――僕はあの時、君に何を言って何をしたのだろうか。

 ハープの優しい音色が作り出したかのような君に――僕が恋をしている君に。

 斜め前に視線がいってしまう。その視線の先にあるものを少し眺めていると、森の匂いでも運んできたかのような優しい風が吹き、カーテンを棚引かせた。思わずここが高校の教室だということを忘れてしまいそうだ。

 先生がチョークで文字を書き始める。『カキカキ』という音が響く。生徒たちはそれをノートに板書し始める。僕もそれを書き始めた。

 先生は書き終えたあと、何かを話しだした。でも、僕は先生の声が目の前に厚い壁でもあるかのように、かき消されてしまう。耳が聴こえないとかそういう訳じゃない。なぜか今日はやけに彼女のことが気になってしまうのだ。僕の心がもってかれてしまうかのように。

 彼女のことを好きになってしまったのは、今から2ヶ月ほど前の2月中頃の話。その日、彼女の優しさにすぐに僕の心が奪われてしまったのだ。彼女はそれが当たり前かのように僕に……。でも、その大切な出来事の中で思い出したい事がある――僕が最後に何を言って、何をしたのか。その記憶は消されてしまったのだろうか。
 


 ――君を好きになったのは今から2ヶ月前の2月の中頃。

 その日の前日は暴力的にただひたすらに視界を遮り、この街の風景を全く違うものにしてしまうかのように真っ白な雪が降っていた。結果的に僕らの街では雪が30センチ以上積もったことをニュースで知った。雪国の人ならこんな雪はほんの少しに過ぎなくて、逆に冬に天から贈られる物とか思う人もいるのかもしれない。でも、僕らの街にとっては強い台風が来たかのように混乱する出来事だった。電車は続々とドミノ倒しのように止まり、駅は花火大会があるときのように大混雑し、道路では車が何台もスリップしたみたいだ。

 翌日になると雪はピタリと時が止まったかのようにやんだ。だから僕はずっと行きたいと思っていた新しくできたCD屋さんに行くことにし、外に出た。街はまだ混乱していたけれど、銀世界とか別の世界のように幻想的で、美しくもあった。

「あれ、大希(だいき)くん!」

「あ、桜菜(さな)さん?」

 帰り道に僕の高校の同級生の桜菜さん――今の僕が好きな人に会った。この頃まだ僕は桜菜さんに好意というか特別な感情は抱いていなかった。でも、優しい人だなとかそういうことは今と同じで思っていた。

「昨日の雪はすごかったねー」

「うん、本当だよ。この世の終わりかとも思ったよ」

「それは言いすぎじゃない?」

「たしかに、そうだね」
  
 桜菜さんとは途中まで同じ道だったのでそこまで雪の降り積もる街を一緒に帰ることにした。でも、雪が積もっていて歩ける場所が限られていたので、桜菜さんとの距離が自然と近くなってしまい少し緊張した。別に仲が良かったとかではないけど、桜菜さんが僕に話しかけてくれるから気まずい空気とかにはならなかった。というかあまり話すことのない人との会話は楽しかった。

「私、勉強する時チョコクッキーとか食べるとなんか頭に入るんだよね。大希くんは何かそういうのない?」

「んー、僕はキャラメルを食べるとやる気出てくるかもー」

「うん、分かるー」

 いかにも高校生らしい話をしていたなと今振り返れば思う。高校生といえばやはりお菓子とか美味しいものの話題だ。

「あ、っ!」

「あー!」

 そう思ったときにはもう体を自分でコントロールすることは出来なかった。雪の凍結で僕と桜菜さんの足があっという間に奪われる――夢を見ているようなそんな感じだった。僕らは少し急な土手に転げ落ちてしまった。

「あっ、て」

「うー」

 その衝撃で体になにか刺さったかのように痛む。僕は少しの間、痛さで動くことが出来なかった。体にある電池が切れてしまいそうな、この世界に自分はいないんじゃないかと思って目をつぶった。その時、僕の耳にオレンジ色とかで表現されるそんな温かいものが聞こえてくるような――音楽のような音がした。

