3月13日(土)駅前でバスを降りると丁度雨が降りだした。もう午後9時を過ぎている。このごろは特に天候が変わりやすい。バスに乗るときは晴れていたのにと傘を忘れたことを悔やんだ。ここは「弁当を忘れても傘は忘れるな!」の土地柄だ。
ホテルまで4~5分の距離だから、ビルの軒下をたどりながら小走りに急ぐ。ホテルの入り口が見えてきたのでほっとした。駆け込んでフロントでキーを受け取り部屋へ向かう。幸い小降りだったのでほとんど濡れなかった。夕食は母親と実家で済ませたので、あとはお風呂で温まって寝るだけだ。
エレベーターに乗ったところで上階へ向かうとすると、女性が駆け込んで来るのが分かった。Open キーを押してドアを開けて待っていてあげた。「すみません」といって女性が入ってきた。
「何階ですか?」
「10階をお願いします」
女性と目が合った。見覚えのある懐かしいまなざしだった。それに髪はあの時と変わらないショートカットのままだった。すぐに誰だか分かった。
「田代さん?」
「吉田さん? お久しぶりね。何年ぶりかしら?」
「10年前の同窓会以来かな?」
「でもあの時はお話できなかったわ」
「どうしてここにいるの?」
「時々実家の母親の様子を見に来ているの」
「僕もそうだけど、こんなところで会うなんて偶然だね、驚いた。」
「もうこんな時間だけど、私は明朝大阪へ帰るので、少しお話しませんか?」
「そうだね、久しぶりに会えたのだから、ラウンジにでも行く? それとも部屋に来る?」
「ええ、差し支えなければ、私の部屋に来ませんか?」
「いいけど、何号室?」
「1025号室です」
「同じ階だね。僕は1035号室だ。荷物を置いてからすぐに行くよ」
僕は 吉田進、彼女の名前は田代直美、高校の同級生だった。この前にあったのが10年前の同窓会だった。個人的に二人だけで会ったのは13年ほど前になるが、その時が最後だった。彼女とのことは今ではもうすっかりほろ苦い思い出となっていた。
部屋に戻ると荷物を置いて彼女の部屋に向かう。なぜ彼女は僕を部屋に誘ったのだろう?僕の部屋ではいけないのか? よく分からない。
1025号室をノックする。すぐにドアが開いた。そこには微笑んでいる直美がいた。あの時から少しも変っていない。懐かしさがこみあげてくる。
部屋に入ってすぐに僕は前を歩く直美を後ろから抱き締めていた。もう気持ちが抑えられなかった。なぜだろう? シャイな僕には今までこういうことは全くできなかったし、したこともなかった。
拒絶されたら「ごめん懐かしかったから」と謝れば取り繕えるととっさに思った。でも直美は抱き締めている僕の腕を握り返してきた。その反応に僕は一瞬たじろいで抱き締めていた手をゆっくりほどいた。
直美は振り向いて僕を見た。僕はその潤んだ目を避けるようにキスをした。直美は抱きついてきた。舌が僕の中へ入ってくる。こんなことを直美はするんだ!
僕は驚いてその感触をしばらく楽しんだ。その間に直美を失ってからしばらくその大きな胸とお尻を夢想して何度も繰り返していたシミュレーションを思い出した。そしてそれを今、実行に移そうとしている自分に気づいた。
◆ ◆ ◆
ベッドの時計を見ると午前4時だった。薄いカーテンの外はまだ真っ暗だ。僕は直美を後ろから抱きかかえるようにして寝ている。彼女はまだ眠っているみたいだ。寝息が聞こえる。
あれから二度愛し合った。華奢な身体つきの小柄な直美だったが、大きな乳房と乳輪、大きなお尻は思っていたとおりだった。また、指が吸い込まれそうな柔らかな肌をしていて身体全体がとても敏感だった。
今まで経験した女性の中で一番かもしれない。妻の廸も感じやすいが、これほどではない。何度も何度も上り詰めて、ぐったりして眠りに落ちて行った。僕にもまだ心地よい疲労が残っている。
直美は僕の突然の衝動を受け入れてくれた。拒絶の言葉もなく抵抗もしなかった。それが嬉しくて快感につながった。
直美とは高校2年生の時に同じクラスになって始めて知り合った。目がクリっとした僕の好みの顔立ちで髪はショートカットで活発な可愛い女子だった。また、成績もクラスの上位にいた。
僕はそのころはとってもシャイで女子に話しかけることすらできなかった。ただただ、彼女を横から、後ろから、眺めて憧れているだけだった。ときどき視線が合うとドキドキしてすぐに目をそらせていた。そのころ彼女と会話をした記憶は残っていない。
