カインはロウラインの部屋を出てハイラインの自室で手のひらに乗る程の小さな黒いケースを取り出すと、自分のデスクのコンピュータに接続してキーボードを叩いた。
 これを使うとラインの通信室を経由せず自室で外と交信できる。形跡も残さない。
 もちろんそれはラインの中では規約違反だが、トウとの連絡もずっとこれで行っていた。
 キイを叩いてしばらく待つと、画面に真っ白な髪の小柄な老人が現れた。
「やあ、カイン。待たせてすまなかったね」
 老人はにこやかに笑って言った。
「ドクター・レイ。すみません、無理を申し上げました」
「いやなに、たいしたことではないよ。ここのところヒマでな。患者のほとんどは息子と嫁が診とるから退屈でしようがなかったところだ。ぼっちゃんもたまには風邪でもひいてくれんかな」
「ぼくはあいにく地球のウイルスには強くできているらしいので…… それにドクターの専門は脳外科でしょう。……マリアは元気ですか?」
 カインは笑って言った。
 マリアはレイの妻だ。レイより10歳若い、大柄できびきびとよく動く快活な女性だった。
 彼女は主に小児科が専門だったが、最近はレイに変わって内科専門の息子ジュナと診察をしているらしい。
「元気も元気。相変わらず口達者で気性が激しいよ。おっと、本題に入ろう」
 レイはそう言うと画面の向こうで紙を取り上げた。
「あとでデータを送ってさしあげるが、この患者はナンバー88系の違法ドラッグに冒されとるな」
「ナンバー88……」
 カインはつぶやいた。やはりセレスは薬物中毒だったのか。
「ナンバー88はたいしたもんじゃないよ。昔、リィ・メディケイティッドで販売していたハーバル系の薬だ。やめてしまえばリターンはない」
 レイは紙を近づけたり遠ざけたりしながら言った。老眼がかなりすすんでいるのだろう。
「基本的に抑うつ剤的なものだ。効いている間は気持ちも朗らかになる。しかしあまり大量に摂取したり長期の服用になると食欲減退や体重の減少、血流の悪化といった副作用がある。副作用が出ている中で薬の効果が薄れてくると、手足の痺れや吐き気、目眩、頭痛といった症状も起こる。昔女性がダイエットに使ったことがあったんだが遺伝子を傷つける恐れがあるのと、血流とホルモンのバランスを崩して無月経になる可能性が高いんでな、販売中止になっとる。今は使用が違法だな」
 レイは紙を置いて、少し咳をした。
「ぼっちゃんは知らないかもしれないが、違法ドラッグに指定されているものの大半はもともとリィが販売していたのが始まりだというものが多いんだよ。だから販売中止にするのもすばやいもんだ」
「彼は血を少し吐いたらしいんですが」
 カインは言った。セレスが倒れたあとにケイナが知らせてきたのだ。
「それは88とは関係ないだろう」
 レイは言った。
「あんまり食事をとってなかった上に何度か嘔吐していたんじゃないかな。あとで薬を届けるよ」
 カインはほっと息を吐いた。
「それで、薬を抜くのはどうしたらいいんですか」
「ほっときなさい。口にしさえしなければ二日で抜ける。ちょっと下痢をするかもしれんがね」
「はあ……」
カインはつぶやいた。少し拍子ぬけをしていた。自分の目に見えていたものはもっと深刻だったからだ。
「まあ、今は88ごときにそんな辛い思いをしなくてもいいように、すばやく薬効を消す中和剤があるよ。一時間後に届けさせる。リィの名前を使えばきみの手許に確実に届くだろう。中身は分からんようにしておくよ」
「助かります。ドクター」
 カインは礼を言った。
「それにしても女の子のダイエット志向がまた復活したのかね。30年前は全く逆だったよ。太ったほうがよかった。生命力が弱い時代になると人間は痩せていく志向になるのかねえ。せっかく『ライン』に入ってまでばかなことをする」
「は?」
