Toy Child -May This Voice Reach You-

 自分のブースでバックを開けて身の回りのものを取り出し衣類をクローゼットに入れ、こまごましたものを片づけ終わったあとバックを閉めようとして、セレスはふと両親の写真と父親のブレスレットのことを思い出した。
 なくすといけないので、家に置いていこうかと考えたのだが、思い直してバックに入れたものだ。
 しばらくそれを見つめたのち、セレスはそれをデスクの抽き出しに入れた。
「あんた、ハーフ?」
 いきなり背後で声がしたので、セレスはびっくりして振り向いた。
 ジュディがブースの外に立っていた。
「アライドとのハーフ? それとも突然変異?」
 彼は両手をポケットにつっこみ、顔を斜めにかしげてこちらに顔を向けていた。目だけを動かしてじろじろとセレスの頭の先から足までを眺めている。
「違うよ。昔はよく言われたけど」
 セレスはバックを閉めながら答えた。
「でも、髪と目が緑色だ」
「違うんだからしようがないだろ」
 セレスはバックをクローゼットに放り込み、バタンと扉を閉めた。
「遺伝子検査した?」
 セレスは少しむかっとして少年を見た。高飛車な彼の物言いは神経を逆撫でするものだった。彼の背後でトニが心配そうな顔をこちらに向けている。
「してないなら別にいいよ。聞きたかっただけだ」
 彼はそう言うとさっさと自分のブースに戻っていった。
 向かいのトニに目をやると、トニはセレスに大袈裟に首を振って顔をしかめてみせた。
 なんだか妙なやつと一緒になっちゃったよな、と言いたげだ。
 部屋の扉が開く気配がしたのはそのすぐあとだった。ルームリーダーが来たらしい。
 セレスとトニは顔を見合わせ、ブースから出て同時に「あっ」と小さく声をあげた。
「新入生、こっちに集合」
 目の前を通っていったのはまぎれもないケイナ・カートだったのだ。
(まさか…… 彼がルーム・リーダー?)
 セレスは心臓が飛び出すのではないかと思うほど激しく動悸をうつのを感じた。
 こんなに早く会えるとは思ってもみなかった。
「聞こえないのか!」
 呆然としているセレスとトニを見てケイナは怒鳴った。
 ジュディはすでにケイナのいる共用スペースに立っている。
 ふたりは慌ててブースを飛び出した。
「座っていいから」
 ふたりをじろりと睨んだあと、ケイナは三人に椅子を顎で示した。 震えあがりそうなくらい怖い目だ。
 彼はそれぞれに分厚いファイルを手渡すと自分も椅子に腰かけて長い足を組んだ。
 こんなくだらないことは早く終わらせたい、と言わんばかりの渋面をしている。
「今日から半年間、きみたちのお守をさせてもらうことになった。名前はケイナ・カート、四回生だ。そのファイルはきみたちそれぞれのこれからのカリキュラムと全体の規則が入っている。あとでゆっくり読んでおくように」
 ケイナは口早にそう言って自分のファイルをめくり始めた。 ページをめくるなにげないしぐさがぞっとするほど優雅だ。 ラフな専用のトレーニングウェアを着ていなければ、やっぱり誰も軍科志望などとは思うまい。
「この部屋は軍科生がふたり、情報科がひとりになっている。トニ・メニは…… きみか。 あとのふたりは軍科だな」
 セレスはジュディが軍科だと聞いてびっくりした。てっきり情報科だと思っていたのだ。
 トニも同じことを考えたらしい。思いがけないといった顔でジュディを見ていた。
「あとで見れば分かると思うけれど、カリキュラムの中のRPという項目は ルームリーダーによる補充カリキュラムだから、セレス・クレイとジュディ・ファントは おれの担当になる。トニ・メニはそのファイルに書いてあるから確認しておけ」
 ケイナはファイルからほとんど目をあげない。
 各共同の部屋のことや、風紀に関する規則、こまごました生活の規則を淡々と事務的に話した。
「今日は入所式が終わったらあとはフリータイムだそうだ。こういう日は明日以降ほとんどないから、有意義に使っておくんだな」
 ケイナは最後にそう言うとぱたんとファイルを閉じた。
「質問は?」
 初めて彼は三人の顔を見回した。
 セレスは自分の顔を見ても何の反応もないケイナにがっかりしていた。
 覚えていてくれていることを期待していた。会えば「よく来たな」くらい言ってもらえるかもと思っていたのだ。
 数カ月も前のほんの数時間一緒にいただけのことだから彼は忘れているのかもしれない。
 でもあんなにすごい力で腕を掴んだのに……。
 「忘れるな」と言ったのは彼だったのに……。
「何にもないなら最後に言っておくが、基本的におれはきみたちの普段の行動については何も干渉しない。おれも干渉されたくない。何か分からないことがあればいつでも聞いてきてもらってかまわないが、できるだけ個人の行動は個人で規範を持ってやってくれ。他人のカリキュラムに影響を及ぼすようなことがあれば容赦しないからな。 二、三発ぶんなぐられる以上のことを覚悟しておけよ」
 何がおかしかったのかジュディがかすかに笑みを漏らしたが、ケイナはそれを無視した。
 そしてさっさと立ち上がると部屋を出ていってしまった。
 三人は座ったまま黙ってケイナを見送るしかなかった。
「びっくりした……」
 トニはほっと息をついてつぶやいた。
「しょっぱなからケイナ・カートの部屋になるなんて思いもしなかった」
 まったくだ、とセレスも思った。
 しかし、ジュディはかすかに顔をしかめていた。
「あれがケイナ・カート? もう少しできそうな人かと思ったよ」
「彼は『ライン』で優秀だよ」
 トニが言うとジュディはかすかに笑った。
「だといいけどね」
 そう言うと自分のブースに戻っていった。
「なんか、いやなやつ」
 トニは小さな声で毒づいた。そしてセレスを見た。
「ケイナはきみのことを忘れてるみたいだね。見学会で担当だったはずだろ?」
「きみは彼のこと、よく知っているの?」
 セレスはトニに尋ねた。トニはちょっと目を伏せた。
「うん…… まあね。『ジュニア・スクール』で一緒だったから」
「そう……」
 ケイナは『ジュニア・スクール』時代いったいどんな生徒だったのだろう。
 あの時の約束を本当に忘れてしまっているのだろうか。
 必ず来い、と言っていたのに。だから頑張れたのに。
 セレスは口を引き結んだ。

 翌日からケイナの言ったとおり、初日のフリータイムが天国だったと思えるような日々が始まった。
 起床は5時。6時までに朝食を終え、午前中一杯は講議、午後はトレーニング、夜は講議のまとめ、就寝はいつも日付けが変わった。
 前日の講議は翌日必ずテストされ、それに合格しないと次に進めない。
 14歳の少年たちにとっては苛酷ともいえるスケジュールだった。
 ケイナはいつもまっさきに部屋を出て夕食を終えるまでは戻って来なかった。
 夕食のあとはブースにこもりっきりで机に向かったあと、10時くらいに再び部屋を出て、次に戻ってくるのは日付けが変わっていた。何かあれば聞いてきてもいいと言っていたが、とても声をかけられる雰囲気ではない。
 そんな中でなぜかジュディだけは平気でケイナに質問を浴びせた。
 聞いていることはいつもくだらないことばかりだ。
 個人通信はどこでやるのかとか、食事の時間にどうしても遅れる場合はどこでとればいいのかとか、セレスやトニに聞いてもこと足りるようなことをいちいちケイナに聞きに行く。
 いつかケイナが怒り出すんじゃないかとセレスとトニはハラハラしたが、不思議なほど彼は冷静に答えてやっていた。それを見る限りでは彼はそんなに人に対して邪険な態度を取るわけではないように思えた。
 もっとも、返事自体はかなりぶっきらぼうだったけれど。
 その日もジュディは待ち構えたように夕方ケイナが部屋に入ってくるなりケイナに自分の図書貸し出しカードがうまくコンピューターに入らないと言い出した。
「そんなもん、ライブラリの係員に言え」
 ケイナがそう言ったので、セレスとトニは心の中で拍手をした。
「でも、係の人がいないんです。ぼく、明日までにレポート書かなくちゃならなくて」
 ジュディは細かいことをケイナに言って、彼を試しているようでもあった。
「どこの文献がいるんだ」
 ケイナが自分の書架に手を伸ばした時、ふいに外の廊下でものすごい音がした。
 何かがぶつかって割れるような音だ。
 トニとセレスはブースの中から思わず互いの顔を見合わせた。
 ジュディも扉のほうを見ていたが、ケイナは全く動じていない。
「おい、なんの文献だって聞いてんだよ!」
 あわててジュディが答えようとすると、ケイナのデスクの通信用モニターがけたたましく鳴った。
 何を話しているのか聞こえなかったが、ケイナは苛立った足音を残してブースを飛び出すと部屋を出ていった。
 次の瞬間、申し合わせたようにセレスとトニは部屋のドアに突進していた。
 そんなふたりをジュディはしらけた目で睨み、自分のブースに戻っていった。
「自分だって気になるくせに」
 トニが小さな声でジュディに悪態をついた。もちろん、セレスにだけ聞こえるように、だ。
 外を見てふたりは仰天した。
 部屋という部屋から新入生たちが顔を覗かせている。
 セレスは向かいの部屋からアルが半分泣き出しそうな顔で立っているのを見た。
 赤い髪の少年と、彼よりもひとまわりも体の大きなスキンヘッドの少年がお互いの胸ぐらを掴んでいる姿がほんの数メートル先に見えた。スキンヘッドは少年というより、もう大男に近い。壁にかけてあったプレートが床で粉々に砕けていた。大きな音の原因はこれだったらしい。
 赤毛の少年もかなり大柄だが、スキンヘッドと比べると大人と子供に見えた。そのふたりを黒い髪の少年が必死になって引き離そうとしている。
「やめろ! ふたりとも反省室送りだぞ!」
 黒髪の少年はスキンヘッドの少年を後ろから引き離そうとしたが、彼の太い腕に顔面を直撃され後ろの壁にたたきつけられてしまった。
 彼はいまどきめずらしいメガネをかけていたから、それが床に吹っ飛ぶのがセレスには見えた。しかし、床に落ちてもレンズは割れなかった。
「ケイナ! 頼む、こいつらなんとかしてくれ!」
 黒髪の少年はケイナの姿を見て叫んだ。
 ケイナの態度は不思議だった。
 彼らより少し離れて止めようともせず黙って見ている。
 スキンヘッドの少年が赤毛の少年の顔面をものすごい勢いで殴りつけた。鈍い音がして、彼の鼻から血が飛び散った。
「うわ……!」
 トニは自分が殴られたかのように顔をしかめた。
 仰向けに倒れた赤毛の少年にスキンヘッドの少年は何発もこぶしを浴びせた。
 しかし赤毛の少年も負けてはいなかった。両手を組み合わせて相手の横っ面を殴りつけると、相手が離れたところで口にたまった血を思いっきり吐きかけた。それが相手をよけいに殺気立たせた。
 スキンヘッドはポケットからナイフを取り出し赤毛の少年に踊りかかった。誰もが赤毛の少年の胸にぶっすりとナイフが突き刺さると思った。
 しかしそうはならなかった。
 ケイナの動きは誰もが予想をしえないものだった。
 彼は瞬時に黒髪の少年の腰に吊ってあった訓練用の銃を抜き取り、それをスキンヘッドの少年の耳元にぴたりと突き付けたのだ。
 まるで最初からスキンヘッドがナイフを抜いたらそうしようと思っていたかのような動きだった。
 スキンヘッドの動きが止まった。
「終了」
 ケイナは言った。
「アシュアから離れろ」
「ぶっ殺されてえか」
 スキンヘッドの少年が目だけをぎろりとケイナに向けて言った。
 片腕は床に仰向けになっている赤毛の少年の肩を掴んだままだ。
「おれやアシュアを刺すよりもおまえの耳を吹っ飛ばすほうが早い」
「そんなことをしてみろ、おまえも反省室送りだ」
「反省室なんかこわかない」
 ケイナは冷ややかな笑みを浮かべた。
「言ったろ、おれのほうが速いって。おまえの耳吹っ飛ばして一ヶ月間反省室送りになるのなんか、たいしたことじゃない。自分の心配をしな」
 スキンヘッドの少年は明らかに動揺していた。
 こめかみのあたりがひくひくと痙攣を起こしている。
「耳は吹っ飛ばされないよ……」
 セレスはつぶやいた。
「どうして」
 トニはセレスを見た。
「訓練用の銃はそういうふうにできてるんだ。せいぜい火傷するくらいだ。それでもあの距離なら相当痛いと思うけど……」
「なんでわかるの?」
 トニは不思議そうな顔をした。セレスは肩をすくめた。兄が昔そんな事を言っていたのだ。
 訓練用の銃は『点』という名前で、殺傷能力はない。
 人体に発砲してもセンサーが働いてせいぜい軽い火傷を負う程度。
 セレスはじっとなりゆきを見守った。
 スキンヘッドも『点』のことを知らないわけではないだろう。彼が妙にケイナの向けた銃口に緊張しているのは、おそらくケイナの殺気のせいだ。『点』を撃ったあと殺気まみれのケイナがどういう行動に出るのか彼には想像がつかないのだ。
 スキンヘッドの表情が幽かに動いたとき、ものすごい怒鳴り声が響き渡った。
「またおまえたちか!」
 声の主は体つきのがっしりした男だった。30代後半くらいの男で、教官服を着ている。
 教官の中では若いほうだ。セレスは彼の顔を知っていた。
 自分の筋力トレーニングと、まだ始まっていないが射撃の訓練を担当することになっているジェイク・ブロードだ。
 彼はいつも生徒を怒鳴り散らしていた。
 ブロードの訓練はほかのどの教官よりも厳しいと評判だった。
 いつも眉間に皺をよせ、彼が笑みを浮かべた顔を見たことがない。
「立て! 望み通り反省室に送ってやる!」
 ブロードは乱暴に赤毛の少年とスキンヘッドの腕をつかんだ。そして『点』を持つケイナに目をやったので、黒髪の少年が慌てて言った。
「彼、撃ってません。バッガスがナイフを出したので威嚇しただけです」
「『点』は誰のだ。」
 ブロードは言った。
「ぼくのです。すみません。射撃室から飛んできたもので……」
 黒髪の少年は答えた。ブロードはケイナから『点』をもぎとると彼に渡した。
「アシュアは3日間反省室に入れるぞ。今度やったら地球に送り返す」
 ブロードはケイナに言った。ケイナはうなずいた。
 ブロードは怒りまくった様子で赤毛の少年とスキンヘッドをひきずるようにして連れていってしまった。
 さすがに教官の前では抵抗しないのは、ふたりともそれが除名を決定づけることだと知っているからだろう。
 ケンカが終わってしまったので見物の少年たちも次々に部屋の中に戻っていった。
 アルは最後にセレスにちょっと手をあげて部屋に消えた。
 トニはケイナがこちらに戻ってきたのを見て大慌てで自分のブースの中に走っていったが、セレスはそのまま彼をドアのところで待った。
「どうせなら病院送りにしてやればよかったのに」
 セレスは部屋に入ろうとするケイナに言った。トニが仰天してブースの陰から顔を覗かせた。ジュディも振り向いている。ケイナは立ち止まってセレスを見下ろした。
「あっちが先にナイフを出したんだ。正当防衛だよ」
「何が言いたいんだ」
 ケイナの顔は不機嫌そうだ。セレスは怖じ気付いた様子を気取られないよう、つとめて冷静なそぶりをした。
「カケをしたね。教官が来なかったらどうするつもりだったの」
 それを聞いてケイナはかすかに口を歪ませて笑みを浮かべた。
「勝つとわかっているカケなんかない」
「残念だな。あんたの銃の腕をまた見たかった」
 その途端、ケイナの手がセレスの胸ぐらをつかんだ。
「だったら……」
 ケイナはセレスに顔を寄せた。
「だったら、早くハイラインにあがってきな」
「行くよ」
 セレスは自分の声がかすかに震えているのを感じた。
「絶対あんたのそばに行くよ」
「おれはあと2年しかここにいないぜ」
「覚えてるよ」
 セレスはケイナの顔を睨みつけながら言った。ケイナはセレスの目をひたと見つめ返した。
 前と同じようにミントの香りがした。
「ほめてやるよ」
 彼は手を離すとブースに戻りかけて再びセレスを振り向いた。
「もうひとつおまえが見落としたカケを言っといてやるよ」
 セレスはケイナを見た。
「ケンカで相手を病院送りにしたら、謹慎一ヶ月じゃなくて、除名だよ」
 ケイナはそこでくっくと笑った。
「だけど、あいつにはおれを除名にする勇気なんかない。おれを除名にしたら病院送りじゃなくて命がないからな」
 ケイナはブースに入ってタオルを取ると、バスルームに入っていった。
 セレスがそれを見送って自分のブースに戻るとトニが真っ赤な顔をして飛んできた。
「どうしちゃったのさ。ケイナにあんなこと言うなんて、どうなることかと思ったよ!」
「うん……」
 セレスはあいまいに答えて疲れ切ったようにベッドに腰をおろした。
「大丈夫?」
 セレスがケイナにつかまれたところをさすっているので、トニは心配そうに言った。
 相変わらずケイナの握力はものすごい。首が締まるかと思った。
「ケイナが笑ってたね…… びっくりしたよ」
 トニは息を吐いて言った。
「ぼくはてっきりきみが殴られると思った」
「自分でもびっくりしてる。なんであんなこと言ったのか分からないんだ」
セレスは答えた。
「気がついたらしゃべりかけてた」
「ケイナ・カートはここに来て、ちょっと変わったのかもしれない。前は特定の人にあんなに必要以外のことをしゃべったりしなかったよ」
「……」
 セレスはトニの言葉を聞いていなかった。心の中でケイナの言葉を反すうしていた。
『ほめてやるよ』
 ケイナは覚えてた。
 見学会のことを覚えていたんだ……。
 それが無性に嬉しかった。
 『ライン』の新入生たちの間ではしばらくスキンヘッドと赤毛の少年の喧嘩騒ぎがことあるごとに話題に昇っていたが、すぐにそんなことに関わってはいられなくなった。
 毎日があまりにも忙しすぎて、彼らは自分のやらなければならないことをこなすのがやっとだったのだ。
 部屋が向かい同士であるにも関わらずセレスとアルも数日に一度、食事の時間にダイニングルームで顔を合わせるくらいになっていた。
 もともと科が違うのだから同じ時間帯では動いていない。
 同じ科のトニのほうがアルとは顔を合わせる機会は多かっただろうし、会うと必ずふたりで一緒にいるから案外気があっているのかもしれなかった。