それで彼女は僕が好意を持っていることに気づいていたのかもしれない。僕が地元の大学に合格した日に思いもかけず電話をしてきてくれて「合格おめでとう」と言ってくれた。彼女も希望の学部に合格していたので、話がはずんだ。高校が進学校だったのでようやく僕たちは受験から解放された。その時は彼女が僕に好意をもっていてくれていたなんて思いつかなかった。
学部は違っていたけれど、それから僕たちは時々会って話をするようになった。せいぜい2、3か月に1回くらいだったように思うが、まあ、はじめは情報交換といったところだった。そのうちに学園祭に招待したり、招待されたりして、親しさは少しずつ増してはいったように思う。ただ、好きだとコクルことや付き合ってくれとかは、お互いに口にしなかった。
そのころの二人は共に学生生活を謳歌して、お互いに自由であって束縛されたくないという思いがあったのだと思う。彼女から見て僕は One of them だったと思っている。今からしてみると、友達以上恋人未満などとは到底言えない間柄だったと思う。
学生生活を謳歌していたのもつかの間、僕たちは就職戦線に臨まなければならかった。お互いに就職活動のため、次第に会う機会もなくなっていった。
僕は東京の食品会社に就職が決まって上京した。彼女も東京の旅行代理店に決まったと聞いた。大学を卒業してそれぞれの会社へ勤めだしてからも、仕事が忙しくて、疎遠になっていた。
就職してから2年くらいたって、ようやく仕事を覚えたころに、高校2年生のときの同窓会を、秋谷幸雄君が幹事となって地元のホテルで開催してくれた。秋谷君は僕の親友でもあり、同じく東京の電機会社に就職していた。
久しぶりに参加すると、そこに田代直美も来ていた。すっかりOLが板について、見違えるように洗練された女性になっていた。
そのころの僕もすっかりスーツが身についた社会人になっていた。また、合コンなどにも参加できるほど仕事にも生活にも余裕ができていた。でも特定の彼女がいる訳ではなかった。
僕と直美はそこで再会したのがきっかけとなって、また時々会って、まあ、いうなれば情報交換をするようになった。時々一緒に食事をしたり、イベントに行ったりしたが、このときもお互いに付き合ってほしいとか言うことはなかった。まあ、学生時代から長く付き合っている友人のままで、男女の関係にもならなかった。
お互いに好意を持っていることは感じていたが、彼女でなければならないとか、運命の人だとかの思いはなかった。でも会わなくなることもなかった。
安全パイをキープしておいて、良い相手が見つからなければ、最終的には、というような気持ちもあったのかもしれない。彼女もそう思っていたのかもしれない。ただ、お互いに優柔不断だっただけかもしれない。
就職してから5年ほど経っていたと思う。その時まで付かず離れずという怠惰な関係は続いていた。会う間隔もせいぜい2~3か月に1回とかになっていた。
「私、お見合いをしようと思っているの」
久しぶりに会ったときに、直美が唐突に話し出した。
「仕事に行き詰ったのか? それとも本当に結婚したくなったのか?」
「どっちもかな?」
「それなら、会ってみるだけ、会ってみれば」
僕は軽い気持ちで答えてしまった。今でもそれを後悔している。「それなら、会ってみるだけ、会ってみれば」に「僕より良い人ならば、考えてもいいんじゃないか」と軽く付け加えておいたならば、状況は変わっていたかもしれない。
いや、あのとき「お見合いは止めて、僕と結婚する?」と言えば良かったに違いない。でも、その言葉が僕の口から出ることはなかった。
彼女はそういう僕のそっけない態度に失望したのかもしれない。それとも本当に会って、彼と僕を比較したのかもしれない。そこのところは分からない。その日が二人で会った最後の日となった。
しばらく音信不通になっていた。いままでそういうこともあったので特段気にもならなかった。7か月後に結婚したとの挨拶状が手元に届いた。僕は驚いて何度も何度もその挨拶状を読み返した。そのとき、大事なものを失ってしまったと体中から力が抜けたのを覚えている。
眠っていたはずの直美が突然寝返りをうって僕の方に向きを変えてしがみついてきた。そしてはにかんでいるのか、いたずらっぽい目をして僕に小声で聞いた。
