Toy Child -May This Voice Reach You-

 目が覚めたとき、近くにカインがいた。
「大丈夫か?」
 カインはセレスの顔を覗き込んで言った。顔をめぐらせるとそこは自分の部屋だということが分かった。
「次から次へと災難続きだな」
 カインはつぶやくように言った。
「もっとも、ケイナも昔はこんな感じだったけれど」
「おえ、どのくやい寝て…… あち……」
 どのくらい寝ていたのか?と聞こうとして、セレスは顎に走った鋭い痛みに顔をしかめた。
 どうも固定されているらしくうまく動かない。手は動くようだが両手首とも燃えるように熱かった。
「8時間くらいかな。まだ夜中だ。しゃべらないほうがいいよ。顎の骨が折れてたんだ。喉は乾いてないか?」
 カインの言葉にセレスはゆっくりかぶりを振った。
「ケエナ…… は?」
 セレスが尋ねると、カインはちょっと目を伏せてそれから答えた。
「鎮静剤を飲ませて眠らせた」
 セレスの怪訝な表情を見てカインは少し肩をすくめた。
「ケイナにはアシュアがずっとついてる。どうもまだ気持ちがおさまらないらしくて…… もしものことがあったとき、力でケイナに対抗できるのはあいつしかいないから」
 セレスはカインから目をそらせた。もう大丈夫だと思ったのに……。
「奴らは全員除籍処分になった。 ……ケイナを昔襲った残党がいることは分かっていたが、これで全員いなくなった。もう二度とこんなことはないよ。安心するといい」
(安心?)
 セレスは心の中でつぶやいた。
 本当に安心できるんだろうか。だって、バッガスがいるじゃないか……。
 ユージー……
 セレスは目を閉じた。
 彼がおれを襲うように指示をしたんだろうか……。
 訓練のあと、『自分を大切にしろよ』と彼は言った。あれはこのことを示唆していたのか?
 セレスには分からなかった。
「そう…… ら……」
 セレスはカインを見た。
「おして…… たすけ…… 来…… くえ…… た?」
(どうして助けに来てくれた?)
 カインは少し眉を吊り上げた。
「見え?」
 セレスの言葉にカインは首を振った。
「悪いけど…… 今回はぼくは見えなかった。きみのことが見えたのはケイナだ」
 セレスは呆然としてカインの顔を見つめた。カインはゆっくりとセレスのベッド脇の椅子に腰掛けた。
「『点』をひっつかんでケイナが血相変えて走っていた。そのときにやっとぼくにもケイナが感じたものが『見え』た」
「ど…… して……?」
「なんでケイナが見えたのかなんて…… そんなことはぼくには分からない。こっちが聞きたいくらいだ」
 セレスはカインから目をそらせた。
 そのとき、部屋のドアが開く音がした。ふたりが目を向けるとアシュアが立っていた。
「目が覚めてたのか」
 アシュアはセレスと目を合ってと笑みを見せた。
「ケイナは?」
 カインが尋ねる。
「鎮静剤が覚めた。今シャワーを浴びてる。落ち着いてるよ」
「そうか……」
 アシュアは笑みを浮かべたままセレスのベッドに歩み寄った。
「気分はどうだ?」
「ダイジョ…… う」
 セレスは答えた。
「ケイナのやつ目が覚めたらまっ先におまえの心配してた。一週間は安静だって言ったら悲痛な顔してたぜ」
「イ、しゅ…… カ……?」
 セレスはびっくりした。アシュアは肩をすくめた。
「残念だけどね。馬鹿野郎が思いっきりおまえの華奢な顎を蹴り倒したらしい。心配すんな。千倍返しにしといたから」
 アシュアのおどけた言葉にセレスは思わず笑みを浮かべ、再び走った痛みに顔をしかめた。
「嫌な思いをしたな。あまり考えずに早く復帰することに専念しろよ」
「アシュ…… ヤク…… ソク…… ゴエン……」
(アシュア、約束、ごめん)
 アシュアは少し悲しげな顔をした。
「おれたちも悪かったんだよ。おまえが射撃室を出るまではそばにいたんだ」
「アシュ…… せい…… ちが……」
 セレスの言葉にカインは目を伏せた。
「そうだ。ケイナのときもそうだった……。ぼくらはほんの数分前までそばにいたのに……」
「や……」
 セレスは懇願するような視線をふたりに向けた。
「おえ…… もと…… つよ、なうから…… い…… な……」
(おれ、もっと強くなるから、そんなこと言うな)
 カインはいたたまれないような表情で目をそらせると立ち上がった。
「ケイナの様子を見て来る」
 彼はセレスに背を向けた。それを見てアシュアは慌ててセレスに言った。
「朝までゆっくり寝てろ。また来るから。あ、それとクレイ指揮官、今回は連絡がつかなかったらしい。おまえ、心配かけっぱなしだからちゃんと自分で連絡とれよ」
 セレスはうなずいた。アシュアはカインのあとを追って部屋を急いで出た。

 セレスの部屋を出てから、アシュアはそのままケイナの部屋に向かおうとするカインの腕を掴んだ。
「なに?」
 カインは怪訝な顔をしてアシュアを見た。
「ケイナがどうも動揺してるみたいなんだ」
 アシュアは言った。
「さっきは落ち着いてるって言ってたじゃないか……」
 カインは目を細めた。
「セレスの手前そう言ったんだよ。いや、別に暴走してるとかそんなんじゃねえんだ。ただ……」
 アシュアは口を引き結び、そして思いきったように口を開いた。
「もう、終わりにしたいと言ってる」
「終わりにって…… 何を」
 カインは不安が押し寄せるのを感じた。
「何を終わりにするんだ」
「『ライン』を中途終了して、ホライズンに行ったほうがいいって言うんだよ」
 アシュアは不機嫌そうに答えた。
「ぼくにそう報告しろって?」
 カインは言った。アシュアは口をへの字にしたままだ。
 カインはしばらく無言でアシュアを見つめた。じわじわと怒りがこみあげてきた。
「冗談じゃない」
 カインはくるりとアシュアに背を向け歩き始めた。
「ぼくらの任務はトウからの命令であって、ケイナの指示じゃない」
 苛立たしそうに言うカインをアシュアは追った。
「カイン、そういうんじゃ……」
 カインはくるりと振り向くとアシュアの胸ぐらを掴んだ。
「ぼくらの任務は、ケイナの命令を聞くことじゃない!」
 カインの顔は怒りに満ちていた。
「分かったか!」
 彼は乱暴にアシュアから手を放すと、ケイナの部屋のドアをあけた。
 ケイナはベッドの上に座ってコーヒーをすすっていた。たぶんアシュアが運んで来たのだろう。
「鎮静剤をもっと投与していればよかったな!」
 カインはつかつかとケイナに歩み寄った。ケイナはじろりとカインを見た。
「朝まで寝てれば頭も冷えただろう!」
 カインは鋭い口調で言った。ケイナを見下ろす目が険しい。
 ケイナはしばらくカインを見つめていたが、コーヒーに目を落すと肩をすくめた。
「自分でレジーに言うよ」
 カインは怒りをどこにぶつければいいのか分からず、そばにあった椅子を蹴った。椅子は大きな音をたててひっくり返った。
「カイン、落ち着け」
 アシュアは見かねて言った。そしてケイナに目を向けた。
「ケイナ、できもしないことを言って周りに当たるんじゃねえよ」
 アシュアのたしなめるような口調にケイナは眉をひそめた。
「おまえがカート司令官にそんなこと言えないってのは、おれたちだって分かるんだ」
 アシュアは肩で息をしているカインをちらりと見て、再びケイナを見た。
「今『ライン』をやめて、セレスにどう説明するつもりだよ。あいつは絶対納得しないぞ」
「もうあいつを盾にして自分を守りたくないんだよ!」
 いきな怒鳴り返したケイナにカインとアシュアはぎょっとした。
「やっとわかったんだ」
 ケイナは険しい顔つきで手に持ったカップを握り締めていた。その手が小刻みに震えていた。
「前にジェニファが言った。あいつはおれの剣になり、盾になるために存在するんだと……。そのときは何のことかさっぱり分からなかった。だけど…… 今はなんとなく分かる」
 ケイナの声はかすかに震えていた。
「もし、危険な目に遭うことが最初っから分かっていたら、人間はどうすると思う?」
 自分を無言で見つめているカインとアシュアにケイナは言い募った。
「できるだけ充分な防具と必要な武器を身につけようとするだろ」
 ケイナはいまいましげに持っていたカップを床に叩きつけた。
 青い絨毯の上でカップは割れこそしなかったが、中のコーヒーは当たり一面に散らばって茶色いシミを広げた。
「敵が来たら自分の身を傷つけまいと、盾をさしだすだろ!」
 彼はかぶりを振った。
「おれはセレスを利用している。セレスだけじゃない。おまえたちもだ! おれは自分の代わりに傷つけようとして人をそばに置いているだけなんだ!」
「ばかなことを言うな」
 アシュアは言った。
「そりゃ、おれは最近セレスのことをあいつらが狙ってるって言ったけど、それはあいつらがやってることで、おまえがあいつらをしむけてるわけじゃないだろう」
「ケイナ…… 何をした?」
 ふいにカインが言ったので、アシュアはどきりとしてカインの顔を見た。
 カインの目は恐れを含んでいた。
「ケイナ…… きみは何をしたんだ?」
「カイン、なに言ってんだ、やめろ」
 アシュアは慌ててカインに言った。
「ケイナが何かするわけないだろ」
「じゃあ、どうしてぼくの目にはユージーの姿が見えないんだ!」
 カインは小さく怒鳴り返し、そしてケイナに向き直った。
 ケイナは小刻みに体を震わせながらカインを見つめていた。
 いつものケイナじゃない。
 違う。目が違う。
 アシュアはカインに警告しようとしたが、それよりも早くカインはケイナに近づくなり彼の腕を掴んでいた。
「どうして気づかなかったんだろう。セレスが立続けに災難に遭ってる。だのにきみは無傷だ」
「カイン、やめろ!」
 アシュアは叫んだが間に合わなかった。
 とてつもない衝撃のあと、カインは視界が暗くなるのを覚えた。
 あたりは暗く、外から入り込む薄明かりでカインはようやく自分が『ライン』の見なれた廊下にいることに気づいた。
 目の前に誰かが歩いて行く。黒い髪に細みの体。
 覚えはある。ユージー・カートだ。
 そうか。
 身長は伸びているけれど、彼は『ライン』に来た当初からそんなに変わってはいないんだな……。
 ユージーはゆっくりとした足取りで歩いて行く。
 顎をぐっと引き、彼はいつも背筋を伸ばしている。そんなところも変わってはいなかった。
 カート司令官もそんな感じだった。やはり親子なんだ……。
 カインは彼の後ろをついて歩いた。
 ユージーはひとつの部屋の前に来ると、妙にロボットじみた動きでその部屋に体を向けた。
 トレーニングルーム? こんな夜更けにいったい何の用事があるというんだ。
 カインは訝しく思いながらそのあとに続いた。
 トレーニングルームに入ると奥のマシンに誰かが座っているのが見えた。
 ケイナだ。彼はいつもあの場所にいる。
 ユージーはゆっくりとケイナに歩み寄り、そして片腕をあげた。
 何をするつもりだろう。
 そしてカインはユージーの腕の先に光る銃を見た。
「な、何をするんだ!」
 カインは仰天してユージーの背後から彼に飛びかかった。しかし、あっけなくそのままユージーを素通りして彼の前に倒れた。
「これで終わりだから」
 頭上で声がした。カインは振り向いた。
 顔が影になっていてよく見えない。
 カインは無我夢中でユージーに飛びかかっていた。腕が空を切り、ユージーの顔をまじかに見たと思ったとき、カインは我が目を疑った。
「これで最後だから」
 そう言った顔はケイナだった。
「ケイナ!」
 そう叫んだ途端、銃は発射された。
 銃弾はカインの耳を通り越していった。
 鼓膜を揺るがすような音が響き、カインはさっきケイナが座っていたはずのマシンを見た。
 ゆっくりと倒れていく緑色の髪が見えた。

「カイン!!」
 カインははっと我に返った。気がつくと、アシュアに助け起こされていた。
 体中から汗が噴き出ていた。
「夢?」
 カインは震えながら顔を巡らせた。
 ケイナの部屋だ。アシュアが心配そうに顔を覗き込んでいる。
「ケイナは?」
