私は死んでいる。いや、死んだように生きていると言った方が正しいのかもしれない。



洗面台の鏡に映る自分を見ると、心底吐き気がする。光が目に反射しておらず、死んだ魚のような目をしている。昔は目から光を出しているのではないかというくらい輝きに満ちていたのに。



一体いつから私の心は死んでしまったのだろう。理由は一つしかないが...



顔を冷水で洗い、死んでいる顔に生きているという心地を味わせる。さっきよりはマシな表情にはなったはず。きっと今の私を見たら悲しむに違いないが、私は過去を振り切ることができない。



学校に行くために制服に着替え、和室へと向かう。ザラザラな畳の上を裸足で歩くと、そこには笑顔の彼女の写真が飾られている。



「お姉ちゃん・・・今の私を見たらお姉ちゃんは悲しむよね。でも、私には・・・」



私には五歳離れている姉がいた。でも彼女は事故によって十七歳という若さでこの世を去ってしまった。まだまだ先の人生でやりたいこともあったはずなのに、それすらできずに死んだ。



当時高校二年生だった姉は帰り道に車に撥ねられ即死だったそうだ。小学六年生だった私も今では姉と同じ高校二年生になったが、姉が死んだ日以来、私は別人になってしまった。



元々小学生の時はクラスでも明るいキャラで、今でいう一軍女子に属していたと思う。必ず私の周りには友達がいて、いつも笑っていた気がする。



しかし、あの日先生から姉が轢かれて死んだと聞かされてから、私はただ生きているだけの人形と化してしまった。なんのために私は生きているのか分からない。



"心ここに在らず"という言葉がしっくり自分に慣れ親しむほど。


姉が私の全てというわけではなかったが、心のどこかに穴が開いているかのような感覚。



それに私は何かを忘れている気がして止まないのだ。思い出したいけど、自分でその記憶に鍵をかけているのかもしれない。その鍵を開けたら私はさらに壊れてしまうのではないかという恐怖さえ湧き上がってくる。



家には今、誰もいない。両親は共に仕事に出ているので、家の中は恐ろしく静かすぎて気味の悪ささえ感じ取れる。五年の月日が過ぎたこともあり、両親も落ち着いてきてはいるが命日が近くなると二人の顔には哀愁が漂う。



「行ってきます・・・」



誰もいない家に挨拶をしてから家を出る。もしかしたら、姉が聞いているかもしれないと思いながら、岸峰(きしみね)と書かれた表札の家を後にする。



歩いて学校に向かっている私を赤色のトンボが追い越していく。そのトンボは風に揺られながらも前へ前へと前進していき、すぐに見えなくなってしまう。時間や人だけではなく、トンボにまで置いて行かれる感覚。



"カンカンカンカン”踏切が閉まる音が私の耳に響いてくるが、私は歩みを止めない。このまま歩いていけば、お姉ちゃんがいるところに行けると思うと足が止まらない。



下がり落ちてくる黄色と黒い棒が私だけを迎え入れるかのように誘い出してくる。人生に諦めつつ地面を眺めながら前へ進んでいく。どうして私はここまで死にたがっているのか分からないまま。



きっと姉だけの死が原因ではないはずだけれど、もう手遅れ。



"あぁこのまま私は死ぬのかな、お姉ちゃんが生きていたら今頃私はどうなっていたのだろう"死ぬ直前になって苦し紛れの想いに耽る。



「危ないよ。君はどうして死にたいの?その命は君だけの命ではないはずだよ」



どこからかはっきりと踏切の音をかき消すかのように、私の耳に聞こえてくる透き通ったその声。声のした方に目線を上げると、反対側の踏切のところには一人の少年が佇んでいた。



「死にたいなら、僕は止めない。でも君の命は繋がれてきたものだよ。それだけは忘れないでほしい」



何を言っているのかさっぱり分からない。"私の命が繋がれてきたもの?"どうしてこの人がそんなことを語る。私の何を知っているというのだ。



「あ、あなたは誰なんですか・・・」



少し距離があって確かな表情までは読み取れなかったが、彼は笑っていた。それもとても嬉しそうに...



「君が生きていたらまた必ず会えるよ。だから生きててよ」



そんなことを言われたら、死ぬに死ねないじゃないか。彼を見つめたまま後ろに下がりながら踏切の中から外に出る。すぐさま目の前を電車が交わるかのように風を切りながら、たくさんの人を乗せて線路の上を走っていく。



とても電車が遅く感じられた。一瞬一瞬がコマ送りかのようにスローモーションに見えてくる。新聞を読んでいるサラリーマン、友達と楽しそうに話している高校生、ヘッドホンをしながら携帯を使っている大学生らしき人。



どうでもいいのになぜか気になってしまう。彼の言葉のせいだ。彼のせいで生きることへの意味を探し出そうとしているのかもしれない。だって、みんなはなんのために生きているのか、今知りたくなってしまったから。



電車が過ぎ去ったのを見送り、反対側に目を向けたがそこに彼の姿はもうなかった。残っていたのは、私の胸のモヤモヤだけだった。



学校に着き、自分の教室へと足を踏み入れるが誰も私を見ようとはしない。もはや空気と同化しているのかもしれない。ただ一人を除いては...



香楓(かえで)!おはよう」



「おはよう」



私の唯一の親友。立花芽衣(たちばなめい)。小学生の頃からの親友でお姉ちゃんが亡くなった後、塞ぎ込んだ私にも嫌な顔をせず、今まで支えてきてくれた彼女。



何回も死のうとした私を体を張ってでも止めてきてくれた彼女。何度も怒られ、何度も共に泣いた。



それにこの子はお姉ちゃん・岸峰香澄(きしみねかすみ)の同級生の妹。だから、分かち合える部分があるのかもしれない。



「香楓、何かいいことでもあった?」



「え、どうして・・・?」



「なんか今日の香楓、顔が少し明るい気がする」



スカートのポケットから手鏡を取り出し自分の顔を確認する。いつもと変わらずそこに写っていたのは今にも死んでしまいそうな活力のない顔...でも目だけは生きているようにも見える。



「多分、勘違いだよ・・・」



「そっか・・・私はいつまでも待ってるからね。あの時の香楓を・・・」



気まずくなり返事をすることなく、自分の席へと向かい腰を下ろす。芽衣は私以外にも友達が多く容姿も可愛いので、このクラスの中心的人物。そんな彼女と私が親友だからよく思っていない人たちがいるのも不思議ではない。



芽衣がいなければ、私はこのクラス。いや、学校中で一人ぼっちなのは間違いない。その原因はもちろん私にあるのだが...



高校一年生の自己紹介の時、私は『誰とも仲良くする気はありません』と宣言したからだ。私はこのことを後悔しているつもりはない。だって、生きていることに無関心なのだから。



だから、いくら私の悪口を言われても私は一切気にしない。気にしたところで、時間の無駄に過ぎないし、くだらない。



日が経つごとに私の心は深い闇へと堕ちていくのがわかる。でも、もう止めることができない。どうやったらこの深淵から抜け出すことができるのか分からない。だから、もう私は死ぬしか...でも情けない事に死ぬ勇気もない。



退屈すぎる毎日。学校にいても家にいても私は常に何かに囚われている。でもそれが何なのかだけは分からない。一体私の奥底では何が眠っているのだろう。



何もせず、教室の前の黒板を眺めているだけで時間はあっという間に過ぎていった。白い文字がたくさん並べられていたが、何一つメモすることもなく荷物をリュックにしまい、教室を出ていく。



廊下の喧騒が非常に不愉快に感じるが、自分も昔はそう思われていたのかと思うと許す気にもなれる。



外に出ると、秋ということもあり少し肌寒い。校舎の周りの木々たちも寒そうに枝だけになってしまっている。まるで、私と同じように何もかもが落ちてしまったみたい。



寂しそうにこの肌寒い空気の中、ただ一人で立ちすくんでいる木は強いなとも思ってしまう。私には到底真似できない。きっとすぐに死が頭をよぎってしまう。



学校を出ると一直線に剪定(せんてい)されずに自然の形のままの街路樹が目前に見えてくる。その中の一本の木の影に一人の少年が木のように動かずに佇んでいる。



それは今朝、踏切で私に話しかけてきたあの少年...私に最初から気付いていたかのように手を上げて私を呼んでいる。無視してもよかったが、なぜだか無視してはいけないような胸騒ぎもした。



「やぁ、生きていたんだね。よかったよ、こうしてまた君と会うことができて」



「私は別に会いたいとは思ってませんでしたけど・・・」



「それは残念だなぁ〜」



今朝は遠くからで分からなかったが、彼はこの辺りで一番頭のいい高校の制服を着ている。そんな人が私に一体なんの用なのだろうか。関わらないでほしい...それが私の本心。



「用がないなら、私はこれで」



逃げるかのように彼の隣を通り過ぎていく私。彼は黙ったまま私が通り過ぎていくのをただ眺めていた。不思議な人。



「ねぇ、君の名前教えてよ」



突然彼はこちらを振り向き尋ねてくる。



「はい?名前なんて教えませんよ」



今日会ったばかりの人に名前を教えるなんて嫌すぎる。このご時世何があるか分からないので、尚更だ。



「そっか。じゃ、僕から教えるね。僕は、大橋永愛(おおはしとあ)って名前だよ」



名前を聞いた瞬間、無意識に私の右手の人差し指がピクッと動く。"永愛"という名前に聞き覚えがあったわけではない。でも、なぜか心当たりがあるような、ないような曖昧な感覚に飲まれる。



彼に名前を言われては自分もしないと流石に悪い気もしたので、軽く自己紹介することにした。



「私は岸峰香楓(きしみねかえで)と言います。これでいいですか」



「ありがとう。香楓か・・・そっか、やっぱり」



初対面なのにいきなり呼び捨てかと思ったが、それ以上に彼の顔は今にも泣き出しそうな悲しみに染まった色をしていた。なぜか、その顔から目を離すことができない私。



「あ、あの。帰りますね」



このままここにいてはいけない気がして、そのまま何もない枯れ果てている街路樹を全力で走り抜けていった。秋の寒い澄んだ空気を肺に取り込みながら。



この時はまだあなたが、私にとってかけがえない人だったとは知る由もなかった。それに姉にとっても...



