あなたは王を否定するのですか? 王に逆らえばどうなるのか、わかっているのですか? 中村氏の顔つきが変わった。瞳の色が変化し、牙が剥き出しになる。
彼女は怯えることなく、毅然な態度で言い放った。
屍鬼の王が何だというのです? 私は父のことが心配なんです。父が無事かどうか確かめたいだけなんです。
それが王の望みでもあるはずですよ? 私は自分の意思で行動します。たとえ王が相手でも、間違った考えに従うつもりはないです。
そうですか。残念です。
その瞬間、彼女の首筋に牙が突き立てられた。☆ 中村氏が彼女から離れたとき、その身体はすでに変化を始めようとしていた。
額からは二本のツノが生えてきており、瞳の色は赤く染まっている。
そして、口元からも牙が伸びつつあった。
僕はとっさに身構えたが、次の瞬間、彼は力なく崩れ落ちた。
どうやら、彼は自らの意思によってゾンビ化を止めたようだ。しかし、その代償として、激しい苦痛に襲われていることだろう。
僕は彼に駆け寄ろうとしたが、彼女がそれを制した。
近づかない方がいいですよ。
どういうことですか? 彼が人間であることは間違いありませんが、屍鬼である私の血を体内に取り込んだことで、屍鬼に近い状態になっています。
つまり、屍鬼になりかけているということでしょうか。
はい。このまま放っておくと、やがて完全な屍鬼になってしまいます。そうなれば、もう手遅れです。殺すしかなくなりますよ。
それを聞いて、僕は躊躇してしまった。しかし、中村氏がそれを望んでいないことは明らかだった。
やがて、中村氏は意識を取り戻した。そして、苦悶の表情を浮かべながら立ち上がると、ふらつく足取りで歩き出した。
待って下さい! 思わず呼び止めてしまった。
しかし、彼は立ち止まらなかった。
そのまま歩き続け、病院の外へと出ていった。
☆ その後、僕たちは中村氏を探し回ったが、ついに見つけることはできなかった。
しかし、僕たちは諦めずに捜索を続けることにした。
そして、ある日の夜、僕は夢を見た。
☆ 僕は病院の廊下を歩いていた。そして、目の前には一人の男性が立っていた。
中村氏だった。
彼は穏やかな笑みを浮かべていた。
しかし、その顔は青白くなっており、身体は腐り始めていた。
そんな状態でも、彼は笑顔を絶やすことはなかった。僕は怖くなった。早くここから逃げ出そうと思った。
ところが、身体が動かない。まるで金縛りにあったように動けなかった。
僕は必死にもがいたが、それでも動くことができなかった。
そして、目の前にいる中村氏が少しずつ近づいてきた。
彼はゆっくりと腕を伸ばし、僕の肩を掴んだ。
そして、さらに顔を近づけてくる。
僕は抵抗しようとした。だが、やはりできなかった。
やがて、中村氏の息遣いが聞こえるほど近くにまで迫ってきた。
その時、目が覚めた。
☆ 僕は慌ててベッドから抜け出すと、部屋を出て階段を下りた。そして、リビングに向かった。そこには誰もいなかった。
僕はほっとした。
すると、背後から声をかけられた。
おはようございます。
驚いて振り返ると、そこにいたのは七瀬さんだった。
僕は慌てて挨拶を返した。
それから、すぐにキッチンへと向かった。朝食の準備を始めるためだった。
すると、七瀬さんもついてきた。
僕の隣に立つと、彼女はてきぱきと動き始めた。
☆ その日の夕方、僕は七瀬さんと一緒に病院を訪れた。
病院の中は静まり返っていた。
僕たちは慎重に進んでいった。
病院の奥へと進んでいくと、一人の女性に出会った。彼女は僕たちの姿を見ると、ゆっくりと近づいてきた。
そして、僕たちに話しかけてきた。
こんにちは。あなたたちは誰ですか? 彼女は微笑みかけていたが、目は笑っていなかった。
僕たちが答えられずに戸惑っていると、彼女は急に態度を変えた。
まあ、いいわ。とにかく、今は時間が惜しいの。さっき、院長先生のお子さんの容態が急変したの。だから、急いで手術をしないといけないんだけど、手が足りないから手伝って欲しいのよ。
僕たちが承諾する前に、
「もちろんタダとは言わないわ」と言って、彼女は懐から銃を取り出した。
そして、その銃口を僕らに向けた。
僕は驚いた。なぜなら、その銃は明らかにモデルガンなどではなく、本物だったからだ。
「私の指示に従ってもらう代わりに、これを貸してあげる。どうする?」と彼女は言った。☆ 七瀬さんの提案により、僕たちは病院で働くことになった。
しかし、僕は迷っていた。僕なんかが役に立てるとは思えないのだ。
七瀬さんが僕を励ますようにこう言ってくれた。
大丈夫だよ。みんなが協力してくれてるんだから、
「がんばろう!」
そう言って彼女は微笑んだ。
その日以来、僕は毎日頑張っている。
お兄ちゃんも、頑張れ。
☆ そして、ある日の晩のこと、また例の夢を見た。
そこは見覚えのある場所だったが、どこかおかしかった。
その場所には見慣れないものが存在していた。それは、白い壁に覆われた小さな建物だ。
僕は建物の中に入った。
その内部は広く、薄暗かった。
そして、そこにはたくさんの人間が倒れていた。僕はその中に中村氏の姿を見つけた。彼も床の上に仰向けに横たわり、
「助けてくれ……誰か……」と呟いていた。その身体は腐敗しており、白骨化しかかっていた。その口元からは長い牙が突き出している。どうやら屍鬼化しているようだった。
彼のそばに近づくと、何かを握りしめていることに気がついた。
その手に握られていたものを見て、僕は目を見開いた。それは鍵のような形をした金属片だった。屍鬼の王から授かった"力の鍵 "と呼ばれているものだった。
どうしてこれがここに? そのとき、どこからか女性の声が聞こえてきた。
屍鬼の王が現れたのである。
王は僕の前に現れた。
「ようやく手に入れたぞ」王は満足そうに言うと、「お前はこれを使いこなすことができるかな? 」と言った。
どういう意味ですか? 僕の問いに対し、王は淡々と答えた。
お前の中にはすでに王の血が流れ始めている。だから、それを使うことができるはずなのだ。
僕はその言葉の意味を理解することができなかった。
ただ一つわかるのは、この男が人間ではないということだ。
王は僕の方へ手を伸ばした。その指先が触れる寸前で止まった。そして、ニヤリと笑うと、そのまま去っていった。
目が覚めると、僕は涙を流していたことに気がついた。
その日から、
「俺は屍鬼と戦うことができるのか」と自分に問いかけるようになった。
あの夜、俺と姉貴はコンビニにいた。
店の前に並べられたワゴンにはお菓子がぎっしりと詰まっていた。俺たちはそれを物色していたのだが、突然、店内の照明が消え、真っ暗闇に包まれてしまった。そして、店の奥の方で悲鳴があがった。
その瞬間、何者かに突き飛ばされ、床に転がった。何が起こったのか理解できず、ただ呆然とすることしかできなかった。
気がつくと、俺は意識を失っていたようだ。そして、目を覚ましたときには全てが終わっていた。
「……」
しばらく放心した後、立ち上がって店内に戻った。そこで見たのは地獄絵図だった。店内は荒らされ、あちこちで血を流しながら倒れた店員や客の死体が転がっていた。まるで戦場の跡地のような有様だ。
その中でただ一人生きている男がいた。
それは中村氏だった。しかし、彼は正気を失っており、血塗れの状態で襲いかかってきた。彼は持っていた包丁を振り回していたが、俺は何とか避けることができた。そして、反撃に出た。
「うぉおおおっ!」叫びながらタックルすると、相手を突き飛ばすことができた。しかし、その直後、
「がぁあああっ!!」彼は獣のように叫んだ後、飛びかかってきた。
その鋭い爪で引っ掻かれた。痛みで顔を歪めながらも必死で応戦したが、やがて劣勢に立たされることになった。
まずいな。そう思い始めた頃、ふいを突かれて腕を掴まれた。そして、そのまま持ち上げられてしまった。なんとか振り払おうとしたが、相手の力の方が上だった。そのまま壁に叩きつけられたが、離してくれることはなかった。それどころか、今度は身体を押し付けられてしまった。背中に鈍痛を感じた。どうやら、壁に押し付けられたようだ。
「がぁあああっ!!! 」中村氏は叫ぶと、さらに体重をかけてきた。肺の中の空気が押し出され、息苦しくなる。さらに首筋が圧迫されて、頭がぼうっとしてきた。このままではマズイと思った。
俺はとっさに足払いをかけた。それが成功したらしく、彼は前のめりになって倒れてくれた。
今のうちに逃げないと……。
「ぐぅ……がぁあああっ!!!」
立ち上がった瞬間、後ろから強烈な蹴りを食らってしまった。バランスを崩してしまい、床の上に倒れると、すぐに馬乗りになった彼に押さえ込まれてしまった。彼は血走った目でこちらを睨みつけると、その口からは唾液が垂れ流れていた。どうやら、理性を失くしてしまったらしい。彼は両腕で首を絞めようとしてきた。しかし、ギリギリのところで回避することができた。すると、すぐに別の攻撃に移った。拳を使って殴りつけてきたのだ。しかも、そのスピードは速く、一発殴られるごとに激痛に襲われた。だが、
「うおっ!」中村氏がよろめいたことで解放された。すかさず立ち上がると、彼に向かって走り出し、渾身のパンチをお見舞いしてやった。その一撃によって彼は吹き飛ぶと、棚に激突してその場に崩れ落ちた。
その隙に店の外へ出ると、全力疾走で逃げ出した。背後を振り返ると、中村氏が追ってくるのが見えた。彼は恐ろしい速さで接近してくると、ジャンプして襲い掛かってきた。
間一髪のところで避けることに成功したが、地面に着地した彼は即座に反転した。そして、再び突進を仕掛けてくる。
俺は慌てて方向転換すると、
「逃げろーっ!」と叫びながら、ひたすら走り続けた。だが、背後からは「ぐぅ……がぁあああッ!がぁあアッ!!」といった叫び声が響いていた。
それからしばらくして振り返ると、その姿を見つけることはできなかった。撒いたみたいだな。安心して前を向いた瞬間、目の前に人影が現れて思わず足を止めた。
それは姉貴だった。「あれ、どうしたの?」と尋ねてきた。
「そっちこそ、なんでこんなところにいるんだよ?」と尋ねると、
「忘れ物を取りに来たんだけど……」
「……え?」と呟いてから周囲を確認すると、確かに彼女の手にはコンビニの袋が握られていた。どうやら中身は菓子類らしい。そう言えばコイツは大の甘党だったな。そう思った途端、急に腹が減ってきた。そこで思い出したのは例の夢だ。もしかしたら、あの夢の通りに現実は進んでいるのではないか? だとしたら大変なことになる。俺は急いで夢の内容を話そうとしたが、姉は先に質問をぶつけてきた。
ねえ、何か変なものとか見なかった?
