「珠洲は、お祭りに行かないよね?」
いつも、その時期は、珠洲が父親が暮らす京都に向かう事を知っている。だから、当然、いつものように、ごめん無理だと言って断ると思っていた。それなのに、珠洲がフアリと長い髪を揺らすようにして柔らかく微笑んでいる。
「今年は大丈夫だよ」
思いがけない台詞に、私の顔がピリリと引き攣る。珠洲の背後の景色が蜃気楼のようにグニャリと揺らめいて眩暈がする。朝から猛烈に暑い。私は、商店街のアーケードを進みながら戸惑い気味に尋ねた。
「えっ、でも、毎年、亡くなったお母さんのお墓参りに行ってるよね?」
「今年の夏は京都に行かないよ」
「珠洲、浴衣を持ってないって言ってたじゃん。買ってもらえそうなの?」
「あっ、それは問題ないよ。従姉のお古がもらえたの。それ、有名ブランドのお洒落な浴衣なんだ。下駄も帯も、とっても可愛いの」
珠洲の従姉の加奈子さんはお洒落な人だ。珠洲ほど綺麗な顔ではないけれど、垢抜けている。田舎町でも目立っていた。その人が買ったものならば、きっと可愛いらしい浴衣に違いない。ううん。どんなものでも、誰よりも愛らしい珠洲ならば可憐に着こなすだろう。
予想外の返答に脇の下に汗が滲むけれども悟られてはいけない。私は、通学路を進みながら低い声で言う。
「だ、だけど、珠洲、いいの? あいつも来るんだよ。珠洲は拓馬のことが苦手だったよね。嫌なら無理に来なくていいんだよ」
高校三年の夏。今年、私を含む女子五人と男子五人のグループでお祭りに行こうと計画している。今年は珠洲も行けるかもよと言うと、いつもは、夏祭りに参加しない拓馬が速攻で行くと返事をしてきた。
やっばり、拓馬は珠洲のことが好きなんだ。あの二人は惹かれ合っている。悔しさに視界が歪みそうになる。
「誘ってくれてありがとう」
そんなことを言われてしまい、暑さのせいで額から玉の様な汗がしたり落ちている。息苦しい。鉛を口に押し込まれたかのような嫌な感覚が続いている。
なんとしても邪魔者を消さなくてはならない……。
光と影のコントラストの中、私の心臓がバクバクと嫌な音を立てている。
目の前には高校の古い校舎が聳えている。私、篠原絵美里は、恋のライバルを出し抜こうとして、こんなにも必死になって掻いている。
(わたしは努力する子なんだよ。最後まで諦めないんだからね……。何としても蹴落としてやる)
夏休みの登校日の朝。心の中でライバル宣言をしていたのだが、お祭りの夜に予想外の事が巻き起こるなんて夢にも思っていない。
その日、珠洲の心の輪郭はピシッと定まっていた。
(今年こそ、拓馬君に謝ろう……)
今年の夏はいつもと違うものにしたい。中二の夏以来、拓馬と話せていない。今度こそ、やり直したい。
小学六年生の二月の終わりに珠洲の母は肺ガンで亡くなった。葬儀の後、京都から叔父が暮らす関東の田舎町に引っ越したのだが、当時、中学三年生だった従姉の加奈子は珠洲と同居する事を嫌っていた。珠洲が叔父夫婦の家に住み始めてすぐのことだった。加奈子が冷え冷えとした顔で言い放ったのである。
『やだやだーーー。なんで、あんな暗い子を引き取ったのよ』
加奈子が怒るのも無理はない。珠洲も申し訳ないと感じている。珠洲の父は、京大の文学部を卒業したというのに定職につかずに売れない役者をしていた。珠洲の母親が亡くなると弟に娘を預けた。幸い、叔父夫婦は優しかったのだが、寝たきりの祖母の入院費の支払いに四苦八苦していた。加奈子は、そのことに強い不満を抱いていたのだ。
『珠洲の父親は長男なんだよ。おばぁちゃんのおしめを替えたりして、ママ達は苦労しているんだからね。それなのに、あんたの事まで、こっちに押し付けるなんて身勝手だよね』
