不倫ごっこしてみませんか?―なぜあなたも好きになってはいけないの?

土曜日の早朝、秋谷君からメールが入ったのに気が付いた。

[昨晩は一緒に飲んでいたことにしてくれ、頼む]。

すぐにアリバイ作りだなと思った。秋谷君らしくない、何ごともぬかりなくしているはずなのにと思った。すぐに[了解]と返信した。

朝食を終えた9時半ごろに家の電話が鳴った。この頃としては珍しい。めったに固定電話には連絡が入らない。廸が電話に出た。そしてすぐに僕を呼んだ。

「秋谷さんの奥さんから、あなたに出てほしいって」

「吉田です。ご主人にはいつもお世話になっております。ご主人に何かあったのですか?」

「すみません。お休みの日の早朝に」

「いえ、何か?」

「主人が昨晩は吉田さんとご一緒したというので、本当かどうかを内々に確認させていただきたくて、お電話しました」

思っていたとおりだった。秋谷君のために嘘をついてアリバイ作りをしてあげることにした。

「それなら、昨晩は秋谷君と居酒屋で飲んでいました。話が弾んでずいぶん遅くまで付き合わせてしまいました。申し訳ありませんでした」

「そうですか。ありがとうございます。安心いたしました。奥さまにご挨拶したいので、もう一度代っていただけませんか?」

「順子さんが君に挨拶したいそうだ」

秋谷君とは結婚式に招待し合ったし、新婚のころお互いの新居に招待し合ったことがある。廸と順子さんは顔見知りだ。そばで聞いていた廸に受話器を渡した。しばらく廸は順子さんの話を聞いていた。

「ええ、昨晩の主人ですか?」

廸が僕の顔を見ながら言った。僕はすぐにうんうんと頭を上下に振って合図した。

「主人は昨晩、秋谷さんと居酒屋で飲んできたといっておりました」

「ええ、ずいぶん楽しかったみたいです」

「いいえ、お気になさらないで下さい。今後ともよろしくお願いいたします」

廸は電話をおいて僕をじっとみた。

「ありがとう。話を合わせてくれて。秋谷家の家庭円満のためだ」

「秋谷さんは順子さんに内緒で悪いことでもしているの?」

「順子さんは何て言っていた?」

「昨晩、娘さんが急に熱を出したので早く帰ってきてほしいと電話したそうなの。でも電話がつながらなくて困ったそうよ。それで遅く帰ってきたので、問いただしたら、あなたと居酒屋で飲んでいて、周りがうるさかったので気付かなかったと謝っていたそうよ。以前にもこういうことがあったので、心配になって、今回はご主人には内緒であなたに確かめてみたそうよ」

「秋谷君にも困ったものだな。あんなよい奥さんがいるのに」

「何かしているの?」

「僕と飲んでいたことにしたのは、僕が安全パイだと思っているからだろう。何かあるのかもしれないな」

「何かって?」

「ひょっとして風俗にでも行って遊んでいたのかな?」

「どうしてそう思うの?」

「以前、連れて行ってもらったことがあるから」

「以前っていつ?」

「君と結婚する前、ずいぶん昔のことだ」

「今はどうなの?」

「誘われたことはあるが、僕は行っていない。誓って結婚してからは行っていない。本当だ」

「まあ、私が知らない時のことだから、しょうがないわね」

廸は気配りのできる女性だ。秋谷家にわざわざ波風を起こすことはしない。安心した。秋谷君は腋が甘い。最近特にそう思うようになっている。僕にしかアリバイ工作を頼めなかったところをみるとやはり順子さんに説明できないようなことをしていたとしか考えられない。上野さんに会っていたに違いない。今度会ったら本当のところを聞いて注意しておこう。

◆ ◆ ◆ 
あれから1か月ほどしてほとぼりが冷めたころ、秋谷君を飲みに誘った。今度は僕と飲むことを順子さんに話しておくように言っておいた。もちろん、廸にもこの飲み会のことを話しておいた。

飲む場所はもちろんアリバイ工作に使ったいつものうるさい居酒屋にした。待ち合わせ時刻を少し過ぎて秋谷君が現れた。

「このまえはすまん。恩に着る。うまくとりつくろえた」

「奥さんは内々に確認したいといっていたけど」

「あとで話してくれたが、おまえと廸さんに確認して安心したと言っていた」

「廸が気を使ってくれた。それでもう二度とああいうことは無しにしてくれ。僕にとばっちりがかかりかねないから」

「分かっている。これから気を付ける」

「それで本当のところはどうなんだ?」

「実は浮気していた」

「誰と? やはり上野さんか?」

「いや、吉田君とは面識のない人だ。彼女とは間隔をできるだけあけるように気をつけている」

「あきれるなあ、別の人? もっと詳しく話せ。僕には聞く権利がある」

「ああ、以前話したことがあると思うけど、既婚者合コンのこと」

「確か、気の合った人がいて名刺交換をしたと言っていなかったか?」

「その彼女から連絡が入った。あの晩の2~3日前に食事でもしませんかと。それで受けた。ご主人が出張でいないからとのことだった」

「どんな人?」

「一流商社のキャリアウーマンだ。Kさんとでも言っておこうか。38歳で2歳下。子供はいない」

「それで?」

「まあ、なるようになった」

「秋谷君はそういうことには長けているから、さすがだな。僕には到底まねできない。まあ、する気もないけどね」

「気が合ってなかなか良い人だった」

「一回限りにしておいた方が良いと思うけどな」

「付き合いを続けることにした。どちらもお互いの家庭は壊したくなくて、ただ会って、話をして慰め癒し合うだけで、そして絶対に分からないようにしようと約束した。次回からはもっと慎重に会うことも」

「慰め癒し合うって? 順子さんや上野さんとは違うのか?」

「どちらでもないような気がする。なあ、このごろ思うようになっているんだが、男って一人の女性だけと一生を共にしなければいけないのか? どう思う?」

「どう思うって? どうしてもとは思わないけど、ほかの人もとなると現実的に難しくないか? それに一人の女性を幸せにすることも大変なことなのに、ほかの人も幸せにすることなんてできるのか?」

「それができればいいんじゃないか? そう思うようになってきている」

「それは浮気の言い訳のように聞こえるけどな。女性の幸せがどういうことなのか、男の僕にはよく分からない。順子さんだって、上野さんだって、そのKさんだって分かっているのかどうか。それにそれぞれ幸せの考え方も違っているだろう。とにかく絶対にばれないようにしてくれよ。アリバイ作りはもう無しで頼む。廸がいつも協力してくれるとは限らないからな」

秋谷君の浮気癖にも困ったものだ。ただ、彼の言っていた「男って一人の女性だけと一生を共にしなければいけないのか?」の問いはどこかで聞いたことがあった。直美もあれによく似たことを言っていた。

でも直美が女性の立場で言うのと、秋谷君が男性の立場で言うのとは違っているような気がする。これは男女平等に反するかもしれないが、男には女性に対する責任みたいなものがもっと重い気がする。

僕は直美とのことがあるから「どうしても、とは思わないけど」と言葉を濁した。それに秋谷君とそのKさんとの関係はどこか僕と直美の関係に通じるものを感じた。

秋谷君と上野さんとの関係はどうなっているのだろうか? 秋谷君が彼女のことを話さなかったのでこちらもあえて聞かなかった。水面下では続いているのだろう。
秋谷君と別れて家についたのは9時を少し過ぎていた。廸はリビングでテレビのニュースを見ていた。恵理は自分の部屋で勉強をしているという。

「どうだった。話ははずんだ?」

「秋谷君にも困ったものだ。やはり浮気していた。正直に話してくれた。順子さんには絶対に話さないと約束するなら教えてあげる」

「私もあなたの片棒を担いだのだから聞かせてもらえないかしら。秋谷さんの家庭に波風を立てようとは思っていないから」

「君の意見も聞いてみたいから、話そうか」

廸には、それから彼女の意見を聞いて見たい部分を話した。既婚者合コンでKさんと知り合ったこと、アリバイ作りのあの日は前々日にKさんから夫が出張中とのことで誘いがあったこと、それから「お互いの家庭は壊したくなくて、ただ会って慰め癒し合うだけで、そして絶対に分からないようにしたい」と約束したこと、彼が「男って一人の女性だけと一生を共にしなければいけないのか?」と言っていたことなどを話した。