「目が覚めた? こうなったことを後悔している?」
「いや、君の方こそ後悔していないか? 僕があんなことをするとは思ってもみなかっただろう?」
「昔のあなたならね。でも試してみたくなったの。だから私の部屋に誘ってみたの。私のせいにしていいから」
「君のせい? 誘った? あの時拒絶されたら、久しぶりに会った親愛のハグだと言おうと思っていた」
「あなたらしいわ、少しも変わっていない」
「お見合いの話をした時のこと覚えている? その時、僕は君にそっけない返事をしてしまった。挨拶状をもらって君が結婚したと知った時はショックだった。君を手放すべきではなかったと後悔した。それで君のことはずっと心のどこかにあった」
「また、会えるかしら?」
「いいけど、できればまた会いたい」
「よかった。勇気を出してあなたを誘惑して」
「誘惑? いや、僕の方こそ、君を誘惑してしまった」
「後悔していないでしょう?」
「ああ、もちろん」
「お互いにパートナーには分からないにして会いましょう」
「僕は君の家庭を壊すようなことはしたくない」
「私も主人を悲しませたり困らせたりしたくありません。ただ、あなたと会いたいだけ」
「分からないように会うのは難しくないか?」
「難しくはないわ。あなたはお母様のお世話で帰省しているのでしょう。私もそうですから。それなら今回のように疑われずに会う機会は作れるわ。帰省の間隔はどれくらい?」
「一昨年末に親父が亡くなってからだけど、母親はまだそんなに年をとって衰えているわけではないから、だいたい2~3か月毎に2泊3日くらいで帰省しているけど」
「私も同じくらいの間隔です。やはり2泊3日です。このくらいの方が母親も疲れないからと言っています」
「うちの母親も同じことを言っている。来てくれるのは嬉しいけど3日以上いられると疲れるというので、ほどほどにして戻ることにしている」
「それなら二晩もゆっくり会えるわ。このことは絶対にパートナーに悟られないようにすることをお互いに約束しましょう」
「ああ約束しよう。連絡方法はどうする?」
「ハンドルネームでメールにしましょう」
「無料の新しいメールアカウントを作った方がよいと思う」
「主人は私のスマホを見たりはしないけど、念のために。ここには友人が何人もいるから分からないと思います」
「連絡頻度と内容は最低限にする。そしてすぐに消去しておく。リスクはできる限り少なくした方がよいと思う」
「次に会うのは2か月後ね。帰省はだいたい金、土、日の2泊3日ですが、祝日を利用することもあります。1か月くらい前に予定のメールを入れますから、都合を知らせて下さい」
「了解した。事前に日程の調整をしよう」
すっかり明るくなっていたが、もう一度愛し合う。お互いの気持ちを確かめ合った今はもうゆとりをもって愛し合える。
◆ ◆ ◆
3月14日(日)目が覚めたら8時を過ぎていた。直美はすでにシャワーを浴びて身づくろいを終えるところだった。
「今日はここでお別れしましょう。朝食も別々にして、私は9時54分の特急で大阪へ帰ります」
「そうしよう。どこで二人一緒にいるところを見られるか分からない。慎重に越したことはない。僕は10時57分の新幹線で帰る」
僕は身づくろいをして自室へ戻ってシャワーを浴びた。10時にチェックアウトをする途中に1025号室の前を通ったが、部屋にもう掃除の係の人が入っていた。
3月14日(日)ホテルのロビーから実家へ電話を入れる。母親にこれから新幹線で帰るが、変わりがないかを確認する。2日間のお礼を言われた。これで安心して戻れる。それから、妻の廸に電話を入れる。
「これから10時57分の新幹線で帰る。東京駅には13時52分着、家には3時前には着けると思う。いつものように夕食にお弁当を買って帰るけど、ほかにほしいものは?」
「お母様は元気だった?」
「ああ、変わりなかった。家の片づけを手伝ったけど、やはり親父の遺品の整理が進まなかった。なかなか捨てさせないから」
「根気よくやることね。お土産はおいしそうなお弁当とそれからいろいろ食べてみたいから和菓子の詰め合わせを買ってきて」
「恵理は良い子にしている?」
「言うことを聞かないで困っているわ。早く帰ってきてお勉強を見てほしい」
「分かった」
