Toy Child -May This Voice Reach You-

 もしかしたらケイナはひとりで帰ってしまうかもしれない。
 あのケイナ・カートが自分なんかの誘いに乗るとはセレスには到底思えなかったが、半分以上は期待に胸をふくらませていた。
 だからケイナが仏頂面で駐車場に現れたときは飛び上がるほど嬉しかった。
 肩から大きな荷物を下げ、片方の手をズボンのポケットにつっこんでいる。顎をそらせてこちらを見るケイナの顔はこのうえなく不機嫌だった。
「ケイナのヴィル、これだよね? 認証するからうしろに乗って。おれが運転するから」
 セレスは気にとめないように努めて明るく言った。
「うるせえ。おれのバイクはおれが運転するんだよ」
「おれの家に行くんだよ。おれが運転したほうがいいだろ」
「誰が行くって言った」
 ケイナは険しい目で言った。セレスは唇を噛んで我慢した。
 セレスのその顔をしばらく見つめたあと、ケイナは口を開いた。
「ちゃんと運転できるんだろうな」
「大丈夫だよ」
 やったぜ! セレスは心の中で叫んだ。
「ここに来た時も運転してきたんだ。アルのヴィルだけど」
 ケイナはしばらくの間ためらっていたが、やがてセレスの後ろに乗り、ハンドルに腕を伸ばして認証の許可をヴィルに与えた。セレスはそれを確かめるとケイナの気が変わらないように勢いよく駐車場から飛び出した。
「スピードの出し過ぎだ。バランスを崩すぞ!」
 ケイナは怒鳴った。
「大丈夫だって!」
 セレスは笑って叫びかえした。
 ケイナを乗せて自分のアパートに帰るなんて、ここに来たときには想像もしなかった。
 夢のようだった。
 眼下にシティの町並みを見ながら二十分ほど飛んで、四ヶ月ぶりの見なれた自分のアパートの前に降り立った時、ケイナはエンジンを切る前に身軽にヴィルから飛び降りた。
「おれんち、ここなんだ」
「おまえ……」
 セレスの言葉を無視してケイナは険しい顔でセレスに詰め寄った。
「あんまり運転したことないだろう……!」
「うん。3回目。」
「この野郎……!」
 ケイナの手が飛んできたので、セレスは笑ってすばやくそれをかわした。
「……おまえと心中なんかご免だぜ」
 さすがにもう一度叩こうとはしなかったが、ケイナはぶつぶつ文句を言った。
 セレスは知らん顔をしてヴィルを駐車場に停めると、怒った顔で自分を睨みつけるケイナの先にたってエントランスに入り、エレベーターに押し込んで彼を部屋に案内した。
「よかった。叔母さんが掃除してくれてたんだ」
 部屋の中が片付いていたのでセレスはほっとした。
「普段はものすごいんだ。おれ、何にもしないから」
 長く留守にしていた部屋の中にかすかに叔母のつけている香水の香りが残っていた。
 セレスはバッグをソファに放り投げると空調をつけた。
 ケイナは所在なさげにドアのところにつっ立っている。
「適当にしててよ。コーヒーかなんか入れてくるよ。人工木らしいけど、化合物じゃないからうまいと思うよ」
 セレスはそう声をかけたが、ケイナは明らかに困惑しているようだった。
 どうしてこんなところに来てしまったのか、という表情がありありと浮かんでいたが、しばらくして渋々部屋の中に足を踏み入れた。
 セレスがコーヒーの入ったカップを持って戻ってくると、ケイナはポケットに両手を突っ込んでぼんやりと窓の外を眺めていた。
「兄さんは夕方にならないと戻らないんだ。休暇を取る前にいつもいない間の指示を山ほどしてくる。今の時期は旅行船が少ないからもう少し早いかもしれないけど、このあいだ連絡したら貨物船がたくさん来て大わらわだって言ってた。夜になるかもしれないな」
 セレスは半分自分に言い聞かせるように言った。
「おまえの兄さんは指揮官だっけ……」
 ケイナは思い出したように言った。
「そうだよ」
 セレスは笑みを浮かべた。
「前は知らないって言ってたよね、ケイナは」
「覚えてない」
 ケイナは仏頂面のまま答えた。セレスはカップをケイナに押しつけた。
「コーヒー飲もうよ。座ってよ」
 ケイナは表情こそ不機嫌そうだったが、セレスに言われるがままだ。
 こんなに殺気のない無防備なケイナは初めてだった。ラインにいる時はどれだけ彼が神経を尖らせているのかがよく分かる。
 ケイナはソファに座ると黙ってコーヒーをすすった。飲んでおいしいともまずいとも言わなかった。
 セレスはケイナが何もしゃべりそうにないので、立ち上がって壁のモニターのスイッチを入れた。
「おまえの親は地球にいるのか?」
 無愛想な顔でニュースを伝える画面のアナウンサーの顔を見ながらケイナが言った。
「親はいないよ。12年前に事故で死んだんだ」
 セレスはコーヒーを一口飲んでから答えた。
「事故……?」
 ケイナは目を細めてセレスを見た。
「うん。旅行船事故。あの時期はよく旅行船事故が頻発してたって叔母さんが言ってた。危ないから旅行なんてやめろってだいぶん言ったのにって今でも嘆いてるよ。父さんと母さんだけで旅行に行く途中だったんだ」
 セレスは肩をすくめた。
「でも、おれ、全然記憶ないし…… 叔母さんちに引き取られたから別に不自由なかったよ。兄さんもいるし」
 セレスは立ち上がって抽斗(ひきだし)から写真を取り出した。
「これ、父さんと母さんの写真。映像出力してもらったんだ。いちばんいいショットだって叔母さんは言ってた」
 ケイナはセレスの差し出した写真を見た。美しい女性と思慮深げな男が写っている。ふたりともまだ三十代に入って間がないくらいの年齢だ。
「おまえは父親似なんだな……」
 ケイナはつぶやいた。セレスは笑った。
「みんなそう言うよ。アルにも言われた。兄さんは母さんにそっくりだけど」
「でも、髪と目の色が違う」
 ケイナは写真を見つめながら言った。男性は黒髪で目の色はブラウンだし、女性は栗色にダークブルーの目をしている。
「おれの髪と目の色って、何代前に遡ってもないんだって。突然変異ってやつかもしれない」
 セレスは何気なく言ったつもりだったが、ケイナはそれを聞いた途端さっと表情を硬くして写真をテーブルに置いた。
「どうしたの?」
 セレスは驚いてケイナを見た。
「おれ、なんか気に触るようなこと言った?」
「いや…… 別に……」
 ケイナは顔を背けてコーヒーを口に運んだ。セレスはそんなケイナをしばらく見ていたが、思い切ったように言った。
「ケイナのお父さんとお母さんは?」
 ケイナはちらりとセレスを見たが何も言わなかった。きっとそのことに触れられたくないのかもしれない。
 セレスがそれ以上聞くのを止めようと思い、コーヒーを飲もうとカップに口をつけた時、彼は口を開いた。
「おれは親のことはほとんど何も知らない」
「え?」
 セレスは思わずケイナの顔を見た。ケイナはカップを両手で包んで中を見つめていた。
「『ノマド』の中で育ったんだ。でも『ノマド』の子供じゃない。育ててくれた夫婦がおれの本当の親からおれを預かったんだと言ってた」
「『ノマド』?」
 セレスはつぶやいた。『ノマド』のことは聞いたことがあった。シティからシティを放浪しながら自然復興のために木々を植え、動物たちを飼育している一族だ。
 聞くところによると独自の信仰宗教を持っていて、いまだに民間療法で病気を治したり呪術を扱っているのだという。その歴史はすでに70年以上にも渡っていた。
 しかし、ケイナと『ノマド』はどうしても結びつかなかった。
 『ノマド』といえば不思議なデザインの服をまとい、宗教めいた化粧が特徴だと聞いた。実際に会ったことはないから本当のところはわからないが、ケイナがそんな格好をしている姿など想像できなかった。
「おれは生後50日で『ノマド』の一員になって、名前も育ての親がつけた。『神の笛』という意味があるんだそうだ」
 ケイナはコーヒーをすすった。セレスは黙ってケイナを見つめた。
「4歳の時、中央から知らない男がやってきて、おれの本当の親が事故で死んだと言った。『ノマド』は中央に登録をしないから、見つけるのに何年もかかったらしい。レジー・カートという人がおれを養子にするから来るようにと言われたんだ」
 ケイナはセレスをちらりと見た。しかしその目はすぐにカップの中身に戻っていった。
「レジーはおれの本当の両親と生前とても親しくしてそうだ。だからその友人の子供を必ず引き取って育てようと思っていたんだと言っていた。ほかに両親には身寄りがなかったらしい」
「じゃあ、ケイナの本当の両親は軍関係だったの?」
 セレスは尋ねた。しかしケイナはかぶりを振った。
「いや……。父は学者で、母は『ジュニアスクール』の講師ということだった。映像も見せられたけど、おれには他人としか思えなかったよ。顔も全然似ていなかったし……」
「でも、なんでケイナを『ノマド』に預けなきゃならなかったんだろ。それも生まれてすぐに……」
 ケイナはそれを聞いて肩をすくめた。
「知らない。誰も教えてくれなかったし、おれも聞かなかった」
 そして息を吐いてカップ持ったままソファにもたれかかった。
「別にどうでもいい……」
 セレスは目を落としてカップの中を見つめた。何と言えばいいのか分からなかった。
「おれ、シャワー浴びてくるよ」
 セレスはそう言うと立ち上がった。
「ゆうべ、時間がなくてそのまんま寝たんだ。そのへんで適当にしててよ」
 それからふとケイナを見た。
「帰っちゃだめだよ」
 ケイナは何も言わずに苦笑した。ケイナが不機嫌ではなかったので、セレスはほっとしてタオルを掴むとバスルームに入っていった。
 ケイナはもしかしたらそのまま『ノマド』にいたほうが幸せだったのかもしれない。
 セレスはシャワーを浴びながら思った。
 『ノマド』の中ではすべて許されただろう。すべてを『ノマド』たちは受け入れてくれただろう。
 類い稀な容姿も突出した能力も、そんなものは『ノマド』の中では関係なかっただろう。
 ケイナの本当の両親はケイナのことを分かっていて、だから『ノマド』に託したのかもしれない……。
 シャワーから出てタオルで頭をごしごし拭きながらバスルームから出てきた時、セレスは我が目を疑った。
 ケイナはどうやら荷物の中から本を取り出して読むつもりだったらしいが、本を開いたままソファに身を横たえて眠ってしまっていた。
 うたたねをするケイナなど『ライン』の中では想像もつかない。
「ケイナ、こんなとこで寝ると風邪ひくよ」
 セレスは声をかけたが、ケイナはぴくりとも反応せず心地良さそうな寝息をたてている。
 疲れているんだ、と思った。
 ふと、彼の右の手首の甲に切り傷があるのが目についた。もうだいぶん癒えているようだが、刃物で切ったような傷だ。いったいどこでつけたんだろう。
 ケイナは全然表情に出さないから分からないけれど、おれの知らないところでいつも怪我をしたりさせられたり、そんな生活をしているんだ……。
『ぼくらはいつもケイナのそばにいる』
 そう言ったカインの言葉が思い出された。
 一緒にいてもケイナは怪我をするんだ……。
「ここは安全だからゆっくり寝ていいよ」
 セレスはそうつぶやくとケイナの胸のところに開いたまま置かれている本をテーブルに置き、彼の重いハーフブーツを苦労して脱がせ、床にだらしなく落ちているケイナの片方の足をうんうん唸りながらソファにのせた。
 そして自分のベッドから毛布を取ってきてケイナにかけた。
 窓のブラインドを閉め、もう一度ケイナをちらりと見やると自分も横になるために寝室に向かった。
 昼間っから眠れるなんて、きっと今くらいしかないことは分かっていたからだ。
 アパートには静けさが訪れた。
 午後三時頃にセレスが目を覚ましてリビングに戻ってみると、思った通りケイナは数時間前に見た時と全く同じ格好でまだ眠っていた。
 ぴくりとも動いていないに違いない。
 セレスはどうしようかと思ったが起こすにはしのびなかったのでそのまま寝かせることにした。
 兄が帰るまでに彼が目を覚ますかどうかは疑問だった。もしかしたら明日の朝まで眠ったままかもしれない。
 そして、夕方近くなってドアがあけられる気配がした時もケイナは起きなかった。
 セレスは入ってきた兄のハルドにしいっと言って人差し指をたててみせた。
「誰?」
 ハルドは小声で目を丸くしてソファを見た。
「おれの友だち」
 セレスは肩をすくめてみせた。
「疲れてるみたいなんだ。休ませてやってよ」
「『ライン』の?」
 ハルドはセレスと毛布にくるまっているケイナを交互に見て不思議そうな顔をした。毛布の下の少年はどう見てもセレスよりも大きな体をしている。
「アル…… じゃないよな……」
 ハルドはそうつぶやいてケイナに近づいた。金色の髪が毛布の下から覗いていた。アルの髪は栗色だ。顔はすっぽりと毛布にくるまれているのでよく見えない。
「アルは今頃おやじさんのコテージに行ってるよ。おれもあとから行くって約束したんだ」
 セレスは兄のためにコーヒーを入れながらひそひそ声で言った。
「ずいぶんよく眠ってるなあ」
 そう言いながらハルドはかすかに笑みを浮かべた。
「とりあえず着替えてくる。軍服のまま直行したから窮屈でしょうがない」
 ハルドはそう言いながら、腰につけたままのガンベルトを歩きながら取った。
 幽かにかちりと小さな音がした途端、ケイナががばっと跳ね起きた。
 あまりの勢いにハルドは仰天して静止した。セレスはコーヒーのカップを危うく取り落とすところだった。
 ケイナは目を見開いて体中を緊張でこわばらせていた。
「ケイナ!」
 セレスははっとしてケイナに走り寄った。
「ケイナ! 大丈夫だよ! おれの兄さんだ!」
 セレスは身構えるように顔の前で腕を交差させているケイナの肩を掴んだ。
「おれの兄さんだよ!」
 ケイナはしばらく硬直していたが、やがてふっと全身の力を抜いた。
