次の日の昼休みが待ち遠しかった。10時過ぎに松本部長から電話があった。例の履歴書と写真を持ってきたから、昼休みに席に来るように言われた。
昼休みに部長の席へ行って、すぐに会議室へ入った。封筒から履歴書とスナップ写真1枚を手渡してくれた。
履歴書の氏名の欄には『田村菜々恵』と書かれていた。その名前を何度も何度も読み返した。また、病歴として胆管がん除去手術と書かれていた。持っている手が震える。
じっと見つめてしまった写真の笑顔は5年前に新宿駅で別れる時に僕が撮ったどこか悲しそうな笑顔とは違っていた。
やはり、菜々恵だった。神様は二人をまた導き合わせてくださった。そう思わざるを得なかった。
「こんなことが本当にあるのですね。私の友人です。5年前に別れて消息が不明だった」
「それは奇遇だ」
「是非、奥様に彼女とお見合いさせていただけるようお願いして下さい」
「願ってもないことで、家内も喜ぶと思う」
「彼女は私のことをよく知っていますので、このお見合いの話を断るかもしれません。それでも何とか彼女を説得してお見合いできるようにお骨折りいただきたいと奥様にお伝え願いませんか?」
「井上君の熱意を家内に伝えよう。まあ、君が承知してくれてともかく良かった。これがご縁というものかな」
僕はすぐに自分の履歴書を作り、写真をプリントアウトして部長に届けた。
それから2週間ほど経って、昼休みの時間に部長から内線電話が入った。
「先方がお見合いするそうだ。家内から今電話があった。それでいつが良い?」
「いつでも構いません」
「場所もどこでもいいか?」
「お任せします」
電話が切れた。10分ほどしてから、部長からまた連絡が入った。お見合いの場所は部長のご自宅のマンションで、日時は今週の土曜日午後2時となった。
その日から僕は菜々恵と会ったらどんなことを話そうか考え続けた。彼女は部長の奥様からお見合いを勧められてしぶしぶとは言え履歴書を書いて渡した。
ということは結婚しても良いと思ったに違いない。良い人がいれば、また、がんの手術をしたことを承知でお見合いを受けてくれる相手ならば結婚しても良いと思ったからだろう。
その相手が僕だと分かった時、すぐにお見合いをする気になったのだろうか? でもお見合することを承知したということは僕との結婚を考えてくれたと思いたい。そのお見合いの日が待ち遠しかった。
松本部長のマンションは東横線の奥沢駅から徒歩4~5分のところと聞いていた。約束の時間の30分前には駅に着いた。
何か手土産をと考えて近くのビルの商店街へ行ってみた。ケーキ屋さんがあったので、ケーキの詰め合わせを作ってもらった。マンションの場所はすぐに確認できたので、約束の時間まで商店街を見て歩いた。
後ろ姿が菜々恵に似た女性が歩いているのに気が付いた。一瞬近づいて確かめて声をかけようと思ったが止めておいた。例え彼女だったとしてもここでかける言葉が思いつかなかった。女性は部長のマンションの方へ歩いて行った。
2時5分前に僕はマンションの入り口にいた。玄関の案内ボードに408と部屋番号を入力する。すぐに女性の声がしたので井上ですと答えると玄関扉が解錠した。エレベーターで4階へ向かう。胸がドキドキして緊張しているのが自分でも分かった。
408号室の前に着いた。松本の表札が出ている。チャイムを押すとドアが開いて、奥様と思しき人がいた。部長の奥様に間違いない。一目見て好感のもてる女性だった。
案内されて短い廊下を抜けるとリビングだった。ソファーに座っている女性が菜々恵だとすぐに分かった。服装が同じだったので、さっき見かけた女性はやはり菜々恵だった。僕の方をジッと見ていた。目が合った。
僕は軽く会釈をしたが、その時僕はどんな表情をしていただろう。笑顔を作ろうとしたが緊張してだめだった。以前のシャイな自分がいることに気付いた。
ソファーは3人掛けがひとつだけで左側に菜々恵が座っていた。僕はその横の右側に座るように案内された。正面に座るよりも菜々恵と話しやすいと思った。それに僕は横目で彼女を見ることに慣れていた。
僕は菜々恵に何と話しかけて良いか分からなかった。お見合いをすることが決まってから、ずっと会ったら何を話せば良いか考えていた。僕の今の気持ちをどう伝えたら良いか、ずっと考えていた。でももうその時は再会できた感激の気持ちが溢れて言葉がでなかった。
奥様がコーヒーを入れて二人の前に運んでくれた。僕は奥様が話始めるまで黙っていた。菜々恵も仲介の労をとっていだいた奥様が話始めるのを待っていた。
「コーヒーを召し上がって下さい。お二人はお知り合いだったのですね。田村さんは始めそのことをお話にならなくて、履歴書とお写真を見るとすぐにこの方とはお会いしたくありませんと断られそうになりました。私は主人から井上さんが田村さんを知っていてどうしてもお見合いさせてほしいと言っているから説得してほしいと頼まれていました」
「井上君は最初お見合いなんてする気がなさそうだったが、お見合いの相手が田村さんだと分かった時の驚き様と、知っている人だからどうしてもお見合いさせてほしいと家内に頼んでくれと必死だったのには驚いたけどね。よっぽど田村さんが好きなのだと思った」
「主人からそう言われていたので、田村さんに確認したの。知っている人だから会いたくないのって。そうしたら田村さんが驚いて、井上さんを知っていることを認めてくれました。もしかしてストーカーでいやな思い出でもあるのって聞いたら、田村さんは首を振って楽しかった二人の思い出を大切にしたいからですと話してくれました」
「ここに来てもらうように説得するのには随分骨が折れたみたいだ」
「私もそれならなぜこの話をお受けしないのと聞いたの。そうしたら井上さんと別れた訳を話してくれました」
菜々恵はじっと下を向いている。泣いているみたいだった。
「田村さんは何時がんが再発するか分からないし、それに抗がん剤の影響で赤ちゃんができないかもしれないので、井上さんを不幸にしてしまうと、それで井上さんとは結婚できないと別れたそうよ」
やはりそうだったのか。菜々恵らしい身の引き方だ。
「私は井上さんの気持ちを確かめたのか聞いたけど、そんなこと聞ける訳がない。彼を苦しめるだけだと言いました。それなら直接本人に会って確かめなさい。彼の幸せを考えて身を引くほど好きなのでしょうと言いました。田村さんは泣いていました」
菜々恵は下を向いた切り、顔を上げようとしない。