そう言われても困る。
珠洲だって、急に生活環境が変わって戸惑っていたのだ。
二学期に転校してすぐの事だった。関西人なら何か面白いことを言ってくれとクラスの男の子に言われて、どうしたらいいのか分からなくなって泣いてしまった。すると、そこに熱血な雰囲気の若い男の担任教諭が現れた。
『こらーーーー、おまえら、武藤に何をしたんだーーー』
イジメの現行犯として男の子達は叱られてしまったが、彼等は意地悪をしようとしていたのではない。それは珠洲も分かっている。でも、口下手なので説明できないまま泣いていた。
ずっと母の死を引きずっていた。母は、薬の副作用で顔が腫れあがっていて喋るのも辛いようだった。頭の毛が抜け落ちて頬がこけていた。それでも、珠洲が見舞いに訪れると微笑みかけてくれる。最後の最後まで優しい人だった。
お母さん! ああ、神様、なぜ、お母さんを死なせるんやろう! もっと一緒におりたかった。京都市内のお寺や神社に通って祈ったのに、なんで、あたしの願いは届かんかったんやろう。
転校してからというもの、誰とも打ち解けようとせずに、時折、感極まったように涙を浮かべるので女の子達の反感を買ったらしい。
『転校生の武藤珠洲ってさ、うざーい。先生に贔屓してもらいたくて泣いてる』
しかし、そんな空気が広まる中、学年で一番人気のあった石渡英人君が告白してきたのだ。
『武藤、おまえのこと守ってやるよ。付き合ってくれ』
スポーツ万能の石渡雪夜は人気者だったけれども自慢ばかりしている。そんな石渡を素敵だとは思えない。
『あの、ごめんなさい』
人目につかない場所でそっと断ると、プライドを傷つけられたのか、石渡までもが珠洲の悪口を言うようになった。
陰気だとか気取ってるとか……。そんなふうに言われて、ますます殻に閉じこもるようになった。ズル休みをしたかった。でも、そんなことをしたら叔母さん達に心配をかけてしまう。そんなある日、給食の時間、隣に座っていた太った福原という男子が騒ぎ出したのである。
『ずるいぞ。武藤のフルーツポンチの白玉団子が四つも入ってるぜ。オレ、一個しか入ってない! 武藤、おまえは給食当番だったよな。わざと、たくさん入れたんだろう!』
いきなり責められて呆然となった。確かに、フルーツポンチをお皿に入れる担当をしていたけれど……。
『あ、あの……。あたしのお皿と交換していいよ。まだ、食べてないから』
おずおずと肩をすくめるようにして告げると、狐目の福原は顔を真っ赤にして激怒した。
『おまえ、そういう問題じゃないだろう。謝れよ。卑怯なことをしたんだから土下座して謝れよ』
クラスメイト達は冷ややかな目でこっちを見つめていた。震えながら、ごめんなさいと言おうとするが何も言えない。涙がジワジワと滲む。その時だった。
バンッ。誰かが福原の机を力任せに叩いたので全員が視線を向ける。
キリッとした眉毛が印象的な男の子の伊集院拓馬がツカツカと近付いてきた。母方の御祖先様が九州男子というだけあって気骨がある。
『福原、言っとくけど、皿をここに置いたのは俺だぞ。わりぃな』
『あっ……』
ハッと気付いた福原が顔色を変えた。お椀にフルーツポンチを入れたのは珠洲だが、それぞれの席に配ったのは別の人。つまり、伊集院拓馬なのだ。
『おい、文句があるなら俺に言えよ!』
小柄だけれども剣道と柔道の達人というだけあって拓馬の眼光は鋭かった。すると、福原が不服そうに言った。
『だ、だってさぁ、こんな不公平な入れ方をした武藤が悪いんだよ』
『なに言ってんだ。炭水化物が少なくなったことの何が悪いんだよ? 感謝しろよ。ダイエットに励めて良かったじゃん』
