お見合い結婚します――悔いなく今を生きるために!

部屋に戻ると僕は菜々恵を抱き締めたくなった。でも僕らしくないことを思いついた。

「ねえ、一緒にお風呂に入らないか? 背中を流してあげたい」

菜々恵は一瞬驚いたように僕の顔を見た。きっと予想していなかったのだと思う。いや、自分が提案しようと思っていた? そうかもしれない。今日の菜々恵ならありえることだ。

「いいわ。先に入っていて、私が洗ってあげる」

僕は着替えと浴衣を持って先にお風呂場へ入った。そこは小さいながら湖畔が見通せる温泉かけ流しの露天風呂になっていた。最高の部屋と言っていただけのことはある。

湯加減は熱からず温からず丁度良い。湯船に浸かって湖畔を見ているとドアが開いて菜々恵が入ってきた。綺麗な白い裸身だ。さっきしっかり見ていたはずだが、とても新鮮に見えた。真っすぐに見られないので横目で見ている。

「さっき見たでしょう。恥ずかしいから見ないで」

「さっきは夢中でよく見ていなかった」

本当に夢中でよく見ていなかった。菜々恵は掛湯をすると僕の隣に入ってきた。

「湯加減が丁度良くて気持ちいい。温泉はやっぱりいいわ、極楽、極楽」

菜々恵の明るさにホッとしている。まあ、あまり恥かしがられてもこちらが困るだけだ。僕はまた菜々恵の横顔を見ている。徐々に菜々恵の顔が上気してくる。

「温まったから、背中を流してあげる。上がって」

座った僕の後ろに回って、菜々恵はタオルに石鹸をつけて背中を洗ってくれる。力加減が丁度良い。洗ってもらうのはいいもんだ。心地いい。幸せな気持ちでいっぱいになる。

「今度は私の番、洗ってくれる?」

促されて席を交代して後ろへ回る。菜々恵の白い小さなやせた背中だ。タオルに石鹸をつけてゆっくり洗う。菜々恵がのってきているので僕も大胆になってくる。

「お尻と脚も洗ってあげるから立ってくれる」

菜々恵は黙って従った。可愛いお尻とすんなりした脚が目の前にある。それをまたゆっくりと洗ってゆく。

「じゃあ、今度は向きを変えてこっちを向いてくれる? 前も洗ってあげる」

菜々恵はしばらくどうしようかと迷ったみたいだったが、ゆっくり向きを変えた。僕は何食わぬ顔で前を洗い始める。菜々恵がどんな表情をしているかはあえて見ないで黙々と洗うだけにした。

可愛い小ぶりの乳房、ピンクの乳首、お腹におへそ、大事なところ、太もも、膝、足首へと洗っていく。

洗い終えるとお湯をかけて石鹸を洗い流す。その時初めて、菜々恵と目が合った。顔は真っ赤になっている。恥ずかしそうに目を伏せた。それがとても可愛かった。

恥かしがって菜々恵はすぐに湯船に浸かった。僕は髪を洗ってから湯船に浸かった。僕が入ると僕を見て「ありがとう」と言った。しばらく沈黙が続いた。

「もう上がろうか?」

「先に上がって下さい。私も髪を洗いますから」

僕はシャワーを浴びて上がってきた。今度は浴衣に着替えた。ソファーに座ってミネラルウオーターを飲んでいると菜々恵が髪を拭きながら上がってきた。彼女も浴衣に着替えていた。女性用の浴衣はピンクの花柄で、赤い帯を斜め前で結んでいる。それがとても可愛い。

顔は上気して赤みがさしている。そしてすっぴんだ。僕は菜々恵が化粧をしていないころから知っているので素顔に違和感が全くない。どちらかと言えば素顔の方が好きだ。その方が優しく見えるし綺麗だ。僕に気を許している。そう思えて嬉しかった。