 カインはアシュアを見上げた。
「覚えてないのか?」
 アシュアはため息をついて言った。
「おまえはあいつに殴られたんだよ。そのままあいつがおまえを殴り続けそうになったから、悪いと思ったけど一発殴って鎮静剤の注射を突き立ててベッドに放り込んだ。 またしばらく眠ってるよ」
「は……」
 カインは額を押さえた。
 殴られたような記憶はなかった。後頭部が少し痛い。どこかで打って気を失ったのだ。
「血」
 アシュアが眉間のあたりをさして言った。
 カインが自分の眉間を触ってみると、真っ赤な血が指先についた。
「……メガネは……」
 カインは床を見回した。
「ほれ」
 アシュアはカインにメガネをさしだした。フレームだけになっている。おまけに不格好に歪んでいた。
「あれだけトウにはたかれても大丈夫だったのに、ケイナの一発で割れちまったぜ」
 カインは無言でメガネを受け取った。
 そうか…… こいつが全部受け止めたんだ……。
 眉間の傷はメガネが跳ね飛んだときについたものだ。メガネがなかったら目をつぶされていたのかもしれない……。そう思うとぞっとした。
「ケイナはセレスが自分と同じ目に遭いそうになったから混乱してるんだよ。少しすれば頭も冷えるさ」
 アシュアの言葉にカインは首を振った。
 ふらつきながら立ち上がるとケイナの横たわるベッドに近づいた。
 ケイナは目を閉じて眠っていた。
 おれは利用している。ケイナはそう言った。
 そういうことだったのか……。
「おまえ、何か見えたのか?」
 アシュアがためらいがちに言った言葉にカインはぎゅっと口を引き結び、しばらくしてから口を開いた。
「ケイナは…… 人を使って自分をいないことにしようとしてるんじゃないかと思う」
「え……?」
 アシュアはカインの口調に険しい目を向けた。
「アシュア、きみだって気づいてたんだろう? ぼくらはずっとケイナが正気をなくすときは暴走したときだけだと思ってた……」
 カインはフレームだけのメガネを見つめた。
「ずっとおかしいと思ってたじゃないか。なんでケイナがここまで周囲から反目を受けるのか、ずっと不思議だったじゃないか」
 アシュアは下唇を噛んで黙っていた。
「ジェニファがケイナに何を言ったのかは知らない。だけど、あの休暇のとき、彼女はケイナに何かヒントを出したんだ。だからケイナもそれに気づいたんだろう。ケイナは自分でコントロールできない人格をほかにも持っているんだ…… きっと彼はそのことに自分で怯えてるんだ」
 カインはアシュアの顔を見た。
「でなきゃ、普通の状態のケイナをおまえが強引に眠らせるなんてことはないよな」
 それを聞いてアシュアは不機嫌そうにカインから目をそらせた。
 カインはアシュアを見据えた。
「ケイナは人に暗示をかけてるんだ」
「そんなことあるかよ」
 アシュアはカインと目を合わさず即座に言った。
「こんなに厭な思いをしてきて、それが全部自分でそうするように相手を挑発してきたなんて ことあるはずがない」
「挑発じゃない。暗示だ」
 カインは言った。
「本体のケイナが意識してやってるわけじゃない。無意識に…… いや、別の人格の彼が人に暗示をばらまいているんだ」
 カインは再びケイナに目を向けた。
「彼は…… たぶんユージー・カートに…… 最後の暗示をかけてるんだよ……」
 アシュアはぎょっとしてカインを見た。
「まさか」
アシュアはかすれた声でつぶやいた。
「ケイナは…… いつものケイナとは違うケイナは、ぼくがどこかで見抜くかもしれないと思っていたんだろう。だからぼくにはユージーの姿が認知できないんだ」
「つまり…… ケイナはおまえにも暗示をかけていたのか?」
 カインはうなずいた。
「推測でしかないけど…… たぶんそうだと思う」
 アシュアは堅く目を閉じるケイナを見つめた。
「ケイナはいつまでたってもぼくにはちゃんと話をしなかったはずだ。彼は最初に会ったときからぼくの見える力を悟っていて、警戒していたんだ」
 カインは唇を噛んだ。こんなこと、全然気づかなかった。
「暗示を解かないと……」
「暗示を解く?」
 アシュアは目を細めた。
「そう。暗示を解かないと」
 カインはきっぱりと言った。
「誰にどれだけ暗示をばらまいているか知らないけど、ケイナはセレスを盾にしていると言っただろう。ケイナは自分であっちこっちにばらまいた暗示を、今度は全部自分でセレスに向くようにしてるんだ」
「ちょっと待てよ」
 アシュアは混乱した頭の中を整えるように額に手を当てた。
「じゃあ、最後にユージーがケイナを消すっていう暗示は……」
「そう。セレスに向いてる可能性がある」
 アシュアは困惑して視線を泳がせた。
「なんか…… ややこしくて理解しきれんな……」
 カインはぐったりしたセレスを抱き締めるケイナの姿を思い出していた。
「いったい何人いるんだろう。暴走したケイナ、暗示をばらまいているケイナ、その暗示をセレスに向かせているケイナ……?」
「最後の暗示が…… おれたちでなくて良かったって、思うべきなのかもしれない……」
 そうつぶやいたアシュアの言葉を聞いて、カインの顔が歪んだ。
「おれ、違うと思う……」
 アシュアはかぶりを振って言った。
「カイン…… ケイナは死にたくないんだ。『生きたい』んだよ…… 助けて欲しいんだよ。おれたちに。だからおれたちを最後の手段にはしなかったんじゃないのか?」
 『リィ・ホライズン』に行け、ケイナ……。ぼくはそう願った。
 カインは目を閉じるケイナの顔を見つめて思った。
 だのに、セレスのために『ホライズン』に行くというケイナに怒りを感じた。
 自分の中にたくさんの知らない自分がいる。
 そのことに恐怖を覚えて助けて欲しいと言っている彼に気づかずに。
「ジェニファにコンタクトを取る」
 カインは震える声で言った。アシュアはカインに目を向けた。
「ジェニファのキーワードがケイナを追い込んだんだ。彼女は何かを知っている」
 アシュアは何も言わずうなずいた。
 自室に戻ったカインを見送り、目覚めたときのケイナがどうなっているか分からないので、アシュアはしかたなくケイナの部屋で夜を明かした。
 朝になって目を覚ましたケイナの態度はアシュアも呆れ返るようなものだった。
「なにやってんだ、そんなところで」
 疲れ切った様子でソファに腰かけているアシュアを見てケイナは言った。
「おまえの寝顔を一晩中見ていたくて」
 アシュアはやけくそで答えた。
 ケイナの人格はやはりどこかで入れ代わったのだ。彼はきっとカインを殴ったことを覚えてはいない。
「おまえ、今この時点で『ライン』を辞めたいと思ってるか?」
 アシュアはじろりとケイナを見て言った。ケイナは目をそらせた。
「やっぱりそんなことを言ったのか……」
 彼は答えた。
「覚えてないのか?」
 アシュアは疑わし気にケイナを見た。ケイナはうつむいたまま髪をかきあげてうなずいた。
「途中で記憶が途切れてる…… おれ、何かしたか?」
「いや」
 アシュアは即座に答えた。
「鎮静剤がんがん打ってたからぐっすり眠ってた」
 アシュアを見るケイナの目は決してそれを信じてはいないようだったが、彼は何も言わなかった。
 ケイナは怯えている。アシュアはそう思った。
「まあ、いろいろ喚き散らしてたけども冗談半分でこっちも聞いてるから気にするな。セレスはちゃんとおれたちもガードするから。おまえ、自分だけを責めんじゃねえぞ。セレスはそんなおまえを望まないからな」
 アシュアが言うと、ケイナはうなずいた。彼らしからぬ素直な態度だった。
 このケイナももしかしたら本当のケイナではないかと思うと、アシュアは複雑な気持ちだった。
 ジェニファが暗示を解く方法を知っていればいいんだが。
 アシュアは小さく息を吐いた。

「左の上顎と下顎との接合部分の損傷が大きかったんだ。分かるかね」
 医師はスキャンした顎の画像をセレスに見せながら言った。
 セレスはうなずいた。
「ここは普段よく使う場所だから骨部再生促進をしてるけれど、もしかしたらあとで何か症状が出るかもしれない。何か異常に気がついたら早めに言うんだよ。ほうっておくと口を開けることができなくなる。やはり訓練に復帰するには一週間かかりそうだね。講議のほうは明日から出てもかまわないが、大口あけてのおしゃべりは禁物だ」
「はい」
 医師は冗談を言ったつもりなのだろうがセレスはとても笑うどころではなかった。
 また一週間も訓練に出られない。落胆は生半可なものではなかった。
咀嚼(そしゃく)はできるから時間をかけてゆっくり食べるようにしなさい。あまり堅いものは避けるように。補食の流動食を出しておくから、それと一緒に。そうすれば少しでも早く回復が見込める」
 医師は慰めるように言った。セレスは立ち上がると医師に一礼して医療室をあとした。
 訓練を休んでしまったら取り戻すのに倍の時間がかかるのは分かっていた。だけど、どうしようもない。
 時計を見ると夕食の時間をとうに過ぎていた。でも、食べて体力をつけないと早く復帰できない。
 医療室に行く前に食事をすませればよかった、と思った。
 どうせ余りものしかないと思いながらダイニングに向かい中を覗き込むと、案の定もう人の気配はなかった。
 いや、奥にひとりだけ座っていた。
 ユージーだ。
 やはり食事は諦めようと踵を返しかけたとき、ユージーの声が響いた。
「ちゃんと食えよ! 訓練に差し支えるぞ」
 セレスは躊躇したが、思いきって足を踏み入れた。
 大皿からこそげとるように残り物の料理をすくって自分の皿に入れていると、背後でユージーの声がした。
「厭な思いをさせて悪かったな」
「え?」
 セレスは思わず手をとめて振り返った。ユージーは背を向けて座ったまま振り向かなかった。
「つくづく何をしでかすか分からねえやつらだ。バッガスを2回も半殺しの目に遭わせることになるとは思わなかった。小汚い変態野郎を全員報告させたはずだった。まさかまだ残っているなど思いもしなかった……」
 セレスはユージーの言っていることの意味を飲み込むまでに相当の時間がかかった。
「そんなところに突っ立ってないで、座って食えよ」
 ユージーはトレイを持ったまま立ち尽くしているセレスに顎で椅子をしゃくった。
 セレスはあえてユージーのそばには座らなかった。彼への警戒心を解くことはできなかった。
「今度はもう容赦しないつもりだった。場合によっては腕の一本くらいは使えなくしてやってもよかった」
 ユージーはこちらを見ずに話した。
 セレスは背中にぴりぴりとした緊張が走るのを覚えた。
「だが、あいつは鼻や口から血を流して泣いて懇願するんだ。自分がやったんじゃないと……。最後にあいつの顎を蹴り飛ばして病院送りにしてやった。おまえが受けたほどの傷は与えられなかったが……」
 ユージーはからん、とフォークを皿に放りなげ、セレスを見て笑った。
「おかげでおれは二週間謹慎だ。メシの時間しか部屋から出られない。だからしばらくサポート訓練をしてやれない。悪いな」
「悪いけど、あんたの言うこと今はあんまり聞きたくない」
 セレスは言った。
「バッガスを殴ったくらいで終わるとでも思ってんのかよ?」
 ユージーはその言葉に振り向いてテーブルの上のトレイを睨みつけているセレスの顔をちらりと見やった。
「怖かったし…… 死ぬんじゃないかと思ったよ。でも、今は大丈夫だ。だけど、ケイナはずっと苦しんで来たんだ。そのために感情抑制装置までつけられて……」
 セレスは唇を噛んだ。
「あんた、そのこと分かってんのかよ。なんでこんなことするんだよ」
 ユージーは皿に置いたフォークを持ち上げてもて遊んだ。
「おまえがどう思おうと自由だし、おれもいちいち弁明する気もない。実際、バッガスを病院送りにしたって、おれはカートの名前のおかげで謹慎で済んでるんだ。おまえがむかつく気持ちも分かるよ」
 セレスは黙って皿を見つめた。
「しかたない。そばにいて守れるんならそうしてる。 だけど、おれはあいつに会えないんだ」
「え?」
 会えない?