「田村さんは私が乳がんの手術をして抗がん剤の治療の最中に気弱になっていたところをあきらめないで毎日毎日を精一杯生きていればそれでいいと励ましてくれました。私もそうだったからとご自身の経験も話してくれました。でもご自分はこの先を毎日毎日精一杯生きていけないのかと聞き正しました。ご自分も同じではないかと。それに手術してから5年も経っているし、生理も規則正しくなってきたそうだから、もういいころじゃないと言って。それでようやく井上さんとのお見合いの同意を取り付けました。これで良いのですね。井上さん」
「奥様、大変なお骨折りありがとうございました。田村さんとは中学3年生の時に同じクラスになってそれ以来の間柄です。今思うと僕にとっては初恋の人です。それ以来付かず離れずで付き合っていましたが、彼女にがんが見つかってからはより親密になりました。相思相愛だった、そうだよね」
菜々恵は顔を上げて頷いた。
「僕は田村さんが好きでした。居なくなってそれが良く分かった。手術をしたあと、別れると言うメールが来てから消息が分からなくなって、もう5年が経ちました。部長からお見合いの話があって。もしやと思ってお相手の履歴書をいただいたら、彼女でした。その時は神様のお引き合わせだと身震いしました」
「そうだね。あの時の井上君の様子は今でも覚えている」
「僕は今日ここへ田村さんに正式に結婚を前提にしたお付き合いをお願いしようと参りました」
「田村さんはどうなの? 井上君はああ言っているけど」
「もう少し話し合ってからお答えしようと思っています」
「そうか。じゃあ、これから二人でじっくり話し合ってくれ。私たちの役目はここまでだ」
「そうね、これからどこか別のところで、二人でゆっくりお話ししたらいいわ。でもね、田村さんにこれだけは言っておきたいことがあります。くれぐれも後悔しないようにしてくださいね。せっかく神様がもう一度お引き合わせて下さった、そういうことだから。分かりましたね。そうですよね、あなた」
「ああ、僕たちも実は同じようなことがあった。今の会社で家内と付き合い出したけど、家内はそのとき契約社員だった。僕との立場の違いから引け目を感じていたところに、それをねたんだ同僚からいじめられて会社を辞めて行方知れずになった。2年ほどして異動があって、僕が関連会社に出向したら、部下に家内が配属されてきたんだ。僕も驚いたが家内はもっと驚いていた。これは神様のお引き合わせだと。それから間もなく僕たちは結婚した。ご縁は大事にしないといけない。分かったね」
「ありがとうございます。良いお話を聞かせていただきました。それでは僕たちはこれでお暇いたします。本日はお休みのところ、二人のために貴重なお時間を割いていただいてありがとうございました」
菜々恵は黙って、奥様に深々と頭を下げて、僕の後ろからついて来た。
部長のマンションを出ると僕は駅へ向かった。菜々恵は黙って僕の横を歩いている。
「駅前のコーヒーショップで話さないか?」
菜々恵は頷いた。店は混んでいなかった。奥の方に二人がけのテーブル席を見つけた。
「あそこに座ろう。席で待っていて、コーヒーでいいか? 僕が買ってゆくから」
菜々恵はテーブルの方へ歩いていった。マンションのリビングから僕は菜々恵の顔をしっかり見ていない。昔のシャイな自分が戻ってきている。これではいけない。彼女としっかり向き合わなければと思った。
「ご注文は?」
ぼんやり立っていた。聞かれてはっとした。しっかりしないと。
「コーヒーを、レギュラー2つ」
コーヒーを受け取ってトレイでそれを運ぶ。菜々恵は窓際に座っていた。その前に僕はトレイを置いて座った。菜々恵を正面から見た。
「今日は来てくれてありがとう。再会できてとても嬉しかった。もうどこへも行かないで僕と一緒にいてほしい。頼む」
菜々恵は黙ったままだ。でも僕を見つめていてくれた。目が潤んでいる。
「君からお別れのメールをもらってから、君のことを考えない日はなかった。元気でいるだろうかと。あれから5年も経っているのに、二人だけの同窓会の2日間を鮮やかに覚えている。たった2日間でも心の中にしっかり残っている。あのとき君は今を精一杯に生きていると言っていた。その精一杯生きた2日間のことが鮮やかに僕の心に残っているんだ」
「私もあの2日間のことを鮮明に覚えています。あなたの一言一句まで」
「君は先のことを心配して、僕の幸せを思って別れようとした。僕は例えこの先が短くても、一日一日を大切にして君と一緒に生きていきたい。そしてそれを思い出として心に刻んでおきたい。先のことなんか誰にも分からない。僕が突然事故死することだってありうる。僕にも腎機能に異常がある。急に腎不全になるかもしれない。自分のことばかり卑下して心配することなんか少しもない」
「そう言っていただけて、とても嬉しいです。私もあの時奥様が言われたように、後悔することのないように、一日一日を生きていきたいと思うようになりました」
「それじゃあ、僕と付き合ってくれるんだね。結婚を前提として。まあ、今日はお見合いだったから、当然のことだけど」
「はい、そこまでおっしゃっていただけるのであればお受けします」
「良かった」
菜々恵が笑った。でもまだ憂いが残っている笑顔だった。
「じゃあ、記念に君にプレゼントをしたい。指輪でもどうかな?」
「指輪って、婚約指輪? 随分せっかちですね」
「そう大袈裟に考えなくてもいい。ただ、付き合ってくれるのが嬉しくて、プレゼントしたいだけだから」
「せっかくだから、いただきます」
「じゃあ、これから渋谷にでも買いに行こう。まだ3時前だから。それとももう疲れた? それなら明日に日を新ためてもいいけど」
「今日でかまいません。私もせっかちですね。でも私には時間がないかもしれませんから」
二人は店を出て早速、駅から電車に乗り込んで渋谷に向かった。空いた席に菜々恵を座らせた。彼女を疲れさせたくない。僕はその前でつり革を持って彼女を見下ろしている。彼女は僕を見上げていて目が合っている。彼女の目が潤んで見える。
駅に着くとスクランブル交差点を目指して歩く。僕は菜々恵と手を繋いだ。柔らかい手だった。ベッドの中で握った感触を思い出した。
意外にも菜々恵は力を込めて僕の手を握ってきた。僕は菜々恵の顔を見た。菜々恵はいたずらっぽく笑った。その笑顔はシャイな僕を励ましてくれた。
「どんな指輪がいい。やっぱり最初は誕生石の指輪かな?」
「お任せします」
「誕生日はいつだったっけ?」
「7月13日です。誕生石はルビー」