「水飲む?」

「ええ、ありがとう」

菜々恵はバッグから錠剤を取り出してきた。僕の隣に座ってそれを水と一緒にゆっくり飲んだ。

「冷たくて美味しい。いい温泉だったわね」

「ああ、一緒に入れてよかった」

「ジロジロ見られて恥ずかしかったわ」

「そんなにジロジロ見ていないよ」

「でも見てはいたのでしょ」

「ああ、まあ」

「でも悪い気はしなかった。私って魅力あるんだと思って」

「綺麗で可愛いよ」

そう言って菜々恵を抱き寄せる。そして午後の時のように両手で抱え上げた。菜々恵は僕の首に腕を回してしがみついてきた。ゆっくり寝室へ向かう。

今度は僕にもゆとりがあった。菜々恵をベッドに横たえると、部屋の明かりを程よい明るさにした。そうしている僕を菜々恵はじっと見ている。

彼女のところへ戻ると、抱きついて来た。彼女が耳元で思いがけないことを言った。

「アフターピルを用意してきたから」

そう言うものがあることは知っていたが、菜々恵がそこまで考えていたことに驚いた。彼女はそこまで僕のために一生懸命だったんだ。頷いた僕は力一杯菜々恵を抱き締めていた。

◆ ◆ ◆
菜々恵は僕の腕の中でもう眠っている。今度は菜々恵をゆっくりと愛することができた。反応を見ながら少しずつ時間をかけてゆっくり可愛がってやった。時間は十分にある。二人にはもうそれを楽しむゆとりがあった。

僕は最後までいくことができた。そのころには彼女はもうそれほど痛がらなくなっていた。それでなおさら二人には余裕があった。抱き合って愛し合ったという満足感が得られた。僕は心地よい疲労の中で眠りに落ちて行った。
菜々恵が僕の上に覆いかぶさってきたので目が覚めた。まだ、夜明け前だが、薄明るくなっている。

「どうしたの?」

「最後にもう一度可愛がって、お願い。もう思い残すことがないようにしたいの。お願い」

「分かったから」

菜々恵は僕にまたがった。女子は下から見上げるとこんなにも綺麗に見えるんだ。菜々恵の新しい魅力を見つけた。彼女から積極的に動いて僕を愛してくれる。僕はただ、彼女を優しく抱いていればよかった。それがまた心地良かった。

僕がいくと同時に菜々恵はしがみついて来た。彼女も同時にいったのかは分からなかった。僕はそのまま眠ってしまった。彼女も眠ったみたいだった。

◆ ◆ ◆
目が覚めたら、もうすっかり明るくなっていた。横を見ると菜々恵が僕を見つめていた。

「ありがとう。とても良かったわ」

「ひょっとして、いった?」

「良く分からない。でもとっても気持ちよかった」

「それならよかった。ところで今は何時?」

「もうしばらくすると8時。そろそろ起きた方がいいわ。私はシャワーを浴びてきます」

菜々恵は浴室に入って行った。僕はここへ着いてからのことを思い出していた。思いがけないことの連続だった。彼女とはもう3度も愛し合った。

菜々恵が浴室から出てきた。もうすっかり身繕いを終えて化粧もしていた。そして昨日とは違った服に着替えていた。

僕もシャワーを浴びて、身繕いをした。シャツを違った柄に変えた。それから二人で朝食にダイニングへ向かった。

ダイニングはもうひとでいっぱいだった。空いている席を見つけて座った。朝食もビュッフェスタイルで、和食と洋食が準備されていた。僕はいつもパンと牛乳くらいの朝食なので、和食を食べたいと思った。

「私はいつも朝食がパンなので和食が食べたい」

「僕もそう思っていた」

「じゃあ、僕がご飯とお味噌汁を取ってきてあげる。あとはそれぞれ適当に食べたいものを選ぼう」

朝ご飯が美味しい。きっと昨晩と早朝に愛し合ったせいだ。菜々恵も結構食べている。久しぶりの美味しい朝食だった。菜々恵もニコニコしながら食べていた。幸せそうな笑顔だった。今を精一杯生きている。その笑顔から目が離せなかった。