 セレスはユージーを訝し気に見た。彼が何を言おうとしているのか分からなかった。
「おれは、ここに入って4年になる。ケイナが入って一年目にあの事件が起こった。だが、おれはあいつに一度も会ったことがない。おれはケイナがここに入ってからあいつの身長が今どれくらいで、髪型がどんなので、どんな声になっていて…… 全然知らない」
「知らないって…… それは…… あんたとケイナじゃカリキュラムが違うからだろ」
 それを聞いてユージーが嘲るような声を漏らした。
「カリキュラムが違うからって4年も一度も顔を見たことのない人間がいるなんて、この狭い『ライン』の中で起こりうると思うか? あいつは毎晩自己トレーニングでトレーニング室に行っているはずだが、おれもほとんど毎晩行っているんだぞ。それでも会わないということが考えられるか?」
 セレスは黙ってユージーを見つめた。ユージーは肩をすくめた。
「おれはあいつのことをほとんど知らないのに、しょっちゅうあいつがケガをしたって話が耳に入ってくる。それで、おれがあいつを陥れようとしたってことになってる。おれが会わないのになんでバッガスたちはケイナの顔を見る? おれはおまえに会うのに、おまえが顔を見るケイナをどうしておれは見ることができない?」
「あんたの言ってることが分からないよ……」
 セレスは困惑して言った。ユージーはかすかに笑った。
「おれだって分からない。 ……まあ、もういいさ。おれは早くここを出なければならない。父の跡を継がないといけないからだ。親類中がうるさい。生まれたときから定められた道ほどうっとうしいことはないが、もうこれはおれの運命だ」
 ユージーはセレスを見た。
「おまえはあいつに好かれているという話を聞いた。あいつの時間は残り少ない。できるだけそばにいてやれ。おれももうおまえやケイナにちょっかいかけないように今以上にあいつらを見張っておくから」
「時間が少ない?」
 セレスは目を細めた。
「なんだ、それ……」
「知らないのか……?」
 ユージーは顔をしかめた。
「ケイナはとっくにおまえには言っていると思った……」
「いったいなんのこと……」
 セレスは不安で心臓が激しく鼓動を打つのを感じながらセレスはユージーを見つめた。
 そういえば、前にケイナはそんなことを匂わせることを言った。あのときは詳しく聞くことはできなかった。
「ケイナはどこかに行くの?」
 ユージーためらっているような様子だったが、しばらくして口を開いた。
「ケイナはここを修了したら…… ホライズン研究所に入ることになっている」
「ホライズン…… 研究所……?」
 セレスはつぶやいた。
「リィ・カンパニーの研究所だ。ケイナは小さい頃からそこでずっといろんなことを調べられていた。最初は14歳であそこに行くはずだった。でも、おやじはあいつの才能が惜しくて『ライン』に入れることを決め、頑固にそれを押し通した。結果、契約は18歳まで伸びたんだ。だが、それ以上はもう伸ばせない……。これ以上契約を変更するとカンパニーは資金や技術支援をストップすると言ってくるだろう。ケイナが抵抗すればよってたかって強制連行だ」
 ユージーは手に持ったフォークを見つめて言った。
「ケイナは…… 研究所に入って何をするんだ?」
 沸き起こる不安を感じながらセレスはユージーを凝視していた。ユージーはちらりとセレスを見て目を反らせた。
「何もしない」
「何もしない?」
「そう。何もしない。何もできない、とも言うな。あいつは被実験体として仮死保存される」
「嘘だ……」
 セレスは思わず立ち上がった。テーブルの上の皿が音を立て、フォークが床に落ちた。
「仮死保存て…… だって、ケイナは…… 人間だぞ!」
「おれだってそう思ったよ!」
 ユージーは怒ったような口調で答えた。
「おやじをなじったこともあった。おやじがあいつを引き取ったとき、あいつは7歳くらいだったと思う。あいつはおれと全く正反対の性格で、小さい頃はよく笑った。弟ができておれは嬉しかったよ。だけど、あいつを引き取ることになったときには、すでにあいつのホライズン行きの話は決まっていたんだ。そんな人間の権利を無視した契約をなぜ結んだのかとおれはおやじに食ってかかったよ」
「ケイナは…… 最初からそのことを知っていたのか?」
「まさか」
 ユージーは呆れたようにセレスを見た。
「そんなこと、本人に知らせるはずがない。ましてや子供の時期に。でも、あいつは頭がよかったからな。14歳でおやじがそのことを伝える頃にはもうとっくの昔に知っていたような顔をしていたらしい」
「……」
 セレスは混乱していた。
 ユージーの話すことを本当に鵜のみにしていいのか? ユージーはただ自分を正当化させるためにこんなことを言っているだけじゃないのか? 信じてしまうとそれこそ彼の思うつぼではないのか?
「ケイナの契約破棄についていろいろと考えてみた。だけど、どうしようもないことが分かった。どこかにケイナを逃がしてやっても必ず連れ戻されるだろう。そればかりじゃない。下手をするとカート一族はかなり危うい立場に陥る」
 ユージーは肩をすくめた。
「だいたいリィの御曹子にじきじきに見張らせてるんだ。やることは全部筒抜けだ」
「リィの御曹子? 誰が?」
 セレスは戸惑いながら言った。ユージーは疑わしそうな目をこちらに向けた。
「おまえは本当に何も知らないのか?」
 セレスは激しく首を振った。
「何のことだか分からないよ」
「カインとアシュアは普通の訓練生じゃねえよ」
 ユージーは吐き捨てるように言った。
 セレスはドキリとした。カインとアシュアは普通の訓練生じゃない……。真っ向から反論できない部分がセレスにもあった。
「おまえくらい勘の鋭いやつなら分かるだろう。あいつらはカンパニーが派遣したガードだ。『ライン』の訓練なんかとっくに終了してる特別訓練を受けた兵士だよ。カイン・リィはリィの息子だぞ。名前を見て気づかなかったのか?」
「……」
 セレスはユージーから目をそらせた。
 気づいていながらあえて知らないフリをしていた部分を全部露呈されたような気分だった。
 怖い、と思った。できればユージーの前から逃げ出したかった。
 しかしできなかった。
「カインもアシュアもケイナの友人だよ。見張るとかそんなんじゃないよ……」
 セレスは言った。半ば自分に言い聞かせるような感じだった。
 ユージーは冷ややかにセレスを見つめた。
「カインがリィの御曹子で、本当にケイナの友人であるなら、ケイナを助けることができるのは彼しかいない。次期主導権を持つのは彼だ。彼が本当に友人としてケイナを助けようとしているんなら、おまえもそれに加勢しろ。あいつがそんなことをするとは思えないけどな」
 心臓が激しく動悸を打っていた。
 セレスは首を振りながらユージーを見た。
「ユージー…… おれはあんたが分からない…… あんたの言うことを そのまんま信用する気になんか…… とてもなれない。あんたはどうしてそんなことを言うんだ?」
「どうして?」
 ユージーはセレスの言葉を反芻して笑った。
「助けられるんならおれがやってる。あいつは血が繋がってなくても10年以上も一緒に暮らした弟だぞ」
 そう言って、彼はセレスの顔を見据えた。
「おれの顔を見て兄さんと言って駆け寄って来たんだぞ。母はおれが生まれてすぐに死んだ。残ったのは押しつぶされそうなカートの家を継ぐという責任だけだ。ケイナは…… ケイナはおれのことを跡継ぎとか損得感情なしでおれに笑いかけた唯一の存在だ!」
 セレスは言葉を失った。ユージーは険しい顔で言い募った。
「おれが『ライン』内で何を言われているかくらいは知っている。だがな、おれの評判は良かろうと悪かろうとそれは一切将来には響かない。カートの名前がある限り何も揺らがない。なら、いくらでもやってやるよ。バッガスひとり殺したっておれには何の咎めもないだろう。だったらその立場を利用してやるよ。だけどその立場のおかげでできないことがひとつある。それは、ケイナの人生の消滅を助けてやれないことだ!」
 ユージーはトレイを持って立ち上がった。
「どうしてそのことずっと黙ってたんだ…… みんなあんたのことそんなふうに思ってないよ……」
 セレスは険しい顔のユージーを見て言った。
「ふざけんな」
 ユージーは答えた。
「ケイナとおれのことを分かろうとする人間がいったいどこにいた。おまえもそうじゃなかったのか。名誉だ地位だ財産だ、みんな色眼鏡で見やがって…… たったひとりの人間も救えないのに、おれは将来人を守る立場につくんだ。くそくらえ!」
 ユージーはそう言うとトレイを洗い場の差し出し口に放り込んで食堂から出て行った。
 セレスは呆然としてそれを見送った。
「ケイナは?」
 部屋には入ってきたアシュアにカインは言った。
「うん…… 今日はとりあえず普通にカリキュラムこなして部屋に戻った」
 アシュアは疲れたような顔をして座り込んだ。
「何か分かったか?」
 アシュアはデスクに向かっているカインに尋ねた。
「ジェニファはアパートに専用の回線を持っていなかったと思う」
 カインは振り向いて答えた。
「そもそも外の人間とのコンタクトは取らないんだろうな。ノマド出身だし…… ただ、念のため調べてみたら、やっぱり最近一度だけケイナに直接連絡してきていたよ。ただ、発信元はジェニファの部屋じゃない。どこかで借りたんだろう」
「ジェニファが『ライン』に?」
 アシュアは目を丸くした。カインはうなずいた。ちょうどトウが『ライン』に来訪したときだったが、それはアシュアには言わなかった。
「物騒なことをケイナに言ってるよ」
 カインが手招きしたので、アシュアは気乗りのしない様子で立ち上がり、カインに近づいた。
 カインがキイボードを押すとジェニファの声が聞こえてきた。
(そこを出たほうがいいと思うの。命の危険があるんじゃないかしら)
(ケイナ、あなたの体は何か大きな爆弾を抱えてるわ。あなたはいずれそのために死んでしまう運命だった。 ……あの子はあなたを助けてくれる。あの子はあなたの剣となり盾となってあなたの力になると思うわ。だからふたりでいつも一緒にいなければならないの)
「問題はこのあと」
 カインはつぶやいた。
(ケイナ、『ノマド』には緑色の髪と緑色の目を持つ者がいたのよ)
(それじゃあ、遅すぎるわ! ケイナ、『ノマド』に帰って!)
「『ノマド』に帰ってって……」
 アシュアは戸惑った表情になった。
「ケイナが『ノマド』に戻ればどうにかなるのか?」
「分からない…… でもケイナは『ノマド』にいたんだ。ケイナの両親はケイナを『ノマド』に託したたあと死亡しているんだろう? もしかしたら、『ノマド』にケイナを託すことが彼を助けることになるのだと知っていたのかもしれない」
「うーん……」
 アシュアはやはりよく分からないという表情で声を漏らした。
「ぼくも全く分からないよ……」
 カインは頬杖をついた。
「でも、緑色の髪と目の人間がかつては『ノマド』にいた。そのことがケイナと何か関係があるんだろう」
「セレスの髪と目は……」
「うん…… それも」
 カインはため息をついた。
「ジェニファにこっちから連絡とれないんだったら、会いにいくしかない」
 アシュアは厭な予感がして顔をしかめた。その顔をカインは見つめて言った。
「明日一日で『ライン』のゲートのパスワードを読んでおく。夜になったらここを抜けだせ」
「お、おまえが行ったほうがいいんじゃないのか?」
 アシュアは唸った。
「朝までに戻って来るんだ。そのときに内側からまたゲートを開けるのはぼくしかいないだろう」
 アシュアは顔をしかめて渋々うなずいた。
「やってみるよ」
 彼は答えた。
「ジェニファはいい人だと思うけど、なんか苦手なんだよな……」
 カインはじろりとアシュアを見た。
「分かった。分かったよ。行くよ」
 アシュアは答えた。

 ケイナはもう部屋に戻って眠っただろうか。
 セレスは自分の部屋でじっと考え込んでいた。
 ユージーの言葉を何度も何度も頭の中で反芻した。
 ユージーはケイナを憎んでなんかいない。むしろケイナを助けたかがっていた。
 本当にそうなんだろうか。
 ケイナは18歳になったらホライズンに行く。リィ・カンパニーとそういう契約が交わされている。
 仮死保存だなんて……。
 どうして?
 ロウラインの部屋なら、すぐ横にケイナがいたのに、ハイラインにあがったほうがケイナの距離が遠い……。
 ケイナ、教えてよ。あんたは本当に18歳になったらいなくなるの?
 カインとアシュアはあんたを見張ってたの? あんたの人生って、じゃあ、なんなんだよ。
 セレスはがたりと立ち上がった。
「おれ、絶対納得できない」
 誰に一番聞きやすいかと考えたとき、セレスの頭に浮かんだのはアシュアだった。
 アシュアに聞こう。アシュアならきっと教えてくれる。真正面から聞いたら、彼はきっと逃げない。
 部屋を出て隣のアシュアのドアに向かったとき、セレスはそのすぐ向こうに人影を見つけてぎょっとした。
 部屋をひとつ置いてその隣はケイナの部屋だった。ケイナは今まさに自分の部屋に入ろうとしているところだったのだ。
「どうした」
 彼は怪訝な顔をしてセレスを見た。
「あ、えと……」
 セレスはくちごもった。
「あ、あの…… 講議に必要な資料が……」
 言ってしまってからセレスは顔をしかめた。おれって…… なんてバカなんだ……
 ケイナはうんざりしたように髪をかきあげ、そして手招きした。
「はいんな」
 セレスはうなだれてしかたなくケイナの言葉に従った。
「顎はどうだ」
 ケイナは持っていたタオルを椅子の背にかけて振り向かずに言った。
「うん……」
 セレスは目を伏せた。
「やっぱり一週間は訓練だめだって」
「そうか」
「ケイナ…… ごめんよ。おれ、全然だらしなくって。あんたをまたあっちの世界に行きかけさせた」
 ケイナはしばらく黙っていたが、セレスを振り返ると近づいて来た。
「行ってないよ。もう、暴走はしない」
「……」
 セレスはケイナの顔を見上げ、そしてまた目を伏せた。
 ケイナはセレスをしばらく見つめたあと再び口を開いた。
「おまえ、謹慎処分受けるのが怖いか?」
「え?」
 セレスは思わずケイナを見た。
「謹慎じゃすまないかな…… でも、まあ除籍にはならないかも」
 ケイナはかすかに笑っていた。
「何をするの?」
「おれについてくる?」
「何をするの?」
 再び尋ねたが、ケイナはそれには答えずデスクの上からヴィルのキイを取り上げた。
「まさか」
 セレスは仰天した。
「どっちでもいいよ」
 ケイナは言った。
「あんたにつき合うよ」
 セレスは慌てて答えた。

 ケイナは廊下を突っ切って『ライン』のゲートに向かった。
 セレスはびくびくしながらそれに続いた。
 『ライン』を脱走する?
