「市ヶ谷、それ終わったら帰って良いよ。ご苦労さん」
「え、先生。こんなに頑張ったんだからお菓子のひとつやふたつくれても良いんじゃないですか」
「そういうのは自分で言うもんじゃないんですよ市ヶ谷サン」
「言わないとくれないじゃないですか」
「言ったらもらえると思ってんのもこえーよ」


 二月半ばの放課後のこと。
 職員室の前をたまたま通りがかったところを、英語教諭で写真部の顧問でもある瀬戸先生につかまってしまった私は、英語科準備室で、課題プリントを四枚ずつホッチキスで止めるという地味に時間のかかる雑用を頼まれていた。

 私は写真部に所属していたので、三年の文化祭を終えて部活を引退したあとも何かと都合よく使われることが多く、今回も例外なくそうだった。「あ、市ヶ谷今から帰るだけならちょっと手伝ってよ」と、そんな感じである。あまりにも都合が良すぎると思う。
 さらに補足すると、写真部の部員は全部で六人。うち半分以上が幽霊部員と化していたので、人数もやる気も足りない廃部寸前の部活として認識されていた。

 私は比較的真面目に部活をしていたほうだったので、瀬戸先生と顔を合わせる機会が多く、そうしているうちに少しばかり仲良くなってしまった、というわけである。


「市ヶ谷、ほれ」
「え、わっ」
先生は私が顔を上げたタイミングとほぼ同時にポケットから個包装の飴玉を取り出し、こちらに向かって投げた。
 咄嗟に手を出してそれを受け止めると、「意外とやるやん」と嬉しくない褒められ方をされる。

 ブドウ味の飴玉。早速口に含むと、ブドウの香りと甘さが広がった。


 暖房が付いているといっても、外気温度が低すぎて暖気がなかなか広がらないのが真冬の難点だ。窓の隙間を抜ける冷え切った風に、時々身体が震える。


「うー……寒」
「女子高生は大変だね。こんな真冬でもスカート履かなきゃなんねーの」
「寒そうだって思うならスカートの下にジャージ履くのありにしてくださいよ。なんでだめなんですかあれ」
「そりゃだらしないからだろうな」
「えー、校長先生の頭のほうがだらしないと思いま……」
「それ以上の発言は校則違反です」


 くくく……と笑いをこらえながら先生が言う。
 もうほとんどアウトだったんですけど。そう訴えるように瀬戸先生に視線を送り、それから私もつられて笑ってしまった。


 瀬戸先生は、縁が黒い眼鏡がよく似合う、細身で色白な男の人だ。
 二十九歳、独身。本人曰く、自分の生活スタイルを他人に踏み込まれることが嫌いらしい。
 絶対結婚できないとまるで他人事のように嘆いた先生に「人生には少しの妥協が必要なんですよ」とどこかの本で読んだ言葉をぶつけると、えらそうな言葉だなと笑っていた。それも、つい五分前の話だ。

「で、市ヶ谷。どうだった?」
「どうって何がですか」
「高校生活、後悔とかしてないんかなって。高校生ブランドは手離した途端恋しくなっちゃうもんだからね」


 高校三年生、最後の登校日。
 明日から三年生は自由登校の期間に入るので、ほとんどの生徒が卒業式当日まで学校には来なくなる。

 写真部の私も例外ではなく、明日から半月近く制服を着なくなるわけで、つまるところ、私の高校生活は実質今日で終わりを迎える、ということだ。

高校生活に後悔はしてないか? なんて、私にそんな質問をするのは皮肉だと思う。

「先生サイテーです」
「なんでだよ」
「達成できたことよりやり残したことのほうが多いんです、私は。知ってますよね、先生も」


 後悔なんて数えだしたらきりがない。体育祭も文化祭も修学旅行も、友情も恋愛も。
 ひとつだって、私が思い描いていたものにはならなかった。


 やり直せるなら、入学式の日から。中学時代から。──この容姿に生まれた時から。


「まあでも、時間を無駄にすることも何度も失敗することも青春っちゃ青春だと思うよ、俺は」
「そんな無理やり括らなくていいです」
「なはは、夢がねえな」

 募る苛立ちを誤魔化すようにため息を吐く。
登校日は今日で終わり。残すところ、学校に来るのは卒業式の日だけだ。
 今更どうにもできないことを悔やんでも仕方がない。


「卒業式行きたくないなー……」

 思い出と呼べるほどのことは何もなく、誰かを好きになることもなければ、友達もろくにいなかった。
 最後にここぞとばかりに話す校長先生の祝辞を聞いて、卒業証書をもらうためだけに制服を着て学校に来なければならないのは、単純に、だるいのだ。