「ただいま・・・」



誰もいるはずのない家に朝と同様に一言挨拶をする。もちろん返事が返ってくることはあるはずがない。家に上がり制服のままお姉ちゃんの遺影に手を合わせる。



二階に上がり自分の部屋に入る。昔はお姉ちゃんと共同で使っていたこの場所。物で溢れかえっていたのが、懐かしく感じる。今の私の部屋にはベッドと机しか存在しない。



女子高校生とは思えないほど、殺風景すぎる生活感が漂っていない空間。狭く感じたこの部屋は今では大きすぎるくらい...まるで最初から私しか住んでいなかったかのような。



家にいても何もすることがないし、ただ虚しさが募っていくだけなので、外に出ようと思い動きやすいスウェットとパーカーに着替える。両親が帰ってくるのは十八時頃なので、まだ一時間近く余裕がある。



"ガチャ"玄関に鍵をかけて、彷徨うかのようにその辺の道をぶらぶら歩く。季節も秋なので夏に比べるとやはり日が落ちるのが早い。今はまだ明るいが、あと三十分もしたら辺りは私を丸ごと飲み込むように闇へと誘うのだろう。



自然と足はとある場所へと向かっていた。他人から見るとなんの変哲もないただの横断歩道。しかし、私からするとこの場所は死ぬほど忌々しくて憎たらしいところ。



だって、ここはお姉ちゃんが亡くなった場所だから...



こんなに開けている場所なのに、どうして車は突っ込んできたのか...当時小学生だった私に見えなかったことまで今は見えてくる。それになんで姉が普段使っていた通学路ではない道を歩いていたのか。



確か、お姉ちゃんはその日、付き合っていた彼氏と一緒に帰っていたとお母さんから中学生になった時に聞いた。そして、その彼氏を守るようにお姉ちゃんは事故の犠牲になったのだと。



その彼氏が今はどう過ごしているのか、私は知らない。普通なら顔を見せにくるはずなのに、私の家には一度も来たことがない。



そんなことがあるのだろうか。娘の命と引き換えに生きている人が、一度も挨拶に来ないなんて...ましてやお墓参りにすら来ないなんてありえない。人として終わっている気がする。



今でも、この横断歩道のガードレールの下には姉の名前の由来にもなった『カスミソウ』が供えられている。母がきっと時間がある時に立ち寄って供えているのだろう。



私はこの場所が大嫌いだったので、ここに来たのは五年ぶりかもしれない。その時はなんでこの場所に訪れたのか、覚えてはいないが。



それともう一輪、紫色の朝顔みたいな花もいつも供えられている。普段なら興味を示すことはないが、事故現場に来て感傷的になってしまったばかりか気になってしまう。



姉以外にもここで亡くなった人がいるのだろうか。でもそんな話、この五年間聞いたことがない。もし亡くなっていたら、姉と同じ場所なので私も気付くはずなのに。



「おーい、そこで何してるの〜?」



横断歩道の向こう側にはさっき学校帰りに見たばかりの彼の姿。名前は...永愛だったっけ?



なんでこんなに彼に出くわしてしまうのだろう...まさか私の後をつけているとか。でも、誰かにつけられている気配は感じられなかった。だったらなぜ?



「ただの散歩ですよ」



無視しようか迷ったが、結局返事をしてしまう私。"あぁもうどうして!"と思ったところで既に返事をしていたので手遅れだった。



「奇遇だね。僕もなんだよ。よかった一緒に散歩しない?」



"ほら、こうなってしまう。"最悪..."と悪態を表情に出しても彼は動じない。どうして私なんだろうか。本当についてない。無言の圧に気押されてしまい、頷くことしかできなかった。



「・・・・・」



「・・・・・」



かれこれ無言の時間が五分以上も続いている。時折人とすれ違うが、誰一人として私たちを見るものはいない。高校生の男女が無言のまま人一人分の距離を開けて歩いているというのに。



もし、私が第三者側だったら険悪な雰囲気なのかなと思ってしまうほど...いや、そんなのはどうだっていい。私はもう他のことなんて、どうでもいいんだ...



「ねぇ、香楓はどうして死にたいの?」



あまりにも捻りのない直球すぎる質問に息が一瞬止まりかける。死にたいとは思っているけれど、"どうして"と言われると理由がわからない。



「わからない・・・でも生きていても何も楽しくないの。お姉ちゃんが・・・」



気付けば私の口からは息を吐くように弱音が流れ出ていた。普段なら、こんなことはないのに。仮に芽衣の前ですら。それなのに、この人の前だと私は包み隠さず話してしまう気がする。なんで...



「お姉ちゃんがいるんだね・・・どんな人だったの?」



「お姉ちゃんは、もう死んじゃったんだ。五年前に事故で・・・当時付き合っていた人を守って・・・」



「そうだったんだね・・・」



彼の瞳は私の話に同情するかのように、今にも崩壊寸前だった。私はその顔を直視することができなかった。本当に後悔しているような辛そうな顔だったから。もしかしたら、彼にも同じような経験があったのかもしれない。



「ごめんなさい。急にこんな重たい話をして。今日会ったばかりなのに・・・」



彼はシャツの袖の部分で目元を拭うと、少し赤みがかった目で私を真っ直ぐに見つめてくる。



「いや、いいんだ。聞いたのはこっちだったし。それに君の本音が聞けた気がする。少し表情が明るくなったかな」



表情が明るくなった自覚はないが、心はなんだか少しだけ軽くなった気がしてくる。



目の前に明かりの灯ったコンビニが見えてくる。まるで、途方に暮れた人たちの道標のように煌々と光りながら。



何も買うつもりはなかったが、入ってしまったからには何かを買っていこうかと思い、コンビニを物色する。数ある商品の中から手にしたのはなんの変哲もないただのミネラルウォーター。



このペットボトルの中に絵の具を入れたら簡単にその色に染まってしまう。今の私の心は一体どんな色に染まっているのだろうか。



昔の私はまさにこのミネラルウォーターみたくどんな色にでも染まることができた。でも、今はそこに黒の絵の具が流れ込んできたかのような深い深い混沌の中。



この先、私の心がこのミネラルウォーターみたいに透き通った色に戻ることはあるのか。できるなら戻ってほしいが、無理だと思う。



「どうしたの?水を眺めて・・・なんかおかしいの?」



「いや、水ってどんな色にでも染まることができるなと思って。私の心と比べちゃいました」



彼からしたら、何を言っているのかさっぱりわからないだろう。むしろわかってほしくない。こんな死ぬことしか考えていない濁った心の中を。



「ははっ、面白いね。そんなこと考えたこともなかったよ。そうだよね、一度染まったらなかなか別な色に変わることは難しいよね。でもさ、一度その水を捨ててしまえば、またいくらでもどんな色にでもなれるんじゃないの?」



「あぁ、確かにそうですね。私もリセットできるのかな・・・」



「さぁ、それは君次第じゃないかな?ま、そのために僕がいるんだけどね・・・」



「え、どういうこ・・・」



自分だけ言いたいように言って、彼は何も買わずにコンビニを出て行ってしまった。なんのためにコンビニに寄ったのかわからないまま私だけレジへと向かう。



彼が店を出る瞬間に別のお客さんが自動ドアを開けて店内に入り込んでくる。"あ、ぶつかる!"



「すいませーん、お支払いの方お願いします」



どうやら、私はミネラルウォーターをレジに出したまま突っ立っていた様子。気付けば、私の後ろには二人並んでいた。



「ご、ごめんなさい」



すぐさま財布から百六十円を取り出し、逃げるように店の外に出る。多分お釣りが出ただろうけれど、そんなことを気にしていられるほど、私は神経が図太いわけではない。



店を出ると、そこには彼の姿はもうなかった。数分間、周りを探してみたけれどどこにも彼はいない。携帯の時刻を確認すると、十八時と表示されている。



夜の帳が下りて、真っ暗な私の周りを照らす人工的な光とは違った、空には無数に輝く自然のライトが"我こそは!"と目立つように自己アピールしている。



一人になったどうしようもない寂しさもどこかへ飛んでいくような気がした。ただ、置いて行った彼への怒りだけは消えないが...