部屋に戻るとどちらかともなく抱き合った。今度部屋の外へ出るともう大ぴらに抱き合えなくなることが分かっている。それから帰る準備を始める。お互い荷物を少なくしてきたから大して時間はかからない。

「これからどうする?」

「遊覧船で芦ノ湖を一周したい。それから高速バスで帰りませんか?」

「それがいい」

二人はもう一度抱き合ってから、部屋を出た。カウンターで菜々恵がチェックアウトしようとするので、金額を確認した。予想以上のかなりの高額だった。

「僕が払うから」と言ったが「私に払わせてお願い」と聞かない。菜々恵はすぐにカードを係の人に渡して支払いをしようとした。小声で菜々恵に耳打ちをする。

「そういう訳にはいかないから」

菜々恵も小声で耳打ちする。

「私が誘ったのだから、そうさせて」

「二人の同窓会だろう。だったら割り勘にしよう。それなら気が済むだろう」

「分かりました」

僕は自分のカードを係の人に渡して半分の額をこちらから支払うように頼んだ。かっこ悪いとは思ったが、菜々恵は受け入れてくれた。菜々恵もその方が良いと思ったのだろう。

ホテルの外は清々しい空気に満ちていた。今日も秋晴れの良い天気だ。僕たちは遊覧船乗り場の方へ歩いていった。

僕は菜々恵のバッグを持っている。菜々恵が自分で持つと言ったが、疲れさせたくないと僕が持つことにした。彼女はそれに従った。

芦ノ湖を一周する切符を買って乗り込んだ。心地よい風が吹いているが、湖面は穏やかだ。岸辺の木々は色とりどりで見ていて飽きない。湖から見える山々の色も鮮やかだ。

すぐ横の菜々恵が僕を横目でじっと見つめているのに気が付いた。

「どうしたの? 僕のこと見ていた?」

「昔のことを思い出していたの」

「昔って?」

「私たちが隣同士の席になった時のこととそれからの二人のこと」

「同じクラスになった時、僕はいつも君を見ていた。君がとっても眩しかった」

「気が付いていたわ。だからあなたのことが気になっていたの。私のことが好きなのって」

「好きとかじゃなくて可愛いなと思ってみていただけ」

「男子ってそんなものなの?」

「僕は特にシャイだったからね。今思うともっとしっかりしていればよかったと思うけどね」

「ずっと付き合っていたのに私のことを好きだといってくれなかった」

「僕たちは付き合っていたのか? 1年にせいぜい2~3回しか会っていなかったのに」

「私はそう思っていたけど」

「それならもっとはっきり言ってほしかった」

「私から?」

「確かにそれはないね。でも僕は先のことが気になるんだ。高校入試、それが終わったら大学入試、それが終わったら就職、それが終わったら仕事。そういう自覚があるから、ゆとりがなかったんだ。これは僕に限ったことかもしれないけど」

「私から好きだと言っていたらどうなっていた?」

「分からない。僕はほんの少し前までシャイだったから、きっといい加減な答えしかできなかったと思う。なんとなくわかる。お見合いの相談をされたときもそうだった」

「昨日は違ったわ」

「自分の気持ちに素直に従っただけだ。君のことが好きだったことは破談になったと聞いた時にはっきり分かった。今ならはっきり言える。君が好きだと」

「ありがとう。もっと早く言ってほしかったけど、今でも十分です。私もあなたのことが好きです。これでもう思い残すことがなくなりました」

「思い残すことがないって、すぐにでも死んでしまうような言い方だけど」

「思い残すことがないというのは、これまでの二人の関係について区切りができたということです。私は今を精一杯生きていきます。命のあるかぎりは」

菜々恵は寂しそうに湖面に目を落とした。強気なことを言っているがこの先のことを覚悟していると思った。それで肩を抱いた。菜々恵は身体を寄せてきた。菜々恵は手を伸ばしてスマホで二人の写真をとった。

