発熱した日から10日ほど経って、菜々恵はすっかり回復した。体調は毎日電話で確かめていた。それで土曜日に僕のマンションで会うことになった。

結婚してからの住まいをどうするか相談しなければならなかったからだ。菜々恵は僕の部屋を見て一緒に住めるかどうか考えると言った。

ここで良ければすぐにでも一緒に住める。ただ、菜々恵の今の勤務先の病院が遠くなり、通勤時間が多くかかるので負担が増えるのが心配だった。でもかかっても3~40分位なので大丈夫と言っていた。でもできれば近いところに転職したいとも言っていた。

ここへは今の部へ異動になってから転居した。就職してから、実家から2駅離れたアパートに住んでいた。部屋は狭かったが、家賃も安くて、食事を実家で食べることもできたりして、それなりに快適だった。

ただ、電車が混んで通勤時間がかかったので、交通の便の良いここに転居した。住み始めてそう長くはないし荷物は増やさない主義なので収納スペースはある。

菜々恵の部屋も殺風景で家具や電気製品は最低限しかなかった。その理由を電話で話す時に聞いてみた。

「ミニマリストって知っている?」

「ああ、最低限の物しかもたないで生活している人のことだろう」

「私はいつ入院することになるかもしれないし、すぐに死んでしまうかもしれないので、身の周りの物はできるだけ持たないようにしています。だって、荷物が多いと後片付けが大変で母や妹に迷惑をかけるでしょう」

「でも不便じゃない?」

「生活して分かったけど、意外に必要なものって少ないの」

「確かに、僕も決まったものしか毎日使っていない」

「それに物があると物に執着するでしょう。使わなくてもこれは高かったから捨てられないとか、使うかもしれないからとっておこうとか、物に縛られることが良く分かったから、無いと気楽だし、身軽だから」

菜々恵は病気になってお釈迦様みたいに悟りの境地に達しているのかもしれない。

◆ ◆ ◆
ここのマンションは商店街を抜けたところで、閑静な住宅街にある。隣にはコンビニがあるし、駅前にはスーパーがあり、飲食店などもあるので、生活には便利なところだ。

菜々恵はスマホで住所から位置を確かめたと言っていたから、大丈夫だろう。でも約束の11時になっても現れなかった。すぐに心配になる。携帯が鳴った。菜々恵からだった。

「ごめんなさい。時間に遅れて、駅前のスーパーで買い物をしていたから、すぐに着きます」

しばらくするとチャイムが鳴った。画面を見ると菜々恵が立っている。すぐに開錠して上へ上がるように伝えた。僕の部屋は3階の307号室だ。

ドアを開けて待っていると、菜々恵がエレベーターを降りてきたので、招き入れる。

「すてきなマンションね」

「新築時に入って2年半ほどになるけどとても気に入っている」

菜々恵がレジ袋をキッチンにおくと、すぐに寝室、浴室、トイレなどの案内をする。今日は朝早くから大掃除をしておいた。

寝室にはセミダブルのベッド、机と本棚が置いてある。菜々恵は黙ってベッドをジッと見つめていた。

浴室は広くはない。でも菜々恵は二人でも入れると言っていた。一通り見終えると、リビングのソファーに座った。僕はその横に少し離れて腰を下ろした。

「私のところより広々としていて素敵ね。気に入ったわ。ここに一緒に住みたい。すぐにでも引越ししたい」

「寝室のクローゼットは整理して空けておいたから、ゆとりはあると思う。後で見ておいて」

「キッチンもあるし、大丈夫ね。試しに今日料理してみるから。でもガスじゃなくてIHなのね。でもなんとかなると思う」

「ここはオール電化なんだ。ここでよければ、あとで詳しく相談しよう」

「ここで十分です。十分すぎるくらいです。無駄な費用と時間をかけないで済むからそうしましょう」

「君がいいのなら、僕は全くかまわない」

「後でと言わずにすぐに相談しましょう」

菜々恵もせっかちだ。でも早く決めて一緒に生活したい。僕もせっかちになっている。

「まず、キッチンはどうする?」

「あなたは食器棚を持っていないのね」

「ああ、棚に入れるほどないから。洗い籠に入れてあるだけ。カップ、コップ、お皿、どんぶりくらいだ。君も同じようなものだった」

「私と同じにしないで下さい。あれでも料理に必要な食器はそろえていますから、それに食器棚もあったでしょう。あれを使いましょう。でも食器は二人分ないから買い増しましょう」