 でも、ケイナと一緒なら怖くない。そんな気持ちもあった。
「今日の当直担当はホッジスなんだ」
 ケイナは言った。
 ゲートは中からは許可がなければ開かない。おまけに監視カメラがついている。
「ホッジスはいつも午前12時45分になると席を立つ。たぶん腹がすくんだろう。戻ってくるのが50分だ。その間にセキュリティコードを破って出る」
 セレスは驚いてケイナを見た。
「どうしてそんなことを知っているの?」
 ケイナはセレスをちらりと見てかすかに笑った。
「何度も脱走しようと思ったからだよ」
「え?」
 セレスは呆気にとられたが、それ以上ケイナは何も言わずにセレスについてくるように顎をしゃくった。12時45分になったからだ。
 ケイナはホッジスのいた監視室に身を滑り込ませると、手馴れた様子でコンピューターのキイを操作した。
 30秒ほどで出てくると、セレスに走るように目配せし、ふたりはゲートを走り抜けた。
「ホッジスが戻ってきたらすぐにバレるよ」
 セレスは大急ぎでケイナとともにエレベーターに駆け込むと言った。
「バレないよ」
 ケイナは答えた。
「おれたちが出たら再び閉まるようにセットしてきた」
「なんでセキュリティコードを知っていたんだ?」
 ケイナは髪をかけあげてシースルーになっているエレベーターの外の風景を眺めていたが、セレスをちらりと見て再び外に目を向けた。
「キイボード見ただけで分かることがあるんだ。おまえもそうだろ?」
「分かるわけないだろ」
 セレスは口を尖らせてケイナを見た。ケイナは可笑しそうにくすくす笑った。
 束の間ふたりは外の景色を見つめていた。
「ケイナ……」
 しばらくしてセレスは口を開いた。ケイナの青い目がこちらを向く。
「どうして何も聞かないの?」
 ケイナはすぐに目をそらせた。長いまつげが夜のライトの中で光っている。彼はしばらくしてから言った。
「何を聞くってんだ……」
「……」
 セレスは黙ってケイナの視線の先を追った。エアポートにちょうど船が停船するところだった。
「自由にいろんなところに行けたらいいな……」
 ケイナはぽつりとつぶやいた。

 エレベーターが最下階に着き、ふたりは静まり返ったエントランスを抜けて駐車場に向かった。
「乗れよ」
 ケイナはヴィルの前座席にまたがると自分の後ろに顎をしゃくった。セレスはそれに従った。
 ヴィルは勢いよく駐車場を滑り出すとふわりと上昇し、西に向かった。
「どこへ行くの?」
 セレスは尋ねた。
「湖」
 ケイナは答えた。
「湖?」
「おれのアパートよりもまだ西に行ったところに人工だけど湖が作られてるんだ。おまえ、行ったことないのか?」
「ないよ」
 ケイナはそれ以上何も言わなかった。
 1時間半ほど飛んだ頃、目の前に見渡す限りの水平線が広がった。
 セレスは思わず目を見張った。水平線の彼方に地球の青い姿が浮かんでいる。
 ケイナは湖を取り巻く林を越えて、湖岸の砂の多い部分にヴィルを降下させた。
「すごいなぁ……」
 セレスはヴィルを降りると感嘆のため息とともに星空の下で輝く湖を見つめ、ゆっくりと波うち際に歩み寄った。
「水がきれいだ……」
 セレスは足下に寄せる透明な波を見てつぶやいた。
「ほんとは海のつもりで作ってんだよ」
 ケイナは砂浜に腰をおろして言った。
「だけど、水は淡水だし、ちっせぇし…… どう見たって湖だよな……」
「ケイナは海を見たことがあるの?」
「ない」
 ケイナは即座に答えた。
「おれはここの『ノマド』で育ってるんだ」
「ほんとの海はこんなにきれいじゃないよ」
 セレスは肩をすくめた。
「海水だけじゃなくて、周囲の大気も汚れているから防菌マスクなしでは近付けないんだ」
「知ってるよ…… 『ライン』のライブラリで見た」
 ケイナはぱたりと身を倒して仰向けに寝転んだ。
「ここだって似たようなもんさ。空調システムが壊れたら息できねぇじゃねえか」
「今度一緒に地球に行こうよ。休暇のときにでも」
 セレスはケイナに近づくと、その脇に腰をおろした。
「叔母さんにケイナのこと紹介するよ。叔母さんの作るミートパイはうまいんだ」
 ケイナはぼんやり空を眺めていたが、やがてその目を閉じた。
「地球か…… いいな……」
「そうだよ。絶対一緒に行こう」
 セレスは言ったが、ケイナは何も言わなかった。
 セレスはケイナが眠ってしまったのではないかと思った。
 眠れるなら眠ったほうがいい。そう思って再び湖に目をやろうとしたとき、ケイナが口を開いた。
「おまえといると、どうしてこんなに気持ちが落ち着くんだろうな……」
 セレスはケイナの顔を見た。
 ケイナは遠い目をして空を見ていた。
 この人の顔は本当にきれいだ……。セレスは改めて思った。
 肌がまるで女性のようにきめ細かい。
 今の時期にありがちな吹き出物やにきび跡なんか片鱗も見られないし、それぞれのパーツが意識して作られたように整然と配置されている。
 長く続いた緊張生活のおかげで荒んだ翳りを見せる瞳も、笑うとかすかに人なつっこさを感じさせる。
 均整のとれた体も申し分ない知能も、彼はありとあらゆる人の目を奪う要素を持ち合わせている。
 こんなケイナがどうしていろんな人間から反目を受けなければならないのか理解できなかった。
 ユージーはケイナのことをあんなに考えてたのに。
 いったい誰がケイナを憎んでいるんだろう。
「おれも、ケイナのそばにいると一番落ち着くよ」
 セレスは言った。
「おれさ、アルとずっと仲が良かったんだ。アル・コンプトン。ロウラインで向かいの部屋にいたやつなんだけど……。おれ、地球からこっちに来たとき、ジュニアスクールでみんなとうまくいかなくてさ。おれの髪の色や目の色や、なんやかやでどうしても回りから浮いちゃうんだ。でも、アルだけはそんなの関係なしで、おれのこと友だちとして見てくれてたんだ。いつまでも一緒にいたいけど、おれたちもいつかは別の道を歩くようになるんだなって思う。 でも、ずっとずっと友人でいようなって…… そう約束したんだ」
 ケイナは寝転んだまま、黙ってセレスの話を聞いていた。セレスはふと視線をおとした。
「いつからだったかな…… おれ、アルのことあんまり考えなくなってた…… ケイナと空港に行った休暇の時、おれ、アルとほんとは約束してたんだ。あいつのコテージに行くって…… でも、おれ、そのこと全く忘れてた。休暇が終わってトニに言われるまで思い出さなかったんだ。でも、アルは怒らなかった。それより心配してた、って言ってた。それで……」
 セレスは言葉を切った。
「おれのこと、だんだん遠くなってく気がするって言った…… おれ、今でもアルのことを大事に思ってるよ。だけど…… だけど、アルの言ったことはある意味では当たってる……」
 セレスは髪をかきあげた。
 ケイナの癖がうつってしまっていることに自分では気づかなかった。
「おれの頭の中はアルよりもケイナのことのほうが多くなってるんだ。どっちが大事かなんて考えたくもない。考えたくもないけど…… おれ、分かるんだ…… ケイナのことのほうがおれにとって重要になってるんだよ」
 セレスは座ったまま足下の砂を蹴った。
「おれ、どっかで別の誰かのことをケイナよりも重要に思うようになるんかな。人に目移りしちゃうのかな…… そんなふうに考えると、自分が最低な感じがするんだ」
 セレスはそこまで言ってはっとしたような顔になった。
「なんでこんなこと言ってんだろ。こんなこと言うつもりじゃなかったんだ……」
 セレスはがしがしと頭を掻いた。そしてケイナを見た。
「ごめんよ。おれ、ケイナともずっと友だちでいようと思うって、言うつもりだったんだ」
 そこまで言って、ケイナの表情がさっきと違うことに気づいてセレスは口をつぐんだ。
 ケイナは同じように空を見ていたが、その目に険しい光が宿っていた。
「ケイナ……?」
 セレスはおずおずと言った。
「なんか…… 怒ってる……?」
「別に」
 ケイナはぶっきらぼうに言うと身を起こした。
 横顔が怒りに満ちている。やっぱり怒っているじゃないか……。
「ケイナ…… ごめん、おれ、話すの下手だし、言い方間違えただけだよ。謝るよ。だから、ケイナも思ってること自分の中に閉じ込めないで口に出して言ってくれない?」
 しかしケイナは黙って立ち上がると波打ち際に沿って歩き始め、そのままずんずん水際を歩いて行った。
 セレスは慌ててあとを追った。
「ケイナ、どうしたんだよ。おれ、こんなとこまで来てケンカして帰るのいやだからな!」
 ケイナの足がぴたりと止まった。彼が振り返ったので、セレスは殴られるのかと思い思わず身構えた。
 しかし、予想に反して彼はかすかに笑みを浮かべていた。
「おまえはいいな…… なんでも思うことを口に出せて……」
「わ、悪かったな……」
 セレスは戸惑ったようにケイナを見て口を尖らせた。
「おまえみたいに自分の気持ちを言葉で表現できたらどんなにいいだろうって思うよ……」
 ケイナは波うち際に目を落としてつぶやいた。
「ケイナだって言ってることもあるよ。少しずつ増えてるよ。前はもっと何も言ってくれなかった」
 セレスは言った。
「今、何を怒ってたの? やっぱりおれが言ったことだよね?」
 セレスはケイナに一歩近づいて尋ねた。ケイナはちらりとセレスに目をやって、再び目を伏せた。
「怒ってたんじゃない…… 自分が分からなくなったんだ……」
「え……?」
 セレスは怪訝な顔をした。
 彼は一生懸命言葉を探しているようだった。セレスは辛抱強く待つことにした。
「おまえが…… アル・コンプトンの話をした時…… おまえがいつかおれよりもほかの人間のことを大事に思うようになるのかもしれないと言った時……」
 ケイナは打ち寄せる波に足の先をひたした。靴の先が濡れたが気にならない様子だった。
「こういうのって…… つらいってことなのかな……」
「ケイナ……」
 セレスは何かいい言葉がないかと思いをめぐらせたが、見つけることができなかった。
「決心してたんだ…… おれはみんなに甘えてしまう。どんどん自分が弱くなっていくような気がする」
「人に頼ったり甘えることって悪いことじゃないよ」
 セレスはうつむくケイナの顔を見て言った。
「おれもカインやアシュアも、ケイナのことが好きだよ。人間なんだし、わがまま言うことだってあるだろ? そんなの別になんとも思わないよ。つらいならつらいって言っていいよ。言って欲しいよ」
「いつかは離れなくちゃならないんだよ!」
 ケイナはセレスを見て怒鳴った。その顔はさっきとうって変わって険しくなっていた。
「おれは18歳になったら『ホライズン』に行く。外界から隔離され、一生友人と笑い合うことも怒ることもない。血液を抜かれ、脳波を調べられ……」
 そこで彼は唇をかみしめ、そして続けた。
「勝手に精子を取られ、おれの知らない間におれの子孫を残される……」
 セレスは絶句してケイナを見つめた。ケイナはいまいましそうにかぶりを振った。
「なんで、こんな時に…… なんでこんな時になって……」
 ケイナは再びセレスに背を向け歩き始めた。
 波打ちぎわぎりぎりを通るのであっという間に足がずぶぬれになった。セレスは慌ててケイナのそばに駆け寄った。
「ケイナ、足が濡れてるよ」
「怖いんだ……」
 ケイナはずんずんと歩きながら絞り出すような声で言った。
「ホライズンに行くのが怖いんだ…… 行きたくない。本当は行きたくなんかない!」
 ケイナは怯えて震えていた。まるで小さな子供のようだ。
 それを振り払うように彼は足を前に出していた。
 セレスはしばらくためらったのち、ケイナ前に回り込んで力づくで彼の腕を掴んだ。
 セレスの手が触れた瞬間、ケイナはびくりとして手をふりほどこうとした。顔にあからさまな嫌悪感が浮かんでいる。しかしセレスはおかまいなしに怒鳴った。
「おれはケイナがどっかに行くことなんか絶対に許さないからな! 絶対許さない!」
 無我夢中で言った。
「アシュアもカインも絶対そんなの望んでないっておれ、信じてる! おれ、何とかしてケイナを助けるよ! 絶対助けるよ! なんか方法があるはずだよ!」
 ケイナは混乱していた。セレスが掴んでいる腕が熱い。堪えられない嫌悪感が襲った。
 彼はセレスの手を無理矢理振りほどくと、セレスから離れてあとずさりした。
「ケイナ……」
 セレスは戸惑ったようにケイナを見つめた。
「おれに…… 触るな……」
 ケイナはそう言って顔を背けた。
 嘘だ。そうじゃない。ケイナの頭にぐるぐると混乱した思いがうずまいた。
「おれを、そんな目で見るな……」
 ケイナは目をしばたたせて呻いた。
「どうすれば……」
 セレスはつぶやいた。
「どうすれば、いいの…… どうすればケイナはラクになるの。こんなケガ、おれ、もう全然気にならないよ。ケイナが傷つかないんなら、なんだって受けて立つよ……」
 セレスは自分の顎を押さえてつぶやいた。
 剣となり、盾となり。
「やめろ……」
 彼に触れられない。触れたらきっと壊してしまう。
 そばにいたいと思うのに、そばにいることに罪悪感を感じる。
 どうすることもできない自分をケイナは感じていた。
 ケイナがようやく平静を取り戻したのは、それから一時間もたってからだった。
 セレスはケイナのアパートに行くことを提案し、ケイナは素直にそれに同意した。
