Toy Child -May This Voice Reach You-

 ケイナは部屋で自分のデスクのコンピューターに向かいながら、ふと画面の片隅に通信のサインが入っていることに気づいた。
 画面を開くと通信室の男が映った。
「きみに個人通信が入っている。そこで受けるかね」
 男は言った。ケイナは不思議に思った。『ライン』に入ってから自分に個人アクセスしてくる人間などいなかったからだ。
「誰からです?」
「ジェニファ・イードという女性からだ」
 男は無表情に答えた。
「ジェニファ……?」
 ケイナは眉をひそめた。ジェニファがどうしてわざわざ連絡をしてきたのだろう。
「個人通信は5分間だ。どうするかね」
 男の声にケイナはちらりと後ろを振り返った。ジュディはまだ起きている。横のセレスも起きているだろう。
「そっちに行きます。少し待つように伝えてください」
 ケイナはそう答えて立ち上がった。
 通信室に行くと、さっきの男がガラス貼りの部屋の向こうに並んでいる画面のひとつを指差した。
 ケイナはうなずいて部屋に入り、ウエイト状態になっていたキイを押した。
「ケイナ……?」
 画面に映ったジェニファはケイナの顔を見てほっとしたような顔をした。
「シエルの葬儀がやっと終わったの。ノマドたちは昨日でそれぞれの場所に戻っていったわ」
「うん……」
 ケイナは疲れを隠せないジェニファの顔を見つめた。
「いったいどうしたの。おれに何か用?」
「ごめんなさい。早く連絡したかったのだけど…… 私、通信機持っていなくて。アパートの友人に借りてるの」
 ジェニファは落ち窪んだ目をしばたたせた。青黒いクマがくっきりと浮かんでいる。憔悴しきっているような感じだ。いつも朗らかな彼女とは全く違った。
「夢を見ているのよ」
 妙な不安が押し寄せた。ケイナはその不安を押し退けるように無意識に髪をかきあげた。
「あんたたちがそっちに戻ってから毎晩、毎晩」
 ジェニファはくしゃくしゃになっていた巻き毛を振った。
「無理を承知で言うわ。ケイナ、お願い、よく聞いて」
「なに?」
 ケイナは努めて平静を装いながら言った。
「そこを出たほうがいいと思うの。命の危険があるんじゃないかしら」
 あまりに突拍子もないジェニファの言葉にケイナはぽかんと口を開けた。
「あなただけじゃない。セレスもよ。いえ、カインもアシュアも。相手が誰だか分からないんだけど、あんたたちを追ってる者がいるわ。とても大きな力であなたたちを閉じ込めようとしてるように思えるの」
「ジェニファ……」
 ケイナは言った。
「何のことなのか…… おれにはよく分からない。命の危険って、どういうこと?」
 ケイナは後ろのほうに座っている男をちらりと振り向いた。男はほかの誰かと通信している。防音つきのガラス越しなので、こっちの声は聞こえていないだろう。
「ジェニファ、あんまりきわどい話はここではできないんだ。通信内容は一週間保存されるし、時間も5分しかない。おれに分かるように手短に言ってくれないか」
 ジェニファは絶望したように首を振った。
「やっぱり、この間帰ってきたときにもっと話しておくべきだった。一気に話をしたらあなたが混乱するかもしれないって思ったの」
 ジェニファはずいっと画面に顔を寄せて来た。反射的にケイナは身を後ろにそらせた。
 ジェニファはこういう通信機に慣れていないせいもあるのだろうが、顔を近づけたら巨大化した自分の顔が相手に見えることが分かっていない。
「歯車が回り出した。あんた、そっちに戻ってそんな気持ちになってない?」
 ケイナは無言で大きなジェニファの顔を見つめた。歯車が回り出した……?
 ジェニファは黒目がちの目を一杯に見開いてケイナの顔を食い入るように見つめた。
「ケイナ、あなたの体は何か大きな爆弾を抱えてるわ。あなたはいずれそのために死んでしまう運命だった。でも、あの子に会って変わった。あの子はあなたを助けてくれる。あの子はあなたの剣となり盾となってあなたの力になると思う。だからふたりでいつも一緒にいなければならないの。だけど、それを欲しがる者がいるみたいなのよ。ううん、邪魔する者かしら。その者はたとえ殺してもあんたたちを手にいれたいんだと思うわ」
 ケイナは弓形の眉をひそめた。彼女の言っているのはリィ・カンパニーのことだろうか。でも、殺してでも手にいれたいなんて……。
「ケイナ・カート、そろそろ時間だぞ。」
 男の声が割り込んできた。
「分かってます」
 ケイナは答えた。
「ケイナ、ノマドには緑色の髪と緑色の目を持つ者がいたのよ」
 ジェニファも男の声を聞いたのか、口早に彼女は言った。
「え?」
 ケイナは目を見開いた。
「優れた知能と類い稀な予知能力と、汚泥で淀み切った水さえも清水に変える力を持っていると言われた」
「カート、時間だ」
 男の声が響いた。ジエニファの顔が苦悩にゆがんだ。
「ジェニファ…… ごめんよ。今度休暇の時に聞くよ」
「それじゃあ、遅すぎるわ! ケイナ、ノマドに帰って!」
 ジェニファが叫んだが、ケイナは強引にスイッチを切った。規定違反をしてあとで通信内容をチェックされると困るからだ。
 ケイナはしばらく何も映らなくなった画面を見つめ、ガラスの扉を開けて男に会釈すると部屋に戻った。
 ケイナの気配を感じたのか、セレスがパーティションの上から顔を出した。足元はたぶんまた椅子だ。
「ジェニファがなんて?」
 セレスはほかのふたりに聞こえないように小声で言った。
 ケイナはその顔をしばらく眺めたあと、なんでもない、というように肩をすくめてみせた。 セレスは少し不審そうな顔をしたが、緑の髪を揺らしてすぐに引っ込んだ。
 コンピューターの前に座って再び講議の内容をまとめようとしたが、ケイナの頭にはジェニファの言葉がぐるぐるとうずまくばかりだった。
(ノマドには緑色の髪と緑色の目を持つ者がいたのよ)
(ケイナ、ノマドに帰って!)
「どうしろっていうんだよ……」
 彼は呻いてこめかみをおさえた。

 深夜の急な外部からのコンタクトで驚いた人間がもうひとりいた。
 カインだ。
「トエラ・ルウという人がきみに面会だ。急用だということだが、どうするかね」
 デスクの画面に映ったドナルド・ハイツ教官が不快色あらわな表情でカインに言った。
「トエラ?」
 カインは首をかしげた。そんな人は知らない。
「きみの遠縁にあたると言っていた。面会時間ぎりぎりだぞ」
 ドナルドは早くしろといわんばかりの口調でせっついた。彼にとってはこの迷惑な客が用を済ませてさっさと帰ってくれれば今日の仕事は終わりだ。
「分かりました。行きます」
 カインは腰をあげた。
「六号面会室だ。音声はシャットアウトしているが、ビデオは回されているからそのつもりで」
 ドナルドはそう言い捨てると画面から消えた。
「誰だ…… トエラなんて……」
 カインはそうつぶやきながら六号面会室に入り、そして度胆を抜かれた。
「そろそろ眠る時間だったかしら」
 ソファにゆったりと背をもたせかけて座っていたトウは優雅に足を組んで煙草をふかし、カインを見てにっこりと笑ってみせた。
「どうしてここに……」
 カインは掠れた声で呆然と立ち尽くした。その姿を見てトウは声をたてて笑った。
「こんな格好じゃ誰も私がリィの社長だって分からないらしいのよね。スリルがあって面白いわ」
 そして持っていた煙草を灰皿に押し付けた。
「でも、あんたにはすぐに分かっちゃうみたいね」
「いつ…… 『コリュボス』に?」
 カインはトウから目を放さずに向かいのソファに座った。
「三時間前。ホテルにチェックインして、二、三の仕事を片付けてきたの。遅い時間に悪いわね」
 トウのあでやかな笑みをカインは警戒しながら見つめた。
 この人のやることだけはいつも全く見えない。事前の予感すらしない。
 でも、まさかここまで乗り込んでくるとは思わなかった。
「何よ、そんな顔しないで。久しぶりに休暇をとってわざわざ息子に会いにきたのよ。キスしてくれてもいいんじゃない?」
「休暇?」
 カインは疑わしげに目を細めた。トウは大袈裟に肩をすくめた。
「いけない? 私だって人間よ。ここのところちょっと体調が優れなかったから休みをとったのよ。それにあんたのことが心配でしようがなくて」
 そう言ってトウはぐいっと身を乗り出し、カインの顔に自分の顔を近づけた。
「あまりにもあんたが私に内緒ごとを作り過ぎるもんだから」
 カインはごくりとつばを飲み込んだ。
 トウは怒っている。そのことだけは明らかだった。
 彼女はにっこり笑うとカインの頬を両手で挟み、すばやく彼の頬にキスをした。
「ビデオには再会を喜ぶ叔母かなんかがキスしたように見えるわね」
 彼女はおかしそうに笑って再びソファにもたれた。そして今度は鋭い目をカインに向けた。カインは思わず身構えた。
「セレス・クレイに関する情報をもっと出しなさい。どんな些細なことでもすべて私に報告するのよ。一週間に一度、データを私にオフィスに送ること」
「今までも送っています。彼は別にどこということのない少年で……」
「普通であるはずがないわ」
 カインの言葉をトウはぴしゃりと遮った。
「私はあんたより独自のルートをいくつも持ってるのよ。あんたが調べられないことも私だったら情報入手できるのよ」
 トウは厳しい表情を変えずに、声だけは穏やかに言った。
「だったらご自身で調べればいいじゃありませんか。それとも、ここの所長にでも頼んでみたらどうです?」
 カインはトウから目をそらせた。トウはそんなカインを見てかすかに表情を和らげた。
「バカな所長に何ができるのよ。私を堂々とこの一般面会室に通した男よ。だからあんたに頼んでるわけでしょ?」
 トウはカインの顔を覗き込んだ。
「もう、分かるわね。私はセレス・クレイの情報が欲しい。うまくいけば、ケイナ・カートは自由になるかもしれないわ」
「え?」
 カインは思わずトウを見た。
 トウはうまくカインの心を掴んだことを知って心の中でほくそえんだ。
「セレス・クレイという少年のほうが優れた被検体になる確率が高いのよ。でも、それにはもう少しデータが必要だわ。三ヶ月くらい情報収集すれば、だいたいの分析はできる。彼とケイナが一緒にいる機会が多いならそれくらいのこと簡単でしょ」
「もし、セレスのほうが優れていたら、セレスを研究対象にすると……?」
 カインは震える声で言った。
「そうよ」
 トウはほほえんだ。
「本当はふたり一緒に欲しいところだけれど、あなたはそれを望んでいないでしょ?」
「そんな……」
 カインはトウを睨みつけた。
「ケイナの代わりにセレスを仮死保存するっていうんですか!?」
「あら、知っていたの」
 彼女は驚かなかった。
「立派なものね。彼が教えてくれたの? そこまで信頼関係が築ければたいしたものだわ」
「トウ……」
 カインは冷静を保とうと思いつつ、意にそぐわず震える頬を感じながら言った。
「人間を仮死保存なんて無茶だ。それも健康体の人間を。それは禁止されているでしょう。 ましてやセレスはきちんと地球に住民登録されているんですよ。家族だっている。説得できるわけがない」
「じゃあ、ケイナにする?」
 カインは平然としているトウを呆然として見つめた。
「ねえ、よく考えて。セレスとケイナのどちらを取るの? ケイナは自由になれたら私は彼を『ビート』に引き抜こうと考えてるのよ。そうすればずっと一緒よ。あんたたちは見張り、見張られる立場ではなく、本当の仲間として一生同じ道を歩んでいけるじゃない?」
 トウはするりとカインの横に身をすべりこませると、慰めるようにカインの肩を抱いた。
「カイン、私は叔母でもあるけど母親でもあるのよ。あのきれいな男の子にあんたが心を奪われてることくらい、とっくの昔に気づいてたわ。母親として私だってあんたが最愛の友人と永遠の別れをする時に涙を流す姿なんか見ていられないわ。なんとかしてやりたいと思ったのよ」
 カインは耳もとでささやくように言うトウの声を聞きながらこぶしを握り締めた。
「遺伝子の損傷もない。生殖器官も健全。知能も運動神経も標準レベルを超えてるわ。そう、ケイナもセレスも。だけど、サンプルはひとりでも構わない。ひとつあれば何とかなるわ」
「何とかなるって……」
 カインは顔を歪めた。
「一体何をどうしようって考えてるんです。ぼくらは何も教えてもらってない」
「知りたいの?」
 トウは笑みを浮かべた。
「あんたがリィの後継のことを本気で考えてくれたら、いずれは全部知ることになるわ。大丈夫。あんたがリィを継ぐことになっても、ちゃんとケイナ・カートはあんたのそばにいるように善処するわよ」
「ケイナは…… ケイナはそんなことは望まない……」
「彼が望む望まないは関係ないわ。あなたがリィの後継者であり、あなたがこの星の経済中枢を担うんだから」
「ケイナは、そんなことは望まない!」
 カインはトウの顔を見て怒鳴った。
「じゃあ、彼の望みはなに?」
 トウは言った。
(ケイナの望み?)
 カインは目を細めた。トウはそんなカインを冷静に見つめていた。
「どちらかひとり、もしくは両方、よ。あなたがどうこうできることじゃないわ。だけど、あなたが優位に立つことはできる。男の子に眠ってもらい、ケイナとともに生きるか、それともケイナを眠らせるか……」
 トウの言葉はすべてワナだと分かっていながら、カインは揺さぶられる自分をどうすることもできなかった。
「自由の身になればケイナはずっとあんたを親友と思って大事にしてくれるわ。だって自分を助けてくれたのよ。自分を助けてくれた者を憎む人間なんていないわ」
 カインの脳裏に昔ケイナが言った言葉が思い出された。
(おれが眠りにつくまでそばにいて欲しい。リィの後継者ならそれができるよな……)
 カインは目を閉じて顔を伏せた。
 そばにいてほしい。
 ケイナのその言葉に全身の血が逆流したような高揚感を覚えたことは否めなかった。
 彼は自分とは敵対したくないと言ったではないか。
 セレスがケイナの代わりになることは、自分の意志や命令ではない。
 ぼくのせいではない。
 カンパニーの…… 意志だ……。
 でも、ケイナはそんなことは絶対許さない。
 ケイナはぼくを殺すか?
