歩いて駅へ向かう途中、菜々恵は時々左手を上げて指輪を見つめてから、僕を見て微笑む。それがとても嬉しい。

「あのー、せっかちついでに、これから君の家へ行って、ご両親にご挨拶するっていうのはどうだろう。今日のお見合いの話はしているんだろう」

「うちは父親が他界していて,母親だけですけど」

「これから、お母さんに会ってご挨拶できないかな? 善は急げで、君の言うように一日一日を大切にしたいから。せっかち過ぎるかな?」

「母には今日お見合することになったとは言ってあるけど、その相手が誰とは言ってないの。でも聞いて見るわ」

菜々恵はちょっと待ってと言って、少し離れたところから電話を入れた。

「いらしてくださいということです。簡単な夕食を準備すると言っていました」

「何て言ったの?」

「中学時代の同級生の井上さんが家へ来たいと言っていると話しました。母は井上さんのお母様を保護者会で会って覚えていると言っていました」

「へー、僕の母親を知っているんだ」

菜々恵の母親は今も池上線の久が原に住んでいた。僕たち家族は以前隣の御嶽山の賃貸住宅に住んでいたが、高校へ入ってから今の田園都市線の宮崎台のマンションに引っ越した。

駅前の和菓子店でお菓子の詰め合わせを買った。菜々恵は必要ないと言ったのだが、形がつかないと買い求めた。

10分ぐらい歩いたところに、小さな戸建てがあった。田村の表札が出ている。玄関を入るとすぐに母親が出てきた。

「よくいらっしゃいました。井上さん、お母様はお元気? 随分お会いしていないけど」

「おかげさまで元気です」

手土産を渡すと奥のリビングへ通された。菜々恵は母親に言われてお茶を入れてくれた。

「娘から今日お見合すると聞いていましたが、そのお相手が同級生の井上さんとは聞いていなかったものですから、私に会いに来られると聞いて驚いていたところです」

お茶を入れ終わった菜々恵が僕の横に座ったので僕は話始めた。

「田村さんとは5年前の同窓会以来お会いしていませんでした。この度、私の会社の元上司夫妻からお見合いのお話がありまして、そのお相手が田村さんで驚きました。私は田村さんが好きでお付き合いを望んでいたのですが、ご存じのようにがんになられて、それで僕のことを避けるように居なくなってしましました。一度お母様に菜々恵さんの連絡先を教えていただこうとしましたが、分からないと教えていただけませんでした。覚えておられますか?」

「覚えています。娘から友人に連絡先を教えないように言われていましたので。理由は聞きませんでしたが、察しはつきました」

「それで、今日お伺いいたしましたのは、菜々恵さんを私にいただけないかとお願いに参りました。菜々恵さんを幸せにします。どうか、結婚をお許しいただきたいのです。お願いします」

そう言って僕は頭を下げた。

「井上さん、そういうお話ではなかったはずですが?」

「僕はお母様にご挨拶と言ったはずだけど」

「娘はがんで一時は死を覚悟したほどでしたが、手術の結果、今の状態まで回復しました。でもいつ再発しても可笑しくありません。それに抗がん剤の副作用で子供が生めないかもしれません。それをご承知でのことでしょうか?」

「もちろんです。菜々恵さんはそれで僕から離れていかれました。僕の幸せを考えてのことだと聞いています。でも僕はこの後どのようなことになろうとも菜々恵さんと一緒に一日一日を大切に過ごしていくことに決めました。ですからそのことはもう二人ともおっしゃらないで下さい」

「菜々恵はそれでお受けするの?」

「はい、それで先ほど婚約指輪をいただきました」

菜々恵は婚約指輪と言った。確かに左手の薬指に嵌めてくれた。

「もっと高価なものをと言ったのですが」

「値段の問題ではありません。娘の嬉しそうな顔を見れば分かります。そういうことであれば、井上さん、どうか娘をお願いいたします」

「承知しました。菜々恵さんを幸せにします。ありがとうございます」

それから、菜々恵の母親が近くにある美味しいと評判のお店の幕の内弁当を夕食に出してくれた。お吸い物は母親が作ってくれた。確かに美味しいお弁当だった。

7時前にはお暇した。菜々恵は今日はここに泊まっていくと言う。母親と話がしたいのだろう。僕は菜々恵に明日都合が良ければ僕の両親に紹介したいから実家のある宮崎台まで来られるか聞いた。

明日の日曜日は休みなので行けるとの答えだった。それで実家に電話をかけて、明日両親が家にいるか確認した。居るというので、これから相談があるから行くと伝えた。菜々恵とは宮崎台の駅の改札口で明日の2時に待ち合わせすることにした。