「それで二人は関係を続けるの?」

「僕は1回限りにしておいたらと言ってみたが、続けるつもりのようだった」

「順子さんに悪いとは思わないのかしら?」

「家庭は大切にしたいと秋谷君ははっきり言っていた。絶対に分からないようにしたい、分からなければなかったのと同じとまで言っていた」

「詭弁だわ。分からなくてもあったことに変わりはないわ」

「そうだね」

「秋谷さん夫妻の間柄は私たちとは違っているような気がするわ」

「秋谷夫妻は確か合コンで知り合った恋愛結婚で同い年だ。僕たちは職場結婚に近い。年の差は4歳ある」

「秋谷さんご夫妻とはお互いに自宅に招待したことがあるけど、私たちとは少し違う、そう感じた。どこがどう違うとははっきり言えないけど」

「僕から見ると秋谷夫妻は同じような考えを持った同志に見える。それに秋谷君は僕より男女の関係をドライに考えているように思う」

「私は順子さんにもそんな感じがした。二人にはべたべたしたところがなくて少し醒めている感じがしていました。私たちはもっとべたべたしていたと思う」

「べたべた? ラブラブの方が良くない?」

「そうラブラブ」

「秋谷さんは順子さんにないものをKさんに求めているのかしら? 私は順子さんもKさんも同じタイプの人のように感じるけど、どう思う?」

「Kさんと会ったことがないから分からないけど、同じタイプだと思うのか? でも話をして慰め癒し合うことができると言っていた。どこか順子さんとは違っているのだと思う」

「私には理解できないわ。そういえば以前、私もその既婚者合コンらしい集まりの誘いを受けたことがあるの」

「ええっ、本当か? それでそれで」

「興味がないから断った。だって、私はあなたと話していれば十分だから、ほかの人とお話する必要がある? あなたとは何でも話せるし、何でも話してくれるから、男の人はあなた一人で十分です」

「そうか、僕ひとりで十分か、安心した」

「私が浮気するとでも思ったの?」

「いや、君は絶対にしないと思う」

「絶対はないかも」

「ええっ、そうなの?」

「冗談です。お風呂に入りますか? 私もまだなので一緒に入りましょうか、背中を流してあげます」

「どうしたの?」

「ちょっとサービスしておかないと秋谷さんのように浮気でもされると困るから」

「そんなことは絶対ないけど、秋谷君のためにちょっともうかったな」

廸は勉強部屋の恵理を見にいった。先に入っていてというのでバスタブに浸かっていた。廸が二人でお風呂に入るからと恵理に断ってきたと入ってきた。廸としばらく話していたのでもう酔いはほとんど醒めていた。

廸はタオルに石鹸を付けて僕の背中を洗ってくれた、久しぶりに背中を流してもらって気持ちがいい。この後は僕が廸を洗ってあげることにした。

今までタオルかスポンジに石鹸をつけて洗ってやったことはあった。直美にしてやったように、今日は手に直接石鹸を付けてその手を身体に擦りつけて洗っていく。

座った廸は始め一瞬くすぐったいと身体をすくめたが、気持ちよかったのか、すぐに素直になすがままになった。まずは背中からお尻へゆっくりと洗っていく。お尻の溝に指を這わしてゆっくり洗うと廸は腰を浮かせた。

今度は立たせてこちらを向かせた。そして両手で首から胸、乳房、乳首、お腹、おへそ、大事な割れ目をゆっくり洗っていく。廸は気持ちがよいのか恥ずかしいのか目をつむっている。それでもかまわずに洗っていると、我慢できなくなったのか、そこへしゃがみ込んでしまった。おしっこをもらしているのが分かった。

「大丈夫? もうやめようか?」

「ごめんなさい。気持ちよくて、気が遠くなっただけ、続けてください」

ゆっくり立ち上がったが、足元がおぼつかない。

「座ったままでいいから」

廸は足を伸ばして洗い場に腰を下ろした。その両足を両手でゆっくりマッサージをするように洗っていく。足の指の間も丁寧に洗ってあげる。

「だめ、そこは」

「洗った方がいいよ」

廸が思わず足を引っ込めた。ここまでと思ってシャワーで身体の石鹸を洗い流す。廸は座ったまま動かない。いや動けなかった。

「バスタブに一緒に浸かろう」

廸の腕を持って立たせてバスタブへと導いた。廸はゆっくり身体を沈めた。その後ろに僕が入った。お湯が溢れて大きな音がした。廸が身体を預けてくるので両手を回してゆるく抱いてやった。後ろから身体をゆっくり撫でてやる。

「気持ちいい、ありがとう、うっとりしたわ、幸せってこういうことなのかしら、このまま眠ってしまいたい」

「ここで眠ったらだめだよ。それじゃもう上がって休もう」

廸を促して立たせて浴室を出た。バスタオルで身体を拭いてやる。いつもなら廸も僕の身体を拭いてくれるのだが、今日はぼっーとしてただ立っているだけだった。こんな廸は初めてだった。

バスタオルをまとった廸を抱きかかえながら寝室へ向かう。廸を布団に座らせるとすぐにポカリのボトルを冷蔵庫から持ってきた。1本封を切って渡すと廸は一息で半分ほど飲んだ。

「おいしい、ありがとう。眠りたい」

そう言うと寄りかかってきた。横にして寝かせるとすぐに眠ってしまった。廸は疲れていたのだろうか? 寝顔はとても安らかだ。僕も廸を後ろから抱きかかえるようにして寝入った。

◆ ◆ ◆
明け方、廸が僕に抱きついてきたので目が覚めた。寝落ちした廸が求めているのが分かったのですぐに応えた。廸は半分目覚めていて半分眠ったままだったが、何度も昇り詰めていた。そのあと、廸は僕の腕の中で静かにまた眠りに落ちていった。

◆ ◆ ◆
目が覚めたら、雨が降っていた。暗かったので目が覚めるのが遅かった。もう8時を過ぎていた。共働きだから土曜日は朝寝することになっている。恵理もそのことは分かっていて声をかけるまで起きて来ない。

廸は僕に後ろから抱きかかえられて横たわっていたが、もう目覚めていた。僕が目覚めたのに気づいて振り向いて唐突に言った。

「ねえ、風俗に行っているでしょう」

「いや、この前も言ったとおり、結婚してからは絶対に行っていないから」

「なんでそういうことをまたわざわざ確認するんだ?」

「最近、少し変わったから、愛し方が」

「いろいろ工夫しているんだ、廸のために」

「浮気はしていないわよね」

「君を悦ばせようと考えて工夫しているだけなのに、浮気をしているから愛し方が変わったというのか? 僕にとってあり得ないことだ。君と付き合いだしたときのこと覚えているだろう。恋愛には全く不向きだったことを」

「ごめんなさい。私を今も愛してくれていることはよく分かっています。昨晩のことや今朝のことも。とても幸せです」

僕は抱いている腕に力を入れて廸のその言葉に応えた。

「あなたには浮気はできないと思っていますが、もししたとしても私には絶対に分からないようにするだろうと思います。そういう性格だとよく分かっています」

廸の真を捉えた言葉にすぐに返す言葉が出なかった。廸はすべてを見通しているのか? ありえないことだが、図星だった。

「もし、幸運にも浮気できたら、そうすることにしよう」

「幸運ってなに? 浮気はする気があってするものでしょう。する気があるの? 分からなければ浮気をして良いといったわけでは決してありませんから、念のため」

「分かっている。絶対にそれはないから安心して」

もう、言葉の遊びにしようと必死になっている自分がいた。それで直美と始めのころに交わした会話を思い出した。

「僕が君とこうしていることはご主人には分からないと思うけど、もしご主人がほかの人とこんなことをしていたらどうする?」

「主人はそんなことをするような人ではありません」

「でも僕はしている。こんなことをしたのは初めてだ。ご主人にもこんなことは起こりえることだと思うけど」

「もしそういうことがあっても主人は絶対私にわからないようにすると思います。あなたのように」

「でも、浮気しているか、気にならないか?」

「気にならないと言えば嘘になります。もし本当にしていたら悲しい。大好きだから」

「例えば、不審なメールを見つけたら問い詰める?」

「聞いては見るけど、問い詰めたりはしないわ。もし認めたらお互いに引けなくなると思う。それが怖いから」

「駄目は詰めないということか?」

「浮気ならね。お互いに愛し合っているは分かっているから。きっとあなたの奥さんもそうするはずよ。なんとなく分かる」

やっぱり、廸は気が付いている? やはり断固否定しておこう。
11月5日(金)から2泊3日で帰省した。直美とはもちろん事前に日にちを擦り合わせておいた。

午後7時ごろにチェックインして部屋に入るとすぐに直美にメールする。[1133到着]。すぐに返信があった。[友人と食事中]。相手は上野さんに違いないと思った。

九時を過ぎたころに部屋に電話が入った。

「今、戻ってきました。1205号室です。お菓子がありますので、いらっしゃいませんか?」

「すぐに行きます」

部屋をノックするとすぐに中に入れてくれた。久しぶりだ。気持ちが治まるまで抱き合う。直美はそれから困ったというように話し始めた。

「この前お話してあなたの意見を聞いた友人のことなんだけど」

想像したとおり、食事して会っていたのは上野さんだった。名前は出さなかったが、間違いなかった。

「確かこの前、相手の気持ちを確かめた方がよいとか話していたね。それでどうなったの?」

「あれから、相手の気持ちを確かめたそうよ。それで浮気と本気の間で、それは二人ともそう思っていると確認できたそうよ。それで分からないように会い続けることにして、月に1回は会っていたそうです」