「ケイナ……?」
 セレスは両手で顔を被って突っ伏してしまったケイナを覗き込んだ。
 それはあまりにも異様な光景で、ハルドは度胆を抜かれていた。
 この少年はこんな小さな音で、こんなにも緊張状態に陥る。
 この年齢でこんな人間がいるだろうか。
「びっくりした……」
 ケイナは震える声でつぶやいた。体中ががくがく震えている。ハルドはベルトをそばのテーブルに置くとケイナに近づいた。
「大丈夫かい? すまなかったね。せっかくの眠りを邪魔してしまった」
「いえ……」
 まだ唇を震わせながらケイナは答えた。
「息をゆっくりと鼻で吸って、口で吐くんだ。そうすれば震えは治まる」
 ハルドの言葉にケイナは深呼吸をくり返した。少し落ち着いたようだったのでハルドはセレスが持ってきたタオルを受け取ってケイナに渡した。ケイナは素直にそれで汗まみれの顔を拭った。
「おれ、何時間くらい眠ってた?」
 ケイナはまだかすかに震えの残る声で言った。
「八時間くらいかな……。ぴくりとも動かなかったよ」
 セレスは答えた。ケイナは再びタオルに顔を埋めた。
 ひとりのアパートに戻ってもこんなに熟睡したことはない。
 今起きていなければ翌朝まで眠っていたかもしれない。
 そんなにリラックスしていた自分が不思議だった。
 リラックスしていただけに、この衝撃はこたえた。
 ハルドは黙って美しい横顔の少年を見つめた。彼の全身からまだ氷のように冷たい殺気が消えずにいる。体中で警戒している。
 そして思い出した。
 そうだ。この少年はカート司令官の息子だ。
 自分が『ライン』卒業したての頃、優秀生としてカート司令官の家に招かれたことがあった。その時紹介されたはすだ。
 あの時はまだ10歳前後だっただろう。美しい顔だちに燃えるような荒みきった瞳が妙に心に焼き付いたのを覚えている。
 あの時の面影は残っていたが手足は逞しく伸び、体つきもしっかりして当時の幼い雰囲気は消えていた。噂ではライン一の優秀な生徒だと聞く。目の前にいる少年はそれに相応しい容貌をしていた。
 その少年がどうしてこんなにも怯えるのだろう……。
「ケイナ、シャワーを浴びたほうがいいよ。体が冷えると風邪ひくよ」
 セレスはそう言い、躊躇するケイナを無理矢理立ち上がらせてバスルームに引っ張って行った。
 シャワーの音が聞こえてくるとセレスはリビングに戻り、伺うように兄の顔を見た。
「今日、夕食に彼も誘ったんだ。いいかな……」
「いいよ」
 ハルドは笑った。
「そのために連れて来たんだろ」
 セレスはほっと息を吐いた。ハルドはようやく着替えるために寝室に向かった。
 シャワーから出てきた時、ケイナはいつもの調子を取り戻していた。
「落ち着いたかい」
 ハルドが軍服を脱いで白いシャツと黒いパンツというラフな格好で戻ってきてケイナに言った。
「すみません」
ケイナは言った。
「気にしなくてもいいよ。ちょっとびっくりしたけどね」
ハルドは笑いながらケイナに手を差し出した。
「ハルド・クレイだ。セレスが世話になるね。よろしく頼むよ」
「ケイナ・カートです」
 ケイナはためらいがちにハルドの手を握り返しながら答えた。
「さっき思い出したんだけど、きみには一度会っているよ」
 ハルドは少し冷えてしまったコーヒーを飲んで言った。ケイナは無言だった。
「七年くらい前かな…… カート指揮官の家に呼ばれたことがあるんだ。きみは覚えていないかもしれないね。ぼくも『ライン』を卒業したての頃だったし」
ハルドは探るような目をしたが、やはりケイナは何も言わなかった。
「兄さん、メシ食いに行こう。おれ、ハラ減っちゃった。昼食べてないんだ」
 セレスが横から口を出した。
「ケイナもハラ減ってるだろ」
 ケイナは困惑したような表情になった。ハルドは笑って立ち上がった。
「よし、じゃあ、うまい店に連れていってやるよ」
「やったぜ!」
 セレスは叫んだ。そして無理矢理ケイナの腕を引っ張った。
 しかたなくケイナは立ち上がった。

 ハルドは中央塔から持ってきた四人乗り用の乗用車プラニカにセレスとケイナを乗せ、エアポートの近くにある小さな店にふたりを連れて行った。
 店の隅の席に座り、運ばれて来た料理はアパートでプログラムされたメニューや『ライン』で食べる食事に比べればはるかに豪華で美味しいはずだったが、大はしゃぎなのはセレスだけでケイナは黙って皿をつついていた。
 それでも彼の表情は不快というわけでもなさそうだった。
 ハルドもセレスもケイナの様子には頓着せずに食事をしながら話をしていたからかもしれない。
 ほんのかすかではあったが、ふたりの会話を聞いていて笑みをこぼすこともあった。
 帰りのプラニカの中で、セレスは横に座ったケイナが時々ふっと眠りかけるのを見た。
 一番最初に会ったときのケイナを思い出すと危ういほどの無防備さだ。
「もたれて眠っちゃってもいいよ」
 セレスが言うと、ケイナはちらりとセレスを見て戸惑ったように目をそらせた。
 しかし、家に着くなりどったりとソファに倒れ込んで一分もたたないうちにいびきをかきはじめたのはセレスのほうだった。
「こんなところで寝るな!」
 ハルドが頭をこづいたがセレスは目を覚まさなかった。しかなたくハルドは昼間ケイナが被っていた毛布を乱暴にかけた。
「きみも泊まっていけよ。セレスのベッドを使えばいいから」
 ハルドは帰り支度をしようとしているケイナに言った。
「でも……」
 ケイナは口籠った。
「明日の朝、目が覚めてきみがいないと分かったら、こいつは大騒ぎをするぞ」
 セレスのほうを顎でしゃくって言うハルドの言葉にケイナは苦笑した。
「よかったら二、三日ゆっくりしていってくれないかな」
 ハルドはキッチンに向かいながら言った。
「休暇中まで新入生の面倒を見させるようで申し訳ないんだが、セレスにつきあってやってくれないか。初めての休暇で何をしでかすか分からないから。ぼくも明日には帰ることになるだろうし」
 ケイナはどう返事をすればいいのか迷った。迷っている自分が不思議だった。
 普段なら即座に「ノー」と答えたいと思うだろう。
「よろしく」
 キッチンから戻って来たハルドは両手に持ってきたカップのひとつをケイナに押しつけて笑った。
 ケイナは無言で手渡されたカップを見つめた。コーヒーの香ばしい香りがする。
 おれは今までこういうとき、どうしていただろう。ケイナはぼんやり考えた。
 こんな強引な事をされたら、まず間違いなくカップを床に叩きつけて部屋を出て行ってただろうな。
 思いっきりむかついて。
 どうしてそれをしないんだろう。
「ケイナ」
 ハルドが呼んだので、半ばぎょっとしてケイナは顔をあげた。
「そんなところに突っ立ってないで、こっちに座んな」
 ハルドは苦笑して窓際のテーブル脇の椅子を指した。セレスがソファを占領しているので座る場所はそこしかない。ハルドは指した椅子の対面に座っていた。
 ケイナが気乗りのしない様子で椅子に座るのを見てハルドはコーヒーをすすった。
「ハイライン生を家に連れて帰るなんて思いもしなかったよ。よくつき合ってくれたね」
 ハルドの言葉にケイナは曖昧に笑みを浮かべた。
「左手は怪我を?」
 その言葉にケイナの顔にさっと警戒の色が浮かんだ。
「セレスが言ったんですか?」
「いや……」
 ハルドは笑った。
「さっきメシ食ってて気がついた。時々左手が出るのに、思い直して右手を使う時がある。利き手は左だったんだな」
 ケイナは少し驚いた。これまであの事件を知っている者以外は自分の利き手が左だったことは気づいたことはなかったのだ。
「まだ完治してないのか」
「いえ…… 荒っぽい使い方はできないけれど一応……」
 ケイナは自分の手を見つめて答えた。
「左が自分の体の軸になっていたら、そうそう変えられないよ。昼間ソファから跳ね起きた時も左手で殴りかかろうと身構えてた。まあ、相手を殴るときだけ右手にするように気をつけてればいいさ」
 笑顔で言うハルドにケイナは黙っていた。一瞬、セレスを殴ったこともこの人は知っているんじゃないかと思った。
「あいつ、『ライン』に入るっていきなり言い出して、大変だったんだ」
 ハルドはコーヒーをひとくち飲んでソファで眠りこけているセレスを見て言った。
「公開見学会のすぐあとだったかな。見学会に行ったことすらぼくは知らなかった。ものすごい形相で連絡してきたからびっくりしたよ」
(見学会……)
 ケイナはセレスとバスケットをしたことを思い出した。
 あのときの高揚感。こいつはおれに一番近い。そう思った。だが、本当に『ライン』に入ってくるかどうかは神のみぞ知るだった。華奢な体は『ライン』の軍科を志望するにはあまりにも無謀に思えたからだ。
「あんな必死な形相のセレスを見たのは久しぶりだよ。前は地球からぼくがコリュボスに転任することが決まったとき、一緒に行くと言って言い張ったんだ。きみを見る今のセレスもあれに似た感じがする」
 ケイナは思わずハルドを見た。ハルドはソファのセレスに目を向けたままだ。
「いっぱいいろんなことは見えないしできないやつだから…… きみに負担がかからなければいいけれど。きみはいろいろ期待もされているだろうし」
「負担なんか……」
 言いかけてケイナは口をつぐんだ。そして思い直して再び口を開いた。
「セレスにラインに来いと言ったのはおれです」
 ハルドはケイナに目を向けた。ケイナはその目から逃れるように目を伏せた。
「すみません」
 ハルドはしばらくケイナを見つめていたが、やがて笑みを浮かべた。
「そうか」
 ハルドは言った。
「いい先輩に恵まれて安心したよ。ありがとう」
 ケイナは無言でカップを見つめていた。
『ありがとう』
 こんな言葉はもう何年も聞いたことがないように思えた。
 翌日ケイナは目が醒めた時、一瞬自分がどこにいるか分からなかった。
 意識がはっきりしてくると信じられないくらい体が軽くなっていることに気づいた。
「ああ、そうか……」
 食事をしたんだ……。
 ハルドとしばらく話をして、そして眠った。昨日からいったい何時間寝たんだか。
 ケイナは苦笑した。体が軽くなるはずだ。
 彼はベッドを抜け出すとそっとドアを開けた。リビングに行くとハルドがひとりでコーヒーを飲んでいた。
「おはよう。よく眠れたかい」
 ケイナの姿に気づいてハルドは言った。ケイナはうなずいた。
 ハルドは笑みを浮かべるとコーヒーを新しいカップに入れてケイナにおしやった。ハルドもセレスもコーヒーが大好きらしい。
 壁のモニターに映っていたニュース画像の時刻を見ると、まだ六時過ぎだった。
 それでも『ライン』での生活を考えるとかなりの寝坊だ。
 ソファに目を向けると寝ていたはずのセレスの姿がなかった。
「セレスは……?」
「まだ寝てるよ」
 決まってるじゃないか、というようにハルドは笑った。
「ぼくが五時の報告を受けるために起きた時にはソファから落ちて床に寝ていたから、あっちの寝室に運んでいった。たぶんあと二、三時間は寝るだろうな」
 ケイナはくすりと笑ってコーヒーを飲んだ。熱かったがおいしいと思った。そう思う自分に気づいて少し驚いた。
 嬉しい、楽しい、おいしい、まずい、好き、嫌い…… そういうことをしみじみと感じたことなど、もうずいぶん長い間なかったような気がする。
「ハラが減ったらキッチンで好きなものをプログラムして食べていいから。セルフサービスだ」
 ハルドの言葉にケイナは再びうなずいた。
 ハルドは昔会ったと言ったが、ケイナにとってハルド・クレイは初対面も同然だった。それなのに、目の前に座っている彼には少しも警戒する気持ちにならない。
 初めて会って話をする人間にこんなに気負わずにいた記憶はなかった。
 今でこそそばにいることが普通になっているカインとアシュアだって、最初はうっとうしいと思ったものだ。
 もっとも、彼らは出会ったときから何か思惑があったからというのもあったが。
 ほかの人間と目の前のこの人とは何が違うんだろう……。
「もう起きてたの?」
 声がしたので振り向くと、セレスが眠そうな顔で立っていた。
「そりゃこっちのセリフだ。えらく早く起きたな」
 ハルドが言った。
「兄さんのベッド硬くて……」
 セレスはそう言ってケイナのそばの椅子に座り、テーブルの上のポットを持ち上げてカップにコーヒーを注いだ。
 緑色の髪が四方八方に突っ立っている。よほどひどい寝相だったのだろう。
「クソ重いおまえを抱えてあっちまで運んで行ったんだぞ。ありがたいと思え」
 ハルドはコーヒーを飲んでセレスを睨んだ。セレスはカップを口につけて「あっちっちっち……」と顔をしかめた。
 ケイナはただ黙ってふたりのやりとりを聞いていた。
 義理の兄であるユージーと、顔も合わさず話をしなくなって何年になるだろう。
 ユージーとの生活は『ジュニア・スクール』時代から全く別になっていた。
 義父がほとんど家にいないので、食事も別々に自分の部屋でとっていたのだ。
 『ジュニア・スクール』のときからいつもぴりぴりと神経を尖らせて生活していた。
 階段を前にすれば突き飛ばされて転げ落ちることを考えた。屋外授業は足を挫く心配をした。
 カバンの中に入った刃物で手を切らない注意をした。そう、カバンはいくつ替えただろう。
 テキストとともに何度も何度も切り刻まれた。そのたびに新しいものを買わなければならなかった。
 『ライン』ではもっとすさんだ生活だった。
 殴られたり故意に怪我をさせられたことなんか数えきれない。眠っているあいだでさえ人の足音にびくびくした。
 結局、2年前のあのときが一番最悪のできごとだったけれど。
 顔も見ない、声もかわさないのに、みんな兄が自分を憎んでいると言う。
 18歳になればおれなんかいなくなるのに、どうして?
