ある、昼の陽射しが暖かい春。
夏休み明けの最初の土曜日に、春乃高校の文化祭が開催された。
いとこのお兄ちゃんが通っていたはる校の文化祭は、他校と同じく九月に行われ、「桜まつり」とも呼ばれる文化祭は普通の学校と比べて大規模なものだ。
地域の人なども毎年楽しみにしており、いつもは生徒や教員だけの校舎も、その二日間だけは一気に人で溢れかえる。
「ねえ、なんで秋なのに『桜まつり』なの?桜はね、春に咲くんだよ!」
「そうだな。でもこの学校は、50年前まで、この時期は桜が咲いてたんだ。今は植え替えられて、普通の桜になったけどな」
お兄ちゃんが言うことは難しくてよくわからないけれど、今はこの桜は咲かないと言うことはわかった。
でも、非日常の空間に興奮した私は、色んなものがカラフルで、綺麗で、全てが新鮮に見えて、そんなことが関係ないくらい、一緒に来ていたお兄ちゃん達からも呆れられるくらいはしゃいでいた。
とにかく私は何も見えていなくて、ただ自分が行きたい場所、やりたいことができるところへ次から次へと移動していた。
いつのまにか母とはぐれてしまっていることにも気づかず、ただ夢中で駆け回り、迷子と気づいたときにはもう手遅れだったと思う。
「……お、おっ、おかあさああああん!!!おにいちゃああん!うっ、うえっ、ええぇぇん…………」
鼻水と涙でグチャグチャのまま歩き続け、私は誰もいないところまで来てしまっていた。
…………だから、その場所へはこようと思ってきたわけじゃない。
私がふと何かを思って立ち止まった時、今までとは違ってしんとした雰囲気に、私は泣き声が止まる。
────目の前には、凛と咲く一本の桜の木があった。
その神聖な雰囲気に、幼ながらも私は一瞬息を呑む。
気がついた時には、一歩、ニ歩と歩き出して、目の前にある大きな木の幹に触っていた。
それは、少し冷たくて、でもどこか暖かい。そんな心地よさに、少し安心する。
でも、肩の力を抜いた途端、誰かの声が聞こえてきて。
だれかわからず、不安でさっきよりも強い力で幹を掴む。
どんどん近づいてくる声が怖くなり、私は思わず目を瞑った。
その瞬間、ぴたりと声が止んだ。
うっすらと目を開けると、目の前には私と同じ歳ぐらいの男の子がいる。
その子は、幼いながらもとても顔が整っていた。
その子は不思議そうな顔で私の前にしゃがみ込んでいる。
「何してるんだ?」
私よりも少し低めな、でも男の子にしては高めな声。
男の子の声に聞き惚れていると、その子はむすっとした顔で私のほおを掴んだ。
「い、いひゃい」
「だったら無視するな」
そのまま潰されたり引っ張られたりして、私のほっぺはどんどん変形していく。
「お前の顔、やわらかいな」
そういって未だにぐにぐにとしてくるので、痛くて思わず視界が潤んできた。
「い、いたいよお…………」
私がまたもやぼろぼろと涙をこぼすと、その子はぎょっとしたように手を離した。
「うわ、なんでお前泣いてるんだ!」
「いたいい…………」
「ああもう、ごめんって。だから泣くなよ」
そう言って優しく頭を撫でてくれたので、涙が引っ込みかける。
だけど、その仕草で母達のことを思い出し、余計に涙が溢れてきた。
「お、おかあさあん…………」
「なんでまた泣き始めるんだよ!おい!お前、ちょっと座ってろ」
そう言ったあと、男の子は私を抱き上げ、美しい桜の木の幹にもたれかけさせる。
「な、なに、するの…………」
ぐずぐずとしている私に向かって、その子は「静かにしろ」と言った。
また頬を潰されたらたまらないので、仕方なく黙る。すると、対象に男の子は大きく口を開いた。
────力強く、伸びやかに歌う。
それは、幼い私でもわかるくらいとても上手で、それでいて歌うことを全力で楽しんでいた。
小学校の音楽の授業の歌声しか聞いたことがなかった私は、その歌がとても綺麗で、歌にそんなものはないかもしれないけど、美しさも感じる。
これが『歌』と言うものなのだと、私は初めて知った。
そして、それは歌声だけではなく、その歌も私の心を惹きつけた。
なんの歌かはわからない。
だけど、そのメロディーはどこか懐かしさを感じるもので、なぜか泣きたくなるくらい優しい歌だった。
さっきまで溢れていた涙が止まる。
その歌が終わったとき、私はぱちぱちと一生懸命手を叩いた。
「すごい、すごいよ!私、こんなにすごい歌聴いたことない!」
「ふふん。そうだろ。俺は天才だからな!」
胸を張って自慢げにしている男の子に、さっきよりも大きく拍手をする。
手を叩きすぎて痛くなった頃、私はじっと男の子を見つめた。
その視線に気付いたのか、男の子は首をこてんと傾げる。