「それなら、今日わざわざ君に相談する必要もないだろうに」

「ところがそれがご主人にばれてしまったみたいで、ご主人が家出をしたそうなの。それでどうしたらよいかとの相談だった」

「ええ、やはり発覚した? 最悪の結末だな。覚悟の上の浮気だったのだろう。いまさらどうしたら良いのかはないだろう」

「彼女も後悔して動揺していたわ」

「詳しく話してくれる?」

直美の説明によると、彼女の夫は婿養子だった。同い年で見合結婚とのことだった。13歳になる息子がいる。夫はお見合いで彼女がとても気に入って婿養子なることに同意した。それで長男が生まれて、彼女の両親も跡取りが生まれてとても喜んでいたそうだ。

相談というのは、ご主人が置手紙をして家出したことだった。その手紙には、ここしばらくは東京へ買い物に行くと言って家を空けることが度々なので、心配して自分が尾行して調べたら、男性と会っているのが分かったと書いてあった。

そして、彼女には好きな人がいるようだから、自分は家を出ることにしたと、彼女には幸せになってほしいと書かれていた。

それから長男が生まれて跡取りはできたから、自分は役目を果たした。あとは自由に生きたいと書かれていた。また、自分の分を記入した離婚届が同封されていた。

彼女は自分のしたことの重大さが初めて分かった。失ってからご主人の大切さが分かったという。それで帰ってきてもらいたいけど、どうしたら良いかという相談だった。

「それでどう相談にのってあげた?」

「二人で会ってよく話をしたらどうかって。そして正直に会っていた人は高校の同級生で結婚を反対されて別れた人だと話すこと、けれども彼とは何もない、ただ、懐かしくて会っていただけだと主張すること、昔も今も男女の関係があったことは絶対に認めてはいけないと言っておいたわ」

「『覆水盆に戻らず』でご主人の決心は変わらないと思うけどな」

「それでもそれが糸口になると思うの。絶対になかったと信じられるか、信じられないかは、彼が彼女をどの程度好きだったか、愛していたかにかかっていると思うの。だって手紙には彼女に幸せになってほしいと書かれていたから、彼女を憎んでいたならそういうことは書かないはずだから」

「糸口というのはそういう意味か? もし僕が彼女の夫だったとして、今まで彼女を深く愛していたのなら、その絶対になかったという言葉に救いを見出すことができるかもしれないな。可能性は低いがゼロではないかもしれない」

「そう思う?」

「それに元彼とは昔も何もなかったということは重要なことだと思う。『男は最初の男になりたがり、女は最後の女になりたがる』劇作家オスカー・ワイルドの言葉だ。聞いたことはないか? 僕も妻が自分が初めてだったのがとても嬉しかったことを覚えている。それでもっと好きになった」

「初めてなんて本当に分かるの? 初めての時のことを思い出して繰り返せばよいだけのことよ」

「そんなに簡単なことか? 君はどうだったの? 今のご主人が初めてだったんじゃないのか?」 

「ご想像にまかせます」

「僕はそう思っているけど、ええっ、違うのか? そんなものなのか?」

「彼女をどのくらい好きかで判断は変わってくると思います。好きならそう信じたいでしょう」

「確かに、でも僕の場合は直観的にというか本能的に分かった・・・ような気がする。自信がなくなってきた。いや間違いなくそうだと思っているけど」

「そうね、彼女の場合もそのとき演技したことは普通に考えられるわ」

「それでご主人がその時そう思ったかどうか? ご主人の経験人数にも関係すると思うけど」

「ご主人は彼女が初めてだったみたい。彼女はそう言っていたわ」

「それなら、ご主人は彼女も初めてだったと思った確率は高いかもしれないな。糸口はあるということかな」

「だから、そう忠告したのよ」

「うまく復縁できるといいけどな」

「二人のことは二人で解決するしかないから、できるだけ相談には乗ってあげたけど、私たちは決してあんなことになってはいけないと、つくづく思ったわ」

「怖気づいた?」

「いえ、私たちは分からないように万全を期しているから、大丈夫」

「ところで、今日の二人のこの後のことについてひとつ提案があるんだけど」

「言ってみて」

「さっき言っていただろう。『初めてなんて本当に分かるの? 初めての時のことを思い出して繰り返せばよいだけのことよ』って」

「ええ」

「『初体験ごっこ』をしてみないか? 十年以上も前に戻って初めての時のことを繰り返してみてもらえないかな。僕もその時に戻って君を初めて愛してみたいから」

「すごく良いことだと思う。私たちの原点に戻れるような、置き忘れてきたものを取り戻すことができるような気がするわ」

「じゃあ、二人がホテルの部屋に着いた時から始めてみないか?」

◆ ◆ ◆ 
直美は僕の胸に顔をうずめて眠っている。少し前までしがみついて泣いていた。声は聞こえなかったが確かに泣いていた。しがみついていた手からはもう力が抜けている。僕は本当に彼女が初体験をしたように今も感じている。

「初体験ごっこ」の始まりからここまでをもう一度思い返してみている。僕はあのころの自分に戻っていた。正確には今の自分があのころに戻っていたというべきだろう。あのころならきっとできなかったことを今はしたのだから。

部屋に入るとすぐに後ろから直美を抱きしめた。彼女はこうなることは分かっていたのだろうが、身体を硬くした。じっとして動かない。ゆっくりこちらを向かせると彼女は目を閉じて少し上向き加減になってキスを待っていた。身体は硬いままなのに上下の唇だけがとても柔らかだった。

二人はベッドに腰かけた。その時初めて直美は僕をしっかり見つめた。そして彼女の方から抱きついてきた。その力の強さに彼女の決心を感じることができた。僕は再びキスをして彼女を着ているものをゆっくり脱がしていった。その間も彼女は身体を硬くしたままだった。

耳や首を唇でなぞっていった。乳首を口に含んだ時、声が漏れて身体がピクンとした。その時から身体の力が少しずつ抜けていった。

二人がひとつになろうとしたとき、彼女はまた身体を硬くした。「力を抜いて」と耳元でささやいたが、力が入ったままだった。そのあとも身体から力が抜けることはなかった。

だからなおさら痛くて辛かったのだろう。僕は直美の手を握った。ずっと顔をしかめて耐えているように見えた。その手を強く握り返してきた。僕は途中で止めた。廸の時もそうした。これ以上は無理だと思ったからだ。

身体を離すと、彼女は抱きついてきた。あの最初にベッドで抱きついてきたときと同じ強い力だった。僕もしっかり抱き締め返していた。

直美と廸は違っていた。同じと思える部分と違うと思う部分が入り混じっていた。ひとそれぞれなのは当たり前だ。廸と直美は初めてだったのだと自然に思えた。

◆ ◆ ◆
直美が動いたので目が覚めた。窓の外が薄明るくなっていた。午前6時だった。直美は僕の胸に顔をうずめてもぞもぞと蠢いている。直美のいつもの髪の匂いがする。廸とはまた違った匂いだ。どちらの匂いも僕は好きだ。

直美は顔を上げたかと思うと目を開いて僕を見つめた。僕はおでこに口づけをした。

「ありがとう。とても嬉しかった」

「こちらこそ、ありがとう」

「うまくできましたか? よく分からなくて」

「ああ、できたよ、でも最後まではいけなかった」

この会話、どこかであった。廸とその時に交わした会話だった。

「僕は初めてだと思った。今もそのとおりの言葉だったから」

「そう思ってくれて嬉しいわ。あなたとだからうまくできたのだと思います。そういう思いというか、そういう願望があったから。ほかの人だったらきっとこうはできなかったと思います」