「へー、ルビーか。それと僕より2か月も年上なんだね。僕は9月13日。だから僕は年上の君に気後れしていたんだ」
「今はもう違うと思います。私の方が気後れしていますし、私を完全にリードしてくれています」
「それならいいけど」
デパートに入って2、3か所見て回った。デザインもいろんなタイプがあるので目移りする。価格もピンキリだ。僕は菜々恵の気に入ったものを買ってあげようと思っている。
婚約指輪は給料3か月分だそうだが、僕の今の給料を考えると軽く100万円は超える。それも菜々恵のためならいいと思っている。
「価格は気にしなくていいから、気に入ったものを選んでくれれば僕は嬉しい」
「婚約指輪じゃないんでしょう。そんなに高価なものは必要ありません」
その言葉に少し気落ちした。婚約指輪のつもりだけど。
「これがいいかなあ」
菜々恵はプラチナ台に小粒のルビーが1列にちりばめられた可愛い指輪を選んだ。価格は考えていたよりもずっと安い。
「本当にそれでいいの。遠慮していない?」
「可愛くて好きなの、いつでもしていたいから」
それで購入を決めた。せっかくだからそのままここで嵌めて帰ることにした。菜々恵はその指輪を左手の薬指にゆっくりと嵌めて、その手を僕に見せて笑った。とても嬉しそうな笑顔だった。その笑顔を目に焼き付けておきたい。買ってあげてよかった。
歩いて駅へ向かう途中、菜々恵は時々左手を上げて指輪を見つめてから、僕を見て微笑む。それがとても嬉しい。
「あのー、せっかちついでに、これから君の家へ行って、ご両親にご挨拶するっていうのはどうだろう。今日のお見合いの話はしているんだろう」
「うちは父親が他界していて,母親だけですけど」
「これから、お母さんに会ってご挨拶できないかな? 善は急げで、君の言うように一日一日を大切にしたいから。せっかち過ぎるかな?」
「母には今日お見合することになったとは言ってあるけど、その相手が誰とは言ってないの。でも聞いて見るわ」
菜々恵はちょっと待ってと言って、少し離れたところから電話を入れた。
「いらしてくださいということです。簡単な夕食を準備すると言っていました」
「何て言ったの?」
「中学時代の同級生の井上さんが家へ来たいと言っていると話しました。母は井上さんのお母様を保護者会で会って覚えていると言っていました」
「へー、僕の母親を知っているんだ」
菜々恵の母親は今も池上線の久が原に住んでいた。僕たち家族は以前隣の御嶽山の賃貸住宅に住んでいたが、高校へ入ってから今の田園都市線の宮崎台のマンションに引っ越した。
駅前の和菓子店でお菓子の詰め合わせを買った。菜々恵は必要ないと言ったのだが、形がつかないと買い求めた。
10分ぐらい歩いたところに、小さな戸建てがあった。田村の表札が出ている。玄関を入るとすぐに母親が出てきた。
「よくいらっしゃいました。井上さん、お母様はお元気? 随分お会いしていないけど」
「おかげさまで元気です」
手土産を渡すと奥のリビングへ通された。菜々恵は母親に言われてお茶を入れてくれた。
「娘から今日お見合すると聞いていましたが、そのお相手が同級生の井上さんとは聞いていなかったものですから、私に会いに来られると聞いて驚いていたところです」
お茶を入れ終わった菜々恵が僕の横に座ったので僕は話始めた。
「田村さんとは5年前の同窓会以来お会いしていませんでした。この度、私の会社の元上司夫妻からお見合いのお話がありまして、そのお相手が田村さんで驚きました。私は田村さんが好きでお付き合いを望んでいたのですが、ご存じのようにがんになられて、それで僕のことを避けるように居なくなってしましました。一度お母様に菜々恵さんの連絡先を教えていただこうとしましたが、分からないと教えていただけませんでした。覚えておられますか?」
「覚えています。娘から友人に連絡先を教えないように言われていましたので。理由は聞きませんでしたが、察しはつきました」
「それで、今日お伺いいたしましたのは、菜々恵さんを私にいただけないかとお願いに参りました。菜々恵さんを幸せにします。どうか、結婚をお許しいただきたいのです。お願いします」
そう言って僕は頭を下げた。
「井上さん、そういうお話ではなかったはずですが?」
「僕はお母様にご挨拶と言ったはずだけど」
「娘はがんで一時は死を覚悟したほどでしたが、手術の結果、今の状態まで回復しました。でもいつ再発しても可笑しくありません。それに抗がん剤の副作用で子供が生めないかもしれません。それをご承知でのことでしょうか?」
「もちろんです。菜々恵さんはそれで僕から離れていかれました。僕の幸せを考えてのことだと聞いています。でも僕はこの後どのようなことになろうとも菜々恵さんと一緒に一日一日を大切に過ごしていくことに決めました。ですからそのことはもう二人ともおっしゃらないで下さい」
「菜々恵はそれでお受けするの?」
「はい、それで先ほど婚約指輪をいただきました」
菜々恵は婚約指輪と言った。確かに左手の薬指に嵌めてくれた。
「もっと高価なものをと言ったのですが」
「値段の問題ではありません。娘の嬉しそうな顔を見れば分かります。そういうことであれば、井上さん、どうか娘をお願いいたします」
「承知しました。菜々恵さんを幸せにします。ありがとうございます」
それから、菜々恵の母親が近くにある美味しいと評判のお店の幕の内弁当を夕食に出してくれた。お吸い物は母親が作ってくれた。確かに美味しいお弁当だった。
7時前にはお暇した。菜々恵は今日はここに泊まっていくと言う。母親と話がしたいのだろう。僕は菜々恵に明日都合が良ければ僕の両親に紹介したいから実家のある宮崎台まで来られるか聞いた。
明日の日曜日は休みなので行けるとの答えだった。それで実家に電話をかけて、明日両親が家にいるか確認した。居るというので、これから相談があるから行くと伝えた。菜々恵とは宮崎台の駅の改札口で明日の2時に待ち合わせすることにした。
僕は実家から駅に菜々恵を迎えに出た。2時少し前に着いたが菜々恵の姿がなかった。心配になってきょろきょろしていると向こうから菜々恵が手を振っているのが見えた。手にはバッグと紙袋を下げている。もう着いていたんだ。僕は駆け寄った。
「御免、もう少し早く来るんだった。見当たらないので心配した」
「御免なさい。随分早く着いたので、駅の周りを散策していました。ご両親にお会いするのが心配でした。反対だったらあなたの立場がなくなってしまう。どうしようって。もしそうなったらお断りしようと思っています」