「大希くん、大丈夫?」

 心配そうな声――誰と思って僕が閉じた目を開けると、真っ白な世界に1つの明かりがあった。その光の正体は桜菜さん。

「あ、いや桜菜さんも――」

 僕が桜菜さんも怪我してるじゃんと言おうとするのを遮るかのように桜菜さんが言った。

「大希くん、少し待ってて、今、手当てするから!」

 桜菜さんは少し早口だった。桜菜さんだって怪我をして、痛めているようで、時々右腕とかを触っていた。でも、それでも僕の手当を優先した。まるで自分のことなんて知らないかのように。

 桜菜さんがどんな表情をしていたのかはよく覚えていない。でも、持っていたタオルとかで僕の左腕を固定してくれたことを鮮明に、今でも情景が浮かぶかのように覚えている。彼女が手当てをしている時、少し手が触れてしまった。その手はこの世界にあるどんなものを使っても表現できないぐらいに温かかった。

「あの、桜菜さん――」

 そして僕は何かを桜菜さんに言った。そして、その後何かをした。でも、思い出せない。だけど、何かを言って、何かをしたこと。それだけは覚えている。

 幸い僕らの怪我は入院するほどとか、骨折してたとかではなかったので、痛みとかは少しの間続いたけれど、いつの間にか魔法がかかったかのように治っていた。



 あの日からもう2ヶ月ほどが経ったのか。何か感じるんだよな。

「はい。じゃあ今日はこれで終わります。ではさようなら」

 さっきまで1時間目のはずだったのに、いつの間にか学校の終わりを告げるチャイムが鳴っていた。

「あ、大希、今日だからなー。忘れずに来いよ!」

「分かってるって」

 さよならの挨拶が終わると、季希(りき)が僕のもとに駆け寄ってきた。そんなに心配されなくても、今日のたこ焼きパーティーのことは忘れてない。だって楽しみにしていたし。

「材料も忘れるなよ!」
 
 海也(かいや)も僕にそう忠告してきた。そこまで心配しなくてもいいのに。

 一旦家に帰ってから季希の家に向かう。僕が季希の家に着く。鍵があいていたのでそのまま入ると、もう季希と海也はリビングにあるテーブルで準備を始めていた。

「おー、来たか」

「次、大希回して」

 海也にそう言われたので、持ってきた材料を置いてからボールの中にあるものを泡立て器で回していく。中には肌色の液体みたいなのがある。たぶんこれが生地だろう。

「でも、季希、なんか多くない?」

 ふと気になったことを季希に聞く。前にたこ焼きパーティーをやったときにはもっと小さなボールだった気がする。

「えっと……、なんかお母さんが買いすぎたみたいでさー。でも、使う機会ないから全部使えって」

「ふーん。じゃあしょうがないな」

 僕がかき回している間、二人は具材の準備をしていた。かき混ぜ終わると、たこ焼き器にサラダ油を引いた後生地を入れる。どうでもいいけど、一応僕の父が大阪人なので少し慣れている。まだ生地しかないけど、完成したイメージが音だけで脳裏に映し出される。美味しそうだ。

「はい、じゃあ交代するか」

「じゃあお願い」

 生地を入れ終わったところで、次に具材を入れていくため海也と交代する。その時、ふとインターホンが鳴る。

 今は手が開いてるし、出た方がいいかなと思い、僕は玄関の方へ行く。

 僕はドアを開ける。ん? なんか少し――。

「あの、すみません。ここ、パン屋ですか?」

 ――えっ? 