 トウはカインの横顔を見て微笑んだ。彼が何も言わないので了承したと思ったようだ。
「いい子ね。このことはアシュアには言わなくてもいいわ。大丈夫、何もかもうまくいくわよ」
 トウはぎゅっとカインを抱き締めると立ち上がった。
 部屋を出ていきかけて思い出したように振り向いて、バッグの中から小さなブレスレットのようなものをカインの前のテーブルに置いた。
「小型カメラ。これにセレス・クレイの映像を撮っておいて」
 トウは言った。
「実際に彼の姿を見てみたかったんだけど、手続きが面倒だからやめたわ。よろしくね」
 トウはカインに顔を近づけてキスをするとにっこり笑って部屋から出て行った。
 ひとり残されたカインはこぶしを握りしめたままトウの残したカメラを睨みつけた。
 ケイナはジェニファの言ったことが頭から離れずにいたが、『ライン』の日々のケイナに課せられた日常は変わることはなかったし、逃れることもできなかった。
 セレスは日を追うごとに妙な恐ろしさを感じるほどのスピードで訓練のレベルがあがっていき、その速さはケイナが見ていても少し無気味さを感じるほどだった。
 彼は一ヶ月後の進級試験はおろか、飛び級試験も目をつぶっていたって合格してしまうだろう。
 ジェイク・ブロードは嬉々としてセレスの指導をしているに違いない。
 セレスはハイラインにあがってくる。
 それはセレス自身の望みでもあったし、内心ケイナも待っていることだった。
 ケイナは自分でもセレスがそばにいると安心できることに気づいていた。
 だが、そのセレスへの思い入れをできるだけ外に出すまいと努力した。
 特に今はルームリーダーになっている。トニやジュディの目もある。
 しかし、そうした人間関係にことのほか敏感なジュディの目はごまかせなかったようだ。
 それはある日アシュアが口にした言葉で気づいた。
「バッガスたちが…… 時々セレスの様子を伺ってるみたいだぜ」
 アシュアはベンチプレスの重りを置くと、起き上がって言った。
「セレスの周りをバッガスのグループの奴が妙にちょろちょろしてるんだ。なんでセレスのカリキュラムを知ってるんだか……」
 ケイナは顔の汗を拭おうとしていた手を止めた。
「おれたちと休暇を一緒に過ごしたってことはバレちまってるからな。いつかはセレスもマークされるだろうと思ってたが、まさか新人の時期からとはね」
 アシュアはごしごしとタオルで顔を拭いた。
 知られるはずもないセレスのカリキュラムを把握できるなど、誰かがセレスのカリキュラム表を渡したとしか思えない。それができるのはセレスと全く同じカリキュラムのジュディとトリルだけだ。ふたりのうちどちらかが、と考えるとジュディのほうが怪しいのは考えるまでもなかった。
「おまえどうするんだ? もうすぐあの部屋を出るんだろう」
「分かってる」
 ケイナはつっけんどんに答えた。
「数カ月耐えてくれれば、それでいい。ハイラインに来ればあとはおれが守る」
「じゃあそのあとは?」
 アシュアは言った。
「おまえはいなくなるんだぞ?」
 ケイナはそれを聞いて苛立たしそうな表情を浮かべた。
 向こうでローイングマシンを使っていたハイライン生が怪訝な目を向けたが、すぐに知らん顔でトレーニングに戻った。
 アシュアは苛立たし気に髪をかきあげるケイナをじっと見つめた。
「なあ、ケイナ」
 アシュアはゆっくりと言った。
「おれはセレスのことが気にいってんだ。見ててなんだか危なっかしいが、おまえにとことん惚れぬいて一生懸命おまえに追いつこうとしてるところがけなげだよな。あそこまで人を信じれるってのはすごいと思うよ」
 ケイナは黙ってアシュアから顔を背けた。
「そんなあいつにおまえもどんどん心を動かされてるのも良く分かるよ。だけど、なんか最近おかしかねぇか?」
「おかしいって何が」
 ケイナはじろりとアシュアを見た。
「気づかねえよかよ…… あいつらが全然おまえにちょっかいかけなくなってるじゃないか」
 ケイナの顔がさらに険しくなった。
 気づいていないわけではなかった。
 休暇の前には一度クラバスに喧嘩をふっかけられていた。バッガスとよく一緒にいるやつだ。
 あのとき、ダイニングの割れた食器で手を切った。休暇の時に眠り込んだケイナの手にセレスが見つけた切り傷はそのときのものだ。
 なんだかんだと小さい傷を作ったりちょっとした諍いはいつも数日おきにあった。
 それが休暇から戻ったとたんにぱったりとなくなった。
 関心が全部セレスに行ってるのか? まさか。
 ケイナは口を引き結んだ。
 そのとき、慌ただしい足音とともにセレスが駆け込んできた。
 アシュアもケイナも驚いて目を丸くした。よりにもよって噂をしていた奴がやってくるとは思わなかったのだ。
「ケイナ!」
 セレスの顔は上気して輝いていた。
「アシュアもいたの! 良かった! 探したんだ!」
「どうしたんだ」
 ケイナはぶっきらぼうに言ったが、セレスを見る時だけ彼の視線が少し柔らかくなることにアシュアは気づいていた。たぶん本人は全く分かっていないだろう。
「ニュースだよ! おれ、一ヶ月後の進級試験の時に飛び級試験を一緒に受けさせてもらえることになったんだ!」
「え?」
 ケイナとアシュアが同時に声をあげた。
「別におれが初めてなわけじゃないんだよ。兄さんが昔それを受けてるんだ。兄さんはそのときはだめだったみたいだけど前例があるからやってみないかってブロード教官に言われたんだ」
 セレスはケイナとアシュアを交互に見ながら言った。
「おまえ、この数か月間でロウラインの二年を飛び越えて一気にハイラインにあがるのか?」
 アシュアが呆然として言った。
「試験に合格すればの話だよ。でも、おれ、やってみせるからな」
「無理だ……」
 ケイナは言った。
「おまえ、まだ腰がふらつくじゃないか…… 連弾射撃もパーフェクトじゃないのに……」
「一ヶ月あればなんとかなるよ。あつっ……」
 セレスはそこで少し顔をしかめて左足を床から持ち上げた。
「どうしたんだ」
  アシュアが目を細めた。
「なんでもない。ブーツん中に射撃訓練の時の円盤の破片が入ってたんだ。たぶん飛んできて入り込んだんだろうけど、血が出てた」
 アシュアとケイナは思わず顔を見合わせた。
「ちょっと見せろ」
 ケイナが手を伸ばしたので、セレスはびっくりしたように足を引っ込めた。
「大丈夫だよ。たいしたことないんだ。一応医務室で消毒はしてもらったよ」
「分かってる。いいから、ブーツを見せろ」
 ケイナが叱咤するように言ったので、セレスは渋々トレーニング用のブーツを脱いだ。
「底のかかとの脇、見てみな」
 アシュアが横で言った。ケイナはブーツを取り上げるとひっくり返してかかとをひねった。
 ブーツのかかとはぽろりと取れ、セレスは目を見開いた。
 ケイナはとれたかかとをセレスにほうってよこした。
「何、これ……」
 セレスは信じられないといったふうにそれを凝視した。
「なんとまあ、呆れるほど子供じみた悪戯をやってくれるぜ」
 アシュアがため息まじりに言った。
「どういうこと……」
 セレスはアシュアとケイナを交互に見た。
「自分のブーツくらい気をつけてろ。足を傷めると一番辛い」
 ケイナは吐き出すように言った。
「いろいろやるんだよ。あいつらは。これじゃあどっかで足を挫くな。たぶん破片かなんかも故意に入れられたんだよ」
 アシュアがにいっと笑って言った。
「いったいどこで……」
 セレスはつぶやいた。
「ブーツを脱いだのはどこだ」
 ケイナが尋ねるとセレスは思い起こすように視線を泳がせた。
「部屋と、シャワールーム……」
 セレスはそう言ってケイナを疑わしそうに見上げた。
「部屋はケイナとトニとジュディ、シャワールームだってロウライン生しか……」
 セレスはそこまで言って口をつぐんだ。
「そういうこった」
 アシュアはほおづえをついて言った。
「そのどちらにもいる相手が一番クサイ奴なんだよ」
「ジュディが……?」
 セレスは信じられないといった表情でつぶやいた。
「でも、ケイナがやられたおんなじ方法をジュディが知っているはずがない」
 ケイナもアシュアも何も言わなかった。セレスはかぶりを振った。
「そんなはずない」
 そうつぶやいたが、その声に自信はなかった。
「ロウライン生でできるっていったら、せいぜいこんな程度だろうけど、気をつけな」
 アシュアの言葉にケイナは不機嫌そうに顔をそらせた。
「ブーツは直しておいてやるよ。あとで届けてやるからそれまでこれを履いてろ」
 アシュアはそばにあった自分のスリッポンタイプの布靴をほうってよこした。
「ケイナ……」
 セレスはケイナを見た。ケイナは顔をあげてセレスに目を向けた。
「こういうことなの? あんたがここにいる間中、少しも緊張を解かないのはこういうことだから?」
 ケイナは黙ってセレスを見つめた。
「こんなもん、ガキのいたずらじゃねえか。どうってことないよ」
 代わりにアシュアが答えた。
「だけど、ケイナはルームリーダーになってからはことさら緊張を強いられてるんだ。自分の周りに他人がたくさんいればいるほど、神経を尖らせてなくちゃならない。そしてひとりでいる時はそれはそれで神経を尖らせてなくちゃならない」
 セレスはかすかに口をぎゅっと引き結んだ。
「命がけだよ。それがおまえにできるか?」
「よせ、アシュア」
 ケイナが口を挟んだ。しかしアシュアはやめなかった。
「おまえは今ケイナやおれに守られてるんだよ。だけど、ハイラインにあがったら、おまえの周りは敵だらけだぞ。ケイナに負担をかけずに自分の身を守れるのか?」
「アシュア、やめろ」
 ケイナの声が険しくなった。
「やってやるよ」
 セレスはアシュアを見据えた。
「おれはケイナを守る。そう決心したんだ。ケイナのそばにいたいんだ。どれだけ敵がいたって怖くない」
 セレスはそう答えると、アシュアの靴を取り上げてすたすたとトレーニングルームから出ていった。
「けなげだねえ……」
 アシュアはその後ろ姿を見送って笑って言った。
「あんだけストレートに感情表現する奴もめずらしいよ。おまえを守りたいんだと。まあ、状況がいまいち実感ないのかもしれんけど。こんな程度の悪戯じゃあなあ」
アシュアはセレスのブーツを見て苦笑した。ケイナは黙ってセレスの出ていった方向を見つめた。
(命の危険があるかもしれない)
 ジェニファの言葉が頭に響いた。
(させるか。そんなこと)
 ケイナは思った。
 セレスはジュディが自分の靴に細工をしたとは信じたくなかった。
 ジュディは確かに鼻持ちならない奴だが、こんなことまではしない奴だと思っていたのだ。
 それでもセレスはいつしかジュディの行動に警戒心を持つようになっていた。足や手を傷つけられることは一番避けなければならないことだったからだ。小さな傷が命とりになることもある。
「このごろ落ち着かないね、セレス」
 夕食の時、セレスの姿を見つけて隣に座ったアルが言った。
「進級試験、そんなに大変そう?」
 デスクスタディばかりのアルにはセレスの訓練は想像もつかなかった。体を動かすのだから勉強して知識を詰め込めばなんとかなるというものでもない。そういうことにはからっきし能力のないアルだった。
「試験はたぶん大丈夫だよ」
 セレスはちょっと笑ってフォークを口に運んだ。ダイニングにジュディの姿はなかった。それが安心でもあるし、不安でもあった。
「でも、きみはハイラインへの飛び級試験も一緒に受けるんだろ? そこいらでものすごい評判になってるよ」
 アルは心配そうに言った。
「そんなやつ、ここ何年も出てないんだって。どんな気分だい?」
「別に…… おれ、なにがなんでもハイラインに上がりたいんだ。ただそれだけだもの」
 アルはセレスの横顔をしばらくじっと見つめた。
「セレス…… きみ、そんなにケイナのそばにいきたいの?」
 アルは声には少しためらいがこもっていた。セレスは思わず顔をあげてアルを見た。
 アルはその目から逃れるように顔を伏せて皿の上の肉片をフォークでつついた。
「そんなにケイナのことが大切なの?」
「どうしたんだよ、アル」
 セレスは目を細めた。アルが何を言いたいのか分からなかった。
「きみはさ、昔っからいろんなことができる奴で、それでも全然気どらなくて、ぼく、誇りに思ってんだ」
 アルはちらりとセレスを見た。
「だけど、ここんとこ、きみの様子を見てると、なんかどんどん離れていっちゃうような気がするんだよ。ラインに入って科も違ってて、あんまりお互いの様子は分からないんだけどさ、だけど、どこかでセレスとは繋がってるつもりでいたんだ。だのに、会うたんびにきみはいつも遠い目をしててさ」
 アルは目をしばたたせた。
「こないだの休暇の時のことを根に持ってるとか、そういうんじゃないから勘違いしないでくれよ。ただ、ぼくね、前みたいにセレスが何を考えてるのか分からないんだ」
 セレスはアルを見つめた。アルは少し顔を赤くした。
「ごめん、なんか変なこと言っちゃった」
 アルは照れくさそうに笑って頭を掻いた。
「なんか、心配で……」
「おれ…… ケイナを守りたいって思ってるんだ」
 セレスはしばらく躊躇したのち、アルに初めて自分の気持ちを白状した。
 アルはびっくりしたような顔をセレスに向けた。セレスは肩をすくめた。
「おかしいだろ? おれみたいなただのロウライン生がさ、エリートをそのまんま形にしたみたいなケイナを守りたいって思ってるんだ」
 セレスは自嘲気味に笑った。
「なんでなのかな…… おれ自身もよく分からないんだ。ただ、彼のそばにいなくちゃならないって気持ちだけがものすごくあるんだ。ケイナが何か危ない目に遭ったら、おれ、きっと命を張ってでもケイナを守ると思う」
 アルは一年前よりはるかに精悍な顔つきになってきたセレスの横顔を見た。
 四年前、セレスはだぼだぼの革のジャケットをはおって、空中を泳ぐように校庭を走り回っていた。
 こぼれ落ちそうなくらい大きなグリーンの瞳と、ゆらゆらと風になびく木の葉のような緑色の髪が特徴だった。
