トイレで手を洗ったついでに鏡に視線を向けた時、そこに映る自分に黒くて冷たい印象を受けた。人は見た目が九割って、まさにその通りだ。
釣り上がった目尻に、瞳の下にある余白。無駄にくっきりした二重幅のせいで、三白眼の冷たい印象が余計に目立ってしまっている。
ドライヤーが面倒だという一心でぶっつり顎のラインで切った髪には母譲りの艶があり、黒というより漆黒という言い方がしっくりくる。
身長は一六五センチ。女子高生の平均身長と比較するとやや高い。
年のわりに大人びた自分の容姿に内心ため息が出た。
きついだの、怖いだの、目が死んでいるだの、過去に散々言われてきた言葉はまるで呪いのように今もついて回る。
もう少し黒目が大きかったら。もう少し身長が低かったら。もう少しだけ、柔らかくかわいい雰囲気の女の子だったら。
そうしたら、今とはもっと違ったかもしれない。
ないものねだりと言われたらそれまでだが、遣る瀬ない気持ちはいつまでも消えてはくれない。
ブレザーのポケットに手を突っ込んだが、ハンカチは入っていなかった。どうやら忘れてきたらしい。
公立高校のトイレにペーパータオルなんて便利なものは当然置かれていないので、仕方なく濡れた手で髪を軽く梳かし、私はトイレを出た。
十八歳。まともな青春を体験しないまま、私の高校生活はもうすぐ終わりを迎える。
「市ヶ谷、それ終わったら帰って良いよ。ご苦労さん」
「え、先生。こんなに頑張ったんだからお菓子のひとつやふたつくれても良いんじゃないですか」
「そういうのは自分で言うもんじゃないんですよ市ヶ谷サン」
「言わないとくれないじゃないですか」
「言ったらもらえると思ってんのもこえーよ」
二月半ばの放課後のこと。
職員室の前をたまたま通りがかったところを、英語教諭で写真部の顧問でもある瀬戸先生につかまってしまった私は、英語科準備室で、課題プリントを四枚ずつホッチキスで止めるという地味に時間のかかる雑用を頼まれていた。
私は写真部に所属していたので、三年の文化祭を終えて部活を引退したあとも何かと都合よく使われることが多く、今回も例外なくそうだった。「あ、市ヶ谷今から帰るだけならちょっと手伝ってよ」と、そんな感じである。あまりにも都合が良すぎると思う。
さらに補足すると、写真部の部員は全部で六人。うち半分以上が幽霊部員と化していたので、人数もやる気も足りない廃部寸前の部活として認識されていた。
私は比較的真面目に部活をしていたほうだったので、瀬戸先生と顔を合わせる機会が多く、そうしているうちに少しばかり仲良くなってしまった、というわけである。
「市ヶ谷、ほれ」
「え、わっ」
先生は私が顔を上げたタイミングとほぼ同時にポケットから個包装の飴玉を取り出し、こちらに向かって投げた。
咄嗟に手を出してそれを受け止めると、「意外とやるやん」と嬉しくない褒められ方をされる。
ブドウ味の飴玉。早速口に含むと、ブドウの香りと甘さが広がった。
暖房が付いているといっても、外気温度が低すぎて暖気がなかなか広がらないのが真冬の難点だ。窓の隙間を抜ける冷え切った風に、時々身体が震える。
「うー……寒」
「女子高生は大変だね。こんな真冬でもスカート履かなきゃなんねーの」
「寒そうだって思うならスカートの下にジャージ履くのありにしてくださいよ。なんでだめなんですかあれ」
「そりゃだらしないからだろうな」
「えー、校長先生の頭のほうがだらしないと思いま……」
「それ以上の発言は校則違反です」
くくく……と笑いをこらえながら先生が言う。
もうほとんどアウトだったんですけど。そう訴えるように瀬戸先生に視線を送り、それから私もつられて笑ってしまった。
瀬戸先生は、縁が黒い眼鏡がよく似合う、細身で色白な男の人だ。
二十九歳、独身。本人曰く、自分の生活スタイルを他人に踏み込まれることが嫌いらしい。
絶対結婚できないとまるで他人事のように嘆いた先生に「人生には少しの妥協が必要なんですよ」とどこかの本で読んだ言葉をぶつけると、えらそうな言葉だなと笑っていた。それも、つい五分前の話だ。
「で、市ヶ谷。どうだった?」
「どうって何がですか」
「高校生活、後悔とかしてないんかなって。高校生ブランドは手離した途端恋しくなっちゃうもんだからね」
高校三年生、最後の登校日。