「ただいま・・・」



「あら、おかえり。遅かったわね」



「うん。少し外を歩いていたんだ」



「そうなのね。珍しいわね、香楓が水を買うなんて」



私の手には残り半分まで減ってしまったミネラルウォーター。思ったよりも歩きながら飲んだのだと実感する。



結局、コンビニで買ったミネラルウォーターは半分だけ飲んで、残りは冷蔵庫にしまっておいた。明日には冷蔵庫に入れたことを忘れて捨てる羽目になってしまうとは思うが。



両親と食卓を共に囲むが、今日は夕飯の味がしっかりと感じられた気がする。いつもはただ口に来たものを中に放り込み、栄養として補給するだけなのに。もしかしたら、彼と関わることで生きることへの兆しが見えてきているのかもしれない。



自分自身でもどうしたいいのかわからなかったのに...こんなにも簡単に。



服を洗濯籠の中に無造作に押し込んで、シャワーを頭から浴びる。頭の中で考えていた数多くの雑念がシャワーから出るお湯と一緒に流れ落ちていき、頭の中が空っぽになっていく。



長い真っ黒な髪の毛の先からポタポタと滴る水滴。ぎゅっと手で一つにまとめて搾り取りながら、手で髪の毛を梳かしながら頭を横に振ると、水滴が各方面に散らばっていく。



私は先に髪の毛から汚れを落としてから体を洗う派なので、ボディソープを三回プッシュして手についたヌメヌメした液体を手で擦り合わせる。瞬時に泡だったそれを体を撫でるように全身の隅々まで丁寧に洗う。



肌に馴染んでいく気がして気持ちがいい。お風呂は既に熱気がこもっていて視界は少し真っ白になりつつある。目の前には大きな鏡があるが、白く曇っていて何も見ることができない。



正直、曇っていて助かった...顔を上げた時に何かが写っているかもという恐怖が常にあるので、見えない方が私的には安心できる。



全身が泡に包まれたところで、お湯で洗い流す。排水溝へと私の体の汚れと共に泡たちが吸い込まれていく。



"汚れと一緒に私の心の醜い部分も流れてしまえばいいのに"と思いながらもう一度頭からお湯を浴び直す。また余計なことを...



左足のつま先から、ゆっくりと湯船に浸かっていく。まだシャワーだけでは温まりきっていないのか、ちょっとだけ湯船の温度が熱く感じてしまう。さっきまで外を歩いていたから、体の芯から冷え切ってしまったのだろう。



水面がゆらゆらと私から波紋が徐々に広がっている。今日一日ですっかり疲れ切ってしまった体。首を前に倒し水面を覗き込むような姿勢をとると、水面にぼんやりと浮かんでくる私の顔。



はっきりとは見えていないせいか、前よりも少しだけ顔に明るさが戻ったように見える。彼に会う前の私なら、きっと今この水面に写る私をグーで叩きつけていただろう。



そんな気持ちは全く湧かず、静かに音も立てずに水面へと顔を沈めていくのだった。水面に私の口から吐き出された泡が漂い始める。"あぁ、私は生きているんだな"と謎の実感をお風呂で一人寂しく思いつつ。



お風呂から上がった後は、三十分ほど時間をかけて長い髪の毛を乾かし、自室のベッドへと滑り込むように潜る。シーツを洗濯したばかりなのだろうか。ほのかに甘い柔軟剤の香りが私を優しく包み込んでくれる。



安心できる匂い...唯一ベッドの中だけが、私を守ってくれる場所。頭の中を空っぽにして深い眠りへと落ちていくのに時間はかからなかった。



”香楓、朝だよ〜”姉の声で目が覚める。ベッドから飛び起きて自室を見渡すが、どこにも姉はいない。



「夢か・・・もう一度だけでいいから会いたいな・・・」



会えるはずもないのにただ意味のない幻想を抱く。仮に出逢えたとして、私はお姉ちゃんに何を伝えたいのだろう。



『なんで死んだの?』違う。『私はどうしたらいいの?』違う。頭に浮かんでくる言葉の数々。考えては消しての繰り返しで、一向に私が姉に聞きたいことがなんなのかがわからない。



こんなにも会いたい存在なのに...どうして。どうしたら私の心は満たされるの。何もない部屋に立ち尽くす一人の少女。時間だけが止まることなく、私だけを置いていくような感覚だった。



もう既に誰もいない静かな家で。身支度や朝食を済ませ、家を出る。玄関の扉を開けた瞬間、秋の肌寒い風が私の体を突き抜けるように枯葉を巻き込みながら過ぎ去って行く。



「おはよう」



漫画の世界のように目の前の光景が信じられず、制服の袖で目を擦ってしまう。再び目を開けても目の前にいる人は変わらずそこにいたのだが...



「な、なんでここにいるの。私、家教えたことないよ」



「そんなことはいいじゃん。それよりさ、学校に行こうよ」



うまくはぐらかされてしまったが、どうやら一緒に登校しないといけないらしい。別に永愛ならって感じもするが、まだ出会って数日しか経っていないのにと思ってしまう。



こうやって、私が異性と並んで登校するのは何年振りだろうか。もしかしたら、これが私の人生で最後の異性との登校かもしれない。正直今は、彼氏を作る気などは当然ないから...むしろ私を好きになってくれる人なんて。



「相変わらず、暗いね・・・」



「わかってますよそんなの。でも、どうにもできないんですから」



自分でも理解していることをはっきりと言われて、少しだけ気持ちが乱れ言葉が強くなってしまう。暗い私なんて私ではないのは十分すぎるほど理解している。



「何が香楓を縛り付けているの。お姉ちゃんの死?それとも他にもあるの?」



一切の迷いがない視線が私の目を捉えてくる。嘘偽りがないほどに澄んでいるその瞳。でも、その瞳の奥に映る悲しそうなオーラはなんなのだろう。



「わからないんです。確かにお姉ちゃんの死は私にとって、大きすぎました。でも、それだけで私も"死にたい"とはなるような子ではなかったんです。だから、他に原因があるはずなんです・・・」



「そうなんだね・・・何か思い当たることはないの?」



「思い当たること・・・特には」



「焦ることはないよ。君なら大丈夫だから。必ず乗り越えられるよ・・・君は香澄の・・・」



車が私たちの横を通り過ぎていった音で、最後の方はなんて言ったのか聞き取ることができなかった。でも彼は、私を信じてくれている。それだけで心がすーっと軽くなる。



私の心の黒い水が少しだけ外に溢れていく気がしたんだ。



外の雑音とは裏腹に、私たちの間にだけ透明な壁があるのではと思うほど一切の音がない。空間そのものがみんなが住んでいる場所とは切り離されたような違和感。でも気分は悪くない。むしろ、どこか安心してしまう。



「ねぇ、今日学校サボらない?」



私たちの透明な空間をグーで叩き割るかのような、私にとっては考えられない言葉。今まで学校に行きたくなくてもサボることは一回もなかった。だって、お姉ちゃんも私も学校が好きだったから...



「サボってどうするんですか・・・」



学校に行かないことの心配よりも、サボってどうするのかが先に気になってしまう。どこかにいくのだろうか、それとも目的もなく歩くのか...



「海にでも行こうか」



海...もう何年も行っていない場所。お姉ちゃんと行ったのが最後だった覚えがある。あの頃は海に反射する太陽の光にも負けないくらいの笑顔を振り撒いてた私。



今はそんな海の表面の眩しさははなく、深海みたく光が差すことのない私。でも最近は、彼と出会ってから少しずつではあるが底から浮き上がっている気分ではある。



彼の問いかけに私は言葉を発さずに彼に伝わるようにわかりやすく相槌を打つ。



「よし、海に行こうか・・・それよりさ、どうして香楓は僕に敬語で話しているの?ずっと気になってたんだけど」



言われてみれば、私はずっと敬語を彼に対して使っていた。初対面の相手には当然普段から敬語なのだが、ここまで慣れたらいつもはタメ語のはずなのに、どうしても外す気にはなれなかった。理由はわからない、ただ直感的に。



「あ、あの永愛って今高校何年生なの?」



今更だけれど、そう言われてしまったからには年齢を確認したくなる。ぱっと見では、同い年か一個上の気がする。流石に高校一年生のあどけなさは感じられない。



「僕は二・・・高校二年生だから、香楓と同い年だよ」



「同い年なんですね、そんな感じがしないですね」



「あ、また敬語使ってるよ」



白い歯を見せて微笑む彼の顔にドキッとしてしまう私の汚れた心。この時、彼も心の奥底が渦巻いているとは微塵も思っていなかった。ただ不意に見せた悲しげな顔を私は見逃さなかった。



学校をサボることを決めた私たちは、海に向かうために普段乗ることがない電車に揺られていた。隣同士に座る私たちの前に映る窓から見える景色が漫画のコマ送りみたく秒速で流れ移っていく。



景色を窓という枠に囲まれた一つの静止画のように、私はどの景色も見逃すことなく、真剣に窓を見つめる。隣の彼も考えていることは同じだった模様。



「電車の外はどんどん移り変わっていくのに、電車の中にいる僕たちはゆったりと動いている。それってなんだか時間に置いて行かれている気もするけど、良く考えると"特別"って感じもするよね」



彼が何を言いたいのかはわからなかった。でも、なんとなく言いたいことはわかる。私もよく周りに置いて行かれていると思いどうしよもない不安に駆られるが、彼はそれすら"僕だから"と前向きに捉えてしまうのかもしれない。