「なんで桜菜さんと、音海(おとみ)さん!?」

 僕の目の前には桜菜さんと、同じクラスで桜菜さんの友達の音海さんがいた。心の中が急に熱くなる。えっ、状況がよくわからない。抜き打ちテストのようにテンパっている。

「あれ? ここじゃない? こんな感じの家でパン屋やってるとこがあるって聞いたんだけど……」

「あー、それうちの隣ね。でも、今日定休日だよ」

 全く何のことかわからず困っていると、幸い季希が来てくれて、そう説明してくれた。こんなとこにパン屋なんてあるんだ。

「そうか……」

 2人はわかりやすく残念そうな顔をしていた。さっきまで僕の耳の流れていたBGMが止まる。

「あ、よかったら2人もたこ焼きパーティーしていかない? なんか材料がめっちゃあって」

「えっ、いいの?」

 今度は2人はわかりやすく子供みたいに嬉しそうな顔をする。表情ってこんなにコロコロ変わるんだ。けっこう失礼だけど嘘っぽくも見える。

「うん、いいよ、いいよ」

「じゃあ、失礼しまーす」

 2人はごく自然と靴を脱ぎ、季希の家に入っていく。えっ! ちょっと! 嬉しいけど、ハードル高いんですけど!

 ということで、5人でたこ焼きパーティーをすることになった。準備は皆で進めたが、たこ焼きをひっくり返すのはやはり経験者の僕だ。桜菜さんに腕を見せられたし、それにすごいと言ってもらえてテストで100点を取れたかのようにすごく嬉しかった。やっぱり認めてもらえることは格別だ。

 まるでお店で売っていてもおかしくないくらい焼き目が輝いているたこ焼きができた。それにたこ焼き器からの音がBGMのようだった。

「じゃあ、いただきます!」

 やばい、僕、桜菜さんの隣なんですけど! 
 
 僕はなんとか緊張を抑えてまず1つ目をいただく。

 あっ、これはコーンだ。食感が楽しい。口の中でリオのカーニバルが開催されているかのようだ。今回はこんな感じに変わり種も含めていろんな具材を入れている。

「あ、俺あたりのタコだ!」

 あたりなのかはよくわからないが、海也はたこが入っていたことに喜んでいた。

「俺はチーズだった」

 チーズも間違いないだろうな。羨ましい。

「桜菜さんは? 何だった?」

「私はチョコだった。なんかすごく特別な味がして、今までで一番好きかも!」

 桜菜さんはチョコだったのか。表情からも美味しいことが伝わってくる。意外とあうんだ。

「それ、大希のチョイスだよ」

「へー」

 海也、それ言わなくていいのに! 恥ずかしいじゃん! でも、あの時のお礼――とは到底ならないだろうけど少し、ほんの少しだけ桜菜さんにほんの少しだけ恩を返すことができたんじゃないだろうか。

「大希くん、美味しいもの、ありがとうね」

 桜菜さんの優しく包み込むかのような笑顔に自然と顔が赤くなってしまっている気がする。あの日が蘇る。僕は桜菜さんに告白すべきなのだろうか?

 この感情。僕のもつ大切な感情。

 草原にいるような、どこにでも駆けていけるようなその気持ちを、どうすればいいんだろう。どこに走っていけばいいんだろう。

 この後もたこ焼きパーティーは続いた。もちろん少し合わないんじゃない? っていう具材も合ったけれどもそれが笑いになったりしてとても楽しかった。誰もが自然と笑顔になってしまう僕の人生の忘れられない1ピースになるそんなパーティーだった。
 


 今はお風呂も入り終わったので、スマホで動画を見ながらベッドでごろごろしている。この時間が自分にとってのルーティーンになっている感じがする。

 LINEが来たことを知らせる着信音が何の前触れもなく(それは当たり前なのだけど)鳴った。

 誰から? と思ったけど、それは思ってもなかった相手――桜菜さんからだった。桜菜さんとは1年生のときに係の仕事の関係でLINEを交換していたけど、2年生になってからLINEが来るのは初めてだった。

『大希くん、何も聞かずに3日間、質問に答えてほしい。なんでこうしてるのは今度ちゃんと話すから。少し答えづらい質問もあるかもだけど、お願い!』

 何だろうかとは思うけど、僕はなぜこうするのか聞く勇気なんてどこにも存在しない。そう思ってるとLINEの続きが来た。

『今日の質問
 
 大希くんはパンとご飯どっち派? パンが好きだとしたら何のパンが好き?』

 どういう意図があるのかは分からないけど、とりあえず指示通りに答えればいいんだろう。僕は小さい頃から朝はパンと決まっているし、パン屋を見つけるとすぐに入っちゃう謎の習性をもってるからパンのほうが好きだな。特に好きなのはクロワッサンかな。あの食感と味が……。