 その特徴はそっくりそのまま今も残っているが、短く切った髪の下から弧を描く顎は少年の幼さを保ちながらも頑丈な骨格をつくり出しつつあるし、細く弱々しかった腕はわずかながらも逞しくなっていた。
 すんなりと長く伸びた足もしっかりと地を踏み締めていた。
 きっとケイナのナンバー・ツーと言われる日も遠くないだろう。
「なあ、アル」
 セレスはアルに顔を向けた。
「それでも、おれ、昔と変わってないつもりだよ。ケイナじゃなくて、アルが何か危険な目に遭いそうになったら、おれはアルのことを守るよ。アルのことは大事だと思ってるよ」
 それを聞いたアルの顔が真っ赤になった。
「おべんちゃら言うのよせよ」
 アルはしどろもどろになって顔を背けた。セレスはおかしそうにくすくす笑った。
「おべんちゃらじゃないよ。おれたちきっとこのまんま大人に……」
 ふとセレスはそこで言葉を切った。アルが顔を向けると、セレスの持っていたフォークが床に落ちてかしゃりと大きな音を立てるのが目に入った。
「何やってんだよ」
 アルは首を振って立ち上がり、フォークを拾ってやった。照れ隠しにいいごまかしができたと思った。
 しかし、フォークを彼に渡そうとしたとき、アルはセレスの顔が凍り付いたように固いことに気づいた。
「どうしたの」
 アルは不審に思って尋ねた。セレスははっとしたような顔をすると首を振ってフォークを受け取った。
「なんでもないよ」
 セレスは少し笑みを見せると再び食事を始めた。
 アルは訝しそうにセレスを見つめた。

 最初は疲れているだけか、体調がすぐれないだけだとトニは思っていた。
 試験も近いし、きっとストレスがたまっているのだ。
 しかし、セレスの顔色は日に日に悪くなっていくように思えた。
 食欲も落ちた。トニが一緒に食事に行こうと誘ってもなんだかんだと言い訳を言って行かなくなった。
 そのままほうっておくとずっと食べないでいるようなので、時間が合えばセレスを無理にでもダイニングに引っ張って行った。
 不思議なのは、朝起きた時は死人のような顔つきなのに、しばらくすると顔色も良くなって普段と変わらないように見えた。
 そして夕方会うと再びげっそりとした顔つきになり、なんとか夕食をとってしばらくするとまた元気になるのだ。
 それでもセレスは二週間で体重が四キロは落ちたように見えた。
 もともと細みのセレスは少し痩せてもすぐに見た目に跳ね返ってしまう。四キロも痩せたセレスはどう見ても普通ではなかった。
 トニは見るに見兼ねてセレスもジュディもいないときを見計らってケイナに相談した。
「分かってる」
 ケイナはデスクのモニターを見つめながら答えた。
「おれも、RPの時に一度医者に診てもらえと言った」
「行ったのかな、セレスは……」
 トニは不安そうにつぶやいた。
「行ってないだろうな」
 ケイナはモニターから顔を振り向けた。
「試験まであと二週間しかない。なまじ入院なんてことになると試験をフイにしかねない。普通だったら行かない」
「ケイナ、あのままじゃ、なんだかセレスは倒れてしまいそうだよ。変だよ」
 トニはすがるように言った。
「ブロード教官からも気をつけるよう言われてる」
 ケイナは髪をかきあげてトニを見た。
「単純にストレスくらいのことならそのまま試験を受けさせると教官は言ってる。教官も今ここでセレスの受験をフイにしたくないんだ」
「セレスはストレスだと思います?」
 トニは眉をひそめた。不安を感じているのか、顔が少し紅潮している。
「ぼく、とてもそうは思えない。セレスはきっと病気だよ」
 ケイナは息を吐いた。
 ケイナは数日前に、カインとアシュアにセレスのことを話していた。
 案の定、ふたりはとっくにセレスの異常さに気づいていた。
「ケイナ、気がすすまないかもしれないけど、セレスの検査をしてみよう」
 カインはそう言った。ケイナはそれを聞いて目を細めた。
「検査って……」
「本人に直接検査を受けろと言っても拒否するのは分かってるから、こっそりするんだ。彼の髪の毛一本あればいい。髪がだめなら彼の使ったタオルや着ていたトレーナー、なんでもいいんだ。皮膚組織の一部がついていそうなものならなんでも。持ってこれるか?」
「いったいどこで検査するんだよ」
「ぼくのホームドクターが信頼できる。小さい時から診てもらっている年寄りの医者だ。ぼくが頼めばどこにも口外はしない」
 ケイナはしばらく考え込んだが、アシュアに肩をたたかれて決心した。
「わかった。なんとかするよ」
「ケイナ……」
 カインは少しためらいがちに言った。
「セレスは早く手を打たないと危ないかもしれない」
 ケイナはぎょっとした。顔に出すまいと思ったが、たぶん動揺を隠せなかっただろう。
「『見える』んだ…… 具体的にじゃないけどセレスの姿を見ると赤いもやがかかって見える。今の彼は病気だ。病気でなければ、何か中毒か」
「中毒……?」
 ケイナは呆然とした。
「いったい何の……」
「それを今から検査するんだよ」
 アシュアが横から口を挟んだ。
「ちょっとしたハーバル系のものなら薬効はすぐに抜けるよ。やめさえすればいいんだ。一日、二日、辛いかもしれないけどね」
 アシュアはゆっくりとした口調でケイナに言った。
「おれはほんのちょっとだけど、薬学をかじったことがあるんだ。あの程度の症状だと別に命に別状はないだろうけれど、時期が時期だけにヤバイかもな」
「セレスが薬をやってるとでも言うのか……?」
 ケイナの声に幽かに怒りがこもった。
「彼が自主的にやっているわけじゃないだろう」
 カインはメガネを指でついとあげた。
「たぶん何かに仕込まれたんだ。食事か、水か」
「それはどっちも可能性が低いな」
 アシュアはつぶやいた。
「どっちもセレスだけが口にするっていう確率が低い。経口だけとも限らない……」
「そんなものは思い浮かばない……」
 ケイナは言った。
「何かあるはずだ。注意して見てやってくれ。きみしかそばにいないんだ」
 カインの言葉にケイナは不安を感じながら頷いた。
 セレスが使ったと思われるタオルをカインに渡すと、結果が出るまでに一日以上はかかるはずだとカインは言った。
 ケイナはセレスの様子を監視するために夕食後のトレーニングはキャンセルした。セレスもジュディも戻ってきていないうちに部屋でデータを開いているのはそのせいだ。
「トニ。セレスの様子を見てて、おまえが何か思うことないか」
 ケイナはトニに言った。
「何かって……?」
「セレスの行動で、いつもと違うことってないかってことだよ」
 トニは視線を宙に泳がせた。必死になって思い出しているようだ。しかしやがて首を振った。
「何もない。セレスはいつも同じ時間に起きて、同じ時間にカリキュラムをこなして、同じ時間に寝てる。違うのは最近よく手を開いたり閉じたり振ったりしてることくらいだ。痛いのかって聞いたら、時々痺れるんだって言ってた」
「痺れる……」
 ケイナは目を細めてつぶやいた。
「アルも一度ダイニングで会ったときに、セレスがフォークを床に落しちゃって、そのときの様子が変だったって言ってたんだ。手が痺れてフォークを持てなかったのかもしれない……」
 ケイナの前では決してセレスはそんなそぶりは見せなかった。射撃の訓練も特に精度が落ちることもなかった。
 いつも同じ時間に起きて、同じ時間に寝て……。
 ケイナはため息をついた。
 そのとき、部屋のドアが開いた。トニがセレスだという合図をケイナに目配せで送った。
 セレスは青い顔をしていた。ニ、三歩足を踏み入れたあと、いきなりバスルームに駆け込んでいった。
 ケイナとトニは思わず顔を見合わせ、同時にバスルームに駆け寄った。
「セレス……!」
 ケイナは勢いよくドアを開けた。セレスは便器に顔を突っ込んでいた。
 トニが小さな悲鳴をあげた。駆け寄ったト二の目に吐瀉物にまじって血が点々と落ちているのが飛び込んできたからだ。
「ト二……?」
 セレスは喘ぎながら振り向いた。
「ぼ、ぼく、教官に知らせてくる……!」
「行くな……!」
 セレスは叫んだ。と同時にぐらりと体が傾いたので、ケイナは慌てて腕を伸ばしてセレスの体を受け止めた。
「トニ……! 行くな……! 頼む……!」
 セレスはケイナにしがみつきながら弱々しく怒鳴った。トニは怯えたような顔をケイナに向けた。
「とにかくセレスをベッドに運ぶんだ」
 ケイナはトニに言った。トニは震えながらこくこくとうなずくと、ケイナと一緒にセレスをベッドに運んだ。
「ふたりとも、頼むよ…… 誰にも言わないで」
 ベッドに横になったセレスの顔は土気色になっていた。
「セレス、きみ。病気だよ。ちゃんと診てもらわないと死んじゃうよ」
 トニは泣き出しそうな声で言った。
「トニ、あと二週間なんだ…… 頼むよ。このことは誰にも言っちゃだめだ…… アルにも、誰にも、言わないで……」
「セレス……」
 トニはおろおろとしてケイナを見た。ケイナはトニを落ち着かせるようにその肩をぐっと掴んだ。
「おれが責任持つから。セレスの言うこと聞いてやってくれ」
 トニは目をしばたたせながらうなずいた。
 ケイナはバスルームに向かった。吐瀉物をそのままにはしておけない。
 勢い良く水を流しながら、ふと、視界の片隅にひっかかったある物に気づいた。
 頭の中で警報がけたたましく鳴り響いた。
 洗面台の上に小さな扉が四つ並んでいた。
 左からケイナ、ジュディ、セレス、トニ。
 ケイナは昔からこの小さな物入れは使っていなかった。直接口に入れたりするものは絶対に他人が触れられるような場所には置かなかった。
 そうだ。
 どうしてそれに気づかなかったのだろう。
 ケイナはセレスの扉を開けた。中には小さな歯磨きのチューブと、そして歯ブラシが入っていた。
「見つけた……」
 彼の歯ブラシを持ち上げてケイナはつぶやいた。
 カインはロウラインの部屋を出てハイラインの自室で手のひらに乗る程の小さな黒いケースを取り出すと、自分のデスクのコンピュータに接続してキーボードを叩いた。
 これを使うとラインの通信室を経由せず自室で外と交信できる。形跡も残さない。
 もちろんそれはラインの中では規約違反だが、トウとの連絡もずっとこれで行っていた。
 キイを叩いてしばらく待つと、画面に真っ白な髪の小柄な老人が現れた。
「やあ、カイン。待たせてすまなかったね」
 老人はにこやかに笑って言った。
「ドクター・レイ。すみません、無理を申し上げました」
「いやなに、たいしたことではないよ。ここのところヒマでな。患者のほとんどは息子と嫁が診とるから退屈でしようがなかったところだ。ぼっちゃんもたまには風邪でもひいてくれんかな」
「ぼくはあいにく地球のウイルスには強くできているらしいので…… それにドクターの専門は脳外科でしょう。……マリアは元気ですか?」
 カインは笑って言った。
 マリアはレイの妻だ。レイより10歳若い、大柄できびきびとよく動く快活な女性だった。
 彼女は主に小児科が専門だったが、最近はレイに変わって内科専門の息子ジュナと診察をしているらしい。
「元気も元気。相変わらず口達者で気性が激しいよ。おっと、本題に入ろう」
 レイはそう言うと画面の向こうで紙を取り上げた。
「あとでデータを送ってさしあげるが、この患者はナンバー88系の違法ドラッグに冒されとるな」
「ナンバー88……」
 カインはつぶやいた。やはりセレスは薬物中毒だったのか。
「ナンバー88はたいしたもんじゃないよ。昔、リィ・メディケイティッドで販売していたハーバル系の薬だ。やめてしまえばリターンはない」
 レイは紙を近づけたり遠ざけたりしながら言った。老眼がかなりすすんでいるのだろう。
「基本的に抑うつ剤的なものだ。効いている間は気持ちも朗らかになる。しかしあまり大量に摂取したり長期の服用になると食欲減退や体重の減少、血流の悪化といった副作用がある。副作用が出ている中で薬の効果が薄れてくると、手足の痺れや吐き気、目眩、頭痛といった症状も起こる。昔女性がダイエットに使ったことがあったんだが遺伝子を傷つける恐れがあるのと、血流とホルモンのバランスを崩して無月経になる可能性が高いんでな、販売中止になっとる。今は使用が違法だな」
 レイは紙を置いて、少し咳をした。
「ぼっちゃんは知らないかもしれないが、違法ドラッグに指定されているものの大半はもともとリィが販売していたのが始まりだというものが多いんだよ。だから販売中止にするのもすばやいもんだ」
「彼は血を少し吐いたらしいんですが」
 カインは言った。セレスが倒れたあとにケイナが知らせてきたのだ。
「それは88とは関係ないだろう」
 レイは言った。
「あんまり食事をとってなかった上に何度か嘔吐していたんじゃないかな。あとで薬を届けるよ」
 カインはほっと息を吐いた。
「それで、薬を抜くのはどうしたらいいんですか」
「ほっときなさい。口にしさえしなければ二日で抜ける。ちょっと下痢をするかもしれんがね」
「はあ……」
カインはつぶやいた。少し拍子ぬけをしていた。自分の目に見えていたものはもっと深刻だったからだ。
「まあ、今は88ごときにそんな辛い思いをしなくてもいいように、すばやく薬効を消す中和剤があるよ。一時間後に届けさせる。リィの名前を使えばきみの手許に確実に届くだろう。中身は分からんようにしておくよ」
「助かります。ドクター」
 カインは礼を言った。
「それにしても女の子のダイエット志向がまた復活したのかね。30年前は全く逆だったよ。太ったほうがよかった。生命力が弱い時代になると人間は痩せていく志向になるのかねえ。せっかく『ライン』に入ってまでばかなことをする」
「は?」
 カインはびっくりした。
「何のことですか?」
「なんのことって…… ダイエットなんだろう?」
 レイは怪訝な顔をした。
「セレスは…… 男ですよ。それに軍科だ。ダイエットの理由がありません」
カインは妙な不安を覚えながら言った。
「男?」