帰省すると帰り際に母親が旅費と小遣いをくれる。必要ないと断ってもくれるので、いくつになっても息子は息子のままなのだと思って、それに甘えることにしている。それでお土産を買って、残りは小遣いにしている。
母は父の遺族年金と自身の年金が入るし、実家の脇の空いたスペースを駐車場にして貸しているのでその収入もある。特段、生活に不自由している様子はない。それでこちらも援助の必要もなく助かっている。
チェックアウトして外へ出ると、昨晩の雨が嘘のように晴れ上がっている。歩いて駅へ向かう。駅の近くに宿をとると時間が読めるから、出張でも必ず駅の近くにしている。土産物売り場で注文の和菓子の詰め合わせと弁当3人分を仕入れる。コンビニで昼食用のおにぎりとつまみと缶ビールを仕入れる。
北陸新幹線が開通してからずいぶん便利になった。金沢から片道で最短2時間半、長くても3時間足らずで到着する。いつも昼食に飲んだビールでうとうとしているとすぐに東京駅に到着する。
今家族で住んでいる2LDKのマンションまで東京駅から45分くらいだ。5年前に買って、まだローンは残っているが負担になるような額ではない。父親が生前に援助してくれたのと、廸の実家も援助してくれたので、ずいぶん助かった。
予定どおりに午後3時前にはマンションに帰ってこられた。2泊3日の予定で出かけてはいるが、帰りの3日目は早めに向こうを立って、この時間には着くようにしている。月曜からはまた仕事が待っている。だから家でゆっくりして身体を休めたい。
「お弁当を見繕って買ってきたけど、気に入るかな?」
「3つとも違うのね。すぐ食べようよ。3つとも開いていい?」
「まだ、3時過ぎだぞ。これは夕飯に買ってきたんだけどね」
8歳になった娘の恵理がもう食べようと言って聞かない。2日半も家を空けていたのだから仕方がない。
僕はちょうど40歳になったばかりだ。廸は4歳年下の36歳だ。お弁当を3人でつつきながらかなり早めの夕食を食べている。
「次の休みには恵理の勉強をみてくれる? 私だと恵理が言うことを聞かないから」
「恵理そうなのか?」
「ママはすぐに怒るから、パパの方が教え方はうまいし分かりやすい」
「そうでしょう。お願い」
「分かった」
廸も恵理も機嫌が良い。お弁当を食べ終えると、今度はお菓子の詰め合わせを開けて、お茶を飲みながら食べ始めている。僕も好きな餡の入ったお菓子を2つほど食べた。そのあと、僕は恵理の勉強をみてやった。
恵理は勉強が嫌いではないし、学校の成績も悪くない。やる気はあるので教えるのも苦にならない。この娘の勉強をいつまでみられるかなと思うと今の時間がとても大切に思えてくる。
日曜の晩は早めに休むことにしている。恵理は今年から6畳ほどの部屋を勉強部屋にしてそこで一人で寝るようになった。それまでそこは僕の書斎だった。
僕と廸は8畳ほどのメインルームを寝室にして布団で寝ている。それまでは親子3人で寝ていた。それで廸との夜は疎遠になりがちだった。このごろは向かいの部屋に気を使いながらも愛し合うことがふえた。
隣に寝ているとついお互いに手が伸びる。僕が誘ったときに廸は拒んだことはないし、廸が手を伸ばしてきたときには僕も拒んだことがない。ただ、二人とも途中で寝落ちすることが何回もあった。お互いに働いていて家事や仕事で疲れているのでしかたがないと思っている。
僕はHが嫌いな方ではもちろんないし好きな方だと思っている。廸もどちらかというと好きな方だと思う。感じやすいし、昇り詰めているのも分かっている。
廸が僕の布団に入ってきて身体を寄せてくる。しばらく留守にして寂しい思いをさせた。この前に愛し合ってから時間がたっていた。昨晩の直美の身体との違いを確かめるように廸を愛し始める。
廸と直美、二人共、感じやすい方だと思うが、感じやすいところと感じ方がまるで違っている。押し殺した声も違っている。僕はなぜかそういう時は冷静でいられて観察ができる。
廸を愛するときの流れはほぼ決まっている定番といった愛し方がある。何度も重ねるうちに自然と流れが決まってきている。マンネリというか、代り映えしないが、それでも廸は毎回満足していると思っている。
直美とのことがあったせいか、今日はいつもの流れに違った体位を入れてみた。これは昨晩、直美が僕に望んだ体位だった。直美がそれで何度も昇り詰めていたのが分かったから廸にも試してみたかった。