その途端、クラスの女子がクスクスと笑い出した。この年頃の女子は肥満児に意地悪だ。福原は、顔を真っ赤になって黙り込む。
彼の一言で救われた。胸がジンワリと暖かくなった。ありがとうと心の中で呟いた。多分、あの時、珠洲の心に何かが芽生えたたのだ。
やがて、珠洲は中学生になった。友達の数は少なかったけれども、この頃になると、急に泣き出すこともなくなっていた。やっと母の死から立ち直ったのだと思う。
パン屋の娘の真野杏寿ちゃんは文学少女で、図書館にある本の感想を言い合い盛り上がる仲だった。
『ねぇねぇ、珠洲ちゃん、お祭りに行こうよ』
夏祭りという響きに胸が躍った。りんご飴や金魚すくいの屋台。久しぶりの華やかな喧騒に胸がわくわくした。神社の境内には屋台やフリーマーケットのブースが並ぶのだが、それは御霊を慰める盆踊りだという。
祭り当日、珍しく、父が、夏季休暇をとって京都から自家用車を飛ばしてここまで来ていた。
『おお、珠洲、お友達と祭りに行くのか。おこずかいをやるぞ』
父は、お盆が終わる頃、また京都に帰ってしまう。本当は、もっと一緒にいたいけれど、父が来れる時期は限られている。珠洲が新幹線に乗って父の元に行けばいいのだが、おまえ一人では無理だよと父が言うのだ。父は珠洲をまだまだ子供だと思っているみたいだ。
『珠洲、相変わらず、おまえはチビだな』
父は、そう言いながら珠洲の頭をポンポンと撫でた。
少し前に、父の若い頃の写真を見せてもらったところ、反町隆という俳優に似ていた。一方、叔父さんは丸顔で平凡な雰囲気だ。皮肉な事に珠洲の父は叔父よりも頭が良かった。それなのに売れない役者を目指して挫折したのだ。
そんな父が浴衣の着付けをしてくれた。
昔、父は時代劇のエキストラをしていたので着付けはバッチリだと言っていたのに帯の結び方が分からないと迷い出して時間をロスしていた。
『おまえの母さんと二人で大丸で買った浴衣なんだぞ。似合うぞ。よし、行ってらっしゃい』
商店街のメインストリート片隅。そこに杏寿ちゃんの両親が営む昔ながらのパン屋さんがある。急がないと、杏寿ちゃんが店の前で待っている。
『あわわ、遅刻してまうやんかぁ。えーらいこっちゃ』
学校では標準語を話そうとしていたが、心の中では関西弁を使っている。
珠洲は、下駄履きで小道を駆ける。商店街のアーケードに入った。パン屋さんまで、あと百メートル。
いつも、この時刻、商店街の向こうにある神社へと繋がる小道は閑散としているのに人が溢れている。浴衣姿の人達が祭りの会場へと向かう様子は、何となく影絵のように幻想的な趣がある。そんな事を思いながら息を弾ませていると下駄が脱げてしまい、膝から崩れるようにして転倒したのだ。
『おい、大丈夫かよ』
薬局から出てきたのは凛々しい顔の拓馬だった。白の衣と青い袴姿を身につけていた。サッと、珠洲の腕を引っ張って起こしてくれている。珠洲が尋ねた。
『その格好、どうしたの?』
『母方の叔父が宮司なんだ。従兄は禰宜だ。俺、今夜のお祭りを手伝っているんだ。うちの姉ちゃんも巫女さんとして手伝っているぜ。死ぬほど忙しい姉ちゃんに頼まれて、薬局に買いにきたのさ』
『お姉さん、どこか悪いの?』
『いや、コンタクトの洗浄液が切れただけだ』
この時、ふと、拓馬が驚いたような表情を浮かべたような気がした。薄く化粧をしていることに気付いたのかしら。薄闇の中、拓馬は、驚いたように浴衣の胸元を見つめている。拓馬の喉元がゴクンと鳴っているのが見て取れた。なぜかしら、拓馬は狼狽している。ただならぬ緊張感のようなものが珠洲にも伝わってくる。少女漫画の一コマのような構図になり珠洲もドキドキしていた。
『武藤、おまえ……。ヤバイぞ。ヤバイよ』