「その時の二人の相手を思う気持ち次第ということか?」

それから直美はまた僕に抱かれて眠ってしまった。僕が廸のことを思ったのはなぜだろう?
寒くなってきたと思ったらもう今年も師走に入っている。今年はいつまでも暑かった。ようやく涼しくなったと思ったら、急に寒くなってきた。過ごしやすい期間が短くなったような気がする。一日の寒暖の差も激しい。地球温暖化のせいに違いない。

仕事も私生活も忙しかったので1年が経つのが早かった。二カ月ごとの帰省と逢瀬は続いている。いつもなら飲みに誘ってくる秋谷君からここのところ何の連絡も入らない。上野さんとのことも気になっていたので、思い切ってこちらから連絡を入れた。

「元気にしているのか? しばらく飲み会の誘いがないけど、近々どうだろう? 例の遊びで忙しいのか?」

「俺は元気だが順子が入院している。それで娘の世話で忙しくてね」

「娘さんは何歳だった?」

「五歳だからまだ結構手がかかる。今週末に順子の実家へ連れていってしばらく預かってもらうことになったから、来週なら時間が取れる。積もる話もあるから。月曜日の午後7時からなら時間がとれる」

「無理することはないから、順子さんが元気になってからでいいよ」

「いや、聞いてもらいたいこともあるから」

◆ ◆ ◆
12月6日(月)いつもの居酒屋には7時に着いた。秋谷君からは20分ほど遅れるとのメールが入っていた。ようやく現れたが一目見て憔悴しているのが分かった。

「ずいぶん疲れているようじゃないか、大丈夫か? 無理させたな」

「いや、帰りに病院へ寄ってきたから遅れた。すまん」

「気にするな。ところで奥さんの具合はどうなんだ?」

「乳がんがみつかった。ステージ2で1週間ほど前に手術した。経過は順調だ。今は抗がん剤の点滴を受けている。幸い今のところ転移も見つかっていない。」

「それはよかったな」

「順子のありがたみがよく分かったよ。今まで俺も家事を分担していたと思っていたが、彼女の分担はそんなもんじゃなかった」

「順子の乳がんの診断があった日、俺は例のKさんと会って食事をしていた。[すぐに帰って来てお願い]とのメールが入った。娘に何かあったのかとすぐに電話をしたら、順子は乳がんがみつかったと泣いていた」

「それで」

「俺もそれを聞いて気が動転してKさんに理由を話してすぐに帰った。順子は私に万一のことがあったら未希《みき》はどうなるんだろうとワンワン泣くんだ。あんなに取り乱した順子を見たのは初めてだった」

「そんなことがあったんだ」

「罰が当たったのかもしれないな、順子をほったらかしにして遊んでいたからな」

「いろいろ起こるよ、お互いにこの年になれば」

「これからはいつも彼女のそばにいてやりたいと思っている」

「それがいい。奧さん孝行しておいたほうが良いと僕も思う」

「それから聞いてほしい話がある。お前にも話した上野さんとのことだ。彼女からもう会わないと言ってきた」

「なぜだ、あんなにお互いに会いたがっていたのに」

「ご主人に俺たちの密会が分かって、それで彼が家を出てしまったそうだ。家を出て行ったのは自分のせいだから息子にも顔向けできない。もう俺とは会わないことに決めたと言っていた」

「お前はそれでいいのか?」

「『来るものは拒まず、去る者は追わず』が俺の信条だ。良いも悪いも俺と会っていたことが結果的に彼女の家庭を壊してしまった。申し訳ないと思っている。だから俺ももう二度と会わないことにした」

「そうか、最悪の結果を招いたな。仕方がないな。何でばれたんだ? 気を付けて会っていたんだろう。二人だけのところを見られたんだな。外であっていたのか?」

「レストランで食事をしたことが2回ほどある。おいしいところで一緒に食事をしたいというので仕方なく二人で行った」

「それを見られたな。素行調査をされていたとすれば必ずひっかかる。シティーホテルの部屋でこっそり会うようなことは考えなかったのか? タレントは付き合っているのが分からないように、同じマンションに別々に住んで、施設内では行き来するが、外では絶対に会わないそうだ」

「そうだな、迂闊だった。人目に付くからやめようと言ったのだが、もっと気を付けるべきだった」

「ご主人から訴訟とか損害賠償は求められていないのか?」

「今のところないが、あるかもしれないな。そのときは腹を括る。自分のやったことだからな、責任はとる」

「そうか。そこは秋谷君らしいな」

「それより、今は順子のことが気になってそればかり考えている。こんなに彼女のことが気になることは今までなかった」

「秋谷君と順子さんはお互いに頼り合っていたんじゃないかな。そのことに二人とも気づいていなかっただけだ」

「そうかな、俺は彼女の手の中で泳がされていただけかもしれないな。彼女がいないと何もできないし手につかないのが分かった」

「順子さんにしても、乳がんが分かった時すぐに秋谷君に知らせてきたんだろう。秋谷君を頼りにしているからじゃないのか?」

「確かに事が事だから、取り乱して泣いていた。あんなことは初めてだった。彼女と結婚したのは自立したしっかりした女性だと思ったからだ。彼女も俺をそう見たからだろうと思う。最初から妙に気が合った」

「秋谷君はどちらかというと自立していて僕と違って私生活でもクールな感じがする。そこが秋谷君の良いところだ。僕にはないところがあって、だから長い間友達でいられるのだと思う。二人の出会いもそれからのことも想像がつく。僕とは大違いだろう」

「お互いに良きパートナーを求めていたが、気が合う人がようやく見つかったという感じだった。俺も何人かと付き合って男女の関係にもなったが、彼女もそうだったと思う。だからお互いの過去ことはどうでもよかったし気にならなかった。彼女は僕にぴったりの女性だと思った」

「でも近頃、浮気というか遊んでいたなあ。どうして?」

「ようやく良きパートナーを得られて安心して余裕ができたというか、分からなければいいと思った。俺はもともと女好きで浮気性だからな」

「それで彼女のことがどうしてこんなに気になるのだろうと思ったのか?」

「ああ、ようやく気が付いたというか、二人の関係を見直す良い機会だと思い始めている」

「『災い転じて福となす』二人にとってはよいことだな」

「そうなればよいけど」

秋谷君は僕に愚痴を聞いてもらいたかったのだろう。アリバイ作りにも協力してきたのだから反省の意味もあったのだろう。別れ際、秋谷君は僕に話をしたことで何かが吹っ切れたような顔をしていた。

◆ ◆ ◆
廸には[秋谷君と飲んで帰る]とメールを入れておいたので家に着くと、順子さんに乳がんが見つかって入院したことを話した。

「そういう歳に近づいているのね。私にもいつ起こってもおかしくないわ。あなたにもね」

「健康が一番だね。気をつけるに越したことはないけど」

「気を付けていても病気になるときにはなる。でも気を付けていないともっとなりやすいと父がよく言っていました」

「お父さんも突然だったね」

「ほんとうにあんなに元気だったのに、人間いつ死ぬかなんて誰も分からない」

「分からないから、気楽に生きていられるのかもしれないけどね」

「あの時はいつ死んでも後悔しないように毎日を精一杯生きるようにしないといけないと思ったけど、つい毎日の生活に流されていて、いつまでもずっとこの生活が続くと思ってしまって。順子さんのことを聞いて思いを新たにすることにしました」

「もっと君を大切にしないといけないな。秋谷君も今までの二人の関係を見直す良い機会だと言っていた」

「私もそう思います。私たちもね」
12月は例年のとおり、忘年会やらクリスマスやらで慌ただしく過ぎていった。新年に入ってから実家へ帰るのは正月の帰省客が少なくなった1月15日を過ぎてからを考えている。

直美と日程の調整をしなければと考えているところにメールが入った。[次回の予定1月14日(金)15日(土)16日(日)]。すぐに[了解]の返信を入れる。二人は同じ用事で定期的に帰省しているので、新幹線やホテルが空いてくる時期を選んでいる。考えることは同じだ。

◆ ◆ ◆
1月14日(金)7時過ぎにチェックインを終えるとすぐに直美にメールを入れる。[1010到着]。しばらくして返信が入った。[友人と会食中]。

上野さんと会っているのだなと思った。あれから上野さんはどうしたのだろう。秋谷君はきっぱり別れたと言っていた。上野さんは夫と話し合ったのだろうか? いずれ直美が話してくれるだろう。
 