『パン派でクロワッサンが好きだよ』

『本当!? 嬉しいな』

 えっ、僕がパン派でクロワッサンが好きで何で嬉しいんだろう。桜菜さんもパン派でクロワッサンが好きだから仲間がいて嬉しい、とか? それとも何か別の意味が……?

『あ、ごめん! 何でもない。じゃあ、おやすみなさい』

 僕がそういうことを考えていると訂正するように――焦っているかのようにそう返信が来た。

 あと2回の質問? 

 なんで桜菜さんは僕にそういうことをしてきたのだろう。



「ほんとはこういうことしちゃダメだからな」

「分かってるよ」

「そうだぞ」

 僕らが今何をしているのか――李希が学校に明日締切の課題を忘れたからって、学校の完全下校がもうとっくに過ぎた8時過ぎに学校に侵入(?)しているのだ。でも運よく担当の人が締め忘れたのか、それとも元々この時間には閉まっていなかったのかは分からないけど、昇降口の鍵が空いていた。

 明日までの課題とはいえ、李希のせいで呼び出された僕と海也はひどい迷惑だ。まだ8時過ぎだから学校には先生もいるだろうし、バレないかと鳥肌がさっきから立ちっぱなしで落ち着かない。それに夜の学校っていいイメージがない。大体お話に出てくる夜の学校って何かしらの事件が起こるんじゃないか。でも、そんなことを考えている暇はない。早く出たい。

 自分のクラスに着いた。いつもよりも狭く感じる。

「あ、待てよ!」

 明かりをつけようとしていた李希を、海也が慌てて静止する。

「明かりつけると、バレるぞ」

「あ、そうだ」

 海也は僕らよりもいくらか冷静みたいだ。李希が自分の机から課題を取ると教室の入り口にいる僕らの元へ駆け寄ってきた。ほんの数秒の出来事だった。

「本当にありがとな」

「そうだよ、感謝しろ」

 海也はもうどうでもいいっという風にそう吐き出した。

「なんか、教室、少し汚いよなー」

 海也が周りを少し見渡したあと、そう呟く。分からないけど、そんな感じがする。

「掃除していかない?」

「いやー、早く帰ろうよー。バレるよー」

 海也がなぜだかそんなことを言い出した。僕は一刻も早く学校から抜け出したいのに……。

「だって、いま出てバレたら怒られるだけだぞ。でも、掃除すれば少しはいいんじゃない?」

 たしかにそうかもとは思うけど……、やっぱり脳が拒否の命令を出している。だけど、李希もそうだねと納得してしまったため2対1は流石にかなわないと思い、掃除することにした。

「あ……」

 僕のほうきが誰かの机に当たったせいで、折りたたまれた小さな紙らしきものが落ちてきた。ここはたしか桜菜さんの席だと思いながらその紙を拾う。なんだろう?

「どうしたの?」

 何か面白いものを見つけたかと思ったのか、2人が掃除なんて忘れてしまったかのように駆け出してきた。

「いや、何か桜菜さんの机から……」

「誰かへのラブレターじゃね」

 李希が自然な感じでそう言う。自然にそう言われると頭が急に何かにぶつかったかのような錯覚がする。

 いや、でもこの形、ラブレターとかではない気がする。もう少し、ラブレターだったらちゃんとした紙に書くんじゃないだろうか。でも、絶対違うとは否定できない。だけど、これを開くのは流石に僕にはできない。ラブレターではないんだろうけど、開いたらなんか体が吹き飛ばされそうな……。