それからずっと二人寄り添って湖面やら対岸の景色やらを眺めていた。そして、元箱根港を経て、湖尻へ戻って来た。

ここにあまり長く居ても菜々恵が疲れるだけと思い、軽食をとってから、予定どおり高速バスで新宿へ向かうことにした。菜々恵もそれが良いと言った。

帰りのバスに乗り込む。この時間、乗客は多くない。ところどころにカップルが座っている程よい混み具合だ。菜々恵を窓際に座らせて通路側に僕が座った。

動き出すとすぐに菜々恵は僕の右腕を抱え込んで肩にもたれかかってきた。そして「少し眠ってもいい?」と言って静かになった。眠ったみたいだった。

バスが新宿に着くと二人だけの同窓会はお開きになる。もうこんな同窓会は二度とできないかもしれない。そしてそこで別れてしまったらもう会えないことだってあり得る。この先菜々恵とどう向き合っていけばいいのだろう。僕は菜々恵を肩に感じながらそう考えていた。

菜々恵は何を思っているのだろう? 途中、何回か目を覚まして窓の外を見ていた。そしてまたすぐに眠った。ずっと腕を抱え込んだまま、ずっと黙ったままだった。

終点が近いとアナウンスがあった。菜々恵は眠っていなかったのかもしれない。

「もうすぐ到着ね。よく眠れたわ。夢を見ていました。幸せな時間を過ごさせてもらってありがとう」

「夢?」

「どんな夢?」

「とっても楽しい夢だった」

「また、会えるよね。体調が良ければまた近場へ二人で行ってみよう」

「この二日間、思い出を作ってくれてありがとう。本当にもう思い残すことはないわ」

「毎日毎日を精一杯生きるんだろう。それにこれからは僕がそばにいるから」

「そのお気持ちだけいただいておきます」

「まあ、また、連絡するから」

僕は菜々恵を抱きしめてキスをした。周りの乗客は気づかなかったと思う。菜々恵は僕を眩しそうに見て「ありがとう。お別れね」と言った。
二人だけの同窓会をしてから2週間後、夜の9時ごろ菜々恵から電話が入った。帰ってから3日ほどたって、週末に会おうと電話を入れたら、すでに予定が入っていると断られていた。

「ご相談があります。あなたの意見を聞かせてもらえませんか?」

「いいけど、何?」

「前回の診察でも主治医から言われていたの。抗がん剤でがんが小さくなったと。それで手術が可能となったので、どうするかと。転移がないか再確認するからとも言われていたの。今日、診察があって、検査の結果、転移もないので手術すれば完治も見込めると言われた」

「それで手術を希望するの?」

「手術は胆のうと肝臓の一部を切除するそうです。術後のことも心配ですし、今分からない転移があって再発の可能性もゼロではないとも言われています。手術すれば体力も消耗するので、このままでも良いかなと思ったりもしています」

「君はどうしたいの?」

「分からないから相談しています。意見を聞かせて欲しいです。あなただったらどうする?」

「僕だったら?」

本当に僕だったら。どうするだろう。答えるのに少し時間がかかった。

「僕だったら、手術にかけてみる。例え再発してもやるだけのことはしたと悔いは残らないだろうから」

「悔いが残らない? 私はあなたと二人だけの同窓会ができたから、もう悔いは残っていません」

「そうじゃなくて、今を、一日一日を精一杯生きることにしたと言っていたじゃないか。これから先のことに悔いは残らないのか? 二人の同窓会は過去との区切りと言っていただろう。それにもう思い出になった。これからはどうするの? このままでいいのか? 後悔しないか?」

「意見を聞かせてもらえてありがとう。よく考えてみます」

そういうと電話が切れた。それが菜々恵との最後の電話になろうとはその時思いもつかなかった。

菜々恵のことが気になったので、すぐに何回か電話を入れてみたが、電源が切られているか電波の届かないところとの音声が聞こえるだけだった。菜々恵との音信が途絶えた。

◆ ◆ ◆
後日、僕は通院している病院に田村菜々恵のことを聞いてみたが、個人情報は教えられないと断られた。また、同窓生にも消息を聞いてみたが分からなかった。手術をしたのだろうか? 気になる日々が続いた。