 そんなハードながらも規則正しい生活を送る中でセレスは気づいたことがあった。
 セレスがケイナに話しかけた日を境にジュディの自分を見る目が変化したのだ。
 もともと人を見下したような表情をする少年だったが、こちらを見る顔つきに敵意がありありと現れるようになった。
 セレスはそれを意識して無視した。それがジュディの神経をさらに逆撫でしているようだったが、彼はセレスを睨みつける以外に敵対する方法を見いだせないらしかった。
 ケイナは相変わらずマイペースの生活を続けている。セレスはあれ以来ケイナとは全く言葉を交わしていない。
 同じ部屋でもケイナはハイライン生だから部屋にいる時間は本当に限られていた。
 噂ではハイライン生の生活はセレスたちのようなロウライン生よりも自由だが、もっとハードだと聞いた。
 しつこく質問攻めにしていたジュディもケイナを捕まえられなくなっていた。
 そしてラインに入所して二ヶ月たった頃、新入生の誰もが生まれて初めてのハードなスケジュールに疲労の色を隠せなくなっていた。
 その中でも特に傍目で見ても分かるほどすさまじい疲労を顔に浮かべている新入生がいた。
 セレスの部屋からはかなり離れた53-Aのスタン・ザックだ。
「ルームリーダーが異様にぼくらをこき使うんだ。自分のブリーフまでぼくらに洗濯させるんだよ。信じられない」
 セレスと同じ訓練グループだったスタンはシャワールームで漏らした。
 同じグループにはほかにジュディとトリル・ブラウという少年がいたが、ジュディはそれを聞いても興味がないような顔でさっさとシャワールームを出ていってしまった。
「規則にはルームリーダーの世話までやかないといけないなんて項目ないよ。洗濯物だけは出せば洗って返ってくるシステムになってんだし、断わればいいじゃないか」
 トリルは憤慨して言ったが、スタンは首を振った。
「やらないと殴られるんだ。教官に言うと、もっと殴られるんだ」
「ひどいな……」
 トリルは同意を求めるようにセレスの顔を見た。
 セレスはなんと言っていいか分からなかった。
 ひどいとは思う。でも、自分にはどうしてやることもできない。
 てこでも反抗して殴られろとでも言うのか? それとも黙って耐えろと言うのか?
 しかたなく曖昧に相槌をうって、濡れた髪をタオルでごしごしこすった。
「こういうことさせるルームリーダーって、全部ユージー・カートの取り巻きだって聞いた」
 スタンは疲れきったように壁に寄り掛かり、やるせない調子で言った。
「ユージー・カート?」
 それを聞いてセレスは手をとめてつぶやいた。カートといえば、ケイナと同じ姓だった。
 トリルが不思議そうな顔をした。
「知ってるの?」
「いや…… 知らないけど……」
「誰、そのユージーって人」
 トリルが尋ねると、スタンは肩をすくめた。
「ぼくも会ったことないからよくは知らない。でも、ハイラインのほうはユージー・カートを崇拝してるグループと、彼の弟のケイナ・カートを中心としてるグループとでけっこう諍いがあるって……。ユージー・カートのグループは弟のグループとしこたま仲が悪くて巻き込まれると大変だからできるだけ関わるなって2回生の人が教えてくれた」
 スタンはそう言って、腹立たしそうにタオルを壁にたたきつけた。
「だけど、自分のルームリーダーになられたんじゃ、関わるもクソもないよ!」
「そういえば、きみの部屋のルームリーダーはケイナ・カートじゃなかったの?」
 トリルが自分に目を向けたのでセレスは渋々うなずいた。できれば話題がこちらに向くことは避けたかったがしようがない。
「そうだけど…… ケイナはブリーフを洗わせたりしないよ」
「ケイナ・カートは優秀な人だよ」
 スタンはタオルをひろいあげて言った。
「ユージー・カートなんて知らなかったけど、ぼくはケイナ・カートの名前は知ってた。3年前にトップでここに合格した人だ。それも、これまで誰も取れなかったくらいの総合得点でだ。今でもライン中で一番できる人だって言われてるんだろ。 きっとユージー・カートって人は弟のできが良すぎて妬んでるんだ。それに周りを巻き込んでるんだよ」
 セレスは黙って洗いたてのトレーニングウェアを着た。
 ケイナの兄がいるなんて知らなかった。
「ケイナ・カートは怖い人かい? そういうのは聞いたことあるけど……」
トリルの問いに、セレスは少し考えたあと答えた。
「分からない。ほとんど話をしないから…… でも自分に厳しい人だと思う」
「きみがうらやましいよ」
 スタンは失望の表情で言った。
「おれ、もうあと半年も持たないかもしれない。やってられないよ」
 そう言い残してシャワー室をあとにするスタンをセレスとトリルはセレスは黙って見送った。
 ユージー・カート…… ケイナの兄。いったいどんな人なんだろう。
 弟を憎むなんて、そんなことあるんだろうか。兄弟なのに……?

 ニ週間後、セレスはトリルからスタンが『ライン』を辞めたことを聞いた。
「ルームリーダーのバッガス・ダンが、スタンをひどく殴ったんだ」
 トリルが少し声を震わせて言った。
「前にアシュア・セスとケンカをしてたスキンヘッドだよ」
「スタンはケガをしたの?」
 セレスは眉をひそめた。あんな太い腕で殴られたらスタンなどひとたまりもないだろう。
 トリルは首を振った。
「ケガは幸いにもたいしたことはなかったらしい。確かに殴られたほっぺたは倍ほど腫れ上がったらしいんだけど…… それ以上はさすがにバッガスでも手加減したんだと思うよ。 ……でも、スタンはきっと堪忍袋の緒が切れたんだ。人一倍正義感の強いやつだったから。これまでもよくバッガスにたてついてたらしいし……」
「でも、辞めたら負けだ」
 セレスはつぶやいた。
「そうかもしれないけど……」
 トリルは目を伏せた。
「そうかもしれないけど、立ち向かってもどうしても勝てない相手もあるよ」
 セレスは首にかけていたタオルを乱暴に取ると、行き場のない怒りにとらわれてトリルから離れた。
 その背にトリルが叫んだ。
「セレス! 次のブロード教官のトレーニングは2時間後に延期だよ!」
 セレスは振り向いた。
「スタンが辞めたことが問題にでもなってんじゃないかな。会議だってさ。それともブロードの持病の腰痛かもね」
 トリルは肩をすくめてみせた。セレスはうなずいて再びトリルに背を向けた。
 いきなり空いてしまった時間にセレスは戸惑った。
 普通なら夜にしなければならない午前中の講議の復習を自室でするべきだろう。トリルとジュディはきっとそうするに違いない。
 セレスはさっきのスタンの一件のことがまだ頭に残っていたのと、部屋に戻ってジュディの顔を見ることを考えるとどうしても戻る気になれなかった。
 ダイニングの前を通り過ぎたあと、ふと思い直して再び戻ってセレスは中を覗いてみた。
 昼食の時間はとっくに過ぎていたので誰もいなかった。
 彼はダイニングに入ると窓際の端の席に座り込んだ。
 窓から下を見下ろすと、ずっと広がる高層ビルの間をトレインが走っているのが見える。この高さから見るとまるで子供のおもちゃのようだ。
 いったいこのラインの中で何が起こっているというのだろう。
 ユージー・カートという少年はいったいどんな少年なのだろう。
 ケイナの容貌からはその兄の姿を想像することはできなかった。
 ケイナが飛び抜けて優秀なハイライン生であることは いやというほど耳に入ってきたから分かっていた。
 その優秀さに誰も追いつけないほどであることも分かった。
 『ライン』の軍科に入るということは、ケイナ・カートのそばに行けること、と憧れを持っていたロウライン生もいただろう。 だが、彼の兄の話は知らない者も多かった。
 容姿端麗で非のうちどころもないほど優秀で、それだけならまだしもあの無愛想な人を寄せつけないケイナの態度を良く思わない人間がいても不思議ではないが、その先導をきっているのが彼の兄というのがどうも理解できなかった。
 自分もいずれはいやでもこんなごたごたに巻き込まれることになるのだろうか。
 うっとうしいな、と思った。
 それでもケイナのそばには早く行きたかった。
 しかし今のところケイナは相変わらず誰とも距離を保ったままだ。
 ルームリーダーの補充トレーニングの時でさえ、あくまでもリーダーと新入生という壁を厚く塗り固めていて、必要以外は声もかけてこない。
 あの痺れるほど強く掴まれた腕に伝わったケイナの手の力強さと、バッガスとアシュアのケンカのあとに言葉を交わしたことがもうはるか昔のできごとのようだ。
「なんでこんなにケイナのことばっかり考えるんだろう……」
 セレスはつぶやいた。
 そしてテーブルにつっぷした。
 日頃の疲れも手伝って、そのまま知らないうちに夢の中へひきずり込まれていった。
 夢の中でセレスは誰かが歩いている後ろ姿を見ていた。
 あたりは薄暗くてよく見えない。それでも、背が高く真っ黒な髪であることは分かった。
 訓練生の濃い灰色の制服を着ているからラインの生徒なのだろう。
 黒い髪の少年はゆっくりとした足取りで、まるで動きがスローモーションのようだ。
(誰だろう……)
 セレスは思ったが、前に回ってその顔を確かめることができなかった。
 まるでその少年のすぐ後ろの肩のあたりをふわふわと浮遊してあとをついていく感じだ。
 やがてその少年がひとつの部屋の前で立ち止まった。そして緩慢にロボットじみた動きでその中に入っていった。
 セレスも少年の肩の後ろあたりを浮遊するようにしてそれに続く。
 中はトレーニングルームだった。マシンの中で誰かが腕を動かしていた。
(ケイナ……)
 少年の肩越しに見覚えのある金色の髪を見て、セレスはそれがケイナ・カートであることを確信した。
「これで最後だから」
 後ろ姿の少年がつぶやくのが聞こえた。低いかすれた声だった。
 いったい何が最後なんだ……。
 そう思った途端、その少年が右腕を肩の高さに上げるのを見た。そしてその腕の先のものを見てセレスは混乱した。
 彼は銃を持っていたのだ。それも訓練用のものではない。銃身も長い。
 れっきとした兵士用の本物だった。
 その銃口がマシンの中のケイナにぴたりと照準を合わされているのを見てさらに混乱した。
「ケイナ! 逃げろ!」
 思わず叫んでいた。しかし、全然声が出ていない。
 ふわふわとした体のように声もふわふわと頼り無く、ケイナは気づく気配もなかった。
「これで最後だから」
 再び黒髪の少年がつぶやいた。セレスは自分の髪が逆立つのを感じた。
 その直後、銃は発射されたのだった。