「なんだ?」
「その歌って、なんていう名前なの?」
「名前?まだつけてない」
「つけてないの?つけられてるんじゃなくて?」
お歌には、作った人が名前をつけられてるんだよ、とお母さんが言っていた気がする。
私がそう言うと、男の子は納得したように大きく頷いた。
「ああ。俺とばあちゃんが、この曲を作ったからな!」
「おばあちゃんが作ったの?」
「俺もいるからな!」
おばあちゃんが曲を作ったという言葉に反応して、私は聞き返す。
さっきの『歌』を誰かが作っていることに感動し、私は詳しく聞くために口を開こうとした。
刹那、大きな風が吹いて見事な桜吹雪が舞う。
歌のことも気になるけれど、好奇心旺盛だった私は、目の前の桜の方へ関心がいった。
「ねえ、なんでここだけ桜が咲いてるの?」
「えっと、確か、かいしゅーこーじで、他の桜をうえかえる?ときに、ここだけ忘れられて、そのままなんだって、ばあちゃんが言ってた!」
「かいしゅーこうじってなに?」
「よくわかんないけど、それのせいで他の桜は普通のやつになったんだって!だから、ここは特別ってことなんだ!」
「特別?」
「ああ!ばあちゃんも、一つだけそのままの桜があるって事だけは知ってるんだけど、それがどこかは知らなかったんだ!だから、俺らが最初に見つけたんだぞ!」
「そうなの?じゃあ、ここを知ってるのって、私たちだけ?」
「ここは、特別な場所だからな!」
そう言って胸を張ったあと、男の子はきょろきょろと辺りを見回した。
「そういえばばあちゃん、どこに行ったんだ?」
「もしかして、君も迷子なの?」
「俺が迷子になったんじゃない、ばあちゃんが迷子になったんだ」
そういって頬を膨らますが、目の少し寂しそうな表情が、さっきまでの私にそっくりで。
手をぎゅっと掴むと、男の子の頬がピンク色に染まった。
「な、なにするんだっ」
「ねえ、一緒にほんぶてんとに行こうよ!」
お母さんが、迷子になった時はほんぶてんとに行くんだよって言ってた。
そういうと、男の子は少し迷ったあと、こくりと頷く。
「わかった!俺も行く!」
「よかった!でね、一つお願いがあるの!」
そういって真剣な表情をした私に、相手の子もつられて真剣な顔をした。
「なんだ?ばあちゃんはあげないからな!」
「私もお母さんはあげないよ!そうじゃなくてね、歌を教えてほしいの!」
「歌?」
不思議そうな顔をした男の子に向かって、私は必死に言った。
「さっきの、綺麗な歌!あれが、歌えるようになりたい!」
「ばあちゃんと一緒に作った歌か?うん、いいぞ!特別に教えてやる!」
二つ目の特別に、胸が暖かくなる。
手を繋いで歩き出した私に、男の子は少しだけ不安そうに言った。
「でも、ほんぶてんとってどうやっていくんだ?」
「人に聞いていけばいいんだよ!」
「そうか!」
最後に桜の木をみて歩き出すと、すぐに人がいるところへと出た。
手を繋いだまま、歩いている一組の男の人と女の人に話しかける。
「あ、あの」
「ん?」
すると、男の子が声を上げた。
「あ!!秋斗だ!」
「ようチビ。なんだお前、ほんとに遊びに来たんだな。ばあさんは?」
「ばあちゃんが迷子になった」
「そっか、要するに迷子だな。どこにいるかあてはあるか?」
そういうと、そのお兄さんは男の子のほうを見た後、「こいつはあてにならないからな」といって私の方に視線を合わせる。
びっくりして目を見開くと、隣にいたきれいな女の人が、「顔が怖いわよ」と言いながらお兄さんをつついた。
そういわれた後、お兄さんはにっこりとぎこちない笑みを作って私に聞く。
「お前、」
「秋斗」
「君、どこか集合場所とかお母さんと決めたか?」
「ほ、ほんぶてんと」
「ほんぶてんと?ああ、本部テントか。確か、ここをまっすぐ行って、」
「ここから近いから、連れてってあげたら?」
「それもそうか。」
何かを話している二人の声が聞こえないので、私は諦めて男の子から歌を教えてと頼む。
すると、教えるよりも、俺が歌ってやるから覚えろ!と言った男の子に、それもそうかと頷いて歌ってもらう。
相変わらずとても綺麗な歌声で、私はさっきよりも強く手を握る。
すると、ぴくりと肩が震えたあと、声が止まってしまった。
「な、なんで握った!?」
「だって、声が綺麗だから」
「理由になってないぞ!」
小さな声でそう言い争っていると、お兄さんとお姉さん、そして周りの人たちが、驚いた顔で男の子を見ていた。
特にさっき道を聞いたお兄さんは満足そうにうなずく。
「本当にお前、歌がうまいなあ」
「ああ!俺、歌が大好きなんだ!」
「確かにお前、きれいな声してるしな。歌手とかにでもなるか?」