「変なもの? いや、特には見なかったけど……」
「そう、じゃあ良いわ」彼女はそう言うと、背を向けた。「早く帰るわよ」
そのとき、急に空が曇った。そして、強い風と共に雨が降り出した。俺たちは急いで自宅に向かったが、途中で彼女が「ちょっと待ってよ」と言い出して立ち止まった。
「どうしたの? 」
「あのさ……言いにくいんだけど、傘持ってないんだよね」彼女は困ったような表情を浮かべたあと、「アンタの服、濡れちゃっても構わない?」と言ってから笑った。
俺が無言のまま黙っていると、
「嫌ならしょうがないね」と残念そうに言った。「じゃあ、走ろうか」
「そうだな」と答えると、彼女と並んで走った。そして、数分後、家に到着すると玄関の扉を開けた。すると、その先ではすでに戦いが始まってしまっていた。「何やってんの?」という問いに対して、彼女はため息をつくと、「知らない。勝手に始まってたの」と答えた。
俺の目に映っていたのは、二人の人間が殺しあう姿だった。その光景を見て驚いた俺は固まってしまっていたが、その間にも激しい死闘は続いていた。一方はナイフを持っており、
「がぁああっ!」と雄叫びを上げながら相手を殺そうとしていた。もう片方は素手で相手を殴り続けていた。やがて、その攻防は決着がついたようで、片方は仰向けに倒れ込んだ。その身体はもうほとんど白骨化していた。もう一方はゆっくりと立ち上がると、
「終わったのか……」と呟き、その場に倒れ込むと、
「これでやっと終わるのか……」と口にした後、白骨化し始めていた自らの手を眺めながら、静かに息を引き取った。その様子を見た姉貴が悲しそうな声でこう呟いた。
ごめんなさい……お疲れ様です。そして……本当に……ありがとう……ございます……
俺はそんな彼女たちを見ていた。
そして、ふと思った。もしも……仮にだけど……自分が屍鬼に殺されたとしたら、俺は誰に殺されるんだろう? 美波か?それとも……アイツか? 中村氏が死んだ数日後のことだった。彼の死はニュースで報道されたのだが、その際、
「屍鬼による襲撃」というテロップが画面に表示されていた。俺はこの事実に衝撃を受けたのだが、同時に「やっぱりか」という気持ちもあった。屍鬼とは人間の成れの果ての姿なのだと知ったからだ。おそらく、この世界に存在するほとんどの人間は感染しており、いつか必ず屍鬼になるはずだ。だから、
「俺はいつ死んでも良いのか」と考えたこともある。だが、その時に思い浮かぶ顔はやはり姉貴の顔だけだった。
俺はいつも通りの生活を送っており、学校へ行ったりバイトをしたりを繰り返していた。屍鬼は人間を襲う。しかし、その数は減ってきている。なぜなら、屍鬼の数が減ったのではなく、人間側が少しずつ増えているからである。だから、俺たちは生き残ることができた。
そんなある日のことだ。その日、バイトの帰り道で、
「やあ、久しぶり」と背後から声を掛けられた。その人物には心当たりがあった。
「まさか……お前が犯人なのか?」
次回で完結します(予定)
振り向くとそこには男が立っていた。年齢は20代後半くらいだろうか。身長はそれほど高くはなく、中肉中背といった印象を受ける。黒縁の眼鏡を掛けており、髪の毛は短めで爽やかな感じがする。服装は白いシャツの上にグレーのジャケットを羽織っており、下の方で紺色のズボンを穿いている。
「まあ、落ち着けって。とりあえず話をしようじゃないか」彼は笑顔で言うと、近くのベンチまで移動して腰掛けた。「君は座らないのか?」
「ああ、うん。大丈夫だよ」俺は少し躊躇ったが、結局は彼の隣に並んで座ることにした。「で、なんの話なんだ?」と尋ねると、彼は小さく笑いながらこう答えた。「何が聞きたいのかな?」
そう言われると、逆に戸惑ってしまう。しかし、なんとか言葉を探し当てると、それを口に出すことができた。
「どうして、こんなことをしたんだ?」
すると、男は不思議そうな顔をしたあと、口元を歪めて「どうしてだと思う?」と言った。
「えっ?」予想外だったので動揺してしまった。
「分からないなら教えてあげよう。それはね……」と言いかけたところで突然口を閉じた。そして、そのまま立ち上がると、「じゃあ、また今度会おう」と告げて去っていった。「おい、ちょっと待ってくれ」と言うと、慌てて立ち上がり、その後を追ったが、
「くそっ」既に彼の姿を見つけることはできなかった。
翌日、俺は再び病院へと向かった。今日はバイトがなく暇だった。なので、ふと思い立ったのだ。昨日の男の正体を突き止めるためにもう一度調べなおしてみようと……。院内に入ると同時に前回と同様に視線を感じたが、気にせず奥に進んだ。そして、
「あっ!」受付のところで立ち止まると思わず叫んでしまった。その理由はそこに見覚えのある人物が立っていたからだった。それは、昨日に俺と会話した男だった。俺は彼に近づくと、「君か?」と尋ねた。
「ん? どうしたんだ?」と尋ね返されたので、事情を説明した。すると、彼は苦笑してからこう答えた。
「なるほどね。分かったよ。確かに君の言うとおりだ。私は昨晩、この病院にいたんだよ」
彼は中村氏が入院していた部屋の前に立つと、「こっちに来てくれ」
「え?」と呟くと、彼はニヤリと笑った。
「中村さんの件を調べているんだろう?なら、その謎を解くことができるかもしれない。ただし、それを知ってしまった以上、君には真実を知る権利がある」
俺は黙ったまま彼を見つめていた。彼は真剣な眼差しでこちらを見つめ返してきた。そして、しばらくしてから再び口を開いた。
「いいだろう。まずは私について話そうか。私は中村さんと同じ病院で医者をやっていた者だ」彼はそう言うと、ポケットの中から一枚の写真を取り出し、こちらに見せてきた。「これが私の本当の姿さ」
写真には白衣を着た男性の姿とIDカードのようなものが写っていた。「どういうことなの? つまり、貴方は屍鬼ではないということ?」
「いや、違うよ。もちろん屍鬼さ。ただ、普段は人間の姿をしているんだ。ちなみに名前は山田という」
次回は最終話になります。ここまで読んでいただきありがとうございました。あと少しだけ、
「屍鬼は人間の死体を材料として生まれ変わる存在なんだけど、稀に普通の人間の死体を原料にすることもあるんだ。それはね、自分の身体の一部を犠牲にした場合と、相手の血を利用する場合とに分かれるんだよ。だから、私の場合は前者ということになるね」
俺は話を聞きながらも、頭の中で状況を整理しようと必死になっていた。しかし、うまく纏まらなかったので質問をぶつけた。
「でも、なんのためにそんなことをする必要があるんだよ?」
「理由は単純明快だよ。人間の肉体を利用して蘇った者は屍鬼の中でも特別な能力を持っていることが多いんだ。例えば、私の場合だと……」
「ちょ、ちょっと待って」と遮ると、疑問を投げかけた。「その話が本当だとしたら、アンタは中村氏を殺した張本人だということじゃないのか?なのに、どうしてここに立っているんだ?おかしいじゃないか」
「そうだよ」彼はそう言うと、微笑を浮かべながら続けた。「だからこそ、真相を知りたいと思わないかい? このままでは君はずっと悩んでいることになる」
「そう言われても……」
「それにさ、ここで真実を知ったとしても何も変わらないよ。むしろ、知るべきだとさえ思う」
俺は俯いて考え込んだあと、
「じゃあ、見せてくれよ」と口にした。
「いいよ」
彼がそう言うと、突如、目の前の空間が歪んだ。そして、しばらく時間が経過した後、俺たちの前には1人の女性が立っていた。年齢的には20代半ばから後半くらいだろうか。髪の毛は短く切り揃えられており、瞳は切れ長でキリッとしている。
彼女は俺のほうを見ると、驚いたような表情を浮かべたあと、
「……アンタがやったの?」と尋ねた。
「まさか、冗談は止めてください」と答えると、
「冗談なんかじゃないわ」
「え?」
「本当に信じてもらえないかもしれないけど、本当にアタシが中村をやったの」
「そんな馬鹿なことってあるわけないでしょう?」
「あるのよ」彼女はそう言うと、自らの首筋に触れた。
そこには大きな傷跡が残っていた。
「アタシは中村が憎かった。アイツのせいで仕事を辞める羽目になったの」
彼女は語り始めた。
「アイツは最低の男だった。アタシと付き合っていたときも浮気ばかりしていたし、金遣いも荒くていつも飲み歩いていた。本当に酷い男だったの」
「それで?」
「だから、アイツが他の女と寝ているところを見つけて殺したの。アタシがどれだけ苦しんだかも知らずにのうのうと生きていたのが許せなかったの」
「なるほどね」
「アイツの身体をバラバラにして家に持ち帰って肉を切り取って食べたの。そうしたら、なぜか急に気分が良くなって、とても落ち着いたの。それ以来、肉を食べていないと不安で仕方なくなったの」
「じゃあ、この前食べていたのは?」
「あれは……我慢できなくなって襲っちゃったの。あのときはごめんなさい」
「そういうことだったのか」
「もう良いよね?」
「ああ、ありがとう」
俺は彼女の姿が見えなくなるまで見送った。
それから数ヶ月後のことだった。
「ねえ、聞いた?」と姉貴が話しかけてきた。
「何の話?」
「ほら、前に話した中村さんのこと」
「ああ、その人がどうかしたの?」
「実はね、最近になって彼の遺族が遺体を発見したらしいの。だから、今は火葬されて骨壺に入っているって」
「そうなんだ」
「でね、問題なのは彼の遺品の中に奇妙なものが混ざっていたみたいなんだって」
「何があったの?」
「それがね、血液を保管するパックが見つかったらしくてね」
「へえー」
「でね、その中にはね……」
姉の話はそこで途切れた。なぜなら、彼女が突然倒れてしまったからだ。俺は慌てて救急車を呼んだ。
そして、数日後、
「大丈夫か?」と声を掛けた。
「うん」と弱々しい声で返事があった。
「ところで、具合はどうなんだ?」
「まあまあかな」
「そうか。じゃあ、俺は帰るから」
「うん」
「元気でな」
「ありがとう」
こうして、俺たちは別れた。
「あのとき、君になんて声を掛ければ良かったのかな?」
俺は呟くと、病院を後にした。
ゾンビ・クライシス 了 最後まで読んでいただきありがとうございました。
また機会があればよろしくお願いします。
俺は昔から運が悪い。
小さい頃に行った遊園地のジェットコースターで気絶して落ちたり、プールの授業で溺れたり、修学旅行先で大雨が降ってきて帰れなくなったりと、様々な不運に見舞われてきた。
だから、
「おめでとうございます! あなたは転生者に選ばれました!」
と女神っぽい人(羽とか生えてる)が現れた時は、
「……ついにこの時が来たか」
と俺は悟った。
そう、俺は死んだのだ。死因は不明。
だが、今となってはそれもいい思い出だ。
なぜなら、俺は今から異世界で第二の人生を送ることが出来るのだから。
「それでは早速ですが、転生の準備を始めましょう!」
「おう!」
俺は勢いよく返事をした。
そう、これから楽しい異世界生活が始まるのだ――。
「それじゃあ、そろそろ行きますか」
俺はそう言うと歩き出した。すると、後ろから呼び止められた。
「待ってくれ!」
「ん? どうした?」
振り返ると、男が立っていた。
「その、俺にも協力させてくれ」
「協力?」
「俺の名前は高橋裕司。君と同じ大学の2年生だ」
「俺と同じ大学? 俺と会ったことあったっけ?」
「いや、ないよ。君と話したのは今日が初めてさ」
「だったらなんで?」
「それは……」
と高橋は言葉に詰まった。すると、横から別の男の声が聞こえてきた。
「俺からも頼む」
声の主は大柄な男だった。筋肉質な体つきをしており、まるでプロレスラーのような風貌をしている。
「俺の名は佐藤和真。高橋と同じサークルのメンバーだ」
「サークル?」
「ああ、俺はプロレス研究会に所属しているんだ」
「なるほど、だからそんな体格なのか」
「そんなことより、話を戻してくれ」
「そうだな。で、なんで俺に協力してくれるんだ?」
「それは……」
と再び言い淀む高橋。そして、佐藤が口を開いた。
「俺はお前の力になりたいんだ」
「力?」
「ああ、俺は大学でプロレス同好会に所属していたんだが、最近は練習がつまらなくてな。そんな時、高橋と出会ったんだ」
「つまり、友達である高橋のために俺に協力したいということか」
「ああ、そうだ」
「悪いが断る」
「な、なぜ!?」
「理由は二つある。まず、俺は一人の方が動きやすい。それに……」
「それに?」
「俺は団体行動が苦手なんだよ」
「でも、君一人では危険だろう?」
「心配ないさ。こう見えても喧嘩には自信があるんだ」
そう言って俺は笑みを浮かべた。しかし、二人は顔を見合わせると、すぐに真面目な表情になった。