 はっとして目を開けた。
 冷や汗で額がじっとり濡れていた。まだ心臓がどきどきしている。
「夢かぁ……」
 そうつぶやいて、そのあと自分の目の前にいる人物に気づいて思わずぎょっとした。もしかしてまだ目が覚めていないのではないかとパニックに陥りそうになった。
「……気分でも悪いのか」
 さっきまで見ていたケイナ・カートがすぐ近くで自分を見下ろしていた。
 どっちが夢なんだろう。
 さっきのが夢だよな? それともこの目の前のケイナが夢?
 どうしたらいいか分からず呆然としたまま彼の顔を見つめた。ケイナの顔は不審に満ちている。
「たいしたもんだな。新入生のぶんざいでエスケープか」
「ち、違うよ」
 かけられた言葉にやっと現実感を覚えながら、セレスはようようの思いで答えて肩にかけていたタオルで顔をごしごし拭いた。
「トレーニング、時間が伸びたんだ。休んでたら知らないうちに寝てた」
 ケイナは何も言わずにセレスの向かいの椅子を引くと座った。
 食事のトレイをテーブルの上に置くのを見て、セレスは彼が今ここで食事を取るつもりなのだと知って仰天した。
 目を丸くしているセレスをケイナはちらりと見たあとフォークを取り上げた。
 食事をひとくち口に運ぶと再びセレスをちらりと見た。
「新入生のひとりが辞めたらしいな」
 その言葉にセレスは顔を背けて再びタオルで顔を拭いた。
「いちいち感傷にひたってんじゃねえよ」
 ケイナはセレスがショックを受けているのだと思ったらしい。 しかし、セレスはそれを聞いて少しむっとした。
 もとはといえばあんたたちのことが原因なんじゃないか。
 そう思ったが口に出す勇気はなかった。ケイナは黙々とフォークを口に運んでいる。
「どうしてこんな時間に食事を?」
 セレスは横目でケイナの顔を見ながら言った。ケイナはセレスに目を向けず少し肩をすくめた。
「おれのカリキュラムは、ほかの奴よりズレるから」
「毎日そうしてひとりで食事をとってるの?」
 返事はなかった。セレスは口をへの字に歪めてそっぽを向いた。
 妙に気まずい空気が流れる。
 ケイナは食事を終えるとミネラルウォーターの入ったカップを取り上げた。
 セレスはさっき見た夢のことを思い出していた。
 あの夢はいったいなんだったんだろう。
 ケイナが誰かに撃たれるなんて。
 殺したい程ケイナを憎んでいるやつ…… ユージー・カート……?
「どうして……」
 セレスは自分でも気づかないうちにつぶやいていた。
「どうしてユージー・カートはあんたを憎むの?」
 ケイナはじろりとセレスを見た。しまった、と思ったがもう遅かった。
「おまえには関係ないだろ」
 ケイナは目をそらせて髪をかきあげた。
「そうかもしれないけど…… 関係ない人があんたたちふたりの問題に巻き込まれてるよ」
 セレスはケイナを見つめて言った。口に出してしまったものはしようがない。
 口調に少し非難めいた感じが出てしまったので彼が怒るのではないかと内心不安ではあったが……。
「嫌になって辞めるのはそいつの責任だ」
 ケイナはそっぽを向いたまま冷たく言い放った。
「それはおれもそう思ったよ。でも、納得できないんだ」
 セレスはその冷ややかな横顔を見つめた。何の感情も現れていない冷たい表情だ。
「おれがどうかすれば納得できるわけ?」
 ケイナは椅子の背に体重を預けて挑みかけるようにセレスを見た。
「そ、そういうわけじゃ……」
 冷たい瞳に射抜かれて思わず顔を伏せた。
「おれは誰も助けないし、守らない」
 ケイナはそう言い捨てて顔をそらせた。
「おまえも辞めたくなかったら自分でなんとかしろ」
「ケイナに守ってもらおうなんて思ってないよ」
 セレスは心外だというようにケイナを見た。
「おれがケイナを守るんだ」
 ケイナの顔がこわばった。セレスは自分の言った言葉に自分でぎょっとした。
 よもやこんなことを自分が言うとは思っていなかった。
 ケイナの表情も明らかに混乱していた。予想をはるかに超える言葉だったらしい。
 フォークが飛んで来るかも、と思ったが、やがてケイナは肩を震わせてくすくす笑い始めた。笑いはだんだん大きくなっていくようだ。
 セレスは逃げ出したいほどの恥ずかしさに襲われた。
 そんなに…… 笑わなくったっていいじゃないか。
 ケイナはおかしそうに体を折り曲げて笑いながらセレスを見た。
「ふざけんな」
(ふざけてないよ。なんであんなこと言ったのかわかんないけど)
 セレスは心の中でつぶやいた。
「ケイナ、普通に笑えるんだね……」
 恥ずかしさをごまかすつもりで言ったが、それを聞いたケイナの笑みがみるみるかき消えた。
 戸惑ったように髪をかきあげ、彼は長い足を曲げて椅子に乗せると靴ひもを結び直し始めた。
「冗談じゃない……」
 ケイナはつぶやいた。
「おまえのそばにいると調子が狂っちまう……」
「おれもだよ」
 セレスはため息をついた。
「あんたの顔を見ると、言おうとしてないことまで言っちゃうんだ」
「『あんた』はやめろ。むかつく」
 ケイナは靴ひもを結び直すと素っ気無く言った。
「ご、ごめん……」
 セレスは頭をがしがし掻いた。その髪にケイナは目を向けた。
「おまえ、ハーフか」
「違うよ」
 セレスは答えた。
「よく言われるけど」
「…………」
 ケイナはしばらくセレスの顔を見つめた。
 なんでそんなに見るのさ。
 セレスは真正面から自分を見るケイナの視線から逃れるように顔を背けた。
 さっきまでのような冷たい光が彼の目から消えていた。普通の視線で彼に見つめられると妙にどきまぎしてしまう。
「おまえにとってユージーとおれの関係なんか問題じゃないよ。 だけど、『黒髪』と『赤毛』には気をつけたほうがいいかもな」
「黒髪と赤毛? 何、それ……? なんで……?」
 思わず問い返したが、ケイナはうっすらと笑みを浮かべただけだった。
「おまえなら分かってんだろ」
 ケイナはそう言うと皿の乗ったトレイを持ち上げて立ち上がった。そして背を向けた。
「なんで!」
 セレスはケイナの後ろ姿に向かって叫んだが、ケイナは何も答えずトレイを返却用のカウンターに置くとダイニングを出ていってしまった。
「もう…… ケイナっていつも訳わかんねえ……」
 セレスは窓の外に目を向けながらつぶやいた。

「勝手なことを言ってくれるよ……」
 カインは呆れ返ったようにつぶやいて自室のベッドの端に仏頂面で座り込んだ。
「こっちの気も知らないで。ケイナはぼくらに気をつけろとあの子に?」
「セレスってやつがおれたちだってことはわかってないだろうけど、ケイナがおれたちのことを気づいていることくらいはとっくの昔におまえもわかってただろ?」
 アシュアは肩をすくめて言った。強烈に縮れた赤毛は部屋の中でも燃えるようだ。
 セレス・クレイを初めて実際に見た時、カインは全身が総毛立つような気がした。
 彼のことは見学会のあとすぐに調べた。写真を見る限りではとりたてて何の特徴もない少年に思えた。
 あの深い緑色の髪と目を除けば。
 まるで深緑の森のようなの髪と目を見たとき見学会でケイナを取り巻いた緑色の霧はこいつだ、と確信した。
 しかし、異星人との混血でもなく色素異常でもなく遺伝子に損傷もなく、あえて言うならばそれが今の時代では希有なくらいで、あとは知能指数も普通、運動神経が人並み外れているくらいのもので、これがどうしてケイナを惹きつけたのか分からなかった。
 ケイナが異常なくらい彼に興味を示していることはカインとアシュアには分かり過ぎるほど分かった。
 彼がそもそも必要以外に自分から他人に話しかけることなどこれまで皆無だったからだ。
「トウには…… どうする」
 アシュアが聞くと、カインは大きく息を吐いた。
「彼と同じ部屋になっただけで精神状態が安定レベルを維持してるんだ。うまくいけば暴走するようなこともなくなるかもしれない」
 カインはメガネをとって目をこすった。
「トウの目をごまかせるかな」
 アシュアの言葉にカインは息を吐いて両手に顔をうずめた。アシュアは目を細めた。
「さあな。でも、彼だって友だちのひとりやふたり作ったっていいだろ」
「見つかったらもう次はないぞ」
「アシュアのことはぼくが守るよ。心配すんな」
 カインは切れ長の目をじろりとアシュアに向けた。
 そんなこと言ってないってのに……
 アシュアは思ったが口には出さなかった。
 ケイナがここまで人に興味を示すことなどなかったから、カイン自身も混乱して苛ついている。
 何でもそつなくこなせてきた彼にとって、今まででもケイナの存在は自分のこれまでの経験を大きく覆す存在だっただろう。
 ケイナはまったく一筋縄では扱えない。
 カインはふいに顔をしかめると両手で目を押さえた。
「またか?」
 アシュアが気づかわしげにカインを見た。
カインは口を歪めた。
「消えるわけないだろ。こっちのほうが『抑制装置』をつけて欲しいくらいだ」
「『見える』能力があるというのも辛いもんだな……」
 アシュアはため息をついてカインのそばの一脚しかない椅子に腰をおろし、いたわるように彼の顔を覗き込んだ。
「ぼくの能力は滅茶苦茶だ。『見え』ないといけないときには何も見えない。『見え』て欲しくないものはいつまでも突然目の前に現れる。 あの時だって、もっと早く『見え』てれば、ケイナもあんなことにはならなかった」
 カインは声を震わせて言った。目に焼きついた『残像』が現れると気が狂いそうになる。
「あの時はおれだって悪かったんだ。自分だけを責めんなよ」
 アシュアは気づかわしげに言った。
 カインの目は真っ赤に充血している。切れ長の二重の目が苦悩に満ちていた。
「ずっといやな感じがしてる。だけど、セレス・クレイをもうケイナからは引き離せっこないよ。 なんだかそんな気がするんだ。その方がリスクが大きいように思える」
「うん、そうだな。おれはおまえの判断に従うよ」
 アシュアは頷いた。
「おれたちはもしかしてケイナにいいように扱われてんのかもしれねえな。 あれだけ愛想悪くてこんな気持ちになるとは最初とても思えなかったけど、なんかほっとけねぇ。情でもうつったかな。『ビート』は失格だな」
 アシュアは冗談めかして言うと、肩をすくめて笑った。
 しかしカインはアシュアから目をそらせて部屋の壁を見つめた。
 情、なのだろうか。同情ではなく、友情や愛情? 彼自身がそんなものを一度も示してくれていないのに?
 カインは息を吐いて目を伏せた。
 トウ・リィは小さなディスクをデスクにコトリと置いて、指先でつい、とふたりのほうに滑らせた。
 いつ見ても艶やかで、真っ白い指先に見事なまでの赤いしずくが形作られている。
 この長い爪にはいったいどれだけの時間がかけられているのだろう。
「これが彼に関するデータ。たいした情報が入っているわけでもないけど、あとで見ておいて」
 トウは爪の赤さに負けないくらいの赤い唇に優し気な笑みを浮かべて目の前に立っている カイン・リィとアシュア・セスを見た。
 カインはふっくらとしたトウの唇にちらりと一瞥をくれたあと、わずか3センチ四方の 鈍い銀色の光を放つディスクをつまんで持ち上げた。
 視線を横に向けると、たぶん自分と同じ表情であろうアシュアが訝し気にディスクを見つめていた。
 トウがこんなふうに優しい声を出すときは、決まって厄介なことであるに違いない。
 あまり関わりたくない、というのがふたりの本音だった。
 トウは華奢な彼女の体をすっぽり包む豪華な椅子の背に身をもたせかけ、コツコツと手に持ったペンの先でデスクを突いていた。その音は妙に神経をイラつかせるものだった。
 カインは口を開くために小さく息を吸い込み、そして吐いた。
 次の呼吸でメガネを眉間で押さえ、そして思いきってトウの顔を真正面から見据えた。
「中央塔の『ライン』だときちんとした管理下にあるでしょう。ぼくらが行く必要は……」
 いきなりカインの額にトウの持っていたペンが飛んだ。
 それはカインのメガネをはね飛ばし、彼は思わず額を押さえた。
 横に立っていたアシュアは直立不動の姿勢のまま、額に垂れかかった赤い髪の奥で目だけをカインに向けてかすかに顔をしかめた。
「『ライン』だから、でしょ。」
 トウは相変わらず笑みをたたえたまま言った。
「………」
 カインは黙って身をかがめるとメガネを拾ってかけなおした。
「いい加減、もうメガネなんて止めたら」
 その姿を見て言うトウの声にかすかに怒気が含まれている。
 口答えなど許さない、と優し気なほほえみの中で目だけがふたりを睨み据えている。
「これが気に入ってるからいいんです」
 カインは仏頂面で答えた。
「ペンをぶつけられたくらいじゃ割れませんから」
―― もうやめとけ ――
 アシュアは心の中でつぶやいた。 次は目ン玉にペンが突き刺さるぞ。
 トウはうっとうしそうにカインを睨んだあと、デスクの上のキーボードを指で押した。
「『ライン』に行くなんて…… なのよね、ほんとは……」
 ほとんど聞き取れないほどの小さな声で呟くと、彼女は立ち上がってふたりの背後に歩いていった。
 モニターが天井からおりてくる音がする。
 振り向くのをやめたいと思いつつ、ふたりは口を引き結んだまま緩慢な動作でモニターを振り返った。
「これが彼の映像。半年前のものだから、今はもう少し背が伸びているかもしれないわね」
 子供たちが走り回る姿が映っている。奥のほうに映っている白い建物はきっと校舎だろう。
 どこにでもある『ジュニア・スクール』の光景だった。
 砂埃のあがらない赤い床材を敷き詰められたグラウンド。
 早く育つよう必死の努力で植えられた貧相な常緑樹。 小さなベンチ。
 子供たちは思い思いに遊びに興じている。察するに休み時間か。
 カインとアシュアにとっては無縁の世界だった。
 やがて映像は子供たちの間を抜け、しだいにひとりの少年に向けてズームアップしていった。
 一体誰がこんな映像を撮ったのだろう。
 飛行型のマイクロカメラにしても画質が相当良いものだった。
 しかし、ズームアップされている少年は後ろ向きで、金色の髪と細みの体しか分からない。
 たかがこんな子供ひとりを写すために大掛かりなことだ、とカインは思った。
「あなたたちは一応『ライン』の訓練生として所属するけれど、所長には含みをしているから彼と離れないようにカリキュラムを組むと思うわ。ほかの教官には何も説明されてない」
 腕組みをして画面を見つめるトウの指が二の腕でピアノを弾くように動いている。
 彼の上半身が画面一杯になったとき、やっと彼が振り向いた。
 その顔を見たとたん、隣のアシュアがかすかに息を飲むのがカインには分かった。
「ケイナ・カート、14歳。彼はカート司令官の息子なの。兄も在籍しているけれどそちらは問題ない。カートはうちの『ビート』のような部隊は持たないから依頼が来たってわけ。頼むわよ。大事な体なんだから」
 トウは言った。
(大事な体……?)
 トウの言葉にひっかかりを感じながらカインは横のアシュアが嘆息するのを感じた。
「こりゃあ……」
 アシュアは小さな声を漏らす。
 分かってる。 アシュアが言いたいことは分かってる。
 自分もモニターから目が離せなかった。
 手にじっとりと汗がにじむ。
 こんな…… こんな恐ろしい目の人間がいるなんて……
 彼の濃い青の瞳は相手の何もかもを見透かしてしまいそうなほど深遠で、怒りと悲しみに満ちていた。


