トウ・リィは小さなディスクをデスクにコトリと置いて、指先でつい、とふたりのほうに滑らせた。
 いつ見ても艶やかで、真っ白い指先に見事なまでの赤いしずくが形作られている。
 この長い爪にはいったいどれだけの時間がかけられているのだろう。
「これが彼に関するデータ。たいした情報が入っているわけでもないけど、あとで見ておいて」
 トウは爪の赤さに負けないくらいの赤い唇に優し気な笑みを浮かべて目の前に立っている カイン・リィとアシュア・セスを見た。
 カインはふっくらとしたトウの唇にちらりと一瞥をくれたあと、わずか3センチ四方の 鈍い銀色の光を放つディスクをつまんで持ち上げた。
 視線を横に向けると、たぶん自分と同じ表情であろうアシュアが訝し気にディスクを見つめていた。
 トウがこんなふうに優しい声を出すときは、決まって厄介なことであるに違いない。
 あまり関わりたくない、というのがふたりの本音だった。
 トウは華奢な彼女の体をすっぽり包む豪華な椅子の背に身をもたせかけ、コツコツと手に持ったペンの先でデスクを突いていた。その音は妙に神経をイラつかせるものだった。
 カインは口を開くために小さく息を吸い込み、そして吐いた。
 次の呼吸でメガネを眉間で押さえ、そして思いきってトウの顔を真正面から見据えた。
「中央塔の『ライン』だときちんとした管理下にあるでしょう。ぼくらが行く必要は……」
 いきなりカインの額にトウの持っていたペンが飛んだ。
 それはカインのメガネをはね飛ばし、彼は思わず額を押さえた。
 横に立っていたアシュアは直立不動の姿勢のまま、額に垂れかかった赤い髪の奥で目だけをカインに向けてかすかに顔をしかめた。
「『ライン』だから、でしょ。」
 トウは相変わらず笑みをたたえたまま言った。
「………」
 カインは黙って身をかがめるとメガネを拾ってかけなおした。
「いい加減、もうメガネなんて止めたら」
 その姿を見て言うトウの声にかすかに怒気が含まれている。
 口答えなど許さない、と優し気なほほえみの中で目だけがふたりを睨み据えている。
「これが気に入ってるからいいんです」
 カインは仏頂面で答えた。
「ペンをぶつけられたくらいじゃ割れませんから」
―― もうやめとけ ――
 アシュアは心の中でつぶやいた。 次は目ン玉にペンが突き刺さるぞ。
 トウはうっとうしそうにカインを睨んだあと、デスクの上のキーボードを指で押した。
「『ライン』に行くなんて…… なのよね、ほんとは……」
 ほとんど聞き取れないほどの小さな声で呟くと、彼女は立ち上がってふたりの背後に歩いていった。
 モニターが天井からおりてくる音がする。
 振り向くのをやめたいと思いつつ、ふたりは口を引き結んだまま緩慢な動作でモニターを振り返った。
「これが彼の映像。半年前のものだから、今はもう少し背が伸びているかもしれないわね」
 子供たちが走り回る姿が映っている。奥のほうに映っている白い建物はきっと校舎だろう。
 どこにでもある『ジュニア・スクール』の光景だった。
 砂埃のあがらない赤い床材を敷き詰められたグラウンド。
 早く育つよう必死の努力で植えられた貧相な常緑樹。 小さなベンチ。
 子供たちは思い思いに遊びに興じている。察するに休み時間か。
 カインとアシュアにとっては無縁の世界だった。
 やがて映像は子供たちの間を抜け、しだいにひとりの少年に向けてズームアップしていった。
 一体誰がこんな映像を撮ったのだろう。
 飛行型のマイクロカメラにしても画質が相当良いものだった。
 しかし、ズームアップされている少年は後ろ向きで、金色の髪と細みの体しか分からない。
 たかがこんな子供ひとりを写すために大掛かりなことだ、とカインは思った。
「あなたたちは一応『ライン』の訓練生として所属するけれど、所長には含みをしているから彼と離れないようにカリキュラムを組むと思うわ。ほかの教官には何も説明されてない」
 腕組みをして画面を見つめるトウの指が二の腕でピアノを弾くように動いている。
 彼の上半身が画面一杯になったとき、やっと彼が振り向いた。
 その顔を見たとたん、隣のアシュアがかすかに息を飲むのがカインには分かった。
「ケイナ・カート、14歳。彼はカート司令官の息子なの。兄も在籍しているけれどそちらは問題ない。カートはうちの『ビート』のような部隊は持たないから依頼が来たってわけ。頼むわよ。大事な体なんだから」
 トウは言った。
(大事な体……?)
 トウの言葉にひっかかりを感じながらカインは横のアシュアが嘆息するのを感じた。
「こりゃあ……」
 アシュアは小さな声を漏らす。
 分かってる。 アシュアが言いたいことは分かってる。
 自分もモニターから目が離せなかった。
 手にじっとりと汗がにじむ。
 こんな…… こんな恐ろしい目の人間がいるなんて……
 彼の濃い青の瞳は相手の何もかもを見透かしてしまいそうなほど深遠で、怒りと悲しみに満ちていた。