こんな場合、どうすれば修復できるのだろうか? もう修復は難しいのではないだろうか? 直美は夫の彼女に対する思いによっては、糸口はあるといっていたが、僕には思いつかなかった。

浮気がばれて廸が家出をしたらどうすればよいかを考えてみても、よい修復法は思いつかない。確かに直美の言うとおり、ただただ誤解だ、決して何もなかったと言うほか良い方法は浮かばない。

部屋の電話の音で目が覚めた。眠っていた。もう9時を過ぎていた。直美からこれから部屋に来るという電話だった。

直美はニコニコしながら部屋に入ってきた。僕に話をしたくてたまらない様子だった。

「会食の相手はご主人に家出された友人か? 破綻した話を聞いてから2か月は経っているから、その後どうなった? 興味があるけど」

「あれからご主人に会って、無断で昔の同級生に会っていたことを謝ったそうよ。それからご主人と結婚する前に両親からその同級生との結婚に反対されたということも隠さずに話したと言っていました。それから私の忠告したとおり、昔も今もその同級生とはそういう関係には一切なかったと言ったそうよ。ただ、会って両親についての愚痴や悩みなどを聞いてもらっていただけだと」

「それでご主人は彼女の言うことを信じたのか?」

「ご主人は黙って聞いていたそうよ」

「半信半疑かな、それなら修復の脈があるかもしれないな」

「それとご主人が家を出たのは彼女の浮気を疑ったことだけではなかったみたい。婿養子として何ごとにつけて彼女の両親の意向を聞くのが嫌になったこともあると、それで長男も大きくなったので、良い機会だと思って家を出たそうよ。それなら彼女の両親も認めるだろうと」

「それなら彼女に対して未練が幾分残っていると思うけどな」

「彼女はこんなことになったのは、あのとき親の反対で言い成りになって結婚をあきらめたことが原因だと、そしてそれを忘れることができなかった自分が悪かったと、それでご主人に自分の分を記入した離婚届を渡したそうよ」

「ご主人が書いた離婚届はどうなった?」

「それは破り捨てたと言ったそうよ。私は離婚したくないと」

「ということは、今度はご主人に離婚の判断をゆだねたということか?」

「それにご主人に始めからもう一度お付き合いを始められないかと頼んだとか?」

「どういう意味かな?」

「一からやり直したいということ、それで駄目なら諦めるという意味ね。あなたと一から付き合ってみたい、それが二人の間にはなかったからだとか言って」

「それでご主人は受け入れたのか?」

「その時は、いいとも、だめだとも言われなかったけど、明確に否定されなかったから、やってみようと思ったそうよ」

「どういうこと?」

「まあ、いわゆる押しかけ女房ね。週末に彼のアパートに出かけて掃除・洗濯・料理を始めた。始めは無視されたみたいだけど、それでもめげずにそれを繰り返していたら、それが功を奏したみたい。先週、帰りが遅くなったら、泊まっていったらと言われたそうです」

「それで修復が完了した?」

「ご主人には彼女に未練があったみたいね」

「それに彼女の誠意が通じたんだね。信頼しないと信頼してもらえない。愛さないと愛してもらえない。そのとおりだね」

「それから彼女は実家を出る決心をしたそうよ。姓もご主人の中森に変えるそうです」

「すごい決心をしたね」

「ご長男が実家を継ぐことでご両親も承知したとか。万事、うまく納まったみたい。私の忠告を感謝されたわ。今回の相談は自分でもすごく勉強になった。男は初めてにこだわるのが分かったし、私だったらこんなにうまくできるかなって思って」

「君ならできるさ。まあその前に絶対に露見しないようにしないといけないけど」

「ええ、それから彼女が言っていたわ。『恋愛ごっこ』を仕掛けたと」

「どういうこと、二人は見合い結婚で恋愛期間がなかったから『恋愛ごっこ』をしかけたのか? どこかであったような話だな。ご主人にはそれがないけど、彼女には恋愛経験があったのだから簡単だったな、彼女のペースに引き込めた。なかなかやるね」

「もう彼を離したくないから、今でもそれにはこだわっていると言っていた」

「そういえば、僕たちにもそれはなかったな。だから今の関係があるともいえるけど。彼らのことは僕たち二人にも共通していることだ。この前は『初体験ごっこ』だったけど、すごく感激した。どう? 今日はその『恋愛ごっこ』をしてみない?」

「うふふ、おもしろそうね。ところでどうするの?」

「Hを始めたばかりの恋人同士に戻って新しい体位とか愛し方にチャレンジしてみるのはどう?」

「確かに長年連れ添ったカップルは愛し合うパターンがほぼ決まっていて、マンネリになっているかもしれません」

「それに新しいことをすると、どうしたの、どこで覚えたの、どこで仕入れたのと、気にされる。風俗とか浮気して覚えてきたのではと疑われかねない。だから気が引けて新しいことになかなかチャレンジができない」

「ありかも。私だって、どうしたのって聞くかもしれない」

「それにあなたって本当はこんなことをしたかったのだとか、こんな趣味があったんだ、今まで分からなかったとか、言われると恥ずかしい」

「確かにそれもありね。こんなことをしてほしいと、唐突にいうと、どうしたのと聞かれかねない。それにそんなにHが好きだったんだと思われるのも恥ずかしい」

「長く連れ添っているとかえってお互いに気を使って両すくみになっているのかもしれないね。それで新しいことにチャレンジできなくなって、ますますマンネリに落ちってしまうのかも」

「浮気や不倫ってそういうところから芽生えるのかもしれないわ。非日常の新しいことを求めて」

「僕たちはまだHを始めてから短いから恥ずかしがらないで何でも挑戦できる」

「それにお互いにもう遠慮は無用なほどには知り合っているからね。ちょぅどよいかも」

「それで、二人で四十八手の体位をすべて試してみて、どれがよいのか実際に調査研究するのはどうかな?」

「さすが理系だけのことはあるわ、考えることがシステマティックね。じゃあ、すぐに始めましょう」

◆ ◆ ◆
スマホで検索して適当なサイト『四十八手完全ガイド』を見つけた。分かりやすいイラストが描かれている。

直美とひとつひとつ試していく。まず、「()(かなえ)」、マニュアルを見て形を整えて動いてみて快感を確かめる。二人ともこれが初めての体位であったので挑戦してみたが刺激的ではある一方不安定でバランスをとるのが難しいし疲れる。二人の評価は中くらいだった。

ひとつ確認してから、また次を試す。ただ、一つ試すのに5分以上はかかった。簡単なものからアクロバティックなものまであって、半分の24を試すのに2時間以上かかった。二人とも半分試したところで疲れてしまった。こんなに体力が必要とは思わなかった。

「もうだめだ。身体が持たない」

「腰がだるい」

「今日は半分までにして、残りは明日の晩にしよう」

「その方がよさそう。私たちはもうそんなに若くないことがよく分かりました。お休みなさい」

そういうと直美は眠ってしまった。それを見届けると僕も深い眠りに落ちていった。でもこの共同研究はとっても楽しかった。

◆ ◆ ◆
次の晩は直美の部屋で残り二十四手を試してみた。新しい発見があった。二人ともいままで試みたしたことがなくて、特に気にいったのが「松葉崩し」と「敷き小股」だった。

「松葉崩し」は僕にとっては刺激的で直美を自由にしていると感じられる体位だった。直美も深く結ばれていると感じられて好きだと言っていた。

また、「敷き小股」はうつ伏せに寝ているので、すごく楽な体位でしかも無理やりされているような感じがして興奮すると言っていた。

二日間かけてようやく四十八手を踏破した。お互い気にいった体位が見つけられて共同研究したかいがあった。でも二人とも疲労困憊した。ただ、二人で力を合わせてそれらを踏破したという充実感だけは残った。でももう一度すべてを試そうとは思わない。

分かったことは、立つか、座るか、上向きか、うつ伏せか、横からか、後ろからか、そのバリエーションだ。システマティックに研究すると見えてきた。昔も今も人類のすることは変らないし変えようがないと思う。

二人とも朝までしっかり熟睡できた。運動不足だったので身体中に筋肉痛が残りそうだが、楽しい思い出になった。

廸には分からないように自然の流れからこうなったみたいな感じで試してみよう。それが帰ってからの楽しみだ。直美は彼にこうしてほしいというのだろうか? それも気にかかる。
二月の始めに3月の帰省の予定日を直美と調整した。春分の日の祝日を含めて3月19日(土)20日(日)21日(月)とした。すぐにホテルの予約を入れた。廸には春分の日を利用して帰省することを話した。