 レイは目を細めて持っていた書類をめくった。
「そんなはずはない。この患者の性染色体はXXだ。ドラッグの中には遺伝子に入り込む悪いやつもいるから検査したんだよ」
「そんなばかな…… セレスは…… 男です」
 繰り返しながらカインは血の気が下がっていくのを感じた。レイの表情が堅くなる。
「表現体は男性なのかね?」
「え…… ええ、たぶん……」
 表現体がどうこうと言われてもセレスの裸体など見た事もないのだから、見た目で答えるしかない。確かに標準の体型よりは華奢だが、セレスを女性と思うのは明らかに無理があった。
「『ライン』に入るときには遺伝子レベルで性別チェックは受けているはずです。女性を男性と間違えるはずはない」
 カインは言った。
「そんなばかな話があるもんかね。彼女の…… いや、彼か? いったいどんな遺伝子構造をしているというんだ」
 レイはつぶやいた。
「ドクター……」
 カインは思わず声を荒げた。
「そのデータをぼくに送ってください。そしてどうか、このことは他言しないでもらいたい」
「それはもちろんだが……」
 レイは答えた。
「正規のルートを踏まずにわしのところに依頼してきた時からそれは分かっておった。しかし、本来は女性なのに、そのまま男性として『ライン』に居続けることは難しいぞ。本人が自分を男と認識しているならなおさらだ。それに、両性具有種はリィに知られると、彼の人生にも響く」
「分かっています」
 カインは震える声をどうすることもできなかった。レイは言い募った。
「できればきちんと遺伝子検査をしたほうがいい。こちらのデータのミスということもある。それにもし、仮にだぞ、環境の変化で性別がころころ変わるとしたら、どっちかにおさめたほうが本人のためでもある。『ライン』に入る前には男で、『ライン』に入ってから女になったのだとしたら、その可能性があるだろう」
 レイの言葉にカインはうなずいた。
「検討します…… ドクター、どうもありがとう。感謝します」
「じゃあ、あとで薬を届けさせるからな」
 レイはそう言うと画面から消えた。
 カインは震える手で通信の接続を切った。目の前に不快な光がちらちらと点滅した。
「セレスが…… 両性具有……? これか…… 見えていたものは」
 彼はコンピューターの前に突っ伏した。

 セレスは届いた薬を飲んで一日ベッドに横になっていたが、翌日には何事もなかったかのように元気になっていた。ただし、それは本人曰くのことであったが。
 きちんと食事をしていなかったうえに、カリキュラムだけはこなしていたから体力の消耗は激しかった。起き上がろうと思っても頭がふらついた。
 ケイナはセレスがストレスで胃炎を起こしたのだとブロードに説明した。
 ドクター・レイは機転をきかせてそれらしい診断書も薬と一緒に送ってきていたので、ブロードは腑に落ちない顔をしていたが、あえてそれ以上は問いただすまいと心に決めたらしかった。そして三日間だけセレスの静養を認めた。
「88というドラッグだったんだ」
 ケイナはセレスに説明した。もちろんトニやジュディがいない時だ。
 カインとアシュアも時間を見計らって部屋に来ていた。
 ハイライン生とロウライン生の講議時間のずれは三十分程度しかない。しかし、その時間ならロウライン生は絶対に宿舎棟には戻ってこないはずなのだ。
「経由先はおまえの歯ブラシだ」
 ケイナの言葉にセレスは沈痛な面もちでうなずいた。
「薬物なんか使うとすぐにアシがつく。そういうことも知らずにいて使ったみたいだな」
 アシュアが腕を組んで呆れたように言った。
「ケイナ…… やっぱり、ジュディだと思う?」
 セレスはためらいがちに尋ねた。
「ほかにおまえの歯ブラシにドラッグ塗りたくる奴がどこにいるよ」
 ケイナはいまいましげに言った。
「こっちはドラッグでダウンしたってことが言えない。今回は闇に葬るしかないな」
「おれが言いたいのはそっちじゃないんだ」
 セレスは言った。
「ジュディも薬を使ってるかもしれないってことなんだ」
 セレスの言葉にケイナは顔をそらせた。ジュディ自身がドラッグをやっていようがいまいが、どうでもよかった。
「おれに飲ませた量って生半可じゃなかったと思うよ。歯ブラシって食うわけじゃないんだし。口に含んだだけでこんなに症状が出るんだ。だけど、うまく使えばおれみたいに無茶苦茶にはならないんじゃないの」
「その推測は当ってるよ」
 カインが代わりに答えた。ケイナはイライラした様子で髪をかきあげた。
「88は食欲を減退させる効果があるから女性のダイエット薬として使用されてたこともあったそうだ。定量を短期に服用するぶんには副作用が出ることはない。だけど、容量を間違えたり長期に渡って服用すると中毒症状が出る。きみは二週間飲まされたわけだけど、大事に至らなくて良かった」
「じゃあ、ジュディが常用してる可能性はあるんだね」
 セレスはカインに言った。カインは肩をすくめた。
「可能性はあるかもしれないけど、それは本人に問いただすか、目撃するしかないね」
「ケイナ、おれ、黙ってたんだけど休暇中にバッガスがドラッグを買ってるとこ見たんだ」
「え?」
 ケイナは目を細めてセレスを見た。アシュアが「あ!」という顔をした。
「アシュアとケイナには言わずにおこうって約束してたんだ…… あんとき、何を買ってたのか分からなかったけど違法ドラッグだってことは確かなんだよ」
 ケイナはじろりとアシュアを見たが、何も言わなかった。
 アシュアは顔をゆがめて天井を仰いだ。
 セレスのバカヤロウ。その顔はそう言っていた。
「バッガスは違法ドラッグに手を出してる。それがここで広まってたとしたら大変なことになるよ…… もしかしたらユージーはこのことを知らないんじゃないかな。いや、もしかしたら彼も使ってるかもしれない」
 ケイナの目が険しさを増した。
「ユージーはそんな危険な橋を渡る人間じゃない」
 セレスはきっぱりとそう言ったケイナの顔を見つめた。
「おれもそう思ってる。おれ、ユージー・カートに一度会ったことがあるんだ。彼、とてもいい人だった。そばにいたバッガスはいきりたってばっかりいる奴だったけど、ユージー・カートはちゃんとした人だったよ。でも、バッガスが余計なことをしたらユージーも影響を受けるんじゃないの?」
 ケイナは黙ってセレスの言葉を聞いていたが、苦渋の表情を浮かべて顔をそらせた。
 そしてセレスのベッドから離れると部屋を出ていってしまった。
 セレスは困惑した顔をアシュアとカインに向けた。
「ケイナとユージーの関係はおれたちもよく分からないんだよ」
 アシュアが言った。
「あいつがカート家に来たときからユージーはカートの跡取りとしてケイナと比べられる運命になった。そのことがユージーにものすごい圧力になったことは間違いない。だけどケイナの話じゃ跡取りは最初からユージーに決まっているようだし、ユージー自身もそんなことで逆恨みするような度量の狭いやつじゃない。つまりそんなことでケイナをいびり倒すとは思えないってことなんだよ」
「じゃ、ケイナにちょっかいかけてくるのはバッガスの一存なのかな……」
 セレスはさっきのケイナの苦悩に満ちた顔を思い浮かべた。
「セレス」
 ずっと黙っていたカインが口を開いた。
「悪いけどぼくたちはケイナを守るけど、自分からほかに手は出さないんだよ」
 セレスはカインの言葉の意味を飲み込めず、怪訝な表情で彼を見た。
 アシュアも腕を組んでパーティションにもたれながら冷静な声で言った。
「ケイナとユージーの反目には関わらない。それがバッガスとユージーのことであってもだ。関係ないからな」
「関係ない……」
 セレスはつぶやいた。
「そんなものだったの……? ケイナは友人じゃないのか? ユージーはケイナのお兄さんだろ?」
「じゃ、おまえはハイラインにあがって何をしようと思ってるんだ? あいつらにケンカでも売るのか? それとも和解させるためにあがってくるのか? ユージーに説教でもするつもりか?」
 アシュアは言った。セレスは言葉に詰まった。
「セレス。アシュアが薬のことをケイナに言うなと言ったのは、ケイナに余計なことを知らせないというためだけじゃない」
 カインは言った。
「それはケイナを守ることには直接関係がないからだ。ケイナを守ろうとすることが第一の望みなら、ケイナに直接害を及ぼすこと以外は関わるな。『ライン』で薬が蔓延していようと、ユージーかバッガスがそれを使っていようと、ケイナ自身が使っているわけではないんだから関係ないだろう。そんなことより早く自分の身を自分で守れるようにしろ」
「自分のことくらい自分でなんとかできるよ」
 セレスはむっとして言った。言ってしまってから自分が今ベッドの上だということに気づいた。
「おまえな、休暇明けから今まで自分の力だけで過ごしてきたと思ってるのか?」
 アシュアが不機嫌そうに言った。セレスはアシュアを睨んだ。
「おまえは休暇明けからびったりバッガスの一派に張られているんだぞ。あいつらが手を出さなかったのは、ケイナが注意してできるだけおまえの行動を見守っていたからだ」
 アシュアはそこで肩をすくめた。
「それで、言いたかねえけど、おれたちもおまえのことを見てやってたからだよ。おまえが部屋から出て、部屋に戻るまでの間、ケイナと一緒におまえの周囲を警戒してたからだよ」
「そ……」
 セレスの顔が紅潮した。
「そんなこと、おれ、頼んでないよ!」
「まだ分かんねえのかよ!」
 アシュアは怒鳴った。その剣幕にセレスは口をつぐんだ。
「おまえは休暇の時に薬の売買の現場を見てる。おまけにケイナに何かと接近してる。なおかつ進級試験と同時に飛び級試験まで受けようとしてる。あいつらが警戒するのは当たり前だろうが! スキあればおまえを袋だたきどころか、もっとひどい目に遭わせようと舌なめずりしてんだよ!  いいか、ケイナを……」
 カインが手をあげてアシュアを制した。このままでは余計なことまでアシュアが言ってしまうように思えたからだ。
「セレス」
 カインは冷静な声で言った。
「きみを陥れるのに一番ぼくらとケイナの守りが手薄になるのは、きみがロウライン生たちだけの中にいる時だった。ジュディが自分からバッガスたちとコンタクトをとって薬を手に入れたのか、バッガスが誘惑したのか、それは分からないが、彼らがきみのことをライバル視しているジュディという人間を手に入れたことは彼らにとって幸運だっただろう」
 セレスはふたりから顔をそらせて唇を噛み締めた。カインはそんなセレスを見ながら言葉を続けた。
「もし、きみの異常に気づくのがもっと遅かったら、きみは飛び級試験を受けられなかった。そうすればケイナは十日後にはこの部屋を出て、きみはあと半年間何が起こるか分からない状況にひとりで立ち向かっていかなくてはならなかった。その可能性は今も残っている」
 セレスはまばたきをひとつするとカインを見あげた。カインはうなずいた。
「そうだ。きみは十日後の試験に合格して、必ずハイラインに上がってこなくてはならない」
「分かってるよ……」
 セレスはシーツを握り締めて言った。
「最初からそのつもりだ」
 カインとアシュアは無言でセレスを見つめた。
 カインは自己嫌悪に陥っていた。
 自分はセレスとケイナをくっつけようとしているのか、引き離そうとしているのか……。
 カインは自室のベッドの上に寝転び、天井を見つめた。
 考えごとをするときはロウラインの宿舎のブースの中ではなく、ハイラインの棟に戻ってくる。
 セレスがハイラインにあがってきて、果たして自分はケイナとセレスが今まで以上に惹き合う姿を冷静に見ていられるのか?  セレスが危険にさらされたとき助けてやるつもりなのか……?
(あんたがあのきれいな男の子に心を奪われているってことは分かってたわ)
 頭の中で繰り返されるのはトウの言葉だった。心を奪われていると言われても自分でもよく分からなかった。
 ただ、最初にトウからケイナの映像を見せられたその時から、ケイナの目も鼻も口もすんなりと伸びた手足も、流れるような金髪も、髪をかきあげる癖も、人を真直ぐに見据えているはずなのに、焦点の合わない視線も…… すべてに心が惹き付けられたのは確かだった。
 周囲にもちろんケイナのような人間はいなかったし、彼はおよそ自分との共通点すら見いだせない存在だった。
 自分とは全く違うタイプの人間だから興味が湧いたのか、惹きつけられたのか、それすらもよく分からない。
 それでもカインは自分でも公言できるほど理性的な人間だったし、ケイナのそばにいることはあくまでも「任務」だということは理解している。
 それがいつから「任務」を越えた不思議な感情を彼に持つようになっていたのだろう。
 カインが自分の中の燻りつづける気持ちに気づき始めたのはセレスが現れてからだった。
 最初彼を見たとき、ケイナにあまりにも酷似した空気の波動に驚いた。一瞬、三年前のケイナがそのまま目の前に現れたのかと思ったほどだ。
 ただ彼はケイナとは全くタイプが違っていた。グリーンの目と髪、そしてケイナとはおよそかけ離れたストレートな感情表現……。
「あの目……」
 カインはつぶやいて目頭を押さえた。
 まるで人の頭の中にずかずかと入り込んで、相手を無防備な状態に陥れてしまいそうな深淵の瞳。
 カインはセレスの目が怖かった。
 自分でも理解しきれない奥底の感情を、彼はいとも簡単にむき出しにしてしまいそうだった。
 その緑色の瞳の少年が、自分とアシュアが数年かけて築きあげたケイナの信頼をわずか数カ月であっさりと手に入れた。
 あれほどまで心に幾重にも鎧をまとっていたケイナの心をすべて自分に向かせてしまったのだ。
 それに気づいた時にカインの心に芽生えた感情はカイン自身がもっとも恥とするものだった。
 嫉妬だ。
 どうかしている、と思った。
 どうしてこんな気持ちにならなければならない?
 自分は「任務」として彼が傷ひとつ負わずにいられるよう守るためにそばにいるのではなかったのか?