「叔母さんが今日、明日あたりで一度連絡しろって言ってたぞ」
 ハルドがセレスに言った。ハルドの声にケイナははっと現実にかえった顔をした。
「四ヶ月間一度も連絡がないって嘆いていた。体を壊してるんじゃないかとやきもきしてる。ぼくの時にはそんな心配しなかったくせにって言うと笑ってたけど」
「連絡なんかするゆとりなかったよ」
 セレスは仏頂面で言った。
「そう言っといた」
 ハルドは笑って答えるとモニターに目を移してニュースに耳を傾けた。
「ゆうべはよく眠れた?」
 セレスはケイナに目を向けた。ケイナはうなずいた。
「自分がいつ寝入ったのか、どんな夢を見たのか覚えてないよ」
「良かった。顔色が昨日よりもずっといいよ」
 ケイナは黙ってコーヒーを飲んだ。
 セレスはケイナの表情がいつもよりずっと落ち着いているので安心した。自分の家にいてくつろいでくれていることが嬉しかった。
「朝メシを早く食ってシャワーを浴びてしまえよ。エアポートに連れて行ってやるから」
 ハルドがふたりに言った。
「ほんと?」
 ハルドの言葉にセレスが嬉しそうな顔をした。
「エアポートの管制室の見学と三人乗りの小型機を予約しておいた。ぼくが一緒にいなくちゃ許可のおりないツアーだよ。感謝しろよ」
 ハルドは得意そうに言ったが、セレスはすでにそれを聞いていなかった。そそくさと立ち上がると朝食の用意をしにダイニングに行ってしまったのだ。
「ケイナ、食べた? おれと同じのでいいー?」
 うん、と答える前にハルドの視線に気づいた。
「悪いね。つきあってもらうよ」
 ハルドはケイナに言った。ケイナは小さく笑った。
 ここにいると何でも素直に受け入れられそうな気がした。幼い頃『ノマド』たちの中にいた時をふと思い出した。

 エアポートに向かう間、セレスは小さな子供のように目を輝かせていた。
 エアポート関連の施設はケイナ自身も入るのは初めてだ。
 幾重にもチェックがあって、よほどのことがなければ足を踏み入れることなどできっこない。
 しかし豪語したものの本当は秘書のリーフの協力がなければ実現しなかったということをハルドは内緒にしていた。
 リーフはどういう手段を使ったのかは分からないが、カート司令官の許可証を入手したのだ。
 もっとも、リーフとて司令官の息子が見学に行くなどとは今でも思っていないはずだ。
 エアポートのロビーにつくと、リーフは満面の笑みを浮かべて三人を出迎えた。
「久しぶりだね、セレス。大きくなったなあ」
 リーフは嬉しそうにセレスと握手をした。
 リーフとはハルドと通信するときに何度か顔を合わせている。セレスはこの誠実そうな青年が兄のそばにいてくれることにどれほど安心感を持ったかしれない。
「初めまして。ケイナ」
 リーフは笑みを浮かべてケイナにも握手を求めた。
 自己紹介されなくてもリーフがケイナのことを知らないはずはなかった。
 だが、いきなり来た彼を見ても慌てたような素振りは見せないのが彼のいいところだ。
「今日はご一緒に?」
 リーフの言葉にハルドは肩をすくめた。
「悪いね」
 リーフは笑った。
「ええ、でもその前に休暇中申し訳ないんですが呼び出しがかかってます。30分ほど仕事してもらえませんか」
 リーフの言葉にハルドはため息をついた。しかたなくセレスを振り向いた。
「そのへんんで待っていてくれるか?」
「いいよ、兄さん」
 セレスはうなずいた。それを見てリーフはそそくさとハルドの腕をひっぱり、足早にふたりから離れた。
「入室許可証、適当に通しますから手伝ってください」
 リーフは(とが)めるような声でハルドに言った。
「なんでアパートから連絡してくれなかったんです? カート司令官の息子さんが同行するって」
「どこから連絡したってどうせやることは同じだろ」
 ハルドは笑って答えた。
「司令官の息子ですよ。何かあったらどうするつもりです?」
「何もあるわけないだろう。警備室で事件が起こったらそっちのほうが問題だ。それに彼は今はセレスの友人だよ」
 リーフは口をつぐんで少し考えたのち再び口を開いた。
「適当にするのは撤回します。カート司令官に連絡とりますから。30分以上はかかると思いますよ」
「うん。頼むよ」
「頼むじゃないでしょ。あなたが直接連絡するんですよ!」
「あ、そうか。そうだな、そのほうが早いし確実か」
 リーフは呆れ返ってハルドを見た。この人は時々こういう間の抜けたことをする。
 先に立って歩くハルドを見ながらリーフは首を降った。
 まあ、だから出世するのかもしれないけれど……。

 ハルドとリーフが歩いていくのを見送って、セレスは周囲を見回した。
 ちょうど船の離発着があるのかロビーはたくさんの人でごったがえしていた。
 ふたりは大きな柱にもたれてぼんやりと行き交う人波を眺めていたが、セレスはふと通って行く人の目がやたらと自分たちに向けられていることに気づいた。
 ケイナの容貌が目立ち過ぎるのだ。
 そっとケイナの顔を盗み見ると、彼はまるで頓着せずあくびをかみ殺していた。
「食事はおいくら?」
 いきなり背後で声がして、ふたりはびっくりして振り向いた。髪を高く結った年配の裕福そうな女性がふたりを見上げていた。
「食事だけでいいのよ。おいくらかしら」
 再び女性が言った。セレスの顔にかっと血が昇った。
「あっち行けよ、くそばばあ」
 セレスは言った。女性は目をぱちくりとさせた。
「あっち行けってんだよ! こんな朝っぱらから寝ぼけてんじゃねえっ!」
 セレスは怒鳴った。周囲にいた人々がびっくりして立ち止まった。
 女性はなにがなんだか訳が分からないといった表情で立ち尽くしていたが、やがてぶつぶつと文句を言いながら行ってしまった。
「失礼ね。まぎらわしくピアスなんかしてるんじゃないわよ」
 女性がつぶやくのが聞こえた。
「失礼なのはそっちだろ!」
 セレスは歯を剥き出して怒鳴った。
「ケイナ、なんでいつもみたいに怒鳴ってやらないんだよ」
 セレスは鼻息を荒くして、黙ったままのケイナに言った。
「あんなのしょっちゅうだよ。片耳のピアスは一部ではサインらしい」
 こともなげに答えるケイナにセレスははっとした。
「もしかして…… 外には出たくなかった?」
 ケイナはそれを聞いて笑みを浮かべた。
「だからしょっちゅうだって言ってるだろ。気にしてない」
「おれ、なんか飲むもん買って来る」
 セレスはふいに顔を背けるとケイナの返事を待たずに駆け出した。
 ケイナは黙ってその後ろ姿を見送った。
 おれと一緒にいると、こういう(いや)なことをいっぱい知るようになるんだろうな。
 うっとうしい赤い色の抑制装置。目立つ容姿。普通にやってるつもりでも人目を惹いてしまう行動。
 うっとうしい。本当に不快だ。全部なくなってしまえばいいのに。
 ふと足元に気配を感じてケイナは顔を向けた。
「お兄ちゃん……」
 五、六歳くらいの少女が困ったような顔で見上げていた。
「これ、とって……」
 長い栗色の髪が小さなショルダーバックの金具にからみついている。からまったほうに頭を傾けて泣き出しそうな顔をしていた。
「バックを外そうとしたらひっかかったの。どんどん取れなくなるの」
 ケイナは身をかがめた。金具と金具のつなぎ目に髪がからまっている。少女の髪をひっぱらないように気をつけながらケイナは髪を外してやった。
「ありがとう」
 少女は嬉しそうに笑った。そしてケイナの顔をまじまじと見つめた。
「お兄ちゃんはわたしの持ってるお人形さんみたい」
 ケイナは少し笑みを浮かべた。どうリアクションすればいいのか分からなかった。
「アミイはとっても可愛いのよ。いっぱい洋服も持ってるのよ。ママのバックに入ってるの。わたしお土産を買ってもらったのよ。アミイのイブニングドレスよ。ここに小さなお花がいっぱいついてるの」
 少女は自分の胸元をさしながら言った。
「うん……」
 ケイナは戸惑いながら少女を見つめた。
「アミイはね、お兄ちゃんみたいに青い目と金色の髪なの。わたしも本当は金色の髪だったらいいなって思うの。でも、パパとママもわたしとおんなじ髪なの。だから金色にはなれないって。おとなになったら染めてもいいってママは言ったの」
「ねえ……」
 ケイナは周囲を気にしながら言った。
「もうママのところに行ったほうがいいんじゃないの」
「ママいないの」
 少女はあっけらかんと答えた。
「え?」
 ケイナは呆然とした。
「ママがね、まいごになったら、まいごセンターに行きなさいって言ったの。お兄ちゃんまいごセンターってどこ?」
 困惑してあたりを見回したが、普段縁のないそんな場所は知らなかった。
「まいごセンターが分からなかったらね、ジッとしてなさいって言われてるの。だからお兄ちゃん一緒にいてね」
 ケイナはおかしくなって笑い出した。柱の下に腰をおろすと少女もその隣にちょこんと座った。
「おれと一緒にいるとママはすぐに君を見つけると思うよ」
 ケイナは言った。少女は不思議そうな顔をしたが、ケイナはその顔を見て笑っただけだった。
 しばらくして戻ってきたセレスは ケイナが立っているはずの場所に小さな女の子がいるのでびっくりした。
 もっとびっくりしたのはケイナがその子と楽しそうに笑いあっていることだった。
 ほどなくして、ひとりの女性がふたりに近づいてきた。女性を見るなり少女は抱きついていった。きっと女の子の母親なのだろう。女性はケイナに何度もお礼を言っているようだった。
 少女は別れ際にケイナに顔をこちらに寄せるように手招きした。ケイナが顔を寄せると少女はその頬にキスをした。
 びっくりしているケイナをあとにふたりは去って行った。
「女の子にモテるね」
 セレスはにやにや笑いながらケイナに近づいて冷やかした。ケイナはじろりとセレスを睨んだ。
「酸っぱいベリージュースしかなかった。これでもいい?」
 セレスは買ってきた飲み物をケイナに渡した。カップを受け取るとき、ケイナはふと目の端に映ったものに気づいて顔をあげた。
「どうしたの?」
 セレスは怪訝な顔をしてケイナを見た。
「いや…… なんでもない」
 黒いものが視界の隅に入ったような気がした。
 それが少し気になったが、何も見当たらなかった。
 ハルドとリーフが戻って来たのはそれから20分後だった。
 フロアを横切って部外者が立ち入り禁止になっているエレベーターに入り、4人は二十階まであがった。
「ぼくはここで失礼します。ゆっくり見学していってください」
 リーフは笑みを浮かべ、分厚い扉の向こうにセレスとケイナを促した。
「父はなんて?」
 ケイナはリーフの横をすり抜けるとき彼に尋ねた。リーフは肩をすくめた。
「めずらしいこともあるもんだ、と」
 ケイナは少しほっと息を吐いた。
「大丈夫ですよ。司令官はむしろあなたが外に出てくれたことを喜んでおられるようでした。クレイ指揮官に一任しておられます」
 ケイナはうなずいて先に部屋に入っていったふたりのあとを追った。リーフは黙ってその後ろ姿を見送った。
 広い部屋の中にエアポートの様子を映すモニターが無数に並んでいる。
 目の前の壁には大きなスクリーンがあって、ちかちかと無数の点が点滅していた。
「エアポートに出入りする人間はすべてここで掌握されるんだよ」
 ハルドは言った。セレスはこぼれ落ちそうな目をさらに大きく見開いて 呆然と部屋の中を見回していた。
「半分はエアポート指令室、半分は軍の警備管轄だ。ここで異状が発見されたら、すぐに十階の警備本部に伝わるようになってる」
 ハルドはふたりを機械の間を縫うように案内し、ひとつひとつのデータの説明をしていった。
「『ライン』のコンピューター室なんか比べ物にならないや……」
 セレスはつぶやいた。
「当たり前だよ。ここはエアポートの第二の頭脳だぞ」
 ハルドは苦笑いした。
「あそこのモニターはエアポート内のすべての様子が映像とデータで把握されるようになってる」
 ハルドが指差したのでケイナとセレスは指さされた方向に顔を向けた。壁面一面にモニターが並んでいる。モニターに映るひとりひとりに数字がまとわりついたり消えたりしているのはきっと違法な武器や所持品がないかどうかをチェックしているのだろう。
 ケイナは何か厭な予感がしていた。ここに入ったときから妙に神経がざわつく。
「こっちに来てみるといい。もう少し詳しくデータが見られるから」
 ハルドが言ったので、ふたりはモニターに背を向けた。そのとき、ケイナは自分の目の端に映ったものにひっかかった。彼は再びモニターに顔を向けた。
 いったいどのモニターにひっかかったんだろう……。
「どうした?」
 ハルドがケイナの表情に気づいて近づいた。
「なにか見えた……」
 ケイナはつぶやいた。
「見えた?」
 ハルドは目を細めた。近くのオペレーターに目を向けると、オペレーターは異状はないというように首を振ってみせた。
(どのモニターだ……)
 ケイナは焦りを感じた。
 異様な警戒の思いに囚われた。なぜ、こんな気持ちになるのだろう。
「どうしたの、ケイナ」
 セレスがケイナの顔を見た。
「何かが見えたんだ……」
 ケイナはつぶやいた。セレスはケイナの視線の先を追ったが、彼が何を探しているのか分からなかった。
「あれだ」
 ケイナはようやく探し出した。ハルドもセレスも急いでケイナの視線を追う。
「どこのモニターだ」
 ハルドが言った。
「左から二番目、上から六番目のやつ。B08」
 ケイナは答えたモニターの中央にはひとりの中年の男が周囲の群集とともに映っていた。長い黒っぽいコートを着ている。
「拡大します」
 オペレーターはすばやくキイをたたいた。画面が前面にクローズアップされる。
「気のせいだろう…… アラートが出ていない」
「コンピューターでとらえられないものもある」
 ケイナは険しい口調で言った。
「あの男の視線はおかしい」
「マード・クレーターです」
 ケイナの言葉にオペレーターが答えた。該当者の身分証明が別の画面に拡大される。
「地球籍ウエストBA110、エンジニア。前科歴なし。病歴なし。金属探知異状なし…… 一瞬微弱な電流を感知…… 恐らく身につけたベルトかアクセサリーかと思われます」