廸はいつもと違う流れなので戸惑ったかもしれないが、それが刺激になったのか、すぐに昇り詰めていった。
◆ ◆ ◆
満ち足りた表情をした廸が僕から少し離れたところで横向きになってこちらを見ている。昨晩の後ろめたさもあってこちらから話しかけた。
「久しぶりだから今日はいつもと違ったことをしてみたかった。どうだった?」
「すごく良かった。たまには変わったこともいいわね」
「そうだね。これから毎回少し工夫してみよう。いやか?」
「おまかせします」
廸は「どうして」とか僕に聞いてこなかった。それから僕の腕を抱いて眠ってしまった。昨晩、僕に起こったことに廸は気づいていないと思う。
僕が若狭 廸と出会ったのは12年ほど前だった。直美の結婚を知ってから1年くらいは経っていたかもしれない。あのころの僕は直美の結婚からまだ立ち直れていなかったように思う。
それまでの僕は恋愛には無頓着で一人の人を愛することなど考えたことがなかった。まだ20代でもあったし、結婚もまだまだ早いと思っていた。同期の連中も皆独身を謳歌していた。
ただ、直美とのことが契機になったのは間違いない。あの喪失感はなんだったのだろうと考え続けていた。そんなときに廸と出会った。彼女は関連会社に勤めていて、会議で同席するようになったのがその始まりだった。
彼女は入社して3~4年くらいで、まだ初々しさがあって、僕にはまぶしく輝いて見えた。髪は肩までのセミロングで、顔立ちも整っていて僕の好みだったこともあって、会議中は彼女を見ていることが多かった。
後で聞いた話だけど、彼女は僕が会議中に彼女を見つめていることにたびたび気が付いていて、私に好意を持ってくれているのかしらと思ったと言っていた。まあ、そこまでは考えていなかったとしても、男は綺麗な若い女性には自然と目が行くものだ。
仕事の関係で、会議で同席することも、2対2で会うことも、1対1で会うことも増えていった。2対2の打ち合わせの後では親睦のために軽く飲み会をすることもあった。それで廸とは個人的な話をする機会も増えていった。
彼女は仕事にしっかり向き合っていて、自分の意見を持っていた。議論しても理路整然としていて論破されることもあった。男同士ならお互い妥協できないところは、なあなあになったりするが、そういうこともなく、ビジネスライクでかえって仕事を進めやすかった。
また、年下だとは思っていたが、意外と芯のしっかりしたところがあった。始めは僕が彼女に恋愛感情を持っていなかったのは間違いない。それは関連会社の人と付き合うことはまずいと考えていたためでもある。
誰かと誰かが付き合っているとすぐに社内で噂になったりする。付き合ってうまく行けばよいが、別れたりすると、あとあと気まずいし、人事考査に影響したり、悪くすると配転になったり転勤になったりしかねない。
ある時、飲み会の後で僕は廸と偶然帰る方向が同じで駅まで二人きりになった。廸は少し酔っていたのかもしれない。いつもより口数が多いように思った。それで歩きながらとりとめもない話題で話が弾んだ。
「吉田さんって、彼女いるんですか?」
何がきっかけで聞かれたのか覚えていない。彼女は僕が独身であることは知っていたが、突然こういう聞き方をされるとは思わなかった。こういう質問をするのは相手に関心がある時だと分かっていた。でもどういう訳か、彼女には誠実にありのままを答えても良いのかなと思った。
「いない。ただ、1年前、高校時代からの女友達にお見合いすると告白された。そしてほどなく彼女は見合い結婚した。結婚の挨拶状を突然もらって、すごい喪失感を覚えた。ただの女友達だと思っていたのにね」
「失恋したような?」
「いや、彼女とは付き合っていた訳でもないんだ。ただ、長い間の友人だった」
「その方、吉田さんが好きだったのですね。でないとそういうことは話さないから。それに吉田さんもその方が好きだったのは間違いありません」
「確かにその時はそういう意識はなかったけど、あとから少しずつそれが分かってきた。僕は恋愛には向いていないね」
「吉田さんに彼女がいないのは分かる気がします。吉田さんは会議で意見が対立しても相手を追い詰めたりは決してしないし、自分が折れて相手の顔を立てたり気配りがすごくできて、尊敬しています。ただ、自分を抑え過ぎるところがあると思います。女性に対しても自分の気持ちに素直になれなかっただけだと思います」