あれから3か月ほど経った翌年2月はじめの土曜日の夜の10時ごろだった。もう寝ようとしたときに、突然メールが入ってきた。菜々恵からだった。

『井上聡様 お元気ですか? 二人だけの同窓会にご出席いただきありがとうございました。今までの人生に悔いを残すことなく終止符を打つことができました。

あれから手術を受けるべきか考えてみましたが、あなたのご助言どおりに、手術に賭けてみることにしました。主治医から手術は成功したが、再発のリスクはゼロではないとも言われました。

私は今日退院しました。そして新たな人生を歩み始めることにしました。毎日毎日を精一杯悔いのないように生きていこうと思っています。

私はもうあなたにお会いしない決心も致しました。あなたにはご自分のための人生を歩いて行ってほしいと思っています。私へのお心遣いはもう無用です。長年のご厚情を感謝いたしております。

ご健康でお幸せな人生を送られますようお祈りいたしております。 田村菜々恵』

菜々恵の携帯からのメールだった。すぐに電話を入れるが、電源が切られているか電波の届かないところとの音声が聞こえるだけだった。

僕と別れたいとの突然のメールだった。手術に成功したのになぜ? 再発のリスクを背負って僕と付き合い続けることに負い目を感じたのか? 彼女らしい考え抜いた結論なのだろうか?

でも誰だって明日のことなど分からない。ただ、明日も元気だろう、無事だろうとの楽観の上に立って生きているだけだ。でもそれで良いのだと思う。

神様だけが知っていれば良いことを僕も知ろうとは思わない。菜々恵もそう言っていたはずだ。初恋の人とは結ばれないのだろうか、僕には後悔と虚しさだけが残った。
今日は2か月に一度の検診の日だ。5年前に菜々恵とここで会った。あの日も今日のように蒸し暑い日だった。

ここへ来るたびに菜々恵のことを思い出していた。今も心の中に彼女のことが残っている。元気で暮らしているのだろうか? 同級生からも菜々恵が入院したとかのうわさは聞いていない。

お別れのメールをもらった翌日、携帯にもう一度電話してみたが、電源が切られているか電波の届かないところとの音声が聞こえるだけだった。何日かすると、今はもう使われていないというメッセージに変わった。

残してあった同窓会案内の返信の住所を訪ねてみた。母親には会えたが行方が分からなくなって心配していると言っていた。菜々恵は本当に僕からの連絡を絶ちたいのだと思った。それで探すのを止めた。

あれからずっと特定の女性とは付き合っていない。マンションと会社を往復する仕事中心の生活が続いている。僕の検診結果もここのところずっと異常なしだ。

もう35歳になっていた。3年前に内部異動があって、商品開発部のチームリーダーになった。部下もいる。同期の連中はもう半数以上が身を固めている。両親からもこのままでは嫁の来手がなくなるから早く身を固めるように言われている。

そろそろ年貢の納め時かもしれない。ただ、菜々恵とのあの鮮烈な2日間の記憶は今もはっきりと残っている。

そんなことを考えていたら、前にいた商品企画部の部長だった松本さんから内線電話が入った。

「仕事もはかどっているみたいだな。ちょっと相談があるから、昼休みにでも私の席まで来てくれないか?」

「仕事の話ですか?」

「いやプライベートな話だけど、聞くだけでも聞いてくれないか?」

松本部長には部下の時に大変お世話になった。僕を育ててくれて今の商品開発部のリーダーにも推薦してくれた恩人だ。仕事のやり方や回し方も洗練されていて学ぶべきことが多かった。尊敬もしている。今は人事部長を務めている。

プライベートな話だというけれど、何も聞かないで断るわけにもいかない。昼食を済ませたら寄らせていただくと返答した。

食事を済ませてから、松本部長の席に行くと、すぐに席を立って、会議室に招き入れられた。人に聞かれてはまずいことか?

