした、その時だった。
予鈴が鳴り、向こうから担任の先生が歩いてきた。
「ちょっと美緒……」
「ヤバいよ、もう行こ。うちら関係ないし」
隣のクラスの女子たちはバタバタと逃げていき、美緒だけが残された。
とうとうやって来てしまった担任は、異様な雰囲気の教室にぎょっとしている。
美緒もバツの悪そうな表情で、誰とも目を合わせようとしない。
とにかく、なんとかしてこの場をおさめなければと思ったのだが。
「佐野、行くぞ」
矢上くんが私の手を取り、駆け出していく。
待ちなさい、という声が飛んでくるも、矢上くんは止まらない。
追いかけられるかと思ったが、先生はクラスの子たちに何があったのかを聞くことを優先したみたいで、追いかけてくる足音はなかった。
「ねえっ、行くって、どこに……」
「どこでもいい。とにかく、そんな顔で授業を受ける訳にはいかないだろう」
矢上くんは一旦立ち止まり、私にハンカチを差し出した。
「あっ……」
どうしてそれを、と思ったが、そこでようやく、自分が泣いていることに気づかされた。
矢上くんからハンカチを受け取り、涙を拭う。
アイロンをかけたばかりであろう、皺ひとつない紺色のそれを汚してしまうのは気が引けたが、それよりも矢上くんの気遣いが嬉しかった。
「ここなら大丈夫だろう」
しばらく歩いた先は体育館の裏だった。
まだどこのクラスも朝のホームルーム中で、体育館は人気がなく静まっていた。
矢上くんは、すぐ側に設置されていた自販機から温かいカフェオレを買って手渡してくれた。
建物の陰になって陽の当たらない場所なので、握っているだけで温かさが身に染みる。
「ありがとう、矢上くん。巻き込んじゃってごめんね」
「別にいい。俺が勝手に割り込んだだけだから」
ふん、とそっぽを向いていつものすまし顔だが、彼が私のことを思ってくれていることは分かっている。
矢上くんはいつもそうだ。
私が困っている時に厳しい表情をしつつも手助けをしてくれる。
今回、初めて美緒に本音で向き合えたのは矢上くんのおかげだ。
「美緒、すごく怒ってた……。美緒によく思われてないのは分かってたけど、あんなに嫌われてたなんてちょっと悲しいかも。私、知らない間に本当に美緒になにか悪いことをしちゃってたのかもしれない」
「佐野のせいじゃない。倉島の心の問題だろう。倉島があんな奴じゃなかったのは俺も覚えてる。もっとも、 隣のクラスの派手な連中とつるむようになってからは変わったようだが」
「最初は、本当に仲良しだったんだよ。でも、いつからかあんなふうになっちゃって……」
何が原因なのかは分からない。
私が美緒に自覚なしに嫌なことをしてしまったとか、他の誰かになにかを言われたのかもしれない。
ストレスが溜まって八つ当たりがヒートアップした、本当に私のことが嫌いになってしまった、など。
矢上くんが言ったように、美緒自身の心の問題というのが一番正解に近いのだろうけれど、やっぱり当人のいないところで考えたって答え合わせはできない。
そもそも、友達関係なんてほんの些細なことで壊れてしまう、ガラスよりも脆くて割れやすいものだ。
美緒との関係にもひびが入ってしまったように。
「美緒、なにか悩んでることがあったのなら相談してくれればよかったのに」
私の言葉を聞いて、矢上くんがはぁとため息をついたあと空を見上げた。
「やっぱり佐野はどこまでも善人だよ」
その横顔は、呆れているようにも、ちょっと笑っているようにも見える。
「それって、褒めてるの?」
「半分は。そんなに優しすぎるから、倉島みたいな奴に振り回されるんだ。でも俺としては、佐野のそんな性格は美点でもあると思う」
「じゃあ、褒めてくれてるんだ。嬉しいな」
「俺は佐野みたいにはなれないからな。いつもひねくれたことしか言えない。佐野の優しさが眩しく感じるよ」
驚いた。
いつも矢上くんのことを眩しく感じていたのに、矢上くんも私にそう思っていたなんて。
「そんなことないよ。私だって、矢上くんの堂々としてるところ、いっつも憧れてたもん。頭も良いし、言いたいことがハッキリ言えるのって本当にすごいことだよ」
「そうか……。佐野も、今日はハッキリ言えたな」
「矢上くんのおかげだよ。矢上くんが私の背中を押してくれたんだ」
あの時、矢上くんに『佐野が変わらなければ』と言ってもらえたおかげで一歩踏み出せた。
「そんな優しいことをした覚えはないけど」
「私には覚えがあるんだよ」
ツンとした物言いをだけれど、その口元は笑っている。
まだ美緒わだかまりは解けないかもしれない。
それでもいつかきっと、昔を懐かしんで笑える日が来るかもしれない、なんて綺麗事を言うつもりは無いけれど。
それでも、言いたいことも言えないような私から変わることはできた。
美緒との関係をあのままで納得させていた自分から、抜け出すことはできたのだ。
美緒がどうしてああなってしまったのか、まだ分からないけれど、私の本音が美緒に届いたのなら、それでいい。
矢上くんからもらったカフェオレを一口飲む。
その温かさが身に染みるようで、自然と笑顔がこぼれた。
「どうした、佐野?」
「……なんでもないよ!」
そう元気よく矢上くんに返事をする。
美緒との関係をどうするかは、これからの私にかかっている。
美緒の本音の答え合わせができるかどうか、それを考えると不安になりそうだけど、きっと私なら大丈夫だ。
「もうすぐ授業か」
遠くから聞こえる予鈴の音に、矢上くんが呟いた。
誰かがここに来てしまうだろうから、もう行かなくちゃいけない。
その前に、先生にも見つかるかも。
教室を二人で抜け出すなんて、こんな大胆なことをしたのは初めてだった。
「行くか、佐野」
「うん」
今度は手を引かれずとも、隣に並んで歩いて行ける。
ふと見上げた冬空は吹き抜けるような青色で、なんだか少しだけ息がしやすくなった気がした。