 アパートへはセレスがヴィルを運転した。寒いのか、背後でケイナの体が小刻みに震えているのをセレスは感じていた。
「もうすぐ夜が明ける……」
 ヴィルから降りると、ケイナは空を見てつぶやいた。
「そうだね……」
 セレスは答えた。
 ほかの住人を起こさないようにそっとケイナの部屋に入り、セレスはケイナにシャワーを浴びて温まることを勧めた。ケイナは無言でそれに従った。
 ケイナがバスルーム入っていくのを見て、セレスは窓の外に目をやった。あと二時間もすれば『ライン』では点呼が始まるだろう。
 ケイナと自分がいないことに気づいたら、きっと『ライン』中大騒ぎになるはずだ。
 でも、そんなことはどうでもいいと思うようになっていた。
 このままケイナと『コリュボス』から脱出しちゃおうか。
 そんなことを考えてあまりのばかばかしさにセレスは笑った。
 ケイナのそばにいたい。ケイナとともに生きていけたらどんなに毎日が楽しいだろう。
 自分は彼のことをどう思っているんだろう。友人? それとも兄? なんだかどちらもしっくりこなかった。
 出会って過ごした日も交わした言葉もとても少ないが、彼の存在は友人や兄よりももっともっと近くて大切な存在のように思えた。
 少し眠くなったので、セレスはあたりを見回した。前にケイナが毛布を出してくれたクローゼットを思い出すと、そこから毛布を一枚取り出してくるまり床に座った。
 守りたい。ケイナと一緒にいたい……。
 どうしてこんな気持ちになっちゃうんだろうな……。
 そんなことを考えながらケイナがシャワーから出てくるまで待っているつもりだったが、意に反してまぶたは異様に重くなり、やがてセレスは小さな寝息を立て始めた。
 しばらくしてケイナはシャワーから出てくると、毛布にくるまっているセレスを見て苦笑した。
 濡れた髪を拭きながらケイナはクーラーボックスからミネラルウォーターを出した。
「セレス、おまえもシャワーを……」
 そう言いかけてセレスに近づいたケイナの足が止まった。
「どうして……」
 ケイナはかすれた声でつぶやいた。
 手に持ったミネラルウォーターのボトルが床に落ちて大きな音をたてた。しかし、セレスは目を覚まさなかった。
 ケイナはタオルを顔に押し付けて大きく深呼吸をした。そして再びセレスに目をやって、かぶりを振った。
「なんだよ、これ……」
 毛布にくるまり、幸せそうな表情で眠るセレスの顔がさっきとは違っていた。
 セレスはセレスなのだが、骨格自体がまるで違う。
 毛布から少し出ている首は細く、浮き出た鎖骨は折れそうで、鼻梁に鋭角的な線がなくなりくちびるはふっくらと弧を描いている。
 明らかに少女の顔立ちだ。
『落ち着け…… 何が起こってるのか冷静に考えろよ……』
 ケイナは自分に言い聞かせたが、どうにも考えがまとまらなかった。
 さっきまで男だったやつがいきなり女になるなどどう考えても不条理だった。
「ケイ…… ナ……」
 ふいにセレスがつぶやいたので、ケイナは飛び上がらんばかりに驚いた。
 そしてそれが寝言だと分かると、安心すると同時にかっと顔に血が昇る自分に戸惑った。
 そうだ、ここにはジェニファがいる。彼女に助けを求めよう。
 そう思って動いた途端、床に落としたミネラルウォーターのボトルを思いっきり蹴り飛ばしてしまった。
 ボトルは部屋の端までふっとんでいって、大きな音をたてた。
「ケイナ?」
 セレスが目を覚まして顔を持ち上げた。
 ケイナはぎょっとしてセレスを振り向き、そして大きく息を吐いた。
 セレスは元に戻っていた。
「そんなところで寝てないで…… おれのベッドを使え」
 ケイナは絞り出すような思いで言った。
「いいよ、おれ、ここで。ケイナも寝て来なよ」
 セレスは目をこすって答えた。いつものセレスだ。
 幻覚を見ていたのだろうか。
「病み上がりなんだ。無理するな」
 ケイナは言った。セレスを見るのが少し怖かった。
「じゃぁ、一緒にベッドを使おう」
 セレスは毛布にくるまったままのっそりと立ち上がった。
 ケイナは思わず身震いした。冗談じゃない。
「ちょっと狭いかもしれないけどさ、寝相悪いのはおれ、兄さんで慣れてるからさ」
 セレスはくすくす笑い、ケイナの腕をひっぱった。
「ちょっとでも寝たほうがいいよ。あとのことは目が覚めてから考えればいいさ」
 どうかしてる。セレスは男だぞ…… おれ、絶対変だ。どうかしてる……。
 狂ったように心臓が動悸を打つのを感じながら、 ケイナは呪文のように頭の中で同じ言葉を繰り返した。

「ケイナがいない?!」
 カインは血の気が引くのを感じた。
 持っていたカップが床に落ちて中のコーヒーがじゅうたんにあっという間にしみ込んでいった。
「ケイナだけじゃない。セレスもだ。どこにもいない」
 アシュアは言った。
「あいつらどうも夜のうちにゲートのセキュリティを破って脱出したみたいなんだ」
 カインはくらくらと目眩がして思わずベッドの端に座り込んだ。
 まったくもう、こんなときに…… こっちが動く前に動きやがった……
「ブロード教官が点呼に反応しないから、様子を見て来い、とおれに連絡してきた。ほかの人間はまだ誰も気づいていないそうだ」
 アシュアは混乱したような表情で言った。
「最初に気づいたのがブロードでよかったよ。彼ならたぶん大騒ぎしないで対処してくれるだろ」
「何考えてんだ、あのふたりは……」
 カインは両手で顔をこすった。
「お前、何も見えなかったのか?」
 伺い見るアシュアにカインはかぶりを振った。
「ケイナのいきなりの行動はいつも読めない……。きっと急に思い付いたんだ……」
「さて…… いったいどこに行ったんだか……。もう戻らないつもりかな」
 アシュアは額をこすった。
「冗談じゃない」
 カインは吐き出すように言った。
「とりあえずブロードに捜索志願しよう」
 カインはベッドから降りた。

 ブロードは苦虫を噛み潰したような顔でふたりの顔を見上げた。
「何か心当たりがあるのか?」
「特定はできませんが、ぼくらは休暇中も彼と行動をともにすることが多かったので、察しをつけることはできます」
 カインは答えた。
「所長も、さっきおまえたちふたりに探しに行かせろと言ってきた。わざわざおまえたちふたりに。いったいどうなってるんだ」
 ブロードの顔にめずらしく困惑の表情が浮かんでいた。
 そうだ。一介の教官であるブロードはカインとアシュアが『ライン』にいる本当の目的など知らない。知っているのは所長だけだ。
 普通なら教官が連れ戻しに行くところなのに、どうして同じライン生が行くのかブロードにはどうしても合点がいかないらしい。ブロードが何かに勘付かなければいいが。
「所長が言うんだからやむをえない。とりあえず行け。戻ってきたらまっすぐに教官室に来いと伝えろ」
「イエッサー」
 ふたりは敬礼をしてブロードのオフィスをあとにした。
「参ったな。所長はトウに連絡したかな。戻ってきたらすぐにトウの呼び出しをくらっちまうぜ」
「今さらトウの何が怖いか」
 アシュアは呟きにカインは答え、アシュアは肩をすくめた。
「もう、取って投げるメガネがないから、直接平手が飛んで来るぞ」
「ごちゃごちゃくだらないこと言ってないで、ケイナの行きそうなところの当てを考えろよ!」
 叱りつけるカインの言葉にアシュアは思案するような顔をしたが、かぶりをふった。
「ケイナはだいたい休暇中も出歩いたことがないからなあ」
「まさか、自分のアパートに帰ってるってことはないだろうな……」
 カインはつぶやいた。アシュアは笑った。
「それ、当たりかもしれんぜ。あの先に湖があってケイナはあのあたりの景色が好きなんだと言っていたことがある。気持ちが落ち着くんだとさ」
「まさかとは思うが、行ってみるか……」
 カインは自分の部屋から小さなカード型の器具を持ち出してきた。アシュアがそれは何だと聞くとカインは肩をすくめた。
「これでセキュリティを突破するんだよ。こいつがなきゃ、ぼくたちはケイナのアパートに単独で入れないだろ」
「呼び鈴鳴らしてはいどうぞ、って言ってくれるとは限らんしな」
 アシュアは苦笑した。
 ふたりはそれぞれのヴィルにまたがると、ケイナのアパートに向かって飛び立った。
 そして彼のアパートの敷地に見慣れたケイナのヴィルがあるのを見てふたりは呆れるとも驚きともつかない表情で顔を見合わせた。
「もうちょっと派手なことをやらかしてくれると面白かったんだがな」
 アシュアはケイナのヴィルの隣に自分のヴィルを停めると、彼の座席を軽く叩いて笑った。
「ほかの住人が警戒しなけりゃいいんだが……」
 カインはそうつぶやきながらエントランスに近づくと、回りを伺いながらセキュリティシステムの入っている壁面の突起を外し、持ってきた薄いカードからコードを伸ばして取り付けた。そして小指の先ほどのキイボタンを押すとエントランスはあっけなく開いた。
「こんな簡単に開くならセキュリティの意味がないな」
 アシュアは言った。
「この機械は誰もが持ってるものじゃないよ」
 カインはそう答えてコードを片付けた。
「なるほど。『リィ・カンパニー』のシークレット製品ってわけか」
 アシュアは言ったが、カインは少し笑みを見せたきりだった。
 ふたりはケイナの部屋のある階まであがり、同じようにしてカインは持って来たカードで彼の部屋のドアを開けた。
 そっとドアを開けて中をうかがったが、すぐ目の前に見えるリビングに人陰はなかった。
 しかし、ヴィルがある以上ケイナが部屋にいることは間違いない。アシュアとカインはそっと部屋の中に入った。
 やはりリビングにもキッチンにも人の気配はなかった。
「シャワールームにも誰もいないぜ」
 アシュアは小さな声でカインに言った。
 ふたりは残った寝室に歩み寄り、そっとドアを開けた。
 そして中を見てそのまま呆気にとられて立ち尽くした。
 ベッドの上ではケイナとセレスがお互いの背中をくっつきあわせるようにして毛布にくるまって眠っていた。
 その寝顔はふたりとも全く何も警戒していない無防備そのものだった。
 ケイナが人の気配を感じて飛び起きないのが何よりも安心しきっている証拠だ。
「アシュア」
 カインはふたりから目を離さずに小声で言った。
「ジェニファを呼んで来て欲しい」
 アシュアは思わずカインを見た。
「ジェニファは暗示を解く方法を知っているかもしれない。ケイナがここにいるなら好都合だ」
「了解」
 アシュアが出ていったあと、カインは心地良さそうな寝息をたてているふたりに再び目を向けた。
 どうしてこんなに気持ちが沈むんだろう……。
 カインはそっと寝室のドアを閉めると、リビングの窓際に寄った。
 分かっている……。まだ気持ちの整理がついていないんだ。
 ケイナが安らぎを求める相手をセレスに求めたことが…… 悔しいんだ……。
 セレスとぼくらは違う。そのことは何をどうあがいても変わらない。
 いったいいつまでこんな思いを抱えることになるんだろう……。
 背後に気配を感じて振り返ると、アシュアが大きな黒いストールをかぶったジェニファを連れてそっと入ってきたところだった。
 もう彼女に説明したのか、と訝し気な目を向けるカインにアシュアは手を振ってみせた。
「ジェニファにそんなに説明はいらなかった。おれたちのこと待っていたんだとさ」
 カインは思わずジェニファを見た。ジェニファはにっこり笑った。
「あのふたりがここに来ていたことも知ってたのよ。たぶんね、ケイナが自分でここに来ないといけないって分かってたのね」
「……」
 カインは恐怖めいたものを覚えて思わずジェニファから目をそらせた。彼女が自分の心すらも読むのではないかと恐れを抱いたのだ。
「心療治療はやったことはあるの。あまり得意なほうじゃないけれど。だけど、暗示は早く解かないとまずいと思う。催眠術にかけて彼自身に聞き出すほうがいいと思うの」
 ジェニファはそう言うと懐から小さな丸い箱のようなものを取り出し、ふたを開けた。中には白い粉のようなものが入っていた。
「あの男の子にはもう少し深い眠りについてもらうわ。途中で起きると面倒でしょう」
 そしてそれを片手に寝室に入っていった。
「何をするつもりかな」
 アシュアがカインにささやいた。
「あの粉はきっと眠り薬のようなものなんだろう。とりあえずジェニファに任せよう」
 カインは答えた。
 ジェニファは粉をひとつまみ取るとセレスの鼻先に持っていき、そしてそのあとベッドをぐるりと回って反対側に眠っているケイナに近づくと、彼の額に手をあてて、何かを彼の耳もとでぼそぼそとつぶやいた。
 するとケイナはゆっくりと身を起こし、ジェニファはその手を持って寝室から彼を連れて出た。
「ケイナはまだ眠ってる状態なのよ。無防備だからあっという間に術にかかったわ」
 ジェニファは言った。
「悪いけれど、壁際にクッションを置いて、ケイナを座らせる場所を作ってくれない?」
 アシュアはそれを聞いて、床に散らばっていたクッションを拾いあげて壁際に置いた。
 ジェニファはケイナの手をとって彼をそこに座らせた。
 アシュアは怪訝そうにケイナの顔を覗き込んだ。ケイナは伏し目がちに目を開いているが、その焦点は全く合っていない。
「何も見えていないのか?」
 アシュアが聞くと、ジェニファはうなずいた。
「だって、彼はまだ眠っている状態ですもの」