「昨日、あれから両親に君のことを話した。君と結婚するからと。もちろん、君のがんと手術のことも話した。親父はお前がその覚悟なら何も反対する理由はないと言ってくれた。母親はお前の幸せを思って身を引いたのはよっぽどお前のことが好きだから、そういう人と結婚しなさいと言ってくれた。二人とも賛成してくれた。だから心配しないで会ってくれればいい」
「そうですか。あなたと同じでご両親もよい方ですね」
駅から徒歩10分くらいのところに両親のマンションがある。僕が高校生の時にここへ引っ越してきた。その時は新築だったけど、もう20年近くたっている。今はどこでもあるセキュリティもない。3階の305号室で、作りは3LDK、弟と家族4人で暮らしていた。
今は僕も弟も自立して両親だけの二人暮らしだ。父親は昨年リタイアして再就職もせずにブラブラしている。まあ、呑気な年金暮らしだ。父親は俺たちが死んだらリホームしてお前が住んだらいいと言っているが、そのときにはマンションは老朽化して住めないと思っている。
玄関ドアを開けると母親が出迎えた。
「田村さんね。よくいらっしゃいました。お母様とは中学校で一緒にクラスの役員をしていました」
「初めまして、田村菜々恵です。よろしくお願いします」
リビングで父親が待っていた。菜々恵がソファーに座るとすぐに父が口を開いた。僕と同じでせっかちなところがある。
「菜々恵さん、どうか聡のことをよろしくお願いします」
「いえ、私の方こそよろしくお願いします。私にはもったいない方です」
「うちは聡と次男の健治の兄弟で娘がほしかったので、とても嬉しい。聡ももう35歳だからこのまま独身でいるのかと心配していたところでした。菜々恵さんが聡のことを好きになってくれて、ありがたいことです」
「こうしてご両親に紹介していただいて聡さんに感謝しています」
「午前中に聡のアルバムをみていたけど、中学から大学までの写真にショートカットの可愛い女の子が聡の傍に時々写っていたのが気になっていた。それが菜々恵さんだった。今、一目見て分かった。これを見て」
父親は気が付いていた。そういえば同窓会の写真をもらうとアルバムに張っていた。このごろはもうスマホに保存するけど、あのころはそのままアルバムに張っていた。記念写真を撮るときはできるだけ菜々恵の近くにいるようにしたのを思い出した。
菜々恵は懐かしそうにアルバムをめくっていた。僕もそれを覗き込んでいたが、二人が映っている写真を見ると不思議にその時のことが思い出された。あの頃僕は菜々恵が好きだったけど、シャイで一言か二言しか口がきけなかった。
それが今は両親に彼女と結婚すると宣言している。シャイな僕を変えてくれたのも菜々恵だった。僕のアルバムを見ながら4人の話が弾んだ。
5時から近くの美味しい鰻屋さんに行って4人で夕食をすることになった。始め菜々恵は遠慮していたが、両親がどうしてもというので一緒に行くことになった。
確かに美味しい鰻だった。菜々恵も美味しいと言って食べていた。両親は満足そうだった。菜々恵を気に入ってくれたみたいで安心した。きっと菜々恵も安心したに違いない。僕は菜々恵と一緒に帰ることにした。
そういえば、履歴書には住所、携帯番号、勤務先などが書かれていたが、最寄りの駅名が分からなかった。それを聞くと最寄りの駅は東横線の日吉ということだった。勤務先の病院は横浜駅の近くだという。
僕たちは溝の口駅で別れた。僕は今、大岡山に住んでいる。今後のことは電話で相談することにした。
ようやく自宅マンションに帰ってきた。昨晩は実家に泊まったから二日ぶりだ。ここへ引っ越してから2年半位になる。
最新の賃貸マンションで少し広めの1LDKだ。ただ、家具といっても大型テレビ、大きめの寝転がれるソファーと座卓、寝室にはセミダブルのベッド、机と本棚、その机の上にはラップトップのパソコンしかない。
キッチンもついていて、料理しようと思えばIHでできる。ただ、料理は作っていない。外食が多いし、電子レンジで弁当を温めるのがほとんどだ。
部屋には光回線の端末が来ており、WiFiでパソコンとスマホに繋がる。それに乾燥機付きのドラム型洗濯機を買ったので洗濯も楽だ。
マンションの隣にはコンビニがあり、弁当や飲み物が24時間入手可能で一人暮らしに不自由はない。
少し手狭だが、ここで菜々恵と二人で住むのも悪くない。菜々恵の負担も大きくはないと思う。一度ここへ連れてきて聞いてみよう。
お風呂の準備をする。スイッチを入れるだけで、お湯がいっぱいになるとアナウンスして知らせてくれる。
ひと風呂浴びてゆっくりしたら菜々恵に電話してみよう。彼女も今日は僕の両親と会って食事まで付き合ったのだから疲れただろう。無理をさせてしまって、彼女の身体が心配だ。
彼女との時間を大切にしようと思うと、どうもせっかちになってしまう。充実した時間を過ごしていると思っているが、彼女の負担になっていないか心配だ。
9時少し前に電話を入れた。すぐに出てくれた。
「今日は長い時間付き合わせてしまって疲れていない?」
「少し前にお風呂から上がってのんびりしていたところです。今日はご両親にお会いできてよかった。ありがとう」
「僕は君のこととなると君の身体のことも考えないでせっかちにことを進めてしまうみたいだ。無理があれば遠慮なく言ってくれ。君が身体を壊したら元も子もないから」
「大丈夫です。一生懸命に私のことを考えてくれてありがたいです。無理ならそう言いますから心配しないで下さい」
「それじゃあ、せっかちついでに、明日部長に僕たちが婚約したことを話して良いかな?」
「そうして下さい。私からも奥様に婚約したことを報告しておきます」
「それと今度の土日に結婚式の日程と場所を決めないか?」
「もう結婚式ですか?」
「早い方が良いと思っているけど」
「随分せっかちですね、でもありがたいです。お願いします」
「それと毎日、午後9時ごろに連絡することでいいかい。毎日声を聞かないと不安だから」
「ええ、その時間の方が落ちついて話せて良いと思います」
「じゃあ」
菜々恵の声を聞いて安心した。僕には今となって不安が二つある。一つは菜々恵にがんが再発しないかということだ。二つ目はそのことで菜々恵が以前のように突然所在不明になってしまわないかということだ。だからいつも会っているか、電話していないと不安になる。
菜々恵のことで頭がいっぱいになっている。恋に落ちるとはきっとこういうことに違いない。今始初めて分かった気がする。僕は初めて本当の恋をしている?