「ケイナ、ここで察知できる危険は99%だ。残りの1%の確率も人工知能が常に情報をアップデートしている。潜り抜けるのは無理だよ」
 しかしハルドの言葉にもケイナは譲らなかった。
「あのコートだ。あのコートはシールドだ。あいつは懐に銃を持ってる。違法改造した銃だ」
「なぜコートの下の銃がわかるんだ」
 ハルドは目を細めた。にわかに信じられなかった。
 最先端のコンピューターが感知できないものを、どうして生身の人間のケイナが画面を見ただけで見抜けるというんだ。
 セレスは身体中の皮膚がぴりぴりとしてくるのを感じた。まるでケイナの緊張が伝染したようだ。
 ケイナの顔が急に青ざめた。コートの男の行く先に、さっき言葉を交わした少女の姿が見えたのだ。
 彼は身を翻すとドアに突進した。
「ケイナ……!」
 セレスはあわてて彼のあとを追った。
「ナンバー3、362ブロックに出動指令を出せ!」
 ハルドはオペレーターに怒鳴った。
「さっきの彼の言葉を指令根拠にするんですか?」
 オペレーターが困惑した表情でハルドを見た。
「いいからやれ!」
 ハルドは一喝すると、ふたりのあとを追った。途中でリーフに会うと、リーフは分かっているというように手をあげてみせた。 飲み込みの早いリーフの存在は有り難かった。
 ケイナの顔にはただならぬ気配があった。どうしてだか分からないが、彼はコンピューターが捕らえられない危険を察知したのだ。単に思い過ごしならそれでもいい。そうであって欲しいと願った。

 ケイナはエレベーターに身を滑り込ませ、追ってきたセレスが乗り込む前にドアを閉めていた。自分が何の武器も持ち合わせていないことにはまだ気づかなかった。
 そしてエレベーターのドアが開き切る前に外に飛び出した。
 モニターで見た場所がどこなのか見当もつかなかったが、自分の直感が信じる方向に向かって走り始めた。
 そしてその男を見つけた。男はゆっくりとコートの下から黒い銃を抜き出すところだった。
 銃身がびっくりするくらい長く大きい。
「伏せろ!」
 ケイナが大声で叫ぶのと、銃が爆音を立てたのとが同時だった。悲鳴とともに、群集がパニックに陥った。
「動かないで伏せろ!」
 ケイナは叫んだが、喧騒にかき消された。
 あいつは逃げまどう人間を標的にする。人が恐怖に陥るのを見て快感を感じている。
 ケイナは自分にぶつかって逃げまどう群集の中で言い様のない憤りを感じた。
「ママ!」
 視線の先に泣き叫ぶあの少女の姿があった。ケイナは彼女に突進した。
 彼女と男とは十数メートルしか離れていない。格好の標的だった。
「撃つな!」
 ケイナは男の銃口が彼女を狙うのを見て声を限りに怒鳴った。
「撃つな!」
「お兄ちゃん!」
 少女をかき抱こうとした時、ケイナは銃が爆音をあげるのを聞いた。
「ミリ!」
 女性の金切り声が響いた。
 ケイナは少女の体を必死の思いで抱き締め、うずくまった自分の右の耳もとを風が通り過ぎたような気がした。


 しばらくあたりは静寂に包まれていた。
 ケイナはゆっくりと顔をあげた。男の歓喜に満ちた顔がわずか数メートル先に見えた。
「お兄ちゃん……」
 腕の中で少女が怯えた声を出した。
「よく聞いて」
 ケイナは男を油断なく見つめながら言った。
「合図したらママのところに走るんだ。ママがどこにいるか分かる?」
「うん…… 柱のところにいる」
「まっすぐに走れ。何があっても立ち止まるなよ」
「怖い……」
 ケイナは男を睨みつけながら立ち上がった。
「そんな怖い顔をするな。もっと泣いてくれなければ困る」
 男は言った。落ち窪んだ目はどろんと濁り、無精髭の奥の口が歪んでいる。
「行け!」
 ケイナは叫んだ。少女はまっしぐらに走り始めた。
 男の銃が少女を狙おうとする前にケイナは男に飛びかかっていた。爆音が響いたが、ケイナは銃口を力づくで天井に向けていた。
 ハルドはようやく現場に駆け付けると、すばやく先に配置していた警備兵たちに群集を安全な場所に誘導するように指示をした。そしてケイナに走り寄ろうとするセレスの腕を慌てて掴んだ。
「何をする気だ!」
「ケイナが……!」
 セレスは喚いた。ケイナの右耳のあたりからおびただしい量の真っ赤な血が流れている。
「おまえに何ができる!」
 ハルドは弟の腕を掴みながらひとりの兵士から銃を受け取った。ほかの兵士たちに合図を送るのと、男がケイナを力まかせに撥ね除け、床に転がったケイナの眉間にぴったりと銃口を押しつけるのが同じだった。
「ケイナ!」
 セレスは悲痛な声をあげた。
「邪魔をしやがって…… 泣いて命乞いをしろ。泣き喚け」
 男は低い声でケイナに言った。ケイナは無言で男の顔を睨み返した。
「薬をやってるな……」
 ハルドは男のどす黒い顔を見てつぶやいた。
「薬?」
 セレスはびっくりして兄を見上げたが、ハルドはそれには答えなかった。
「銃を捨てろ!」
 ハルドは男に向かって怒鳴った。しかし男はにやりと笑っただけで相変わらずケイナに狙いをつけている。
 周囲が銃を構えた兵士に取り囲まれているのを何とも思っていないようだ。
「撃てるもんなら撃ってみろ」
 男はケイナに銃口をつきつけたまま、身をかがめてその肩を抱き寄せるようにして首に腕を回し、無理やり立ち上がるとそのままぐるぐると動き始めた。
「なんで撃たないのさ!」
 セレスはいらだたしそうに兄に怒鳴った。
「すぐに狙撃班が来る。それまで待つんだ!」
 ハルドは言った。
「きれいな顔をしたお兄ちゃんじゃねえか」
 男は饐えた匂いのする息を吐きながらケイナに言った。
 ケイナを片腕で締め付けながらぐるぐると動き回る。
「じっとしやがれ、この野郎……」
 セレスは兄が呟くのを聞いた。
 次の光景は誰も予想していなかったものだった。
 ケイナは目の前のある男の左手に思い切り噛みつくと同時に片足を引き、男の右手にある銃口を掴んであっという間に背負い投げのようにあっという間に男を投げ飛ばした。
 掴んだ銃口からまるで細いバトンのように銃が軽々とケイナの左手に移り、床にたたきつけられた男が呻き声をあげるのと、ケイナがその額にぴたりと銃口をつきつけるのが同時だった。
「下衆野郎……!」
 ケイナは床に血を吐き出した。床に血と共に小さな肉片が落ちる。
 ケイナは男の手の皮膚を噛みちぎっていた。
『なんだ…… あの動きは』
 ハルドは茫然としていた。こんな動きができる人間は見たことがない。ましてや訓練生の身で。
 警備兵たちが男を捕獲するために走り出そうとした。 しかしそれに向かって叫ぶケイナの声が響いた。
「来るな! この下衆野郎はおれが殺す! 近づくとおまえらも撃つ!」
「ばかな……!」
 ハルドはかすれた声でうめき、セレスが再び走り出そうとしたので慌ててその腕を掴んだ。
「ケイナ! ダメだ……!」
 セレスは叫んだがケイナは聞こえていないかのように反応しない。
「泣いて命乞いをしろと言ったよな。そのまま返してやるよ」
 薄く笑みさえ浮かべていた。
「ケイナは左手で銃を持ってる…… もう、自分の意識で動いてないんだ」
 ハルドは訴えるように言うセレスの顔を思わず見た。
「なに?」
「ケイナの耳からピアスが取れてる。ケイナはこっちの世界にいないんだ……!」
 セレスは兄にすがりつくように叫んだ。ハルドには弟の言っていることがさっぱり分からない。
 再びケイナに目を向けた時、ひとつの影が突進するのを見た。
 それは信じられないすばやさだった。
 影が男をケイナの構える銃の射程範囲からはじき飛ばすとの、ケイナが撃ったのとが同時だった。
 男がいたはずの床に大きな穴があいた。
 影が何者なのか確かめようとする前にハルドは弟が走り出したことに気づいた。今度は腕を掴み損ねた。
「終わりだ! ケイナ!」
 男の体を組み伏せながら影が叫んだ。真っ赤な燃えるような髪の少年だった。
 セレスはそれがアシュア・セスだと気づいた。
「終わりだ、ケイナ。銃をおろせ」
 アシュアはゆっくりと言ったがケイナは何の反応も示さなかった。
「ケイナ、おれだ、アシュアだよ。銃を渡せ」
 静かに注意深く語りかけながらアシュアが手を差し伸べても、ケイナは全く表情を変えない。
「ケイナ! アシュアを撃つな!」
 セレスはケイナの背後から叫んだ。
「アシュアだよ! 分かんないのかよ!」
 セレスは祈るような気持ちだった。ここでアシュアを撃ってしまったら、彼は決してこっちの世界には戻ってこないだろう。
 セレスは意を決してケイナに飛びかろうとした。しかし、ケイナに手を触れる瞬間に彼は振り向き、持っていた銃の銃身で思いきり殴られそうになった。
 すんでのところで身を伏せたので、銃身はセレスの緑の髪をかすって空を切った。 しかしそのまま銃口はぴたりとセレスの額に止まった。
「ばかやろう……」
 ハルドは自分の銃の照準をケイナに合わせた。
 もう、どうしようもない。
 照準の先に見えるケイナの姿が滲んでぶれた。それで初めて自分の手が震えていることに気がついた。
 これまでたくさんいろんな事件に出会って来たが、こんなことは初めての経験だった。
「ケイナ…… こっちに戻ってきてくれよ……」
 セレスは震える声で言った。やはりケイナの表情は変わらなかった。
 アシュアは隙のないケイナの背後でじりじりしている。 下手な動きをするとセレスの頭をケイナは撃ち抜いてしまう。
「ケイナ…… おれが分からない? おれのこと、覚えてない?」
 セレスは懇願するように言った。
「ケイナ! おれの声を聞いてよ!!」
 ケイナの表情にかすかな変化が見えた。アシュアはそれを見逃さなかった。
 次の瞬間、アシュアの腕がケイナに飛び、ケイナは銃を取り落とすとゆっくりと倒れた。
 床に体を打ちつける前にアシュアは彼の体を抱きかかえた。
 セレスはそのまま息をきらして床に座り込んだ。
 汗と涙で顔中ぐしゃぐしゃだった。声にならない呻きとともに服の袖で顔を拭った。
 ハルドは警備兵たちに引き摺られていく男を見送ったあと床に落ちた銃を拾い、意識を失ったケイナを抱きかかえるアシュアのそばに歩み寄った。
「クレイ指揮官、すみません。勝手なことをして……」
 アシュアはハルドを見上げて言った。
「きみは誰だ」
「アシュア・セスです。ケイナとは『ライン』で同期です」
「同期……」
 ハルドはつぶやいた。あの動きは『ライン生』の動きじゃない。そう思ったが口には出さなかった。
「ケイナの耳が半分ないよ……」
 セレスは血に染まったケイナの顔を覗き込み、ハルドに訴えた。
 ハルドは黙って口を引き結んだ。
 慌ただしい足音と共に担架が運ばれる。
「痛みなんて、ほとんど感じてなかっただろうよ」
 アシュアは言った。
 そして、
「戻ってくるかな……」
と、つぶやいた。
 ケイナは病院に運ばれ、丸二日間眠ったままだった。そして三日目になっても目を覚まさなかった。
 銃ではじき飛ばされた半分の耳は尻のほうの組織を培養し、以前とほとんど変わらないように接合された。
 セレスは死んだようにぴくりとも動かないケイナの顔を見つめた。
 アシュアの言うように本当に戻って来てくれないのだろうか。
 彼を置いて家に帰ることなどできず、セレスは彼の目が再び開くことを祈り続けながらケイナのそばにいた。
「様子はどうだ」
 ハルドが病室に入ってきて青い顔をしているセレスに言った。
「変わりない」
 セレスは首を振った。
「もう、とっくに目が醒めてもいいらしいんだけど」
「少し眠ったほうがいいぞ」
 ハルドは真っ赤に充血した弟の目を見て心配そうに言った。
「寝てるよ。そのへんで…… でも、細切れに目が醒めちゃうんだ」
 セレスは脇の簡易ベッドを顎でしゃくって答えた。ハルドはため息をついた。
「アシュア・セスは?」
 ハルドは部屋を見回して尋ねた。昨日来た時にはケイナのそばにいた。何も言わずに暗い顔でずっとケイナの顔を見つめていた。
「一度家に戻るって言ってた。ケイナの目が醒めたらすぐに連絡してくれって言ってたけど……」
 セレスは目をこすりながら答えた。
「兄さん」
 訴えかけるような目をして自分を見る弟にハルドは目を向けた。
「ケイナは何か罪になる?」
「ならないよ」
ハルドは弟を安心させるように少し笑みを浮かべて答えた。
「ならないように報告書をまとめた。マスコミへの情報もだいぶんシャットアウトした。市民を守るためにケガをしてまで立ち向かった勇敢な少年ということでみんな認知するだろう。もっとも…… 人の噂だけは制御するわけにはいかないが…… 助けられた人がいるのは確かなんだから悪いようにはならないだろう」
「……兄さんは大丈夫?」
  セレスの不安はまだ晴れないらしい。ハルドは腕を伸ばすとセレスの頭に手を置いた。
「カート司令官はあのときケイナのことは任せるとおっしゃっていたんだ。任せると言ったのはね…… 何があったとしてもぼくの権限で行ったことなら文句は言わないということだよ。その言葉をあとで覆すような人じゃない」
「よかった……」
 セレスはようやく安堵の息を吐き、ケイナの横たわるベッドに頬杖をついて再びケイナに目を向けた。
「あとは目が覚めるのを待つだけだね」
 ハルドはさまざまな疑問が頭を渦巻いていたが憔悴しきっている弟を気づかって今は何も聞かないでおこうと思った。
「おれはもう戻らないといけないんだ……」
 ハルドは言った。
「一緒にいてやりたいんだが…… すまないな…… おまえも体を休めるんだぞ」
「分かってる。大丈夫だよ」
 セレスはかすかに笑みを浮かべて兄を見た。ハルドは笑みを返したあと、ふと思い出して上着のポケットを探った。出てきたのは小さな女の子の人形だった。
「ケイナの目が覚めたらこれを渡してやってくれ。彼が助けた女の子が早く怪我がよくなるように渡してくれと言っていた」
 ハルドはそれをセレスに手渡した。金色の髪に青い目をした、どことなくケイナの面立ちに似ている人形だった。
「分かった。渡すよ ……兄さん、ありがとう」
 ハルドはまた手を伸ばして弟の頭をくしゃっとなでると病室をあとにした。