 カインはびっくりした。
「何のことですか?」
「なんのことって…… ダイエットなんだろう?」
 レイは怪訝な顔をした。
「セレスは…… 男ですよ。それに軍科だ。ダイエットの理由がありません」
カインは妙な不安を覚えながら言った。
「男?」
 レイは目を細めて持っていた書類をめくった。
「そんなはずはない。この患者の性染色体はXXだ。ドラッグの中には遺伝子に入り込む悪いやつもいるから検査したんだよ」
「そんなばかな…… セレスは…… 男です」
 繰り返しながらカインは血の気が下がっていくのを感じた。レイの表情が堅くなる。
「表現体は男性なのかね?」
「え…… ええ、たぶん……」
 表現体がどうこうと言われてもセレスの裸体など見た事もないのだから、見た目で答えるしかない。確かに標準の体型よりは華奢だが、セレスを女性と思うのは明らかに無理があった。
「『ライン』に入るときには遺伝子レベルで性別チェックは受けているはずです。女性を男性と間違えるはずはない」
 カインは言った。
「そんなばかな話があるもんかね。彼女の…… いや、彼か? いったいどんな遺伝子構造をしているというんだ」
 レイはつぶやいた。
「ドクター……」
 カインは思わず声を荒げた。
「そのデータをぼくに送ってください。そしてどうか、このことは他言しないでもらいたい」
「それはもちろんだが……」
 レイは答えた。
「正規のルートを踏まずにわしのところに依頼してきた時からそれは分かっておった。しかし、本来は女性なのに、そのまま男性として『ライン』に居続けることは難しいぞ。本人が自分を男と認識しているならなおさらだ。それに、両性具有種はリィに知られると、彼の人生にも響く」
「分かっています」
 カインは震える声をどうすることもできなかった。レイは言い募った。
「できればきちんと遺伝子検査をしたほうがいい。こちらのデータのミスということもある。それにもし、仮にだぞ、環境の変化で性別がころころ変わるとしたら、どっちかにおさめたほうが本人のためでもある。『ライン』に入る前には男で、『ライン』に入ってから女になったのだとしたら、その可能性があるだろう」
 レイの言葉にカインはうなずいた。
「検討します…… ドクター、どうもありがとう。感謝します」
「じゃあ、あとで薬を届けさせるからな」
 レイはそう言うと画面から消えた。
 カインは震える手で通信の接続を切った。目の前に不快な光がちらちらと点滅した。
「セレスが…… 両性具有……? これか…… 見えていたものは」
 彼はコンピューターの前に突っ伏した。

 セレスは届いた薬を飲んで一日ベッドに横になっていたが、翌日には何事もなかったかのように元気になっていた。ただし、それは本人曰くのことであったが。
 きちんと食事をしていなかったうえに、カリキュラムだけはこなしていたから体力の消耗は激しかった。起き上がろうと思っても頭がふらついた。
 ケイナはセレスがストレスで胃炎を起こしたのだとブロードに説明した。
 ドクター・レイは機転をきかせてそれらしい診断書も薬と一緒に送ってきていたので、ブロードは腑に落ちない顔をしていたが、あえてそれ以上は問いただすまいと心に決めたらしかった。そして三日間だけセレスの静養を認めた。
「88というドラッグだったんだ」
 ケイナはセレスに説明した。もちろんトニやジュディがいない時だ。
 カインとアシュアも時間を見計らって部屋に来ていた。
 ハイライン生とロウライン生の講議時間のずれは三十分程度しかない。しかし、その時間ならロウライン生は絶対に宿舎棟には戻ってこないはずなのだ。
「経由先はおまえの歯ブラシだ」
 ケイナの言葉にセレスは沈痛な面もちでうなずいた。
「薬物なんか使うとすぐにアシがつく。そういうことも知らずにいて使ったみたいだな」