(もし、仮にだぞ、環境の変化で性が変わるというならば……)
 ドクター・レイの言葉が頭に浮かんだ。
 セレスは男として生きてきた。14年間、周囲の誰もが彼は男だと思っていた。
 彼自身もそうだ。今でもそう思っているだろう。
 何が変わった? 『ライン』に入って彼の一番の変化は何だろう?
 カインはふと自分の頭に浮かんだ思いにぞっとして、がばっと身を起こした。
「ケイナに出会った……」
 ケイナに出会ったから…… セレスは女性になった?
 カインはデスクの上に置いてあったドクター・レイからのデータディスクを取り上げた。
 XXの遺伝子を持つ「少年」 ……セレス・クレイ。
 カインはくちびるを噛み締めた。
 ケイナと出会ったから、その身を変えた…… そんなこと…… ぼくは…… 認めない。
 データディスクをしばらく見つめたあと、カインはぎゅっとそれを握りしめた。
「……リィ・ホライズンに行け、ケイナ。……ぼくはいつか必ずリィの総領になって、きみをずっとそばで守ってやる」
(死人のようなきみのそばで……)
 カインはそれでもしばらく逡巡したのち、手を開いてディスクとダスクボックスに落とした。

 セレスは試験を明朝にひかえてあまり食事が咽を通らなかった。
 緊張することなどこれまで滅多になかったが、試験に対する自信はあった。
 それでも今回ばかりは食欲をコントロールできなかった。
「大丈夫? まだ調子悪いんじゃない?」
 フォークで皿の中をつっついてばかりいるセレスを見てトニが言った。横にいたアルも心配そうにセレスを見た。
 このふたりは結局セレスが倒れた本当の理由を聞かされていない。犯人がジュディである以上、ふたりには言えなかった。
「緊張してるみたいなんだ」
 セレスは照れたように笑った。
「めずらしいね。きみが緊張するなんて」
 アルがびっくりしたように言った。
「うん。おれもちょっと驚いてる」
 セレスは我慢してフォークを口に運んで答えた。
「でも、セレスが合格したら、ぼくたちは自分がハイラインにあがるまで今までみたいにきみに会えなくなっちゃうんだね。明日の夕方にはもう結果が出るから、そしたらハイラインの宿舎に行っちゃうんだろ?」
 トニがしんみりした調子で言った。
「まだ合格したって決まってないよ」
 セレスは言った。
 アルとトニの試験は一週間後だ。ふたりの顔にはまだ余裕があった。
「自分だけさっさと『ライン』を修了しちまわないでくれよ」
 アルが言った。セレスは思わず苦笑した。
「それはそうと……」
 トニが言った。
「ジュディが最近ものすごく頑張ってトレーニングしてるよ。セレスが戻ってくるちょっと前くらいにしか部屋に戻ってこないんだ。セレスに感化されて頑張るつもりなのかな」
「ジュディが?」
 セレスは目を細めた。
「おれ、ジュディとトレーニング室で会ったこと一度もないよ。射撃室でも……」
「きみのことライバル視してるから避けてんじゃないのかな」
 トニはぱくりと魚の切り身を口に放り込んだ。
「きみがトレーニング室の時は射撃室に行って、射撃室の時はトレーニング室に行って、とかさ」
「ジュディって、あの色の白い奴だろ?」
 アルが顔をしかめた。
「あいつ何かやなんだよなあ。前にここで横に座ったことがあるんだけど、なんか甘ったるい ……何だろう、アーモンドタルトみたいな匂いの香水つけててさ。なんでこんなとこで香水つけなきゃならないんだろうって思ったんだ」
 アルはコップに入れていた水を飲んだ。
「ぼく、アーモンドタルト嫌いなんだ」
「ああ、それ、ぼくも思ったことがあるよ」
 トニが言った。
「ジュディは体臭が強いのかなって思った。香水つけるなんてそうだろ? すれ違った時とかにさ、少しふわーって匂うんだ。やな匂いじゃないけど、なに洒落っ気出してんだろって、おかしくなってさ」
 そしてトニはセレスの顔を見た。
「ねえ、セレス、そう思わないか?」
「おれ…… そんなの知らないよ。匂いなんて気づかなかった」
 セレスは答えた。知っているはずがなかった。あれ以来半径2メートルよりジュディに近づいたこともない。
 歯ブラシもタオルも自分ひとりで使うものは絶対に共同置き場に置かないようになったのだ。シャワーも部屋ではなく、トレーニングルームで済ませた。
 向こうもセレスが感づいているのを察して近づいてこない。
 もうジュディには関わりたくなかった。
 明日は試験なのだ。

 翌朝、セレスはいつもより二時間早く起きた。
 どうせ早くに目が覚めると思ったので、アルたちと夕食をとったあとに早めに就寝した。
 だから目覚めは良かった。
 隣のブースでケイナが起きている気配がしたので、セレスはベッドから降りるとケイナのブースを覗き込んだ。
 ケイナもたった今目が覚めたようで、ベッドに腰かけて少しぼんやりしていた。
「おはよう、ケイナ」
 セレスはトニとジュディを起さないように小声で言った。ケイナはセレスに目を向けた。
「まだ四時前だぞ。眠れなかったのか」
 ケイナの声はまだ目が覚めきっていないようなくぐもった感じだった。
 ケイナはいつも起きたらすぐに動き出すが、頭のほうは三十分くらいぼんやりしているようで表情も不機嫌だ。宿舎では特に熟睡できないからだろう。
「ちゃんと眠れたよ。ケイナこそどうしたの」
 セレスはそっとケイナのブースに足を踏み入れた。
 入り口に立ったままでは余計にトニたちを起こしてしまうかもしれないからだ。
「おれは5時にはこの部屋を出るんだ」
 ケイナは欠伸まじりに小さな声で言った。
「荷物をまとめないといけない……」
「そんなに早く出るの?」
 セレスはびっくりした。しかし小声で言うことは忘れなかった。
「今日のカリキュラムは普通どおりあるから…… 明日は試験だし」
 ケイナは早く目を覚まそうとするように両手で顔をこすった。
「これでうるさいおまえのいびきに悩まされずにすむかと思うとせいせいする」
「おれ、いびきなんかかかないよ。誰にもそんなこと言われたことないよ」
 セレスは憤慨して言った。
「じゃあ、トニか」
 ケイナは再び欠伸をして髪をかきあげた。ちょうどそのときトニが鼻を鳴らしたので、セレスは吹き出しそうになって思わず口を押さえた。
 確かにトニは時々いびきをかく。うるさいほどではないが、ちょっとびっくりしたことがある。いびきをかくときはきっと疲れがひどいのかもしれない。
「おまえもハイラインにあがったら個室だよ。周りのうざったいのに気を使わなくてすむな」
 ケイナは少し目が覚めて来たようで、かすかに笑って言った。
「アシュアの隣の部屋があいているから、たぶんそこになるんだろうな」
「ケイナ」
 セレスは言った。ケイナは顔をあげた。
「おれ、頑張るよ。絶対行くから」
 ケイナは笑みを浮かべた。ケイナにしてはめずらしいほど優しい笑みだった。
「大丈夫だよ。気負わなくても。おまえはちゃんとやり遂げるよ」
「ほんと言うと、ちょっと緊張してるんだ……」
 セレスは白状した。
「ゆうべもあんまり食事とれなかったし」
 ケイナは立ち上がってセレスのそばに立った。ケイナ独特のかすかなミントの香りが鼻をくすぐった。
 『ライン』に入って、セレスは身長が少し伸びていた。それでもケイナが横に立つと彼の顔を見るためには上を向かなければならない。
 ケイナはパーティションに身をもたせかけて腕を組み、セレスを見た。
「誰だって最初の進級試験や飛び級試験では緊張するよ」
 ケイナは言った。
「ハイラインに来たいんなら、ほかのことを考えるな」
 ケイナは藍色の目でセレスを見つめて言った。
「おれも待ってるんだ」
 そう言うと、セレスの横をすり抜けて顔を洗うためにバスルームに向かった。
(おれも待ってるんだ)
 セレスはケイナの言葉を頭の中で反すうしながら彼の後ろ姿を見送った。
 ケイナからそんな直接的な言葉を聞いたのは初めてだった。
 今日は必ず合格できる、と思った。
 セレスは午前八時に試験会場である講議室に行った。
 学科の試験はほかの軍課の生徒たちと一緒だ。必須時間が誰でも決まっているので、これは単なる半年間の総試験になる。
 飛び級査定に入るのは実技のみで、実技がどれだけ早く進むかで修了年数が変わってくる。
 ケイナは来年でもう修了するか否かが決定するはずだ。
 セレスはここでハイラインに上がらなければ、来年という選択肢はない。そのときにはもう『ライン』にケイナはいないかもしれないのだ。
 机上学習は昔からセレスは苦手だった。しかし、毎日嫌でも勉強しなければならない状態に追い込まれていたから、何とか合格点はもらえるだろうと思うだけの結果に終わった。
 問題は午後の実技試験だった。
「セレス、頑張れよ」
 学科試験が終わったあと、講議室から出るセレスの後ろからトリルがそう言って追いこして行った。
 飛び級を受けないトリルやジュディはセレスとは別室の試験になる。
 セレスはトリルにちょっと笑って手をあげた。トリルは笑みを浮かべて手を振り返してきた。
 トリルはことなかれ主義のタイプだったが、気の優しい少年だった。
 ジュディと同じグループで実技を受ける毎日で、彼が一緒だったことは今となってはセレスにとって救いだった。
 午後の試験の前に昼食を取らなければならなかったが、たぶん食事が咽を通らないだろうと思ったので、デザートに出されていたリンゴをひとつと、プロテイン入りのドリンクをダイニングから持ち出した。
 同じように緊張状態にさらされている生徒たちのいるダイニングにいるよりは、部屋にひとりでいたほうが落ち着けると思ったのだ。
 部屋に入ってケイナのブースを覗くと、すでに片付けられて何もなかった。
 見慣れた彼の分厚い本も机にうず高くいつも積まれていたデータディスクの山もない。
 ミントの香りだけがかすかに残っていた。
 セレスは自分のブースに入るとブーツの紐を点検しながらリンゴをかじり、リンゴを芯まで食べきると、とても美味しいとはいえないプロテイン飲料を一気に飲み干した。
 それで充分に満たされた気分になった。
 そして大きく伸びをすると、試験前に少し体を温めておくためにトレーニング室に行こうと思いついた。
 午前中ずっと机に向かっていたので、肩のあたりが少しこわばったような気がしたのだ。
 セレスは腰かけていたベッドから立ち上がり、ドアに向かった。
 そしてそのドアをあけた途端に部屋に入ろうとしていた誰かと思いきりぶつかった。
 何かがばさりと床に落ち、ぎょっとした顔を向けたのはジュディだった。セレスは面喰らって思わず後ずさりした。
 床に落ちた白い紙包みが目に入った。それを見た途端、セレスはジュディが手を伸ばす前にいち早くそれを拾っていた。
 紙包みの端からこぼれ出ている錠剤の埋め込まれた銀色のシート。赤くて丸い粒が見えた。
「ジュディ……!」
 セレスはジュディの顔を険しい目で見た。
「返せ!」
 ジュディは手を伸ばして薬をひったくろうとしたが、セレスはそれをかわした。ジュディの体からふわりとアーモンドタルトの匂いが鼻をかすめた。
「返せ……!」
 ジュディは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「なんだよ、この薬は……!」
 セレスはジュディを問い詰めた。
「ビタミン剤だよ!」
 ジュディは険しい口調で言った。
 セレスは薬のシートに顔を近づけた。甘い匂いがした。アーモンドのような匂いだ。TA601のマークがシートのひとつひとつに刻み込まれていた。
 次の瞬間、ジュディに思い切り体当たりされ、その勢いに床に倒れたセレスの手からジュディは薬の袋をひったくっていた。
「ただのビタミン剤なら、なんでそんなに躍起になるんだよ!」
 身を起こすセレスをジュディはかすかに頬を震わせて睨みつけていたが、ふいに踵を返すと逃げるように走り去った。
「ジュディ……!」
 セレスはドアに走り寄ったが、ジュディはロウラインの宿舎をすでに走り抜けていた。
 TA601……。
 いや…… 忘れよう。
 セレスはかぶりを振った。
 今は忘れなきゃならない。
 アーモンドタルトのにおいはまだ部屋に残っていた。

 午後の実技試験でセレスは大きな失敗をした。
 射撃の訓練で飛んでくる円盤を三つも撃ち落としそこねたのだ。これはきっと大きな失点になるだろう。
 試験監督だったブロードはセレスの顔をちらりと見ただけだった。
 それ以外の運動機能測定では申し分ない成績のはずだったから、セレスはこの失点が悔やみきれなかった。
 もしかしたらダメかもしれない……。
 大きな絶望感にとらわれながらセレスは部屋に戻った。
 結果が出るまでの三時間、押しつぶされそうなこの気持ちと戦わなくてはならない。
 部屋に入ってジュディのブースを見ると、彼はまだ戻っていなかった。忘れようと思っていたが、やはりどこかでジュディのことを考えていた。きっとそれが失点を招いたのだ。
 ぐったりして自分のブースに入ると、トニが待ちかねていたように顔を覗かせた。
「セレス! どうだった?」
 セレスはため息をついた。
「分からない…… ちょっとミスった……」
「ミス? でも、たいしたことないんだろう?」
 トニは疲れ切ったようにベッドに腰を降ろすセレスに言った。
「大丈夫だよ。きっと合格するよ」
「うん……」
 セレスは髪をかきあげた。
 本当に疲れ切っていた。
 緊張の度合いが大きかったので、試験が終わってどっと疲れがほとばしり出たような気分だった。
「それ、ケイナの癖だよ。なんだかきみ、ケイナに似てきたね」
 トニがくすりと笑って言った。
「え?」
 セレスは怪訝そうにトニを見あげた。トニは笑みを浮かべて肩をすくめた。
「髪をかきあげてから視線を下に落とすんだ。 ケイナがやるといつもぞくっとするような感じなんだけど、きみもけっこうサマになってるよ」
「つまんないこと言うなよ」
 セレスはこっちの気も知らないで、と呆れ返った。
「ねえセレス」
 トニはセレスのデスク用の椅子に腰を降ろした。
