目が覚めた時、カインは直接顔に当たった光に思わず顔をしかめた。
「おっと失礼…… ブラインドを開けたものでな」
 聞き覚えのある声が頭上で聞こえ、ブラインドをおろす低い音がした。
 カインは右手で目をこすった。
「気分はどうだ?」
 年老いた顔が自分を覗き込むのが分かった。
 まだぼんやりとした視界の先に見覚えのあるその顔を見てカインはほっとした。
 ドクター・レイだ。彼の家に何とか辿り着くことができたのだ……。
「さっきミズ・リィから連絡があったよ」
 点滴のボトルを確認しながらレイがそう言ったので、カインは思わず顔をこわばらせた。
 かつてのホームドクターだったレイのところにトウが連絡しないわけがなかった。そんなことにも気づかないなんて……。
「心配しなさんな。何も言っておらんよ。あ、右手、点滴の針がついとる。気をつけて」
 レイはカインの顔を見て笑った。
「きみとはここ5年ほど顔も合わせていないと言っておいた。とても信用してもらえたとは思わんが、嘘をつく理由も彼女には察しはつかんだろう。ただ、明日あさってにはあっちからひとり誰かが来るだろうね。来たらどうする?」
「帰りませんよ、ぼくは」
 再び顔を覗き込むレイにカインはきっぱり言い放った。レイは呆れたようにかぶりを振った。
「無茶もここまで来ると感心するよ。きみがアライドのハーフでなければとっくの昔に危険な状態だし、下手をすると左腕が使えなくなったぞ。私は迎えに応じて帰ったほうがいいと思うがね……」
 レイはカインのベッドの脇の椅子に腰をおろした。
 この人はめっきり歳をとった。髪も薄くなって真っ白だし、顔には深いしわが刻まれている。
 小さい頃はとても大きな身体に見えたのに……。
「眠っている間、がんがん促進機にかけたから明日には動けるだろうけれど……。ちゃんと左腕が使えるようになるには数週間かかる。何があったんだ、こんな傷」
 カインは大きく息を吐いて天井を見た。
 病室じゃないんだな……。天井も壁もごく淡く小さな花模様が散っていた。
 きっとレイの妻、マリアの趣味だ。マリアは体が大きくて逞しく男勝りな感じがする。
 しかし、その見かけとは裏腹にとても繊細で女性らしい部分があった。気がつくとベッドのシーツも淡いピンクの花が咲いている。
「別に無理に話さなくてもかまわんよ。体力を消耗する」
 レイはカインが黙っているので答えたくないのだと思ったらしい。
「こっちでは何かニュースが流れていませんでしたか?」
 カインが言うと、レイは怪訝な顔をした。
「何のニュースかね? 一般メディアで?」
「ええ……」
 レイは首をかしげた。
「いや…… 特に目立ったものは何もないように思ったが……」
「そうですか……」
 あれだけ『ライン』で大騒ぎしてもオフレコということか……。
「ドクター…… 迷惑かけてすみません。ぼくはカンパニーには戻れないんです。助けなきゃいけない友人がいる。明日にはここを出ますから…… それまででいいですから……」
「助けたいって……」
 レイはため息をついた。
「こんな体でもぼっちゃんが行けばなんとかなるようなことなのかね」
 痛いところを突かれた。カインは口を引き結んで黙り込んだ。
 レイはしばらくカインの顔を見つめていたが、再び点滴に手を伸ばした。
「そういえば、あの女の子は元気にしとるかね」
 彼なりに話題を変えたつもりらしい。
「あの女の子?」
 カインは目を細めてレイを見た。
「ほれ、前に検査した子だよ。88の中毒になっとった」
 カインの堅い表情を見て、レイはこの話題も失敗したと悟った。
「なんだか問題がややこしそうだな……」
「ぼくが助けたいと思っているのは、その“女の子”ともうひとり……」
 カインは答えた。
「ホライズンのほうから動きだしてしまった……。ラインから逃げ出したんです」
「報告したのか? 彼女の染色体のことを……」
「報告なんかしませんよ」
 カインはとんでもないというようにレイを見た。