正直羨ましくも感じるが、どこかその考え方は寂しいことでもある。だって、いつまでも一人だから...と言っている気がするから。



しんみりした空気をタイミング良く破るのは、やはり海だった。窓に映る広くどこを見渡しても青一色に染まっている水。海を水と捉えてしまうのはおかしいかもしれないけれど、私には色のついた広大な水に見えた。



三時間かけて電車から降りると潮の香りが、スカートを靡くくらいの風が私たちの隙間を流れてゆく。パリッと乾燥した空気に潮の香り。私の肺をまだ海についてすらいないのに、海もどきが既に満たしていく。



「海の香りがしますね・・・」



「面白いこと言うね。当たり前だよ、海に行こうって話して来たんだからさ。でもわかるよ、海の香りだ」



それから私たちは駅のホームから五分はその場に止まり続けた。特に何かをするわけでもなく、その場から足が前に進もうとはしなかった。風が汀の潮騒とともに私たちの耳に深く深く鳴り響いてくる心地よさにうっとりする。



駅の階段を降り、数分歩くと眼前に広がるのはどこまでも続いている水平線。一直線に続く青い青い液体の道。この上を歩いていけたら一体どこまでいくことができるのだろう。



そう考えると世界は広く、私はちっぽけな存在なんだなと思えてくる。そんな私の悩みなんて戦争がある国の人たちからしたら、悩んでいる暇すらないのだと。常に死と隣り合わせ、いつ家族が死んでもおかしくはない。



私たちもいつ死ぬかはわからない、死と隣合わせなのは知っている。お姉ちゃんがそうだったように。でも確率でいったら明らかに戦争が今も続いている国で過ごす方が高いのは当然。



海を見ていると不思議とそんな感情を抱いてしまう。ちょっと油断したらこの海に飲み込まれてしまいそうなほど。



「海がね、青く見えるのは太陽の光が青色の光だけ海水に吸収されずに、海中深くまで進んでいくからなんだ。海中まで進んだ青い光は海底の砂に反射して海面まで上がってきて、それが僕たちの目に入ってくるんだよ。不思議だよね」



海が青いのは光がってことは前から知っていたが、こんなに詳しくは知らなかった。彼がどうして海についての話をし始めたのかはわからないが、聞けてよかったと心から思った。



だって、こんなに水面が光り輝きながら波打っているのだから...家に帰ってネットで調べたところで"あーそうなんだ"と終わってしまう。この瞬間、この人と見る景色だからこそより記憶に鮮明に美化されていつまでも残っていく。



人とはそういう生き物なのだ。景色が綺麗だから覚えているというのも、もちろんあるだろう。でも一番残り続けるのは誰とその景色を過ごしたか、誰とそこでなんの話をしたのかが大事なんだ。



私はこの記憶を一生忘れることはないし、海が青い理由もこの先の人生で失われていくことはないだろう。この景色と彼とともに頭の片隅に居続けるはず。



「私の心は何色になるのかな・・・」



心の中で思っていたことがつい小さく開いた口からこぼれ落ちてしまう。



「んー、それは僕もわからないけれど、どんな色にでもなれるさ。だって、君の人生はまだまだ続くのだから・・・焦らなくてもいいんだ、それにお姉ちゃんのことを引きずっても構わない。いつか、ちゃんと前を向ける日がくるから」



「う、うん。ありがとう」



「どういたしまして」



彼の一言一言が重みを帯びているみたいに心が動く。"どういたしまして"でさえも他の人とは違った言葉にすら聞こえてくる。



昔の私だったら、こんな綺麗事ばかりのような言葉には動かされることはなかったのに...彼だからだろうか。自分の足ばかり見て歩いていた自分ともうすぐ別れを告げることができそうな気になる。



海を背に向けてこちらを見ている彼の姿は、透明で今にも海の輝きと消えてしまいそうなほど白くぼやけて見える。目を擦りもう一度彼に目を向けると、確かな輪郭を後ろの光が形作っていた。



「どうしたの?僕何か変かな」



「いいえ、少しだけ姿が透明に見えたので・・・」



そんなことがあるはずはないのに口に出してしまう私。頭までおかしくなったのかと心配されないかな...



「意外とそうかもしれない・・・僕は何色にもなれない透明な色だから」



「え・・・そんなこと・・・」



これ以上言葉が出てこなかった。彼の表情が今まで見たどんな顔よりも寂しく、太陽の光に翳りを作るように照らされていたから。透明にしかなれない...私からしたら羨ましいが、彼にはそれがどんな理由かはわからないが嫌なことなのだろう。



彼に言及したかったが、とてもできる様子ではなかったので後日また聞いてみよう。暗い顔の彼の手を取り、小さく押し寄せる波の元へ駆けていく。



「うわぁ、急にどうしたの。靴濡れちゃうよ」



「いいんです。海に入りたい気分だったので。どうですか、少しは気持ち晴れました?」



「そうだね、お陰様で。僕が君を元気づけないといけないのに、気を遣わせてしまったね。ごめん・・・」



繋いでいた手を離して、両手を重ね合わせ海に沈めていく。あんなに青かった海水が私の掌に収まると透明になってしまう。なんとも不思議なものだ。



両手に溢れるくらいの海水を彼の顔目掛けて、目一杯勢いをつけて投げる。透明な水滴がバラバラに光に照らされながら、宙を舞って彼に向かって飛んでゆく。飛んでいる最中、青く見えた気もするが気のせいだろう。



「つめたっ!びっくりした」



「これですっかり目が覚めましたね、めでたしめでたし」



「これで終われると思うなよ」



数秒後、とんでもない量の海水が私に降りかかってくる。避けられるわけもなく頭から盛大に被ってしまい、全身びしょ濡れ。でも、不快感はなく胸の高揚感だけが私の中に芽生えた。



それからは互いに海に足を入れたまま、海水を掛け合い普通の高校生がする青春ぽいことを満喫した。何度か口にまで侵入してきた塩辛い水。美味しくはないけれど、この味も忘れられそうにない。



また私の黒い水が海水に溶け込んで減っていっている気がしたんだ。



帰りの電車は電車特有の温かさと微小の揺れの影響もあってか、目を閉じてしまうまで時間はかからなかった。肩を"トン"と優しく叩かれる。目を覚ますと、私のよく知っている駅名が電車の小さな窓から顔を出している。



「着いたよ、僕たちの駅に。さぁ降りるよ」



「う、うん」



まだ覚めきっていない目を擦りながら、ゆっくりとその場に立ち上がり電車の温かさを名残り惜しみつつ電車の外に出る。



田舎の日中ということもあって、この車両には私たち以外に乗っている人はいなかった。私たちの駅に降りた人も私たち含めて、十人もいなかったかもしれない。



「うぅ、寒い。制服も乾いてきたけれど、まだ濡れてる・・・」



電車の中は温かかったからわからなかったが、外気に触れると濡れた部分が急激に冷え込んでくる。近くにあった自販機に百三十円を入れて缶の温かいココアのボタンを押す。



"ガタンッ"落ちてきたココアを手に取り両手で握りしめると、ポカポカと熱が私の体を伝うように内側まで温まっていく。多分気のせいだろうが、そんな気がした。



「温かいな〜、永愛は何かいる?」



「そうだな、ミネラルウォーターがいいな・・・」



「え、寒いのに水でいいの?なんでもいいのに」



「いいんだ。今はそんな気分なんだ」



お金を入れて味のしない透明な液体が出てくるボタンを押す。出てきた水を手に取り彼に渡す。やっぱり冷たい...



「ありがとう。大切に飲むよ」



「いいよ、ただの水だし。それに今日海に連れていってくれたお礼」



"そうか"と彼はにこやかに笑みを浮かべながら駅の改札へと歩いて行った。彼の片手には買ったばかりのミネラルウォーターが確かに握られていた。彼の歩く道を透かすように揺れながら。



永愛とは駅前で別れて、今は一人で家までの見慣れたオレンジに染まっていく道を歩いている。往復で六時間かかってしまい、すっかり辺りは夕方になってしまったらしい。帰りの電車に乗る前は太陽がギラギラとしていたのに、今は控えめな光加減。



少し帰るにはまだ早いので、どこか寄り道をして帰ろうと携帯でマップを開き、周辺のお店を手当たり次第に調べる。すると近くにお花屋さんがあることがわかり、なんとなく寄ってみようと思い足をお店の方へと向けていく。



五分もたたないうちに目当てのお店は私の視界に大きく入り込んできた。閑静な住宅街に異質と言ってはなんだが、明らかに華やかで場違いにも感じられるほど。いい意味で言えば、これほどの立地はないのではないかと思ってしまう。



それほど、圧倒されてしまうような佇まいに心が少しだけ踊ってしまう。一体店内はどんな花で包まれているのだろうかと。



"カランカラン"お店の扉を開けると、ベルが私を歓迎しているみたいに店内に鳴り響く。そのすぐ後に"いらっしゃいませー!"と元気な声が店の壁を木霊するかのように私の耳に自然と流れ込んでくる。



私の他にお客さんはちらほらといるぐらいで、思っていたよりも物静かな店内。花の放つそれぞれの固有の魅力を存分に発揮している百花繚乱(ひゃっかりょうらん)の光景に後退りしてしまいそうになる。花そのものにも生命があるかのようにお客さんに笑顔を振り撒いているみたいに見える。