そのヤバイの意味が褒め言葉なのだと想いたかったのだが、どうも様子が可笑しい。彼は苦い顔で指差している。
『おまえさ、それじゃ死人だよ』
えっ。珠洲の頭が混乱した。拓馬は、珠洲の腕を引くと、薬局の駐車の脇の建物の隙間に連れ込みながら忙しなく告げた。
『さっさと浴衣の帯を解けよ。直してやるからさ』
急にそんなふうに言われた珠洲は狼狽して身構える。
『浴衣の襟は右前が基本なんだよ。おまえのは死人の着方になっている。それじゃお化けと一緒だぞ』
拓馬は正義感が強いけれども女の子に対してデリカシーがない。浴衣の腰に手をかけて帯を解いて直そうとする拓馬に悪気は無かった。
けれども、珠洲の心臓がキュッと揺れ動いていた。脈打つような不安と情けなさが押し寄せてパニックになり、思わず叫びながら振り払っていた。
『いやーーーー!』
拳を振り上げて拓馬を突き飛ばすと、そのまま走り出そうとした。しかし、浴衣の袖口を古い説製の看板の角に引っ掛けてしまう。
『危ないっ!』
拓馬が顔色を変えて動き出している。大きくて重たい看板が傾いて珠洲の肩に直撃しそうになっている。寸前のところで、拓馬君がそれを制御する。
『いってぇーーーーー』
苦しげに手を押さえたまま顔をしかめている。重たい木枠が腕に当たったらしい。拓馬の右手が膨張して痛ましいことになっている。
『どうしたんだ! 坊主、何があった……』
薬局にいた薬剤師のおじぃさんが慌てて駆けつけてきた。その人に付き添われたまま拓馬は病院に向かう。遠巻きに見ている誰かが冷やかし気味に囁く。
『あの坊主はよう、女の子にキスしようとして物陰で迫っていたみたいだぜ。青春だな』
『ガキのくせに、ませた奴だよな』
噂が広がって拓馬は誤解されてしまったのだ。それは夏祭りの一週間後のことだった。
登校日、珠洲に近付いてきた女の子がいた。それは、剣道部のマネージャーで拓馬の幼馴染の絵美里である。
『武藤さん、何があったの? 拓馬が、夏祭りの夜に武藤さんを襲ったなんて嘘だよね』
ズキンッと珠洲の胸が痛んだ。
『もちろん、そんなのデタラメだよ。あの夜、あたし、助けてもらったの』
やっと、第三者に真相を話せた事にホッとしていた。
『そういうことか。あいつが卑怯な事をする訳ないもんね。理由を聞いても何も言わないから、こっちも苛々してたんだよ。うっかりしていて怪我したとしか言わないの』
絵美里が、SNSなどを駆使して拓馬君の無実を訴えたおかげで誤解は解けたようなのだ。後日、絵美里が珠洲に言った。
『拓馬、骨折したわ。秋の試合に出られなくなっちゃった』
自分のせいで拓馬君が窮地に陥っている事を知ってショックを受けた。
『ご、ごめんなさい』
『何なの。あたしに謝ってどうすんのよ。仲直りの手紙を書きなよ。あたしが渡してあげるよ』
絵美里は、モデルみたいに長身が高くてシャープな顔立ちの美人だ。拓馬の事件を通して、絵美里と親しくなったのだ。絵美里は正義感が強くてハキハキしている。夏休みの終わり、絵美里に対して尋ねた。
『ねぇ、絵美里、拓馬君に手紙を渡してくれたの?』
『うん、渡したよ』
『そうなんだ……』
あれから、ずっと待っていたのに彼からの返事はなかった。骨折させられて全治二ヶ月の重症を負っている。もしかしたら怒っているのかもしれない。
入院中、色々と不便だったに違いない。拓馬に謝りたいと思ったけれど話しかける勇気が持てなくて怯えていた。
やがて新学期になった。彼は、まだ包帯をしていた。廊下ですれ違っても、拓馬は珠洲から目を逸らしてしまう。珠洲は不安になって絵美里に何度か相談したのだ。
『やっぱり、あたし、拓馬君に嫌われてるのかな』
『落ち込まないでよー。そのうち拓馬も機嫌を直すわよ』