 兄が出て行ったあと、セレスはケイナの顔を見つめながら頭をベッドにもたせかけた。
「帰ってきてよ、ケイナ。このまま眠ったまんまなんて、オレ許さないからな……」
 そしてしばらくたつと、自分が深い眠りに落ち込んでいったことにセレスは気づかなかった。

 その頃、アシュアは画面の向こうで怒りを顔中にあらわしているトウ・リィと、その横で無表情に立つカインを見ていた。
「彼がいつもと違う行動をとってたっていうのに、どうして彼のそばを離れたの」
 トウの声は怒りを必死になって押し隠しているようだった。
「それは、さっきも言った通り……」
 カインは答えた。
「そんなことをするなんてぼくらは聞いていなかったし、知らなかったんです」
 トウの鋭い目がカインを睨みつけた。
「ケイナはおれたちと別れるほんの数十分前にはいつものようにアパートに戻るって言っていたんです」
 アシュアが画面越しに助け舟を出した。
「ふざけた言い訳をしないでちょうだい」
 トウの目がじろりとアシュアを睨んだ。アシュアは思わず目の前のモニター画面から身をのけ反らせた。
「『見えた』からアシュアをケイナのそばに行かせたんでしょう?! 『見えて』いたのにわざとケイナの行動を許したわね!」
 ついに怒りが爆発し、トウはカインのメガネをひったくって取ると床にたたきつけた。メガネは割れなかったが、かちんと小さな音をたてて床から跳ねかえった。
「セレス・クレイというのは…… いったい何者なの」
 トウはメガネをとられてもびくりともしないカインを憎々し気に睨みつけて言った。
「今年ラインに入った軍科の新入生です。ケイナとは同室でした」
 カインは表情を変えずに答えた。
「そんな子とケイナがどうして個人行動をとるのよ」
 トウはカインに詰め寄った。カインは肩をすくめた。
「何を隠してるの? 私の目がごまかせると思ってたの?」
 トウはいらいらとした口調で言った。
「ケイナが前のように自分で自分を殺そうとしたらどうするつもりなのよ」
 カインが何も言わないので、トウはデスクを平手で叩いた。デスクの上のトウの華奢な愛用のペンが衝撃で跳ねた。
 アシュアはじっとカインの出方を見守った。カインの考えることに合わせるつもりだった。
「ケイナはそんなことはしません。セレス・クレイがそばにいれば」
 カインは言った。
「どういうこと?」
 トウは目を細めた。
「ケイナだって普通の人間ですよ。心を許せる相手になら気持ちだって平穏でいられるんです」
「普通の人間?」
 トウが嘲るような笑みを浮かべたのをカインは見咎めた。
「普通の人間でしょう。ケイナは当たり前に普通の17歳の人間だ。何が違うって言うんです」
「トウ」
 アシュアはたまりかねて口を挟んだ。このままカインにしゃべらせていたら、トウは彼の顔をはり飛ばしそうな気がしたのだ。画面越しでいる以上、自分には彼女の平手が飛んでくる心配はない。
「今回確かにケイナは一時自己喪失に陥っていたけれど、あのときセレスの呼び掛けに反応した。だからおれはケイナから銃を取り上げることができたんだ。セレスがいなければ、カインがいない時におれひとりではケイナを静めることはできなかったと思う」
 トウはしばらく黙っていた。やがて鋭い目をカインに向けた。
「セレス・クレイの報告書を一週間以内に提出して。それから休暇が終わったらセレス・クレイの行動もケイナの行動と合わせて提出すること」
 カインの眉がぴくりと動いた。トウはそれを見逃さなかった。
「隠そうなんてことはもうしないことね。あと一回こういうことがあったら、ただじゃすまないわよ。解雇されるだけじゃないくらいの覚悟はしておくことね。『ビート』の名前が聞いて呆れる。一度ならず二度までも……!」
そこでアシュアの前の画像がぷつりと消えた。アシュアは長いため息をついた。
「どうする気だ、カイン…… 下手するとおれたちはケイナを敵に回すことになるぞ……」
 アシュアはそうつぶやいて、まだトウの繰り言を言われているだろうカインを思い浮かべた。

 セレスは久しぶりに心地よい眠りをむさぼっていたが、ふと気配を感じてはっとして顔をあげた。
 そしてケイナが目を開けて天井を見つめているのを見て一気に目が覚めた。
「ケイナ! 分かる? おれのこと分かる?」
 セレスはケイナの顔に被いかぶさるようにして尋ねた。しかしケイナは天井を見つめたままだ。
「ケイナ!」
 ケイナはゆっくりとまばたきをした。
「ケイナ!」
「うるせえ……」
 ケイナはゆっくりとセレスに目を向けた。
「みみもとで…… 怒鳴るな……」
 それを聞いてセレスは安堵した。
「ここは……」
 ケイナは額をこすろうとして手をあげかけたが、思うように動かないらしく顔をしかめた。
「病院だよ」
 セレスは答えた。
「ケガしたんだ。でも、休暇が終わるまでには治るよ」
 聞こえているのかいないのか、ケイナはぼんやりと宙を見つめた。まだ意識がはっきりとしていないのかもしれない。
「あの子は……?」
「……あの女の子のこと?」
 セレスは尋ねた。ケイナは黙っていた。
「大丈夫だよ。今頃お父さんの待つ地球に戻ってるよ。これ、その子がケイナに渡してくれってさ」
 セレスはケイナの手に人形を握らせた。ケイナは苦労してそれを自分の顔まで持ち上げた。その目にかすかに安堵の光が宿った。そして彼はセレスに目を向けた。
「あいつは?」
 セレスは一瞬ためらった。ケイナはどこまでのことを覚えているんだろう。
「……あの男なら捕まったよ。薬をやってたらしいから、治療をしてから取り調べだって兄さんが言ってた。違法シールドのコートの出どころや改造銃のでどころは手がかりがないから長引きそうなんだ」
 ケイナはそれを聞いて長いため息をついた。
「殺してなかったのか……」
「誰が殺すんだよ。あの男は捕まって、ちゃんと裁判にかけられるんだ」
 セレスは注意深く言った。ケイナは黙っていたが、しばらくしてぽつりとつぶやいた。
「思い出せって……」
 セレスは怪訝な顔でケイナを見た。
「おまえ…… おれにそう言ってたよな……」
「おれの声、届いてたんだ」
 セレスは驚きと嬉しさを感じて言った。
「途中からあんまり…… 覚えていない…… でも、おまえの声がどこかで聞こえたように思う……」
 ケイナは記憶を辿るように視線を宙に泳がせた。
「おれは、銃を持ってた。それをアシュアに向けて……」
「ケイナ」
 セレスは必死になって考えを巡らせた。下手なことを言うとまたケイナの感情を高ぶらせてしまうかもしれない。吹き飛ばされた耳と一緒に今は抑制装置も壊れてしまっているのだ。
「あんたはアシュアを撃ってないよ。あんたはあの男に銃口を突き付けられて身動きとれなかったんだ。だけど、信じられないような動きであの男から銃を取り上げたよ。それだけだよ」
 セレスは言葉を選びながら言った。
「あいつは撃たれてないよ。アシュアも撃たれてない」
 ケイナはぎごちない様子で人形をじっと見つめていた。
「ケイナ、あんたの耳にもう赤い点はついてないんだ。 赤い点はあの女の子をかばった時に吹き飛ばされた。でも、あんたは正気に戻った。あんなピアスで封印しなくっても、あんたは自分で自分の感情をコントロールできるよ」
 ケイナはまだ銃の感触の残る左手を見た。
「封印……」
 ケイナの目が見開かれた。そしていきなりがばっと飛び起きた。
 さすがに急激な血圧の変化に堪えきれず、再びベッドの上に崩れ折れてしまう。
「いきなり起きちゃだめだよ!」
 セレスは仰天した。ケイナの目は大きく見開かれていた。体をくの字に折り、小刻みに震えている。
「ケイナ……!」
 セレスはまた自分が失敗したことを悟った。ケイナを興奮させることを何か言ってしまったのだ。
「ナイフ……」
 ケイナは呻いた。
「え……?」
 セレスはケイナを仰視した。
「よくもおれの利き腕を……」
 セレスはぎょっとした。二年前のあの事件のこと?
 どうして今そんなことを思い出すんだ?
 ケイナの顔は苦し気に歪み、震える手がシーツをぎゅっと握り締めた。きっと彼の目の前にはそのときの光景が浮かんでいるのだろう。
 セレスははらはらして彼を見守った。このまままた感情が高ぶり過ぎて大変なことになったらどうすればいいんだ……。
「倉庫の床が真っ赤で…… おれはいったい何をした……? おれの左手はぼろぎれみたいに指がてんでばらばらで…… あそこに落ちているあのかたまりはいったいなんなんだ……?」
「ケイナ、もうやめろよ」
 セレスはいたたまれなくなってケイナの肩を掴んだ。
「もう終わったんだよ。二年前のことなんか、忘れろよ……!」
「封印しよう……」
「封印なんてもういらないんだよ!」
 セレスは無我夢中で言った。
「言ったろ! あんたはもう自分で自分をコントロールできるんだ! おれやカインやアシュアがいつもそばにいるよ! おれたちを信じてよ! ひとりで自分を追い詰めるなよ!」
 必死で言った。早くケイナを元に戻さないと。
「ケイナ、頼むよ、頼むからおれの声、聞いて!」
 ケイナははっと我に返ったような顔でセレスを見た。セレスはそのケイナの顔を覗き込んだ。
「あんた、耳の赤いあの点が取れたら前後不覚に暴れるんじゃないかなんて言ってたよね。でも、大丈夫だろ? 今の傷も治るよ。あんたはもう呪わしい思いに捕らわれないよ」
 ケイナはまだ震えていた。
「おれね、地球では緑色の目と髪を持つことで目立っちゃったんだ。こっちに来てからはバスケットの試合で、シュートを決め過ぎるって嫌われたんだ」
 セレスは自分で何を話そうとしているのか分からないまましゃべり続けた。話してケイナの意識をこちらに向けておかなければと必死だった。
「でも、どうしようもないんだよ。おれの髪って何だか知らないけどうまく染まらないし、目の色を手術で変えるのって厭だったし…… なんとかしろって言われて、はいそうですかって無理なんだ。バスケでボールなんて、どうやって『取らない』ようにすればいいのかわかんないよ。自分で意識ないんだもん、どうしようもないよ……」
 ケイナはまじまじとセレスの顔を見つめた。セレスはちょっと照れくさそうに頭を掻いた。
「ケイナもきっといろんなこと、人と違うって言われ続けてたんじゃないかと思うんだけど…… ケイナの辛い思いにくらべれば、おれのなんてどうってことないけど、おれ、ケイナみたいになりたいって、ずっと思ってたんだ。きっと初めて会った時からずっと…… あんたはいつも堂々としてた。自分が人とは違うってこと、おれ、やっぱり心のどこかで引け目に思ってたのかもしれない。だから、あんたに近づきたいと思ったんだ」
「じゃあ、失望しただろ。おれはそんなに強い人間じゃない」
 ケイナは目を背けた。
「そうだね」
 セレスは言った。目を背けはしたが、ケイナの震えがおさまっていることをセレスは見てとった。
「失望したよ。やっぱりケイナはおれが守ってやんなくちゃって思ったもんな」
 ケイナは思わずセレスの顔を見た。セレスは笑ってみせた。
「おまえは…… 変わってる」
「あんたもね」
 セレスは笑いながら答えた。
「ねえ、ケイナ」
 顔を傾けてケイナに近づけた。
「おれ、今のこの状況がほんとは信じられない。あんたは今こんなにおれのそばにいるよね。ちょっと前までは話すらもできなかったのに。あんたは笑うかもしれないけれど、おれ、あんたを守りたい。それはケイナが弱い人じゃないからだ。あんたは強い人だよ。とても強いよ。おれはそんなケイナが好きだから守るんだ。今、それに気がついたよ」
「声を……」
 ケイナは白いシーツを見つめてつぶやいた。
「おまえの声だけは聞こえたんだ。なんでなんだろう……。おまえはあのひとことで、おれを二年前の時間からも現実に呼び戻したんだな……」
「切れそうになったら、また呼ぶよ」
 セレスは笑った。ケイナは苦笑した。もう大丈夫だとセレスは思った。
「アシュアに連絡してくる。それからドクターにも。あんたをこんなに興奮させて、ちょっと叱られるかもしれないけど」
 セレスは笑って立ち上がると病室を出て行った。
 その姿を見送って、ケイナはつぶやいた。
「声……」
 二日後、ケイナは退院することになった。
「回復がこんなに早い人はめずらしいですよ。普通だったらもう二日ほど様子を見るところなんですが…… もともと自己回復力が高い体質だったんでしょうね」
 担当の若い医師は感心しながらケイナに言った。二年前の事件のことを知ったらこの医者は何と言うだろう。
「ああ、それと……」
 立ち上がって診察室から出ていこうとするケイナに医者は思い出したように言い、ケイナに一枚の紙を渡した。
「リィ・ホライズン研究所属病院のバッカード博士から、ここでのあなたの治療経緯とカルテを送るように言われました。了承ならサインをこの書類にして退院の時にナースステーションに渡していってください。ずいぶん権威のある方が主治医でいらっしゃいますね。 ……何か過去に大病でも?」
「いえ……」
 ケイナは紙を受け取って答えた。
「単にホームドクターだっただけですから……」
 ケイナは嘘をついた。ホライズンの人間がホームドクターでなんかあるはずがない。しかし、彼に詳しい説明をする必要はなかった。
(18歳になったらぼくを仮死保存するために、それまでのデータを蓄積している人です)
 言ってみたい気もしないでもなかったが。
「ああ…… なるほど」
 医師はケイナのカルテの名前を見て納得したようだった。
「カート司令官の御子息でしたね」
 ほんとうの『御子息』でもないけど。そう思ったが、ケイナは診察室を出た。
 病室に戻るとカインとアシュアがいた。
「セレスは?」
 ケイナは部屋を見回して言った。さっきまで部屋にいたはずだった。
「おれたちの顔を見るよりセレスのほうがよかったか?」
「なにをばかなことを」
 アシュアの声にケイナは彼をじろりと見て、入院中にアシュアがアパートから持ってきてくれた衣類や細々したものをバッグに詰め始めた。
「きみのヴィルを取りに行くと言ってた。すぐに戻るだろう」
 カインが答えた。
「いつこっちに戻って来た?」
 ケイナはカインを見ずに言った。