「分かった。じゃあせめて俺たちを君の旅に連れて行ってくれないか?」
「は?」
「俺は君に命を救われた。だから、俺の命は君のものだ」
「いや、それは……」
「もちろんタダでとは言わない。俺は君のために何でもしよう」
「……なんでも?」
「ああ、どんなことでも言ってくれ」
「じゃあ、とりあえずパンツ脱いでくれる?」
「え……」
「冗談だよ」
「そう……だよな」
「ああ、もちろん冗談だよ」
と笑顔で言うと、二人の顔がみるみると青ざめていった。
「それで、あんたらは何が出来るんだ?」
「俺と高橋は空手部に所属している」
「そうか。で、さっきの話に戻るが、俺は個人プレーで行動する。だから、協力してもらう必要はないよ」
「個人プレー? どういうことだ?」
「俺は誰にも縛られない。俺は自由に生きるんだ」
「自由な生き方か……。素晴らしいな」
「そうか? 普通だと思うけど」
「いや、とても真似できないよ」
「そうか? 別に普通のことをしているだけなのに」
「いや、本当に凄いよ。尊敬に値する」
と高橋は熱弁し始めた。その隣で佐藤は黙って何度もうなずいている。そして、30分程話し込んだ後、ようやく二人が落ち着きを取り戻したので、俺達は別れることになった。ちなみに、俺達が話していたのは公園のベンチであり、辺りは既に暗くなっていた。
そして、それから3ヶ月が経った。その間、俺は毎日街に出掛け、ひたすらゾンビ達を殺し続けた。そして、気付けばこの街で一番の有名人になっていた。そんなある時のこと……
『おい見ろよ』と一人の男が言った。その視線の先にはボロ布をまとった小さな女の子がいた。
『本当だ。親はいないのか?』
『多分どこかに隠れているんだろうぜ。ほら、見てみな。あの子の足下。靴を履いていないじゃないか』
確かに少女の足元を見ると裸足のままだった。
『マジかよ。かわいそうに……』
『全くだ。こんな世の中になったっていうのに……』
と男達の会話を聞いていると、「助けて……」と少女が呟いた。
「助けて?」と俺は首を傾げた。
「お願い……」と少女が言うと、
「任せておけ」と男の一人が言った。
そして、男はそのまま少女に向かって走り出すと、思いっきり蹴り飛ばした。
「キャッ」と悲鳴を上げて倒れる少女。
「何してるの?」と俺は尋ねた。
「決まってるだろ。こいつを助けるのさ」
「どうやって?」
「殺すのさ」
「は?」
「いいから早く手伝え」
と男は言うと俺の手を引いて歩き出した。そして、少女を蹴った男がナイフを取り出すと、少女の首筋に押し当てた。少女の顔が恐怖で歪む。それを見た俺の中で何かが弾けた気がした。次の瞬間、俺は男に飛び掛かると地面に組み伏せていた。そのまま、首元に剣を突きつける。
「動くなよ。動いたらこの子を殺すぞ」
と俺が脅すと、その場に居た全員の動きが止まった。俺は少女に目を向けると、
「大丈夫か?」と声を掛けた。
「は、はい」
と怯えながら返事をする少女。俺は微笑むと、
「今から安全な場所まで連れて行ってやるからな」と言った。
「え?」と少女が不思議そうな顔をする。
「どうした? 嫌なのか?」
「いえ、そうじゃなくて……」
「なら行くぞ」と言って俺は立ち上がった。すると、男の一人が口を開いた。
「お、俺らはどうなるんだ?」
「どうなるって?」
「このままだと殺されるだけだろ?」
「いや、俺が逃すから問題ない」
「え? 本当か?」
「ああ、だからお前らも付いてこい」
と俺が言うと、
「よし、分かった」と男が言った。
「俺は佐藤和真だ。君は?」
「俺は田中太郎だ」
「よろしく頼む」
「ああ、よろしく」
こうして、俺は新たな仲間を得た。
「ねえ、お願いします」
と先程の少女が頭を下げてきた。現在、俺達はゾンビが徘徊していない街の中を歩いていた。
そして、俺はゾンビから逃げ延びた生存者を探していたのだ。
しかし、 《ゾンビが近くにいます》 というメッセージが視界の端に表示されたかと思うと、俺は咄嵯に身を屈めた。その直後、ゾンビの姿が現れた。俺はゾンビの背後に回り込むと、剣を振り下ろした。すると、あっさりとゾンビの頭が切断され、地面に転がった。それを見て、俺は息を吐くと、振り返った。すると、目の前に男が迫ってきていたので、慌てて飛び退いた。直後、男の拳が空を切る。俺は体勢を整えると、腰に差していた銃を取り出した。そして、引き金を引くと、銃弾が放たれた。しかし、弾丸は男の横を通り過ぎていった。どうやら外れたらしい。俺は舌打ちすると、再び銃撃した。今度は命中した。だが、それでも相手は倒れなかった。
すると、横から声が聞こえた。
――スキル〈アクセル〉を習得しました。
――〈アクセル〉は身体能力を向上させます。
――使用するにはSPを消費します。
――使用回数に制限はありません。
――発動すると、時間の流れが遅くなります。
――また、攻撃を受ける直前に使用することで、回避することができます。
――以上です。
――スキルを発動すると、あなたは超人的な能力を手に入れることができます。
――ただし、その代償としてあなたの体は壊れていきます。
――ご利用は計画的に。
俺は〈アクセル〉を使用した。すると、世界がスローモーションのようにゆっくりと動き始めた。俺は男に近付くと、その胸ぐらを掴んだ。そして、力一杯引き寄せると、顔面に膝を叩き込んだ。男は鼻血を出しながらも俺の腕を掴むと、背負い投げをした。しかし、俺は空中で体を捻って着地した。そして、すぐさま相手の懐に入ると、顎に掌底を放った。
俺は素早く立ち上がると、再び攻撃を仕掛けようとした。しかし、男は俺の手首を掴み、それを阻止してきた。俺は力ずくで振りほどこうとするが、ビクともしない。俺は仕方なく距離を取ると、再び〈アクセル〉を使った。
俺は一気に間合いを詰めると、男の腹に前蹴りを食らわせた。すると、男は吹き飛ばされ、地面の上を転がり回った。俺は追撃しようと駆け寄るが、途中で足を止めた。なぜなら、男が立ち上がり、こちらに向かってきたからだ。俺は冷静に対処しようとするが、次の瞬間、背後から声が響いた。
――スキル〈バックステップ〉を習得しました。
俺は後ろに飛ぶと、一瞬にして男との距離を取った。
危ないところだった。もし、あのタイミングであの技を使っていなかったら、確実に負けていただろう。俺は改めて気を引き締めた。そして、構え直すと、静かに呼吸を整えた。
――〈アクセル〉の効果は切れました。
と脳内にメッセージが流れた。
俺は深く深呼吸すると、全神経を集中させた。そして、目を閉じて相手の動きを探る。しばらく時間が経つと、俺は目を見開いた。すると、男は既に眼前まで迫ってきていた。
俺の反射速度を超えた速度での攻撃だ。普通ならば対応できないだろう。
だが、俺には奴の動作が見えていた。俺は紙一重で攻撃をかわすと、カウンターで右ストレートを決めた。男は数メートル吹っ飛んだ後、地面に叩きつけられた。俺は急いで駆け寄ろうとするが、途中で立ち止まると後ろに飛び退く。次の瞬間、俺が立っていた場所に男の拳が通り過ぎた。俺は大きく後退し、十分な距離をとると、
「おいおい。マジかよ」と思わず呟いた。なんと、既に男は起き上がっていたのだ。そして、ニヤリと笑うと、そのまま真っ直ぐ突進してくる。そのスピードは先程とは比べものにならないぐらい速い。俺の反応できる限界を超えているため、とてもじゃないが、避けることができない。なので、俺はあえてその場に留まった。男が迫る。その拳は空気を貫き、まるで死神の鎌のように俺の首を斬り裂こうとしているのが分かる。だが、俺はまだ死んでいない。そして、俺の体に触れる直前で男の体がピタリと停止した。
「なんだこれ!?」
と男は驚きの声を上げると、なんとか動こうと試みるが、その身体は微塵も動かない。俺は剣を取り出すと、その首に突きつけた。
「おい。死にたくなければ答えろ」
「……」
「あの女の子はどこに行った?」
「……」
「言わないと、その首落とすぞ」
「分かった。教える。だから殺さないでくれ」
と男は震えながら言ってきた。
「それでどこに行った?」
「この先の病院にいるはずだ」
「この先?」
「そうだ」
「なぜだ?」
「この辺りにゾンビはいないから安全なんだよ」
「嘘だな」
「え?」
「本当は違うんだろう?」
「そ、それは……」
「早く話せ」
「実は……」
と男は語り出した。彼は元々ある研究所で働いていた研究員だったが、ある時を境に研究所を飛び出した。理由は分からないが、家族を人質に取られていたらしく、仕方なく従うことにしたようだ。そして、とある研究を行っていた。内容は"人間を屍鬼へと変える薬の開発"である。
ある日のこと……
「所長」
と若い男が部屋に入ってきた。
彼の名は田中太郎といった。
太郎はドアの前に立つと、そのまま立ち尽くしていた。すると、奥の部屋から白衣を着た中年男性が出てきた。
――田淵秀彦だ。
秀彦は机の上にあった資料を手に取ると、パラパラとページを捲り始めた。そして、やがてあるページで手を止めた。
そこには人間の遺伝子情報が記載されていた。
そこに書かれていたのは……
"人間の脳細胞には無限の可能性がある! それを活かすことができれば人類はさらなる進化を遂げるに違いない。そう例えば、人を操ることのできるような力だ。そのための研究をしようではないか。君達も協力してくれないか?"という文字だ。
それを見た瞬間、秀彦は狂気に満ちた笑みを浮かべた。
その後、彼らは秘密裏に行動を開始した。まずは手始めに、近くの村に住む村人全員の遺伝子情報を入手することに成功した。さらに、近隣の住民や感染者からサンプルを入手し、実験を続けた。そして、遂に完成したのだ。人の思考をコントロールする秘薬が。
その効力を確認した秀彦達は喜びに満ち溢れていた。
だが、それも束の間の出来事だった。突然、研究所が何者かに襲撃されたのである。研究所はあっけなく破壊されてしまったが、かろうじて脱出に成功した者がいた。それが秀彦であった。
しかし、逃げている途中に運悪くウイルスを感染させてしまい、今に至るわけだ。
話を聞いた俺は舌打ちした。そして、怒りに任せたまま叫んだ。
――許せない……。
すると、男の首筋から剣が消えたと同時に〈アクセル〉の効果が終了したのか、男の速度が元に戻った。
俺はすぐに駆け寄ると、〈治癒活性〉を使用した。すると、男の傷がみるみると癒えていく。そして、完全に治療が完了すると、男は呆然としながら自分の体を眺めた。そして、信じられないと言った様子でこちらを見ていた。
俺は男から事情を聞くと、美波がいるはずの病室に向かった。
4階に着くと、先程の男の言葉通りならここに美波が監禁されているはずだった。しかし、その部屋の前では激しい戦闘が行われていた。
扉が開き、中からは二人の男女が現れた。男は身長が180センチほどあり、鍛え抜かれた筋肉を持っていた。女の方はその男の胸板に寄りかかるようにしている。
すると、男はこちらに気付いたようで話しかけてきた。
――佐藤和真だ。
――スキル〈アクセル〉を習得しました。
俺が自己紹介を終えると、男はすぐに俺の背後にいる男に視線を向けた。
俺の仲間です。と言うと、二人は警戒心を解いた。
そして、男の名前は高橋健太といい、女性は安藤加奈子だという。
俺達が話し合っている間、男はずっと下を向いて黙っていた。すると、不意に女性が近付き、その肩に両手を乗せた。その直後、男の目から涙がこぼれ落ちた。俺は慌てて振り返ると、彼女は首を横に振った。そして、男から離れるとこちらに向かって歩いてきた。すると、彼女が俺の隣に立った瞬間、男はその場に泣き崩れるように座り込んだ。
俺は彼女に頭を下げると、男に尋ねた。
美波はどこにいますか? すると、男はこちらを見上げると、 美波ちゃんはもうダメかもしれません。
俺は男の顔を見る。その顔は悲しみに歪んでいた。
俺はその言葉を否定できなかったので黙っていると、男が語り始めた。
実は彼女には好きな男がいたんです。でも、その男にはすでに別の女性がいました。それでも諦められなかったんですよね。それで、無理矢理襲おうとしたら逆に返り討ちにあったらしいです。それからは彼女のことが怖くて近付けずにいたのですが、最近になって再び好きになってしまったようです。それで、思い切って告白してみたらなんとOKされたみたいで……それで、昨日ついに初デートに出かけたみたいなんですけど、途中で事件に巻き込まれたらしくて、そこで例の男に助けてもらったとか言ってました。ただ……
そこまで言うと男はまた口を閉ざしてしまった。
――まさか!? と嫌な予感が脳裏を過る。そして、恐る恐る尋ねてみる。――襲われたのはいつですか?