それからストーカーってきっとこういう気持ちなのかもしれない。僕とストーカーの違いは彼女に好かれているか、嫌われているかの違いでしかないと思う。
◆ ◆ ◆
月曜日、朝一番で松本部長の席に向かう。席の見える所で待っていると、8時45分に席に着くのが見えた。すぐに駆け付けて、始業までお時間をいただけないかと頼んだ。部長は僕の真剣な態度から察したようで会議室で話を聞こうと言ってくれた。
「一昨日は僕たちのためにお骨折りいただきありがとうございました」
「いや、それでどうした。朝っぱらから」
「ご報告があります。僕と田村菜々恵は昨日婚約しました」
「ええ、会ったばかりだろう。随分せっかちだな。大丈夫か?」
「土曜日あれから二人で話し合って交際をすることになり、指輪を買いに行きまして、それから彼女のお母さんに会って娘さんを下さいとお願いしました。日曜日には僕の両親に結婚するからと彼女を引き合わせました」
「両方の親御さんも賛成したいということか?」
「そうです。それで部長にご報告している次第です」
「そんなに急ぐのは彼女のことを考えてのことだね」
「そうです」
「君たち二人は相手のことを一番に考えている。似た者同士だね。きっとよい夫婦になると思う」
「来週にでも式場と日程を決めようと思っています。それから奥様には田村の方からお話するそうです。今日にでもご報告すると思います」
「君たちは本当に息が合っているね。まあ、仲良くやってくれ。仲を取り持った甲斐がある」
その晩、菜々恵に今日のことを電話すると、奥様に婚約を報告したらあなた方は良い夫婦になると言われたと話していた。
◆ ◆ ◆
僕たちは婚約した週の次の土日で結婚式場を決めた。それから結婚指輪も注文した。僕が早く式を挙げて二人の生活を始めたかったからだ。それを菜々恵はよく分かってくれて僕に従ってくれた。
それから結婚式だけをして披露宴はしないことにした。菜々恵のために披露宴をしなければと思っていたが、菜々恵は準備に時間と手数がかかるからしなくてよいと言った。確かにこれからの生活の準備に時間お手数をかけた方が良いに決まっている。
披露宴の代わりに両家の親兄弟と松本部長夫妻を招待して会食をすることにした。その方が準備も簡単で手数もかからない。結婚式の後、全員で会食すれば良いだけだ。
松本部長にそのことを伝えるとその方が新婦に負担がかからないのでその方が良いと賛成してくれた。また、会食には喜んで出席すると言ってくれた。
午前中に式を終えて昼に少人数で会食するということなので、結婚式場はすぐに空きが見つかった。このごろはこういう内輪だけの結婚式が増えているという。確かに、それほど親しくない人の披露宴に義理で招待されて余計な出費を強いられて迷惑な人も少なくない。
式は9月13日の午前10時からと決まった。まだ残暑が厳しいかもしれない。会食は正午からだ。衣装合わせも終わった。
結婚式の日程が決まって僕はホッとしていた。結婚式まであと1か月あまりだ。でもお見合いして2か月足らずで結婚することになろうとは思いもつかなかった。
菜々恵には毎日必ず9時ごろに連絡を入れていた。菜々恵の声が聞きたかった。水曜日の夜、電話の声が少し変だ。どうしたのかと聞くと帰宅してから熱が出て、測ったら39℃あると言う。
僕は心臓が止まるかと思うほど驚いてしばらく口が利けなかった。「すぐ行くから」と言って、僕はマンションを飛び出した。
お見合してからすぐに両家の親にお互いを紹介して婚約した。次の週末には結婚式の会場を決めた。今週末には僕のマンションで新居について相談する予定だった。
菜々恵のアパートは日吉にあるというが、まだ訪ねたことがなかった。ここから電車で20分くらいあれば行ける。駅からの道順はスマホで調べたから分かる。
大丈夫であればいいが、いやな予感がする。もう何も考えられない。早くアパートに着いて菜々恵の支えになってやりたい。そういう思いばかりがつのる。
駅前にフルーツショップがまだ開いていたので、おいしそうなカットフルーツのパックとジュースを買った。これならすぐ食べられる。
菜々恵のアパートと思しき建物が見つかった。201号だから2階の端だ。表札は出ていない。部屋の前につくとドアをノックする。
「田村さん、僕だ、井上だ、大丈夫か?」
「はい、ちょっと待ってください」
菜々恵の声がした。電話よりしっかりした声なので少し安心した。ドアが開いてパジャマ姿の菜々恵が立っていた。熱のためだろうか顔が少し赤い。
「入っていい?」
「わざわざ来てくれてありがとう。どうぞ入って下さい」
部屋に通された。僕とほぼ同じつくりの小さめの1LDKだった。ただ、プレハブのアパートとマンションの違いだけで、中はほとんど同じだった。女子の部屋に初めて入った。寝室には布団が敷かれていた。
「熱があると聞いて、心配で居ても立ってもいられなくてやってきた。役に立てるかどうか分からないけど」
「ご心配をおかけしました。大丈夫です」
「大丈夫じゃない。高熱があるんだろう。医者にみてもらったのか?」
「いえ、帰宅の途中から気分が悪くなって、帰って熱を測ったら39℃ありました」
「御免、もう休んで。僕にできることがあればなんでもするから」
菜々恵は布団に横になった。僕はその横に座ってタオルケットをかけた。
「すぐに心配して来てくれて嬉しかった。それだけで十分です。そばにいてくれると心強いです。今日は泊まってもらえますか?」
「もし、迷惑でなかったらそうしたい。一人では置いておけない」
「お布団が1組しかありません。体調不良の私と一緒に寝る訳にもいかないと思います。何か悪い病気で移るかもしれませんから」
「冷房を緩めれば心配ない、大丈夫だ」
「お湯を沸かしてくれませんか? 暖かいコーヒーが飲みたいので」
お湯を沸かしながら、コーヒーの用意をする。インスタントコーヒーがあった。
「夕食は食べたの? 途中でカットフルーツを買ってきたけど、食べる?」
「いつもは自炊するのですが、体調が悪かったので、帰り道でサンドイッチを買って来て食べました。フルーツ、美味しそうなのでいただきます。あなたは?」
「帰りに弁当を買ってきて家で食べた。大体毎日そうだから」
「結婚したら私が美味しい夕食を作ってあげます」
「そういえば、栄養士と調理師免許も持っている料理のプロだった。これは楽しみだ」
お湯が沸いたので、コーヒーを入れた。菜々恵は起きてコーヒーを飲んだ。そしてカットフルーツを平らげた。それを見て食欲があるから大丈夫かなと思った。