「するわけがないでしょう……。本人だって知らない…… いや、知ってるかな……」
 ケイナの夢の中のことを思い出した。
 もしその記憶が残っていればセレスは知っているかもしれない……。自分が覚えているんだから、彼も覚えているだろう。
 ケイナ自身はどうなんだろう……。分かっているんだろうか。
「きっと業を煮やしたんだと思います……。ぼくはずっと報告をごまかしてきたし……。やっぱりトウの目をごまかすなんて無理だったんだ……」
 レイは困惑したような顔になった。
「なんだか、状況がよく飲み込めんが……」
 カインは笑みを浮かべた。
「ぼくが『ライン』に配属したのは、『ライン』の訓練を受けるためじゃないんです。『ライン』に入っていたケイナ・カートをガードするためだったんです。アシュア・セスって相棒と一緒に。トウからの命令だった。……ドクターが“彼女”という少年は、そのケイナが異様に関心を示した人間なんです。ケイナは……」
「ケイナ・カートは知っとるよ」
 レイがそう言ったので、カインはびっくりした。
「知ってる? どうして」
「レジー・カート司令官の息子だろう?」
 レイは薄くなった頭を撫でた。
「知っているといっても彼を二回ほど検査しただけだがね。それも8年くらい前になる。カンパニーを辞める直前にこれまで彼の検査を担当していた医師が急死したからというので引き止められた。私の同期の医師でな、同じ脳医学が専門だったんだよ。だからよく覚えとる」
「ケイナの何を検査していたんです?」
 レイがホライズンに行ったことなど全く知らなかった。カインの言葉にレイは笑った。
「何って、私は脳みそ専門だよ。決まっとるだろう」
 レイは自分の頭をコツコツと叩いた。
「彼の脳を調べていたんだ」
「何のために?」
 カインは眉をひそめた。
「何のため?」
 レイは呆れかえったようにカインを見た。
「何でもない人間を調べるものか。彼は脳に大きな障害を抱えている。その経過確認だ」
「脳に障害?」
 思わず大きな声が出た。
「し、失礼……」
「こっちは住居だから大丈夫だよ。診察室からは離れとる」
 レイは笑った。
「障害、と言うには少し誤りがあるかもしれんが、彼は先天的に不思議な症状を抱えていたんだよ。当時彼はまだ10歳にも満たなかったんじゃないかな」
 そして少し肩をすくめた。
「実はこのことは他言するなと誓約書を書かされているんだが……。カート家といえば名門だから、こういうことは外に出したくないという意図もあったんだろう。まあ、今は治癒しとるだろうし、ぼっちゃんならかまわんだろう。ただし、ほかで言わないでくれよ」
 カインは不安を感じた。聞くと後悔するかもしれない……。そんな思いにとらわれつつ、レイの顔を見つめた。
「あの金髪の子はびっくりするようなきれいな顔立ちで、検査のあとは礼儀正しく礼を言って帰るようなところがあったよ。会えばまあ忘れることはできんだろうな。あんな小さな子が何度も検査、検査で可哀想だと思ったよ。痛い思いをするものもあったからね。だが、症状は深刻だったな。早期の治療が望まれた。彼の脳は外から見ただけでは分からないが信じられないスピードで細胞分裂を行っていたんだよ」
「細胞分裂……」
 カインはつぶやいた。
「脳細胞というのはだいたい生まれる前にほぼ完成しておってな、細胞同士を繋ぐシナプスも乳幼児期にほぼ大人と同等の量になる。そのあとは経験などでシナプスをより強固に太く繋いでいくというのが普通の人間の発達だ。つまり脳細胞自体は増えることはないんだよ。だが、彼の場合は成長を重ねるごとにどんどん細胞が増えて行き、当然それを繋ぐシナプスも増えていく」
 レイはカインを見た。
「だがね、限界があるんだよ。例えて言えば風船だ。頭をひとつの風船とする。風船は息を吹き込めばどんどん膨らむが、膨らませ過ぎるとどうなる?」
 カインはごくりと唾を飲み込んだ。
「ばーん……」
 レイは両手を広げた。
「風船は割れてしまう」
 カインは思わず顔を背けた。