「昨日だ。きみのことをアシュアから聞いていたが、すぐに戻れなかった」
 ケイナはそれを聞いてもわずかにうなずいただけだった。
「とりあえずアパートに戻るんだろう? 退院祝いでもするか?」
 アシュアがにやにやしながら言うとケイナは笑った。
「めんどくせえ……」
 ケイナのその表情と言葉はこれまでとは違っていた。いつもならまず反応しない。アシュアとカインはちらりと顔を見合わせた。
「でも、久しぶりにおまえの作ったあの変な料理が食いたくなった。ここのメシがやたらとまずかったんだ」
 ケイナは髪をかきあげながら言った。
「あいよ、了解」
 アシュアは笑った。
 カインはそんなケイナを無言で見つめた。
 この変貌ぶりはどうだ……。すべてセレスの影響なのか?  たった数カ月で、ケイナをここまで饒舌にするとは。
 ぼくにはさっき自分で聞いておきながら、ろくに返事もしなかったのに。
 カインは自分でもわけの分からない不安を感じていた。
 『コリュボス』に戻る前にセレスの報告書をトウに提出してきていた。
 前に一度調べていたから概略をまとめあげるのは造作なかった。
 トウがそれを見て何と言うか分からない。
 カインは彼女に会わずに彼女の秘書にレポートディスクを提出し、そのままコリュボスに戻って来ていた。
 このケイナの状態を今後もトウに報告するのは気が進まなかった。
 ほとんど自分から話すことも笑うこともしなかった彼にどんどん自発性が出て来る。
 人に要望を言う。
 そんなふうに彼を変えたものはいったい何なのか。ケイナの何にセレスが影響を及ぼしたのか。ホライズンは嬉々としてこの点を追求しようとするだろう。
 それを知ったとき、ケイナがいったいどんな行動に出るのか予想もつかなかった。
 彼は…… ぼくらを殺すだろうか。
 そのとき、ふいに病室のドアが開いたのでカインは顔をそちらに向けた。部屋にいた誰もがてっきりセレスが戻って来たのだと思っていた。
 しかし、そこに立っていたのは大柄の軍服の男だった。
 彼の姿を見るなりアシュアがおもちゃの兵隊のようにぴしりと敬礼をした。
「お義父さん……」
 ケイナはつぶやいた。カインも敬礼をした。
 まさかカート司令官が来るとは。
 レジー・カートの栗色の髪のこめかみ部分には白いものがちらほら見え始めていたが、灰色の目はいまだに鋭い光を放ち、少し太って体型が崩れているにも関わらず軍服の下の筋肉は引き締まっていることが見てとれた。
 彼はしばらく病室の中を黙って眺め、カインとアシュアにちらりと目を向けたあとゆっくりと足を病室の中に踏み入れた。
 ケイナはバッグをベッドの上に置くと、義理の父に向き直った。
 レジーはケイナの顔を見つめながら彼に近づき、そしてその前に立った。
 と、いきなり彼はケイナの体をがばっと抱き締めた。
「良かった…… 元気になって良かった……」
 レジーはまるで小さな子供にするようにケイナの頭や背を撫でさすりつぶやいた。カインとアシュアは敬礼したまま信じられない光景に目を丸くした。
「ち、ちょっと……」
 ケイナは苦し気に身じろぎして言った。それでようやっとレジーは太い腕をケイナから放した。
「二年前のようなことになってしまったらどうしようかと、夜も眠れなかった。あんな思いは二度とごめんだ……」
「もう、なんともありません」
 ケイナは彼に言い聞かせるように言った。
「全く…… 司令官という仕事は息子が病院に入っていてもすぐに動くことができん」
 レジーは首を振って言った。
「ちょっと中央塔を出るというだけで二十人くらいのボディガードがついてくることになってしまう。だから、こっそり抜け出した。ハルド・クレイに頼んだ」
 レジーが病室のドアのほうに顎をしゃくったので、そちらに目を向けるとハルド・クレイが立っていた。
 彼はケイナと目が合うと、かすかに笑みを見せた。
「おまえは休暇になってもちっとも顔を見せに来ない。たまには父親に会いに来るものだ」
 レジーは小さな子供に諭すように言った。
「すみません」
 ケイナは答えた。
「司令官、申し訳ありませんが、時間です」
 ハルドが遠慮がちに口を挟んだ。それを聞いてレジーは顔をしかめた。
「待て、もう少しだから」
 そう言うとカインとアシュアを振り向いた。ふたりはぎょっとして敬礼の背をさらに伸ばした。
「アシュア・セスはどっちだ?」
「自分であります! 司令官!」
 アシュアが緊張して叫んだ。
 レジーはアシュアに近づくと、いきなりアシュアの手を取り握りしめた。
「ありがとう! ケイナを助けてくれたそうだな! 本当にありがとう!」
「あ、い、いえ、あの、おれ、いや、あの、ぼくは……」
 アシュアは面喰らいながらしどろもどろでレジーを見た。本当に助けたのは自分じゃないとはとても言えなかった。
「ハルド・クレイから詳しい報告を受けた。感謝しているよ」
 レジーはにこやかに笑うと顔を巡らせた。
「セレスという子はどこだ? ずっとケイナについてくれていたそうだが?」
「セレスはケイナのヴィルを取りに行ってます。すぐ戻ると思いますが」
 カインがそう答えると、レジーの表情が曇った。実に表情豊かな人だ。
「そうか、残念だな」
 レジーはつぶやいた。
「私が自由に行動できるのはわずか数分なんだ。ひどい話だ。すまんが、彼にわたしが礼を言っていたと伝えてくれ」
 レジーはケイナに言った。ケイナはうなずいた。
 最後にレジーはもう一度ケイナが窒息しそうなほど彼を抱き締めると、ハルドに付き添われて病室をあとにした。
 三人は硬直したままそれを見送った。
 しばらくしてアシュアがずるずると壁を伝って床に尻をついた。
「あああ…… 冗談じゃねえ…… ディレクターの前でもこんなに緊張したことってないぜ……」
 それを聞いてカインが慌ててアシュアを足で蹴った。
 『ディレクター』というのは『ビート』のトレーナーだ。しかしケイナは気づかなかったようだ。
「おまえでも緊張することってあるんだな」
 ケイナは笑いながらバックに再び荷物をつめながら言った。
「けっ!」
 アシュアは顔をしかめた。
「司令官は本当にきみのことを大事にしてるみたいだな」
 カインは言った。
 ケイナはちょっと手をとめたが、そのままバッグを閉めるとベッドに腰を下ろし、靴のひもを締め直し始めた。
「父にはよくしてもらったよ……。 あの人の本当の息子だったらどんなにいいだろうとよく思った」
「司令官はおまえのことを息子だと思ってるぜ」
 アシュアは言った。
「息子はユージーだよ」
 ケイナはちらりとアシュアを見たあと肩をすくめた。
「父はあの通りの性格だからおれとユージーを分け隔てなく大切にしてくれたけど、カートの跡継ぎはユージーなんだ。おれじゃない」
「ユージーはそう思っていないんじゃ……」
「関係ないよ」
 アシュアが言いかけた言葉をケイナは遮った。
「仮に父がおれを後継者につけたいと思っても周囲が許さない。古い慣習を重んじるカート家ではおれはいずれカートの名前を捨てなくちゃならない。だから家を出た」
 ふたりには目をむけずケイナは言った。
「カンパニーとの契約は14歳だったんだ。それに逆らってまでおれを『ライン』に入れようとしたのは父だ」
「カート司令官が?」
 カインが少し驚いたような声をあげた。
「リィがよく了承したな」
「だけど、18歳の期限はもう動かない。おれももう父にこれ以上迷惑をかけたくない」
 ケイナは靴紐を結び終えて髪をかきあげた。
 カインもアシュアもその言葉に返すいい返事を見つけることができなかった。
「そろそろここを出よう。あいつももう戻ってくる頃だ」
 ケイナはそう言うとバッグをとりあげた。
 セレスは三人が病院のエントランスから出てきたところでちょうど出会った。
 ケイナにヴィルのキイを渡すと、これで自分の仕事が終わったと思い家に戻ろうと踵を返しかけた。その背にアシュアが声をかけた。
「今からケイナのアパートに行くんだ。おまえも来いよ」
「え?」
 セレスは戸惑ったような顔を向けた。ケイナの顔を見たが彼の顔からは何の感情も読み取れない。
「おれ…… でも……」
 何か用があったような気がしていた。何だっただろう……。
「アシュアのヴィルの後ろに乗せてもらいな」
 しばらくしてケイナはぶっきらぼうにそう言うと、さっさとヴィルが停めてある場所に歩き始めた。
「だとよ」
 アシュアがにっと笑ってセレスの背を押した。セレスは促されるままにそれに従った。
 嬉しくないわけではない。誘ってもらうことをどこかで待っていたかも……。それは偽れない本音だった。
 カインはその様子をただ黙って見ていた。アシュアの提案は一瞬無謀ではないかと思ったのだが、自分の目に何も見えなかったので反対することはやめた。

 ケイナのアパートは中央塔からかなり離れた郊外に建っていて、びっくりするほど時代遅れの古風な外観だった。
 六階建ての白い壁の小さなアパートをバイクから降りて下から見上げると、窓に花を飾っている部屋がやたらと多いことが見てとれた。
 高層の住宅しか見たことのないセレスにとってそれはあまりにも不思議な光景だった。
「あら、帰ってきたの?」
 上のほうから声がしたので、四人は顔をそちらに向けた。 三階の部屋の窓から老女が顔を覗かせている。
「連絡してくれれば掃除をしてあげたのに。アシュア、久しぶりね」
「こんちは、シェル」
 アシュアは手を振った。老女は嬉しそうに手を振り返した。
「夫がイキのいい魚を持って帰ってきたのよ。ベリーパイも焼くつもりなの。あとで取りに来て」
「すげえ! 今夜は盛大なパーティになるぜ!」
 アシュアが叫ぶと、老女は得意げにほほえみ返して部屋の中に引っ込んだ。
「あの人のだんなさん、養殖でもしてるの?」
 こじんまりとしたエントランスにみんなで入っていきながらセレスがケイナに尋ねた。
「彼女に夫はいないよ。亡くなったんだろう」
 ケイナは答えた。
「え? でも、魚がどうとかって……」
 セレスは面喰らった。
「彼女は夢の中に生きてるんだよ」
 アシュアが代わりに答えた。セレスは困惑したような顔をしていたが、それ以上は何も言わなかった。
 エレベーターの前に立つと、ちょうど誰かが上からおりてきたらしく四人の前でドアが開いた。
 出てきたのは真っ黒な長い髪を垂らして鮮やかな手織りのケープをまとった中年の女性だった。少し太り気味の体がエレベーターの入り口を塞いだ。
 彼女はケイナの顔を見てびっくりしたような表情をした。
「あら! 久しぶりね! 休暇?」
 ケイナは彼女を見て少し笑みを浮かべた。
「ちょっと見ないあいだにまた背が伸びたわねえ。それにまた今回はずいぶんと友だちを連れてきたのね!」
 彼女は真っ黒な大きな目を見開いてほかの三人を見回した。そしてセレスの姿を見て大きくうなずいた。
「ああ、それで分かったわ。昨日夢を見たのよ。あんたたちのことだったのね」
 セレスは彼女の黒い目にじっと見つめられて居心地が悪くなり、助けを乞うようにケイナの顔を見た。
 ケイナはそれを無視して女性に言った。
「ジェニファ、あんたの夢は健在だね」
「当たり前よ。まだまだ現役だわ。また意識して見ておいてあげる。休暇はいつまで?」
「五日後には戻るんだ」
「あら、今回は短いのね、分かったわ。何か見えたら知らせに行くわね」
 彼女はそう言ってにっこり笑うとアパートから出て行った。
「ずいぶんとここの人たちと仲がいいんだね。みんながケイナのことを知ってるみたい。 おれんちじゃ、会っても誰も何も言わないよ」
ジェニファの大きな体を見送りながら、セレスは言った。
「おれが『ノマド』と暮らしていたからだろ」
ケイナはためらいがちに答えた。
「『ノマド』? あの人は『ノマド』なの?」
「今は違うよ。」
ケイナは答えた。それ以上説明をするのは面倒臭そうな表情だった。
「このアパートはいろんな理由で『ノマド』の群れからは離れた人間が多いんだよ。入居に面倒な手続きがいらないアパートだし……。 ミセス・シェルは昔群れの中で菓子づくりの名人で、ジェニファは夢見占いの役についていたらしい」
ケイナの代わりにカインが答えた。
「ああ、それでさっきベリーパイがどうとかって……」
 セレスはつぶやいた。そしてケイナを見た。
「『ノマド』で育ったことをあの人たちに言ったの?」
「言わないよ」
 ケイナは苦笑した。
「言わなくても分かるみたいだ。さっきのジェニファは初めておれの顔を見るなりそれと言い当てた」
「ふうん……」
 セレスはジェニファの相手を見透かすような真っ黒な少し魚を思わせるような大きな目を思い出して何となく納得いくような気がした。
「だけど、どこまで信じていいんだか。おれとカインの顔見ても『ノマド』だなんて言ってたからな」
 アシュアが肩をすくめた。
「ぼくらもいろんな意味で一般の地球人からは外れた『異端』なんだろ」
 カインは答えた。セレスがカインの顔を見たので、カインはかすかにセレスに笑みを返した。
 そうだ、カインは『アライド』との混血だと言っていたっけ……。セレスは思い出した。
 『ノマド』は言うなれば地球の中の異民族だ。普通の地球人の生活からは外れている。
「アシュアもハーフなの?」
 エレベーターのドアが開いたので、先に立って歩き出すケイナのあとに続きながらセレスはアシュアに尋ねた。
「おれは純血地球人」
 アシュアは肩をすくめた。
「どうせ、変わり者だろうさ」

 ケイナの部屋は殺風景とも思えるほど何もなかった。
 床は人造ではあったがよくできた板張りで、小さなキッチンとクッションが数個置いてあるだけの小さなリビング、そして向こうにはベッドを置くくらいの広さしかないという寝室がひとつだとケイナは言った。
 窓が多く明るいので狭くても閉塞感はない。とはいえセレスの家に比べればまるで人が住んでいるような気配のない部屋だった。
 こんな部屋にケイナは休暇のたびに戻ってきてひとりで過ごしていたのだろうか。セレスは何とも言えない思いで部屋を眺めた。
「おまえの家と比べると空家みたいな気がするだろ?」
 呆然としているセレスにケイナはバッグを床に放り投げながら言った。