 彼女はそう言って、ケイナの前に座った。
「名前を言える?」
 ジェニファはケイナの前にかがみこんで尋ねた。
「ケイナ……」
 ケイナはくぐもった声で答えた。
「ケイナ…… トラヴィア…… エスタス……」
「『ノマド』時代の名前ね……」
 ジェニファは言った。
「もう名前はない?」
 再びジェニファが尋ねた。ケイナの表情がかすかにゆがめられた。
「ケイナ…… カート…… カートは…… きらいだ……」
 カインとアシュアは顔を見合わせた。
「なぜ、嫌いなの?」
 ジェニファが尋ねるが、ケイナは答えなかった。
「ケイナ・カートもケイナ・トラヴィア・エスタスも同じあなたじゃないの?」
「彼は危険…… きっと…… いっぱい…… 人を…… 殺す……」
「人を殺す? 大丈夫よ、あなたはそんなことしたくないって思ってるでしょ?」
「……魔が…… いる……」
「暴走したときの自分のことかな……」
 カインはつぶやいた。ジェニファがしっと指をたてた。
「彼は…… なにも…… 見えてない…… 強烈な…… 色を求めてる……」
「……」
 3人は黙ってケイナを見つめた。
「……そいつは…… おれの首を…… 絞める…… だから…… 葬らなければ……」
「彼はあなた、あなたは彼なのよ。彼を殺したらあなたも死んでしまうわ」
 ジェニファは言った。
「このままだと…… 黒の敵が…… 来る……」
「黒の敵?」
 ジェニファの眉がひそめられた。ケイナに見せた水晶の板に映る黒いしみを思い出す。
「それはなんのこと?」
 しばらく沈黙が続いたあと、俯いたケイナの顔がゆっくりとあがり、そしてだらりと下がった左腕がスローモーションのように伸びてぴたりと一点を指差した。
 アシュアはその先を見て呆然とした。ケイナの指の先にはカインの姿があった。
 カインは凍り付いたようにケイナを凝視した。
 ジェニファはカインを振り返り、そして再びケイナに顔を向けた。
「ケイナ、彼はあなたの友人よ」
 しかし、ケイナの指はカインを差したままだった。
「トウ・リィ…… 彼の、母親……」
 ケイナはつぶやいた。
「……おれを欲しがってる……」
 ジェニファはカインを振り向いた。彼女はケイナが何を言っているのか分からないのだ。
 ケイナは腕をおろし、カインを見つめ続けた。
 カインは体中が総毛立つような気分になり、思わずあとずさりした。
「彼女の息子…… そして…… 『グリーン・アイズ』……」
 ケイナはつぶやいた。
「『グリーン・アイズ』? あなたは『グリーン・アイズ』を知っているの?」
 ジェニファは目を細めた。
「トウ・リィの息子…… おれを欲しがってる……」
「やめろ……」
 カインは思わず呻いた。
「おれが…… ホライズンに入れば…… 自分のものになると…… 思ってる……」
 ケイナの目はまるで頭の中をかきまわすような感じだった。
 カインは彼の視線から逃れるようにケイナとは反対側の壁まであとずさりした。
 カインの顔が真っ青だ。アシュアは慌ててカインに近づいた。
「やめたいならケイナの催眠を解くわ」
 ジェニファの声にカインははっとしてジェニファを見た。
「い、いえ…… 続けてください。すみません。大丈夫……」
 カインは青ざめた顔のままで唇を震わせながら答えた。
「大丈夫か?」
 アシュアが心配そうに顔を覗き込む。カインは小刻みにうなずいた。
「大丈夫……」
「おれを…… 殺して……」
 ケイナはつぶやいた。
「トウ・リィは…… 子供を作る…… こんな人間を…… 作っちゃいけない……」
「ケイナ、あなたは生きなくては。死んでいい人間なんていないのよ」
 ジェニファは言った。
「せっかくセレスという木に出会ったんじゃないの」
「セレス……」
 ケイナはぼんやりと言った。
「彼女を殺せと…… 言ってる……」
「え?」
 ジェニファは怪訝な顔をした。アシュアとカインもケイナを見た。
「もうひとりが…… 彼女を…… 殺せと言ってる…… 彼女がいたら…… 自分が消えるから…… 怯えてる……  だから…… その前に…… おれを…… 殺して……」
「彼女って誰?」
 ジェニファは尋ねた。ケイナはゆっくりとまばたきをした。
「セレス…… クレイ……」
「セレスは…… 男だぞ?」
 アシュアは言った。
「彼女を…… ずっとそばに…… そばにいたい……」
 カインは自分の足ががくがくと震えるのを感じた。
 ケイナは知っていた。セレスに『女』の遺伝子があることを……。ケイナに隠し事なんかできるわけがない……
「セレスは…… XXの遺伝子なんだ……」
 カインは絞り出すような声で言った。アシュアが仰天してカインを見た。
「前に…… セレスが知らずに薬を飲まされただろう。あの時、分析したドクター・レイがセレスのことを女性だと言っていたんだ……」
「そ、そんなことあるわけない。セレスは男だ。おまえだって知ってるだろう」
 アシュアはかすれた声で言った。
「おれはセレスの…… その…… 見てるから知ってるよ」
 アシュアはついこの間、トレーニングウェアを脱いだセレスの腕をマッサージしてやったばかりだ。セレスが襲われたときにカインも見ているはずだ。
 確かに男にしては貧相なほど細い体つきだが、上半身裸のセレスは女性には見えなかった。
「表現体は男なんだ」
 カインはそう言って顔を歪めた。
「ラインに入ったときはXYだったはずだ。セレスは…… ケイナに出会ってXXになったんだ……」
「なんでそのこと…… 黙ってたんだよ」
 アシュアは言った。
「トウが……」
 カインは頬を震わせた。
「場合によってはセレスでもいいと…… 言ったんだ。セレスが『ホライズン』に入ればケイナは晴れて自由の身だと……。そうすれば彼を『ビート』に入れてずっと一緒にいられるだろうと……」
 カインは壁に背を押しつけて顔を歪めた。
「でもぼくは…… ケイナを裏切るわけにはいかなかった。セレスを『ホライズン』に送ったりしたら、彼は一生ぼくのことを許さないだろう……。彼に憎まれるくらいなら…… まだ彼自身が『ホライズン』に行くほうが良かった……」
「カイン…… おまえ……」
 言葉を続けることができなくなったアシュアをカインは見た。
「そうだよ…… 笑いたいなら笑え。ぼくはケイナを自分のものにしたかったんだ。セレスとケイナが近くなれば近くなるほどぼくは嫉妬に狂ってたよ。さっきもそうだ。ふたりが体を寄せ会って眠っている姿を見た途端、言いようのない思いにとらわれた。でも、ケイナが求めているのはぼくじゃない。セレスだ……。それが辛くてしかたがなかった……」
「でも、おまえはケイナを助けるために一生懸命動いてただろ。ケイナはそのことはちゃんとわかってるよ」
 アシュアは言った。
「自分でも分からないんだ……。ぼくは自分で自分が何をなすべきか分からなくなってる……」
 そのとき、ものすごい勢いでケイナは立ち上がり、ジェニファを弾きとばしてカインに突進した。
 アシュアがはっと身構える間もなく、カインはケイナに咽を掴まれていた。
「もう遅い」
 さっきまでのぼんやりしたケイナではなかった。目が険しい。
 アシュアは一目見ただけで暴走したケイナだと悟った。
 カインは息を詰まらせて呻き声をあげた。
「ジェニファ!」
 アシュアは叫んだが、ジェニファもあまりの急激な変化に仰天しているようだった。
 必死に引き離そうとするのに、アシュアの力ではケイナの手はぴくりともしなかった。
 ジェニファはすぐに我にかえると催眠を解こうと彼の背後で手を上げたが、ケイナは片手でカインの首を掴んだまま、振り向きざまにジェニファの頬をもう片方の腕で一撃した。
 ジェニファは大きな音とともに反対側の壁に体を叩き付けられた。
「『ホライズン』など行かない。セレスもいらない。命令はもう通っている」
 そうつぶやくケイナの声はぞっとするほど冷たかった。
 カインはきりきりとものすごい力で自分の首を絞めるケイナから逃れようともがいた。しかしケイナの手はびくともしない。
「ケイナ、やめろ! カインが死んでしまう!」
 アシュアは叫んだ。ふたりの間に割って入ろうとするのだが、ケイナの力は今までとは全く違っていた。ケイナの片手の強烈な一撃をくらってアシュアも吹っ飛んだ。
「死ねばいい。おれの手で死ねるなら本望だろう?」
 ケイナは床に転がったアシュアを一瞥してかすかな笑みを浮かべると、再び両手でカインの首を締め上げながら言った。カインの顔が苦しみのあまり赤く染まった。
「ジェニファ! セレスを起こせ! 暴走したケイナを止められるのはあいつしかいないんだ!」
 アシュアはケイナに殴られた頬と床で打った腰の痛みに顔をしかめながらジェニファに怒鳴った。ジェニファも殴られたほほを押さえていたが、アシュアの声を聞くなり大急ぎで寝室に走り出した。
 ケイナはそれを見てカインから手を放した。ジェニファを追うつもりだ。
 ケイナが手を放した途端カインは床に崩れ折れたが、ぐったりしてぴくりとも動かない。
 アシュアはそのカインの姿に当惑しながら全く隙のないケイナの姿を追った。
「ケイナ、目を覚ませ!」
 ただ声をかけるしかなすすべがない。ケイナはアシュアを無視して寝室に入った。
 アシュアはしかたなくケイナの背後から飛び掛かろうとしたが、今度はみぞおちに思いきり肘鉄をくらわされ、呻き声をあげた。
 暴走したケイナは全身がアンテナ状態になる。今回のケイナは催眠状態から暴走しているせいか、さらに殺気だっている。腕力だけは自信のあったアシュアですらケイナに近づくことができない。
 それでも銃やナイフなどの凶器が手許になかっただけでも救いだった。もし銃があればあっという間に全員殺されていたかもしれない。
「ジェニファ!」
 アシュアは焦って怒鳴った。
「目を覚まさないのよ!」
 悲鳴に似たジェニファの声が寝室から聞こえた。
「どうしてなの……」
 ケイナが寝室に入ってきたので、ジェニファは身の危険を感じてセレスから離れた。
 冷たく笑みの浮かんだ目をこちらにちらりと向けたあと、眠っているセレスに馬乗りになり、その咽に手をからめるケイナを呆然と見つめた。ケイナはセレスに絡めた指に徐々に力を込めていった。
「ケイナ、やめろ! セレスを自分の手で殺したりしたら、おまえは一生後悔することになるぞ!」
 アシュアは叫んだ。
「後悔なんかしない」
 ケイナはセレスの喉を掴んだままアシュアを見て言った。
「摺り替えた。どっちにしてもこいつは死ぬ運命にあるんだ」
「何を言ってる? 摺り替えたってどういうことだ?」
 アシュアは困惑した表情を浮かべた。そしてはっとした。
「ユージーがおまえを撃つ暗示を、セレスが撃たれるように摺り替えたのか?」
「そうだよ」
 ケイナはかすかに笑った。
「トウ・リィなぞ、くそくらえ……。おれは誰のものにもならない。まっぴらだ」
 アシュアはあたりを見回して何か武器になりそうなものはないか探した。
 しかし、ケイナの部屋には料理用のナイフすらないのだ。
 一切の凶器を手許に置かないのはケイナの本能的な防御だったのかもしれない。
 ミネラルウォーターのボトルが目に入ったがこんなものは何の役にもたたない。これをケイナの頭に打ち付ける前にケイナに弾き飛ばされることは明白だった。
「アシュア…… ぼくのエアバイクに…… ショックガンがある……」
 カインがごほごほと咳き込みながら身を起こして言った。
 よかった、生きていた……。アシュアはほっとした。
「ジェニファ、頼むよ」
 アシュアは言った。ジェニファはうなずいた。
「座席の下にあるから…… キイはこれ…… いま…… キイだけで…… 開くように…… した……」
 カインがキイを差し出して絞り出すような声で言った。ジェニファはキイをひっつかむと勢いよく部屋から飛び出していった。
 ケイナがそれを目の端にとらえてかすかに声を出して笑った。まるで今のこの状態を楽しんでいるようなふうにさえ見える。
 アシュアがしかたなく再び飛びかかろうと身構えると、カインがよろめきながら立ち上がってアシュアを押しとどめた。
「無理だ…… ケイナが正気に戻りかけたときでないとおまえでも…… 歯がたちっこない」
「暴走したケイナが出てくるなんて、とんだ計算違いだったぜ……」
 アシュアは下唇を噛んだ。その間にもケイナはゆっくりとセレスの首を絞めていた。
 セレスはぐったりとしたまま身動きひとつしない。きっとこのままだったら眠ったままケイナに殺されていくだろう。アシュアはジェニファが早く戻って来ないかといらいらした。
「ケイ…… ナ……」
 ふと、セレスが声を漏らした。
 首を絞められているので、息の漏れるような声だ。
 アシュアとカインははっとしてセレスを見た。
 セレスはうっすらと目を開いていた。そしてその目がゆっくりとケイナをとらえ始めていた。
 セレスの目とケイナの目が合ったとたん、ケイナの表情が急変した。彼の手から急激に力が抜けていった。
「死んで…… 欲しい?」
 セレスはまだ首にかけられたままのケイナの手をはらおうともせずに言った。
「そんな目でおれを見るな……」
 ケイナは唇を震わせながら言った。
 セレスの手が伸びてケイナの首にかけられた。アシュアとカインは呆然としてふたりを見つめていた。
 いったい何が起こっているのだ……?