「きみはものすごく変わったよ。自分じゃ気づいていないかもしれないけど、ここに来たときとは全然違うよ。ぼくらはもうすぐ新入生を迎える。きみはもうすっかりハイライン生の風格を身につけてる。自信を持てよ。ケイナに似てるってことは、茶化してんじゃなくて、ぼくの最大の賛辞なんだよ」
 セレスは目を伏せた。
「ぼくとアルも来年にはハイラインにあがるつもりだから、そうしたらまたトリオの復活だ。待っててくれよ」
 トニは笑って言った。
「そういうのは本当に合格してから言ってくれよ」
 セレスは苦笑して答えた。
「オーケイ。じゃあ、夕食の時間だ。しばらくちゃんと食べてないだろう。今夜はしっかり食べろよ。発表まであと二時間四十分もある。そのまえにダウンしちまうよ」
 トニの言葉でセレスは初めて自分が空腹であることに気づいた。
 うなずいて立ち上がると、トニはにっこりと笑ってみせた。

 何だか居心地の悪い食事をダイニングでとったあと、セレスはトニよりも先に再び部屋に戻った。
 ダイニングで会ったアルの話によると、軍科のみならずアルのいる科でもセレスのことは噂になっているということだった。
 たえず視線を感じながらで居心地が悪かった。
 でも通知まであと二時間。落ち着かない。
 こんなときケイナがそばにいてくれたらどんなに心強いだろう。
 部屋に入った時ジュディのブースを見たが、やはり彼はいなかった。
 そういえばダイニングでも姿を見なかった。いったいどこに行ったのか……。
 セレスは気になったが、それ以上考えるのをやめた。
 しばらくしてトニも戻ってきた。しかしセレスの気持ちを思ってか、黙って自分のブースに引っ込んでいった。
 何も手につかなかった。時間がたつのが異様に遅く感じられた。
 しかし、ベッドに横になったセレスは空腹が満たされたのと疲労でいつの間にかうとうととまどろんでいた。
 夢うつつに妙に右腹に不快感を感じていた。痛いような熱いような感じだ。
 きっと急にちゃんとした食事をとったから腹具合でも悪くなったのかもしれない……。
 そんなことを眠りながら考えていた。
 しばらくしてデスクの上の通信音で飛び上がるように跳ね起きた。
 まどろんでいる間に感じていた右腹の不快感はそのときにはきれいさっぱりなくなっていた。
 向かいのブースでトニが緊張の面もちでこちらを見ている。
 一気にアドレナリンが体中をかけめぐるのを感じながら、セレスは震える手で画面を教官室に繋いだ。
「セレス・クレイ?」
 画面に映ったのはジェイク・ブロードだった。
「はい……」
 セレスは掠れた声で答えた。とうとうこのときが来た。
「学科得点395点、実技総合572点」
 ブロードは無表情にそう言ったあと、画面の向こうでひたとセレスを見据えた。
「おめでとう。合格だ」
 一瞬血が下がり、それからかあっと顔に血が昇った。
「二時間以内にハイライン宿舎に移動するように。きみの部屋は262号室だ。移動が済んだら教官室に来たまえ。明日からのカリキュラムを説明する」
「はい」
 震える声でセレスが答えると画面のブロードはかすかに笑みを浮かべた。初めて見るブロードの笑顔だった。
「実技は570点のボーダーぎりぎりだよ。危なかったな」
「はい……」
 セレスはうなずいた。そしてブロードは画面から消えた。
「セレス!」
 後ろからトニが飛びついてきた。
「やった! おめでとう!」
 トニは興奮のあまり顔を真っ赤にしていた。
「頑張れよ!」
 トニはセレスをぎゅっと抱き締めた。セレスは何も言えずに目を閉じた。

 トニは興奮しきったままブースを飛び出し、この朗報をアルに報告すべく部屋を出て行った。
 セレスは身の回りのものを荷造りするために立ち上がった。
 ようやく喜びが沸き起こってきた。
 部屋の外がなんだか騒がしい。きっとトニが触れ回ったので、大騒ぎになっているのだろう。
 荷物を持って移動する時にはもみくちゃになるかもしれない。
 セレスは三十分で荷物をまとめた。あまり騒ぎが続くと教官に注意されてしまう。
 バッグを持ってブースから出ようと振り向いたとき、いきなり右の脇腹に衝撃を感じた。
 何が起こったのか分からなかった。
 衝撃は熱い火のような痛みに変わり、セレスはバッグを取り落として床に膝をついた。
「おまえは本当に目障りだ」
 頭上で聞き覚えのある声がした。
 痛みをこらえながら見上げるとジュディが真っ白な顔をして立っていた。
 うかつだった。喜びで完全に無防備な状態だった。
 いつもならジュディの気配などすぐに感じ取れたはずなのに。
 ジュディは真っ赤に染まったナイフを両手で持って立っていた。セレスはそれを見て初めて自分が刺されたことを知った。
 アーモンドタルトの甘い匂いがする。
「なんでおれの邪魔ばかりする!」
 ジュディは怒鳴った。
 表情が異常だ。こんな顔をどこかで見た記憶がある……。
 そうだ、エアポートの事件の時の犯人の男の顔もこんな感じだった。自制心を全く無くしている人間の顔だ。
「薬をやめろ…… ジュディ……! 取り返しがつかなくなるぞ……!」
 セレスは脇腹を押さえて喘ぎながら言った。押さえた手を見ると血で真っ赤だった。
「薬?」
 ジュディは笑った。
「あれはビタミン剤だと言っただろ? あれを飲むと元気が沸く。何でもできそうな気分になるんだ」
「ジュディ…… それは、違法の……」
 セレスは痛みのために次の言葉が出せなかった。じっとりと額に汗が滲んだ。脇腹の傷はいったいどれくらいのものなのだろう。
「おまえはでまかせを言っておれを陥れようとしているんだろう。ハイラインにあがっておれを追放しようとしているんだろう……!」
 ジュディがナイフを突き出したので、セレスはようようの思いでそれをよけた。
 ジュディが動くたびに胸がむかつくような甘い匂いがした。
 セレスは唇を噛んだ。こんなところでこんな奴に刺し殺されるのはまっぴらだ。
 おれはケイナのそばに行かなきゃならない。やっと彼のそばに行けるってときに、殺されてたまるもんか。
「おまえは自分で自分の首を締めてる……」
 セレスは立ち上がった。
「ナイフを渡せ……」
 絶対に起き上がれないとふんでいたジュディはセレスの姿を見て怯んだ。彼の顔に恐怖の色が浮かぶ。
 ジュディは奇妙な叫び声をあげるとナイフを振り上げた。
 セレスの体が構えと攻撃の姿勢になり、ジュディに一撃を加えようとした途端、それよりも早く誰かがジュディの後頭部に一撃を加えたのをセレスは見た。ジュディは小さく呻いて崩れ折れた。
「やれやれ、間に合った」
「アシュア……」
 床に倒れたジュディを見下ろしていたのはアシュアだった。それに気づいたと同時にセレスは立っていられなくなってがくりと前にのめった。床にしたたかに顔をぶつける前にアシュアがセレスを抱えた。
 誰かの悲鳴が響いた。トニだ。
「医療室に連絡しろ!」
 アシュアはトニに怒鳴った。トニは真っ青な顔をしてうなずくと部屋から飛び出した。
「アシュア…… なんでここに……」
 セレスはつぶやいた。
「カインが『見えた』んだよ。危なかったな」
 アシュアは答えながらセレスの傷口を見て応急処置を始めた。
「見えた……?」
「うん…… またゆっくり説明してやるよ」
 アシュアはにっと笑って言った。しかしその顔はセレスにはぼやけて泣いているように見えた。
「心配すんな、たいした傷じゃない。一週間もすればもとに戻るよ。ちょっと動いて出血が多くなったな」
「アシュア…… ジュディのポケットかどこかに薬が入ってる…… それを捨てて……」
「薬?」
 アシュアは目を細めて床に転がっているジュディを見た。
「ジュディは薬をやってる…… 違法ドラッグだ。 ……ばれると思うけど…… 持ってなければ罪が…… 軽くなる……」
「こんなやつほっとけ」
 アシュアは言ったがセレスは首を振った。
「頼むよ……」
「……分かった」
 アシュアはしかたなく答えた。それを聞いてセレスは気を失った。
 セレスはまるでひんやりとした霧の中に漂っているような感触を味わっていた。
 あたりは暗かったが、空中を漂っている感覚がこのうえなく心地よかった。
 ふと、人の気配を感じて頭をめぐらせた。遠くに誰かが立っている。
 セレスは引きつけられるようにその陰のほうへ浮遊していった。
 後ろ姿は背が高く、真っ黒な髪をしている。
(ユージー……?)
 この後ろ姿はユージー・カートだ。今度は分かる。
 これは前に見た夢と同じだ。自分はまた同じ夢を見ているんだ。
 ユージーはゆっくりとスローモーションのような感じで歩いている。
 セレスはユージーの頭のすぐ後ろをふわふわと浮遊してあとをついていった。
 やがて彼はひとつの部屋の前で立ち止まった。見慣れたトレーニング室のドアが見える。
 ロボットじみた動きでその中に入っていく。
 セレスも浮遊するようにしてそれに続いた。部屋のすみのマシンの中で誰かが腕を動かしている。
(ケイナ……)
 ユージーの肩ごしに、セレスはケイナの姿を見た。
「これで最後だから」
 ユージーがつぶやくのが聞こえた。低いかすれた声だった。
(このあと……)
 セレスは戦慄した。このあと彼は……。
 ユージーの手にあった銃がぴたりとケイナに狙いを定める。
(ユージー! ……だめだ!)
 セレスはユージーの背後から彼の腕を掴もうとした。しかし手は空しくユージーの腕を通り抜けてしまう。
 触れない…… ユージーにさわれない!……
(ケイナ! 逃げろ!)
 ありったけの声を出しているつもりなのに声が出ない。
(ケイナ!)
 はっとして目を開けた。
 目を開けたと同時に飛び起きていた。
 すぐ近くに誰かがいた。それがケイナだと分かった時、セレスは泣き出したくなるような安堵感に襲われた。
「びっくりした……」
 セレスはつぶやいた。
「それはこっちのセリフだ。急に起きて大丈夫か?」
 ケイナはベッドの脇の椅子に腰を降ろして言った。戸惑っているような表情を浮かべている。
 ケイナだ。
 間違いなくケイナだ…… 生きているケイナだ。
「良かった、ケイナ…… また会えた……」
 セレスは自分で意識しないうちに両腕を伸ばして彼の肩を抱いていた。
 仰天したのはケイナだ。いきなり抱きつかれて次にどうするべきか咄嗟に頭が働かなくなってしまったように体を強ばらせた。
「もう会えないかと思った……」
 ケイナはセレスを落ち着かせるようにためらいがちにその背を軽く叩いた。
「ちょっと…… 離れろ。おまえの手に点滴の針が刺さったまんまなんだ」
 セレスははっとしてケイナから離れた。彼に抱きつくなんて、なんて子供じみたことをしてしまったのかと後悔した。
「ご、ごめん」
 慌てて謝るセレスを見て、ケイナは強ばったままの笑みを浮かべた。
「針を抜くから横になって」
 セレスは言われたままに横になった。ケイナは点滴機のスイッチを押した。かちりと音がしてセレスの左手の甲に固定してあった注射針が自動で抜けた。
「2日間眠りっぱなしだった。傷のせいというよりも、疲労の極致だったみたいだな」
 ケイナはチューブをまとめながら言った。
「2日も?」
 セレスはびっくりした。そんなに長く眠っていたなんて思いもしなかった。
「ドラッグにやられたすぐあとだったんだ。しかたない。あとでメシを持ってくるから食えよ」
 ケイナの言葉を聞きながら、セレスは顔を巡らせてあたりを見回した。
 見なれない部屋だ。ロウラインの部屋の半分くらいの広さがある。
 床は青い絨毯が敷き詰めてあり、壁際にクローゼットとデスクが並んでいた。
 小さなソファとテーブルまである。ベッドも前のものより格段に広い。
「ここはハイラインのおまえの部屋だよ。入院する必要もないからと治療のあとにここに運ばれた。覚えてないか?」
 ケイナは点滴の器具を壁際の机の上に置いて言った。セレスはかぶりを振った。
 アシュアにジュディの薬のことを頼んだあとの記憶は一切なかった。
 窓の外を見ると薄暗かった。明け方なのか、夕暮れなのか……。
「今、午前五時前」
 セレスの心を見透かしたようにケイナが言った。
「五時……」
 セレスはつぶやいた。
「ケイナ…… ずっとここに?」
「まさか」
 ケイナは冗談じゃない、という顔で言い、椅子に腰をおろした。
「2日間アシュアと交代で来てた。面倒かけてくれるぜ。クレイ指揮官も連絡を受けて一度様子を見に来た」
 セレスは目を伏せた。そんなセレスにケイナは少し怒っているような口調で言った。
「ジュディの殺気なんか察知できただろうに、なんで刺されたりした?」
「ハイラインの合格を聞いた直後だったから…… 有頂天になってて分からなかったんだ」
 セレスは答えた。
「ケイナ…… ジュディは?」
 問いかけにケイナは小さく首を振った。
「病院に収容された。薬をやってることはばれた。たぶん『ライン』の復帰はない」
「アシュアに彼の持ってる薬を処分して欲しいって頼んだんだ……」
 セレスはためらいがちに言った。ケイナはうなずいて髪をかきあげた。
「全部トイレに流したと言ってた」
 それを聞いてセレスは安堵の息を漏らした。
「ジュディが薬を持っていたのかどうか、教官に質問されるぞ。アシュアは知らないって言ったらしいけど」
「おれも言わないと思う」
 セレスはそう答えてケイナを見た。
「ジュディを検査すればすぐに分かることかもしれないけど……」
「なんで……」
 ケイナは眉を吊り上げた。
 彼が次の言葉を言おうとする前にセレスはそれを遮った。
「ケイナ… TA601……。シートにそう書かれてた。それがどんな薬かは分からないけど、 アーモンドタルトの甘い匂いがするんだ。ジュディはずっと前からその匂いがしてたらしいんだ」
「余計なことに首を突っ込むのはやめろ。薬の出どころを調べるのはおまえの役目じゃない」
 ケイナが険しい目で言った。セレスが口を開こうとすると、ドアが開いてアシュアが入ってきた。
「おう! 目が覚めたか!」
 アシュアは笑ってベッドに近づいて来た。
「ゆっくり眠って気分爽快だろう」
「アシュア、ありがとう」
 セレスは言った。アシュアは肩をすくめてにっと笑った。
