ぽよぽよ、とかファンシーな効果音がつきそうな形態で、青色の魚が台所を泳いでいた。
確認のためもう一度言うが、魚が台所を泳いでいた。
「……先輩、これなんですか」
「分からん」
魚を避けるように白い床にしゃがみこんで説明書を読み込む先輩は、顔も上げずにばっさり言った。
なお、我が職場は水中に沈むようなヤワなキッチンではない。件の魚は空を泳いでいるのである。原理はまるで分からない。
このキッチンにいるのは大抵、料理人か食材しかない。
ということは、まさかこれは食材とでもいうのだろうか。嫌だが?
「そのまさかだな。今日はコイツで頑張るしかない」
「狩人ぉぉお」
狩人共ときたら、私たちと食性が違うせいかちょいちょい食べれなさそうなものも持ってくる。猫の大旦那が何でも食べることに甘えてるに違いない。
しかし文句を言えど、残念ながら今日のメインがこれという事実に変わりようがない。我々に食材調達という高等技術はないのだから。
悲しみを湛えながら、渋々料理の支度にかかる。
そしてようやく、説明書を読み終わったらしい先輩が魚を避けながら立ち上がった。器用な男である。
「こいつの名前はな、共通語に訳すと『泳ぐさかな』らしい」
「およぐさかな」
泳がない魚がいるのか。それは果たして魚なのか。
「あとは……『食うと美味い』しか書いてねえ」
なんて役に立たない説明書なんだ。いや、食べれると分かってるだけマシなのか。
うーん、と考え込む先輩。
「とりあえず……生は」
「嫌ですからね??」
「俺も嫌だな」
じゃあなぜ聞いたんですか先輩。
「……まずは捕まえないとな」
それから先輩は、これまた器用にザルを使って魚を一匹回収した。
尾ひれをつまみ、軽く食材の様子を確かめる。
「水気が多いな、塩もみしてみるか……」
ほとんど水分でできてそうな魚だった。塩かけたらナメクジみたいに縮むのではなかろうか。
切ってみろと渡され、泳ぎ出しそうな魚をなんとか抑えて包丁を当てる。悪いなお魚、こちらも生きねばならぬのだ。
なんて悠長なことを考えていたら、魚はあっさり逃げた。
先輩がケラケラと笑い転げる。どうせ台所から外へは出られない。
「ほう、逃げた魚はでかかったな」
「うるさい」
逸話になぞらえてからかってくる先輩を睨みつけると、彼は既に2匹ほど塩漬けにしていた。手早い。
魚たちは塩をふると盛大に縮んだが、危惧していたほど小さくなることはなかった。盛大に痩せたな、というくらいで別の魚類と見間違うほどではない。
やはり料理人の先輩というだけあって、彼は未知の食材に強いなと再認識した。
「うん。これなら食えるな」
先輩は上機嫌である。他の魚たちも次々捕まえては塩漬けにしていく。
そのほっそりした魚たちを、今度こそまな板の上で捌いていく。塩まみれの魚はヌメヌメとして掴みづらさが増している。
といっても、臓器らしい臓器もなくサクサクと切り分けるだけで終わった。まな板は塩だらけのジョリジョリになった。
「さて、なんの料理にしたものかな」
レシピ本を引っ張り出した先輩にならい、私も手を拭いてレシピ探しに移行した。
こんな台所に置いてある本だけあって、めくると隙間から何かの皮?がぽろぽろと落ちてくる。思わず眉間にシワが寄った。非常に汚い。台所としてどうなのか。
先輩が指をくい、くいっと曲げながら、今日のメニュー候補を数え上げる。
「スープ、蒲焼き、ムニエル……。サラダは厳しいな」
「赤い実がまだ残ってますし、あれと煮込んだスープはいかがでしょう」
「……ほう、なかなかいいじゃないか下僕」
誰が下僕だ、誰が。
そうと決まれば、さっそく準備がいる。大きな鍋をひっぱりだし、赤い実とついでに白い根っこも刻み、香りづけの葉っぱと一緒に鍋につっこむ。
白い根っこは保存が効く上に臭い消し効果もあるため、常に重宝してる。
ありがとう、常識的な森の番人さん。どこぞの狩人たちと違ってよほど頼りになる。
湯が煮えてきたところで、塩漬けにされた魚の切り身を軽く洗って放り込んでいく。
塩気は染み込んだ分で充分だろう。きちんと蓋をして熱を効率的に使う。
その間に、先輩は残りの塩漬けの魚たちに軽く衣をつけ、フライパンに入れて何かの脂で焼き始めた。何の脂か、だって? それは知らなくていいことだ。少なくとも私は食前に食欲を失う真似はしたくない。
グツグツ煮え立ち、すりおろしの赤い根っこでもいれようかと鍋の蓋を持ち上げた時、異変に気がついた。
なんというかこのスープ……粘度が高い。かなり。
よく吹きこぼれなかったな、と思いつつ、スプーンで少しかき回してみる。驚いたことに、固形物が見当たらない。赤い実も、白い根っこも……魚の切り身たちも。
眉をひそめていたからか、先輩も鍋に近寄ってきた。
鍋を覗き込み、私と同様眉をひそめ、――いきなり私の肩をぐいっと引いた。
驚いてグエッとカエルのような声が出てしまった。なんてことをするんだ先輩。
と、次の瞬間。
鍋の中から赤い色の魚が何匹も躍り出てきた。
そして始めと同じように台所の空の上をクルクル泳ぎ回る。
なぜ赤色。切り刻まれて塩まみれになって水も抜かれたはずなのに、なぜ。
呆然とする私をよそに、先輩はケラケラと笑いだした。
「こりゃ、スライムの仲間だな。水につけてる限り不死身だろうなあ」
中々美味そうな具合にスープを吸ってくれたじゃないか、と空っぽの鍋を覗きながらまた笑う。
料理がちっとも進まないというのにその能天気さにため息が出た。
「どーすんですか。メインがひとつ消えましたよ」
先輩はまだ笑いながらぽすぽすと頭を軽く撫でてきた。笑いのツボがフライパンより浅い男である。
「スライム串をだしてくれ、やつらの仲間と分かればやりようがある」
言われた通り、引き出しを引っ掻き回してスライム用の串を探して渡す。引っ掻き回せとは言ってねえよと言われそうだが、この荒れた収納が悪いのである。
水溶性の痺れ毒が出る素材の串を手に取ると、先輩はまた魚を捕まえて――今日だけで何度捕まえ直したことか――串に刺していった。
人体にはさほど影響のない毒ではあるが、魚もといスライムたちにはよく効くようで、大人しく刺されっぱなしになっている。
「赤い実のスープ仕込みのスライム魚……。これはいいメインになるな」
よくやったと褒める先輩に、じと……という視線を向ける。
「先輩、まさか生食するおつもりで?」
「まさか」
先輩は大真面目な顔になって言った。
「俺ぁあっちのムニエルを食うぞ? ……この豪華なメインディッシュは、猫の大旦那に差し上げよう」
「……じゃあ私もそうします」
「そうしとけ」
2人で神妙な顔をしたあと、2人して大旦那に対しての扱いが酷いなと気づいて笑い転げた。
後日、『味は美味しかったが、なんか痺れた』と猫の大旦那から苦情が入った。
人体に影響はなかったが、どうやら大旦那には影響大ありだったらしい。
「刺した上で、焼くなり煮るなりすればよかったじゃないですか。スライムの時みたいに」
「せっかくのスープが抜けちまったら勿体ないだろ。一番弟子のお手製なんだからな」