「あ、この花は・・・」



前にどこかで見覚えがある花が、今私の目の前に並んでいる。ネームプレートには『キキョウ』と書かれている紫色の花。他にも白とピンクのキキョウもあるが、私はこの紫が一番惹かれる存在。



ミステリアスな雰囲気にどこか寂しげな感じを醸し出しているのが気になって仕方がない。他にもどんな花があるのか気になり、店内を歩き回ると私が唯一知っている花を見つける。



「お姉ちゃん・・・」



白く小さな花がたくさん集まっている可愛らしい花。本当に姉の名前にふさわしいほど可憐で素朴な美しさ。姉は私と違って世話焼きで、私以上に周りの人たちから好かれていた。そんな姉に嫉妬したことはないが、羨ましくはあった。



常に周りには信頼できる友達がいて、運動も優れて...私が勝てたのは勉強くらい。私にも友達はいたが、信頼できるかと言われたら微妙なラインの友達ばかり。だから、常に姉の背中を追い続けてきたんだ。



それなのにぽっくりと死んでしまったのが、当時の私には許せなかったのだろう。自分勝手な解釈かもしれないが、きっとこれがあの時の私の本心。



結局、一輪の『カスミソウ』と『キキョウ』を両手に抱えながらレジにいるお姉さんに花を丁寧に受け渡す。特にあげる人もいなく買ってもあまり意味がないのについつい手を出してしまった。



「あら、珍しい組み合わせね。誰かにプレゼントでもするのかしら?」



「あ、い、いえ。違います」



まさか店員さんに話しかけられるとは思ってもみなく、言葉が詰まってしまう。



「そうなのね、てっきり意味ありげな花たちだから誰かにプレゼントでもするのかと・・・」



この店員さんは誰にでもレジに来た人にこうやって話しかけているのだろうか。話しかけられることが嬉しい人もいれば、私みたいに戸惑う人だって中にはいるに違いない。



見た目は二十代後半くらいのとても綺麗で清潔感が溢れ出している女性。花屋さんの店員さんにぴったりすぎるほど華やかで、そして花を愛しているオーラがすごい出ている。



だって、花を見ている時の目が自分の子供を遠くから温かく眺めている母親のような目をしていたから。



「意味・・・ですか?」



私はなんとなく気になった花とお姉ちゃんの名前の由来の花を買っただけなのに...



「カスミソウの花言葉は『感謝』『幸福』、キキョウの花言葉は『永遠の愛』『変わらぬ愛』って意味があるのよ。そういえば、五年ほど前にもあなたの年頃の男の子が亡くなった彼女にプレゼントするためにカスミソウを買って行った記憶があるわ」



「え・・・五年前・・・」



五年前といえば、私の姉が事故で亡くなった年に間違いない。それにその男の子が買って行ったという花は『カスミソウ』。こんな偶然が果たしてあるのだろうか。偶然にしては出来すぎている...



きっとその男の子はお姉ちゃんの彼氏だった人じゃないと辻褄が合わない。彼氏さんもお姉ちゃんのお墓に供える花をこのお店に選びに来たのだろう。



「あ、あの。その男の子はそれからこのお店には来ましたか?」



にこやかに接客していた店員さんの顔に雲がかかり始める。あっという間にその表情は悲しげなものへと。



「いいえ、あれから一度も来ていないわ。彼が来たら私はすぐに分かるわ。あの日ここに来た彼は死んだ目をしてここにやってきたのよ。忘れるはずがない、たった一回の出会いでも・・・」



この言葉を聞いて私は確信した...ここに来た男の子はお姉ちゃんの彼氏さんだったのだと。でも、一体どうしてそれからここに来なくなってしまったのだろう。



毎年、お姉ちゃんの命日にお墓参りに行くと、必ず私たちが持っていくのとは別にカスミソウが置いてあることがあるのに。別な店で買っているのか、それかまた別な誰かが供えているのか。



「そうなんですね・・・実は私の亡くなったお姉ちゃんの名前も香澄だったんですよ。多分ですけど、五年前ここに来た男の子は私のお姉ちゃんの彼氏さんです」



「そうだったわ、香澄さん。彼もそう言っていたわ。彼女と同じ名前だって・・・こうしてあなたに出会えたのも何かの縁ね。もしよかったらまたお店に買いにきてね」



「はい、また必ず来ます」



支払いを済ませてお姉さんから二輪のラッピングされた花を手で受け取る。



「ラッピングはおまけね!」



"ありがとうございます"と小さく声に出しながら会釈をする。笑顔で手を振ってレジから見送ってくれるお姉さん。恥ずかしくて手を振ることはできなかったが、胸の前で控えめに手を上げることはかろうじてできた。



店を出ると外はすっかり闇に包まれて、街灯の光がアスファルトの上を点々と照らしていた。上空には夜空を埋め尽くすほどの満点の星々たちが今日も競い合いながら光を放っている。



薄暗い細い道の端っこを微弱の光に照らされながら、細々と歩く。周りには人が誰もいなく、私の影だけが街灯に照らされ伸びている。閑散とした住宅街のどこかで鳴いている鈴虫の声を音楽がわりにして帰路につく。



「ただいま」



「おかえりなさい。今日、学校サボったでしょ。学校から連絡があったわよ」



当然親に連絡がいくことはわかってはいたので、これは怒られるなと覚悟を決める。



「ごめんなさい・・・」



「別に母さんは怒っていないわよ。無事に帰ってきてくれただけで十分よ。ただし、今後は母さんくらいには連絡してちょうだい。サボりすぎはダメだけど、たまにならいいわよ」



娘が無事に帰ってきたことに安堵しているのか、顔にはさっきまでとは違い笑みが戻っている。母を見てみると服装は仕事着のままなので、よほど心配をかけていたのだなと深く反省する。



「お母さん、帰り道お花買ってきたからお姉ちゃんにあげてもいいかな」



「香楓どうしたの・・・」



母の目がぎょっと開かれる。無理もない、数日前までは死んだように何事にも無気力だった娘が、こうして当たり前かのように周りを見て行動しているのだから。



「なんとなくね、買いたくなっちゃってさ」



手に持っていたラッピングされた二輪の花を母にそっと手渡す。"綺麗でしょ!"と見せるかのように。



「カスミソウとキキョウね。随分と立派で意味のあるものを買ってきたわね・・・二人もきっと喜ぶわ」



涙ぐみながら我が子のように大切に花を眺める母の横顔。その顔を見ているだけで私まで泣いてしまいそうなほど、私の心は以前の透明な心を取り戻しつつあるようだ。



でも一つだけ疑問がある...母は確かに"二人"と言った。お姉ちゃんはわかる、もう一人は一体誰のことを言っているんだ。



「ねぇ、お母さん。二人って誰のこと?お姉ちゃんと誰?」



母の顔から一瞬にして涙が引いていく。"え?何を言っているの?"という表情の母親。その顔がどんな意味をするのか、そして私とどう関係があるのか数秒後知ることになる。



聞きたくなかった真実。でも、知らないといけない忘れていた過去。私の透明に戻りかけていた心が再び黒い絵の具に染まっていくのに時間はかからなかった。



「え、どういうこと?あなた意味がわかっててこの花を買ってきたんじゃないの?」



「いや、カスミソウはお姉ちゃんの名前の由来だから。キキョウは・・・なんだか惹かれちゃったから買ったの」



なんのことかさっぱりわからない、母はキキョウの意味について私に問いていることだけはわかる。なぜなのかはわからないが。



「キキョウの花言葉はわかる?」



「うん、花屋さんの店員さんが教えてくれたから。確か、『永遠の愛』『変わらぬ愛』だったよね」



「そうよ、ちゃんと彼の名前が刻まれているのよ。この花の花言葉には・・・」



名前?どこにそんな..."永遠の愛"。永の愛。永愛...思考が数秒停止する。出てきた名前は最近出会って、ついさっきまで共にいた彼。意味がわからない、どうして母は泣いているのか。だって彼はさっきまで...



「ねぇ、お母さん。お姉ちゃんの彼氏さんの名前ってなに・・・それに彼は今・・・」



母は下を見たまま口を一文字に下唇を噛み締めながら閉じている。沈黙が二人の間に流れていくが、破ったのは母の衝撃的な一言だった。



「彼の名前は大橋永愛。永愛くんは五年前にあなたを事故から守って亡くなったわ・・・」



「は・・・?」



亡くなった...聞き間違いだろうか。でも母は今、亡くなったと確実に言った。わけがわからない、自分を助けて亡くなった人と私はついさっきまで普通に海に行っていたのだから。



動揺する私の目を見ながら母はあの事故の日のことを話し始めてくれた。五年前、お姉ちゃんを失った悲しさから死んだように日常を過ごしていた私。そんな私の唯一の支えは当時お姉ちゃんの彼氏だった永愛くんだったそうだ。



二人は長い間付き合っていたから、度々家に来ては私も交えて一緒に遊んでくれたらしい。私も本当の兄のように慕っていたようだが、何も覚えていない。



お姉ちゃんが亡くなった後も、永愛くんは私の様子を見に来てくれるほど心配していた。私たちは姉の死を分かち合う者として、残された者として共に生きていこうと幼いながらに約束したと母に話した。



姉の事故からちょうど半年経ったある日、私は一人でおつかいに出掛けていたところで、何を思ったのか姉が亡くなった場所にわざわざ遠回りなのに出向いてしまったらしい。



運命とは残酷なことに、私のところに一台の居眠り運転した車が突っ込んできたのをたまたま通りかかった永愛くんが、命をかけて守ってくれた。それが母から聞かされた残酷な真実だった。



「そ、そんな・・・あぁぁぁ!」



私が忘れていた記憶とはこのことだったのかと、忘れていた自分が情けなくて自分の足にひたすらグーで殴り続けた。母にやめなさいと言われるまでずっと...