 トウに渡されたディスクにはケイナについて本当にろくな情報が入っていなかった。
 ケイナ・カート、14歳。
 人工衛星『コリュボス』の軍司令官のレジー・カートの次男。
 カートといえば、代々軍関連のトップを輩出している名門で、巨大企業のひとつだ。
 金色の髪に藍色の瞳。身長はさほど高いほうではない。細みでひょろりと背の高いカインや、がっしりした体格のアシュアに比べれば小柄とさえ思える。
 彼は幼いときにカート家の養子になっているから、司令官と血の繋がりはない。
 レジー・カートにはユージー・カートという実の息子がいて、彼はケイナより2歳年上で同じ『ライン』に入っている。
 ケイナが普通と違うのは運動神経が人より並外れて優れていることと、平均以上に知能指数が高いこと、何よりも病気遺伝子を一切持っていないことだった。
 申し分ない容姿に恵まれた才能、健全な遺伝子。
 だから、彼は『ライン』を卒業したら遺伝子検査を定期的に受ける。
 平たく言えば単にボディガードになるわけだが、彼の映像を見たときの衝撃さえなければ、たかがひとりの少年が『ライン』を無事終えるまでガードするなどたいしたことはないと思えた。
「ま、所詮4年間くらいのことだ。すぐに終わるさ。子供のお遊びみたいな『ライン』の生活が退屈なくらいのもんだよ」
 アシュアは笑ったし、カインもそれには同意した。
 壊れやすいガラス細工でもあるまい。多少人とは違っていても普通の少年が誰もが過ごす普通の生活をして、転んですりむく程度の怪我はあるにせよ、再起不能な大怪我や命の危険があるようなことが起こる確率がいったい何パーセントだというのだ。

 しかし、彼のそばに来てふたりは面食らった。
 渡されたデータには彼が周囲から反目を浴びていることなど何も記されていなかった。
 びっくりするほど敵だらけだ。
 目立つ容姿なのでちょっかいをかけられることも多ければ、意味もなくからんでくる奴も多かった。
 察するに『どうも虫が好かない奴』という類いにケイナはひっかかるようなのだが、トレーニング中に組んだ相手に故意に怪我をさせられる、講議のテキストを破られる、そんなものはまだかわいいもので、ケイナと目が合っただけで何かと理由をつけてはケンカをふっかける輩もいてとにかく目が離せない。こういうことをちゃんとデータに入れとけよ、とカインは何度も心の中で毒づいた。
 多くは兄のユージー・カートの傍にいる奴だったから、当然のようにユージーがけしかけているのだという噂がたっていた。
 だがふたりはユージーが実際にケイナに手を出したところは目にしていないし、疎んじたりするようなことを言ったという事実も得られなかった。
 ユージー・カートはケイナに比べて目立つタイプではないが、彼も『ライン』の中では上位に入る優秀な訓練生だ。
 真っ黒な髪に黒い瞳、体つきはほっそりとしているが引き締まった口元は理性と知性を感じさせる。
 父親のレジー・カートは陽気な顔立ちだったから、ユージーは母親似なのだろう。
 カインが調べた限りおよそ感情に支配されるようなタイプにはとても思えなかった。
 むしろ人より遙かに冷静で客観的に物事を判断する性格かもしれない。
 それにわざわざエリートコースの『ライン』に入って、たかが喧嘩ごときで反省室送りになったり、レジー・カートの息子にちょっかいをかけて除名処分になることが割に合わないことくらい誰だってわかる。
 もちろんそれがカート司令官の実子の命令でやったことなら担保はあるわけだが、そもそも媚びでケイナに嫌がらせをするにしてもユージーがそんなことを容認するようには思えない。
 彼がケイナを疎んじるような行為をしてそれが父親の耳に入ったら、彼にとっても何の得にもならないのだ。
 根本的に理解不能な状態だった。
「それにケイナにゃ直接的も精神的にも圧力かかんねえだろ?」
 アシュアは首を傾げる。
 確かにそうだ。
 講義のテキストを破られるなどという子供じみたいな悪戯は補充をすれば済むことだし、そもそもケイナは相手にしない。
 故意の事故も研ぎ荒まれた感覚が最小限に回避する。
 多少の傷はケイナにとってはぺろりと舐めて放っておくような擦り傷程度の感覚だったようだ。
 ケイナ自身の興味は『ライン』でのカリキュラムを確実にこなしていくことのみで、それ以外は関わることすらが面倒なようだった。

 だがタイミングが悪い時にちょっかいをかけられると同じようにはならなかった。
 集中力がすさまじいケイナは気持ちの切り替えもスムーズにはできない。
 射撃の訓練の直後にケンカをふっかけられようものなら訓練の時の緊張感そのままで相手にかかっていってしまうのでカインとアシュアは慌ててケイナを止めに入った。
 その度を越している危うさの部分はふたりがもっとも緊張を強いられる部分でもあった。
 こうなることは周囲はわかっているだろうになんでちょっかいをかけるんだ、と憤りながらも、何度かカインもアシュアも自分たちが普通のライン生ではないという能力全開で阻止しなければならなかった。
 大きな事件にでもなったりしたらトウに睨まれるだけではなくレジー・カートの怒りもかいそうだ。
 結局ふたりは自分たちの任務はそこなのか、と考えたりする。
 ケイナを守ることではなく、ケイナから周囲を守ることなのではないかと。
 カインとアシュアは『ライン』とは全く違うルートで、もっと早い年齢から訓練を受けてきた。
 12歳の時、カインはトウから『ビート・プロジェクト』のことを聞いた。
 公にはなっていない精鋭部隊だという。
 ある基準に則る人間をセレクトし、戦闘組織の最高峰を組織するもので、その目的がどういったものなのかは全く知らされなかった。カインはただ、その『ビート・メンバー』になるためにこれから特殊な訓練を受けなければならない、と言われただけだった。
 トウはカインの叔母で、養母だ。
 本当の両親は自分がまだ赤ん坊の頃に死んだ。
 カインは実の両親の記憶は全くないし、当たり前のようにトウがトップに立つ『リィ・カンパニー』の跡取り息子として育ってきた。
 カインは会社のことは全く関与していなかったが、プロジェクトの中心がカンパニーであるということは理解していた。
 カンパニーの跡取り息子を戦闘部隊の中に入れるのは何らかの思惑を感じずにはいられなかったし、自分が戦闘向きだとはとても思えなかったが、養母に逆らう理由は見つけられなかった。
 若くして巨大な企業のトップに立ったトウ・リィは 黒い髪にしみひとつない真っ白な肌の美しく聡明な女性で、他人にも自分にも厳しい女性だった。
 見た目は優し気に見えるが、それが身に纏う鎧であることはカインも知っている。表情と胸の内は一致しているとは限らない。
 カインは成長するにつれこの養母を敬遠するようになった。
 父親は『予見』の力を持つアライドという星の出身だったと聞いた。
 違う星の生まれだからといって異星人というわけではない。
 元は地球人で何世代かでそこで増えた人類だ。
 たぶん、その『予見』の能力が関係しているのかもしれないが、カインは養母の周りにいつも不穏な霧を見る。それがとてつもなく嫌な気分だったのだ。

 『ビート』の訓練は厳しい『ライン』よりもさらに苛酷だったが、苦手な養母と離れることができたのはカインにとってはむしろ歓迎すべきことだったといえる。
 カインは主にコンピューターを駆使する技術を覚え、射撃、飛行艇の操縦、サバイバル訓練、 護身と攻撃の術…… ありとあらゆる技術を叩き込まれた。
 アシュアは射撃がメインで、それ以外に接近戦の訓練と薬学、心理学を叩きこまれた。
 カインは13歳、アシュアは16歳、初めて出会った時、カインは最初アシュアの燃えるような赤い色の髪に興味を覚えた。
 東洋系で周囲に黒髪の人間が多かったカインにはアシュアの髪の色や彼の顔立ちは今まで会ったことがない部類の人間だったのだ。
 彼の気の遠くなるような祖先は地球の大陸で大地を崇め、呪術を信じ、狩りと農耕で生計をたてていたらしい。彼を取り巻く空気は一種独特だったし、彼の焼けた肌と燃えるような赤い髪、尖った鼻はそのことを後世に残している唯一の証拠に思えた。
「おれもライブラリで調べただけだから実感ねえけど」
 笑うアシュアの顔はいつも陽気で明るい。このアシュアの存在がどれほどカインの助けになってきたかしれない。
 彼の屈託のない性格や、対等に接してくれる態度はともするとマイナス思考に走りがちなカインを光の当たる場所に連れ戻してくれることが多かった。
 何よりケイナのガードを言い渡されてからはアシュアなしではきっと彼の心を開かせるのは難しかったかもしれない。

 アシュアはケイナの気持ちを掴んでこちらに向かせるのがうまかった。
 それが彼の『ビート』としての天性の部分だったのかもしれないが、 ケイナはアシュアになら返事をかえすことが少しずつ増えていったのだ。
 最初は何気ない「よう、元気か?」ぐらいのことだった。
 ときにアシュアは大きな手でケイナの後頭部をすれ違いざまにぽん! と叩き、「そんなシケたツラしてんじゃねえぞ!」と言ってカラカラ笑った。
 いつもすっぱり切れそうなナイフのようなオーラをほとばしらせているケイナにそんなことができるのはおそらくアシュアしかいない。
 ケイナ自身がふたりのことをどう思っているのかは実際よくわからなかった。
 トウの命令でカインとアシュアが『ライン』にいることなどもちろんケイナには知らされていないが、勘のいいケイナが何も気づかないはずもない。
 ケイナはいつもふたりが近づくと険しい警戒の目を向けた。
 嫌がらせの対象になっているケイナに近づくということは自分もその対象になる可能性があるということだし、ただでさえ厳しい『ライン』の生活で、自分のこと以上に厄介ごとをしょいこもうとする物好きはいない。
 自分たちはその「物好き」ということになるのかもしれないが、そんなこと以上にカインとアシュアが「普通の訓練生」ではないことくらいケイナは感じ取っていただろう。

 やがて一年の時間をかけて、ふたりはやっとケイナに「たまには」返事を返してもらえる、という関係を築き上げていた。
 とはいえ、カインはいまだにケイナにはまともに話をしてもらえない。
 それでも彼は冷たい表情でもわずかに笑みを見せることもあった。
 少し安心した。
 その油断が出たのかもしれない。
 わずかな隙が忘れられない事件を起こした。
 カインは今でもその時のことを思い出すと身がすくむ。
 自分の不甲斐なさを悔いる。
 もっと気をつけていれば。自分の不安定な『予見』の能力がもっと高ければ。
 回避できる方法は何かあったんじゃないか……
 でも、時間は元には戻せないのだ。

 ケイナのそばにはできる限りカインとアシュアのどちらかひとりか、もしくはケイナがどこにいるかを把握するということは大前提だった。
 それがそのときはふたりともケイナから離れていた。
 トレーニングが終わったあと、まだ部屋に残っていると思っていたケイナがいなかった。
「ケイナ?」
 彼の姿を探したカインの視界が突然真っ赤になった。
 カインの異変に気づいたアシュアが緊張の面持ちで彼の顔を見る。
「ケイナはどこだ! アシュア、ケイナを探せ!」
 言い終わる前にアシュアは身を翻していた。
 ケイナの目を通して、自分の目に映る恐怖の光景にカインは震えた。
 数人のハイライン生がシャワールームに向かうケイナを後ろからはがいじめにした。
 彼の口にタオルを詰め込み、誰もいない倉庫に連れ込んだ。
 服を破り、利き腕の左手を砕いた。
 貫く痛みがこちらにも伝わる。
 ふたりが息をきらして倉庫に駆け込んだとき倉庫の床は一面の血の海となり、ぐったりと倒れたハイライン生たちから少し離れて、ケイナはなかば裸身の状態でぼんやりと壁にもたれて座っていた。
 左手首から先がねじくれて、体中の無数の切り傷から血が流れていた。
 血だまりの中に小さなナイフがひとつ落ちていた。
 ふたりが呆然としたのはケイナのその姿だけでなく、床に倒れる少年たちの姿だった。
 幸いにも全員が命をとりとめたが、ある者は腕を切り裂かれ、ある者は左頬をすっぱりとえぐりとられていた。なかにはもう少しで致命傷になるほど腹に深い傷を負っている者もいた。
 ふたりが駆け付けるのがもう少し遅ければもしかしたら全員死んでいたかもしれない。
 それほど凄惨な光景だった。
 ケイナはカインが名前を呼んでも全く反応しなかった。このときばかりはアシュアでもだめだった。
 彼の藍色の眼と半開きになった唇はリンチを受けたときのショックそのままに開かれ、精神をこなごなに崩された狂気を浮かべていたからだ。
 いや、狂気などという生易しいものではなかったのかもしれない。
 途方もない絶望感。いったいどれほどの恐怖だったのか……
 カインはケイナのその顔を思い出すと今でも体中に震えが走る。
(死と生の綱渡り……)
 かなりあとになってからアシュアがそんな言葉を口にした。


