霞みがかった意識が少しずつ透明度を増し、私は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。電気が消えた暗闇の中で1番に視界に飛び込んできたのは無機質な白い天井で、ここが自宅ではないことを瞬時に悟る。自室の天井は木目調である。
 辺りを見渡して、ようやく思い至る。ここは病院である、と。──そうだ、私、事故に遭ったんだ。
 一つ蘇ると、競うように二つ三つと舞い戻ってくる記憶たち。朝、家を出て大通りの停留所まで歩き、学校に向かう34系統のバスに乗り込んだ。そこまではいつも通りだった。いつも通りじゃなかったのは、反対車線を走っていた車が、縁石を乗り上げてこちらの車線に突っ込んできたことだ。運転手がその車を避けようとハンドルを切り、バスは電柱に突っ込んだのだった。
 脳に信号を送って手をゆっくり持ち上げると、腕にぐるぐると包帯が巻かれている。腕だけではない。どうやら頭にも包帯が巻かれているようだし、頬にはガーゼが貼られていた。事故に遭った時のことはよく覚えていないが、無傷では済まなかったらしい。
 しかし、傷の具合とは裏腹に、体は軽い。むくりと起き上がって四肢を確認してみても、痛みだとかは感じなかった。
 身を乗り出して、ベッドの下に靴を探す。が、どこにも見当たらない。潔く諦め、冷たい床に足を下ろす。暗がりをぺたぺたと歩いて、私は部屋の外に出た。
 非常灯が付いているだけの廊下は薄暗く、不気味だった。それでも足を進め、何の気なしに階段を登っていくと屋上に行き着いた。重いドアを開けると、視界に飛び込んできた月光に目が眩む。
 明暗に目が慣れてきた頃、屋上に先客がいることに気付く。転落防止の柵に体重を預け、空を仰ぐ姿に、見覚えがあった。
 毎朝、バスで見かける、近くの高校の男の子。髪がちょっと茶色くて、綺麗な目をしているなぁといつも遠目に思っていた。
 心臓がどくんと波打って、脈が駆け足になっていくのを感じる。
 扉の前で突っ立って、一体どれくらいそうしていただろう。私の心を掴んで離さなかった彼の瞳が私を捉え、瞼が見開かれた。
「君……いつからそこに」
「つ、ついさっき。ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったんだけど」
 思いがけず驚かせてしまったことに慌てる私を見て、彼が可笑しそうに吹き出した。
「大丈夫。そんなところで立ってないで、君もこっちにおいでよ」
 月明かりに白く照らされた彼に手招きされ、数瞬迷ったものの、私はおずおずと歩み寄った。
 彼の右側に立ち、夜空を見上げる。瞬く星たちよりも右側に意識が集中して、なんだか落ち着かなかった。
 少しして、彼の薄い唇が動く。
「きみ、南高校の子だよね? 朝、いつもバスで一緒になる」
「あ……うん。そういうあなたは、北高校だよね」
「なんだ、知ってたんだ」
 知ってるも何も、かっこいいなぁなんて思ってました。……なんてのは、口が裂けても言わないけれど。
「あなたも、いつものバスに乗っていた?」
「あぁ。あなたも、ってことはきみもか」
「うん」
 やはり、私達は同じ理由でここにいるらしい。同じバスに乗って……事故に巻き込まれた。
「事故の詳細、知ってる?」
「何も。なんせ、さっき目を覚ましたところだから」
「そうか。俺も、検査なんかで落ち着く暇もなくて、何も情報を得られていないんだ」
 どれくらいの規模の事故だったのか。死傷者は? ……当事者として、知らないままでは気持ちが悪い。
「でも、ここでこうやって会えたってことは、きみは無事だったってことだ。よかった」
 彼の優しい眼差しに、私の心はぽかぽかと温かくなる。
 よかった。……えぇ、本当に。
「俺、今日の検査で異常がなかったから、明日の朝には退院するんだ。きみは?」
「わからない、明日誰かに聞いてみないと」
「そっか、さっき目を覚ましたんだったね」
 今の私は、事故の詳細どころか自分の状態すら把握出来ていない。
 私も早く退院して、いつもの日常に戻りたい。いつものバスに乗り込んだら、そこに彼がいる日常に。
「明日、退院のお見送りに行くね」
「いいよ、そんな」
「私が行きたいの。行かせて」
 食い下がると、彼は少し困ったように眉を下げて笑った。それでも、彼は嫌だとは言わなかった。
 お気に入りのドラマや、最近学校で流行っていること。東の空が明るくなり始めるまで、私達は語り明かした。
 
 朝、人でごった返している病院のロビーまで彼を見送りに来た。
 家族を先に行かせた彼は私を振り返り、白い歯を見せる。
「そういえば、まだ名乗ってなかったよね」
「あ……確かに。あれだけ話したのにね」
 昨夜は話すことに熱中して、コミュニケーションの根元の部分をすっ飛ばしていた。
「俺、田中リョウっていいます。きみは?」
「私は、鈴木ネオ」
「ネオ。あんまりいない、素敵な名前だね」
「ありがとう」
 リョウくん。あなたの名前もあなたにぴったりで、とても素敵だと思うよ。
「必ず、また会いに来るよ」
「うん、待ってるね」
 お互いに手を振り交わして、私達は別れた。
 
      *
 
 ロビーの長椅子に腰掛け、かれこれ一時間以上名前を呼ばれるのを待っている老人は、自宅のポストに投函されていた今日の朝刊を老眼鏡越しに読んでいた。あまりに悲惨な内容に、老人は眉根を寄せる。

『〇〇市の国道で、車三台が絡む事故が発生。うち一台は市営バスで、縁石を乗り上げた対向車線を避けようとハンドルを切り、そのまま電柱に激突。このバスに乗っていた県立南高校の生徒、鈴木ネオさん(18)が頭を強く打ち、搬送先の病院で死亡が確認された』