「別に礼を言われるようなことは何もしてねえけど、どうしてもって言うならあとでたっぷり返してもらうぜ」
 そしてケイナを見た。
「メシ食ってこいよ。そのあとのカリキュラムは二時間遅れだと。ちょっと眠るんだな」
 ケイナはちらりとセレスを見ると部屋を出ていった。
 アシュアはケイナを見送ると、彼の座っていた椅子に腰かけた。
「傷はほとんどふさがってるらしいけど、ずっと点滴だったからちょっと体がふらつくかもしれんな。明日からは自分で医療棟に行けよ。クレイ指揮官、心配して様子見に来たんだぞ? まあ傷はさほどひどくないし、おれとケイナが見てるからって言って安心してもらった。」
「うん‥… ありがとう」
 兄にあとで連絡しないと、と思いながらセレスはうなずいた。
「それと…… ごめんよ、ジュディの薬のこと」
「ああ、あれな」
 アシュアはうなずいた。
「教官には言わなかったが、気になったんでカインにちょっと調べてもらった」
「調べた……?」
 セレスは訝しそうに目を細めた。アシュアはうなずいた。
「意外なことが分かったよ。TA601の薬は リィ・メディケイティドで生産してる不妊治療薬だったんだ」
「不妊治療薬?」
 セレスは驚いて身を起した。
「今はもう生産されていない。中身を流してしまったのを後悔したぜ。たったひとつでもシートを残してりゃな……。まあ、今さらしかたないけど」
「じゃあ、ジュディは本当にビタミン剤だと思って飲んでたのかな……」
 セレスは混乱した。
「あのぶんだと本人はそうとしか思ってないだろうな」
 アシュアは言った。
「アーモンドタルトの香りは? ジュディはずっと前からその匂いがしてたんだ。薬の匂い?」
「いや…… シートを持った時、おれもその匂いが気になってカインに聞いてみたけど、601にそんな香料は入っていないと言ってた。どこかで誰かが中身とシートを摺り替えてる可能性がある。ビタミン剤だと思って違法ドラッグを飲んでるっていうケースが一番恐ろしいな」
「休暇中のバッガスが買っていたドラッグだと思う?」
 セレスは尋ねた。アシュアは肩をすくめた。
「それも分からねえな」
 セレスはため息をついた。
「おれが歯ブラシに塗られた時はアーモンドの匂いなんてしなかったのに……」
「匂いなんてしたらすぐにばれちまうだろうが。おまえに服用させるときは無味無臭の必要があったんだよ」
 アシュアは苦笑した。セレスは小さくうなずいた。
「じゃあ、少なくとも二種類のドラッグがラインの中にあるんだ」
「そういうことになるな。現実はもっと多いと思うが……」
 アシュアはベッドの上に肘をついた。
「あんまり考えるな。ドラッグを使ってる奴はほうっておけ。使う奴が悪いんだ。おまえは一日でも早く自分の力をコントロールできるようにすることだ」
「自分の力をコントロール……?」
 びっくりしてアシュアを見ると、思いがけずアシュアは真顔でセレスを見ていた。
「おまえはあのときものすごい殺気だったんだぞ。おれがあのとき間に合ったって言ったのは、おまえを助けることじゃなくて、おまえがジュディを殺しかねなかったことに間に合ったっていう意味だ」
 セレスはぽかんと口を開けた。おれがジュディを殺そうとしていた? まさか。
「あのな、そりゃ、あのときのおまえではいくら反撃したってっていうのはあるさ。ましてや素手で。だけど、おれが来るのが遅かったら、おまえは自分が失血死するまでジュディを叩きのめしてただろうな。自分の怪我の痛みも何も分からずに誰かが力づくで止めるまでジュディを殴り続け、もし万が一おまえの手にジュディのナイフが渡っていたら……」
「うそだろ……」
 セレスは戸惑ったように視線を宙に泳がせた。
「それって…… ケイナの…… エアポートの…… あのときと同じじゃ……」
 アシュアは少し息を吐いた。
「ケイナみたいに暴走してたとは思わんけど…… だけど、カインは同じ危険を感じたらしい。あいつはアライドの血を引いてるから、タイミングが合えば時々危険を察知するんだ。ただ、よっぽど危険なときに限られるみたいだけどな。だからカインが察知したってことはその『よっぽど』だったってことだ」
 セレスはアシュアの言葉を聞いても自分のことを言っているのだとは思えなかった。
 おれ、ジュディを殺そうなんて思ってないよ……。
 思ってなかったよ……。
 それだけを心の中で繰り返した。
 ケイナも自分が暴走したことを知ったときはこんな気持ちだったのだろうか。
 アシュアは困惑したようなセレスの横顔を複雑な表情で見つめていた。
「ケイナにはこのことは話してない。知ったらあいつだって冷静じゃいられないだろ。おまえとあいつを見てると、何だかいろんなところで似てる部分があって…… だからケイナもおまえに惹かれるのかもしれないけれど、こんなことまで似てなくてもって思うだろうし」
「ケイナが…… 惹かれる? 誰に?」
 セレスはつぶやいた。
「おまえに、だよ」
 アシュアは呆れたような顔をした。
「おまえ、知らないだろうけど、二日間、何度もケイナの名前をうわ言で言ってたんだぜ」
 セレスは顔にかっと血が昇るのを感じた。そんな記憶はなかった。
 眠っている間とても心地よかった。ケイナに関わる夢を見たのは目覚める前に見たあの夢だけだ。
「ケイナはおまえがうわ言で自分の名前を呼んだのを聞いて、あいつにしちゃめずらしく顔を赤くしてた。表情は怒っているような感じだったけどな。自分のことをここまで考えてくれる人間がいるなんて、あいつには思いもよらないことだっただろう」
 アシュアは立ち上がった。
「興味のない相手ならケイナは口もきかないし声もかけない。相応にあしらうなんて高度な人づきあいはできなかったんだ。だけどあいつはおまえと会ってからずいぶん話すようになったし笑顔も見せるようになった。おまえには心を許しているんだとおれは思うよ」
 そして彼はぐいっとセレスに顔を近づけた。
「だからこそおれたちもおまえを守るんだ」
 セレスは言いようのない辛さを感じてうつむいた。
「じゃあ、おれはもう行くからな。ケイナがたぶん朝食持ってくるから、それを食ったらまた少し寝ておけ」
「うん……」
 セレスは答えた。アシュアは一度背を向けかけて再び振り返った。
「こないだみたいにどやしつけはしないよ。だけど、もう二度と同じことを繰り返すなよ。 薬のときといい今回の件といい、ちょっと無防備過ぎる」
 セレスはそれを聞いて思わずこぶしを握りしめた。悔しかったが何も言えなかった。
「ケイナは…… 半分命がけだって…… 言ったろ?」
「うん……」
 セレスは渋々答えた。
「ケイナがな…… 辛そうなんだよ。おまえが何か起こすごとに心配でたまらないって顔をしてる」
 セレスはうなだれた。
 アシュアはそんなセレスをしばらく見つめたあと部屋を出ていった。セレスは唇を噛み締めた。
 守るつもりが守られている。そこからどうしても抜けだせない自分が歯がゆかった。
 翌日の夕方からセレスはハイラインのダイニングで食事を取るようになっていたが、ハイラインの訓練生たちの中で自分がこれほど好奇のまなざしにさらされるなど予想もしていなかった。
 ちらりと視線を投げかけられるというような生易しいものではない。
 まるで上から下まで隠そうともせずじろじろと()めまわすように見られるのだ。
 自分の一挙一動をそこにいる全員が見ている、と思った。
 しかし、セレス自身がたじろいだのはその視線のせいだけではなかった。
 ハイラインの中にいると自分はあまりにも華奢だった。
 セレスより一回りは大きな体つきの者は多かったし、軍科ではない訓練生ですらセレスの身長ははるかに超えている。
 セレスは初めてハイライン生が怖いと思った。
 たった二歳や三歳の年齢差がこれほど大きな差をもたらすとは……。
 アシュアが自分を見つけて気を使って手招きしてくれなかったらセレスはダイニングに足を踏み入れた途端に踵を返して部屋に逃げ帰っていたかもしれなかった。
「おどおどすんな。知らん顔してろ」
 アシュアはセレスに耳打ちしたが、それは無理な話だった。そのアシュアが目立たないからだ。
 あれだけロウラインの棟では大きいと思っていたアシュアが……。
 これではケイナやカインにいたっては、軍科にいるのが間違いだとさえ思える。
 そして、本当に見かけ通りにだったら、ふたりともとっくの昔に『ライン』からはドロップアウトしているだろうということをセレスは痛いほど思い知った。
「おれと一緒にいたらちょっかいかけて来ねえから心配すんな」
 そのアシュアの言葉がくやしかった。

 その後三日間、セレスは遅れた講議に出席することに集中し、その遅れを取り戻してハイラインの実技に入ることになったのは一週間もたってからだった。
「これがきみの半年間のカリキュラムだ」
 ジェイク・ブロードはセレスに一枚の紙を渡した。
 紙に目を落とすと、細かい時間割がびっしりと書き込まれていた。
「半年間は上級生と週に一回、一緒に組んで射撃の訓練をする。きみと組むのはユージー・カートだ」
 ブロードの言葉にセレスは思わず彼の顔を見た。そんなセレスの顔を見てブロードは目を細めた。
「何か不満でもあるかね」
「いえ……」
 セレスは首を振った。でも、よりにもよって、ユージーとは……。
 しかし、ユージーでなければかなり高い確率でほかのユージーの派閥の訓練生と組むことは分かりきっていた。荒っぽいバッガスでなかっただけ有り難い話だ。
「ロウラインにいた頃からケイナ・カートたちと近しい上下関係を結んでいることは知っている。先日の療養中もアシュアやケイナによく面倒を見てもらっていたようだな。きっと彼らはきみを共同訓練のチームメイトに加えたいんだろう。それはそれで構わない。しかし、初期の相手だけはランダムシャッフルだから、どうにもならん」
 ブロードは言った。彼にしてはめずらしく言い訳めいた言葉だった。
 セレスは笑みを見せた。
「分かりました。よろしくお願いします」
 ジェイクは疑わしそうな目でセレスを見たがうなずいた。

 その射撃訓練は翌日早速行われた。
 ブロードが射撃室に来る前にユージーは自分の『点』の入ったケースを下げて部屋に入り、慣れた手つきで準備を始めた。
 そして、目の端でその姿を捉えているセレスに顔を向けた。
「傷はもういいのか」
 ユージーの声は前に聞いた時と同じように冷静だった。
 真っ黒な髪が肩まで垂れている。彼はセレスを見つめながら髪をかきあげ、それを頭の後ろでひとつにまとめた。
「はい」
 セレスは少し緊張しながら答えた。
 ユージーはセレスの返事をあまり期待していなかったらしい。おざなりにうなずくと再び自分の『点』に目を落とした。
 セレスもケースから『点』を持ち上げた。
 ハイラインにあがってからブロードは『点』の重さを変えた。
 ロウラインにいた時は射撃室備え付けの初心者向けにあまり腕に負担のかからない重さに調整してあったものだった。
 ハイラインにあがってからは自分専用の『点』を持たせてもらえるのだが、それが妙にずっしりと重い。
 急に重くなった『点』の整備は難しかった。片手で持ち上げると数分で腕がだるくなった。
 ユージーは時々困りきったような顔をするセレスにちらりと目を向けたが、知らん顔を決め込んだようだった。
 どうにかこうにかセレスが準備を終えると、ジェイク・ブロードが部屋に入ってきた。
「今日はとりあえず交互に的を撃ってもらう。ユージー・カートはできるだけセレスの補佐はするな。どれだけ撃てるか見るから」
 ブロードは言った。ユージーは黙ってうなずいた。
 防護のためのヘルメットをかぶり、ユージーとセレスは射撃室の的が飛んでくる壁の正面に立った。
 ブロードはガラス張りの壁の向こうに立ち、指示のためのヘッドフォンをつけた。
 とりあえず、と言ったのに、彼はいきなり数秒おきに的が飛んでくるようにセットした。
 的はランダムにどこから飛んでくるか分からない。
 相手が撃つ時には邪魔にならないようにすばやく移動しなければならない。
 銃の重みと数日間の治療生活でセレスはものの数分で息が切れた。
 密かに舌を巻いたのはユージーの動きだった。彼の動きは全く乱れなかった。
 的を撃ち落とす確率もほぼ百パーセントだ。
 ブロードはユージーに補佐はするなと言っていたが、ユージーが機転をきかせてセレスの邪魔にならないように動いていることが分かった。
 10分ほどたった頃、セレスは自分がユージーの邪魔をしていることを悟った。
 一度はユージーにぶつかりそうにさえなった。ユージーがうまく動いても、それに応えられなくなっている。
 ひでえ…… こんなのって、アリかよ……。
 セレスは心の中でブロードに毒づいた。的の飛んでくる速さが速すぎる。
 そう思った途端、ユージーがいきなりセレスの体を組み伏せた。
 あっと思う間もなく、セレスは自分の頭上でユージーが撃った的の破片が飛び散るのを感じた。
「そこまで」
 ブロードの声がヘルメットの中で響いた。セレスはユージーが組み伏せた腕をどかせたあとも床に膝をついたまま喘いだ。
「ユージー」
 ブロードがガラス張りの向こうからこちらに足を踏み入れながら言った。
「わかってます」
 ユージーはヘルメットを取りながら言った。
「彼の脳天を直撃してました」
 ブロードは床でへたばっているセレスを見下ろして少し息を吐いた。
「ブロード教官」
 ユージーは言った。
「彼には速すぎます。腕の力も弱い」
「一週間の損失が出たな、セレス・クレイ」
 ブロードは言った。
「できないはずはなかっただろう」
 セレスは何も答えられないままヘルメットを取って立ち上がった。髪が汗でぐっしょりと濡れていた。ユージーとは対照的なほどの消耗だった。
「ユージー。一ヶ月、彼を指導できるか」
 ブロードの言葉にユージーはうなずいた。
「やってみます」
 ブロードはそれを聞くとセレスをちらりと見やって踵を返し、部屋を出ていってしまった。
 セレスは額の汗を拭い、困惑したようにそれを見送った。
 指導? ユージー・カートに……?