「セレスの髪が燃えてる……」
 カインがつぶやいた。アシュアはぎょっとしてカインの顔を振り向いてからセレスを見たが、自分には何も見えなかった。
「死にたい?」
 セレスは言った。
 体勢が全く逆になっていた。今度は身を起こしたセレスがケイナの首を絞めようとしていた。
「や、やめ……」
 ケイナは必死になってセレスの手をふりほどこうとしていた。
「ケイナが戻ってる! アシュア!」
 カインが叫んだので、アシュアは反射的にふたりに飛び掛かった。
 途端にセレスの片腕がアシュアの顔を打った。アシュアの体は大きく弾き返された。
 アシュアは激しく床に叩き付けられて呻き声をあげた。さっきケイナに殴られて打ったところを再び強打したのだ。
 あの華奢なセレスのどこにアシュアを床に叩きつける力が潜んでいるというのか……。
 カインはそのときジェニファが戻ってきたのを知って、彼女が投げるショックガンをキャッチした。
「なんてこと……!」
 ジェニファがふたりを見てうわずった声を出すのをカインは聞いた。
『こんなもの効くのか?』
 カインは心もとなかったが、セレスに向かってショックガンを構えた。
 セレスの緑色に燃える目がこちらを見たとき、カインは身の毛がよだつほどの恐怖を覚えた。
 頭の中を引っ掻き回されるような気分だった。
「彼の額を狙うしかないわ」
 ジェニファが言った。
「そんなことをしたら脳しんとうだけじゃすまない……」
 カインは呻いた。
「ケイナの凶暴性がセレスに流れ込んでるのよ! 止めないとケイナが死んでしまうわ!」
 ジェニファは一喝した。
 しかし、カインにはとても撃つことができなかった。
 いくらショックガンでも急所を撃ったらどんなことになるか……。
「貸せ!」
 アシュアがカインからショックガンをもぎとり、すばやく照準を定めると引き金を引いた。
 それは瞬きする間のことだった。
 セレスの手がケイナから離れ、彼の体は大きく後ろに反るとそのままベッドの上に倒れ込んだ。
 ケイナは激しく咳込みしながら喘いだ。
「ケイナ!」
 アシュアはケイナに駆け寄った。
「大丈夫か?」
「なん…… だよ…… いったい……」
 ケイナは息を喘がせながらアシュアを見た。
「なんで…… おまえたちが…… ここにいる?」
 カインはおそるおそるセレスに近づき、彼の顔を覗き込んだ。そしてジェニファを振り返った。それを見たジェニファが近づいてセレスの顔に手を触れていたが、やがて顔をあげた。
「大丈夫よ。呼吸はちゃんとしてるわ。命に別状ない」
 ケイナはそれを聞くなり怒りに燃えた目で3人を見た。
「何があったんだ……」
「ケイナ…… その…… ちょっと計算違いがあったんだ」
 アシュアがそう言いかけると、ケイナはすばやくアシュアの胸ぐらを掴んだ。
「何があったのかって聞いてんだよ!!」
 怒鳴って再び咳き込んだ。
「ケイナ、彼から手を放して。こんなことになったのは私の責任なのよ」
 ジェニファが慌てて言った。
 ケイナは眉をひそめてジェニファを見た。
「おれ…… か……?」
 ケイナは困惑したように言った。
「おれが何かしたのか……?」
 手が力なくアシュアから離れた。
「ケイナ、悪く思わないでくれよ……。 こうしなくちゃ、おまえはセレスに首絞められて殺されるところだったんだ……」
 アシュアは申し訳なさそうに言った。
「いや、あの…… その前にはおまえがセレスを殺そうとしてたんだ……」
 ケイナは自分の喉元を押さえた。
「嘘だ……」
 力なくそう言うと、がっくりとベッドに腰をおろした。
「またあいつが出てきたのか……?」
「ケイナ」
 ジェニファはケイナに近づくと、床にひざまづいて彼の顔を覗き込んだ。
「私がいけなかったのよ。あなたにあそこまで凶暴な人格があるなんて予想していなかったの。分かっていたらもっと深く催眠状態にしていたわ」
「催眠状態……」
 ケイナはつぶやいた。
「おれに催眠術をかけたのか? なんで……?」
「きみを助けたかったんだ……」
 カインが沈痛な面持ちで答えた。ケイナはカインをちらりと見て首を振って目を伏せた。
「ケイナ、あなたは自分の中に隠れてる自分に勝たなくちゃいけないわ」
 ジェニファは言った。
「あなたには闇しか見ないあなたと、滅亡しか見ないあなたと、そして光を求めようとするあなたと、3人の人格が同時に入っているのよ。本当のあなたは今ここにいるあなたよ。セレスのことを大切に思い、生きたいと願うあなたなの。分かる?」
「頭の中がざわつく……」
 ケイナはこめかみを押さえた。
「おれ、いったい何をしゃべったんだ……?」
「ケイナ、落ち着いて。あなたはこのままだと自分を殺すか、すべてを敵に回して生きていくかのどちらかしかないのよ」
 アシュアもカインも黙ってケイナを見つめた。
「今ね、あの子が凶暴なあなたを吸い取っちゃったのね。あんまりにも急激に吸い取ってしまったからゆっくり眠らなくちゃ」
 ジェニファはセレスを見て言った。
「でも、全部吸い取ったわけじゃないのよ。本体はまだあなたのここにいる」
 彼女はケイナの胸を指差した。
「ここにいる闇のあなたはひたすら自分を解放したがっているわ。そしてもうひとりのあなたが必死になってそれを阻止しようとしている。自らの命を絶ってまでもね。どちらに転んでもあなたは不幸になるだけだわ。そこから抜け出す鍵を担うのはたぶんあの子なのね……」
 ジェニファはセレスに再び目を向けた。
「ケイナ、あなたは本能的にあの子が必要だと悟っていたの。彼はあなたの中から邪悪な部分をきっと取り去る力があるんだと思う。それが消えれば残りのほうもきっといなくなるわ。いる必要がなくなるもの」
「ケイナ」
 カインが口を挟んだ。
「きみの中のひとりはセレスを殺すように暗示をかけてるんだ。……ユージーに……」
「え?」
ケ イナはカインを見た。
「ユージーに…… 暗示?」
 カインはうなずいた。
「暴走体のきみは自分を殺す暗示をセレスに摺り替えている。暗示を解かないとセレスは死ぬことになる」
「そんな…… そんな覚えは……」
 ケイナはつぶやきかけて黙り込んだ。
 記憶がないのは当たり前だった。自分ではない自分がかけた暗示など知るはずもない。
「なんにしても、荒っぽいもうひとりのおまえはおとなしく『ホライズン』に行く気はないようだぜ」
 アシュアは言った。
「焦ってるみたいだ。そいつは、早く自分がおまえの主になりたがってるんだよ。だから自分に対峙するセレスが邪魔だと思ってるんだ」
 ケイナはそれを聞いてもただ呆然としたような表情を浮かべていた。
 自分ではない自分が、自分の意思とは全く違うことを話したり行動したりすることは感づいていた。
 暴走した自分がまさにそうだった。
 しかし、感情が高揚するあまり自分で自分がコントロールできない状態で、まさか別の人格に自分が乗っ取られているなどとは思ってもいなかったのだ。
「ケイナ、頑張って闇の部分を追い払いましょう」
 ジェニファは言った。
「言ったはずよ、セレスにはあなたの闇の部分を消す力があるって。セレスが目覚めたらもう一度ふたりを催眠状態にするの。そしてセレスの意識をあなたの中に送り込むのよ」
「ケイナの体の中でセレスとあいつを戦わせる? そんなことできるのか?」
 アシュアが目を細めた。ジェニファはうなずいた。
「そうよ。れっきとした治療法で確立されているわ」
「失敗したら?」
 ケイナは言った。
「失敗しないようにするしかないわ。セレスとあなたでお互いの信頼関係を今以上に築くことね。あなたがセレスを大切に思う力が強ければ強いほどセレスが勝つ可能性が高くなるわ」
 ケイナの目に不安の色が浮かんだ。
 そんなことを言われても具体的にどうすればいいのか分からないからだ。
 そのときアシュアが横にいたカインをつついた。
「ブロードから通信が入ってる」
 アシュアは腕にはめた通信器を指差して言った。カインは顔をしかめた。
「早くふたりを見つけて戻って来いと言ってる」
「ジェニファ」
 カインは言った。ジェニファは顔をあげてカインを見た。
「ふたりは『ライン』に戻らないといけない。『ライン』を追放されたら、その時点でケイナは『ホライズン』送りになるんだ」
「それはまずいわね」
 ジェニファは立ち上がった。
「本当はこのまま帰らないほうがいいんだけど……」
 ジェニファはカインとアシュアを見たが、ふたりともそれはできない、という表情を浮かべた。
 ジェニファはため息をついた。
「ケイナ、昨日からまた夢が変わったの。たぶん、闇の部分のあなたが明確になったからよ。でも、執拗に追ってくるわ。だから逃げて欲しいの」
 ケイナはジェニファを見上げた。なんと言えばいいのか分からなかった。
 カインはジェニファの「闇」という言葉が辛かった。
 ジェニファもアシュアも自分がケイナの敵であるとは全く思っていないようだが、ケイナのあの反応はカインの心に深く刻みつけられた。
 自分はケイナの心の中では敵だと思われている。敵だと……。
「セレスはあとどれくらいで目覚める?」
 アシュアがカインの様子をちらりと横目に見ながら尋ねた。
「本当は半日くらい寝かせてやりたいんだけど……。このさいだから覚醒させるわ。体力のある子だから大丈夫でしょう。しばらく体がふらつくと思うから気をつけてね」
 カインは自分の腕から通信機を外した。何か調整をしたあとジェニファに渡した。
「ジェニファ、これを持っててください。アシュアの通信機にアクセスできるようにしてあります。とりあえず向こうに戻ってから、またコンタクトします。あなたには聞きたいことがたくさんある。ここのランプが点滅したら、こっちのボタンを押してください。それで話せますから」
「分かったわ」
 ジェニファはうなずいて通信機を受け取った。
「それじゃあ悪いけれど、あっちの部屋に行っててくれる?」
 彼女の言葉にケイナは立ち上がり、カインもアシュアも寝室をあとにした。
「カイン」
 リビングでケイナはカインに声をかけた。
「なんでおれとまっすぐに目を合さない? おれはおまえに何かひどいことを言ったのか?」
 カインは思わず言葉に詰まった。アシュアが心配そうにふたりを見た。
「手に…… 感触が残ってる……。おれはセレスの首だけじゃなくて、おまえまで殺そうとしたんじゃないのか……?」
 カインはしばらくケイナの顔を見たあと、首を振った。
「いや。そんなことはない。心配するな。きみは自分のことを考えていればいい。ぼくらは必ずきみを守るから」
 ケイナは疑わしそうにカインを見ていたが、それ以上何も言わなかった。
 アシュアはカインの首元に残っているケイナの指のあとに気づいていた。
 それをケイナが見ていないはずはなかったが、ケイナもその事実を知ることが怖くてたまらないのだ。
 しばらくしてジェニファが寝室から出てきた。
「セレスが目覚めたわ」
 彼女のうしろでセレスが意識のはっきりしないような顔で立っていた。
「なんでみんな揃ってるの……?」
 セレスはくぐもった声で顔をこすりながら言った。
 足を踏み出そうとしたとたんにつまづいて前に倒れそうになった。それを慌てて支えに走ったのはケイナだった。
 カインの目にかすかに戸惑いの色が浮かんだのをアシュアは見逃さなかった。
「ごめん…… なんか、まだ頭がぼやっとしてるんだ……」