 ケイナは目を閉じることがなかった。
 何日も何日もベッドの上で目を見開いたまま体中をこわばらせ、がくがくと震えていた。
 睡眠剤の入った点滴を打たれてもその目は閉じることがなかった。
 夜になると彼は叫び声をあげた。倉庫の中の闇と夜の闇がシンクロするようだった。
 縫合した傷から血が吹き出た。
「感情制御装置をつけて…… それと、記憶を一時的に消します」
 リィ・カンパニーの医師が苦渋の決断をしたのはそれから一週間後だった。
 ケイナは点滴だけで生きていて、日に日に体力が落ちていた。
 夜に出す叫び声もだんだん力がなくなってきていた。
「パラソムニアというのをご存知ですか? 本人は目を開いていても夢を見ている状態です。目が覚めても今のこの状態についての記憶はない。でも眠れてはいないのです。でも彼の場合は単純にパラソムニアとは言えないような症状が出ています」
「つまりこのままでは死んでしまう、ということね?」
 モニターの向こうでトウが尋ねると医師はうなずいた。
「じゃあ、しかたないわね。18歳になるまではこっちのものにはならないんだし」
「……」
 トウの言葉に違和感を覚えたふたりだったが、こちらに向けられた鋭い目に身構えた。
「この無能な子たちのおかげでとんだ災難だわ」
 ふたりは黙っていた。
(あんたの災難よりケイナの災難を考えろよ。彼の姿を見て何とも思わないのか)
 カインは心の中で毒づいた。
「その対処をすることでの変化は何?」
 トウは医師に尋ねた。
「身体的には何も変化はありません。脳にも影響はないでしょう。耳たぶから脳の感情を司さどる信号を送ります。微弱な電流が流されていると思っていただければいいでしょう。耳たぶに埋め込んでしまうので、耳を吹き飛ばされない限りは落ちる事もありません。一時的に消した記憶はいずれ戻るでしょうが、その頃には装置が働いているから思い出しても今のような状態にはならないでしょう。もっとも、精神的な傷が全て消えるわけではありませんが」
 医師は冷静に答えた。
「完全に記憶を消すのは何かとリスクが高いもので。彼の場合は特に」
「カート司令官はなんと?」
 トウは自分の爪を見ながら言った。
「任せるとおっしゃってます。何より命の優先を、と」
「じゃあ、私も任せるわ」
 トウは答えて、再びカインとアシュアに目を向けた。
「さて、あんたたち、『ビート』除名とイチから出直すのと、どちらを選ぶ?」
「除名」
 カインは即座に答えた。こんな思いはもう金輪際続けたくなかった。
「同じく」
 アシュアもそれに続いた。
 トウは美しい口元に笑みを浮かべた。
「次はないと思っておいて」
 そう言うと彼女は消えた。
 ふたりは顔を見合わせた。
(なぜ……? 自分から除名をちらつかせておいて)
 そのことが無気味だった。

 真っ赤なルビーのピアスのような感情制御装置は、ただでも表に出さなかったケイナの感情をさらに閉じ込めた。
 ケイナは自分の身に起こった事を冷静に受け止めているようだったが、それも制御装置のなせるわざかもしれなかった。
「普通なら容姿端麗で、頭も良くて運動神経も抜群で…… 養子とはいえカート家といえば名門だぜ。おやじは軍の最高峰じゃねえか。将来も保障されて何の苦労もなく生きていけそうなのにな」
 アシュアはため息まじりに言ったことがある。カインは黙っていた。
 せめてあの赤いピアスをとってやりたい。 あれがなければまだ少しは笑えたのだ。
 そう…… セレス・クレイが来るまではそう思っていた。
「セレス、少しやせたんじゃない?」
 『ライン』に入って3ヶ月ほどたったある日、久しぶりにダイニングで会ったアルがセレスに言った。
 横にいたトニもセレスを見て頷く。同室のトニはともかく、アルと顔を合わせて会話するのは二週間ぶりだ。
「痩せたっていうより、締まったのかも…… 体重は減ってないし……」
 セレスは自分の腕を見てつぶやいた
 もともと線の細いセレスは自分が少しも男らしく逞しくならないことを少し気にしていた。
 何年たってもこのままだったらどうしようかと時々不安になる。
 細い手足はバランスがとれなくて不安定だ。そんなに筋骨逞しいタイプではないケイナでも自分と同じ年齢の頃今の自分よりはしっかりしていたのではないかと思うのだ。
 しかし、セレスのそんな不安はアルとトニには分からない。
 情報科の勉強には体つきよりもむしろ集中力や分析力といった頭の運動のほうが大切で、『ライン』での食事を気にしたり、緊張や不安を持っていたアルのほうが得意分野を全うできる点で順応は早かったようだ。
 何よりトニという心強い友人を手に入れたから安心できたのかもしれない。
 アルとトニは同じ科で同じグループなのでいつも一緒にいる。
 セレス以外に特定の友人のいなかったアルが『ライン』に入ってすぐに新しい友人を作ったというのは快挙だった。
 そんなアルとは反対にセレスは日がたつにつれひとりでいることのほうが多くなっていた。
 行動をともにしなければならないのがジュディとトリルだったからだ。
 トリルはいいやつだったが、自分から進んで声をかけてくるタイプではなかった。
「セレスたちは大変だよね。あの負けず嫌いのジュディも最近夕食後は10分でも横にならなきゃ体が動かないみたいだし」
 トニはフォークを口に運びながら言った。
 確かにジュディは基礎体力があまりないのでかなりきついに違いない。それでもドロップアウトせずに頑張っているのだからたいしたものだ。
 自分に向けられるうっとうしい視線さえなければセレスもジュディを偉いと思いたかった。
 セレスは何度もジュディを受け入れようと思ったが、そのたびに諦めた。
 ジュディのセレスに対する嫌悪感は濃厚で、感覚の鋭いセレスは彼の敵対意識を全身で感じて時々いらいらした。
 ジュディはセレスが反応してくるのを期待しているのだろうが、いくらイライラしても彼だけは無視するに限る、というのはセレスも本能的に分かっていた。
「ケイナ・カートはどう?」
 アルはレタスを口に運びながらセレスに尋ねた。野菜はあまり好きではないアルもここでは何とか食べている。
「彼はいつもマイペースだよ。ほとんど話さない」
 セレスの代わりにトニが答えた。
「でもよく続くと思うよね。ぼくらの倍は動いて勉強して、全然疲れを見せないんだ。ハイライン生になるとみんなあんな感じなのかな」
 セレスは何も言わず黙々と食事を口に運んだ。
 固い肉片に甘ったるい付け合わせの人参。とても美味しい食事とは言えなかったが食べなければ体がもたなかった。
「カインさんもずうっとぼくらより遅くまで勉強してる」
 アルは言った。アルの部屋のルームリーダーはカイン・リィというハイライン生だ。
 セレスは彼のことはバッガスとアシュアのケンカのあとに知った。あのときケンカを止めようとしていたからだ。
 セレスはごくたまにしか見かけることのないこの少年があまり好きではなかった。
 彼を取り巻く空気はほかのハイライン生よりもさらに張り詰めていて、彼の顔を見るとセレスは妙に緊張した。
 いまどきめずらしいメガネをかけて、その奥の切れ長の目が何となく怖かった。
 攻撃的なケイナの青い目よりもずっと思慮深そうな落ち着いた瞳なのだが、何だか自分の心の内だけは外に決して出さないような雰囲気だ。
(何を考えてるかわからない)
 そう、そんな感じ。
 セレスは自分の心の中でつぶやいて、自分で返事をした。
 カイン・リィと、前にバッガス・ダンとケンカをしていたアシュア・セスはハイラインでのケイナと同じ訓練グループだと聞いた。
 アシュア・セスはセレスの部屋のずっと先のほうにあるロウラインの部屋のルーム・リーダーになっている。
 彼の姿はバッガスとのケンカのあと一、二回ちらりと目にしただけだ。
 強烈な赤毛を頭の後ろにきつくゆわえて、ケイナやカインに比べるとかなり体も大きい。
 浅黒い肌にいつも笑っているような口元が印象的で、カインよりはずっと気さくな感じがしたがそれでも彼もほかのライン生とは雰囲気が違っていた。
 ……なんだか本当に不思議なのだ。
 あのふたりはどうも違う。
 彼らにだけはできれば近づきたくないとどうしても思ってしまう。
 人に対してこんなに警戒心を感じたことはなかった。
「ところでさ……」
 アルはほおばっていたパンを飲み込むと周囲を見回して声をひそめた。
「この間カインさんにハイライン生が話してるのをちらっと聞いたんだけど…… ハイライン生がひとり事故で怪我をしたらしいよ」
「事故?」
 トニが目を丸くした。セレスは口に運びかけたフォークを宙にとめた。
「だれ?」
 トニの言葉にアルは眉を吊り上げた。
「名前は知らない。トレーニングマシンがいきなり倒れてきたんだってさ。重さ二百キロもあるやつだったらしい」
「え、し、下敷きになったの?」
 トニの目がますます大きくなった。
「よく分からないけど重体だって言ってた。ケイナ・カートが使うはずだったマシンをその日たまたま先に使わせてもらったらしい」
「この間って…… いつ?」
 トニが不安そうな顔で尋ねると、アルは小首をかしげた。
「さあ…… 数日前っていうのは聞いたけど…… ケイナは何か言ってない?」
「ケイナは全然いつもと変わりないよ。そんなこと知らなかった……」
 トニはそう言って同意を求めるようにセレスの顔を見た。
 確かにそうだった。ケイナはいつもと変わらなかった。
「そうなんだ……」
 アルは言った。
「こういうのって、普通心配したり動揺したりするもんじゃない? 自分が使うはずだったマシンなんだろ?」
「ごめん、おれ、もう行くね、次の準備あるんだ」
 セレスは突然立ち上がるとトレイを持ち上げた。
「え、あ、うん……」
 アルとトニがびっくりしたようにセレスを見上げたが、セレスはそのままダイニングをあとにした。
 ケイナを中傷するような言葉をアルの口からあまり聞きたくなかった。
 確かにケイナは変わらなかった。ちらりと見る顔はいつも同じように無表情だ。
 それでも彼のことを冷たいのだとは思いたくなかった。
 どんなに無愛想でも彼だって人間だ。平気だなんてことあるはずがない。
 ダイニングをあとにして訓練塔のトレーニングルームの前にさしかかったとき、誰もいないはずの部屋の中でマシンを動かす音がしたのでふと足を止めた。
 トレーニングルームはいくつかあるが、ハイライン生が多い部屋にはセレスたちロウライン生は足を踏み入れたことがない。置いてあるマシンも体の小さいロウライン生には無縁のものばかりだったからだ。
 そっと覗き込むと一番すみのマシンで誰かが腕を動かしていた。もしかしたらケイナかもしれない、と思い、少しためらったのち足を踏み入れた。
 規則正しい音とともに荒い息遣いも聞こえてきた。 しかし近づいてみるとマシンに座っていたのは見たことのない黒い髪の少年だった。
 大柄なほうではなかったが、全体的に引き締まった筋肉がついている。 重りを動かすたびに何も着ていない上半身の筋肉が無駄なく動くのが分かった。
 そしてセレスはすでに初対面の人間のそばに近づく許容範囲をはるかに越えた距離まで彼に近づいていた。
 少年はセレスの気配に気づいて重りを落とすと顔をあげた。
「何か用か」
 真っ黒な鋭い目だった。
 セレスはその目を見た途端、頭の中で警報が鳴り響いているような気分にとらわれた。
(彼は危険だ)
 そう思ったが逃げ出せなかった。まるで足を床に釘で打ちつけられたような感じだ。
 次の瞬間、背後で雄叫びのような妙な声がしたかと思うと自分の体が宙に浮いていた。
 うしろから誰かに首を腕で締め上げられた。
「どうしたの坊ちゃん。ゴハンはぁ?」
 太い声が耳もとで聞こえた。
「離せ…… くるし……」
 セレスはもがいたが太い腕の力は弛むことはなかった。
 食べたばかりの昼食が逆戻りしてきそうだ。
「悪ふざけはよせ、新入生だ」
 黒い髪の少年が近くにあったタオルを取り上げて立ち上がった。少しかすれてはいるが威圧感のある声だ。
「ユージー、こいつおまえのことほれぼれと眺めてたぜえ」
 後ろでむせこみたくなるような臭い息とともに太い声が言った。
 セレスはそれを聞いて仰天した。黒髪の少年がユージー・カートだと分かったからだ。
 ユージーはふんと鼻を鳴らすとタオルで顔を拭いた。黒髪から汗の粒が散った。
 そしてもがいているセレスに近づき、しげしげと眺めたあとその髪を指でつまんだ。
「変わった色の髪だな。染めてるわけじゃなさそうだが……」
 つぶやくような彼の声を聞きながら、セレスは最後の手段に出た。
 足を振り上げるとかかとで思いっきり後ろを蹴り飛ばしたのだ。
 悲鳴とも怒鳴り声ともつかない声が響いたと同時にセレスは床に転げ落ちた。
 息をきらして顔をあげると、スキンヘッドの頭が体をくの字に折って床に突っ伏しているのが見えた。
 まずい、と思った。彼がアシュア・セスとケンカをしていたスキンヘッドだと思い出したからだ。
 ついでにスタンを殴って辞めさせたやつだ。そいつの股間を蹴り飛ばしたのだ。
「たいした力だな。新入生にしちゃ……」
 ユージーは口元にかすかに笑みを浮かべて笑った。
「この……」
 バッガスがうめきながら立ち上がりセレスに近づこうとしたので、ユージーがセレスをかばうようにしてバッガスの前に立ちはだかった。
「やめろ。おまえが先に手を出したんだぞ」
 バッガスはだらだらと汗を流しセレスを睨みつけていたが、ぶつぶつと何やら悪態をつくとセレスをひと睨みして渋々隣のマシンに座った。ユージーには頭があがらないらしい。
 セレスは自分の前に立つ彼の後ろ姿を見上げた。まさかかばってもらえるなどと思わなかった。
「そのトレーニングウェアから見ると軍科なんだな。 あんまりハイライン生だけのところにひとりで来るな。こいつみたいに荒々しいやつが多いぞ」
 振り返った彼の声はいたって冷静だった。
 当たり前の分別を持ったハイライン生の姿がそこにあった。
 セレスは自分の足がかすかに震えているのを覚えた。
 何かが変だ。
 ケイナを憎んでいるはずのユージー・カートはこんな紳士的であってはならなかった。
 もっと残忍でふてぶてしくて殺気のあるやつでなければならないはずだった。
 だのに目の前にいる彼は自分の想像とは全く違った。
 間違ってもロウライン生いびりをしたりするような人間には思えなかった。
「どうしてそんな目でおれのことを見るんだ?」
 ユージーは自分を見つめるセレスに不思議そうに言った。
 そのとき、バッガスがうなり声をあげて再びセレスに飛びかかろうとした。まだ根に持っていたのだ。
 彼はいつの間に移動したのか、またもやセレスの背後に回っていた。
ユージーが彼の顔面を殴りつけたのはあっという間のことだった。
ユージーは手加減をしたのだろうが、思わず顔をしかめたくなるような鈍い音がした。
バッガスは悲鳴をあげて手で顔を覆った。
「新入生に手を出すな!」
ユージーに一喝され、バッガスはぽたぽたと鼻血を垂らし、涙目になりながらうらめしそうにすごすごとトレーニングルームを出ていった。
「まったく…… どうしていつもあんなふうなんだ……」
ユージーは舌うちをしてバッガスを見送った。
「おまえも早く行け。午後のカリキュラムが始まるぞ」
 ユージーはそう言うとタオルを近くにあった椅子の背にかけた。
 呆然としとしたセレスがふらふらと隣のマシンに寄り掛かるのを見て、ユージーが慌ててセレスの腕を掴んだ。
「おいおい、こいつはまだメンテが済んでないんだ。近づくな」
 はっとしてマシンを振り向いた。 座席の部分に『危険使用中止』となぐり書きをした紙がとめてある。
「これが…… 倒れたの……?」
 思わずつぶやくと、ユージーの顔がかすかに変化した。
「ロウラインにも伝わっているのか」
 彼はどうしようもないな、というように肩をすくめた。
「打ちどころが悪くなけりゃ助かってた」
 ユージーはセレスから離れると、自分のマシンの中に座った。セレスはびっくりした。
「死んだの?」
 ユージーはちらりと視線を投げ掛けた。
「不幸な事故だ」
(あんたが仕組んだことじゃないの)
 セレスはその言葉を飲み込んだ。
 違う…… 何か違う…… この人…… 違う。
「そのこと…… ケイナは知ってるの」
 震える声で言うと、ユージーは少し驚いたようにセレスを見た。
「おまえ、ケイナを知ってるのか? 同室か?」
 セレスはドキリとした。言っちゃいけないことを言ってしまったのかもしれない。
「ケイナにはたぶん伝わってるだろう。それよりおまえ……」
 セレスはくるりと背を向けると、ユージーの言葉が終わらないうちに身を翻して駆け出した。
 ユージーはそれを怪訝な顔で見送った。
 セレスは午後のカリキュラムに何とか集中しようと頑張ってみたが、気を許すとすぐにユージー・カートの顔を思い出していた。おかげで教官には大目玉をくらった。
 明日も同じようにぼんやりしていると叱られるだけではすまないかもしれない。
 だが、夕食後部屋に戻ってきたトニを見るなりセレスは彼の腕を掴んでいた。
「ちょっといい?」
「う、うん……」
 セレスの剣幕にトニの顔にさっと血が昇った。
「トニ、『ジュニア・スクール』でケイナと一緒だったって言ってたよね」
 トニの顔にさらに血が昇った。そして慌てたようにブースの外に目を向けた。ジュディが帰って来ていないことを確かめたのだろう。
「そうだけど…… どうしたの、急に」
「ユージー・カートは本当にケイナを目の仇にしているの?」
「え……」
 トニの目に困惑したような色が浮かんだ。
「『ジュニア・スクール』でのケイナはどんなふうだったの」
「それを知ってどうするの?」
 それはセレスにも分からなかった。
「あのさ、こんなこと言いたくないんだけど……」
 トニは言いにくそうに視線を泳がせた。
「ぼく、ほんとはあんまりケイナと一緒だったってこと知られたくないんだ。そんなこと吹聴してまわってるって知れたら厭なんだ。セレスも深入りしないほうがいいよ。スタンみたいに辞めることになったら困るじゃない」
「ユージー・カートの仲間にいびられるってこと?」
 セレスの言葉にトニは目をしばたたせてうつむいた。
「知ってるんならやめとけよ…… ケイナに近づくと彼の取り巻きにマークされるよ」
「おれ、ユージー・カートに会ったんだ」
「えっ?」
 トニの目が恐れとともに見開かれた。
「会ったってどこで。いつ?」
「今日、ダイニング出たあとで」
 セレスは肩をすくめた。
「トニ、事故に遭った人、亡くなったって知ってた?」
「え? 死んだの?」
 セレスはうなずいた。トニはうろたえた。セレスが逃れようのない質問を浴びせてくることを全身で感じとったのだ。
「ねえ、これってもし作為的だったら殺人だよ。ユージー・カートって、そんなことまでするの?」
「ぼく、分からないよ」
 トニは勘弁してくれとばかりに泣きそうな声を出した。
「だけど、もしユージー・カートの仕業だとしたって、彼には決して懲罰はないよ」
「なんで?」
「カートの名前を知らないの? 軍のトップだよ。『ライン』の維持と運営に関わってるんだよ?」
 セレスは言葉をなくした。軍のトップ…… じゃあ、兄さんの上司になるんだ…… それも一番上の。
「カート家は名門なんだ。リィ・カンパニーのリィ家とも昔から親交があるんだ。だからユージーの周りは『ジュニア・スクール』の時からいつも取り巻きが多かった。本当ならカートの跡取りはユージー・カートだよ。カート家では子供はユージーひとりだもの。ケイナはユージーとは血が繋がってないんだ。彼は養子なんだ。だけど、ケイナがいたら何でも完璧にしちゃうケイナのほうに周りは注目するよ。彼は見た目だって派手だし…… ケイナはユージーにとって目の上のこぶだったと思うよ」
 トニは観念したようにため息をついてセレスのベッドの端に腰をかけた。
「ケイナはね、7年生までは普通の子だったんだ」
 トニはぽつりと言った。7年生といえば10歳だ。
「ぼくは自分が小さい頃の記憶はあんまりないんだけど、自分が4年生になったくらいのときからのケイナはよく覚えてるよ。彼は頭が良くって、スポーツもできて、よく笑って、ぼくらにとってもすごくいい上級生だったよ」
 セレスは俯いたままで話すトニを見つめた。
「ケイナのことをユージーの取り巻きが苛めるようになったのは9年生のときからだ。テキスト破いたり、鞄を捨てられたり、そんなのまだ可愛いほうだった。そのうちケイナはいつもあっちこっちに擦り傷や切り傷を作るようになって、ケイナと話をしたっていうだけで、ケイナだけじゃなくてその相手の子も苛めを受けるようになったんだ」
 トニは耳まで真っ赤になっていた。不安や怖れや緊張は彼の顔色にすぐに跳ね返る。
「ぼくらだって怪我したくないし、そのうちケイナには誰も近づかなくなって、ケイナもだんだん笑わなくなって、いつもひとりでいるようになったんだ」
「それ…… ユージーが取り巻きに指示したの?」
 セレスが言うとトニは首を振った。
「分からない。ユージー自身が手を出したことなんて一度もない。だけど、ユージーの取り巻きがやってるんだから、ユージーが指図してるんだろうって誰でも思うよ」
 トニはセレスを見た。
「ぼくのいたスクールは転入や転校者が多いんだ。たぶん小さい頃からずっと同じ学校だったのってぼくとあと数人くらいだよ。ほとんどの子は笑わなくなったケイナしか知らないし、当たり前のように彼には近づかないほうがいいって思ってたと思う。ケイナはラインに入って、ユージーもラインにいる。バッガス…… あのスキンヘッドね、彼も同じスクールだったんだ。あいつが一番荒っぽいやつだった。ここじゃユージーがカート家の跡取りかもってことはもっと重要な意味を持つよ。スクールのときみたいな子供じゃない。ぼくの言ってること分かる?」
「分かるよ」
 セレスは答えた。
「スタンの二の舞いになるなって言いたいんだろ?」
 トニは目を伏せた。
「だけど、おれ、なんか間違ってると思うよ」
 セレスは言った。
「間違ってるって何が?」
 トニは怪訝そうにセレスの顔を見た。
「分からない……」
 セレスはかぶりを振った。
「よく分からないけど、おれたちきっと違うこと見てる」
 トニはセレスの言っていることが理解できずにただ彼の顔を見つめるしかなかった。