 ユージーを見ると、彼は『点』を持って自分に近づきつつあった。
「腕があがるか?」
 ユージーの言葉にセレスは怪訝な顔で彼を見た。
「銃を持ち上げてみな」
 ユージーは言った。セレスは警戒しながらも言われた通りに銃を持った右腕をあげようとして、あまりの痛さに思わずうめいた。
「いってっ……」
「やっぱり…… ちょっと痛めたな。」
 腕を押さえて顔をしかめるセレスにユージーは言った。
 ユージーに言われるまで、腕の痛さなど感じていなかった。
 彼の手が伸びて自分の腕に触れようとしたので思わず身構えたセレスを見て、ユージーは苦笑した。
「とって食いやしないよ。おれも最初の時には痛めた。ブロードは必ずああいうことをして荒療治する。腕、見せてみな」
 セレスは面喰らったが、おずおずとユージーの手が触れるに任せた。
 ユージーはセレスに銃を降ろさせるとセレスの腕を医者が触診して調べるように押さえていった。再び痛みが走ってセレスは小さな悲鳴をあげた。ユージーは手を放した。
「今日はもう無理だ。ここのところに湿布でもしとくんだ」
 ユージーはセレスの二の腕の内側をさして言った。
「急に重い銃を持ったから変なところの筋肉を使ったんだ。ブロードはこうやって体感させて、次から同じ持ち方をさせないように教える。やられるほうはいい迷惑だぜ」
 セレスは黙って腕をさすった。ユージーはそんなセレスを見下ろして笑みを浮かべた。
「おまえはずいぶんもったほうだ。普通なら10分もたない。おれは7分でギブアップだった。一年でハイラインにあがってきただけのことはあるな」
 ユージー・カートという少年がまだよく分からなかった 。
 彼はごく普通の優秀なハイライン生だ。
 こんな人がどうしてバッガスなどという荒くれ者と一緒にいるのだろう……。
「湿布の薬か、鎮痛薬を持っているか?」
 彼の言葉にセレスはかぶりを振った。ユージーはしばらくそれを見つめたのち、再び口を開いた。
「だったら医療棟に行ってもらってくるか、アシュアかケイナにでも言って分けてもらうんだな。再生機なんか筋肉痛ではかけてもらえないから」
「はい……」
 ユージーはその答えを聞いてセレスに背を向け、射撃室を出ていこうとした。
 そしてふと、思い出したように付け加えた。
「ハイラインに上がってのこの最初のしごきに腕も傷めず、最後までやりきった奴がひとりいたそうだ」
 セレスはユージーを見つめた。
 ユージーはセレスのその目を見つめたあと、顔をそらせた。
「ケイナだ」
 ユージーはそう言って射撃室のドアを開けた。
「早速派手にしごかれたもんだな」
 セレスの腕をマッサージしてやりながらアシュアは苦笑した。
「アシュア、痛い!」
 セレスは顔をしかめた。
「おっとわりぃ…… おまえ、なんかあっちこっちカチコチだぞ。一週間体動かしてないからかな」
 そして手を放すと、アシュアは白い錠剤ふたつをセレスに渡した。
「噛まずに飲み込め」
 セレスはそれを口に放り込んだ。糖衣の甘い味がした。
「アシュア、あんたはどれくらいの時間もった? 最初の射撃訓練の時……」
 薬を飲み下してセレスは言った。アシュアは笑った。
「おれの射撃訓練はブロードじゃねえからな」
「ケイナは最後までやりきったとユージーが言ってた」
 セレスは白い訓練生用のトレーナーをかぶりながら言った。
「ケイナと同じようになんてできる奴はいねえよ。しようがないだろ」
 アシュアは笑った。セレスはため息をついてかぶりを振った。
「おれ、ユージーにかばってもらってたんだ……」
「ユージーはハイラインで上位五位以内にランクされてるんだ。あがったばかりのおまえなんかとは差がついて当たり前だよ」
「五位以内……」
 セレスはつぶやいた。
「そう。五位以内。今のハイラインでは一位はケイナ、二位はおれ、三位がユージー、四位がカイン。五位はディ・ベックウィズ。おまえはたぶん会ったこともないやつだよ。それでおまえはたぶんビリ」
 アシュアは薬の瓶をセレスに放ってよこした。
「アシュアって、ケイナの次にできる人だったの?」
 セレスは瓶を空中で掴んで目を丸くした。
「上位の3人までをおれたちで占めてんだから、そりゃほかの奴らは面白くないだろうさ」
 アシュアは笑った。
「おまけに差が開き過ぎてて追いつけねぇときてる」
「すごい自信」
 セレスはつぶやいた。
「自信じゃなくて事実だよ。おまえ、ユージーに追いつくのなんて大変だぞ。ケイナはさらにその上だ。……まあ、頑張んな。薬は明日の朝も飲んでおけよ」
「ねえ、アシュア」
 部屋を出て行こうとするアシュアにセレスは慌てて言った。アシュアはドアに向けかけた足を止めた。
「おれ、なんだか分からなくなってきた…… ユージーって…… 普通の人だよ。おれの腕見て傷めてる場所教えてくれたんだよ。普通のことを普通にする人だよ。本当にケイナを憎んでるの? ひどいことをするような人には見えないよ」
「あいつらのことはおれたちだって分からないんだよ。そう言ったろ」
 アシュアはしかたなく再び戻ると、ソファに腰掛けるセレスの横に座った。
「ユージーはできるヤツだよ。おまけに紳士的で冷静だ。カート家の跡取りだという理由であいつに寄っていく奴も多いけれど、客観的に見ておれもユージーは優秀なやつだと思うよ。そう思ってる者も多いと思う。だけど、ケイナの評判はあんまり良くねぇ。良くない評判のほうがよく耳に入って来る。ケイナのことをよく知らない人間はどっちかといえばケイナをかなり嫌なヤツだと思ってるだろう。あいつの無愛想さは見ようによっちゃできることを鼻にかけてるとも見えるし」
「ひどいこと言うな」
 セレスはちょっとアシュアを睨んだ。
 アシュアは笑って肩をすくめた。
「おれは客観的に言ってんだよ。ケイナの無愛想さを別に意識的じゃないって知ってるのは おれたちだからだろ? 今でこそまともにしゃべるようになったけど、最初の頃はおれたちにさえあいつの態度は冷たいもんだったんだぜ。ろくに返事もしなかった。しばらくしてからは、あの赤いピアスで感情を封じ込められてたしな」
「じゃあ、どうしてそれでもケイナとつき合うことにしたの」
 セレスの言葉にアシュアはぐっと詰まった。任務だったなどとはとても言えない。
「ケイナはちょっと無愛想だけど、悪い人じゃないよ。アシュアもそう思ったから友人でいるんだろ?」
 言い募るセレスにアシュアは息を吐いた。
「おまえだってジュディに相当嫌われてたじゃないか。おまえも別に悪人じゃないだろ」
 セレスは憤慨したようにアシュアを睨みつけた。
 アシュアはそれを無視してセレスの肩をぽん! と叩くと立ち上がった。
「虫が好かないとか自分と相性合わないっていうのは誰でもあるもんなんだ。ケイナはなまじ目立つヤツだしあの性格だから嫌われる部分も多いかもしれねえけど、少なくともおれたちはケイナのいい部分を知ってるだろ。そもそもケイナ自身がユージーを悪く言ったことは一度もないんだ。あいつはたぶん兄である彼のことを信じてる。だから、おれたちも信じてやろう」
 アシュアの言葉にセレスはまだ納得できないような表情をしていたがうなずいた。
 アシュアはそれを見ると部屋を出て行った。

 部屋を出たアシュアが隣の自分の部屋の前にカインが立っているのは分かっていたことだった。
「セレスの言うことにはときどきひやっとさせられるよ」
 アシュアはため息をついてカインに言った。
「ほんとに知らねえのか? ってこっちが聞きたくなるような目をするし」
「まさかユージーと組むようなことになるとは思わなかったな……」
 カインは壁にもたれて言った。
「ありゃ、たぶんブロードが細工してるぜ。ランダムシャッフルならバッガスでないにしても似たようなやつと組むことになってたんじゃねえかな」
 アシュアの言葉にカインはうなずいた。
「たぶんね。つまり、ブロード教官はユージー・カートを信頼しているし、セレスにはほかのライン生から余計なことをされたくないっていうことだ」
 カインは足下の黒い床を見つめた。光に反射して無数の小さな傷が目に飛び込んで来た。
 その傷がカインの気持ちをさらにざわめかせた。
「もっと言えば、そこいらで蔓延しているようなユージーのケイナ苛め、みたいなのは彼の信用してないってことだ」
「さっきあいつにも言ったけど、だいたいケイナ自身がユージーを悪く言うことなんてないからな」
「ちょっと気になってるんだ……」
 カインがそう言ったので、アシュアは彼に目を向けた。
「気になっているというか…… 気づいたんだけど……」
 カインは視線を泳がせた。
「アシュア、おまえ、ユージー・カートに最近会ったことあるか?」
「ユージーと?」
 アシュアは眉を吊り上げたあと、記憶を探るように天井を見上げた。
「そうだな…… トレーニングルームにいるときに会ったかな… いつだったかなんて覚えてねえけど」
「話をしたことは?」
「話なんかするわけないだろ」
 アシュアは呆れたようにカインを見た。
「そりゃあ警戒はするけれど、たいがい離れてるし、あっちもおれとケイナがいたって、視界にも入っていないような顔をしてるぜ」
「じゃあ、アシュアは少なくとも彼の姿は見ているんだな」
 カインは息を吐いた。
「おまえ、何が言いたいの」
 アシュアは訝し気にカインを見た。カインは首を振った。
「ぼくはユージー・カートの姿を見た記憶がないんだよ。ここ一年…… いや、もっとかな」
「はあ?」
 アシュアは目を丸くしてカインを見た。
「そんなバカなことあるかよ。同じハイラインにいるんだぞ」
「そう思うんだけど…… 思い出せないんだ」
 カインの表情は冗談を言っているものではない。アシュアは不安を感じて眉をひそめた。
 いくらなんでも会っていないはずはない。
 カリキュラムが違うのだから、そうそう毎日姿を見るわけではないだろう。
 だが毎日のようにケイナはトレーニングルームに行くし、それに同行していれば会わないはずはなかった。
「バッガスは見るんだろう?」
 アシュアは尋ねた。カインはうなずいた。
「あの胸くそ悪くなるスキンヘッドはいやというほど目に焼きついてるよ」
「バッガスは一番ユージーと一緒にいることが多いぜ」
「だけど、覚えがないんだ」
 カインは言った。
「ほんとうに、ぼくにはユージーの記憶がないんだよ」
 アシュアは口を引き結んだ。カインは何かに恐れを感じている。彼の目はメガネの奥で真っ赤に充血していた。
 カインの目には、漠然とでも何かが見えているのだ。いや、『見えかけて』いるのかもしれない。
 不安定な彼の能力はいつもカインの目に負担をかける。
「『ライン』に入ったときは確かにユージーと会ってる。そのときの記憶はあるんだ。ケイナと同じように細っこい体つきだ。背筋をぐっと伸ばすような癖がある。身長はぼくと同じくらいでケイナよりは高かった。髪は黒くて短く刈り上げてた……」
「今、ユージーの髪は長いよ。訓練のときはおれみたいに後ろでくくってる」
 アシュアは言った。カインは首を振った。
「知らない……」
「身長はもうケイナのほうが高いかもしれないな」
「どうしてなんだ…… どうしてぼくはユージーを知らない? こんなこと、今の今まで気づかなかった」
 カインは戸惑ったようにつぶやいた。そんなふうに言われてもアシュアにも理由は分からない。
「セレスは今ユージーと組んでるんだ。そんなに気になるなら、あいつの射撃の訓練のときに覗いてみれば」
 アシュアの言葉にカインは不安げにうなずいた。そしてためらいがちに言った。
「なあ、アシュア」
「なに」
「セレスは『分からなくなってきた』って言ってたよな」
 アシュアは目を細めた。
「うん…… そうだな」
「分からなくなったって、どういうことだろう……」
「どうって……」
 アシュアは困惑したようにカインを見た。
「そりゃ、ユージーは優秀なハイライン生だし…… あいつの中ではもっと厭な雰囲気のやつだと思ってたんだろ」
「ユージーがケイナを憎んでいないのだとすれば、じゃあ、どうしてケイナはあっちこっちから嫌がらせを受けるんだ?」
「それは……」
 アシュアは答えようとしたが、いい言葉が見つからなかった。
 どうしてなんて…… こっちが聞きたい。
「虫が好かないから? 愛想が悪いから? そんなことで何年も何年もやるものなのか? たったそれだけのことで? ましてや『ライン』にいて、みんなヒマじゃないんだよ。おまけに、きみが言うようにケイナはハイラインでトップなんだ。その下にぼくらがいる。ぼくらはケイナの味方についてる。普通、苛めっていうのは自分より弱い者にするもんじゃないのか? 彼らはあの事件のときに自分たちの仲間がどういう目に遭ったか知っているはずだろう? 一歩間違えば、ケイナは倉庫にいた全員を殺していたかもしれないんだぞ」
「おまえ、おれがいっちばん聞きたくないようなことを言おうとしてねえか?」
 アシュアは鋭い目でカインを見ると不機嫌そうに言った。
「相手が悪くなきゃ、非があるのはこっちってことになるじゃねえか」
 カインはアシュアを見据えた。
「だけど、なんか…… ぼくらはこの数年、何も見えてなかったんじゃないか? きみが言うようにケイナがこれまでユージーのことを悪く言ったことなんか一度もない。これだけ周囲はユージーとケイナの確執を感じているのに、ケイナとユージーが実際いがみ合ったことなんかないじゃないか」
 アシュアはカインの顔を無言で見つめた。
「ケイナへの憎しみを誰が駆り立ててるんだ?」
 カインは目を伏せた。
「誰がケイナを憎んでるんだ……?」
 アシュアは何も言えず口を引き結んだ。

Toy Child -May This Voice Reach You-

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