次の日の2月3日(木)になって、直美からメールが入った。[急用が入ったので3月の予定をキャンセルします]。せっかく調整したのに急用ってなんだろうと思ったが、すぐに[了解]の返信を送った。

◆ ◆ ◆
僕は当初の予定どおり、3月19日(土)から2泊3日の予定で帰省した。予定を変更する理由が見当たらないし、本来の目的の帰省に戻っただけだ。ただ、直美に会えない帰省には心が弾まなくなっている。

3月19日(土)7時過ぎにホテルにチェックインした。キーを受け取ってエレベーターに乗って上へ行こうとすると女性が駆け込んできた。直美? 確かに彼女だった。喪服を着ていた。Open ボタンを押して扉を開けておいた。彼女は僕がいたので一瞬驚いた。ここへきていることは想像できたはずだった。

声をかけようかと思ったが、やめておいた。そのあとから喪服を着た男性も乗り込んできた。男性は「すみません」と僕に声をかけた。僕は頭を下げてそれに応えた。

「何階ですか?」

「12階をお願いします」

その男性が答えた。

その男性は直美に話しかけた。

「疲れたね。ゆっくりしよう」

「はい、疲れましたね」

すぐにその人が直美のご主人だと分かった。僕は11階でエレベーターを降りた。声をかけなくて本当によかった。

でも、しばらく前にここで会っていた時も直美とエレベーターで一緒になったことがあった。ほかに同乗者がいなかったが、僕たちは言葉を交わさなかった。

エレベーターには防犯カメラがついている。これを警備会社が常時監視している。同乗者がいなくてもいつも見られているのに変わりはない。抱き合ったりすればすぐに目につく。

僕はエレベーターで一緒にいるとき、エレベーターのミラーに映ったご主人の顔を見ていた。僕は人の顔を覚えるのが苦手だ。でもどこかで見たことがあるような気がした。

ひとは見た目が9割と聞いたことがあるが、その印象は悪くはなかった。男の僕がみてもハンサムで、にこやかで、落ち着いていて、優しそうで、エレベーターの中でもずっと直美のことを見ていて、彼女への愛情が感じられた。直美も僕に見せるいつもの顔とは違った顔を見せていた。

部屋に戻っても直美たちのことが気になった。今頃どうしているだろう? 今夜は愛し合うのだろうか。ご主人に嫉妬した? 間違いなくそうだった。気になってなかなか寝付けなかった。

翌朝、地下の食堂でもエレベーターでもフロントでも二人を見かけなかった。結局3月21日(月)にチェックアウトするまで二人を全く見かけなかった。

◆ ◆ ◆ 
四月下旬の昼休みに直美からメールが入った。[前回は申し訳ありません。次回は5月13日(金)14日(土)15日(日)]。仕事の予定を確認してから[了解]の返信メールを送った。

◆ ◆ ◆
去年は同窓会の前日に会った。あれからもう1年が経っていた。直美とはもう6回は逢瀬を重ねていた。

5月13日(金)の午後7時過ぎにチェックインして部屋に着くとメールを入れた。[1222到着]。

すぐに部屋の電話が鳴った。電話にも注意して出ることにしている。相手がしゃべるまで何も言わない。

「私です。これから行きます」

すぐにドアをノックする音が聞こえた。すぐにドアを開けて中に入れた。そして直美を抱きしめた。1月に会って以来の4か月ぶりの逢瀬だった。いつもより長く抱き合っていた気がする。

「部屋はとなりの1223号室です」

「どうりで早いと思った」

「三月はご免なさい。急にキャンセルして、母が亡くなったので」

「そうだったのか、今までになかったことだったからどうしたのかと心配していた」

「2月3日の朝、ご近所の方から母が倒れて、救急車で入院したと連絡が入りました。すぐに特急列車に乗り込んで、病院に駆け付けましたが、死に目には会えませんでした」

「ええっ、それは大変だったね」

「父が亡くなった時も大変でしたが、あの時は母親が気丈に取り仕切っていました。今回は私が中心になって仕切らならなければならなかったので疲れました。あのエレベーターで会った3月19日に納骨をしました。今は両親の遺品や家具家財の整理をしています。ようやく落ち着いてきたところです」

「何も知らなかった。申し訳ない」

「あなたには何も知らせない方がよいと思って」

「あの人がご主人? 見合い結婚をした?」

「そうです。あなたが予定を変えずに帰省しているかもしれないとは思っていましたが、まさかエレベーターで出くわすとは思いませんでした。正直、驚きました」

「声をかけなくて良かった」

「あの瞬間、あなたは声をかけないだろうとは思っていました」

「僕の目からはとても良い人と見えたけどそうだろう」

「そうですね。気になりますか?」

「気にならないと言ったら嘘になる」

「主人のことをもう少しお話しておきます。あのお見合いの相手が今の主人です。お見合い相手は高校の2年先輩であることは事前に知っていました。お見合いして初めて分かったことですが、彼は私が入学したときに一目ぼれした3年生だったんです。その当時、遠くから見て憧れていた名前も知らないただの素敵なかっこいい先輩でした。当然彼も私の顔も名前も知りませんでした」

「道理でどこかで会ったことがあると思ったわけだ。高校の先輩だったのか。僕もどこかできっと会っていたんだな」

「彼は関西の製薬会社に就職していて、親から見合い結婚を勧められて、後輩の私とお見合いをしたんです」

「それで彼が君を気に入ったのか?」

「ええ、憧れていた先輩に気に入られてとても嬉しくなって、ひょっとして運命のひとかもしれないなんて思って、いつのまにか婚約して結婚していました」

「主人は見たとおり、かっこよくて、それで自信家なんです。だから自信をもって私に接してきました。私が断るわけがないという風に。でも悔しいけどそのとおりになりました。そつがなくて優しくて私には過ぎた人かもしれません」

「僕は負けるべくして負けたと言うわけか?」

「いいえ、あなたにはあなたの良さがありました。人への優しさ、自分への謙虚さ、そして、気配り。今でもそれは変っていません。だからあの時も迷いました。でも彼は私と結婚したいと言ってくれました。その違いかもしれません」

「そのとおりだ。僕にはその前へ進む勇気というか気持ちがなかった。その違いだね。今は少し違っているけど」

「そう、主人には恥ずかしくてしてほしいと言えないことをしてくれる」

「じゃあ、今夜は『レイプごっこ』をしてみないか?」

「『レイプごっこ』? おもしろそう。してみたい」

◆ ◆ ◆
「レイプごっこ」をしてみて分かった。これは体力がいる。実際に実行すると間違いなく犯罪行為だが、仮に実行しようとしても、僕にはもうきっとこういうことは体力的にもできないと思った。

直美も疲れたと見えて、ここまでと終えたところでは、いつもにもましてぐったりしていた。そして今は寝息を立てて眠っている。

まず、始めに二人でルールを決めた。お互いに服を着た状態ではじめること、僕が襲い掛かって直美が抵抗すること、殴ったり、蹴ったり、爪を立てたり、嚙みついたりしないこと、服や下着を破いたり、ボタンが取れたりしないようにすること、大きな声や物音を立てないこと、そして身動きができないように押さえつけて思いを遂げるまで止めないこと。時間は無制限1本勝負。

二人が部屋に入ったところから始めた。まず、僕が直美の後ろから抱きつく。直美は「いや」といって部屋の中へ逃げる。僕が後を追いかけまわす。後ろから捕まえて抱きついて、ベッドに引き倒す。上着を脱がせにかかる。腕を前にして抵抗するが、何とか脱がせる。次にスカートに手をかけて後ろからファスナーを下げて脱がしていく。

「やめて」とか「いや」とか「だめ」と小声でいうので興奮してくる。ブラウスのボタンを丁寧に外していく。その間も腕はバタバタ動かすし、足も曲げて抵抗は続いている。腹ばい寝かせてその上にまたがってパンストを破らないように脱がせていく。ようやく下着だけになった。

女子は非力でたいしたことはないと思っていたけど、相当な抵抗で思ったよりも力が強い。脚をしっかり閉じて、身体を丸められると、何もできない。

部屋に備えつけの寝具の紐が目に入った。手を伸ばしてそれをとって直美を後ろ手に縛った。腕の抵抗がなくなるだけでずいぶん楽になった。足を絡めて、ようやく身体の下に組み敷くことができた。