「井上君、君、まだ独身だったね」

「はい」

「付き合っている人はいるのか? いればそれで良いが、いないのだったら、お見合いしてみる気はないか?」

「付き合っている人はいませんが、お見合いですか?」

「もう35歳だろう。そろそろ身を固めてもいいんじゃないか? ただ、無理強いはしない。私の紹介では断りにくいと思うかもしれないが、結婚はご縁だと思っている。相性もあるし、好みもある。断っても全く構わない。気にしないから、余計なことは考えなくても良いから」

「はあ」

「実は家内から適齢の良い人がいないか相談を受けているんだ。家内が入院していた時に随分世話になったという女性で、良い人だから是非結婚相手を見つけてあげたいと言っている」

部長の奥さんは昨年乳がんが見つかって入院して手術をしたと聞いていた。今は自宅療養しているが、年に何回かは病院で検査を受けているそうだ。

「家内が入院中に気落ちしていたところ、励ましてくれた栄養士さんだそうだ。その人も5年前にがんにかかったが、手術して今はすっかり治ったので大丈夫と励ましてくれたそうだ。今でも病院に行ったときにいろいろと相談しているみたいだ」

「その栄養士さんがお見合いの相手ですか?」

「その栄養士さんは再発のリスクがゼロではないし、抗がん剤の副作用で子供ができないかもしれないので、結婚は考えていないと固辞したそうだ。家内がもう手術して5年も経っているし、嘘を言って私を励ましていたのと言ったら、しぶしぶ履歴書を書いてくれたそうだ。写真は携帯でその時撮ったと言っていた」

僕は菜々恵のことを思った。菜々恵であるはずがないが、でもひょっとしたら菜々恵かもしれない。彼女ならきっと今そうやって働いているに違いない。

もしそうだとすると、これは奇妙なご縁としか言いようがない。いずれにせよ僕はそういう女性に会ってみたくなった。

「私にもそういう友人がいました。5年前にがんの手術をしたと聞いていますが、今はどうしているか所在が分からないのですが、是非その方に会ってみたいです」

「じゃあ、家内に履歴書と写真をもらってこよう。明日にでも持ってこられると思う」

「分かりました。お願いします」
次の日の昼休みが待ち遠しかった。10時過ぎに松本部長から電話があった。例の履歴書と写真を持ってきたから、昼休みに席に来るように言われた。

昼休みに部長の席へ行って、すぐに会議室へ入った。封筒から履歴書とスナップ写真1枚を手渡してくれた。

履歴書の氏名の欄には『田村菜々恵』と書かれていた。その名前を何度も何度も読み返した。また、病歴として胆管がん除去手術と書かれていた。持っている手が震える。

じっと見つめてしまった写真の笑顔は5年前に新宿駅で別れる時に僕が撮ったどこか悲しそうな笑顔とは違っていた。

やはり、菜々恵だった。神様は二人をまた導き合わせてくださった。そう思わざるを得なかった。

「こんなことが本当にあるのですね。私の友人です。5年前に別れて消息が不明だった」

「それは奇遇だ」

「是非、奥様に彼女とお見合いさせていただけるようお願いして下さい」

「願ってもないことで、家内も喜ぶと思う」

「彼女は私のことをよく知っていますので、このお見合いの話を断るかもしれません。それでも何とか彼女を説得してお見合いできるようにお骨折りいただきたいと奥様にお伝え願いませんか?」

「井上君の熱意を家内に伝えよう。まあ、君が承知してくれてともかく良かった。これがご縁というものかな」

僕はすぐに自分の履歴書を作り、写真をプリントアウトして部長に届けた。

それから2週間ほど経って、昼休みの時間に部長から内線電話が入った。

「先方がお見合いするそうだ。家内から今電話があった。それでいつが良い?」

「いつでも構いません」

「場所もどこでもいいか?」

「お任せします」

電話が切れた。10分ほどしてから、部長からまた連絡が入った。お見合いの場所は部長のご自宅のマンションで、日時は今週の土曜日午後2時となった。

その日から僕は菜々恵と会ったらどんなことを話そうか考え続けた。彼女は部長の奥様からお見合いを勧められてしぶしぶとは言え履歴書を書いて渡した。

ということは結婚しても良いと思ったに違いない。良い人がいれば、また、がんの手術をしたことを承知でお見合いを受けてくれる相手ならば結婚しても良いと思ったからだろう。