「僕はその自分の素直な気持ちが認識できないのだと思っている。どうしようもないね」
「じゃあ、私と『恋愛ごっこ』してみませんか? 素直な気持ちというものが分かるようになると思いますが」
「『恋愛』じゃなくて『ごっこ』? 恋愛の振りをする?」
「『ごっこ』ですから、本気じゃなくていいんです」
「若狭さんとその『恋愛ごっこ』をすると素直な気持ちが分かるようになるというのか?」
「はい。きっと」
唐突な提案に驚いたが、今思うと、廸は僕が彼女に好意を持っていると確信していたに違いない。それを僕自身が気づこうとしていないこともよく分かっていた。
「でもこのことは絶対に秘密にしましょう。周りからいろいろ言われたり、興味を持たれたり、気を使われたりするのはいやでしょう。職場関係の恋愛は仮に『ごっこ』だったとしても、いろいろリスクが高いですから」
「分かった。若狭さんが協力してくれるなら、その『恋愛ごっこ』をしてみようかな」
こうして『恋愛ごっこ』なるものを始めることになった。それからは誘われて週末にデートをするようになった。デートのときには自然に手をつないできたし、腕を組んできた。廸は僕の恋人のように振舞ってくれた。
でも廸は仕事の関係で会議に同席したときや2対2や1対1で打ち合わせをするときは決してそのような素振りは見せなかった。
会議で時々可愛いなと見ていた女性と週末にデートして、そういうことが自然にできることをいつか楽しむようになっている自分がいた。廸と「恋愛ごっこ」で話していると心が和んで癒された。週末に会うのが待ち遠しいと思うこともあった。
ただ、僕が廸に取った態度は、彼女が関連会社の社員で仕事上の付き合いがあるということが前提というか頭の中にあったので、また「ごっこ」が前提になっていたので、誠実というか真面目そのものだった。やはり恋愛には向かないやっかいな性格だった。
だから1年ほどそういうつきあいというか「恋愛ごっこ」が続いていたが、それ以上に進もうとはしなかったし、できなかった。ただ、廸をとても大切に思っていたことは間違いないし、前へ進むことを自ら戒めていた。それで廸はこれが限界と思ったのだろう。僕に真正面から仕掛けてきた。
「お見合いの話があるので、もう『恋愛ごっこ』を終わりにしたいのですが?」
廸が僕を試すためにお見合いの話を持ち出したのはすぐに分かった。廸には僕の失敗談を話していたからだ。でも、それを聞いたとき、僕の答はもう決まっていた。自分の素直な気持ちが分かっていた。過去の失敗を繰り返してはいけないことも分かっていた。
「ああ『恋愛ごっこ』はもう終わりにしよう。終わりにする代わりに僕と結婚してくれないか?」
僕ははっきり言った。でもこんな時にこんなタイミングでプロポーズの言葉を言うことになろうとは思ってもみなかった。僕はもうすっかり変っていた。
廸は突然の僕のプロポーズに驚いたのか、期待していなかったのか、黙ってしまった。突然のその沈黙に僕は気が動転してしまって、その沈黙の時間がとても長く感じられた。僕の思い過ごしだったのか? いやいや、そんなはずはない。
「すぐに決められないなら、僕と本気で恋愛してみてくれないか?」
すると彼女は僕の目を見てニコッと笑った。
「はい、結婚を前提にした恋愛をお受けします」
それからの僕は堰がきれたように廸との関係を深めていった。次の週末には僕の部屋に誘った。もう、すぐにでも廸を僕のものにしたかった。
廸は以前に付き合っていた人もいたみたいだが、男女の関係になったのは僕が初めてだった。そのころは秋谷君と遊び歩いたりもしていたので、女性の扱いに気後れすることもなく、冷静に廸を自分のものにすることができた。
だから僕には直観的にそう思えた。それがとても嬉しかったことを覚えている。そのときの一部始終の記憶が今でも鮮明に残っている。
そして1年後に僕たちは結婚した。廸は普通に正式なプロポーズをしてほしかったから、最初のプロポーズの時はとても嬉しかったけど、どうしようかとすぐに答えられなかったと言っていた。
その2年後に恵理が生まれた。廸は今も仕事を続けている。その時の僕の給料では専業主婦は無理だったし、廸も働き続けることを望んだからだ。