――3時間前です。
俺は絶句すると、すぐに踵を返そうとした。
だが、その時、背後から女性の叫び声が聞こえたので思わず立ち止まった。
声がしたのは病室の中だった。俺がそちらに目を向けると、ベッドの上に美波の姿があった。そして、彼女を取り囲んでいるのは先程までの二人とは比較にならないほどの恐ろしい姿の生物だった。その姿はまさに獣そのもので全身が毛で覆われており、目は赤く染まっていた。口には鋭い牙があり、そこからは唾液が垂れ流れている。さらに、その体の大きさは通常の人間と比べてかなり大きい。おそらく2メートル近くはあるだろう。
俺は一瞬にして状況を理解すると、男達に向かって叫んだ。ここは危険だ。逃げるぞ! すると、男は何かを悟ったのか、素直に従うと部屋の外に出ていった。それを見た俺も後に続く。すると、男も一緒に廊下に出た。
――なぜ、俺と一緒に行動するんだ? 俺は走りながら彼に問いかける。男は少し迷う仕草を見せると、
――あなたについていけば、この事態を引き起こした犯人を見つけられるかもしれないと思ったからです。
と答えると、俺に目を合わせた。そして、続ける。
――俺はこの病気が流行り出した頃からおかしいと思っていたんだ。こんなに急激に悪化するものなのかって。だから、あの施設を襲ったのも、俺を騙してウイルスを感染させたのも全てはお前の仕業なんじゃないのか!? 俺は無言のまま聞いていた。だが、同時に違和感を覚えていた。
それは、先程までの様子とはあまりにもかけ離れた言葉だったからだ。もし仮に男が真実を語ったとするならば、俺のことを疑ってもおかしくないだろう。
なのに、こいつはそんなこと一言も口にしなかった。ということは、恐らく……
――なるほど。どうやら嘘をついていたようだな。まぁいいさ。今は信じなくても構わないが後で後悔する羽目になるぜ? だが、彼は鼻で笑うと、 それはあり得ないでしょう?だって、あなたの仲間はあの部屋にいるのですよ? と、先程俺たちが出てきたばかりの部屋を指した。
そして、そのまま歩き始めると、その先にある曲がり角で立ち止まると、身を潜めた。
その視線を追うと、前方で争う人影を見つけることができた。そして、その人影がこちらに向かって走って来るのが見える。その数は5体ほどで性別は全て女性だった。そして、彼らの手には大きな鎌のようなものが握られていた。
――あれは屍鬼だ。
男はそう呟くと、その集団に向けて銃を放った。すると、先頭にいた一人の女性が崩れ落ちるようにして倒れていくのが見える。残りの4人は足を止めると、こちらに振り向いた。その表情は虚ろなままだ。
男はその様子を見ると舌打ちをした。どうやら仲間が殺られてしまったようだ。だが、屍鬼達の様子がおかしかった。こちらに敵意を感じなかったのだ。屍鬼はその場に立ち尽くすと動かなくなった。だが、しばらくすると、今度は互いに向かい合うような体勢になると、そのまま立ち止まってしまった。まるで睨み合いをしているかのように……
――何だこれは……
――分かりません。とにかく今の内にやり過ごしましょう。と男が言ってきたので俺は静かに従うことにした。
やがて彼らは通り過ぎていき姿が消えたので、ゆっくりと息を吐いて緊張を解く。そして、再び廊下に出ると美波がいるはずの病室に向かった。
5分ほどで目的地に到着すると、中から激しい戦闘音が聞こえてきたので、ドアを蹴り破るように開けると、すぐに中に踏み込んだ。
中に入るとそこには地獄が広がっていた。
美波がゾンビ達に囲まれていたのである。その体は傷だらけで至る所から血を流しているのが見えた。
美波は立ち上がることもできないようだったので、代わりに佐藤が前に立っていた。
男は銃を構えながら近づいていくと、突然動きを止めたかと思うと床に崩れ落ちてしまう。よく見ればその首筋に注射器が刺さっていた。そのせいか顔色は青白く、呼吸も荒かった。だが、男はそれを気にする様子もなく再び立ち上がった。そして、美波に近付くと、その肩に手を乗せた。
その瞬間に彼女は目を大きく見開くと、体を震わせ始めた。
そして、俺が近寄ろうとすると、美波はその手を払い除けた。そして、必死に男から離れようとするが、うまく体が動かないようであった。その間に男は再び彼女の元に戻ると、その手を掴んだ。「嫌だ……。来ないで……」と彼女が涙目になりながらも必死に懇願するが男は聞く耳を持たなかった。
俺は急いで駆け寄ると、男の手を振り払った。すると、美波がこちらに視線を向けた。
彼女は信じられないと言った様子でこちらを見ると震え始めた。そして、次の瞬間、
「助けて!!」と叫んで抱き着いてきた。
俺の体に顔を埋めるとその小さな体をさらに小さく丸めた。俺はそんな彼女を抱きしめると、頭を撫でてやった。すると、次第に落ち着きを取り戻したのかその震えが治まった。それからしばらくして顔を上げると、潤んだ瞳でこちらを見つめてくる。
大丈夫か?と尋ねてみると、「うん」と言ってから微笑んでくれた。俺は安心すると、その体を離した。そして、改めて佐藤の方を見る。すると、男はこちらに背を向ける形で横たわっていた。その背中には剣が深く突き刺さっており、そこからは大量の血液が流れ出していた。
――ありがとうございました。と佐藤はお礼を口にした。
それから少しの間を置いて口を開くと、
――もう気付いていると思いますが、私はあなたに嘘をついてました。本当は……
そこで言葉を切ると、天井を見上げた。俺はそれに釣られてそちらに目を向けてみた。
――実は、あの時……
男が話し終えると、安藤さんも黙ったままだった。
そして、俺は二人の話を聞き終わると大きなため息をついた。
なんてこった。俺はとんでもない勘違いをしていたらしい。まさか、二人が……
――えぇ。俺達は……
――感染者です。
安藤が先に口を開いた。そして、続けて、
――最初はお互いに疑心暗鬼になっていましたが、あなたのおかげで何とか理性を保つことができています。本当に助かりました。と、感謝された。俺は苦笑いを浮かべると、二人に向かって言った。とりあえずここから出る方法を考えないか? 俺がそう言うと、二人は素直に受け入れてくれたので廊下に出て、エレベーターを探すことになった。俺はその道中で高橋から質問を受けることになる。
――ところで一つ聞きたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?
――何ですか? と尋ねると、彼は真剣な眼差しを向けるとこう尋ねてきた。
――あなた方はいったい何者なんですか? どうして私達にここまで協力してくれるのですか?と聞かれたので、正直に答えることにした。――俺は警察です。
――警察官? すると、彼は驚いたように目を見開いた。
――ということは……
――この事態を引き起こした犯人を追っているのです。
――そうだったんですね。それで、犯人は?
――それは……
俺が言い淀んでいると、後ろから声がしたので振り返る。すると、佐藤が壁に寄りかかって立っていた。そして、俺がどうした?と尋ねても何も言わずにただこちらをじっと見つめるだけだった。俺は仕方なく前を向くと、高橋に答える。
すみません。まだ言えそうにありません。もう少し待ってください。
すると、彼はしばらく間を置くと、口を開きました。
――分かりました。
――でも、もしかしたらもう既に……
――どういう意味だ?
――いえ、何でもありません。と、彼は慌てて首を横に振ると、続けた。
――あなた方が何者でもいい。ただ、今度こそ本当のことを教えてください。
俺はそれに対しても返事をせずに歩き出した。
すると、その後ろから足音が聞こえたので、振り返ると美波が追いかけてきていた。俺は彼女と合流すると、三人で出口を探した。そして、階段を見つけたのでそこから下りることになった。
長い階段を慎重に降りていくと、ようやく地上に辿り着くことができた。
俺はホッと胸をなで下ろす。それから周囲を見渡してみるが、特に異変はなかった。
――このまま家に帰るぞ。
俺がそう言って踵を返すと、背後にいた二人もついてきたが、すぐに足を止めることとなった。なぜなら、目の前に一人の女性が立っていたからだ。
俺はその姿を確認すると、思わず絶句してしまった。
何故なら、そこにいたのは他ならぬ俺の妻だったからである。
――なんでここにいるんだ!? 俺が驚きながら一歩後ろに下がると、妻はゆっくりと歩み寄ってきた。
その表情は暗く、目は虚ろなままだ。そして、俺の姿を認めると、
――どうして逃げたの……
と、悲しそうな表情を見せた。
――逃げるって……
俺が戸惑っていると、美波が前に出てきた。そして、妻に向かって話しかける。
――お母さん!久しぶりだね!元気にしてた? だが、その言葉を聞いた瞬間に彼女の表情は一変した。
まるで化け物に遭遇したかのような恐怖の表情を見せると、その場にへたり込んでしまった。そして、ガタガタと震え始める。その様子は明らかに異常であった。まるで何かに怯えているようだった。
――美波、何やってんだよ?
――何って、久しぶりに会ったから挨拶をしただけだよ。
――何でこんなときにふざけてるんだ?