菜々恵はそれからまた横になったが、少し寒気がすると言った。熱を測ると39℃だった。すぐに冷房を緩めて、冷凍庫のアイスノンで頭を冷やす。菜々恵が持っていた解熱薬を飲ませた。フルーツで身体が冷えたのかもしれない。
「寒気がするので冷房を切ってくれませんか?」
「分かった。布団に入ってタオルケットをかけて後ろから温めてあげようか」
菜々恵をそっと後ろから抱いてやった。
「ありがとう。安心して眠れます」
本当に安心したのか、すぐに寝息が聞こえてきた。それを聞いて、明かりを落とすと僕もいつの間にか眠ってしまった。
夜中に、菜々恵が汗ばんでいるのに気が付いた。熱のためか汗でびっしょりだった。部屋の中もかなり蒸し暑い。
「ねえ、起きて、着替えをした方が良い。汗でびっしょりだから」
菜々恵は汗をかいていることに気が付いて、着替えをすると言って、衣類棚からタオルとパジャマと下着を出してきた。そしてすぐにタオルで汗を拭いて着替え始めた。薄暗いけど、僕は目のやり場に困った。
菜々恵は僕にかまわずすぐに着替え終えた。そして、脱いだ下着とパジャマとタオルを洗濯籠に入れた。僕はようやく菜々恵の方を見ることができた。
「気が付いてくれてありがとう。あなたが恥ずかしがることはないわ」
「いや、目のやり場に困る」
「元気になったらしっかり見てください」
「冗談が言えるほどなら大丈夫だ。もう熱が下がっているんじゃないか?」
菜々恵は熱を測った。
「36.5℃で今は平熱にもどっています。解熱剤が効いたのね」
「ポットに白湯があるから少し飲んだらいい」
僕がカップに白湯を注ぐと、菜々恵はゆっくりそれを飲んだ。そしてまた布団に入って横になった。それから僕は冷房を軽く入れた。悪寒はなくなったようだ。
僕はまた菜々恵にタオルケットをかけて、その後ろから軽く抱いた。すると菜々恵は向きを変えて僕にしがみついてきた。
菜々恵が元気だったら。僕は我慢して抱き締めるだけにした。菜々恵もそれが分かっていて抱きついているだけだった。また、二人は眠った。
明け方にまた菜々恵の身体が熱っぽいのに気が付いた。測ると38℃あった。
「今日は休んで医者へ行った方がいい。勤めている病院に行く? それとも近くの医院にする?」
「駅前に内科医院があるのでとりあえずそこへ行きます」
「じゃあ、僕がついて行ってあげる」
「会社へ行って下さい。一人で大丈夫です」
「いや、君を一人にしておけない。今日は会社を休む。家族が病気になったからと言って」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
「何か朝食を作ってあげよう。冷蔵庫開けていい?」
「どうぞ、お願いします」
冷蔵庫には牛乳、リンゴ、ヨーグルト、キュウイがあった。バナナが冷凍室にあると教えてくれた。ミキサーがあるのを見つけたので、ミックスジュースを作ろう。卵があったので、目玉焼きを作った。パンを焼いてトーストにしてマーガリンを塗った。
食器は結構そろっている。適当に盛りつけて、リビングングの座卓にそれらを並べて準備完了。まあ、なんとか朝食らしくは見える。時間は20分位かかった。
「できたよ。こっちへきて、食べて」
菜々恵は布団からパジャマのまま出てきて、座卓の上を見て笑った。
「すごい、立派な朝食ね。いただきます」
すぐに食べ始める。喜んで食べてくれてよかった。ジュースを飲んで僕の顔を見てニコッと笑った。これなら心配ないかもしれない。
「ありがとう。とっても美味しい。こんなにしてもらって嬉しい」
「早く良くなってくれ。洗濯もしようか?」
「いえ、そこまでは」
「遠慮するな」
「じゃあ、洗濯機に衣類を入れて、洗剤を適当に入れて、スイッチを入れておいてください。でも、いろいろ見ないで」
「分かった」
菜々恵の汗の匂いがしたが、悪い匂いではない。
「良い旦那様になりそうで安心しました」
「そんなこと分かっているだろう」
「ここまでしてくれるとは思っていませんでした。少しやりすぎです。着ていたものの洗濯まで。でも本当にありがとう」
「もうひと眠りしたほうがいい。時間がきたら起こしてあげるから」
朝食の後片付けを済ませると7時を過ぎたところだった。医院は9時からだからまだ時間がある。菜々恵は眠っているようだった。
テレビをつけて音を絞ってニュースを見る。今日の天気は曇り空で雨は降りそうではない。歩いて行こうか、タクシーを呼んだ方が良いかと考えている。菜々恵の体調次第だ。
8時30分になったので、菜々恵を起こした。熱を測ったら37℃だった。歩いていけそうだというのでそうすることにした。
菜々恵が着替えている間に僕は会社の自分の席へ電話を入れた。もう誰か出社しているはずだ。グループの山本君が出たので、家族が急病で一日休むと伝えた。菜々恵も病院へ発熱したので休むと電話を入れていた。
早めに出かけたので医院での順番は1番だった。昨日から急に発熱したことを伝えて待っていると菜々恵が呼ばれて診察室に入って行った。原因は何だろう。心配で仕方がない。
もう20分ほどになるが出てこない。するとニコニコして菜々恵が出てきた。
「溶連菌の感染でした。抗生物質を出してもらうからもう大丈夫。検査したらすぐに分かった。きっと病院で感染したのね。子供の患者さんから移ったみたい。心当たりがあるから。でも安心しました。ご心配をおかけしました」
「僕もホッとした。再発を心配した」
「実は私も。でもよかった。帰りましょう」
僕たちは薬を受け取ると手を繋いで帰ってきた。コンビニで昼食になりそうなものを見繕って買って帰った。
病は気からと言うとおり、溶連菌感染と分かって、菜々恵はすっかり元気になった。帰ったら熱を測ってみよう。きっともう下がっている。
昼食を食べてから僕は菜々恵のために夕食の買い出しに駅前のスーパーへ行った。何か食べたいものを聞いたが、なんでもいいと言うから、僕にでもできそうな焼きそばを作ることにした。
冷蔵庫にはキャベツやちくわがあったので、そばと豚肉ともやしなどを買い出しに出かけた。ほかに食べたいものを聞くとアイスクリームだった。
スーパーから戻るとベランダに洗濯ものが干してあった。菜々恵は布団で眠っていた。テレビをつけて音量を絞った。菜々恵と話がしたかったが、ゆっくり寝かせてもやりたい。
手持ち無沙汰だった。でもようやく部屋の中を見渡す余裕ができた。菜々恵の部屋は殺風景だった。必要なもの以外は置いてない。まるで、男の部屋みたいな印象だ。心のゆとりがなかったのだろうか?