廸は運命の人とまで言ってもよいかもしれない。僕にぴったりの女性だと思っている。出会いから結婚までの経緯を振り返ってもそうだ。さっぱりしていて性格も良いし、彼女と一緒にいると気が休まって癒される。特に不満もないし、これまで大きな喧嘩もなく仲良く暮らしている。
だから浮気しようという気も起るはずがなかった。でも直美とはすぐにあんな関係を結んでしまった。自分でもどうしてあんなことになってしまったのか理解できなかった。彼女には思い残すことがあったからだ。そうとしか思えなかった。
3月24日(水)昼休みに親友の秋谷君から電話が入った。秋谷君は高校2年の同窓生で学部は違っていたが、同じ大学に進学した。学生時代も仲が良くて夏休みに一緒に旅行にも行った。彼の就職先は東京の電機会社だった。
働き始めてからも休日に一緒に旅行に行ったり、遊びに行ったりした。何事も経験とソープへも二人で一緒に行ったりもしていた。仕事に慣れてくると世話付きの秋谷君は合コンも主宰してメンバーにも誘ってくれた。
秋谷君も僕とほぼ同じころに合コンで知り合った岡田順子さんと結婚した。今では同じく一児のパパとなっている。結婚してからも時々二人で会って飲んでいる。お互いの結婚式に招待し合ったり自宅へ招待したりもしているので廸も秋谷夫妻を知っている。
久々に会って飲むことになった。場所はアクセスが良くてお互いの会社の中間にある駅近くのいつもの居酒屋で6時半に約束した。すぐに廸には[秋谷君と飲むことになったので夕食は不要]とメールを入れておいた。すぐに[飲み過ぎないでね]と返信が入った。
◆ ◆ ◆
「久しぶりだな、元気だったか?」
「ああ、この前はすまなかったな。せっかく誘ってもらったのに帰省の予定が入っていて」
「お袋さんの様子はどうだった?」
「元気そうで特に変わりはなかった。親父が亡くなってから、しばらくは落胆していたが、もう立ち直れたみたいだ。遺品の整理にも付き合ってきた。でも、なかなか捨てさせないので困っている。もう少し時間が必要かな」
「俺もしばらく実家に帰っていないが、兄貴が地元に残っているから任せている」
「次男は気楽でいいな。うちの弟も兄貴任せで困っている」
「そんなもんさ」
「町はどうだった?」
「実家の周りは徐々に寂れていくのが分かる。地方都市はみなそうみたいだけど、少子化で活気がないな。近所にも子供がいない」
「俺たちが出てきたせいもあるな」
「そうだが、就職口がなかったからしかたがないだろう」
「誰かに会ったか?」
「いや、2泊3日だけど、そんな時間は毎回ない。1日目と2日目はほとんど実家で家の掃除と片付け、庭の手入れなどを手伝って、3日目は早めに戻ることにしているから」
「しばらく同窓会をしてないな。確か前回は10年ほど前だったかな」
「秋谷君が幹事をしてくれたからできたんだ。皆どうしているかな?」
「地元に残っているやつと戻ったやつが半数くらいだったな。あとは関東と関西などに散らばっている。もうほとんどが既婚者だろうし、子供もいるだろう」
「また世話好きの秋谷幹事で同窓会をやってみるか?」
「そうだな、昔の彼女にも会ってみたいからな。前回はホテルでの夕食会にしたが、今回はゆっくり飲んで話せるから一泊したらどうだろう。地元の温泉旅館のオーナーに大学時代の友人がいるから一泊することにしても彼に頼めば場所の確保などに便宜を図ってくれると思う」
「帰る時間を気にしなくてよいから、その方がいいね。皆への連絡はどうする?」
「クラスの名簿はパソコンに保存してある。メールやら年賀状などの交換でできるだけ更新しているから大丈夫だと思う」
「5月の連休の後くらいに開催する方向で準備したらどうかな? 僕も手伝うけど」
「連絡は往復葉書とメールの両方でした方がよいと思う。住所もメルアドも変っている可能性があるから」
「連絡がつくメンバーだけでいいんじゃないか? どうせいつも来るやつしか来ないから」
「そうだな、日時と場所を決めたら手分けして連絡しよう。助かる」
十日前に田代直美に会ったとは言えなかった。同窓会を開催するなら2か月後が好都合なので提案した。直美に再会できる絶好の口実ができた。
「ところで奥さんは元気にしている?」
秋谷君の奥さんの順子さんは彼と同い年でしっかりしたキャリアウーマンだ。結婚式の司会をして事前打ち合わせもしたのでよく覚えている。二人は共働きで確か5歳の娘さんがいる。