――別にふざけてなんかいないよ。だって、私があなたの奥さんなんだから。
美波はそう言うと、こちらに視線を向けた。
――ねぇ、お父さん。私たちがどんな気持ちだったか分かる? ずっと一人で寂しかったんだよね。
だから、これからは一緒に暮らそう。
そうすればきっと幸せになれるはずなの。
そうしないと、みんな不幸になっちゃうんだ。
だって、私たちは家族なんだよ? それなのにバラバラで暮らすなんておかしいじゃない。
そうでしょう? と、彼女は問いかけてきた。俺はそれを黙って聞いていたが、その表情はどんどん険しくなっていく。そして、拳を強く握りしめながら、ゆっくりと口を開いた。
――美波、お前が何を言っているのか分からない。――えっ……
――いい加減にしろ!! 俺は怒鳴ると、美波の頬を平手で叩いた。
彼女は地面に倒れ込むと、そのまま動かなかった。だが、やがてゆっくりと起き上がると、こちらに視線を向けてきた。その表情からは感情というものが抜け落ちており、まるで能面のような印象を受けた。
そして、こちらに向かってゆっくりと歩いてくると、手を伸ばしてきたので俺は身構えたが、その手を掴むことはなかった。美波はこちらの顔を覗きこむと、再び手を伸ばす。俺は反射的に避けようとしたが、その前に美波がこちらの腕を掴んだ。
そして、彼女は自分の胸に引き寄せると、そのまま抱きしめてきた。その行動に俺は困惑するしかなかった。だが、
「お父さん、会いたかった」と、彼女が耳元で囁いてきた瞬間に体が硬直した。それから、すぐに我に返ると彼女を突き放した。
――やめてくれ……。そんな目で俺を見るな……
――そんなこと言わないでよ。私は……
――お願いだ……。そんなことをしないでくれ……。
頼む……。と懇願するが、美波は再び近づいてきた。そして、その手が俺の首に伸ばされた瞬間に美波の動きが止まった。そして、目を大きく見開くと、俺を突き飛ばした。
「どうして……」と呟くと、その場に膝をつく。俺は急いで駆け寄ると、彼女の体を抱き起こした。
「私は……、私は……」と、彼女は苦しそうに呼吸をしながら涙を流し始めた。そして、震える声で言葉を紡ぐ。
「あなたと一緒に居られればそれでよかったのに……」
すると、彼女の背中に突き刺さっていた剣が突然消え去った。それと同時に美波の意識も途切れたのか、全身の力が抜けた。俺は彼女の体を離すと、その顔を見てハッとした。
彼女は怯えることなく、毅然な態度で言い放った。
屍鬼の王が何だというのです? 私は父のことが心配なんです。父が無事かどうか確かめたいだけなんです。
それが王の望みでもあるはずですよ? 私は自分の意思で行動します。たとえ王が相手でも、間違った考えに従うつもりはないです。
そうですか。残念です。
その瞬間、彼女の首筋に牙が突き立てられた。☆ 中村氏が彼女から離れたとき、その身体はすでに変化を始めようとしていた。
額からは二本のツノが生えてきており、瞳の色は赤く染まっている。
そして、口元からも牙が伸びつつあった。
僕はとっさに身構えたが、次の瞬間、彼は力なく崩れ落ちた。
どうやら、彼は自らの意思によってゾンビ化を止めたようだ。しかし、その代償として、激しい苦痛に襲われていることだろう。
僕は彼に駆け寄ろうとしたが、彼女がそれを制した。
近づかない方がいいですよ。
どういうことですか? 彼が人間であることは間違いありませんが、屍鬼である私の血を体内に取り込んだことで、屍鬼に近い状態になっています。
つまり、屍鬼になりかけているということでしょうか。
はい。このまま放っておくと、やがて完全な屍鬼になってしまいます。そうなれば、もう手遅れです。殺すしかなくなりますよ。
それを聞いて、僕は躊躇してしまった。しかし、中村氏がそれを望んでいないことは明らかだった。
やがて、中村氏は意識を取り戻した。そして、苦悶の表情を浮かべながら立ち上がると、ふらつく足取りで歩き出した。
待って下さい! 思わず呼び止めてしまった。
しかし、彼は立ち止まらなかった。
そのまま歩き続け、病院の外へと出ていった。
☆ その後、僕たちは中村氏を探し回ったが、ついに見つけることはできなかった。
しかし、僕たちは諦めずに捜索を続けることにした。
そして、ある日の夜、僕は夢を見た。
☆ 僕は病院の廊下を歩いていた。そして、目の前には一人の男性が立っていた。
中村氏だった。
彼は穏やかな笑みを浮かべていた。
しかし、その顔は青白くなっており、身体は腐り始めていた。
そんな状態でも、彼は笑顔を絶やすことはなかった。僕は怖くなった。早くここから逃げ出そうと思った。
ところが、身体が動かない。まるで金縛りにあったように動けなかった。
僕は必死にもがいたが、それでも動くことができなかった。
そして、目の前にいる中村氏が少しずつ近づいてきた。
彼はゆっくりと腕を伸ばし、僕の肩を掴んだ。
そして、さらに顔を近づけてくる。
僕は抵抗しようとした。だが、やはりできなかった。
やがて、中村氏の息遣いが聞こえるほど近くにまで迫ってきた。
その時、目が覚めた。
☆ 僕は慌ててベッドから抜け出すと、部屋を出て階段を下りた。そして、リビングに向かった。そこには誰もいなかった。
僕はほっとした。
すると、背後から声をかけられた。
おはようございます。
驚いて振り返ると、そこにいたのは七瀬さんだった。
僕は慌てて挨拶を返した。
それから、すぐにキッチンへと向かった。朝食の準備を始めるためだった。
すると、七瀬さんもついてきた。
僕の隣に立つと、彼女はてきぱきと動き始めた。
☆ その日の夕方、僕は七瀬さんと一緒に病院を訪れた。
病院の中は静まり返っていた。
僕たちは慎重に進んでいった。
病院の奥へと進んでいくと、一人の女性に出会った。彼女は僕たちの姿を見ると、ゆっくりと近づいてきた。
そして、僕たちに話しかけてきた。
こんにちは。あなたたちは誰ですか? 彼女は微笑みかけていたが、目は笑っていなかった。
僕たちが答えられずに戸惑っていると、彼女は急に態度を変えた。
まあ、いいわ。とにかく、今は時間が惜しいの。さっき、院長先生のお子さんの容態が急変したの。だから、急いで手術をしないといけないんだけど、手が足りないから手伝って欲しいのよ。
僕たちが承諾する前に、
「もちろんタダとは言わないわ」と言って、彼女は懐から銃を取り出した。
そして、その銃口を僕らに向けた。
僕は驚いた。なぜなら、その銃は明らかにモデルガンなどではなく、本物だったからだ。
「私の指示に従ってもらう代わりに、これを貸してあげる。どうする?」と彼女は言った。☆ 七瀬さんの提案により、僕たちは病院で働くことになった。
しかし、僕は迷っていた。僕なんかが役に立てるとは思えないのだ。
七瀬さんが僕を励ますようにこう言ってくれた。
大丈夫だよ。みんなが協力してくれてるんだから、
「がんばろう!」
そう言って彼女は微笑んだ。
その日以来、僕は毎日頑張っている。
お兄ちゃんも、頑張れ。
☆ そして、ある日の晩のこと、また例の夢を見た。
そこは見覚えのある場所だったが、どこかおかしかった。
その場所には見慣れないものが存在していた。それは、白い壁に覆われた小さな建物だ。
僕は建物の中に入った。
その内部は広く、薄暗かった。
そして、そこにはたくさんの人間が倒れていた。僕はその中に中村氏の姿を見つけた。彼も床の上に仰向けに横たわり、
「助けてくれ……誰か……」と呟いていた。その身体は腐敗しており、白骨化しかかっていた。その口元からは長い牙が突き出している。どうやら屍鬼化しているようだった。
彼のそばに近づくと、何かを握りしめていることに気がついた。
その手に握られていたものを見て、僕は目を見開いた。それは鍵のような形をした金属片だった。屍鬼の王から授かった"力の鍵 "と呼ばれているものだった。
どうしてこれがここに? そのとき、どこからか女性の声が聞こえてきた。
屍鬼の王が現れたのである。
王は僕の前に現れた。
「ようやく手に入れたぞ」王は満足そうに言うと、「お前はこれを使いこなすことができるかな? 」と言った。
どういう意味ですか? 僕の問いに対し、王は淡々と答えた。
お前の中にはすでに王の血が流れ始めている。だから、それを使うことができるはずなのだ。
僕はその言葉の意味を理解することができなかった。
ただ一つわかるのは、この男が人間ではないということだ。
王は僕の方へ手を伸ばした。その指先が触れる寸前で止まった。そして、ニヤリと笑うと、そのまま去っていった。
目が覚めると、僕は涙を流していたことに気がついた。
その日から、
「俺は屍鬼と戦うことができるのか」と自分に問いかけるようになった。
あの夜、俺と姉貴はコンビニにいた。
店の前に並べられたワゴンにはお菓子がぎっしりと詰まっていた。俺たちはそれを物色していたのだが、突然、店内の照明が消え、真っ暗闇に包まれてしまった。そして、店の奥の方で悲鳴があがった。
その瞬間、何者かに突き飛ばされ、床に転がった。何が起こったのか理解できず、ただ呆然とすることしかできなかった。
気がつくと、俺は意識を失っていたようだ。そして、目を覚ましたときには全てが終わっていた。
「……」
しばらく放心した後、立ち上がって店内に戻った。そこで見たのは地獄絵図だった。店内は荒らされ、あちこちで血を流しながら倒れた店員や客の死体が転がっていた。まるで戦場の跡地のような有様だ。
その中でただ一人生きている男がいた。
それは中村氏だった。しかし、彼は正気を失っており、血塗れの状態で襲いかかってきた。彼は持っていた包丁を振り回していたが、俺は何とか避けることができた。そして、反撃に出た。
「うぉおおおっ!」叫びながらタックルすると、相手を突き飛ばすことができた。しかし、その直後、
「がぁあああっ!!」彼は獣のように叫んだ後、飛びかかってきた。
その鋭い爪で引っ掻かれた。痛みで顔を歪めながらも必死で応戦したが、やがて劣勢に立たされることになった。
まずいな。そう思い始めた頃、ふいを突かれて腕を掴まれた。そして、そのまま持ち上げられてしまった。なんとか振り払おうとしたが、相手の力の方が上だった。そのまま壁に叩きつけられたが、離してくれることはなかった。それどころか、今度は身体を押し付けられてしまった。背中に鈍痛を感じた。どうやら、壁に押し付けられたようだ。
「がぁあああっ!!! 」中村氏は叫ぶと、さらに体重をかけてきた。肺の中の空気が押し出され、息苦しくなる。さらに首筋が圧迫されて、頭がぼうっとしてきた。このままではマズイと思った。
俺はとっさに足払いをかけた。それが成功したらしく、彼は前のめりになって倒れてくれた。
今のうちに逃げないと……。
「ぐぅ……がぁあああっ!!!」
立ち上がった瞬間、後ろから強烈な蹴りを食らってしまった。バランスを崩してしまい、床の上に倒れると、すぐに馬乗りになった彼に押さえ込まれてしまった。彼は血走った目でこちらを睨みつけると、その口からは唾液が垂れ流れていた。どうやら、理性を失くしてしまったらしい。彼は両腕で首を絞めようとしてきた。しかし、ギリギリのところで回避することができた。すると、すぐに別の攻撃に移った。拳を使って殴りつけてきたのだ。しかも、そのスピードは速く、一発殴られるごとに激痛に襲われた。だが、
「うおっ!」中村氏がよろめいたことで解放された。すかさず立ち上がると、彼に向かって走り出し、渾身のパンチをお見舞いしてやった。その一撃によって彼は吹き飛ぶと、棚に激突してその場に崩れ落ちた。
その隙に店の外へ出ると、全力疾走で逃げ出した。背後を振り返ると、中村氏が追ってくるのが見えた。彼は恐ろしい速さで接近してくると、ジャンプして襲い掛かってきた。
間一髪のところで避けることに成功したが、地面に着地した彼は即座に反転した。そして、再び突進を仕掛けてくる。
俺は慌てて方向転換すると、
「逃げろーっ!」と叫びながら、ひたすら走り続けた。だが、背後からは「ぐぅ……がぁあああッ!がぁあアッ!!」といった叫び声が響いていた。
それからしばらくして振り返ると、その姿を見つけることはできなかった。撒いたみたいだな。安心して前を向いた瞬間、目の前に人影が現れて思わず足を止めた。
それは姉貴だった。「あれ、どうしたの?」と尋ねてきた。
「そっちこそ、なんでこんなところにいるんだよ?」と尋ねると、
「忘れ物を取りに来たんだけど……」
「……え?」と呟いてから周囲を確認すると、確かに彼女の手にはコンビニの袋が握られていた。どうやら中身は菓子類らしい。そう言えばコイツは大の甘党だったな。そう思った途端、急に腹が減ってきた。そこで思い出したのは例の夢だ。もしかしたら、あの夢の通りに現実は進んでいるのではないか? だとしたら大変なことになる。俺は急いで夢の内容を話そうとしたが、姉は先に質問をぶつけてきた。
ねえ、何か変なものとか見なかった?