「閉まっておこう」

 僕は元の位置にその紙を戻した。もし、仮にだけどラブレターだとしたら誰なんだろう。桜菜さんが好きな人って……。

「じゃあ、片付けるか……」

「うん」

 2人は気が済むまで掃除ができたのか、ほうきをしまって塵取りにゴミを入れ始めた。僕は少しその桜菜さんの席の近くに何も考えることなく立っていた。

 家に帰り、10時を過ぎた頃、また昨日のように桜菜さんからLINEで質問が来た。

『昨日よりあれな質問だけど、お願い。

 今日の質問は、君がもし好きな人がいたら何してあげる?』

 やはり、桜菜さんには好きな人がいるんだろうか。だってこういうのって誰か好きな人がいるからやるんだろうし……。でも、その誰かは僕ではないんだろう。だって、普通こういうの好きな人には直接聞かないから。んー桜菜さんの好きな人は悔しいけど季希とか海也とか? だけど、桜菜さんの力に少しでもなれるんだとしたら、僕もそれは嬉しいんじゃないだろうか。

『そうだな、その人の好きなものたくさん聞いて、それを食べさせてあげたいかな』

 少し返信するのが怖かった。でも、僕の指が何とか押してくれた。



 次の日の朝、僕が教室に入ると特に変わった様子はなかった。別に誰も昨日夜に誰かが侵入したかと疑うことも、教室が昨日よりきれいになってるんじゃないかってことも誰も言うことはなかった。僕らもそのことを何も言わずにいつも通りの学校生活を過ごした。

 今日なにか新しいことがあったとすれば桜菜さんがこの近くのパン屋で働いているのを知ったことだろう。音海さんとそんな話をしているのを聞いてしまった。別に僕がそこに行くとかは多分ないんだろうけど、そのことが今日1日(と言っても今日は学校が午前のみだけど)頭の端っこの方にそのことがあった。

 それで今日であの最初の質問から3日目。そういえば昨日、明日の分は少し早く送るって返信が来ていたな。

 家に帰った途端、桜菜さんからまるで家に帰るのを待っていたかのようにLINEが来た。

 その最後の質問を見た瞬間。僕の目が大きく開いたような感じがした。見たこともない景色を見たかのように。
 
『最後の質問。
 
 君には好きな人いる? それは誰?』

 手が震えた。痙攣(けいれん)してるかのように。スマホをうまく握れない。これ、本当に、書いていいんだろうか、君だと。

 僕はゆっくりと震える手で文字を打ち込んでいく。君の名前を。あの時助けてくれた君の名前を。君の優しさで僕は君を好きになった。

 ここまで来るのに時間がどれだけ経っただろうか。最後の文字まで打ち終えた。――そのとき急に画面がプツリと真っ白になった。

 ――えっ?

 真っ白……? 僕の頭が真っ白に? いや、違う――まさか通信障害? 

 僕の予想が当たったらしくテレビではその通信障害のニュースが報道されていた。

 この質問に、どう……。あっ! たしか、桜菜さんは、パン屋で!

 僕はもう一目散に家を出て、桜菜さんのいるパン屋へ走っていく。誰かに背中を強く押されているかのようにスピードが加速していく。僕のところだけスポットライト――太陽が特に強く当たっているんじゃないか。

 でも、僕が直接質問に答えたところで、開かなかった箱が開くとかみたいに何かが起こるんだろうか。そんなのは分からない。

 だけど、こういう質問の答えは直接答えるからいいんじゃないだろうか。

 あと、少しで君が――。

 国道から少し外れた、周りに家が立ち並ぶところにそのパン屋は昔からあるような伝統を感じさせるようにしてそこにあった。

 手動の扉を開けると鈴の音がチリンチリンと鳴る。

 そこには桜菜さんが待っていた――なんてことではなく、レジにいる桜菜さんとお客さんのような50代くらいの女の人が激しく揉めていた。

「なんで、この店が繁盛してるのに、私の店はお客さんが来てくれないのよ! 私たちの生活が! どうしてくれるの!」

「いや、ですからさっきも言いましたがそちらのパン屋のも美味しいですよ……」

「なによ! 開店した時はこっちのパン屋のほうが賑わってたのに、それにこっちのほうが美味しいはずよ。私のパンはダメなの?」

 桜菜さんは女の人の勢いに負けて体を縮めるようにしていた。自分ではもう対処できないかのように。ただ助けを待っているかのように……。手を差し伸べてほしいかのように。たしか、この女の人は……、この近くのパン屋の……。