「歌手?よくわかんないけど、なる!」
「よくわかんないならなっちゃいけないだろ」
そういってわしゃわしゃと頭を撫でられ、満更でもなさそうな顔をする。
…………別に羨ましくなんてない。
ぷいっと顔を逸らすと、小さな手が頭を撫でた。
「………なに?」
「ほめてつかわす」
難しい言葉を使われ、私は意味を聞く。
だが、詳しくはわからないけど、とりあえず誉めているということらしいぞ!と言われ、私はされるがままにした。
しばらくそうしていると、視線を感じて顔を上げる。
「仲がいいなあ」
「そうだね」
そういってにこにこと笑っている二人に恥ずかしくなり、私は二人の背中を男の子と一緒にぐいぐいと押す。
それでも笑ってみている彼らに、なんとか案内してもらった本部テントについた。
スタッフに案内され、知らないうちに私は疲れていたらしい。
椅子に苦労してよじ登って座った途端、私はすぐに眠りの世界に入った。
「……い、おい。お前、お迎え来てるぞ」
この短時間で、聞き覚えのある声に起こされ、少しずつ意識が浮上する。
うっすらと目を開けると、目の前に整った顔が現れた。
「……!?」
男の子は勢いをつけて椅子から飛び降りると、恥ずかしさと驚きで声が出ない私に向かって手を差し出す。
「ほら」
手をどうしようかと迷っている間に、手を握られて椅子から下ろされた。
「あ、ありが」
「咲良、どこに行ってたんだよ。早く帰るぞ」
「う、うん」
お礼の言葉を告げる前に、従兄弟のお兄ちゃんから呼ばれて反射的に振り向く。
すると、その間に男の子は自分の保護者らしいおばあさんのところへ行っていた。
お兄ちゃんに手を繋がれ、距離がどんどん開いていく。
────さっきまでは、あの子に手を握られていたのに。
そう思った途端、いてもたってもいられなくて。
私は思わず、普段では絶対に出さない大声で叫んだ。
「あ、ありがとう!」
周りからの視線が恥ずかしくて、お礼の言葉を言うので精一杯だった。
恥ずかしくなってうつむき、スカートの端を握る。
すると、バタバタと音が近づいてきて、綺麗な瞳と────目が合った。
「なんだ、お前叫べるんだ」
そう言った男の子は、私がお兄ちゃんとは繋がれている反対の手を握る。
「また、特別な場所で待ってるからな!約束だ!」
最後に結ぶだけの指切りをして無邪気に笑う顔が、男の子に言うには相応しくないかもしれないけれど────あまりにも綺麗で、美しかったから。
歩き出した男の子とおばあさんを見送り、背を向けようとする。
火照った頬は熱く、自分の手でぺたりと抑える。
最後に、もう一度顔を見ておこうと思い、振り返った。
その瞬間。
キキーーーーーッッ!!!
「キャーーーーーっ!!!」
何かが止まるような音がした後、ドンッ!という鈍い音が耳に入る。
驚いて声が出ない間に、近くの人たちの悲鳴が聞こえた。
その声でようやく我に帰り、壊れたブリキのようなぎこちない首をなんとか動かす。
そこには、一人の人が血を流して倒れていた。
────あれ、でもあそこにはさっきの男の子がいて。
そんなことを真っ白な頭でぼんやりと考える。
してはいけない想像が脳裏に広がり、すぐに打ち消すが、はっきりしてしまった映像は焼き付いてはならなかった。
ジジジ、と音がして、男の子の笑顔と目の前の血塗れの人とが重なる。
「さくら?」
「…………おにぃ、ちゃん」
救急車を呼ぶために電話していたらしいお兄ちゃんが戻ってきた。
息が吸えなくて、苦しくて、それでも頑張って息を吸って、吸ったら。
世界がぐるんと回転して、気がついた時には家のベッドに横たわっていた。
だけど私は、なぜここにいるのかすらわからなくて。
事故のことは思い出したのに、一緒にいたはずの男の子の顔が思い出せない。
いや、顔だけじゃない。その前に喋ったことも、行動も、私はすべて忘れてしまっていた。
ただ一つだけ、目の前で無残な姿になった大切な人の映像だけが脳裏に蘇る。その他は何も覚えていないというのに、神様というものはなんて残酷なのだろう。
ただ、男の子との指切りの感触だけが妙に残っている。
(約束って、なんだっけ)
とても大切なはずなのに、覚えていたいはずなのに、それは無情にも私の手から零れ落ちていった。
そんな私を心配した母と父、そしてお兄ちゃんや叔母さんたちが私の顔を覗き込んだのが目に入る。
大丈夫だよ。そういったはずの言葉が、掠れて喉につっかえた。
私はあの日、人生で初めて『恋』という感情を知って。
その後にすぐ、『大切な人がいなくなる恐怖』を知って。
────そして同時に、私は人の口より上の部分が、モザイクがかかったように見えなくなっていた。