「変なもの? いや、特には見なかったけど……」
「そう、じゃあ良いわ」彼女はそう言うと、背を向けた。「早く帰るわよ」
そのとき、急に空が曇った。そして、強い風と共に雨が降り出した。俺たちは急いで自宅に向かったが、途中で彼女が「ちょっと待ってよ」と言い出して立ち止まった。
「どうしたの? 」
「あのさ……言いにくいんだけど、傘持ってないんだよね」彼女は困ったような表情を浮かべたあと、「アンタの服、濡れちゃっても構わない?」と言ってから笑った。
俺が無言のまま黙っていると、
「嫌ならしょうがないね」と残念そうに言った。「じゃあ、走ろうか」
「そうだな」と答えると、彼女と並んで走った。そして、数分後、家に到着すると玄関の扉を開けた。すると、その先ではすでに戦いが始まってしまっていた。「何やってんの?」という問いに対して、彼女はため息をつくと、「知らない。勝手に始まってたの」と答えた。
俺の目に映っていたのは、二人の人間が殺しあう姿だった。その光景を見て驚いた俺は固まってしまっていたが、その間にも激しい死闘は続いていた。一方はナイフを持っており、
「がぁああっ!」と雄叫びを上げながら相手を殺そうとしていた。もう片方は素手で相手を殴り続けていた。やがて、その攻防は決着がついたようで、片方は仰向けに倒れ込んだ。その身体はもうほとんど白骨化していた。もう一方はゆっくりと立ち上がると、
「終わったのか……」と呟き、その場に倒れ込むと、
「これでやっと終わるのか……」と口にした後、白骨化し始めていた自らの手を眺めながら、静かに息を引き取った。その様子を見た姉貴が悲しそうな声でこう呟いた。
ごめんなさい……お疲れ様です。そして……本当に……ありがとう……ございます……
俺はそんな彼女たちを見ていた。
そして、ふと思った。もしも……仮にだけど……自分が屍鬼に殺されたとしたら、俺は誰に殺されるんだろう? 美波か?それとも……アイツか? 中村氏が死んだ数日後のことだった。彼の死はニュースで報道されたのだが、その際、
「屍鬼による襲撃」というテロップが画面に表示されていた。俺はこの事実に衝撃を受けたのだが、同時に「やっぱりか」という気持ちもあった。屍鬼とは人間の成れの果ての姿なのだと知ったからだ。おそらく、この世界に存在するほとんどの人間は感染しており、いつか必ず屍鬼になるはずだ。だから、
「俺はいつ死んでも良いのか」と考えたこともある。だが、その時に思い浮かぶ顔はやはり姉貴の顔だけだった。
俺はいつも通りの生活を送っており、学校へ行ったりバイトをしたりを繰り返していた。屍鬼は人間を襲う。しかし、その数は減ってきている。なぜなら、屍鬼の数が減ったのではなく、人間側が少しずつ増えているからである。だから、俺たちは生き残ることができた。
そんなある日のことだ。その日、バイトの帰り道で、
「やあ、久しぶり」と背後から声を掛けられた。その人物には心当たりがあった。
「まさか……お前が犯人なのか?」
次回で完結します(予定)
振り向くとそこには男が立っていた。年齢は20代後半くらいだろうか。身長はそれほど高くはなく、中肉中背といった印象を受ける。黒縁の眼鏡を掛けており、髪の毛は短めで爽やかな感じがする。服装は白いシャツの上にグレーのジャケットを羽織っており、下の方で紺色のズボンを穿いている。
「まあ、落ち着けって。とりあえず話をしようじゃないか」彼は笑顔で言うと、近くのベンチまで移動して腰掛けた。「君は座らないのか?」
「ああ、うん。大丈夫だよ」俺は少し躊躇ったが、結局は彼の隣に並んで座ることにした。「で、なんの話なんだ?」と尋ねると、彼は小さく笑いながらこう答えた。「何が聞きたいのかな?」
そう言われると、逆に戸惑ってしまう。しかし、なんとか言葉を探し当てると、それを口に出すことができた。
「どうして、こんなことをしたんだ?」
すると、男は不思議そうな顔をしたあと、口元を歪めて「どうしてだと思う?」と言った。
「えっ?」予想外だったので動揺してしまった。
「分からないなら教えてあげよう。それはね……」と言いかけたところで突然口を閉じた。そして、そのまま立ち上がると、「じゃあ、また今度会おう」と告げて去っていった。「おい、ちょっと待ってくれ」と言うと、慌てて立ち上がり、その後を追ったが、
「くそっ」既に彼の姿を見つけることはできなかった。
翌日、俺は再び病院へと向かった。今日はバイトがなく暇だった。なので、ふと思い立ったのだ。昨日の男の正体を突き止めるためにもう一度調べなおしてみようと……。院内に入ると同時に前回と同様に視線を感じたが、気にせず奥に進んだ。そして、
「あっ!」受付のところで立ち止まると思わず叫んでしまった。その理由はそこに見覚えのある人物が立っていたからだった。それは、昨日に俺と会話した男だった。俺は彼に近づくと、「君か?」と尋ねた。
「ん? どうしたんだ?」と尋ね返されたので、事情を説明した。すると、彼は苦笑してからこう答えた。
「なるほどね。分かったよ。確かに君の言うとおりだ。私は昨晩、この病院にいたんだよ」
彼は中村氏が入院していた部屋の前に立つと、「こっちに来てくれ」
「え?」と呟くと、彼はニヤリと笑った。
「中村さんの件を調べているんだろう?なら、その謎を解くことができるかもしれない。ただし、それを知ってしまった以上、君には真実を知る権利がある」
俺は黙ったまま彼を見つめていた。彼は真剣な眼差しでこちらを見つめ返してきた。そして、しばらくしてから再び口を開いた。
「いいだろう。まずは私について話そうか。私は中村さんと同じ病院で医者をやっていた者だ」彼はそう言うと、ポケットの中から一枚の写真を取り出し、こちらに見せてきた。「これが私の本当の姿さ」
写真には白衣を着た男性の姿とIDカードのようなものが写っていた。「どういうことなの? つまり、貴方は屍鬼ではないということ?」
「いや、違うよ。もちろん屍鬼さ。ただ、普段は人間の姿をしているんだ。ちなみに名前は山田という」
次回は最終話になります。ここまで読んでいただきありがとうございました。あと少しだけ、
「屍鬼は人間の死体を材料として生まれ変わる存在なんだけど、稀に普通の人間の死体を原料にすることもあるんだ。それはね、自分の身体の一部を犠牲にした場合と、相手の血を利用する場合とに分かれるんだよ。だから、私の場合は前者ということになるね」
俺は話を聞きながらも、頭の中で状況を整理しようと必死になっていた。しかし、うまく纏まらなかったので質問をぶつけた。
「でも、なんのためにそんなことをする必要があるんだよ?」
「理由は単純明快だよ。人間の肉体を利用して蘇った者は屍鬼の中でも特別な能力を持っていることが多いんだ。例えば、私の場合だと……」
「ちょ、ちょっと待って」と遮ると、疑問を投げかけた。「その話が本当だとしたら、アンタは中村氏を殺した張本人だということじゃないのか?なのに、どうしてここに立っているんだ?おかしいじゃないか」
「そうだよ」彼はそう言うと、微笑を浮かべながら続けた。「だからこそ、真相を知りたいと思わないかい? このままでは君はずっと悩んでいることになる」
「そう言われても……」
「それにさ、ここで真実を知ったとしても何も変わらないよ。むしろ、知るべきだとさえ思う」
俺は俯いて考え込んだあと、
「じゃあ、見せてくれよ」と口にした。
「いいよ」
彼がそう言うと、突如、目の前の空間が歪んだ。そして、しばらく時間が経過した後、俺たちの前には1人の女性が立っていた。年齢的には20代半ばから後半くらいだろうか。髪の毛は短く切り揃えられており、瞳は切れ長でキリッとしている。
彼女は俺のほうを見ると、驚いたような表情を浮かべたあと、
「……アンタがやったの?」と尋ねた。
「まさか、冗談は止めてください」と答えると、
「冗談なんかじゃないわ」
「え?」
「本当に信じてもらえないかもしれないけど、本当にアタシが中村をやったの」
「そんな馬鹿なことってあるわけないでしょう?」
「あるのよ」彼女はそう言うと、自らの首筋に触れた。
そこには大きな傷跡が残っていた。
「アタシは中村が憎かった。アイツのせいで仕事を辞める羽目になったの」
彼女は語り始めた。
「アイツは最低の男だった。アタシと付き合っていたときも浮気ばかりしていたし、金遣いも荒くていつも飲み歩いていた。本当に酷い男だったの」
「それで?」
「だから、アイツが他の女と寝ているところを見つけて殺したの。アタシがどれだけ苦しんだかも知らずにのうのうと生きていたのが許せなかったの」
「なるほどね」
「アイツの身体をバラバラにして家に持ち帰って肉を切り取って食べたの。そうしたら、なぜか急に気分が良くなって、とても落ち着いたの。それ以来、肉を食べていないと不安で仕方なくなったの」
「じゃあ、この前食べていたのは?」
「あれは……我慢できなくなって襲っちゃったの。あのときはごめんなさい」
「そういうことだったのか」
「もう良いよね?」
「ああ、ありがとう」
俺は彼女の姿が見えなくなるまで見送った。
それから数ヶ月後のことだった。
「ねえ、聞いた?」と姉貴が話しかけてきた。
「何の話?」
「ほら、前に話した中村さんのこと」
「ああ、その人がどうかしたの?」
「実はね、最近になって彼の遺族が遺体を発見したらしいの。だから、今は火葬されて骨壺に入っているって」
「そうなんだ」
「でね、問題なのは彼の遺品の中に奇妙なものが混ざっていたみたいなんだって」
「何があったの?」
「それがね、血液を保管するパックが見つかったらしくてね」
「へえー」
「でね、その中にはね……」
姉の話はそこで途切れた。なぜなら、彼女が突然倒れてしまったからだ。俺は慌てて救急車を呼んだ。
そして、数日後、
「大丈夫か?」と声を掛けた。
「うん」と弱々しい声で返事があった。
「ところで、具合はどうなんだ?」
「まあまあかな」
「そうか。じゃあ、俺は帰るから」
「うん」
「元気でな」
「ありがとう」
こうして、俺たちは別れた。
「あのとき、君になんて声を掛ければ良かったのかな?」
俺は呟くと、病院を後にした。
ゾンビ・クライシス 了 最後まで読んでいただきありがとうございました。
また機会があればよろしくお願いします。
俺は昔から運が悪い。
小さい頃に行った遊園地のジェットコースターで気絶して落ちたり、プールの授業で溺れたり、修学旅行先で大雨が降ってきて帰れなくなったりと、様々な不運に見舞われてきた。
だから、
「おめでとうございます! あなたは転生者に選ばれました!」
と女神っぽい人(羽とか生えてる)が現れた時は、
「……ついにこの時が来たか」
と俺は悟った。
そう、俺は死んだのだ。死因は不明。
だが、今となってはそれもいい思い出だ。
なぜなら、俺は今から異世界で第二の人生を送ることが出来るのだから。
「それでは早速ですが、転生の準備を始めましょう!」
「おう!」
俺は勢いよく返事をした。
そう、これから楽しい異世界生活が始まるのだ――。
「それじゃあ、そろそろ行きますか」
俺はそう言うと歩き出した。すると、後ろから呼び止められた。
「待ってくれ!」
「ん? どうした?」
振り返ると、男が立っていた。
「その、俺にも協力させてくれ」
「協力?」
「俺の名前は高橋裕司。君と同じ大学の2年生だ」
「俺と同じ大学? 俺と会ったことあったっけ?」
「いや、ないよ。君と話したのは今日が初めてさ」
「だったらなんで?」
「それは……」
と高橋は言葉に詰まった。すると、横から別の男の声が聞こえてきた。
「俺からも頼む」
声の主は大柄な男だった。筋肉質な体つきをしており、まるでプロレスラーのような風貌をしている。
「俺の名は佐藤和真。高橋と同じサークルのメンバーだ」
「サークル?」
「ああ、俺はプロレス研究会に所属しているんだ」
「なるほど、だからそんな体格なのか」
「そんなことより、話を戻してくれ」
「そうだな。で、なんで俺に協力してくれるんだ?」
「それは……」
と再び言い淀む高橋。そして、佐藤が口を開いた。
「俺はお前の力になりたいんだ」
「力?」
「ああ、俺は大学でプロレス同好会に所属していたんだが、最近は練習がつまらなくてな。そんな時、高橋と出会ったんだ」
「つまり、友達である高橋のために俺に協力したいということか」
「ああ、そうだ」
「悪いが断る」
「な、なぜ!?」
「理由は二つある。まず、俺は一人の方が動きやすい。それに……」
「それに?」
「俺は団体行動が苦手なんだよ」
「でも、君一人では危険だろう?」
「心配ないさ。こう見えても喧嘩には自信があるんだ」
そう言って俺は笑みを浮かべた。しかし、二人は顔を見合わせると、すぐに真面目な表情になった。