「それが良い。買いに行くときには付き合うから」

「調理器具は片手鍋一つしかないみたいだけど」

「一つあれば十分だけど。お湯を沸かしたり、ゆで卵を作ったり、インスタントラーメンを作ったり、何にでも使える。IH用だよ」

「調理器具はIHに使えるか確かめて、私のものを持ってきます」

「いいよ」

「次にリビンングね。私、ソファーはないけど、リクライニングチャーは持って来たい。ゆったり座って休めるから」

「いいよ。十分置けるから」

「座卓はどう?」

「これは小さいわ」

「一人なら丁度良いけど、二人で食事するとなると確かに小さいね」

「私のテーブルはそれより大きいけど、テーブルは椅子もあるので、場所をとるから、ここでは座卓が良いと思います。リビングを広く使えるから」

「大きめの座卓を買えばいい。僕が買おう」

「そうしてもらえたらありがたいです。私も半分払います」

「いや、僕が払うから」

「じゃあ、甘えさせてください」

「寝室をどうする? 」

「私は布団に寝ているけど、あのベッドで寝てみたい。セミダブルだから抱き合って眠るのには十分な大きさがあると思います。今晩試しに寝てみれば分かると思う」

菜々恵は今日ここへ泊るつもりで来てくれていた。玄関を入った時に大きめのバッグが目に入ったから、そうかなと思っていた。ここで打合せをすることにした時に、本当は泊まってほしかったのに、どうしても口に出して言えなかった。

大切なところでシャイな自分が顔を出す。だから午前11時に来てもらった。その時刻から始めれば十分に時間が取れて日帰りが可能と思ったからだ。菜々恵にリードされるのは今も変わらない。

菜々恵とはあの二人だけの同窓会が最初で最後だった。鮮烈な記憶が今も腕やら胸やら全身に残っている。先週は発熱していたから気持を抑えなければならなかった。今は違う。

僕は菜々恵の手を握り締めて引き寄せた。菜々恵がもたれかかってくる。この部屋に入った時にこうすべきだった。キスをして抱き締める。

再会してから初めてこんなに抱き締めた。胸に腕に菜々恵の感触がよみがえってくる。どのくらい抱き合っていただろう。僕は時間を忘れた。

抱き合って気持ちが落ち着いた。時間は十分ある。今は止めておこう。菜々恵は目を閉じたままだ。

「相談を続けようか?」

菜々恵は「はい」と座り直した。

「君の文机はどうする?」

「小さいので持って来てもよいですか? 置き場所はどこでもかまいませんが」

「リビングか寝室の使いやすいところに置けばいい」

「本は整理しますので、本棚に何冊か入れさせてもらっていいですか? 料理の本ですが」

「僕も整理するから入れてあげられる」

「クローゼットの中は見てないけど、私は衣類が少ないからそんなに場所はとらないと思います」

「男はスーツ何着かとネクタイが数本あればいいけど、女子は毎日服装を変えないといけないみたいだから多く必要だと思うけど」

「私はできるだけ少なくしています。いつ着られなくなるから分からないから最小限にして、その組み合わせを変えるようにしています」

「いつも違っているものを着ているばかりと思っていたけど、そうなの」

「でもこれからはあなたのためにおしゃれするようにします」

「無理することなんかない。今のままで十分だから」

相談に夢中でもうお昼をとうに過ぎていた。

「お昼ご飯を食べに行かないか? 駅前の商店街を案内してあげるから。それに僕が買うと言った座卓を見てこないか。それから二人分の食器を買おう」

「相変わらず、せっかちね。でも時間があるからそれがいいわ」

商店街をぶらぶら歩く。飲食店もここには結構ある。食べたい店があればと言っていたが、カレーの店があったので、そこにした。菜々恵はカレーが好きだと言っていた。美味しい店があると聞くと行っているそうだ。そのうちカレーを作ってあげると言っていた。

それから、近くの総合スーパーへ電車で移動して、食器を買いそろえた。持って帰るのが大変そうなので、配達してもらうことにした。

座卓は近くに良い店がなかったので、後日僕が買うことにした。菜々恵は使いやすいように大きめにしてほしいと言っていた。

菜々恵の負担にならないように2時過ぎにはマンションに帰ってきた。そしてソファーで休ませた。大丈夫と言っていたが、疲れたのか、僕に寄り掛かってしばらく眠った。クーラーが効いて心地よい。そして僕も眠った。

菜々恵が動いたので目が覚めた。4時を少し回ったところだった。菜々恵は夕食を作るという。献立は鰆の西京焼き、肉じゃが、なめこの味噌汁、ほうれん草のお浸しとのことだった。

手伝いは不要と言ってキッチンで作り始めた。電気釜とお米がないのか聞かれた。電気釜はない。お米もない。ただ、サトウのご飯は買い置きがたくさんあると言うとあきれていた。

5時過ぎには座卓に料理が並んだ。鰆の西京焼きは照り焼きに、なめこの味噌汁はおすましになっていた。ここには調味料と言えば砂糖と醤油、それにポン酢、マヨネーズくらいしか置いていない。菜々恵は事前に確かめておけばよかった、いくら調理師でも無理と悔やんでいた。

でも料理はとても美味しかった。バランスのとれた食事になっている。これからの食事が楽しみになる。

後片付けは僕がするからと菜々恵には休んでもらった。このあとがあるというと、菜々恵はそうさせてもらうと素直に従った。