足に痛みはなく、赤黒く腫れあがっていたのを目にするが、二人の痛みはこれ以上に想像絶するほどの痛みだったと考えると涙が滝のように溢れかえってきた。痛いなんてレベルじゃない...それなのに私はどうして...



やるせない気持ちをどこにもぶつけることができない自分に腹が立ったけれど、いくら当たったところで二人は戻ってはこない。ただ虚しくなるだけなんだと。いっその事、全ての記憶を消し去りたかった。



「香楓はあの時、目の前で永愛くんが亡くなっていくのを目の当たりにしたから、ショックで記憶が抜け落ちてしまっていたのね。気付いてあげられなくてごめんなさい。ずっと、そのことであなたは苦しんでいるのだと思い込んでいたわ。忘れていたのね・・・」



「お母さんが謝ることは、ない、よ。誰も悪くないん、だから」



泣いているのでうまく言葉を発することができない。泣いたり息を吸い込んだりと身体中が忙しい。



「そうね。明日学校の帰りにこのお花たちお墓にお供えしてきてはどう?二人のお墓も同じ敷地内にあるから・・・きっと喜んでくれるわ」



「うん。そうするよ・・・最後に挨拶してくるね」



何を言っているのか理解できていない母親の横で、私はこれが彼に出会える最後のチャンスなのだと、根拠はないが私の直感がそう言っているように感じた。



未だに泣き止まない目を擦りながら、自室のベッドへと倒れ込んでいく。泣き疲れたのか一瞬にして私の意識はここで途切れた。真っ青なシーツにポタリと落ちる灰色の染みが徐々に増えていくのに気がつかないまま。



翌朝の天気は雲一つないほどの晴天が私の頭上にどこまでも広がっていた。鳥たちが自由に空を飛び回り、さらに高い位置では飛行機が青空を白い線で一直線に裂くかのように飛んでいる。



そんな輝かしい空とは正反対に地表では一人の少女が、絶望を内に秘めたまま重たい足取りで学校へ向かっている。一歩一歩確実に別れのことを頭の中で考えながら通学路を踏み締めて...



学校まであと十分くらいのところで、左腕に誰かの腕が絡んでくる。"永愛!"と思い隣を見るが、隣にいたのは私の唯一の親友の笑顔。



「おっはよ・・・どうしたの香楓。今日はいつにも増して顔が死んでる・・・」



普通そんな真顔で友達に対して"顔が死んでる"なんてストレートに言うものなのか。少しは配慮してオブラートに包んでくれてもいいと思うが、これが彼女の良さでもあるのでもう慣れた。



そのおかげで私は彼女だけには自分の気持ちを嘘偽りなく話し続けてきたし、誰よりも信頼しているのは確かな事実。



「めーい。私どうしたらいいのかな〜」



油断したらまた昨夜と同じように目から涙が出てきてしまいそうになる。ここで泣いたらきっと止まることはないので、グッと唇に歯を立て痛みとともに涙が出るのを堪える。



「今回はどうしたのさ。落ち着いて話してごらん?私はここにいるから」



「うん、ありがと。あのね・・・」



芽衣には昨夜の出来事や母から聞いた真実を隠すことなく、洗いざらい話すことにした。話している途中も彼女は相槌を打つだけで私が話している最中に言葉を挟んでくることはなかった。



「なるほどね・・・それは辛いね。辛いし悲しいけど、今の香楓にできることは何?今、香楓が頭に抱いてることを私は一生懸命したらいいと思うよ。それにまだ、永愛さんとはそれ以来会っていないんでしょ?しっかり今日お別れしておいで・・・香楓の想いもしっかり伝えなさい。きっと受け止めてくれるから」



「でも・・・永愛くんとこれで会うのが最後になったら、私また一人になっちゃうよ。それが怖い。せっかく心から安心できる人が芽衣の他にもできたのに」



「大丈夫とは言わない。私は香楓の気持ちが全てわかるわけではないから・・・ただ私も同じ痛みを味わいたいよ。一人で抱え込まないで私にもその辛さを共有してよ。そしたら、痛みも半減するかもしれないでしょ・・・それにあなたは一人にはならない。私が何があってもずっと側にいるから」



「芽衣・・・ありがとう」



彼女の瞳から一滴の綺麗な透明の雫が頬を伝ってアスファルトに落ちる。その顔を見て私も釣られて泣き出してしまう。朝から二人の女子高校生が泣きながら登校している姿は異様かもしれないけれど、今は二人で痛みを分かち合っていたかった。



それから学校に着き授業も受けたけれど、私の頭の中はずっと今日のお墓参りのことを考えていた。何を伝えればいいのか、何を話したらいいのか。何が正解かわからなくなるほど、ごちゃごちゃに詰まった頭で考え続けた。



放課後になったというのがわからなくなるほど一日中真剣に...不思議と今日が彼に会える最後の日のような気がしたから。だって、彼はきっと私が生きることに絶望していたから、現れてくれたのだ。彼や姉が亡くなった時と同じ年齢の時に。



夕日がカーテンの隙間から差し込み、私の左半分を優しく照らす。教室にはもう誰もいなく、校舎は静けさに包み込まれていた。外からは元気な運動部の声が教室の窓越しに小さく聞こえてくる。



机の横にかけてある鞄を手に取り、椅子を机に寄せるようにそっと静かに押し込む。"ぎぃぃぃぃぃ"と音を立てながら、無音だった教室に耳に障る音が響き渡ってしまう。



朝学校に着いた時にロッカーにしまっておいた二輪の花を取り出そうと、ロッカーの奥に手を伸ばしたときに視界に入ってしまったとある文字。



『T&K♡』



黒の油性ペンで書かれたその文字。このロッカーを使っていたカップルが記念に残していったのだろう。正直恥ずかしくもあるが、羨ましくもある。だってこの二人の思い出はこうして今もここに残り続けているのだから。



私には書く勇気すらないが...その前に書く相手がいない。



この二人は今も隣同士で笑い合っているのだろうか、そうであったらいいなと思いながら、寂しく長い廊下を上靴の音を立てながら歩いていく。廊下の窓の隙間から入り込んでくる秋の微風が私の長く伸びた髪を仰ぎながら校舎の奥へと流れていった。



学校からお墓までは歩いて十分の距離にある。背後の夕陽に照らされた私の影が、私の行く道を先行していくので、その後を追うかのように歩みを進める。



枯れ葉を身に纏った寒そうな木をどんどん追い越していく。"ヒュー"と音を鳴らしながら、枯れ葉が風に流され私の目の前に降り落ちてくる。



地面に落ちてしまった枯れ葉を手に取り、空に掲げて眺める。以前の私なら絶対にあり得ない行動。いや、普通の人ならただの枯れ葉で立ち止まって拾うことはまずないだろう。



「この子もこの前まで、元気に生きていたんだよね・・・お疲れ様」



誰にも聞こえないように小声で枯れ葉へ話しかける。他人から見たら頭がおかしいかと思われても仕方がないが、私は母からあの話を聞いて以降、命のありがたみがわかってきた気がする。



だって、この命は『二人が繋いでくれた大切な命』なのだから...



手に持っていた枯れ葉を風が吹くと同時に空へと解き放つ。"もっと遠くまで飛んでいくんだよ"と願いを込めながら。



お墓に着く頃には、太陽はもう沈みかかって辺りは黒く侵食され始めていた。



どちらのお墓から先に行こうかと迷ったが、最初は私を色々な意味で助けてくれた彼のお墓から行くことにした。綺麗に磨かれた墓石にしっかりと彼の名前が記されている。亡くなった日付も五年前の秋。



スカートを手で押さえながら、ゆっくりとしゃがみ手に持っていたキキョウを丁寧に供えて、手を合わせる...どうか最後に会わせてくださいと神様に祈る。



「永愛くん、遅くなってごめんね。私を・・・」



「本当だよ。遅いよ、五年もかかっちゃったね。すっかり僕たちと同じ年齢にまで・・・本当に大きくなったね・・・」



最近ずっと聞いていた優しくも芯のある心強い声。後ろを振り向くと、微笑みながらこちらを見守るように立っている彼。その目は本当の妹の成長を喜ばしく思っているような兄の目。



彼に近づこうと思い、立ち上がるが気付いてしまう。彼の姿が透明になりかけていることに。彼もいつまでもこの世にいることはできないのだと言葉がなくても伝わってくる。



「ごめんなさい。助けてもらったのに忘れていたなんて、それに最初は酷いことばかり・・・あの電車の前で永愛くんが止めてくれなかったら、私は真実を知らないまま死んでいたかもしれない。だから、あの時も五年前も私を助けてくれて本当にありがとう」



泣くつもりなんてなかった。最後にもし会うことができたら笑顔で彼とお別れするつもりだった。でも、私の心はそれを許してはくれなかったらしい。だって、目の前の彼が嬉しそうにはにかんで笑っているから...