「分かった。じゃあせめて俺たちを君の旅に連れて行ってくれないか?」
「は?」
「俺は君に命を救われた。だから、俺の命は君のものだ」
「いや、それは……」
「もちろんタダでとは言わない。俺は君のために何でもしよう」
「……なんでも?」
「ああ、どんなことでも言ってくれ」
「じゃあ、とりあえずパンツ脱いでくれる?」
「え……」
「冗談だよ」
「そう……だよな」
「ああ、もちろん冗談だよ」
と笑顔で言うと、二人の顔がみるみると青ざめていった。
「それで、あんたらは何が出来るんだ?」
「俺と高橋は空手部に所属している」
「そうか。で、さっきの話に戻るが、俺は個人プレーで行動する。だから、協力してもらう必要はないよ」
「個人プレー? どういうことだ?」
「俺は誰にも縛られない。俺は自由に生きるんだ」
「自由な生き方か……。素晴らしいな」
「そうか? 普通だと思うけど」
「いや、とても真似できないよ」
「そうか? 別に普通のことをしているだけなのに」
「いや、本当に凄いよ。尊敬に値する」
と高橋は熱弁し始めた。その隣で佐藤は黙って何度もうなずいている。そして、30分程話し込んだ後、ようやく二人が落ち着きを取り戻したので、俺達は別れることになった。ちなみに、俺達が話していたのは公園のベンチであり、辺りは既に暗くなっていた。
そして、それから3ヶ月が経った。その間、俺は毎日街に出掛け、ひたすらゾンビ達を殺し続けた。そして、気付けばこの街で一番の有名人になっていた。そんなある時のこと……
『おい見ろよ』と一人の男が言った。その視線の先にはボロ布をまとった小さな女の子がいた。
『本当だ。親はいないのか?』
『多分どこかに隠れているんだろうぜ。ほら、見てみな。あの子の足下。靴を履いていないじゃないか』
確かに少女の足元を見ると裸足のままだった。
『マジかよ。かわいそうに……』
『全くだ。こんな世の中になったっていうのに……』
と男達の会話を聞いていると、「助けて……」と少女が呟いた。
「助けて?」と俺は首を傾げた。
「お願い……」と少女が言うと、
「任せておけ」と男の一人が言った。
そして、男はそのまま少女に向かって走り出すと、思いっきり蹴り飛ばした。
「キャッ」と悲鳴を上げて倒れる少女。
「何してるの?」と俺は尋ねた。
「決まってるだろ。こいつを助けるのさ」
「どうやって?」
「殺すのさ」
「は?」
「いいから早く手伝え」
と男は言うと俺の手を引いて歩き出した。そして、少女を蹴った男がナイフを取り出すと、少女の首筋に押し当てた。少女の顔が恐怖で歪む。それを見た俺の中で何かが弾けた気がした。次の瞬間、俺は男に飛び掛かると地面に組み伏せていた。そのまま、首元に剣を突きつける。
「動くなよ。動いたらこの子を殺すぞ」
と俺が脅すと、その場に居た全員の動きが止まった。俺は少女に目を向けると、
「大丈夫か?」と声を掛けた。
「は、はい」
と怯えながら返事をする少女。俺は微笑むと、
「今から安全な場所まで連れて行ってやるからな」と言った。
「え?」と少女が不思議そうな顔をする。
「どうした? 嫌なのか?」
「いえ、そうじゃなくて……」
「なら行くぞ」と言って俺は立ち上がった。すると、男の一人が口を開いた。
「お、俺らはどうなるんだ?」
「どうなるって?」
「このままだと殺されるだけだろ?」
「いや、俺が逃すから問題ない」
「え? 本当か?」
「ああ、だからお前らも付いてこい」
と俺が言うと、
「よし、分かった」と男が言った。
「俺は佐藤和真だ。君は?」
「俺は田中太郎だ」
「よろしく頼む」
「ああ、よろしく」
こうして、俺は新たな仲間を得た。
「ねえ、お願いします」
と先程の少女が頭を下げてきた。現在、俺達はゾンビが徘徊していない街の中を歩いていた。
そして、俺はゾンビから逃げ延びた生存者を探していたのだ。
しかし、 《ゾンビが近くにいます》 というメッセージが視界の端に表示されたかと思うと、俺は咄嵯に身を屈めた。その直後、ゾンビの姿が現れた。俺はゾンビの背後に回り込むと、剣を振り下ろした。すると、あっさりとゾンビの頭が切断され、地面に転がった。それを見て、俺は息を吐くと、振り返った。すると、目の前に男が迫ってきていたので、慌てて飛び退いた。直後、男の拳が空を切る。俺は体勢を整えると、腰に差していた銃を取り出した。そして、引き金を引くと、銃弾が放たれた。しかし、弾丸は男の横を通り過ぎていった。どうやら外れたらしい。俺は舌打ちすると、再び銃撃した。今度は命中した。だが、それでも相手は倒れなかった。
すると、横から声が聞こえた。
――スキル〈アクセル〉を習得しました。
――〈アクセル〉は身体能力を向上させます。
――使用するにはSPを消費します。
――使用回数に制限はありません。
――発動すると、時間の流れが遅くなります。
――また、攻撃を受ける直前に使用することで、回避することができます。
――以上です。
――スキルを発動すると、あなたは超人的な能力を手に入れることができます。
――ただし、その代償としてあなたの体は壊れていきます。
――ご利用は計画的に。
俺は〈アクセル〉を使用した。すると、世界がスローモーションのようにゆっくりと動き始めた。俺は男に近付くと、その胸ぐらを掴んだ。そして、力一杯引き寄せると、顔面に膝を叩き込んだ。男は鼻血を出しながらも俺の腕を掴むと、背負い投げをした。しかし、俺は空中で体を捻って着地した。そして、すぐさま相手の懐に入ると、顎に掌底を放った。
俺は素早く立ち上がると、再び攻撃を仕掛けようとした。しかし、男は俺の手首を掴み、それを阻止してきた。俺は力ずくで振りほどこうとするが、ビクともしない。俺は仕方なく距離を取ると、再び〈アクセル〉を使った。
俺は一気に間合いを詰めると、男の腹に前蹴りを食らわせた。すると、男は吹き飛ばされ、地面の上を転がり回った。俺は追撃しようと駆け寄るが、途中で足を止めた。なぜなら、男が立ち上がり、こちらに向かってきたからだ。俺は冷静に対処しようとするが、次の瞬間、背後から声が響いた。
――スキル〈バックステップ〉を習得しました。
俺は後ろに飛ぶと、一瞬にして男との距離を取った。
危ないところだった。もし、あのタイミングであの技を使っていなかったら、確実に負けていただろう。俺は改めて気を引き締めた。そして、構え直すと、静かに呼吸を整えた。
――〈アクセル〉の効果は切れました。
と脳内にメッセージが流れた。
俺は深く深呼吸すると、全神経を集中させた。そして、目を閉じて相手の動きを探る。しばらく時間が経つと、俺は目を見開いた。すると、男は既に眼前まで迫ってきていた。
俺の反射速度を超えた速度での攻撃だ。普通ならば対応できないだろう。
だが、俺には奴の動作が見えていた。俺は紙一重で攻撃をかわすと、カウンターで右ストレートを決めた。男は数メートル吹っ飛んだ後、地面に叩きつけられた。俺は急いで駆け寄ろうとするが、途中で立ち止まると後ろに飛び退く。次の瞬間、俺が立っていた場所に男の拳が通り過ぎた。俺は大きく後退し、十分な距離をとると、
「おいおい。マジかよ」と思わず呟いた。なんと、既に男は起き上がっていたのだ。そして、ニヤリと笑うと、そのまま真っ直ぐ突進してくる。そのスピードは先程とは比べものにならないぐらい速い。俺の反応できる限界を超えているため、とてもじゃないが、避けることができない。なので、俺はあえてその場に留まった。男が迫る。その拳は空気を貫き、まるで死神の鎌のように俺の首を斬り裂こうとしているのが分かる。だが、俺はまだ死んでいない。そして、俺の体に触れる直前で男の体がピタリと停止した。
「なんだこれ!?」
と男は驚きの声を上げると、なんとか動こうと試みるが、その身体は微塵も動かない。俺は剣を取り出すと、その首に突きつけた。
「おい。死にたくなければ答えろ」
「……」
「あの女の子はどこに行った?」
「……」
「言わないと、その首落とすぞ」
「分かった。教える。だから殺さないでくれ」
と男は震えながら言ってきた。
「それでどこに行った?」
「この先の病院にいるはずだ」
「この先?」
「そうだ」
「なぜだ?」
「この辺りにゾンビはいないから安全なんだよ」
「嘘だな」
「え?」
「本当は違うんだろう?」
「そ、それは……」
「早く話せ」
「実は……」
と男は語り出した。彼は元々ある研究所で働いていた研究員だったが、ある時を境に研究所を飛び出した。理由は分からないが、家族を人質に取られていたらしく、仕方なく従うことにしたようだ。そして、とある研究を行っていた。内容は"人間を屍鬼へと変える薬の開発"である。
ある日のこと……
「所長」
と若い男が部屋に入ってきた。
彼の名は田中太郎といった。
太郎はドアの前に立つと、そのまま立ち尽くしていた。すると、奥の部屋から白衣を着た中年男性が出てきた。
――田淵秀彦だ。
秀彦は机の上にあった資料を手に取ると、パラパラとページを捲り始めた。そして、やがてあるページで手を止めた。
そこには人間の遺伝子情報が記載されていた。
そこに書かれていたのは……
"人間の脳細胞には無限の可能性がある! それを活かすことができれば人類はさらなる進化を遂げるに違いない。そう例えば、人を操ることのできるような力だ。そのための研究をしようではないか。君達も協力してくれないか?"という文字だ。
それを見た瞬間、秀彦は狂気に満ちた笑みを浮かべた。
その後、彼らは秘密裏に行動を開始した。まずは手始めに、近くの村に住む村人全員の遺伝子情報を入手することに成功した。さらに、近隣の住民や感染者からサンプルを入手し、実験を続けた。そして、遂に完成したのだ。人の思考をコントロールする秘薬が。
その効力を確認した秀彦達は喜びに満ち溢れていた。
だが、それも束の間の出来事だった。突然、研究所が何者かに襲撃されたのである。研究所はあっけなく破壊されてしまったが、かろうじて脱出に成功した者がいた。それが秀彦であった。
しかし、逃げている途中に運悪くウイルスを感染させてしまい、今に至るわけだ。
話を聞いた俺は舌打ちした。そして、怒りに任せたまま叫んだ。
――許せない……。
すると、男の首筋から剣が消えたと同時に〈アクセル〉の効果が終了したのか、男の速度が元に戻った。
俺はすぐに駆け寄ると、〈治癒活性〉を使用した。すると、男の傷がみるみると癒えていく。そして、完全に治療が完了すると、男は呆然としながら自分の体を眺めた。そして、信じられないと言った様子でこちらを見ていた。
俺は男から事情を聞くと、美波がいるはずの病室に向かった。
4階に着くと、先程の男の言葉通りならここに美波が監禁されているはずだった。しかし、その部屋の前では激しい戦闘が行われていた。
扉が開き、中からは二人の男女が現れた。男は身長が180センチほどあり、鍛え抜かれた筋肉を持っていた。女の方はその男の胸板に寄りかかるようにしている。
すると、男はこちらに気付いたようで話しかけてきた。
――佐藤和真だ。
――スキル〈アクセル〉を習得しました。
俺が自己紹介を終えると、男はすぐに俺の背後にいる男に視線を向けた。
俺の仲間です。と言うと、二人は警戒心を解いた。
そして、男の名前は高橋健太といい、女性は安藤加奈子だという。
俺達が話し合っている間、男はずっと下を向いて黙っていた。すると、不意に女性が近付き、その肩に両手を乗せた。その直後、男の目から涙がこぼれ落ちた。俺は慌てて振り返ると、彼女は首を横に振った。そして、男から離れるとこちらに向かって歩いてきた。すると、彼女が俺の隣に立った瞬間、男はその場に泣き崩れるように座り込んだ。
俺は彼女に頭を下げると、男に尋ねた。
美波はどこにいますか? すると、男はこちらを見上げると、 美波ちゃんはもうダメかもしれません。
俺は男の顔を見る。その顔は悲しみに歪んでいた。
俺はその言葉を否定できなかったので黙っていると、男が語り始めた。
実は彼女には好きな男がいたんです。でも、その男にはすでに別の女性がいました。それでも諦められなかったんですよね。それで、無理矢理襲おうとしたら逆に返り討ちにあったらしいです。それからは彼女のことが怖くて近付けずにいたのですが、最近になって再び好きになってしまったようです。それで、思い切って告白してみたらなんとOKされたみたいで……それで、昨日ついに初デートに出かけたみたいなんですけど、途中で事件に巻き込まれたらしくて、そこで例の男に助けてもらったとか言ってました。ただ……
そこまで言うと男はまた口を閉ざしてしまった。
――まさか!? と嫌な予感が脳裏を過る。そして、恐る恐る尋ねてみる。――襲われたのはいつですか?