「勝負ありだね」そういったが、直美は身体の力を抜かなかった。まだ身体をひねって抵抗を続けている。それでなおさら僕も興奮する。これからが本番だ。

後ろ手に縛られた直美は抵抗も空しく僕の思いのままだった。腹ばいに寝かせたり、立たせたり、跪かせたり、あらゆる体位で彼女を可愛がってやった。

そして何度も上り詰めて朦朧とする直美の口の中で果てた。彼女はそれを飲み込んで受け止めてくれた。「ごめんね」というと、彼女が無言で頷くのが分かった。そしてよっぽど疲れたのか、そのあと深い眠りに落ちていった。

「レイプごっこ」をしたかったのは、きっと僕の心の中に直美の夫への嫉妬があったのだと思う。彼と偶然会ったことと彼女から結婚までのいきさつを聞かされたことで、彼女を奪われたという何か鬱積した思いが現れたに違いない。終わった後、なぜか得も言われぬ満足感というか快感があった。

◆ ◆ ◆
翌日はとなりの彼女の部屋で愛し合った。昨日と同じようにしてほしいというので、もう一度「レイプごっこ」を再現した。昨日に懲りて、今度要領よく、すぐに直美の両手を後ろ手に縛って抵抗ができないようにした。それでゆとりをもって長い時間をかけて思う存分に遠くなるほど可愛がってやった。

大きな声を出しそうになったので、猿轡をした。それがかえって刺激になったのか、何度も何度も昇り詰めていた。また、もう1本のひもを股間にとおして引き絞ってやった。「ぎゃー」という押し殺した声が聞こえたと思ったら、もう気を失っていた。そしてそのまま深い眠りに落ちていった。僕もその満たされた思いの中で眠りに落ちていった。

◆ ◆ ◆
直美が僕を揺り起こした。まだ、11時だった。

「目が覚めて考えごとをしていたら目が冴えてしまってお話がしたくなった」

「考えごとって」

「レイプごっこで縛られて動けなくされて可愛がってもらったら、今までにないようなすごい快感があったの。どうしてかと考えていたら、女性には好きな人に無理やり奪われたいという自然な欲求があるとどこかに書いてあったことを思い出して。本当は好きな人に優しくしてもらいたいのにどうしてだろうと思って」

「僕が想像するに女性は逞しい強い男性の子供を産みたいという本能的な欲求があるからじゃないかな。男性なら誰でも女性を無理やりにという本能的な欲求があるのと同じじゃないか。 ただ、理性が抑えているけど」

「あのとき私は抵抗するのに夢中だったけど、すごく濡れてきてしまっているのに気がついて驚いたの」

「そんな時は本能的に強いオスを受け入れる準備をしているのかもしれないね」

「確かにいうとおりかもしれない。そのあとの快感がすごかったのを思うときっとそうね。理系は理論的に考えるのね。聞いてもらってよかった」

「理系といっても生物科学系だけど。それで納得して寝られそう?」

「いえ、ますます目が冴えて眠れなくなりました。それでもう一度お願いします」

直美が感じすぎて早めに快感で気を失って寝落ちしたので、僕にはまだ十分に余力が残っていた。今度は優しく可愛がってやった。

◆ ◆ ◆
朝、僕が目を覚まして自分の部屋に戻ろうとすると、直美が抱きついてきた。

「母が亡くなって、もう、こうしてここへ来られる口実がなくなりそうです。だからこの次が最後になるかもしれません」

「お母さんが亡くなったと聞いたときにそう思った。今度会えたらそれが本当に最後になるかもしれないね。その時を大切にしたい。もう後悔しないように、思いを残さないようにしたい」

「私もそう思っています」

直美を力一杯抱きしめて、それから長いキスをして部屋を出た。
もう6月になった。今年は梅雨に入るのが早かった。毎日雨が降ってうっとうしい。直美から7月の帰省予定のメールが入った。[7月8日(金)9日(土)の予定]。仕事の予定を確認して[了解]と返信した。

今回はいつもとは違う1泊2日の予定だった。おそらく最後の逢瀬となるのだろう。僕はいつもと同じ2泊3日の7月8日(金)9日(土)10日(日)の予定でホテルを予約した。

◆ ◆ ◆
今年は梅雨入りも早かったが、梅雨明けも早かった。7月に入ってから30℃以上になる真夏日が続いている。

7月8日(金)午後から母親と早めの墓参りに行ってきた。金沢のお盆は旧暦の8月13日~16日ではなく、7月13日~16日となっている。期間中はどこの墓地でも車で込み合うので、それよりも早めの日を選んでお墓参りに行っている。

タクシーを待たせて順序良くお墓を回っていく。実家の墓は小高い山の墓地の中腹にある。まず、墓地の入り口でお供えの生花を買う。キリコ、ろうそく、線香は母親が準備してくれている。始めに実家の父の墓をお参りして、次に父の本家の墓、それから近くのお寺院にある母親の実家の墓をお参りする。

今日はまだ時期が早いのでどこも空いていて短時間で回って済ませることができた。丁度3回目の父親の墓参りだった。毎年墓参りが済むとほっとする。母親もほっとした表情を見せていた。こんな日は遺品の整理が進む。母親も処分する品物には徐々にこだわらなくなってきている。

いつもと同じ7時過ぎにホテルにチェックインした。部屋に着くとすぐに直美にメールを入れる。[1217到着]。すぐに部屋の電話が鳴った。すぐに部屋に来るという。

しばらくして、ドアをノックする音がした。すぐに中へ入れて、2か月ぶりに抱き合う。

「お風呂に一緒に入りたい」

「いいよ、洗いっこしよう」

はじめは直美が洗ってくれる。僕が先に洗ってあげたら、直美の腰が抜けて僕が洗ってもらえなくなったことがあったので、彼女が僕を先に洗ってくれるようになっている。

僕が終わると、いつものように手に石鹸をつけて彼女の身体を擦って洗い始める。彼女はなすが儘になっている。気持ち良くてうっとりしているのが分かる。

お互いに洗い終えると、バスタオルで身体を拭いて、そのままベッドに座ってレモンサワーで喉を潤す。

ここに来る途中、新幹線の中でも、お墓参りから帰ったあとも、最後になる逢瀬でどうして愛し合おうかとずっと考えていた。ここのところの逢瀬で彼女と新しく見つけたすごく快感の得られる体位をとりいれて、これが集大成といえるように、何回も頭の中で作り直した。あとはもう直美の反応次第で臨機応変で愛し合えばよいだけだ。

直美はどうしてほしいか今日は口に出さなかった。きっと僕が考えてきてくれていると思っていたはずだ。僕たちはそんなことがお互いに分かるようにまでなっていた。

二人はもう待てなかった。横に座っていた直美が僕の右手のうえに左手を重ねた。それを合図に直美との最後の愛の交換のために考えていたシミュレーションを実行して行く。

思っていたとおりに直美はすぐに昇り詰めていった。それから何度も何度も体位を変えるたびに昇り詰めていた。ひとつのひとつの体位の快感を確かめるように、次々と変えられる体位で襲ってくる違った快感を確かめて楽しんでいた。

押し殺して何度も発するうめき声が僕を鼓舞していた。そして、お互いに足を絡めて同時に行くことができた。心身ともに一体となったと感じることができた一瞬だった。

◆ ◆ ◆
直美は僕の腕を枕にしてこちら向きに抱かれている。そして僕の回復を待っている。

「あなたに言ったとおり、母が亡くなったのでもう帰省する理由がなくなりました。こうして会えるのも今日限りになりました」

「そうか、覚悟していたが、今日がやはり本当に最後になるのか」

「母が2月3日に亡くなってからしばらくは、お葬式、役所などへの手続き、相続の手続き、遺品の整理やらで、2週間おきくらいで帰省していました。主人や妹とも一緒に帰っていたので、お会いする機会が作れませんでした」

「例え君の都合がついても僕は2か月毎にしか帰れないから仕方なかった」

「それで、ようやく家財の整理ができて、相続も完了しましたので、今日は家屋と土地の売買契約を終えました」

「実家を処分するの?」

「お隣さんから家族のために増築と駐車場を広げたいので、できれば実家を購入したいというお話があったのでお売りすることにしました。妹と相談して決めました。私は大阪に自宅がありますし、妹も東京に自宅がありますので、ここに住むことはもうないと思うので思い切って処分することにしました」