「僕もね、香澄に命を助けられた。本来なら香澄ではなく僕が死んでいた。そのおかげで僕は君を助けられたんだよ。僕は死んだことを後悔していない、命を繋ぐことができたからね。もしかしたら僕の命は君を救うためにあったのかもしれないから・・・おかしな話だけどね、でも結果的に考えたらそうなる」



「永愛くん、私さ変われたかな?これから先も生きていけるかな・・・」



今は永愛くんが幽霊みたいな感じで私の側にいてくれてるが、それは今日でおしまいなんだ。明日からはまた一人、いや芽衣と生きていかなければならない。この五年間のように。それが不安で仕方がない。また死にたいと...



「心配はいらないよ、君は十分強くなったよ。僕らの出る幕は今日でおしまいさ。そうじゃなかったら今日で成仏できないからね。神様も見捨ててなんかいなかったんだよ、こうしておかしな形で再会できたから」



「ねぇ、永愛くんは幸せだった?」



ずっとこれを聞きたかった。私の犠牲になって亡くなってしまった永愛くんは幸せだったのかと...聞くのが怖くて目をぎゅっと閉じてしまう。



「あぁ、幸せだった」



優しすぎる声が私の頭上から落ちてくると同時に空気みたいに軽いけれど、温かな手のひらが私の頭の上に乗せられる。それからゆっくり愛しいものを撫でるかのような手つきで頭を撫でられる。



「僕は、香澄の隣にいることができて本当に幸せだったよ。彼女の笑顔が僕の力になったんだ。僕は自分の人生に満足しているよ。だって自分がこの足で歩んできた道だから。どんなに苦しい人生でも僕は絶対に後悔はしない、自分を信じてるし否定したら誰もその人生を認めてはくれないでしょ?僕は僕がしてきたことを否定したくないんだ。だから僕だけは間違ってはいなかったと信じてる」



なんて力強い言葉...私は自分の人生に後悔しかしていなかった。いつも振り返るのは過去の嫌な出来事や悲しい現実ばかりに目を向けていた。でも、永愛くんは違った。死んでしまっても、自分の人生を否定するどころかむしろ褒め称えている。



「今からでも私も変われるかな・・・人生に後悔しないなんてできるかはわからないけど、自分を信じることくらいは」



真剣に話をしていた彼の顔に笑みが再び戻ってくる。朗らかな太陽のような温かな人を照らしてくれる笑顔。



「香楓なら、絶対に変われるさ。誰がなんと言おうが、君は僕たちの大切な妹だから。君を傷つける奴は僕らが一生許さないよ。だから、あとは香楓自身が今までの自分の捨てることができたらあとはもう何も心配はいらないさ」



ここ数日の私は永愛くんと出会ってから、前向きになることができた気がする。でも肝心な不安だけがまだ取り除けていない。二人の死は色々な想いを聞いているうちに自然と乗り越えることができた気がする。



そんな繋がれた大切な命を簡単に捨ててはいけないのだと。もう絶対にしないと心の中で誓う。ただ...あぁ情けないな。



「いつまでも私たちに心配かけて、本当に可愛い子なんだから・・・」



この五年間聞くことがなかった、その声。ずっとずっと聞きたかった死ぬまで忘れることのない大好きな声。振り返らなくてもこの声が誰から発せられているのかわかるのは、大好きで大好きで羨ましくも尊敬していた存在だから。



「結局、君まで出てきたんだね。やっぱりこうして並ぶとそっくりだね」



私の目の前にいる永愛くんが涙ぐみながら私の後方へと話しかけている。そこにいる私のただ一人の姉へと。先ほどからうるさいくらいになり続けている心臓に手を当てながら、ゆっくりと振り返る。



「大きくなったね、香楓・・・私に似て可愛くなっちゃって!寂しい想いをさせてごめんね」



薄暗い街灯に照らされて闇から浮かび上がってくる一人の輪郭。街灯の真下に立つ姉の姿は五年前に私が見ていた制服姿の姉だった。ここにいる三人ともが皆、同じ年齢で同じ学年。なぜか私だけが歳老いた感覚に陥る。



「お、お姉ちゃん・・・」



五年ぶりに見た彼女はまるで何も変わっていなく、姉が生きていた頃の記憶が鮮明に思い出される。あの事故の日と同じ格好のままの姉と、朝一緒に途中まで学校に向かっていた私。



私の記憶の中でしか生きることができなくなった姉が、今私の目の前にあの日と同じように笑顔で立っている。ずっと会いたかった...でも、いざ目の前にすると何を話したらいいのかわからなくなってくる。



伝えたいことがありすぎるのか、会えるとは思っていなくて言葉が詰まっているのか。多分前者に違いないが、嬉しさとともにこれが本当に最後の奇跡なんだと現実を叩きつけられる。



「どうしたの、香楓。ほら、おいで?」



両手を大きく広げて私を向かい入れる準備をしている姉。何も考えずにその大きく広がる胸に全体重を乗せて飛び込む。あまりの衝撃に姉の体が後ろに傾いて倒れそうになってしまう。



「ちょっと!勢いつけすぎだよ。危うく後ろに倒れるところだったよ」



「・・・ごめん」



"あぁ、お姉ちゃんの香りがする"慣れ親しんだこの甘い香り。本当に香澄という名前がふさわしい。顔を上げることができず、姉の胸の中で涙を流す。



私が泣いていることに気がついたのか姉はそっと優しく永愛くんと同じように優しく包むように頭を撫でてくれた。透明になりかけているその手で。



「ありがとね、香楓・・・」



なんで私に"ありがとう"なんていうのか、わからず顔を上げて姉の顔を覗き込む。歳が同じになっても私の方が身長は少しだけ小さく、下から見上げる姉の顔はあの頃と何も変わってはしなかった...



私が不思議そうに覗き込んでいるのを察したのか、姉は私を宥めながら言葉を続ける。



「今まで生きててくれて、立派に育ってくれてありがとう。私ね、死んでしまった後もずっと心配だったの。香楓が死んでしまわないか・・・でもね、今のあなたの顔を見たらそんな心配なくなっちゃった。乗り越えたんだね・・・」



「お姉ちゃん、私は立派なんかじゃないよ。自殺しようと何回も考えたし、それに今の私があるのは永愛くんのおかげなの。だから私一人じゃなにも」



話しながら俯いていく私の顔に痛みが走る。"パチンッ"お姉ちゃんが私の頬を両手で挟みながら上を向くように持ち上げ、目線が交わり合う。



「あんたは、今ここにいるじゃない!ここにいることが心が強くなった何よりの証拠でしょ!確かに永愛の支えもあったかもしれない。でも、最終的に生きるという選択肢を選んだのは紛れもなく香楓、あなたの選んだ道でしょ。なら、もう十分立派よ。辛い過去を乗り越えたのだから」



お姉ちゃんから放たれる言葉がグサグサと私の心に、的をえた弓矢のように刺さりまくる。不思議と痛くはない。どの弓矢も私の心に優しく残り続けるように深く深く突き刺さる。



一生忘れないようにと...どこまでも...



「お姉ちゃん・・・苦しいよ・・・」



「あぁ、ごめんごめん話しているうちに力が入ってたみたい」



ゆっくりと姉の腕の中から抜け出して、向き合う二人の姉妹。これから先、面と向かって向き合うことはないのだと、互いが感じながらもタイムリミットの時間は刻一刻と迫り続けていた。



「お姉ちゃん・・・体が・・・消えかかってるよ」



見る見るうちに体が透けて姉の体越しに後ろに並ぶ闇と同化したお墓たちが見えてきてしまう。見たくなくても見えてしまう現実がそこまでジワジワと押し寄せている。



「そろそろ時間みたいだね。最後に愛しの妹に出会えて、もうこの現世に思い残すことはないよ。それと、永愛。香楓を支えてくれてありがとうね。ここではそれ以外の言葉はいらないよね、あっちでまたたくさん話そうね」



私たちのやりとりをずっと眺めていた永愛くんの体もほぼ消えかかっている。さっきまではっきりとしていた体の輪郭が今ではもうほとんど...



「そうだね。もうお別れの時間みたいだ。僕らの役目もここでおしまいのようだね。後でたくさん話したいことがあるから、聞いておくれよ。香楓・・・本当の義妹にはなれなかったけど、僕はもう一度こうして君に再会できてよかったよ。これで心残りなく眠りにつけるよ・・・生きててくれてありがとう!」



"あぁもう時間が終わりを迎えている"最後に二人に言いたいことがあるのになかなか言葉が口から出てくれない。そんなことを考えているうちに二人の姿はもう見えなくなってきている。



「二人とも、私。ミネラルウォーターになれた気がするよ。だからこれからは空から私がどんな色に染まっていくか見守っていてほしい・・・」



やっと口から出た言葉は他の人が聞いたら何が何だかわからない言葉ばかり。でも、私はこれを最後に伝えたかった。だって、これ以上二人に心配はかけたくないから...