「仕事と子育ての両立は大変だけど協力しながらやっている。ただ、保育所の送り迎えなどもあってお互いに相当疲れてはいる」
「あっちの方はどうなの? 僕はできるだけしているけど」
「まあ、求められたら応えることにしている。こちらから望んでも疲れていると気が乗らないみたいだから」
「今でも、あそこへは行っているのか?」
「たまにね」
「相変わらずだな」
「吉田君はどうなんだ?」
「結婚してからは行っていない。なんとなく後ろめたいから、行っても気が乗らないと思うし」
「昔から真面目は変らないな。俺はプロにはもう飽きてきたから、素人さんと時々」
「ええっ、素人さんと?」
「聞いたことあるだろう、援助交際とかパパ活とか」
「ああ」
「具体的に言うとそういう専門のサイトがあるんだ。そこで知り合う」
「そんなにうまくいくのか?」
「試行錯誤で要領が分かってきた。やる気があれば教えてやるけど」
「やめておく。素人さんとは。君子危うきに近寄らず。プロなら割り切れるけど」
「プロとは違って素人さんはいいぞ、新鮮味がある。入れ込んでしまわないようには注意しているけど」
「でも、そういう娘って、プロとは言わないまでもセミプロじゃないか?」
「そこのところはちょっと違うと思う。何人もの男性を経験している娘もいるだろう。まあ、そういう感じだ」
「なるほど、それなら分かる気がする」
「プロと素人の違いを分かっている?」
「プロは金銭だけの関係だろう。でも素人が相手でもパパ活のようにお小遣いのような金銭の授受は発生するだろう。だからセミプロといったんだ」
「どちらもお金はかかるけど、プロは確かに金銭だけの関係だ。相手が素人でも食事をしたりプレゼントしたりで、もっと費用はかかる。それにお小遣いは謝礼と同じだ」
「金銭だけの違いではないと?」
「プロは相手を選べないし選ばない。素人は相手を選べるし選んでいる」
「なるほど、もっともだ」
「どちらかというと、素人が相手の場合は、金銭の授受はあるとしても、両方に選択権がある対等な関係だ。選ぶ、選ばれるというのは恋愛に通じるところがある。そう思わないか?」
「確かに。それで同じ娘とは何回も会っているのか? 好きにならないか?」
「一回限りのこともあるけど、だいたい2~3回かな。それ以上になると飽きてくるからな。それに長い期間付き合うような深入りは避けた方がよいと思っている」
「まあ、その方が賢明かな」
「それに俺は何回か会わないと顔を覚えられないんだ。顔をしっかり覚えないうちに別れた方が良いと思っている。街中で出会っても覚えていないと気が付かないだろう」
「僕も人の顔は一回会ったくらいでは覚えられないからな、ありだね。でもやっぱり浮気性だな、秋谷君は」
「男って浮気性だろう。吉田君もそうじゃないのか?」
「そういうことを想像することはあるから、あえて否定はしないけど、それを実行に移してしまう秋谷君ほどじゃないと思っている」
「もう一つ、面白いことを教えてやろうか?」
「まだあるのか? 話したいみたいだから聞こうじゃないか」
「吉田君は口が堅いからな安心して話せるし、的確なコメントもしてくれるからな」
「ああ、秋谷君の話は決して口外しない。墓場まで持っていくつもりだ」
「既婚者合コンって知っている?」
「初めて聞いた。そんな合コンってあるんだ」
「このまえ誘われて1回出席した」
「へー、どうだった?」
「同年代の既婚者の男女がそれぞれ4~5名出席して、まず自己紹介をする。自己紹介は適当な内容でよい。それで飲食しながら自由な会話をする。だいたい2時間くらいで終了する。会話が弾めば、場所を変えて二人で話をしても良い。キャリアウーマン風の女性がほとんどだった。専業主婦はいなかったな」
「それだけ」
「今のところ、それだけだけど。気の合った人がいて名刺交換をした。次に会う約束をしたところだ。うまくいったらそのうち続きを聞かせてやろう」
「ああ、楽しみにしている」
気の合った友人と飲んで気兼ねなく世間話をするのは憂さ晴らしというかストレス発散にはもってこいだ。とりとめもない話に終始した。
ただ、僕に何でも話してくれる秋谷君には悪いが、田代直美とのことは話さなかった。確かに「素人さん相手の場合、お互いに選択権がある」はもっともな話だ。恋愛もそうだが片思いでは成り立たない。