 アシュアが腕を組んで呆れたように言った。
「ケイナ…… やっぱり、ジュディだと思う?」
 セレスはためらいがちに尋ねた。
「ほかにおまえの歯ブラシにドラッグ塗りたくる奴がどこにいるよ」
 ケイナはいまいましげに言った。
「こっちはドラッグでダウンしたってことが言えない。今回は闇に葬るしかないな」
「おれが言いたいのはそっちじゃないんだ」
 セレスは言った。
「ジュディも薬を使ってるかもしれないってことなんだ」
 セレスの言葉にケイナは顔をそらせた。ジュディ自身がドラッグをやっていようがいまいが、どうでもよかった。
「おれに飲ませた量って生半可じゃなかったと思うよ。歯ブラシって食うわけじゃないんだし。口に含んだだけでこんなに症状が出るんだ。だけど、うまく使えばおれみたいに無茶苦茶にはならないんじゃないの」
「その推測は当ってるよ」
 カインが代わりに答えた。ケイナはイライラした様子で髪をかきあげた。
「88は食欲を減退させる効果があるから女性のダイエット薬として使用されてたこともあったそうだ。定量を短期に服用するぶんには副作用が出ることはない。だけど、容量を間違えたり長期に渡って服用すると中毒症状が出る。きみは二週間飲まされたわけだけど、大事に至らなくて良かった」
「じゃあ、ジュディが常用してる可能性はあるんだね」
 セレスはカインに言った。カインは肩をすくめた。
「可能性はあるかもしれないけど、それは本人に問いただすか、目撃するしかないね」
「ケイナ、おれ、黙ってたんだけど休暇中にバッガスがドラッグを買ってるとこ見たんだ」
「え?」
 ケイナは目を細めてセレスを見た。アシュアが「あ!」という顔をした。
「アシュアとケイナには言わずにおこうって約束してたんだ…… あんとき、何を買ってたのか分からなかったけど違法ドラッグだってことは確かなんだよ」
 ケイナはじろりとアシュアを見たが、何も言わなかった。
 アシュアは顔をゆがめて天井を仰いだ。
 セレスのバカヤロウ。その顔はそう言っていた。
「バッガスは違法ドラッグに手を出してる。それがここで広まってたとしたら大変なことになるよ…… もしかしたらユージーはこのことを知らないんじゃないかな。いや、もしかしたら彼も使ってるかもしれない」
 ケイナの目が険しさを増した。
「ユージーはそんな危険な橋を渡る人間じゃない」
 セレスはきっぱりとそう言ったケイナの顔を見つめた。
「おれもそう思ってる。おれ、ユージー・カートに一度会ったことがあるんだ。彼、とてもいい人だった。そばにいたバッガスはいきりたってばっかりいる奴だったけど、ユージー・カートはちゃんとした人だったよ。でも、バッガスが余計なことをしたらユージーも影響を受けるんじゃないの?」
 ケイナは黙ってセレスの言葉を聞いていたが、苦渋の表情を浮かべて顔をそらせた。
 そしてセレスのベッドから離れると部屋を出ていってしまった。
 セレスは困惑した顔をアシュアとカインに向けた。
「ケイナとユージーの関係はおれたちもよく分からないんだよ」
 アシュアが言った。
「あいつがカート家に来たときからユージーはカートの跡取りとしてケイナと比べられる運命になった。そのことがユージーにものすごい圧力になったことは間違いない。だけどケイナの話じゃ跡取りは最初からユージーに決まっているようだし、ユージー自身もそんなことで逆恨みするような度量の狭いやつじゃない。つまりそんなことでケイナをいびり倒すとは思えないってことなんだよ」
「じゃ、ケイナにちょっかいかけてくるのはバッガスの一存なのかな……」
 セレスはさっきのケイナの苦悩に満ちた顔を思い浮かべた。
「セレス」
 ずっと黙っていたカインが口を開いた。
「悪いけどぼくたちはケイナを守るけど、自分からほかに手は出さないんだよ」