明日から三年生は自由登校の期間に入るので、ほとんどの生徒が卒業式当日まで学校には来なくなる。
写真部の私も例外ではなく、明日から半月近く制服を着なくなるわけで、つまるところ、私の高校生活は実質今日で終わりを迎える、ということだ。
高校生活に後悔はしてないか? なんて、私にそんな質問をするのは皮肉だと思う。
「先生サイテーです」
「なんでだよ」
「達成できたことよりやり残したことのほうが多いんです、私は。知ってますよね、先生も」
後悔なんて数えだしたらきりがない。体育祭も文化祭も修学旅行も、友情も恋愛も。
ひとつだって、私が思い描いていたものにはならなかった。
やり直せるなら、入学式の日から。中学時代から。──この容姿に生まれた時から。
「まあでも、時間を無駄にすることも何度も失敗することも青春っちゃ青春だと思うよ、俺は」
「そんな無理やり括らなくていいです」
「なはは、夢がねえな」
募る苛立ちを誤魔化すようにため息を吐く。
登校日は今日で終わり。残すところ、学校に来るのは卒業式の日だけだ。
今更どうにもできないことを悔やんでも仕方がない。
「卒業式行きたくないなー……」
思い出と呼べるほどのことは何もなく、誰かを好きになることもなければ、友達もろくにいなかった。
最後にここぞとばかりに話す校長先生の祝辞を聞いて、卒業証書をもらうためだけに制服を着て学校に来なければならないのは、単純に、だるいのだ。
荷物を取りに教室に戻る頃にはすっかり外は暗くなっていて、廊下に灯る蛍光灯の白がやけに眩しく感じた。
廊下には生徒の姿は見られず、時折グラウンドから聞こえる野球部の声と私の足音だけが響いている。
教室のドアを静かに開けると、凍てついた風が肌を突き刺した。先程までいた英語科準備室の寒さなんて比べものにならない冷たい空気に、「さぶっ」と思わず声がこぼれる。
窓が開いていて、ベランダに制服を着た男子生徒の姿が見えた。ドアを開ける音に反応したのか、男子生徒がゆっくりとこちらを振り向く。
短く切られた黒髪が、小さく風に揺れていた。
「あれ、市ヶ谷。まだ残ってたんだ」
そこにいたのは、クラスメイトの荒井渉希くんだった。
寒さに顔を歪めていた私に気づき、彼は室内に戻ると静かに窓を閉めた。
彼は窓際の列にある自分の席に座り、「外寒いよなぁ」と話しかけてくる。荷物を取りに来た私も、流れるまま同じように席についた。
荒井くんの、隣。
半年前にくじ引きで行われた席替えで、私たちはたまたま隣の席になった。
「なんか先生に頼まれてたとか?」
「あ……えっと、うん。瀬戸先生に」
荒井くんが「あー……」と声をこぼす。心なしか、表情が曇ったような気がした。
「結構仲良いよね? 市ヶ谷と瀬戸先生って」
「うまく使われてるだけだと、思うけど」
「……好きとかだったりして」
小さく呟かれたそれに、私は「え?」と聞き返す。聞こえなかったわけじゃないけれど、言葉の意味はすぐに理解できなかった。
瀬戸先生と仲良いよね。好きとかだったりして。
……いやいや、ありえない。
私と瀬戸先生はただの顧問と生徒にすぎないのだ。瀬戸先生にとって私は雑用を頼むにはちょうど良い生徒で、私にとって先生は自分の話ができる貴重な人。
とはいえ、仲が良いと言えるほど、たくさん会話を交わしているわけでもない。
しいて言うなら、私たちの間に絶対結婚できない者同士という共通点があるだけだ。
「いやそんなわけ……」
「ごめん嘘、今のなし。あるあるだよね、顧問が部員頼りがちなの。そんで断る理由がないのも憎い」
否定しようとしたところに被せてそう言われ、私は「あ、うん、だよね」とぎこちない返事しかできなかった。
最後の日までお疲れさま、と言われたので、ありがとうと短く返す。
私たちの会話のキャッチボールは、荒井くんから投げられる球のほうが少し速い。
「荒井くん……は」
「あー、俺はべつに何も用事はないんだけどさ。今日で学校来るの実質終わりなわけじゃん。だからなんか名残惜しかったっつーか。高校生終わっちゃうんだなあって思ったら、今日が終わってほしくなくて」
「自分で言っておいて恥ずいかも」と照れたように彼が言う。
荒井くんってそういう顔もするんだ、と、他人事のように思った。
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