 キッチンに行ったケイナをちらりと見てカインが神経質そうに彼のバッグを拾いあげて部屋の壁際まで持っていった。
「ここに来るといつもほっとするぜ。足が伸び伸びのばせるもんなあ!」
 アシュアはどっかり床に腰を降ろすと、大きな伸びをして大の字に寝転んだ。
「おまえはごちゃごちゃいろんなもん持って帰るから部屋が狭くなるんだよ」
 ケイナはミネラルウオーターのボトルを数本ぶら下げて戻って来るとアシュアを見下ろした。
「アシュアは壊れた看板だの、捨ててあった家具だの、すぐにもって帰る癖があるんだ」
 ケイナに渡されたミネラルウォーターをセレスに渡してやりながらカインが言った。
 セレスはあいまいに笑ってそれを受け取った。なんだか変な気分だった。
 カインもアシュアもこれまでの感じと違って見えた。会話も、やっていることも、ごく普通の17歳の少年だ。
 ラインで見ていた彼らはいつもぴりぴりした空気に包まれていて、セレスは知らず知らず彼らのそばにいると緊張したものだ。今の彼らには自分を緊張させるものは何もなかった。カインですら穏やかに笑みを浮かべている。
「ちょっとひと休みしたらメシの買い出しにでも行くか。セレス、おまえ荷物持ちだぜ。ついて来いよ」
 アシュアが水をぐいっとひと飲みして言った。
「買い出し?」
 セレスは面喰らったようにつぶやいた。
「おれのスペシャルメニューを食わせてやるよ」
 アシュアはにいっと笑ってみせた。
「何を買いに行くの」
 セレスは疑わしそうにアシュアを見た。
「何を買いに行くかだって?」
アシュアは信じられないというような顔をした。
「決まってんだろ。今夜のディナーの材料を買いにだよ。エビ、ブロッコリー、コメ、たまねぎ、アスパラガス、それから……」
「そんなのオンラインで配達してもらえばいいじゃないか。配送口、ここにはないの?」
 セレスの言葉に一瞬三人は黙り込み、それからケイナがくすくす笑い始めた。
 アシュアは顔を真っ赤にしてセレスを睨みつけた。
「直接シティに行って自分で選んでくるんだよ! 材料選びの醍醐味をしらねえのか!」
「おやじクサイこと言ってんな……」
 セレスがぽつりとつぶやくと、アシュアはものすごい勢いでセレスに飛び掛かり、その体をはがいじめにした。セレスは抵抗したがアシュアの力にかなうはずもない。
 そのうちふたりとも笑い始めた。
「大騒ぎすんなよ。下の部屋の住人に迷惑だろ。この家そんなに造りが頑強じゃないんだぞ」
 ケイナが苦笑しながら言った。ふたりは笑いで息をきらしながら離れた。
「行くぜ!」
 アシュアは立ち上がった。
「カイン、こいつのお守を頼むぜ」
 アシュアがそう言ってケイナを顎でしゃくってみせると、カインは物静かに笑ってうなずいた。
 ケイナはふん、と鼻を鳴らした。
 ふたりはアパートの下に停めたヴィルに乗り、再び中央塔のほうに向かって飛び立った。
 シティのショッピング街はケイナのアパートから三十分ほども離れていた。
「ケイナはなんであんなに中央から離れた場所にアパートを借りたの?」
 モールの駐車場にヴィルを停めるアシュアにセレスは尋ねた。
「普段いる家じゃないからな。それに『ノマド』占有だし」
 アシュアはこともなげに答えた。
「でも、『中央塔』からヴィルで一時間なんて遠すぎる……」
 セレスはつぶやいた。アシュアはセレスを見下ろした。
「中央からはできるだけ離れてるほうがいいんだよ。 あそこには『ライン』に入ってるような年齢の奴は絶対いないし、あいつらもわざわざ休暇中に一時間もかけてケイナに悪さをしには来ない。自分のことで頭が一杯だからな」
 アシュアはセレスを促して歩き始めながら言葉を続けた。
「あいつが意識して『ノマド』が多いアパートを選んだのかどうかは分からないけれど、あそこは無防備なようで実はたえず住民の目が光ってるんだ。彼らは自分の同胞に敵対しているような人間は絶対に見逃さない。何かあれば住民全部が一致団結してケイナを助けに行くだろうさ」
 セレスは人込みにごったがえす道を歩きながら黙ってアシュアの言葉を聞いていた。
「『ノマド』は人類にとってものすごい脅威だよ。ジェニファやシェルみたいに呪術や職人だけじゃない。中央で働く人間より、はるかに博識で力もある人間が大勢いる。彼らが『ノマド』ではなく反体制派に全員ついたら、今の世の中はごっそりひっくりかえっちまうだろうな」
「アシュアもいろんなことを知ってるんだね」
 セレスは感心したように言った。アシュアは笑ってセレスの頭を軽く殴った。
「も、て何だよ! ま、ほとんどカインの受け売りだけどな。あいつはいろいろ勉強するのが趣味みたいなもんだから、おれの何倍も知識を持ってるぜ」
「ふうん……」
 セレスはカインの理知的な目を思い出して納得した。
 ふたりは『コリュボス』で一番大きなモールに入るとまっすぐに食品の売り場に向かった。セレスにとっては足を踏み入れたことのない場所だ。野菜や肉類の臭いが混ざりあい、フロアは人込みで溢れかえっている。
 すべて家にいても画面を見ながらキイボードを叩くだけで配達をしてもらえるのに、どうしてみんなわざわざこんなところに出向くんだろう、とセレスは不思議でならなかった。
「人間てのは自分の手で買いに行って、モノを手に入れたいって欲求がいつの時代でもあるもんなのさ」
 セレスの心の内を察して、にやりと笑いながらアシュアが言った。
 それにしてもアシュアの買うものは種類が多い。肉やミルクの箱くらいは分かっても、なかにはセレスが見たこともないような野菜までカートの中に収まっていた。
「いったい何をつくるつもり」
 セレスは青いふさのような葉のついた野菜を持ち上げて呆れたように言った。
「旧時代風煮込み料理とでも言っておくよ」
 アシュアはにいっと笑った。
「何日食べ続けても飽きない。なおかつ栄養価が高い、そして太らない」
 セレスは肩をすくめた。アシュアにこんな特技があるとは想像もできなかった。
 そういえば人なつっこい話し方をするので全然気にしていなかったが、アシュアとは言葉を交わしたのは病院にいたときが初めてだ。
 まるでずっと前から一緒にいたような錯角に陥っていた。
 アシュアは不思議な人だ。話していると全然人に警戒心を持たせない。
 『ライン』で遠目に見ていたときは愛想の良さそうな感じはあったが、やはり近づきがたかった。
 今はそれが嘘のようだ。

 ふたりは紙包みふたつぶんの食料を買い込んでモールを出た。
 ヴィルを停めた場所まで歩きながら、セレスは通り過ぎようとした横道の奥にふと目を向け、そこに見覚えのある姿を見つけて思わず立ち止まった。
「どうした」
 アシュアが振り向いた。セレスはアシュアに合図して建物の陰に身を隠した。
 横道は狭い路地になっていて、表通りとはまるで雰囲気の違う建物の薄汚れた壁と散らかったゴミの山が見えた。
「あれ、バッガス・ダンだ」
 セレスは言った。アシュアはセレスの視線の先を目で追い、特徴あるスキンヘッドを見て間違いなく彼だと確信した。
「あんなところで何をしてるんだろう」
 セレスはつぶやいた。
 バッガスはすすけた建物の壁に身を寄せるようにして立っていた。彼の近くにはバッガスより頭ふたつぶんは背の低い小男が立っている。深々と黒い帽子をかぶり、くるぶしまで届くような真っ黒なコートを着ている。
「薬かな……」
「薬?」
 アシュアの声にセレスは思わず彼の顔をみあげた。
「違法薬の密買人だ。どこのやつかはここからじゃわからないな」
 アシュアは鋭い目をして言った。
「バッガスが薬を? あの中に薬が入ってる?」
「たぶんそうだろう」
「空港で暴れた男もあの薬を飲んでたのかな」
「それは分からない」
 アシュアは首を振った。
「違法薬にはいろいろランクがあるんだ。単に地球では認可されてないだけのハーブタイプから、毒性の強い化学薬まで何十種類もあるんだよ。バッガスが何を買ったのかはあの包みの中を直に確かめてみなきゃわかりっこない」
「でも、違法は違法だ。ラインの教官に知られると除名じゃないか」
 アシュアはセレスの顔を見た。
「おいおい何を考えてる? あいつを今からふんじばっておまえの兄貴んとこへでも突き出そうと思ってるのか? 中身が薬でなかったらどうするんだ?」
「あれがユージーに繋がっていないとも限らない」
 その言葉にアシュアの顔が険しくなった。
「だとしてもおまえは余計な手出しをするな。おまえが立ち向かっていける相手じゃない。このことはケイナにも言っちゃだめだ」
「でも……」
 セレスが不満そうに口を開きかけた時、バッガスが男と別れてこちらに歩いてきたので、ふたりは慌てて近くの店に飛び込んだ。バッガスは大通りへ出るとふたりのいる方向とは反対側に歩き始めた。
「アシュア、ほうっておくの? あんたはバッガスが嫌いなんじゃないの。あいつのしっぽを捕まえるのにいい機会じゃないか」
「確かにおれはあいつが嫌いだが、おれは個人的理由でバッガスに喧嘩を売ってるわけじゃない」
「じゃあ、何」
 引き下がらないセレスにアシュアは顔をしかめた。『ライン』の中でアシュアがバッガスに敵対するのは、バッガスの目をできるだけケイナからそらせるためだ。彼のケイナに対する嫌がらせが一番執拗だった。だから『ライン』を離れてしまえばバッガスが何をしようが関係ない。でも、それはセレスには分かるはずもなかった。
「アシュア!」
 どんどん行ってしまうバッガスを見て、セレスがイライラして言った。このままでは見失ってしまう。
「ほっとけ!」
 アシュアは周りを気にしながら小声で怒鳴った。
「今あいつを追っかけることになんか意味はない!」
「あんたがそんな腰抜けだなんて思わなかったよ!」
 セレスはそう吐きすてると、持っていた紙袋をアシュアに乱暴に押し付けた。
「おい……!」
 アシュアはいきなり押し付けられた紙袋を危うく落としそうになりながら歯を剥き出した。
「おれ、行くからな!」
 セレスはアシュアを最後に睨みつけると、店から飛び出した。
「セレス! 待て!」
 アシュアは怒鳴ったが、セレスはすでにバッガスのあとを追って走り出していた。
「くそったれ……!」
 アシュアは紙袋を握りしめた。中身が跳ね飛んで床に落ちた。

 カインは読んでいた本を置いて座り込んでいた床から立ち上がった。
 ケイナも1時間前まではクッションを枕にして寝転がって本を読んでいたが、今はその本を顔の上に被せて心地良さそうな寝息をたてている。
「遅いな……」
 窓辺に寄って外を確かめるとカインはつぶやいた。
 アシュアとセレスが出ていってからすでに2時間以上過ぎている。たかが食料の買い出しに行くにしては時間がかかり過ぎていた。だが、彼の目には警報めいたものは何も見えていなかった。
「子供じゃないんだから大丈夫だよ」
 カインのつぶやきを聞いたのか、背後で眠っていたケイナが起き上がって言った。。
 ケイナは本を脇にどかせると大きなあくびをした。
「あれだけ病院で寝てばかりいたのに、まだ眠い……」
 ケイナは長い足を折って膝に額を押しつけた。
「体力が少し落ちてるんだよ。あいつらが帰ってくるまでベッドで寝てるといい」
 カインは再び腰を下し、本に目を落としながら言った。しかしケイナは首を振った。
「寝るより食うほうが先だ……。 このまんまじゃ餓死しちまう。あの野郎デカイ口たたいてほんとにメシ作る気あるんかな……」
「もう少し待って戻って来なかったら何か買いに行こう」
 カインは苦笑した。
 ケイナは髪をかきあげて伸びをするとミネラルウオーターを取りにキッチンに行った。
「おまえのボスは今回のことをなんと言ってた?」
 戻ってきてボトルに口をつけて水をひとくち飲んでからケイナはカインに言った。カインは目をあげた。
 ケイナはカインに目を向けずに床に座り込んで片膝をたてるとその上に顎を乗せた。
「セレスのことを報告しなきゃならなかった。すまない、ケイナ」
 カインは目を伏せて答えた。ケイナは何も言わなかった。
「セレスの報告書をボスに提出してきた。そのリアクションは聞きたくなかったから、こっちにすぐ逃げ帰ってきた」
 それを聞いてケイナはくすくす笑った。カインも笑った。
「あいつのことは言わないでいてくれって言っておきながら、自分からそうしなきゃならないようにしてしまった……」
 ケイナはぼんやりと片手に持ったミネラルウオーターを眺めながら言った。
「おかげでこっちは仕事が増えた。これからは彼の報告書も定期的に作らなければいけない」
 カインは肩をすくめた。そして付け加えた。
「改ざんつきでね」
 ケイナはボトルの口を持って窓のほうに向かってそれをかかげ、光を透明なボトルに透かして眺めた。カインは子供じみた彼の行動を黙って見つめた。
「研究所がおれに抑制装置をつけに来ないで病院での治療経過だけを求めたから、セレスのことが研究対象に組み込まれたことは分かってた」
 ケイナはちらちらと七色に変わる光を見ながら言った。カインは本を閉じた。
「だけどあいつには指一本触れさせないからな」
 カインはふいに目の前を不穏な霧が漂うのを感じた。ケイナの姿が捕らえにくくなった。
「きみがはむかえる相手じゃないよ。ぼくらはできる限りのことをするし、彼を守る。 ……だけど、正直言ってせいぜい彼に関する情報を希薄にする程度なんだ。そのうちあっちが本格的に動き始めたらもう手出しはできない」
 カインは不安を感じながら言った。霧の向こうに血なまぐさい臭いがする。
 それがどうか未熟な能力のせいであって欲しいと願った。
 ケイナはとん! と音をたてて瓶を床に置いた。音とともにカインの目の前の霧が晴れた。
「おまえはいったい何の組織の人間なんだ? カイン・リィ。アシュアもおまえもいったい何に所属してるんだ?」
 カインは膝に顎を乗せたまま自分を見つめるケイナを見た。光の落ちた彼の姿はぞっとするほど美しく妖艶にさえ思えた。カインは思わず彼から目をそらせた。忌まわしい事件の記憶が頭をよぎる。
 こんな容姿を持ち合わせたことはケイナの責任ではない。