寝室の文机の上にケースに入った小さな写真が飾られていた。よくみると僕と菜々恵の写真だった。それは遊覧船の上で彼女が手を伸ばして撮ったものだった。どういう気持ちで彼女はこれを見ていたのだろう? 涙が止まらなかった。
4時過ぎになって菜々恵が目を覚ました。体温を測ると平熱に戻っていた、抗生物質が効いたのかもしれない。
「机の上の写真を見て、泣いてしまった」
「あの写真を見たのですか? 私は泣いたことはありません。見るたびに幸せな気持ちでいっぱいになりました。いつ死んでも悔いはないと」
「あの写真はもう必要なくなっただろう」
「そうですね。じゃあ、写真を撮らせて下さい」
「いいけど」
「私の横に寝てください」
僕が横になると、菜々恵はスマホを僕たちに向けてシャッターを切った。続けて3枚撮った。そして、一番うまく撮れたものを僕に見せてくれた。寝転んだ二人の顔が映っている。
「これに変えます。これを思い出の写真にします」
僕はまた涙が止まらなくなって、菜々恵を抱き締めていた。菜々恵もそういう僕を見て泣いていた。僕がキスしようとすると、菜々恵が叫んだ。
「だめ! 移るから、治ってからにして!」
◆ ◆ ◆
僕は「焼きそばをつくるから」と言って、キッチンに立った。ちくわを切って、キャベツを刻んで、もやしを洗って、豚肉を炒めて、野菜を入れて、麺を入れて、ソースを加えて出来上がり。焼きそばはすぐにできた。
大きめのお皿と小さめのお皿に盛りつける。テーブルに並べて準備完了だ。声をかけると菜々恵が布団から出てきた。
「ありがとう。こんなにしてもらって」
「このくらいしか僕にはできない。味はプロの君にはとうてい及ばないけど」
「いえ、こんなに美味しい焼きそば生まれて初めてです。ありがとう」
菜々恵は黙々と食べていた。発熱したのでお腹が空いた? 味は自分ながらまあまあだと思った。
ずっと付き添ってやりたかったが、原因も分かったし、熱も下がった。菜々恵の都合もある。僕がいるとできないこともあるだろう。後片付けを終えて僕は帰ってきた。
菜々恵は5時ごろに病院へ溶連菌の感染だったと連絡して今後のことを相談していた。2~3日は休まないといけないと話していた。
その週の土日、二人は会うのを止めにした。菜々恵が完治するためには休養が必要なことと、僕への感染のおそれもあると思ったからだ。幸い僕への感染はなかった。
発熱した日から10日ほど経って、菜々恵はすっかり回復した。体調は毎日電話で確かめていた。それで土曜日に僕のマンションで会うことになった。
結婚してからの住まいをどうするか相談しなければならなかったからだ。菜々恵は僕の部屋を見て一緒に住めるかどうか考えると言った。
ここで良ければすぐにでも一緒に住める。ただ、菜々恵の今の勤務先の病院が遠くなり、通勤時間が多くかかるので負担が増えるのが心配だった。でもかかっても3~40分位なので大丈夫と言っていた。でもできれば近いところに転職したいとも言っていた。
ここへは今の部へ異動になってから転居した。就職してから、実家から2駅離れたアパートに住んでいた。部屋は狭かったが、家賃も安くて、食事を実家で食べることもできたりして、それなりに快適だった。
ただ、電車が混んで通勤時間がかかったので、交通の便の良いここに転居した。住み始めてそう長くはないし荷物は増やさない主義なので収納スペースはある。
菜々恵の部屋も殺風景で家具や電気製品は最低限しかなかった。その理由を電話で話す時に聞いてみた。
「ミニマリストって知っている?」
「ああ、最低限の物しかもたないで生活している人のことだろう」
「私はいつ入院することになるかもしれないし、すぐに死んでしまうかもしれないので、身の周りの物はできるだけ持たないようにしています。だって、荷物が多いと後片付けが大変で母や妹に迷惑をかけるでしょう」
「でも不便じゃない?」
「生活して分かったけど、意外に必要なものって少ないの」
「確かに、僕も決まったものしか毎日使っていない」
「それに物があると物に執着するでしょう。使わなくてもこれは高かったから捨てられないとか、使うかもしれないからとっておこうとか、物に縛られることが良く分かったから、無いと気楽だし、身軽だから」
菜々恵は病気になってお釈迦様みたいに悟りの境地に達しているのかもしれない。
◆ ◆ ◆
ここのマンションは商店街を抜けたところで、閑静な住宅街にある。隣にはコンビニがあるし、駅前にはスーパーがあり、飲食店などもあるので、生活には便利なところだ。
菜々恵はスマホで住所から位置を確かめたと言っていたから、大丈夫だろう。でも約束の11時になっても現れなかった。すぐに心配になる。携帯が鳴った。菜々恵からだった。
「ごめんなさい。時間に遅れて、駅前のスーパーで買い物をしていたから、すぐに着きます」
しばらくするとチャイムが鳴った。画面を見ると菜々恵が立っている。すぐに開錠して上へ上がるように伝えた。僕の部屋は3階の307号室だ。
ドアを開けて待っていると、菜々恵がエレベーターを降りてきたので、招き入れる。
「すてきなマンションね」
「新築時に入って2年半ほどになるけどとても気に入っている」
菜々恵がレジ袋をキッチンにおくと、すぐに寝室、浴室、トイレなどの案内をする。今日は朝早くから大掃除をしておいた。
寝室にはセミダブルのベッド、机と本棚が置いてある。菜々恵は黙ってベッドをジッと見つめていた。
浴室は広くはない。でも菜々恵は二人でも入れると言っていた。一通り見終えると、リビングのソファーに座った。僕はその横に少し離れて腰を下ろした。
「私のところより広々としていて素敵ね。気に入ったわ。ここに一緒に住みたい。すぐにでも引越ししたい」
「寝室のクローゼットは整理して空けておいたから、ゆとりはあると思う。後で見ておいて」
「キッチンもあるし、大丈夫ね。試しに今日料理してみるから。でもガスじゃなくてIHなのね。でもなんとかなると思う」
「ここはオール電化なんだ。ここでよければ、あとで詳しく相談しよう」