 トウに渡されたディスクにはケイナについて本当にろくな情報が入っていなかった。
 ケイナ・カート、14歳。
 人工衛星『コリュボス』の軍司令官のレジー・カートの次男。
 カートといえば、代々軍関連のトップを輩出している名門で、巨大企業のひとつだ。
 金色の髪に藍色の瞳。身長はさほど高いほうではない。細みでひょろりと背の高いカインや、がっしりした体格のアシュアに比べれば小柄とさえ思える。
 彼は幼いときにカート家の養子になっているから、司令官と血の繋がりはない。
 レジー・カートにはユージー・カートという実の息子がいて、彼はケイナより2歳年上で同じ『ライン』に入っている。
 ケイナが普通と違うのは運動神経が人より並外れて優れていることと、平均以上に知能指数が高いこと、何よりも病気遺伝子を一切持っていないことだった。
 申し分ない容姿に恵まれた才能、健全な遺伝子。
 だから、彼は『ライン』を卒業したら遺伝子検査を定期的に受ける。
 平たく言えば単にボディガードになるわけだが、彼の映像を見たときの衝撃さえなければ、たかがひとりの少年が『ライン』を無事終えるまでガードするなどたいしたことはないと思えた。
「ま、所詮4年間くらいのことだ。すぐに終わるさ。子供のお遊びみたいな『ライン』の生活が退屈なくらいのもんだよ」
 アシュアは笑ったし、カインもそれには同意した。
 壊れやすいガラス細工でもあるまい。多少人とは違っていても普通の少年が誰もが過ごす普通の生活をして、転んですりむく程度の怪我はあるにせよ、再起不能な大怪我や命の危険があるようなことが起こる確率がいったい何パーセントだというのだ。

 しかし、彼のそばに来てふたりは面食らった。
 渡されたデータには彼が周囲から反目を浴びていることなど何も記されていなかった。
 びっくりするほど敵だらけだ。
 目立つ容姿なのでちょっかいをかけられることも多ければ、意味もなくからんでくる奴も多かった。
 察するに『どうも虫が好かない奴』という類いにケイナはひっかかるようなのだが、トレーニング中に組んだ相手に故意に怪我をさせられる、講議のテキストを破られる、そんなものはまだかわいいもので、ケイナと目が合っただけで何かと理由をつけてはケンカをふっかける輩もいてとにかく目が離せない。こういうことをちゃんとデータに入れとけよ、とカインは何度も心の中で毒づいた。
 多くは兄のユージー・カートの傍にいる奴だったから、当然のようにユージーがけしかけているのだという噂がたっていた。
 だがふたりはユージーが実際にケイナに手を出したところは目にしていないし、疎んじたりするようなことを言ったという事実も得られなかった。
 ユージー・カートはケイナに比べて目立つタイプではないが、彼も『ライン』の中では上位に入る優秀な訓練生だ。
 真っ黒な髪に黒い瞳、体つきはほっそりとしているが引き締まった口元は理性と知性を感じさせる。
 父親のレジー・カートは陽気な顔立ちだったから、ユージーは母親似なのだろう。
 カインが調べた限りおよそ感情に支配されるようなタイプにはとても思えなかった。
 むしろ人より遙かに冷静で客観的に物事を判断する性格かもしれない。
 それにわざわざエリートコースの『ライン』に入って、たかが喧嘩ごときで反省室送りになったり、レジー・カートの息子にちょっかいをかけて除名処分になることが割に合わないことくらい誰だってわかる。
 もちろんそれがカート司令官の実子の命令でやったことなら担保はあるわけだが、そもそも媚びでケイナに嫌がらせをするにしてもユージーがそんなことを容認するようには思えない。
 彼がケイナを疎んじるような行為をしてそれが父親の耳に入ったら、彼にとっても何の得にもならないのだ。
 根本的に理解不能な状態だった。
「それにケイナにゃ直接的も精神的にも圧力かかんねえだろ?」
 アシュアは首を傾げる。
 確かにそうだ。
 講義のテキストを破られるなどという子供じみたいな悪戯は補充をすれば済むことだし、そもそもケイナは相手にしない。
 故意の事故も研ぎ荒まれた感覚が最小限に回避する。
 多少の傷はケイナにとってはぺろりと舐めて放っておくような擦り傷程度の感覚だったようだ。
 ケイナ自身の興味は『ライン』でのカリキュラムを確実にこなしていくことのみで、それ以外は関わることすらが面倒なようだった。

 だがタイミングが悪い時にちょっかいをかけられると同じようにはならなかった。
 集中力がすさまじいケイナは気持ちの切り替えもスムーズにはできない。
 射撃の訓練の直後にケンカをふっかけられようものなら訓練の時の緊張感そのままで相手にかかっていってしまうのでカインとアシュアは慌ててケイナを止めに入った。
 その度を越している危うさの部分はふたりがもっとも緊張を強いられる部分でもあった。
 こうなることは周囲はわかっているだろうになんでちょっかいをかけるんだ、と憤りながらも、何度かカインもアシュアも自分たちが普通のライン生ではないという能力全開で阻止しなければならなかった。
 大きな事件にでもなったりしたらトウに睨まれるだけではなくレジー・カートの怒りもかいそうだ。
 結局ふたりは自分たちの任務はそこなのか、と考えたりする。
 ケイナを守ることではなく、ケイナから周囲を守ることなのではないかと。