 その夜、ケイナはいつものように夜半過ぎに部屋に戻ってきた。
 トニとジュディはすっかり寝入っている。
 微かな気配と共に彼はいつもと同じようにシャワーのあとの濡れた髪をこすりながら自分のブースの中に入っていった。少しは気を使っているのか、夜のトレーニングのあとはトレーニング室のシャワールームを使って帰ってくる。
 セレスは椅子の上に乗ると、そっとブースの仕切りの上から隣のケイナの様子をうかがってみた。
 ケイナはタオルを椅子の背にかけるとデスクに向かい、コンピューターのキイを叩き始めた。その横顔は全くいつもと変わりない。
 笑わなくなったケイナ。自分から周囲を遠ざけているようなケイナ。
 ユージー・カートの顔とは似ても似つかない。ユージーとは血が繋がっていなかった。似てなくて当たり前だ。
 真っ黒で少し落ち窪んだような鋭い目に引き締まった肢体のユージーは一見怖そうだったが、突き放したような視線のケイナに比べればはるかに表情豊かだった。
 ユージーの笑った顔や怒った顔は容易に想像できる。しかし、ケイナはいつも同じ表情だ。可笑しくて笑っている彼の姿はダイニングで見たそれっきりだ。
 でも、自分の周囲の人間が死んでもここまで変わらずにいられるものなんだろうか。もしかしたら自分がその事故に遭っていたかもしれないというのに。
 ふいにケイナが顔をあげてこちらに目を向けた。
「用があるんならこっちにちゃんと回ってこい」
 危うく踏み台にしていた椅子から転げ落ちそうになった。
 おずおずと彼のブースに入っていったが、ケイナは振り向く様子もない。
「なに」
 ケイナはキイを叩く手を休めずにセレスに言った。
「あ、ええと…… こ、講議に必要な資料が見つからなくて……」
 セレスはとっさに出任せを言った。それを聞いたケイナの手が止まり、彼は椅子を回してセレスを振り向いた。
「何の資料?」
 ケイナは鋭い目をしていた。彼に出任せなんて通じるわけない。セレスは思わず目を伏せた。
「ぶん殴られたいのかよ。人と同じ手使いやがって」
 ケイナは寝ているジュディのほうを顎でしゃくった。
「いったい、何の用だ」
「あの……」
 緊張で口の中がからからに乾いていたが、セレスは思い切って言った。
「事故に遭った人が死んだって…… 聞いた。トレーニングマシンの下敷きになったって人……」
 ケイナの表情はそれを聞いても変わらなかった。
「それで?」
「それで……?」
 セレスは彼の言葉をおうむ返しにつぶやいた。
「仲間が死んだのにどうしてそんなに冷静でいられるの?」
 ケイナはじっとセレスを見つめていた。眉がかすかにひそめられたような気がした。
「ロウランドが死んだのは事実だよ。だけど、おまえには関係ない」
 何をわかりきったことを、といった口調だった。
「分かったら寝ろ」
 そう言って背を向けようとしたとき、なびいた髪のすきまから赤い点が光って見えた。その光を見たとたん、セレスは思わず彼の肩をつかんでいた。
 険しい光を帯びたケイナの目がこちらを向いた。
「人ひとり死んでもあんたにはどうってことないってこと?」
 セレスは自分でも驚くほどの激しい口調でケイナに突っかかっていた。
「もしかしたら『あんたが死んでいたかも』しれないんだろ。 自分じゃなかったらどうでもいいわけ?」
 ケイナの顔がさらに険しくなった。
「くだらねえこと吹き込まれやがって……」
 セレスははっとして口をつぐんだ。彼の顔からさっきまでとは違う殺気が感じられた。心臓がどきどきした。
「ケイナ、あの……」
 セレスが口を開こうとした瞬間、ケイナは急に立ち上がった。
 横顔にちらりと苦しみの表情が見えたと思ったとたん、ケイナはものすごい勢いで部屋を飛び出した。
「ケイナ……!」
 セレスはその姿に何か危険なものを感じとって反射的に彼のあとを追っていた。
 薄暗い廊下をずんずん足早に歩いていくケイナに必死の思いで追いつくと、セレスは彼の前に回り込んだ。
「おれに近づくな!」
 ケイナの顔には怒りと拒否がみなぎっていた。
「悪かったよ…… ごめん。あんたをそんなに怒らせるつもりはなかったんだ」
 セレスはケイナの腕を掴んだ。部屋に戻ろう、そう言うつもりだった。
「近づくなって言ってんのが…… わかんねえのか!」
 ケイナがそう怒鳴るのとセレスが右頬に痛みを感じて床に叩きつけられたのが同時だった。
 視界がぐるぐると回り、彼に殴られたことを理解するのにしばらく時間がかかった。
 やっと身を起こすと、意外にもケイナが床に体をくの字に折ってうめいていた。 右手で左の手首をつかんでいる。
「ケイナ!! 」
 慌てて立ち上がって彼に走りよった。
「手、どうしたの……!」
 軍科の者にとって手は命だ。でも教官を呼んだりしたら、ケイナは新入生を殴った罰則を受けてしまう。
 セレスはあたりを見回した。すぐそばにダイニングがあるのを見てとると、ケイナを無理矢理立ち上がらせた。
「冷やそう……!」
「ほっといてくれ!」
 そう言って、ケイナは再びうめいた。こんな状態でそのままにできるはずもなかった。
 半ば抱え込むようにして明かりの消えたダイニングに連れていくと、外の光が差し込む窓際の椅子にケイナを座らせ、誰かが落としていったらしいタオルを見つけて飲料用のミネラルウォーターの蛇口に突っ込んだ。汚らしいタオルだったが、それ以外に何も見当たらなかった。
 それを渡すとケイナは苦しそうに顔を歪めながら手におし当てた。
 しばらくすると痛みが薄らいだのか、少し落ち着いたように見えた。
「大丈夫?」
 セレスはおそるおそる声をかけたが彼は何も言わなかった。
「利き腕は…… 左だったの? ずっと右だと思ってた」
 セレスはこのままケイナの左手が良くならなかったらどうしようかと不安だった。
 おれを殴ったせいでケガするなんて、やだよ……。
 ケイナはちらりとセレスの顔を見た。
「おまえも顔洗え。血が出てる」
 それで初めて自分の口が切れていたことに気づいた。さっきタオルを濡らしたミネラルウォーターの蛇口からコップに水を汲み、指をひたして口を拭った。べったりと血が指についたので少しびっくりした。
 トレーニングウェアの袖で口を拭って戻ってみると、ケイナはさらに落ち着いたようだった。タオルをテーブルに置いてぼんやり窓の外を見ている。
「どう? 良くなった? 医務室行かなくていい?」
 セレスが声をかけるとケイナはこちらに顔を向けた。
「おまえは?」
「おれはたいしたことないよ。もう痛くないし」
 痛くないのは嘘だった。さっき血を見たら急にぴりぴりと痛み出したのだ。違和感があるから少し腫れているのかもしれない。そのことは言わずにセレスはケイナの隣の椅子に腰をおろした。
 ケイナは再び窓の外に目を向けた。
「左手、怪我してたの?」
 セレスはためらいがちに尋ねた。ケイナはやはり何も言わなかった。
「ごめん。おれ、なんかいつも余計なこと言っちゃって……」
 セレスは目を伏せた。ケイナはそんなセレスに目を向けると、しょげきっている緑色の髪をしばらく見つめた。
「おまえの言ってたこと…… 当ってるよ」
 ケイナが言ったので、セレスは目をあげた。
 外からの薄明かりの中で彼の横顔がくっきりと浮き出していた。
「なんにも…… 感じないんだ」
 どこを見ているとも分からないケイナの視線をセレスは無言で見つめた。
「なんにも感じない。なんとも思わない。冷たいんだよ。頭ン中が」
 ケイナは少し肩をすくめた。
「泣きたいとも思わない。笑いたいとも思わない。何を聞いてもどうでもいいような気がする。頭の中がずっと冷えきってる。氷みたいな…… 冷たい風が吹いてる」
 夜のパトロールなのか、警備局の浮遊型パトロール機のサーチライトが一瞬こっちを照らして部屋の中に光が入った。
 ケイナはそれにちらりと目を向けたが、またすぐにそらせた。
「あの……」
 セレスはまたケイナを怒らせるようなことにならなければいいけれどと思いつつ言った。
「ケイナはさっきおれを殴ったときは本気だったじゃない。本気で怒る人は普通だよ」
 ケイナは冷ややかな笑みを浮かべて再びセレスを見た。
「おまえ、危なかったんだぞ」
 セレスはケイナの言葉の意味が分からず目を細めた。彼の言うことはいつも謎解きみたいだ。
 ケイナが髪をかきあげると、赤いピアスが薄明かりに光った。
 セレスの視線に気づいたのか、ケイナはかすかに顔をしかめた。
「うっとうしい色だろ。何に見える?」
「ピアスじゃないの?」
 セレスの言葉にケイナは自嘲気味な笑い声をたてた。
「ここから、頭の中に信号が送られるんだ。 怒ったり興奮したりすると反応して感情が高ぶらないようにする」
 ケイナは自分の耳から後頭部を指した。
「そうやって感情をコントロールするんだ」
「感情のコントロール? どうして?」
 セレスは訳が分からないというように赤いピアスを見つめた。見た目にはただのアクセサリーにしか見えない。
「これがなきゃ、キレちゃうからさ」
「キレちゃうって……」
 ケイナの言うことはますます意味不明になってきたように思えた。
「キレたら何をするか分からないから、閉じ込めとくんだよ」
 ケイナは淡々と答えて目をそらせた。
「あの……」
「左手は……」
 口を開こうとするセレスをケイナは遮って言った。
「二年前、リンチで砕かれた」
 セレスは目を見開いた。リンチ? ケイナが?
「左は利き腕だったけど、砕いてからは右腕に変えた。おまえはこの抑制装置の抑制以上の揺さぶりをおれにかけたらしい。咄嗟に出る手は左になるんだと初めて知った」
「そんな…… ひとごとみたいに言うなよ」
 セレスは思わず言った。
「リンチだなんて…… なんでそんなことに…… あんたはそんな隙見せるような人じゃないだろ」
 ケイナは頬杖をついてかすかに笑みを浮かべた。しばらく無言でいたがやがてぽつりと言った。
「……何人いたか覚えてないんだ」
 セレスはぎょっとした。
「何ができる。あっという間だった。後ろから首を締め上げられて、足を縛られ、声を出せないよう口にタオルを詰め込まれた。そのまま倉庫になっている部屋に引きずり込まれたんだ。2年前っていったら今のおまえと変わらない。ロウラインとハイラインの差だぞ。体の大きさが全然違う……」
 セレスは何も言えなかった。 確かにいくらケイナでも体の大きさの違う何人ものハイライン生にかかられたらひとたまりもないだろう。『ジュニア・スクール』のときとはわけが違うのだ。
「左手を砕かれて、蹴られて殴られて…… だけど今はもうほとんど当時の苦痛は覚えていない」
 ケイナの表情は話す内容とは裏腹に全く変わらなかった。本当にひとごとのようだ。
 これが感情をコントロールされているってこと? セレスはじっとケイナの横顔を見つめた。
「数週間病院にいたらしい。夜が怖いんだ。暗くて怖い。夜になると左手の骨がまた頭の中で音をたてて折れるような気がする。指を見たら全部がばらばらの方向を向いてる。体中の傷から血が吹き出て、シーツが真っ赤になった。動いていた右手に持っていたナイフで肉を裂いたときの感触がほんの少し残ってるんだ。おれは命がけで反撃してて、たくさん人を傷つけたみたいだ」
 ぞくりと背筋が震えた。想像するだけでも恐ろしかった。
 ケイナの右の耳の赤いピアスが光った。
「これで感情の抑制をつけたと言われた。そうしなきゃ、記憶に苦しめられて死んでたらしい」
 気がつくと、手が震えていた。セレスは目を伏せて自分の手をぎゅっと握りしめた。ケイナは無表情のままそんなセレスを見た。
「でも、最近はこいつの威力があまりなくなってしまったみたいだ。 おまえを一発殴っただけですんだからほっとしてる……」
 それでケイナは自分にかまうなと言ったのか……。 一発殴るだけですまなかったらいったいどうなったんだろう。
「それを外すとどうなるの……」
 おそるおそる尋ねた。
「さあ……」
 ケイナはつぶやくように言った。
「感情のコントロールが効かなくなって前後不覚に暴れるのかも」
「まさか」
 セレスは目を細めてケイナを見た。ケイナはかすかに笑った。
「キレると何をしでかすか分からないというのは昔からあったんだ。なんか…… 自分とは違う自分が勝手に動いてしまうようなところが。小さい頃は所詮腕力もしれたもんだからどうってことない。だけど今はもう力が違う。自分でもキレたらどうなるか自信はない」
 ケイナは窓の外に目を向けた。
「そうなったら死んだほうがましだ」
「そんなのだめだ!」
 セレスが叫んだので、ケイナは少し驚いたように振り向いた。
「おれ、ほんの数カ月だけど、ケイナの笑った顔も怒った顔も見たよ。そん時のあんたはみんなが言うような冷たい優等生じゃなくて、普通の人だよ。そんなこと言うなよ!」
「おまえは何もおれのことは知らないよ。会ってまだ数カ月じゃないか」
 ケイナの目に諦めとも不安ともつかない不思議な光が宿っていた。
「そ、そうかもしれないけど……」
 セレスは困惑したように目をしばたたせた。
「そうかもしれないけど、死ぬなんて言うなよ。キレたって言ったって、おれを一発殴ればそれで終わったじゃん。そのうちちゃんと自分で自分の気持ちはコントロールできるようになるよ。みんなそうしてるよ。ケイナができないはずないよ」
 その時、ふいにケイナの左手が自分の顔に伸びてきた。
 ケイナは自分が殴って傷つけた、切れたセレスの口元に触れたあと、ぐいっとセレスの顎を掴んだ。切れた口の端がぴりっと痛んだ。
「おまえの目は不思議な色だな」
 ケイナは自分の顔をセレスに寄せた。セレスは思わず顔に血が昇るのを覚えた。
彼の顔を見るにはあまりにも至近距離過ぎた。まるでキスでもしかねない近さだ。
「だけど、このおまえの目は今おれの姿を捕らえてないことを知ってるか」
「え……?」
 セレスは目を見開いた。
「おまえの目はおれの顔を通り越してずうっとその先を見てる。自分では気づかないだけなんだ」
 セレスは不思議な香りが自分の鼻をくすぐるのを感じた。
ミントのようなハーブの香り。ケイナがそばに来たときいつも感じる香りだった。
 セレスはその香りを感じながら思った。
 ケイナ、あんただってそうだよ。ケイナの目はいつも何が見えてるのか分からないよ。
 ずっとずっと遠くを見てる。あんたがそうだよ……
 ケイナはふいに突き放すように手を離した。
「もう行けよ」
 彼は目を背けた。
「おれももう少ししたら部屋に戻るから」
 セレスは急に態度の変わったケイナに困惑した。
「殴ったりして本当に悪かった。明日メシがちゃんと食えるといいけどな……」
 ケイナは目を向けずにかすかに笑った。
 セレスはしばらく待ったが、ケイナはそっぽを向いて窓の外からこちらには目を向けなかった。もうこれ以上彼は何も話してはくれないだろうということがひしひしと伝わってくる。
 セレスはがっかりして立ち上がり、しばらくケイナを見つめたあとダイニングをあとにした。
「おやすみ。ケイナ」
 それだけ伝えた。
 最後にはいつもケイナは心を閉ざしてしまう……。
 それでも、少しずつ彼は自分に近づいてきてくれている、とセレスは自分に言い聞かせた。