「ここで十分です。十分すぎるくらいです。無駄な費用と時間をかけないで済むからそうしましょう」
「君がいいのなら、僕は全くかまわない」
「後でと言わずにすぐに相談しましょう」
菜々恵もせっかちだ。でも早く決めて一緒に生活したい。僕もせっかちになっている。
「まず、キッチンはどうする?」
「あなたは食器棚を持っていないのね」
「ああ、棚に入れるほどないから。洗い籠に入れてあるだけ。カップ、コップ、お皿、どんぶりくらいだ。君も同じようなものだった」
「私と同じにしないで下さい。あれでも料理に必要な食器はそろえていますから、それに食器棚もあったでしょう。あれを使いましょう。でも食器は二人分ないから買い増しましょう」
「それが良い。買いに行くときには付き合うから」
「調理器具は片手鍋一つしかないみたいだけど」
「一つあれば十分だけど。お湯を沸かしたり、ゆで卵を作ったり、インスタントラーメンを作ったり、何にでも使える。IH用だよ」
「調理器具はIHに使えるか確かめて、私のものを持ってきます」
「いいよ」
「次にリビンングね。私、ソファーはないけど、リクライニングチャーは持って来たい。ゆったり座って休めるから」
「いいよ。十分置けるから」
「座卓はどう?」
「これは小さいわ」
「一人なら丁度良いけど、二人で食事するとなると確かに小さいね」
「私のテーブルはそれより大きいけど、テーブルは椅子もあるので、場所をとるから、ここでは座卓が良いと思います。リビングを広く使えるから」
「大きめの座卓を買えばいい。僕が買おう」
「そうしてもらえたらありがたいです。私も半分払います」
「いや、僕が払うから」
「じゃあ、甘えさせてください」
「寝室をどうする? 」
「私は布団に寝ているけど、あのベッドで寝てみたい。セミダブルだから抱き合って眠るのには十分な大きさがあると思います。今晩試しに寝てみれば分かると思う」
菜々恵は今日ここへ泊るつもりで来てくれていた。玄関を入った時に大きめのバッグが目に入ったから、そうかなと思っていた。ここで打合せをすることにした時に、本当は泊まってほしかったのに、どうしても口に出して言えなかった。
大切なところでシャイな自分が顔を出す。だから午前11時に来てもらった。その時刻から始めれば十分に時間が取れて日帰りが可能と思ったからだ。菜々恵にリードされるのは今も変わらない。
菜々恵とはあの二人だけの同窓会が最初で最後だった。鮮烈な記憶が今も腕やら胸やら全身に残っている。先週は発熱していたから気持を抑えなければならなかった。今は違う。
僕は菜々恵の手を握り締めて引き寄せた。菜々恵がもたれかかってくる。この部屋に入った時にこうすべきだった。キスをして抱き締める。
再会してから初めてこんなに抱き締めた。胸に腕に菜々恵の感触がよみがえってくる。どのくらい抱き合っていただろう。僕は時間を忘れた。
抱き合って気持ちが落ち着いた。時間は十分ある。今は止めておこう。菜々恵は目を閉じたままだ。
「相談を続けようか?」
菜々恵は「はい」と座り直した。
「君の文机はどうする?」
「小さいので持って来てもよいですか? 置き場所はどこでもかまいませんが」
「リビングか寝室の使いやすいところに置けばいい」
「本は整理しますので、本棚に何冊か入れさせてもらっていいですか? 料理の本ですが」
「僕も整理するから入れてあげられる」
「クローゼットの中は見てないけど、私は衣類が少ないからそんなに場所はとらないと思います」
「男はスーツ何着かとネクタイが数本あればいいけど、女子は毎日服装を変えないといけないみたいだから多く必要だと思うけど」
「私はできるだけ少なくしています。いつ着られなくなるから分からないから最小限にして、その組み合わせを変えるようにしています」
「いつも違っているものを着ているばかりと思っていたけど、そうなの」
「でもこれからはあなたのためにおしゃれするようにします」
「無理することなんかない。今のままで十分だから」
相談に夢中でもうお昼をとうに過ぎていた。
「お昼ご飯を食べに行かないか? 駅前の商店街を案内してあげるから。それに僕が買うと言った座卓を見てこないか。それから二人分の食器を買おう」
「相変わらず、せっかちね。でも時間があるからそれがいいわ」
商店街をぶらぶら歩く。飲食店もここには結構ある。食べたい店があればと言っていたが、カレーの店があったので、そこにした。菜々恵はカレーが好きだと言っていた。美味しい店があると聞くと行っているそうだ。そのうちカレーを作ってあげると言っていた。
それから、近くの総合スーパーへ電車で移動して、食器を買いそろえた。持って帰るのが大変そうなので、配達してもらうことにした。
座卓は近くに良い店がなかったので、後日僕が買うことにした。菜々恵は使いやすいように大きめにしてほしいと言っていた。
菜々恵の負担にならないように2時過ぎにはマンションに帰ってきた。そしてソファーで休ませた。大丈夫と言っていたが、疲れたのか、僕に寄り掛かってしばらく眠った。クーラーが効いて心地よい。そして僕も眠った。
菜々恵が動いたので目が覚めた。4時を少し回ったところだった。菜々恵は夕食を作るという。献立は鰆の西京焼き、肉じゃが、なめこの味噌汁、ほうれん草のお浸しとのことだった。
手伝いは不要と言ってキッチンで作り始めた。電気釜とお米がないのか聞かれた。電気釜はない。お米もない。ただ、サトウのご飯は買い置きがたくさんあると言うとあきれていた。
5時過ぎには座卓に料理が並んだ。鰆の西京焼きは照り焼きに、なめこの味噌汁はおすましになっていた。ここには調味料と言えば砂糖と醤油、それにポン酢、マヨネーズくらいしか置いていない。菜々恵は事前に確かめておけばよかった、いくら調理師でも無理と悔やんでいた。
でも料理はとても美味しかった。バランスのとれた食事になっている。これからの食事が楽しみになる。
後片付けは僕がするからと菜々恵には休んでもらった。このあとがあるというと、菜々恵はそうさせてもらうと素直に従った。