「ご主人もここの出身だから二人で戻ってくることはないのか?」

「主人もここに実家がありましたが、3年前に処分しました。主人の両親は5年前には二人ともなくなっていましたから」

「ずいぶん若くなくなられたんだね」

「二人とも60代で亡くなっています。だから主人は自分も早死にするのではないかと心配しています」

「大丈夫と思うけど、でも人間なんていつ死ぬか分からないからね」

「二人の生活はもう大阪にありますから、もう戻ってくることはないと思います」

「そうか、僕も母親が亡くなったらそうするかもしれないな」

「明日はお盆には少し早いけど、主人と10時30分に駅で待ち合わせをして、両家のお墓参りに行きます。そのあと、一緒に大阪に帰ります」

「お墓参りは少し早めがいいね。僕も今日母親と済ませてきた。なぜご主人は今日一緒に来なかったの?」

「どうしても予定した仕事があったので、明日大阪から直接来て日帰りする予定です。今日は土地家屋の売買契約があるので私一人で来ました。代金の振り込みを確認しないといけないので、ウィークディじゃないと不動産の売買契約ができないんです」

「最後の日がうまく作れてよかった。本当に今日が最後になるんだね。もう決して思いを残さないようにしたい」

回復した僕はすぐにまた直美を愛し始めている。今度は直美の気に入った体位の時間を長くして組み立て直すことにした。二人とも少し疲れてきているが気持ちは全く萎えていない。その気持ちが先走っていく。

◆ ◆ ◆
僕たちは夜半過ぎまで愛し合った。心地よい疲労が眠りを誘った。そして直美は僕にしっかり抱きついて眠った。僕は夜中も気がつくと彼女を抱き寄せていた。彼女もまた僕に抱きついていた。

明け方、直美が僕に抱きついてきたので目が覚めた。これが本当に最後になると思って、思い残すことがないようにと、また愛し合った。

そして、その愛し合った痕跡をすっかり洗い流してしまうために、二人で最後のシャワーを浴びた。

お互いにバスタオルで拭き合って、ゆっくり身づくろいをする。

「今度生まれ変わったら結婚したいね。君と別の人生を生きてみたい」

「でも、こうして再会できたことで、私はあなたと別の人生が経験できました」

「僕が君に対してずっと持っていた心残りが今はもう跡形もなく消えてしまった」

「私もそうかもしれません」

「このまま何もなかったことにして、嘘をつき続けていれば本当になかったことになる。僕はそれでよいと思っている。ありがとう」

「お礼をいうのはこちらの方です。ありがとうございました」

「本当にもう二度と会えないのかな?」

「次に会えるとしたら、同窓会だけど、余計に一泊する理由は見当たらないと思います。でも正当な理由があって、一人で帰省して宿泊する予定ができたら連絡します」

「ああ、期待しないで待っているよ」

「ええ、期待なさらないで下さい」

「さようなら」

僕は部屋を出ようとする直美をドアの手前で後ろから強く抱きしめた。あの時とは真逆になった抱擁だった。

「さようなら」

直美はしっかりした口調でそう言って、もう振り返らずにドアを開けて出て行った。
7月9日(土)朝10時に部屋を出てロビーに向かう。11階でエレベーターが止まって女性が入ってきた。直美だった。僕が乗っていることに気づいたが、僕とはもう目を合わさなかった。

一階に着くと直美を先に降ろしてその後を歩いていく。直美はフロントでキーを返して駅の方へ歩いて行った。今はもう他人に戻った彼女の後姿を追いながら僕も駅に向かった。

駅ビルの売店で母親との昼食にお弁当を2つ買って駅の出口に向かった。ちょうど在来線が到着して乗客が改札口へ降りてきたところだった。直美が在来線の改札口で待っていた。そこへ黒い服を着た男性が下りてきて、直美と落ち合った。

直美は僕がそこに居合せて見ていたことに気が付いていなかったと思う。僕には見せたことのなかった笑顔が見えた。駅に寄らずにすぐに実家へ向かえばよかった。

◆ ◆ ◆
7月10日(日)いつものように帰る日には駅に着いたら新幹線に乗る前に廸に電話を入れる。

「これから帰るけど、買ってきてほしいものはある?」

「いつものように夕食にお弁当を3つ買ってきてください。ほかにお菓子の詰め合わせ、この前とは違った店のものにしてくれる?」

「了解。いつもと同じ3時前には家に着けると思う」

「気を付けて帰って来て」

◆ ◆ ◆
もう富山を過ぎた。僕は買ってきたナッツをつまみながらビールを飲んでいる。あまり食欲がなかったのでお昼はこれだけにした。

思いを残さないようにしたはずだった。それなのにあれからずっと直美のことばかり考えていた。このまま何もなかったことにすれば、何もなかったと嘘をつき続けていれば、本当になかったことになる。でも、なかったことにするにはできないほどいろいろなことがあった。

エレベーターでの出会いから、同窓会、そのあと1年と数か月の間、2か月ごとに何回の逢瀬を重ねたことだろう。会って愛し合うたびに新しい発見があった。僕だけでなく直美もそうだったろう。その中でもあの「初体験ごっこ」は今でも鮮明に覚えている。

逢瀬を重ねることで、僕に残っていた彼女への思いはすっかり消え失せてしまったが、彼女はまた別の思いを残していったのかもしれない。いやいや思いを残してはいけない。忘れよう。

眠っていた。気が付いたらもう大宮を出るところだった。

◆ ◆ ◆
ようやく家に着いた。今日はいつもより時間がかかった気がした。

「身体の具合でも悪いの? それとも何か気になることでもあるの? お母様は変りなかった?」

僕がいつもと違って元気がないようにみえたのだろうか? 直美と別れたことが顔に出ていたのだろうか?

「いつもと同じだけど、暑い中を歩いてきたせいだろう。東京の気温は高すぎる。恵理は勉強しているのか?」

「今日は2時から水泳教室へいっています。4時になったら迎えにいきます」

「僕が行こうか?」

「いいえ、あなたは家で休んでいてください。夕食はお弁当がありますから準備がいらないので大丈夫です」

家に帰った時点からもう日常が始まっている。

◆ ◆ ◆
廸が手を握ってきたので目が覚めた。部屋の時計は11時を指していた。廸は僕に後ろから抱かれるように眠っている。腰に回していた僕の手を彼女が無意識で握ったみたいだった。廸は寝息を立てて眠っている。

帰省の後の夜は必ず愛し合っている。僕の後ろめたい気持ちと新しい発見を廸に試したかったのかもしれないが、きっと両方だ。廸もそれを楽しみにするようになっている。今日も直美と試みた最後のシミュレーションの一部を新しく取り入れてみた。

廸はどう思っただろう。いつも以上に何度も上り詰めていた。腕をつかんだり、手を握ったりして、それを僕に伝えてきた。今日は直美を失った鬱積を無意識で廸にぶつけていたのかもしれない。廸はめったに快感の声を出さない。恵理を意識しているのだろうが、いつも押し殺しているのが分かっている。

廸はひょっとすると薄々気が付いていたのかもしれない。いやそんなことは絶対にない。いつか帰ってきたときに服の匂いをかいでいたことがあった。抱き合った直美の残り香があったかもしれない。でも何も言わなかった。

直美とのことはまた廸とのことを深く考える良い機会となった。廸と僕が結ばれるきっかけとなった「恋愛ごっこ」は僕の恋愛に対する気持ちのいい加減さをはっきり気づかせてくれた。

廸と僕との間には、直美と僕と間になかったものがあったし、今も確かにある。直美とあの夫の間にも直美と僕と間になかったものがあるに違いない。それが連れ添った夫婦というものなのだろう。

はじめはあまり思わなかったが、廸とは運命の出会いではなかったかと一緒に過ごすようになってから徐々にそう思うようになってきている。

直美と僕のように、廸と僕とは前世で同じように添い遂げられなかったのかもしれない。そんな思いを残していたのかもしれない、そういう考えがふと頭をよぎった。

廸にはどう言われようとも、これからも彼女が僕に仕掛けてくれた「恋愛ごっこ」のような新しいチャレンジを彼女に仕掛け続けていこうと思っている。それがこの不倫の償いになり、二人の絆を強くしてくれると思っている。


これで僕の「不倫ごっこ」のお話はおしまいです。

なお、余談になりますが、3か月後に突然メールが入りました。[11月12日(土)13日(日)帰省予定]さあ、どうしたと思いますか?

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