 セレスはカインの言葉の意味を飲み込めず、怪訝な表情で彼を見た。
 アシュアも腕を組んでパーティションにもたれながら冷静な声で言った。
「ケイナとユージーの反目には関わらない。それがバッガスとユージーのことであってもだ。関係ないからな」
「関係ない……」
 セレスはつぶやいた。
「そんなものだったの……? ケイナは友人じゃないのか? ユージーはケイナのお兄さんだろ?」
「じゃ、おまえはハイラインにあがって何をしようと思ってるんだ? あいつらにケンカでも売るのか? それとも和解させるためにあがってくるのか? ユージーに説教でもするつもりか?」
 アシュアは言った。セレスは言葉に詰まった。
「セレス。アシュアが薬のことをケイナに言うなと言ったのは、ケイナに余計なことを知らせないというためだけじゃない」
 カインは言った。
「それはケイナを守ることには直接関係がないからだ。ケイナを守ろうとすることが第一の望みなら、ケイナに直接害を及ぼすこと以外は関わるな。『ライン』で薬が蔓延していようと、ユージーかバッガスがそれを使っていようと、ケイナ自身が使っているわけではないんだから関係ないだろう。そんなことより早く自分の身を自分で守れるようにしろ」
「自分のことくらい自分でなんとかできるよ」
 セレスはむっとして言った。言ってしまってから自分が今ベッドの上だということに気づいた。
「おまえな、休暇明けから今まで自分の力だけで過ごしてきたと思ってるのか?」
 アシュアが不機嫌そうに言った。セレスはアシュアを睨んだ。
「おまえは休暇明けからびったりバッガスの一派に張られているんだぞ。あいつらが手を出さなかったのは、ケイナが注意してできるだけおまえの行動を見守っていたからだ」
 アシュアはそこで肩をすくめた。
「それで、言いたかねえけど、おれたちもおまえのことを見てやってたからだよ。おまえが部屋から出て、部屋に戻るまでの間、ケイナと一緒におまえの周囲を警戒してたからだよ」
「そ……」
 セレスの顔が紅潮した。
「そんなこと、おれ、頼んでないよ!」
「まだ分かんねえのかよ!」
 アシュアは怒鳴った。その剣幕にセレスは口をつぐんだ。
「おまえは休暇の時に薬の売買の現場を見てる。おまけにケイナに何かと接近してる。なおかつ進級試験と同時に飛び級試験まで受けようとしてる。あいつらが警戒するのは当たり前だろうが! スキあればおまえを袋だたきどころか、もっとひどい目に遭わせようと舌なめずりしてんだよ!  いいか、ケイナを……」
 カインが手をあげてアシュアを制した。このままでは余計なことまでアシュアが言ってしまうように思えたからだ。
「セレス」
 カインは冷静な声で言った。
「きみを陥れるのに一番ぼくらとケイナの守りが手薄になるのは、きみがロウライン生たちだけの中にいる時だった。ジュディが自分からバッガスたちとコンタクトをとって薬を手に入れたのか、バッガスが誘惑したのか、それは分からないが、彼らがきみのことをライバル視しているジュディという人間を手に入れたことは彼らにとって幸運だっただろう」
 セレスはふたりから顔をそらせて唇を噛み締めた。カインはそんなセレスを見ながら言葉を続けた。
「もし、きみの異常に気づくのがもっと遅かったら、きみは飛び級試験を受けられなかった。そうすればケイナは十日後にはこの部屋を出て、きみはあと半年間何が起こるか分からない状況にひとりで立ち向かっていかなくてはならなかった。その可能性は今も残っている」
 セレスはまばたきをひとつするとカインを見あげた。カインはうなずいた。
「そうだ。きみは十日後の試験に合格して、必ずハイラインに上がってこなくてはならない」
「分かってるよ……」
 セレスはシーツを握り締めて言った。
「最初からそのつもりだ」
 カインとアシュアは無言でセレスを見つめた。