 セレスは頭を押さえた。
「セレス、『ライン』に戻るぞ。ブロード教官が手ぐすねひいて待ってる」
 アシュアが言うと、セレスはかすかに笑ってうなずいた。
「そうだね」
 3人は部屋を出てヴィルの停めてある階下まで降りた。
 見送りに来たジェニファは最後にカインに近づいた。そしてささやいた。
「ちょっと嫌な予感がするの。戻ったら何かあるかもしれない。気をつけて」
「ぼくもそれを感じていたところです」
 カインはヴィルのエンジンをかけながら言った。
「見えていたの?」
 ジェニファは驚いたようにカインを見た。
「バイクに乗ったときにちょっと嫌な光が見えたから……」
 カインは何気ないように答えた。
「あなたは……」
 ジェニファはカインを見つめて何か言おうとしたが、その言葉を飲み込んだようだった。
 少し間を置いて彼女はうなずいた。
「自暴自棄にだけはなっちゃだめよ」
 カインはジェニファを見てかすかに笑みを見せた。
 ヴィルを少し浮かせ、最後にジェニファに軽く手をあげると、先に上昇していったケイナとアシュアのあとに続いた。
「みんな生きて帰ってきて……」
 ジェニファは祈るような声でつぶやいた。
 ヴィルを飛び立たせても頼り無いセレスにケイナは気が気ではなかった。
「セレス、もうちょっとしっかりしろ」
 セレスの腕を掴みもう片方の手でハンドルを握りながらケイナは言ったが、それでもセレスは滑り落ちてしまいそうだった。
 見るに見兼ねてアシュアがケイナのヴィルの後ろについた。
「なんか、こんなの初めて…… 気を許すとまた寝ちゃいそうなんだ……」
 セレスはぼんやりとした様子でつぶやいた。そしてケイナの背に顔を押しつけた。
「ケイナの背中、あったかい…… 気持ちいい……」
 それを聞いたケイナの顔にかっと血が昇った。
「ふざけたこと言ってんじゃねえ! 突き落すぞ!」
 振り向きざまに怒鳴りつけた途端、セレスの体がぐらりと傾き、アシュアが慌てて腕を伸ばして怒鳴った。
「こらあ! 空中でケンカすんな!」
 セレスはくすくす笑った。
「良かった…… いつものケイナ」
 アシュアが目を向けると、ケイナは赤くなった顔を見られまいと顔をそらせた。
 カインは終始無言のままだった。
 『中央塔』に着くといつもの駐車場にヴィルを停め、4人はエントランスに向かった。
 エレベーターの中に入る頃にはセレスは少ししゃんと立っているようになった。
「目が覚めたか」
 気づかわしげにケイナに言われてセレスはうなずいた。
「向こう出たときよか、だいぶん頭がはっきりしてきた。なんかものすごく長い夢を見てたような気がする。今、何時?」
「午前11時前だ」
 カインが腕の時計を見て言った。
「おれたちどうなるのかなぁ」
 セレスは頭をくしゃくしゃと掻きながらつぶやいた。
「とりあえず教官室に直行だな」
 カインは答えたが、その予想は外れた。
 4人はラインのある階にエレベーターが止まったのを確認してドアから出た。
 そして立ち止まった。目の前に3人の男が立っていた。見なれない制服だ。
 全身が黒ずくめで頭には顔の上半分を覆うのヘルメットを被っているので口元しか見えない。
「私設警備兵?……」
 カインがつぶやくのがケイナとアシュアには聞こえた。
「背の低い子だ」
 まん中の警備兵の声に残りのふたりが素早くセレスの腕をつかんだ。
「何をする!」
 ケイナがその手を振りほどき、アシュアとカインもセレスの前に立ちはだかった。
「法的な手続きは踏んでいます。こちらがその証明書になります」
 真ん中の兵士ははていねいな口調で言った。
 空中の仮想モニターに3枚の書面が浮かび上がる。
「こちらが政府の委任状、こちらの2枚がセレス・クレイ養家コロアド氏、ハルド・クレイ氏の承諾書です」
「承諾書? なんの」
 カインが眉をひそめた。
「『リィ・カンパニー』管理下において、『ホライズン研究所』にお迎えすることとなります」
「ちょっと待ってくれ。トウ・リィに話をさせてくれないか。ぼくはカイン・リィだ」
「存じあげています」
 兵士は答えた。
「ですがあなたにはこの件についての権限はないとうかがっています」
「な……」
 カインは怒りの目で兵士を睨みつけた。
 兵士がセレスに再び腕を伸ばしかけたので、カインは反射的にその腕を掴んだ。
「トウ・リィに連絡をとらせろ。こんなことは……」
 カインの言葉がいい終わらないうちに、ケイナがいきなり兵士を殴りつけ、あっという間にその腰の銃を奪い取っていた。そして残りのふたりのヘルメットを弾き飛ばし、床に叩きつけた。
「ケイナ!」
 セレスが悲鳴をあげた。
「うっとうしい」
 ケイナは言った。
「ごちゃごちゃ口で言って通用するかよ」
「なんて速さだ……」
 アシュアはそう言いながらも床に倒れた兵士の腰から銃を引き抜いた。
「トウに伝えろ。セレス・クレイは渡せない。もちろんケイナもだ」
 カインもさっきまで自分の前にいたはずの床に転がった兵士から銃を奪いながら言った。
「ご子息、無駄です」
 ケイナに銃を奪われた兵士は口端から血を流しながら言った。
「どうかな」
 カインはそう言って3人をちらりと振り返った。
「ゲートを抜けてロウライン!」
 アシュアは呆然としているセレスの腕をひっぱった。
 カインがゲートのセキュリティを銃で破壊し、4人はライン棟の中へ走り込んだ。
 後ろでエレベータのドアが開き数人の足音が聞こえたが振り返らなかった。
「もしかしたら『ビート』のやつが来ているかもしれない」
 アシュアは走りながら呻いた。
 ケイナは走りながら片っ端から天井に設置してある監視カメラを撃っている。
「いま人を殺したら、そのことを理由にカインとアシュアが追われる。逃げることだけに集中しろ」
 セレスに言うケイナの言葉にカインとアシュアが走りながら顔を見合わせた。
 そんなことは当の自分たちは全く考えもしなかった。
 それにしても妙に静まり返っている。これだけ監視カメラを撃っても非常警報さえ鳴らないところを見ると、こういう事態になることは想定内だったのだろう。
 4人はハイラインの棟を抜けてロウラインの棟に向かって走った。
 さっきのゲートと反対のゲートに誰もいないとは思えなかったが、『ライン』の中で『ビート』のメンバーが撃ってくる可能性は低い。
「待て!」
 ケイナは背後に誰も追ってくる様子がないことを確認して立ち止まった。
「どうした」
 アシュアが言った。
「いくらあっち側でもエレベータを使うのは危険が高い。ほかから脱出しよう」
「ほかから脱出ったって……」
 ケイナは笑った。
「簡単だ。もう一度戻るんだよ」
「ばかな……」
 アシュアは目を剥いた。
「相手はおれたちがガキだと思って舐めてる。どんなにトウ・リィが事前に言ってたところで そんなもんさ」
 そしてケイナは上を見上げた。まだ撃っていないカメラの範囲内には入っていない。
「彼らはぼくたちのようにライン生のいる棟を抜けては来ない。きっと人のいないメインの廊下を抜けて最短距離であっちに向かっているはずだ。戻るぞ!」
 カインがケイナに同意した。 4人は再び走ってきた廊下を戻り始めた。
「だからさっき監視カメラを撃っていたの?」
 セレスは尋ねた。しかしケイナはそれには答えなかった。
 そしてふいにケイナは向きを返ると所長室に向かった。
「どこへ行くつもりだ!」
 カインが叫んだ。ケイナの行動は本当に予測がつかない。
「所長室の後ろに専用のエレベーターがある。そいつを使う」
 ケイナは言った。
「そんな無茶な……! 所長がいたらどうするんだ!」
 アシュアの仰天した声にケイナはぴたりと足をとめて3人を振り返った。
「無視」
 ケイナは笑った。カインはその顔の恐ろしさに思わずぞっとした。
「万が一のために兵士の数人くらいはいるだろうが、所詮さっきの奴らと同じレベルだ」
「ケイナ……」
 セレスは震える声で言った。
「人を殺すことだけはしないで!」
「殺さないよ」
ケイナは答えた。
「ここにいるおまえ以外の人間にはそれができる」
 ケイナは再び3人に背を向けた。
「向こうがこっちの動きに気づくまで1分。走るぞ!」
 その声で彼らは再び走り始めた。
 所長室の前に来るとケイナはセキュリティプレートを銃で吹き飛ばし、中に入るやいなや、数発撃った。
 カインとアシュアが相手をとらえる時間もなかった。彼らがケイナの後ろから部屋に入ったときには所長自身が青い顔をして両手をあげ、彼の足元に2人の兵士が転がっている光景だった。
「狙ってねえじゃねえか……」
 アシュアはつぶやいた。
 目が対象を捕らえる前にもう銃を発射している。ケイナの底知れぬ力をまざまざと見せつけられた気分だった。
「エレベーターのセキュリティを外してください」
 ケイナは銃口を向けて口調だけは冷静に言った。
 ラインの所長は昔中央塔の警備隊で指揮官まで務めた男だ。『ライン』の生徒が銃口を向けたからといって動揺するような人間ではない。
 彼は白髪まじりの首を横に振ったが、それでもケイナの迫力にはさすがに恐怖を覚えて頬を痙攣させていた。
「ばかなことをするもんじゃない」
 かろうじてそう言ったが、ケイナはその言葉が終わる前に彼の手元に向かって銃を発射していた。インターホンの小さなボックスが弾け飛んだ。
「動く前におれは撃つ」
 ケイナは言った。相手の頬がさらにぴくりと動いた。
「ケイナ…… 所長を撃っちゃだめだ」
 セレスは震える声でケイナの背後から懇願するように言った。
「腕、吹っ飛ばすくらいの決心はついてるよ。死なない程度に」
 カインはすばやく所長のデスクを周り、部屋のバックヤードに入った。そこにエレベータがある。
 セキュリティを解除するつもりだった。
 所長と押し問答が長引くのはほかの人間が来る危険性もあるし、ケイナが本当に撃ってしまう可能性があった。
「迎えに来たのはセレス・クレイだ! なぜ、きみたちが……」
 所長の顔は怒りで顔を真っ赤だ。
 ケイナはそれには答えなかった。
「ケイナ! 開いた!」
 カインが叫んだ。
 アシュアはカインの声を聞いてセレスの腕を引っ張り、エレベーターに向かった。
 それを見送ったケイナは思い切り所長の顔を殴り飛ばした。彼は大きな音をたてて倒れ込んだ。
「すみません、所長……」
 ケイナはつぶやくとエレベーターに向かった。
「ケイナ、早く!」
 カインがエレベーターの前で待っていた。アシュアとセレスは先に乗り込んでいる。
 ケイナが乗り込んだあと、それに続こうとしていたカインがいきなり呻き声とともにがっくりと膝をついた。
 ケイナが振り返った。
「カイン!」
 アシュアが叫んだ。カインの腕から血が吹き出している。
 カインの背後に背の高い見たこともない男が立っているのを見て3人はぎょっとした。男の手に握られた鋭いナイフからしたたって赤いしずくは、きっとカインの血だ。
「おまえも『ビート』なら同じ『ビート』を甘く見るな」
 低い男の声にアシュアはごくりと唾を飲み込んだ。カインが青い顔をして叫んだ。
「行け!!」
 その声で反射的にアシュアはエレベータのドアのボタンを押した。
 しかし男はカインを押しのけるとエレベータのドアにしがみついた。無情にもドアは障害物を感知して再び開いてしまった。
 ケイナがセレスの腕を掴み、頭をかばうように抱き締めた。その途端、銃の発射音が響いた。