 セレスがダイニングを出ていってしばらくして、ケイナは近づいて来た影に振り向かずに言った。
「来ると思った」
「もう遅いよ。寝ないと」
 カインはセレスが座っていた椅子に腰をおろした。
「腕に振動が伝わりでも?」
「心配ないよ。いたって平穏。ぴくりとも動かなかった」
 カインは自分の腕にあるバングルに手を触れて首を振った。
 ケイナが感情を異常に高ぶらせると、彼の抑制装置からバングルに信号が届くはずだった。
 ケイナは思わずカインを見た。カインは本当だというようにかすかにうなずいてみせた。
「さすがに彼を殴ったときはひやりとしたけれど。不思議だね。彼と一緒だと、きみはごく普通の感情表現ができるんだから」
 ケイナはそれを聞いてふん、というように目をそらせた。
「どうして彼に二年前の話を?」
 カインは尋ねたがケイナは答えなかった。
「本当に彼のことが気に入ってるんだな」
 そう言うと、ケイナはじろりとカインの顔を見た。
「そんな目で睨むなよ」
 カインは小さく口の端を歪める。
「こういうことも全部報告書にまとめるわけ?」
 険を含んだケイナの声にカインはため息をついた。
「きみはやっぱり全部お見通し…… まあ、ぼくらも予想していたことだったけど」
 ケイナはそれを聞いて嘲るような笑みを浮かべた。
「どうかしてるよ。おまえらが『ライン生』ですって通ると思ってたのかよ」
「普通はね」
 吐き出すように言うケイナの言葉にカインは降参、というように手をあげ、そしておろした。
「所長はさすがにぼくらをジェイク・ブロードの担当にはしなかった。彼くらいだよ。きみみたいに見抜く可能性があるのは」
 カインはメガネをとって目をこすった。ケイナを見ていると目が痛く感じられたのだ。
「二年前のことはおまえのせいじゃない。おまえとアシュアが助けてくれたからむしろ感謝してる。命を落とさずに済んだやつらもたくさんいたと思う……」
「……」
 ケイナは今でも自分が二年前のあの出来事を後悔しているのをわかっていたのか……
 カインは少し驚いていた。人のことには全く無頓着だと思っていたからだ。
「それと…… セレスのことは報告するな」
 ケイナの強い口調にカインは目をあげた。
「最初からそのつもりだよ」
 カインはケイナの様子をうかがいながら答えた。
「そんなに彼のことが心配かい」
 冷静を装ったがショックだった。いともあっさりとケイナを惹きつけた少年。いったい彼のどこがこんなにケイナの心を惹きつけるんだ……。ぼくらは途方もない時間を要したというのに。
「あいつは何にも知らない」
 ケイナは椅子の背にもたれて天井を仰いだ。
「あいつは関係ない」
「そのわりには彼に近づくじゃないか。誰にも言ったことのない話をして」
 ケイナは無言だった。
 そうだよ、ケイナ。きみのやっていることは言葉と裏腹だ。
 きみは今夜、ぼくらが今まで聞いたこともないほどたくさんしゃべった。
 いったい何を考えてる……。
「なんで18歳かな……」
 ケイナは天井を見つめたままつぶやいた。
「おまえやアシュアや…… あいつにも。もっと時間があれば話せたのに」
 カインは怪訝そうにケイナを見た。彼の顔には何の表情もあらわれていない。
「小さい頃からずっとデータをとられてた。遺伝子情報や運動能力や、生殖検査や…… なんだかんだと名目をつけてたけど、結局おれの体が…… 細胞がまるごと欲しいだけだ」
「なんのことだ?」
 カインは目を細めた。ケイナが何を言いたいのか分からなかった。
「歳を取らずに細胞も死なない状態で、ずっと保存してデータを取るんだ」
 ケイナは笑みを浮かべた。
「え?」
 心臓がドキリとした。
「まさか…… 仮死保存?」
 ケイナは冷ややかな目でカインを見た。
「やっぱり、何も知らないんだ」
「ちょっと待てよ!」
 カインは思わず声を荒げた。
「きみは人間だぞ! 仮死保存できるのは実験体の動物だけだ!」
「もともと住民登録もされていない『ノマド』出身のおれに、人間とか何とか主張する権利なんかない。レジーはおれを引き取った時点でリィ・カンパニーとそういう契約をしてる」
 契約? なんだそれ……
 カインは呆然としてケイナを見つめた。
 頭がくらくらした。ぼくは何も知らなかった。
 いや、知ろうともしていなかったもかもしれない。カンパニーのやっていることなど知りたくもなかった。
 健康体のケイナを仮死保存してカンパニーはいったい何をしようとしている?
「18歳など来なければいいって何度も思った。だけど…… もうどうでもいい。 眠ってしまえば何も分からない。夢もみない。なのに…… 時々怖くなる」
 出会って初めて聞くケイナの弱音だった。反射的に腕を見たが、警報作動しなかった。
「きみらしくない言葉だな」
 カインは動揺を押し隠して言った。ケイナは身を起こしてカインに目を向けた。
 カインはその目に真正面から見つめられるといつも背筋に震えが走る。
「おまえはリィの後継者なんだってことは知ってた。 おまえが仮死保存のことを知らないのも分かってた。何をどうしたっておれが18歳になった時の運命は変わらない。逃げも隠れもしない。でも……」
「でも?」
 カインは内心挑むような気持ちでケイナを見つめ返した。
「最後までいてくれよ。ガードでもなんでもいいよ。眠ってしまうまでそばにいて欲しい。リィの後継者ならそれができるよな」
 心臓が激しく動悸を打っていた。こんなケイナの言葉を聞けるなど夢にも思わなかった。
「リィの……」
 カインは自分の声が震えるのをどうすることもできなかった。
「リィの後継者とか、任務とか、もうそんなんじゃないよ。友だちだからこそきみを守るし、いつでも…… いつまでもきみのそばにいる ……アシュアも同じだ。ぼくらはきみを守る」
 ケイナはかすかに安心したような笑みを浮かべた。
「セレス・クレイのことも心配ない。きみが友人になりたいと思うのならぼくらの友人でもある。守るよ」
(だけど、カンパニーは甘くない……)
 カインは心の中で付け加えた
「このあいだの夜、どこに行ってたの?」
 ケイナとの一件があってから数日後、トニはシャワーから出てきたセレスに近づいて小声で言った。
 ケイナがまだ部屋に戻っていないのはいつものことだ。ジュディもまだ帰ってきていなかった。
 それでも小声になるのは人に聞かれたくない話だからだろう。
「このあいだの夜?」
 セレスは何のことか分からなかった。あれから射撃の訓練も始まり、連日ジェイク・ブロード教官にしごき倒されてくたくただった。彼は評判通り厳しい教官でセレスは腕の力が弱いためにいつも焦点がぶれると叱られてばかりいた。その日の目標レベルまで達しないと夜間訓練に呼び出される場合もあった。ただでさえきついカリキュラムに上乗せをされてセレスはついていくのがやっとだったのだ。
「このあいだの夜だよ。ケイナとなんか言い合いをして部屋を出てったきり、1時間くらい戻ってこなかったろ」
「ああ…… あのとき……」
 セレスは肩をすくめてトニから目をそらせると、シャワーで濡れた髪をタオルでこすった。
「別にどこにも…… 彼とダイニングでずっと話してた」
「ケイナと1時間も?」
 トニは目を丸くした。
「おれ、事故にあったハイライン生が死んだって聞いたとき、ケイナが平気な顔をしてるのが信じられなかったんだ。それで、なんでそんなに平気な顔できるのかって言って、彼を怒らせちゃったんだ」
 なんでもないように言うセレスにトニは口をあんぐりとあけて見た。
 セレスはトニに隠しごとをするつもりはなかった。だから正直に話した。
 怒ったケイナが部屋を飛び出したので追いかけたこと、それで殴られたこと、ケイナが過去に負傷した手で殴ったために倒れたこと、それを冷やすためにダイニングに行ったこと……。
 トニに言わなかったのは、ケイナがなぜ左手を負傷したのか、その理由だけだった。
 トニは黙って聞いていたが、納得したようにうなずいた。
「たぶん、そんなことだと思ったよ」
「なんかあったの?」
 セレスは椅子に腰をおろしてトニを見た。トニはセレスのベッドの端に腰を下ろした。個人のブースの中にはそこしか座る場所がなかったからだ。
(うわさ)を耳にしたんだ。きみとケイナが夜部屋を抜け出してどこかにいっちまったって……」
「ふうん……」
 セレスは興味がなさそうにつぶやいて首にかけたタオルを取った。
 おおかた噂の出所はジュディだろう。言われなくても分かっていた。ジュディはあのとき目を覚ましていたのだ。
「きみはぼくの忠告なんて何にも聞いてないんだから。おまけにホントに怖いもの知らずだよ。ケイナにそんなこと言ったら殴られても当然だ。ケイナでなくったって怒るよ、普通」
 トニは呆れたように首を振って言った。
「でも、おかげでケイナは冷たい人じゃないって分かったよ」
 セレスは答えた。
「セレスの大バカ野郎」
 トニは顔をしかめ、そしてため息をついた。
「まあね…… きみみたいに彼に真正面から言いたいことぶつける人、これまでいなかったのかも。あのケイナが自分から自分のこと話すんだもの、彼はきみには普通の態度をとるみたいだね」
 トニの口調にはかすかに羨望の色がこもっていた。近づいてはいけないと分かっていてもケイナは『ライン』では優秀な訓練生であることに変わりはなかった。
「じゃあ、おまえも話をしてみれば?」
 背後で声がして、トニはびっくりして振り向いた。
 いつの間に部屋に戻ってきていたのか、ジュディがセレスのブースの入り口に立って冷たい目をふたりに向けていた。
「ライン一の優等生とお近づきになれたらいい気分だろ。ライン一の美形と仲良くなれてラッキーだろ」
 ジュディは冷ややかで下劣な笑みを浮かべていた。
「なんだよ、それ……」
 トニはむっとしたように彼の顔を見た。
「なにって、言葉そのまんまだよ」
 ジュディは怯む様子もなく言った。セレスは黙っていた。ジュディの態度にはもう慣れっこだった。何かあるごとに文句をつけたくてしようがないのだ。
 しかし、そのあとにジュディの言った言葉には思わず血が昇った。
「男ばっかりで5年間も過ごす『ライン』でケイナみたいにご面相は上級生のおもちゃになるんだ。ケイナもそんなことが続けばその気になるんじゃないの。相手が男だろうと女だろうと年上だろうと年下だろうとおかまいなしってことさ。自分に気がありそうな下級生を夜中に誘い出してちょっと欲求の吐け口にしたくもなったんじゃねえの」
「あっちに行け。おまえの下品な言葉なんか聞きたかないよ」
 セレスは口を歪めて言った。ジュディのあからさまな言葉に吐き気がした。
 しかしジュディはさらににやにやと笑みを広げただけだ。セレスが反応したので、しめたと思ったようだ。
「ケイナのキスは優しかったかい。殴られて切れた口元をなめてくれたか?」
 セレスががたんと勢いよく立ち上がったので、トニが慌てて彼の腕を掴んで押しとどめた。
「知らないとは言わせないぜ。おまえは彼がどうして左手を負傷したか聞いてるはずだ」
 ジュディは言い募った。セレスはびくりとして彼を仰視した。
「二年前、彼は数人の上級生に足を縛られ、利き手だった左手を砕かれた。そのあと彼はレイプされてるんだ」
「ジュディ! それはただの噂だ!」
 セレスの腕を必死になって掴みながらトニが怒鳴った。セレスは思わずトニの顔を見た。
「トニ、きみもそんな話を聞いてんのか?」
「単なる噂だよ」
 トニは必死になって言った。
「あの事件を知ってる人はいるよ。でも、彼が手を砕かれたってこと以外分からない。真相は当事者しか知らないんだ。残ってるのは噂だけで犯人だった上級生はみんなラインを辞めてるんだ。本当のことを知ってるのはケイナと、ケイナを助けたカイン・リィとアシュア・セスだけなんだ」
「ケイナはあんまり覚えてないって……」
 セレスは混乱したようにつぶやいた。
「言うわけないじゃないか」
 ジュディはせせら笑った。
「自分からレイプされましたなんて言う人間がいるもんか」
 セレスは唸り声をあげた。
「ケイナの気持ちも知らないで……!」
「やめろ! セレス!」
 ジュディに飛び掛かろうとするセレスをトニは必死になって止めた。
 喧嘩(けんか)は反省室送りだ。やっと『ライン』での生活に慣れてきた大事な時期に反省室送りになってはまずい。
「ジュディ! 自分がケイナに目を向けてもらえないからってセレスに八つ当たりするな!」
 トニは叫んだ。
 その言葉はジュディの核心をついたようだ。彼の白い顔にみるみる血が昇り、まだらに赤くなった。
「きみはここに来た時からケイナに目をかけてもらいたくてしようがなかったんだろう! それがうまくいかなくてセレスとケイナがよく話してるのが気にくわないんだ!」
 トニがそう叫ぶやいなや、ジュディのこぶしがトニの頬に飛んでいた。トニはセレスのブースのデスクにぶつかり、大きな音をたてた。
 それを見たセレスがジュディに飛び掛かろうとしたが、トニはセレスの腰にしがみついた。
「セレス、だめだっ! 殴ったら処罰対象になる!」
 セレスは振り上げたこぶしを震わせてジュディを睨んだ。ジュディの顔はさらに赤くなり、肩で息をしていた。
「セレス、頼むよ」
 トニの懇願するような声にセレスは唇を震わせてジュディを殴るかわりにデスクの天板を殴った。そして乱暴にトニの腕を離すと、ジュディの横をすりぬけて部屋を出た。
それを見送ったトニは立ち上がるとまだ息をきらしているジュディに言った。
「心配すんなよ。殴ったことは誰にも言わないからさ」
 そう言って頬を冷やすためにバスルームに入っていった。