「あぁ、綺麗な透明だね。どんな色に染まるのか楽しませてもらうよ・・・それじゃ」



「ミネラルウォーターってなんの話?後でじっくり聞かせてね。それじゃ、香楓元気でね。こっちにくる時はたくさんのお土産話待ってるね」



姿はもう私には見えなくなってしまったけれど、声だけはこの静かなお墓に...いや私の耳だけに鮮明に聞こえてきた。最後まで二人は笑顔を絶やさずに私を送り続けてくれた。本来なら私が送り届けるはずなのに。



本当に二人には敵わないなとつくづく実感してしまう。私以外誰もいなくなってしまったお墓で一人、もう一度涙を流す。誰にも聞こえぬようにひっそりと声を押し殺しながら、止まることを知らない涙たちは地面を濡らしていく。



「星が綺麗ですね・・・」



泡沫(うたかた)のように消えてしまった私の恋。



私はいつからか永愛くんのことが好きになっていたみたいだ。まさかの姉と同じ人を好きになるなんて...本当は今日この場で彼に想いを伝えようとしていたが、伝えることはできずに彼は消えてしまった。



彼の視線の先にいたのはいつだって姉だったから...そうでなくとも二人の関係性を私は壊したくなかった。私が"好き"と伝えたところで彼は決して"僕も"とは言わないだろう。



それに、二人の背中を昔から見ていて私が間に入る隙間なんてこれっぽっちも存在していなかった。だからこれでよかったのかもしれない。多少の心残りはあるけれど、最後まで二人は心残りなんてないような笑顔で空へと飛び立っていった。



それだけで今の私は十分すぎるくらい心が満たされていた。"どうか空の上でも二人で仲良く支え合ってね"と上を見上げながら口には出さずに心の中で願い続ける。二人にこの願いだけは届くように...と。



私のこの好きという想いは今度こそ、一生開くことのない鍵をつけた記憶と化してしまう。別れがあれば、出会いもある。生きてさえいればこれからたくさんの人と関わっていくことになるんだ。



二人が体験できなかったこと、生きていたら出会っていた人、私にはその全てをこれからすることができる...今度は私が二人の代わりに新しい景色を届けてあげたい。それに永愛くん以上に素敵な人にも...



そうすれば、またいつか二人に会えた時恥じることなく向き合える気がするから。その時まで私は必ずもっと強い人になっているから...だからそれまで待っていてね。



暗闇に包まれた静かなお墓から足を前に進めていく。目の前には光に照らされた住宅街が私の視界には広がっていた。その光に導かれるように私の足は再びライトの元へと向かっていくのだった。



紺青(こんじょう)に染まった暗い上品な色の空の下を一人歩く私。歩くとたびに通り過ぎていく家々からは、楽しげな声と温かな家族の生活光が窓から外へと漏れ出している。



まるで、空にいる二人から見たこの地上は、私が今見上げている空の星々のような幻想的な煌めきなのだろうか。そうであってほしい。そしたら二人もきっとこの美しくも温かい景色に魅了されて退屈になることはないはずだから。



歩いているうちに我が家が見えてくる。周りの家と同様に私の家も黄色の光が家の中から溢れ出しているようにも見えてくる。今までの私が気づかなかっただけで、私の家も他の家と何も変わりはなかったみたいだ。



「ただいま!」



「おかえりなさい、ちゃんとお墓に・・・」



"ガチャン"扉が自然と閉まっていく。ほら、私の帰りを待っている人がちゃんとここにいるのだから。私はもう一人じゃないんだ。



天色(あまいろ)の澄み渡る空の下。私の頭上では、雀たちが二匹並んで仲良さそうに優雅に飛んでいる。風に揺られながらも懸命に前へ前へと私の視界から外れるように遠くへと。



前までは地面を見ながら歩いていたこの通学路。今では全く別な道に思えるほど、気づいていないことが多かったと気付かされる。元気に登校していく黒と赤のランドセルを背負った子供たち、楽しそうに近所の人たちと談笑している奥様方、些細な生活音や車の排気音など。



当たり前の日常の中にでもこんなに新しい発見ができることが、なんだか楽しくて心が躍る。私は過去に囚われすぎて周りが全く見えていなかったのだと改めて実感させられる。



「こんなにも綺麗なんだ・・・」



体を冷たい風が私の体を吹き抜けていく。もうすぐ季節も秋から冬に移り変わろうとしている。空気も乾燥してきて、吸い込む空気が私の肺を新鮮な綺麗な空気で満たしていくような気がしてやまない。



すっかり道中の木々たちも二ヶ月前までは生い茂っていたのに、今は裸も同然の姿になり変わってしまった。寂しい気もするが、これも一つの風情なので仕方ないのかもしれない。



"カンカンカン"以前気にすることもなく突き進んでいた踏切が私の視界、そして耳に訴えてくる。他の歩行者たちと同じように黄色と黒の棒の前で止まり、電車が通り過ぎていくのをじっと待つ。



私の右側から冷たい空気を運びながら電車が向かってくる。数秒後、私の前を人がたくさん乗っている電車が一瞬で通過していく。車窓から見える人たちはこれから明日、いや数時間後の未来へと向かっていっているように見えた。



私も過去ばかりを振り返るのではなく、未来を見据えないとという衝動に駆られてしまう。ゆっくりと時間をかけて黄色と黒の棒が上へと上がっていく。向こう側にいた彼の姿を思い出しながら、私は未来への一歩を踏み出す。



靴を履き替え教室に入ると、毎日見慣れていた景色なのに何故か普段の教室よりも広く、クラスメイトの顔がはっきり見える。私が逃げるように交流をすることがなかったクラスメイトたち。



今日からは少しずつ話しかけていこうと心に誓う。例え、最初は不安がられ怖がられようとも今の日常を少しでも変えたいから...その方がきっと空にいる二人も喜んでくれるはずだから。



「香楓、おはよう!あれ、なんか吹っ切れた顔してるね」



「芽衣・・・私これから少しずつ頑張ってみるよ。他の人よりも出遅れちゃったけど、これが二人の望む私の未来のような気がするからさ。だから・・・芽衣この先もよろしくね!」



彼女の目が大きく見開かれ、口がポッカリと開いてしまっている。せっかくの可愛い顔が台無しになる程、不細工...



「当たり前でしょ!!!」



教室中に響き渡る彼女の声。クラスメイトたちは何事かと私たちの様子を怪訝そうに見ていたが、何も気にならない。だって今は彼女とこうして向き合えているのが嬉しいから。



「あ、そうだ。香楓の名前の由来ってなんなの?お姉ちゃんも花の名前でしょ?なら香楓もそうなのかな〜って思ってたんだ」



そう、私たち姉妹の名前は実在する花から名前をもらっているのだ。それは私たちの母が大の花好きというのが最もな理由の一つで、二人揃って『香』という文字が付けられている。



「そうなんだ、花の香りみたいに優しい女の子になってほしいって意味らしいよ」



本当はもう一つ由来がある。それは『かえで』の『大切な思い出』『美しい変化』という花言葉から取った意味合い。"いつまでも思い出を大事に...そしてその思い出と共に大人の美しい女性に変わっていってね"というのがもう一つの私の由来。



これは誰にも話すことがない、私だけの秘密。この意味合いが今の私には痛いほどわかってしまう。



「大切な思い出・・・」



「ん?何かいった?素敵な由来だね。香楓にぴったりだね、優しい女の子に無事育ってますよ!」



「ありがとう。それより自販機にでも行かない?」



「お、いいよ。何か買うなら私も買おうかな」



リュックから財布を取り出して芽衣と後ろの扉から教室を出ていく。すっかり冬服の格好をしている生徒たちを見ると、より冬という季節が来るのを実感できてしまう。



"シュッシュッ”隣を歩いている芽衣と私の制服が擦れる音が聞こえる。私と歩幅を合わせて歩いてくれる芽衣。彼女には一生返しても返し切れないくらいの恩が私にはあるんだ。



でも、恩を返す前に一言彼女に言いたいことがある...



「芽衣、ありがとう」



「なに急に・・・奢らないからね?」



予想外の返事に笑ってしまう私に釣られるように笑う彼女。"これからもよろしくね"口をパクパクさせながら彼女に伝える。きっと声には出していないから彼女には届いていないかもだけど、今はそれでいい。いつか、ちゃんと伝えられる日があるはずだから。




廊下に溢れかえっている生徒たちの間を掻い潜り、なんとか自販機の前にたどり着く。迷うことなく芽衣が百三十円入れて温かいココアのボタンを押す。



「もう、ココアの季節だよね!寒いし、はぁ〜あったかい」



続けて私も百六十円を自販機に入れ、数あるボタンの中から一直線にボタンを押す。"やっぱりこれだよね"



"ガタン"勢いよく落ちてくる"それ"は私が最近好きになったもの。取り出し口から芽衣が手を入れて取り出してくれる。



「はい・・・って香楓、水好きだったっけ?寒いのになんで水なのよ。それに味しないし」



「いいの。私はこのミネラルウォーターが好きなの。芽衣も今度から買ってみたら?」



「私は、いいや。なんか、香楓に水って意外と似合うかもね。よくわからないけど、そんな感じがする・・・」



「ありがと!すごい嬉しい!」



私もこれでようやく濁った心とお別れをして透明になれたのだろうか?ペットボトルの中で揺れ動く水を眺めつつ、キャップをゆっくりと捻って開封する。そっと唇に当てて口の中に透明の液体を含んでいく。



なにも味がしないはずの水から、若干塩味が感じられた気がする。



あの日、彼と掛け合った時に口に入ってきた海水と同じようなしょっぱくも懐かしい味が...