そのうち、拓馬の怪我も全快して体育の授業にも参加するようになった。
『拓馬! ナイスシュート』
拓馬は運動神経がいい。バスケットの授業でも綺麗なドリブルとシュートを見せる。なぜか、珠洲は拓馬を意識すると落ち着かなくなる。そして、頬に熱がこもる。
そのまま、月日は流れて珠洲は高校生になっていた。中学の頃に仲良くしてくれていた杏寿は女子校に入っている。珠洲は京大卒の父に似たのかもしれない。拓馬と同じ進学校に合格していたのだ。絵美里も同じ高校に進学している。ただし、絵美里は家政科なのだ。それでも、同じ町で暮らしている珠洲とは一緒に徒歩で登校している。
ずっと、珠洲と絵美里は友達付き合いをしている。この頃になると、珠洲も亡くなった母との思い出などを話すようになっていたのである。
『珠洲のお母さんも父さんも芸能界にいたんだね』
『母さんは、一枚だけCDを出してるみたい。でも、音痴なの』
そんな事を言った後、珠洲は眩しそうに絵美里を見上げた。
『絵美里は、モデルにならないの?』
『昔は、そういうのに憧れたけど、本格的なモデルになるには美貌が足りない。つーか、拓馬、こないだ、新宿でスカウトされたみたいだよ。あいつ、見た目、けっこういけてるからね。もちろん。芸能人に興味はないから断ったらしいよ』
拓馬は中三の夏から急速に身長が伸びている。百八十センチはあるだろう。キリッとした端整な顔立ちに磨きがかかっている。
他の子達は、こんんふうに言い合っていた。
『伊集院拓馬っていいよね』
『演劇部の野仲真麻さんが伊集院に告白したけど断ったらしいわ。女は面倒だからキライだとか言ってたらしいよ』
『もしかして男が好きなの?』
『やーだ。そうじゃなくてぇさぁ、なんか、中学の頃に女子とトラブッたらしいの。それがトラウマになっているみたい』
『へーえ。モテるのにね、もったいなーい』
高校に入ってからの拓馬は硬派のイケメンとして注目されているけれど、石渡の人気は急降下している。彼女がいるのに浮気するような性格が災いしているのだろう。
ちなみに、大食いでデブの福原は中二の頃からスリムになっている。子供の頃は苦手だと思っていた福原とも、高校生になってからは普通に話せるようになっている。
珠洲は、ちはやふるという漫画が大好きなのでカルタ部に入っている。部員は七人しかいない。その部に福原もいるのだ。
『今だから言うけどさ、武藤、おまえって、うざい奴だったぜ』
福原は何でもズケズケと言い放つ。そこは昔から変わらない。
『転校してきた頃はさ、死んだ魚みたいな目をしてたし、脈絡無く泣くから怖かったよ。こっちまでジメッとしてきて侵食されそうで嫌だったぜ』
母親を亡くした直後で心が病んでいた。同居する従姉の加奈子ともうまくいかなかったのだと笑いながら打ち明ける。
『へーえ、俺達は、おまえの母親が死んだ事を知らないから訳がわかんなかった。そういうのは外に向けて言えよ』
『そうだね。ごめんね』
知らないうちに周囲の人達を不快にさせていたらしい。負の感情というものは伝染するものなのだ。
珠洲の父さんはろくでなし。加奈子は忌々しげに言っていたけれど、ある時、叔母が娘に対して言った。
『加奈子、珠洲ちゃんに謝りなさい。あなたの大学の学費は珠洲ちゃんのお父さんのおかげで賄えているのよ』
毎月、珠洲の父が、かなりの額を送金していた事が分かった加奈子は、それ以来、父の悪口を言うのは控えるようになった。
加奈子は大学生になると都会で一人暮らしを始めた。ちょうどその頃、長く患っていた祖母も亡くなっている。叔母は介護から解放されてホッとしたようだった。
現在の珠洲は高校二年生。これまで、夏休みは、父のいる京都に向かって父との時間を確保してきた。