 ――うん。

「あの……」

 僕は心に硬い鉄の塊を入れたあと、その女の人に声をかけた。

「なに!」

 女の人は睨むように僕を見たあと、僕が吹き飛ばされるんじゃないかと思うほど強い口調でそう言った。

「お客さん、来てほしいなら、大切なことがあります」

「えっ?」
 
 その女の人の声の大きさが一段階下がった。僕は小さく心のなかで深呼吸したあとに続ける。

「あなたの店のパンも食べたことあるし、美味しいと思います。でも、少し開店したときより変わってると思います。味は美味しいです。でも、何が足りないのかって――」

 僕は続ける。

「――人って慣れてくると大切なものを忘れてしまうことがあるんです。だからあなたは大切な何かを忘れてしまったんだと思います」

「大切な、何か……」

 その人はさっきのような口調なんかではなく、僕に優しくそう尋ねるように聞いてきた。

「はい」

 僕はただうんとうなずく。体がそよ風で満たされているそんな感じがした。

「たしかに、そうかも知れない。最初私は食べる人のことを一番に考えてた、でも段々美味しければいいと思う様になってたかも。ありがとう、そして店員さんごめんなさい。高校生に当たっちゃったね。今度うちの店来て、たくさんパンをあげるから」

 女の人は僕の方を向いて大切なものを忘れちゃったって言ったあとに、桜菜さんに深く心から謝っていた。それは僕にも十分わかった。その人はこの店をあとにした。

「大希くん、かっこよかったよ」

「そんなことないよ」

 正直言ってさっきのことなのにもう記憶がない。でも、何か伝わったということは心に刻まれている。僕がすごいなんてことない。それより!

「で、質問の答え……。通信障害起きてしまったみたいで……」

 これから僕にはやらなきゃいけないことがある。今なら君に言える。

「その前に、少しこっち来て……」

 桜菜さんはそう言って店の端っこの方に僕を案内した。

「これ……」

 桜菜さんが指したところには僕の一番好きなパンのクロワッサンがあった。でも、ただのクロワッサンではない。

「これ、『あたたかい雪』っていう名前のクロワッサンなんだ」

 そのクロワッサンにはホワイトチョコだろうか、それらしきものがイルミネーションのように美しくかかっていた。

「えっ?」

「これ、私が考えたの。学校とかでも紙に書いて考えてたんだけど……。これはあの日君が私に『優しさはどんなときも忘れちゃいけないんだね。僕は君みたいになれるように頑張っていくから』って言ってくれて、その後怪我している君は私の家まで私を支えて連れてってくれたんだよ。その優しさから思い付いたんだ」
 
 僕は覚えてないけど、そういうことを言って、そうしたのかもしれない。君の優しさに押されて……。だいたい今までのことがわかった。クロワッサンが好きと答えて喜んでいたのも、昨日見たあの紙に書いてあることも……あのことも……。

「あの、それで最後の質問の意味は?」

「まだわからないの?」

 えっ、そんなのわかるわけない。人の心は簡単には読めないから。

「君と同じ感情だよ」

「えっ!?」

 驚いてしまった。分かっているのか、僕の感情? 君を好きだっていうその感情。

「だって君の優しさで好きになっちゃったんだもん。私より何倍も君は優しかった。あの、私の彼氏になってくれませんか?」

 君の方が優しいよ。きっかけは君なんだから。君が僕にそうしてくれたから。でも今はそんなことより――

「はい。僕の彼女になってください」

「もちろん」

「はい。じゃあ、あとでこれ食べよう。君は好きな人に好きなもの食べてほしいんでしょ」

「そうだね」

 ――そのパンは桜菜さんの考案した名前の通りだった。