――3時間前です。
俺は絶句すると、すぐに踵を返そうとした。
だが、その時、背後から女性の叫び声が聞こえたので思わず立ち止まった。
声がしたのは病室の中だった。俺がそちらに目を向けると、ベッドの上に美波の姿があった。そして、彼女を取り囲んでいるのは先程までの二人とは比較にならないほどの恐ろしい姿の生物だった。その姿はまさに獣そのもので全身が毛で覆われており、目は赤く染まっていた。口には鋭い牙があり、そこからは唾液が垂れ流れている。さらに、その体の大きさは通常の人間と比べてかなり大きい。おそらく2メートル近くはあるだろう。
俺は一瞬にして状況を理解すると、男達に向かって叫んだ。ここは危険だ。逃げるぞ! すると、男は何かを悟ったのか、素直に従うと部屋の外に出ていった。それを見た俺も後に続く。すると、男も一緒に廊下に出た。
――なぜ、俺と一緒に行動するんだ? 俺は走りながら彼に問いかける。男は少し迷う仕草を見せると、
――あなたについていけば、この事態を引き起こした犯人を見つけられるかもしれないと思ったからです。
と答えると、俺に目を合わせた。そして、続ける。
――俺はこの病気が流行り出した頃からおかしいと思っていたんだ。こんなに急激に悪化するものなのかって。だから、あの施設を襲ったのも、俺を騙してウイルスを感染させたのも全てはお前の仕業なんじゃないのか!? 俺は無言のまま聞いていた。だが、同時に違和感を覚えていた。
それは、先程までの様子とはあまりにもかけ離れた言葉だったからだ。もし仮に男が真実を語ったとするならば、俺のことを疑ってもおかしくないだろう。
なのに、こいつはそんなこと一言も口にしなかった。ということは、恐らく……
――なるほど。どうやら嘘をついていたようだな。まぁいいさ。今は信じなくても構わないが後で後悔する羽目になるぜ? だが、彼は鼻で笑うと、 それはあり得ないでしょう?だって、あなたの仲間はあの部屋にいるのですよ? と、先程俺たちが出てきたばかりの部屋を指した。
そして、そのまま歩き始めると、その先にある曲がり角で立ち止まると、身を潜めた。
その視線を追うと、前方で争う人影を見つけることができた。そして、その人影がこちらに向かって走って来るのが見える。その数は5体ほどで性別は全て女性だった。そして、彼らの手には大きな鎌のようなものが握られていた。
――あれは屍鬼だ。
男はそう呟くと、その集団に向けて銃を放った。すると、先頭にいた一人の女性が崩れ落ちるようにして倒れていくのが見える。残りの4人は足を止めると、こちらに振り向いた。その表情は虚ろなままだ。
男はその様子を見ると舌打ちをした。どうやら仲間が殺られてしまったようだ。だが、屍鬼達の様子がおかしかった。こちらに敵意を感じなかったのだ。屍鬼はその場に立ち尽くすと動かなくなった。だが、しばらくすると、今度は互いに向かい合うような体勢になると、そのまま立ち止まってしまった。まるで睨み合いをしているかのように……
――何だこれは……
――分かりません。とにかく今の内にやり過ごしましょう。と男が言ってきたので俺は静かに従うことにした。
やがて彼らは通り過ぎていき姿が消えたので、ゆっくりと息を吐いて緊張を解く。そして、再び廊下に出ると美波がいるはずの病室に向かった。
5分ほどで目的地に到着すると、中から激しい戦闘音が聞こえてきたので、ドアを蹴り破るように開けると、すぐに中に踏み込んだ。
中に入るとそこには地獄が広がっていた。
美波がゾンビ達に囲まれていたのである。その体は傷だらけで至る所から血を流しているのが見えた。
美波は立ち上がることもできないようだったので、代わりに佐藤が前に立っていた。
男は銃を構えながら近づいていくと、突然動きを止めたかと思うと床に崩れ落ちてしまう。よく見ればその首筋に注射器が刺さっていた。そのせいか顔色は青白く、呼吸も荒かった。だが、男はそれを気にする様子もなく再び立ち上がった。そして、美波に近付くと、その肩に手を乗せた。
その瞬間に彼女は目を大きく見開くと、体を震わせ始めた。
そして、俺が近寄ろうとすると、美波はその手を払い除けた。そして、必死に男から離れようとするが、うまく体が動かないようであった。その間に男は再び彼女の元に戻ると、その手を掴んだ。「嫌だ……。来ないで……」と彼女が涙目になりながらも必死に懇願するが男は聞く耳を持たなかった。
俺は急いで駆け寄ると、男の手を振り払った。すると、美波がこちらに視線を向けた。
彼女は信じられないと言った様子でこちらを見ると震え始めた。そして、次の瞬間、
「助けて!!」と叫んで抱き着いてきた。
俺の体に顔を埋めるとその小さな体をさらに小さく丸めた。俺はそんな彼女を抱きしめると、頭を撫でてやった。すると、次第に落ち着きを取り戻したのかその震えが治まった。それからしばらくして顔を上げると、潤んだ瞳でこちらを見つめてくる。
大丈夫か?と尋ねてみると、「うん」と言ってから微笑んでくれた。俺は安心すると、その体を離した。そして、改めて佐藤の方を見る。すると、男はこちらに背を向ける形で横たわっていた。その背中には剣が深く突き刺さっており、そこからは大量の血液が流れ出していた。
――ありがとうございました。と佐藤はお礼を口にした。
それから少しの間を置いて口を開くと、
――もう気付いていると思いますが、私はあなたに嘘をついてました。本当は……
そこで言葉を切ると、天井を見上げた。俺はそれに釣られてそちらに目を向けてみた。
――実は、あの時……
男が話し終えると、安藤さんも黙ったままだった。
そして、俺は二人の話を聞き終わると大きなため息をついた。
なんてこった。俺はとんでもない勘違いをしていたらしい。まさか、二人が……
――えぇ。俺達は……
――感染者です。
安藤が先に口を開いた。そして、続けて、
――最初はお互いに疑心暗鬼になっていましたが、あなたのおかげで何とか理性を保つことができています。本当に助かりました。と、感謝された。俺は苦笑いを浮かべると、二人に向かって言った。とりあえずここから出る方法を考えないか? 俺がそう言うと、二人は素直に受け入れてくれたので廊下に出て、エレベーターを探すことになった。俺はその道中で高橋から質問を受けることになる。
――ところで一つ聞きたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?
――何ですか? と尋ねると、彼は真剣な眼差しを向けるとこう尋ねてきた。
――あなた方はいったい何者なんですか? どうして私達にここまで協力してくれるのですか?と聞かれたので、正直に答えることにした。――俺は警察です。
――警察官? すると、彼は驚いたように目を見開いた。
――ということは……
――この事態を引き起こした犯人を追っているのです。
――そうだったんですね。それで、犯人は?
――それは……
俺が言い淀んでいると、後ろから声がしたので振り返る。すると、佐藤が壁に寄りかかって立っていた。そして、俺がどうした?と尋ねても何も言わずにただこちらをじっと見つめるだけだった。俺は仕方なく前を向くと、高橋に答える。
すみません。まだ言えそうにありません。もう少し待ってください。
すると、彼はしばらく間を置くと、口を開きました。
――分かりました。
――でも、もしかしたらもう既に……
――どういう意味だ?
――いえ、何でもありません。と、彼は慌てて首を横に振ると、続けた。
――あなた方が何者でもいい。ただ、今度こそ本当のことを教えてください。
俺はそれに対しても返事をせずに歩き出した。
すると、その後ろから足音が聞こえたので、振り返ると美波が追いかけてきていた。俺は彼女と合流すると、三人で出口を探した。そして、階段を見つけたのでそこから下りることになった。
長い階段を慎重に降りていくと、ようやく地上に辿り着くことができた。
俺はホッと胸をなで下ろす。それから周囲を見渡してみるが、特に異変はなかった。
――このまま家に帰るぞ。
俺がそう言って踵を返すと、背後にいた二人もついてきたが、すぐに足を止めることとなった。なぜなら、目の前に一人の女性が立っていたからだ。
俺はその姿を確認すると、思わず絶句してしまった。
何故なら、そこにいたのは他ならぬ俺の妻だったからである。
――なんでここにいるんだ!? 俺が驚きながら一歩後ろに下がると、妻はゆっくりと歩み寄ってきた。
その表情は暗く、目は虚ろなままだ。そして、俺の姿を認めると、
――どうして逃げたの……
と、悲しそうな表情を見せた。
――逃げるって……
俺が戸惑っていると、美波が前に出てきた。そして、妻に向かって話しかける。
――お母さん!久しぶりだね!元気にしてた? だが、その言葉を聞いた瞬間に彼女の表情は一変した。
まるで化け物に遭遇したかのような恐怖の表情を見せると、その場にへたり込んでしまった。そして、ガタガタと震え始める。その様子は明らかに異常であった。まるで何かに怯えているようだった。
――美波、何やってんだよ?
――何って、久しぶりに会ったから挨拶をしただけだよ。
――何でこんなときにふざけてるんだ?
――別にふざけてなんかいないよ。だって、私があなたの奥さんなんだから。
美波はそう言うと、こちらに視線を向けた。
――ねぇ、お父さん。私たちがどんな気持ちだったか分かる? ずっと一人で寂しかったんだよね。
だから、これからは一緒に暮らそう。
そうすればきっと幸せになれるはずなの。
そうしないと、みんな不幸になっちゃうんだ。
だって、私たちは家族なんだよ? それなのにバラバラで暮らすなんておかしいじゃない。
そうでしょう? と、彼女は問いかけてきた。俺はそれを黙って聞いていたが、その表情はどんどん険しくなっていく。そして、拳を強く握りしめながら、ゆっくりと口を開いた。
――美波、お前が何を言っているのか分からない。――えっ……
――いい加減にしろ!! 俺は怒鳴ると、美波の頬を平手で叩いた。
彼女は地面に倒れ込むと、そのまま動かなかった。だが、やがてゆっくりと起き上がると、こちらに視線を向けてきた。その表情からは感情というものが抜け落ちており、まるで能面のような印象を受けた。
そして、こちらに向かってゆっくりと歩いてくると、手を伸ばしてきたので俺は身構えたが、その手を掴むことはなかった。美波はこちらの顔を覗きこむと、再び手を伸ばす。俺は反射的に避けようとしたが、その前に美波がこちらの腕を掴んだ。
そして、彼女は自分の胸に引き寄せると、そのまま抱きしめてきた。その行動に俺は困惑するしかなかった。だが、
「お父さん、会いたかった」と、彼女が耳元で囁いてきた瞬間に体が硬直した。それから、すぐに我に返ると彼女を突き放した。
――やめてくれ……。そんな目で俺を見るな……
――そんなこと言わないでよ。私は……
――お願いだ……。そんなことをしないでくれ……。
頼む……。と懇願するが、美波は再び近づいてきた。そして、その手が俺の首に伸ばされた瞬間に美波の動きが止まった。そして、目を大きく見開くと、俺を突き飛ばした。
「どうして……」と呟くと、その場に膝をつく。俺は急いで駆け寄ると、彼女の体を抱き起こした。
「私は……、私は……」と、彼女は苦しそうに呼吸をしながら涙を流し始めた。そして、震える声で言葉を紡ぐ。
「あなたと一緒に居られればそれでよかったのに……」
すると、彼女の背中に突き刺さっていた剣が突然消え去った。それと同時に美波の意識も途切れたのか、全身の力が抜けた。俺は彼女の体を離すと、その顔を見てハッとした。