 しかし、もっと違う形に生まれていれば彼の人生は変わったかもしれないし、今自分と彼がたったふたりきりでいることの危うさを感じて自己嫌悪に陥ることもあるまいに、と思った。
「ぼくらのことは何も話せない」
 カインは膝の上の本の表紙を指でなぞりながら答えた。
 物理学の難解な学術書だ。こんな本を読んでどうなるものでもないのに、ヒマさえあれば手当たり次第にライブラリから本を借り漁っている自分が滑稽だった。
「きみにぼくらがガードしていることを悟られてしまっただけでも懲罰ものなんだ。ましてや組織のことまで知られたらどうなるか」
 カインはそう言ってケイナを見た。
「それに、半分分かっていてぼくに直接口を割らせようとするなんて、きみはタチが悪過ぎるな」
 ケイナはくくっと笑った。
「中央がらみだってことぐらいしかわからねえよ」
「だったらそこまでにしておけよ」
 カインは言った。
「ぼくらも本当のことはよく知らないんだ」
 そしてカインはメガネを取って床に置いた。
「きみが18歳で拘束されなきゃならないことも知らせてもらっていなかった。ぼくらはただ、きみが無事に『ライン』で過ごせるように護衛するだけの任務なんだ」
「(その日)が来たら、お別れってことか……」
 ケイナはつぶやいた。カインは口をつぐんだ。
 そのことは考えたくなかった。
 次の瞬間、いきなり至近距離に気配を感じてカインはぎょっとして目をあげた。
 ケイナが自分の顔を覗き込んでいた。
「おまえは味方か? 敵か? おれがおまえのボスに相反したら、おまえはおれを撃つか? 殺すか?」
「ケイナ……」
 カインは面喰らった。ケイナの目は自分を見つめているのに、全く焦点が合っていない。
 いつもそうだ。まるで相手の頭の中を見つめているような目だ。
 カインはこの目が怖かった。予知する自分の目よりもはるかに先を見据える目のようで身震いがするのだ。
 そしてこの目をする人間がもうひとりいる。
 セレスだ。
「ぼくは……」
 カインは喉元を締め付けられるような感覚を憶えながら言った。
「ボスを裏切るより、きみを敵に回すほうが怖い」
 ケイナはそれを聞くと、ついと顔をそらせてカインの横に座った。
「よかった」
 ケイナは言った。
「おれもおまえと敵対したくない」
 カインは何事もなかったかのような顔でミネラルウオーターを飲むケイナを見てほっと息を吐いた。このまま真正面から見ていられたら卒倒してしまいそうだ。
「あいつにだけはカンパニーには手を出して欲しくないんだ」
 ケイナはつぶやいた。
「おれと出会ったために、あいつまで巻き込むのは厭だ」
 カインは心の隅で小さな火がくすぶるのを感じていた。ケイナがセレスのことを気にするといつもその火を意識する。
「きみは……」
 カインは床に置いたメガネを見つめて言った。
「きみは自分のことは諦めたと言うのに、セレスのことは諦められないんだな」
 ケイナは何も言わなかった。
「巻き込むのが厭なら、どうして彼を遠ざけない?」
 カインは言い募る自分に不快感を覚えていた。
 ケイナはやはり答えなかった。
 セレスはバッガスに気づかれないように細心の注意を払いながら彼の後ろにくっついていった。
 バッガスは途中何度も立ち止まり、店のショーウインドウを眺めたり知らない少女に声をかけてからかったりしていた。
 いったい彼は何をしているのだろう。
 何回か腕の時計を気にしているところを見ると誰かと待ち合わせているのかもしれなかった。
 バッガスが数件先の店先で立ち止まったので、セレスは慌てて手前の角で身をかくした。
 しばらくバッガスの様子を見ていたが、ふいに殺気めいた気配を背後に感じてセレスは反射的に身を縮め、同時に振り返った。
「へえ……」
 セレスはそこに立っていた影を見た。
「新人にして身のこなしが軽いな……」
 体中にどっと汗が吹き出した。数人の少年たちがセレスを見下ろして立っていた。
「なんでバッガスをつける?」
「別につけてなんかいない」
 セレスは口がからからに乾くのを感じた。私服だが彼らは『ライン』の生徒だ。 自分のことを新人だと知っているからだ。だが、彼らの顔には見覚えがなかった。
「何かつけなきゃならない理由でも?」
 顔中にきび跡だらけの少年が言った。
「何かって…… なんだよ……」
 セレスは身構えた。
「それはこっちが聞いてる。意味もなくバッガスのあとをつけるわけがないだろ?」
 少年は不審そうに目を細めた。
「探偵ごっこなんかやめて子供は早く家に帰んな」
 別の少年が言うやいなや、あっという間にセレスは建物の陰に引きずりこまれていた。
「離せ……!」
 抵抗したが相手は三人もいた。体の大きさがあまりにも違い過ぎる。誰かが後ろからセレスの脇に腕を差し入れ、両腕をはがいじめにした。そして、にきび面の少年が腕をセレスの首に押しつけた。
「なあ、おれたちは優しい上級生なんだぜ。だから、ちゃあんとお土産を持たせてあげるんだ」
 そして彼はセレスのみぞおちを思いきり殴った。息が詰まり、目が飛び出すのではないかと思った。
 腕をはがいじめにされながら体をくの字に折り曲げて苦しむセレスの髪をつかんで彼はセレスの顔を引き上げた。
「かわいい顔してるじゃねえか。ケイナほどじゃねえけどよ」
 にきびの少年のうしろにいた奴が言ったが、焦点がぼけてセレスには顔がよく見えなかった。
「おまえもおもちゃになるか? あいつみたいに。殴られるのと抱かれるのとどっちがいい?」
「なに……?」
 髪がざわっと逆立つ気がした。こいつらもしかして……。
『そんなはずない…… ケイナを襲った奴は除名されたってカインが……』
「バカなこと言ってんじゃねえよ。ユージーに知れたらぶっ殺されるぞ」
 にきびの少年が思わず声を潜めて言った。
「おまえら……! おまえら! ケイナを……!」
 セレスは腕をふりほどこうともがいた。
「黙ってろ!」
 セレスは顎を掴まれた。
「あいつはおれたちの仲間を半殺しの目に合わせたんだぞ。仲間がそんな目にあったらどんな気持ちか教えてやろうじゃないか」
 再びこぶしが振り上げられた。セレスは思わず目を閉じた。
 しかし、こぶしは飛んで来ない。
 目をあけると、さっきまで目の前に立っていたにきび顔がいなかった。そしてその後ろに立っていた少年もいなかった。
 何があったのかと考える間もなく、いきなり腕の枷が外れてセレスは地面に崩れた。そこでようやく彼らがだらしなく地面に転がっている姿に気づいた。
「セレス! 立て!」
 乱暴に腕を掴まれて誰かが怒鳴った。
「アシュア?」
 セレスはびっくりして腕を掴んだ相手を見た。
「あっちにヴィルを停めてる! 逃げるぞ!」
 セレスが何か言おうとするヒマも与えず、アシュアはセレスをひきずるようにしてバッガスがいる通りと平行している建物の反対側の通りに走った。
 ヴィルのそばに来てようやくアシュアはセレスの腕を放した。
 セレスはごほごほとむせんだ。殴られた胃の上がまだ重苦しかった。
 行き交う人が怪訝そうにふたりを見ていったが足を止めることはなかった。
「無茶しやがって……」
 アシュアはエンジンをかけながらつぶやいた。
「おまえが顔に痣なんか作って帰ってみろ。ケイナにぶっ殺されるぜ」
「あんた強いね、アシュア……」
 セレスは胃のあたりを押さえながら言った。
「あいつらなんであんなにあっさりのびちまったんだ?」
「『ライン』のガキを失神させるなんざ、数秒ありゃ充分だ」
 アシュアは仏頂面で言った。
「自分だって『ライン』のガキじゃんか」
 セレスはくすくす笑った。
「乗れ! このクソガキ!」
 アシュアは怒鳴った。セレスはアシュアの剣幕に笑みを引っ込め、それに従った。
ヴィルが上昇してからセレスはためらいがちに言った。
「アシュア、ごめん。ありがとう」
 アシュアはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「おまえにはあいつらを相手にするのはまだ無理だ。ケイナのそばにいたいんだったら、もっと強くなってくれなくちゃ困る」
「わかってる……」
 セレスは素直に答えた。
 本当にそうだった。腕も足も力が弱い。
 あんなふうに三人にかかられて、自分の身を守ることもできなかった。
 悔しいけれど、アシュアとカインは自分の身は自分で守れるという事実から目をそらせなかった。こんなことでケイナのそばにいても彼のあしでまといになるだけだ。
 そしてあいつらがケイナをまた襲うかもしれないということもまた事実だった。
「アシュア……」
「なんだよ」
 アシュアはぶっきらぼうに答えた。
「あいつらまだいる…… ケイナを襲った奴等、まだ『ライン』にいるんだ」
 アシュアは黙っていた。
 背中しか見えないので、彼がどんな表情をしているのかセレスには分からなかった。
「分かってるよ」
 アシュアはしばらくして答えた。
「分かってるけど、除名された奴等以外は証拠がないんだ。たぶん途中で部屋を抜けてったんだろう」
 セレスは唇を噛んだ。
「ケイナには言うなよ」
 アシュアは言った。
「あいつは全員除名になったと思ってる。それからバッガスが薬を買ってたってことも言うな」
 ほんとにケイナは知らないのかな……。あれだけ勘のいいケイナが……。
 セレスは思ったが、口には出さなかった。

「おれは今腹が減って最高に機嫌が悪いからな」
 ようやくアパートに戻ってきたアシュアとセレスの顔を見るなりケイナは言った。
「すぐに口から溢れ出るくらい食わせてやるよ」
 アシュアはそう答えると包みを持ってキッチンにそそくさと入っていった。その後ろをカインはついていき、慌ただしく動くアシュアに声をひそめて言った。
「何があったんだ?」
「おれがいたから警報は見えなかっただろ」
 アシュアは答えた。
「何があったか言え」
 小声で詰め寄るカインにアシュアは包みの中から肉や野菜を取り出して並べながら顔をしかめた。
「あの坊やがバッガスにちょっかいを出したから、取り巻き連中にとっつかまったんだよ」
 カインは呆れたように首を振った。
「それはたいしたことじゃないんだが。二年前の残派が残ってることをあいつ、知ってしまった。どうやらテレンスとクラバスだったらしい。マッドもいたな」
 やっかいなことにならなければいいが……。カインはため息をついた。
 もっと自分の能力があればこういうとき予知ができるはずなのに。分かっていれば行かせなかった。そう思うとカインは悔しかった。
 リビングではケイナがミネラルウオーターのボトルをセレスに渡していた。
「だいぶん前に出したから冷えてないぜ」
「いいよ」
 セレスは一気に飲み干した。咽はからからに乾いていた。
「アシュアは人間のいろんな部分の弱点を知っているんだ。たいしたもんだろ?」
「え?」
 ケイナがいきなり言ったので、セレスは面喰らった。
「アシュアの顔見りゃわかるよ。あいつバッガスが嫌いなんだ。バッガスの顔を見たら数時間は苦虫かみつぶしたような顔してる」
「そんな感じじゃなかったよ」
 セレスはそう言ってしまってからしまったと思った。ケイナにはめられたのだ。
「あいつらに自分から構うな。おまえにはまだ無理だ」
 ケイナはにやにや笑って言った。セレスはむくれてミネラルウオーターのボトルを床に置いた。
「アシュアにも同じことを言われた……」
 セレスは口を歪めた。
「もっと早く強くなりたい」
「半年くらいたちゃどうにかなってるさ」
 ケイナはごろんと横になって言った。
「教科講議はいいとして、ブロード教官のしごきにめげず、おれのRPにめげず、 三ヶ月後の進級査定でせめてランク五位くらいには入れば」
 ケイナは指を折りながら歌うように言った。セレスは大きな息をついて首を振った。
 そんなセレスを見て、ケイナは身を起こした。
「セレス、おれは三ヶ月後にはもうあの部屋にはいないぞ」
 その言葉にセレスははっとした。
「ルームリーダーの期限が切れる。おまえがあがってこないと接点はない」
「……」
 セレスは鋭い目で自分を見つめるケイナを凝視した。
「三ヶ月後の進級査定でランク五位以内に入れば、その二ヶ月後に飛び級試験を受けることができる。そこでハイラインに入らなければ一年待つはめになる」
「無理だ、そんなの……」
 セレスはかすれた声で言った。
「おまえの兄さんはそれをやってのけてるよ」
 ケイナは言ったがセレスは戸惑ったように目を伏せた。
 兄さんとおれは違う……。
「おまえのためでもあるんだぞ。おまえはバッガスたちに接近し過ぎた。あいつらはおまえがおれのほうについた人間だと思っているはずだ。この休暇が終わったら、おまえもアシュアやカインと同じように反目を引き受けることになる」
 セレスはキッチンのほうをちらりと見た。
 彼らは自分で自分の身を守ることができる。でも、おれは……。
 セレスはこぶしを握り締めた。
「待ってやりたいけど、おれには時間がない。『ライン』を出てしまったらおまえとは二度と会うことはなくなる」
「どういうこと……?」
 セレスは目を丸くした。
「ラインを修了したらどこかに行くの?」
 ケイナがしばらくためらって口を開こうとしたとき、キッチンからアシュアが出てきた。
「悪いニュースだ」
 アシュアは顔をしかめて言った。
「ナイフを持ってくるのを忘れた」
 ケイナとセレスはアシュアを見上げた。
「ナイフって…… 料理の? ここにはナイフがないの?」
 セレスは呆気にとられた。
「こいつは自炊なんか一切しないから鍋もナイフもないんだよ。前の時はおれんちから持ってきてた。今回はちょっと、その…… ごたごたしてたから……」
 アシュアは頭を掻いて言った。ケイナはくすくす笑い始めた。
「ファストフードを注文したよ。何もないよりましだろう」
 カインがアシュアの後ろから言った。ケイナはさらに大声で笑い始めた。
 やがて伝染したように全員が笑い始めた。
「すばらしい晩さん会だ!」
 ケイナはそばにあったクッションを放り投げた。そんなケイナを見るのは全員が初めてだった。

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