 部屋を飛び出したはいいが、セレスはどこに行けばいいのか思い浮かばなかった。
 体はもうくたくただった。泣き出したい気分だ。
(ケイナはレイプされてるんだ)
 再び頭の中でジュディの言葉が響いた。
「だから?」
 セレスは(うめ)いた。
「だったらケイナはケイナじゃないの?」
立ち止まって唇を噛んだ。涙がこぼれそうな気がした。
「頭の中に冷たい風が吹くって…… ケイナはそう言ってたじゃないか」
 『ライン』の不自由なところはハイライン生になって個室を与えられるまではひとりになれる場所がない、ということだった。
 ライブラリなら静かだし少しは頭を冷やせるだろうか。
 今の時間なら人もいないかもしれない。そう思って廊下を横切ってそちらに向かった。
 部屋の前で中を覗いてみると夕食の時間なのでほとんど人はいなかった。好都合だ。
 空いていた隅の映像ライブラリーのブースにセレスは身を滑り込ませた。ここなら周りからは隔離されている。椅子に座ってしまえば目の前はモニターだし、左右は壁に仕切られていた。
 何を見る気もなかったがやみくもに目の前のキイをたたき、ビデオをセレクトした。画面に景色らしいものが映ったが、やはり興味は湧かなかった。
 ケイナは何も見えない真っ暗やみで手を砕かれ、叫び声も出せずに皮膚を切り裂かれ、殴られ…… どれほど恐ろしかっただろう……。
 それをあんなふうに言うなんて許せない。
「ロウラインでもこんな課題が出るのかい?」
 いきなり背後で声がしたので、ぎくりとしてセレスは振り向いた。黒髪の少年が立っていた。アルの部屋のルームリーダーのカイン・リィだ。よりにもよってこんなときにこんな苦手な人物に声をかけられた我が身を呪った。
「ここ、ハイラインになってから行く野外訓練場所だよ」
 カインは笑って言った。セレスは慌てて画面に目をやった。 景色だと思っていたのは訓練場所の説明だったらしい。今はしかめ面の教官の顔が映っている。
「ルームメイトとケンカでもしたのか」
 言い当てられてぎょっとしたが、セレスは彼から顔を背けたまま黙っていた。
「別に急ぎじゃないんなら、もう少し見栄えのいい別の映像を見せてあげるよ」
 カインはそう言うとセレスの後ろから腕を伸ばしてキイを叩き、番号を入力した。
 しばらくして出てきたのは海の映像だった。
「きれいだろ。地球の海だよ」
「地球の?」
 セレスはびっくりした。地球の海なんてどこも灰色に濁っている。砂浜は腐った汚物の臭いがするし、どろんとした波が嘗めるように寄せては返すだけだ。
 しかし、この映像では蒼くて透明な水の世界だ。じっと見つめていると夢の中に入っていきそうな気持ちになる。太陽の光も澄んでいた。
 あのどろりとした水がどうすればこんなに美しく光るのだろう。
「100年前か150年前か、旧時代の映像だからだいぶん質は悪いけれど、このデータが一番きれいに残ってるやつかもしれないな」
 カインは言った。
「海はすべての生物の根源だよ。きみも『ジュニア・スクール』で教わったと思うけれど、海からすべては生まれた。今は人工でしか増やせない木々もだ。その木々は水がなければ生きられない。緑は大きくなって大気を清浄化させ、それが海の蒼さを造るんだ」
「カインさんはロマンチスト? それとも生物学者志望?」
 セレスは言った。
「ラインの軍科生らしくないよ」
 それを聞いて、カインはかすかに声をたてて笑った。
「ぼくは地球の血が半分しか混じってないんだ。半分はアライドという星で。ぼくは生まれてから一度もアライドに行っていないけれど、映像で見たり調べたりした。いろいろ調べてると地球のように美しい星は本当に少ないっていうことがよく分かったよ。汚染された星でも、ぼくは地球を誇りに思うし、ぼくらの使命はこの美しさを取り戻すことかもしれない」
「じゃあ、どうしてラインの軍科に?」
 セレスが尋ねるとカインはセレスを見て眉を吊り上げた。
「ぼくは母の意向に背くように教育されていない」
「お母さんの希望だったの?」
 セレスはびっくりした。カインは笑みを浮かべた。
「母の…… というより『家』の意思と言ったほうがいいのかな。そういう家柄なんだよ。ぼくは跡取りだから、それには背けない」
 カインはそう言って再び腕を伸ばすとキイを叩いた。別のアングルの海の映像が映し出された。カメラが海の中に潜り込んでいる。見渡す限りの蒼い世界だった。
 セレスは映像を見つめた。海の中ってきれいだ。
「きれいだろ。この色、ケイナの目の色によく似てないか」
「ケイナの……」
 セレスはつぶやいた。
 本当だった。光の加減で群青色や藍色やコバルトブルーに見えるケイナの瞳はこの海の色そっくりだった。そして、セレスはふともうひとり同じ目の色を持つ人間を思い出した。
 兄だ。兄が同じ色の目をしている。いままでどうして気づかなかったのだろう……。
 ケイナに周りがびっくりするくらい気負いもなく話せたのは彼が兄と同じ目を持っていたからだったのかもしれない。
 ラインに入って四ヶ月、セレスは一度も兄と連絡をとっていなかった。
 ハルド兄さんは今頃どうしているだろう。きっと変わらず多忙な毎日を送っているに違いない。
 セレスはぼんやりとそんなことを考えた。
(うわさ)など気にするな」
 カインの言葉にはっと我に返った。
「あんなくだらない噂、気に病むだけ馬鹿馬鹿しいさ。ケイナみたいに堂々としていろ」
 セレスは一瞬カインを振り向いたが、目を伏せた。
 そうだ。自分の耳に入った噂がケイナの耳に入らないはずがない。
 ケイナはこんなことにいちいち動揺したりはしないだろう。
「それに、あの時はぼくらもきみたちのそばにいた。もちろんケイナはそれを知ってる」
「え?」
 セレスは仰天した。
「そばにいた? ぼくら……?」
 カインは笑みを浮かべた。
「じゃあ、ずっと見てたってこと……?」
「そう。部屋を飛び出してからきみが殴られてそのあともずっと」
「趣味悪い」
 セレスが言ったので、カインは肩をすくめた。
「ケイナはひとりにはできない。いつもどちらかが彼のそばにいる。もうひとりはアシュア・セスだ。バッガスとケンカした赤毛の奴だよ。ぼくらは同じ訓練グループだしね」
「二年前の事件があったから?」
 セレスがおそるおそる尋ねるとカインの顔にかすかに不快感が浮かんだ。
「それもある。彼は自分で自分を身を守れるけれど、それには限界もある」
 この人とアシュア・セスがあのときケイナを助けた。本当のことを知っているのは、ケイナとカインとアシュア……。
 セレスはカインの顔を見つめた。メガネの奥の黒い切れ長の目はやはり怖かった。
「ケイナが自分からあの事件のことを当事者じゃない人間に話したのは初めてだよ。これまで彼は自分のことに精一杯で人のことなんかあんまり考えなかった。特に新入生のことなんか彼にとっちゃいないも同然だったろうね。だけど、きみに出会ってからケイナは変わったよ。ぼくはできればきみにケイナのいい友人になってもらいたいと思ってる」
 セレスはびっくりしてカインを見た。
「ケイナは感情抑制装置を外すとまだダメなんだ。だけど、きみと話すとものすごく落ち着くみたいだ。もしかしたらいつか装置を外せるようになるような気がする」
 カインは手を差し出した。
「ケイナのそばにいてやってくれよ。これはケイナの友人としての頼みだ」
 セレスは戸惑ったようにカインの手を見つめた。形のいい長い指だ。
 カインの言葉はとても嬉しいものだったが、その手を握り返すことがどうしてもできなかった。
 カインはしばらくそのままでいたが、やがてかすかにうなずいてセレスに背を向け立ち去った。
 セレスはほうっと息を吐いてカインがつけたままにしていった海の映像を見つめた。