その相手が僕だと分かった時、すぐにお見合いをする気になったのだろうか? でもお見合することを承知したということは僕との結婚を考えてくれたと思いたい。そのお見合いの日が待ち遠しかった。
松本部長のマンションは東横線の奥沢駅から徒歩4~5分のところと聞いていた。約束の時間の30分前には駅に着いた。

何か手土産をと考えて近くのビルの商店街へ行ってみた。ケーキ屋さんがあったので、ケーキの詰め合わせを作ってもらった。マンションの場所はすぐに確認できたので、約束の時間まで商店街を見て歩いた。

後ろ姿が菜々恵に似た女性が歩いているのに気が付いた。一瞬近づいて確かめて声をかけようと思ったが止めておいた。例え彼女だったとしてもここでかける言葉が思いつかなかった。女性は部長のマンションの方へ歩いて行った。

2時5分前に僕はマンションの入り口にいた。玄関の案内ボードに408と部屋番号を入力する。すぐに女性の声がしたので井上ですと答えると玄関扉が解錠した。エレベーターで4階へ向かう。胸がドキドキして緊張しているのが自分でも分かった。

408号室の前に着いた。松本の表札が出ている。チャイムを押すとドアが開いて、奥様と思しき人がいた。部長の奥様に間違いない。一目見て好感のもてる女性だった。

案内されて短い廊下を抜けるとリビングだった。ソファーに座っている女性が菜々恵だとすぐに分かった。服装が同じだったので、さっき見かけた女性はやはり菜々恵だった。僕の方をジッと見ていた。目が合った。

僕は軽く会釈をしたが、その時僕はどんな表情をしていただろう。笑顔を作ろうとしたが緊張してだめだった。以前のシャイな自分がいることに気付いた。

ソファーは3人掛けがひとつだけで左側に菜々恵が座っていた。僕はその横の右側に座るように案内された。正面に座るよりも菜々恵と話しやすいと思った。それに僕は横目で彼女を見ることに慣れていた。

僕は菜々恵に何と話しかけて良いか分からなかった。お見合いをすることが決まってから、ずっと会ったら何を話せば良いか考えていた。僕の今の気持ちをどう伝えたら良いか、ずっと考えていた。でももうその時は再会できた感激の気持ちが溢れて言葉がでなかった。

奥様がコーヒーを入れて二人の前に運んでくれた。僕は奥様が話始めるまで黙っていた。菜々恵も仲介の労をとっていだいた奥様が話始めるのを待っていた。

「コーヒーを召し上がって下さい。お二人はお知り合いだったのですね。田村さんは始めそのことをお話にならなくて、履歴書とお写真を見るとすぐにこの方とはお会いしたくありませんと断られそうになりました。私は主人から井上さんが田村さんを知っていてどうしてもお見合いさせてほしいと言っているから説得してほしいと頼まれていました」

「井上君は最初お見合いなんてする気がなさそうだったが、お見合いの相手が田村さんだと分かった時の驚き様と、知っている人だからどうしてもお見合いさせてほしいと家内に頼んでくれと必死だったのには驚いたけどね。よっぽど田村さんが好きなのだと思った」

「主人からそう言われていたので、田村さんに確認したの。知っている人だから会いたくないのって。そうしたら田村さんが驚いて、井上さんを知っていることを認めてくれました。もしかしてストーカーでいやな思い出でもあるのって聞いたら、田村さんは首を振って楽しかった二人の思い出を大切にしたいからですと話してくれました」

「ここに来てもらうように説得するのには随分骨が折れたみたいだ」

「私もそれならなぜこの話をお受けしないのと聞いたの。そうしたら井上さんと別れた訳を話してくれました」

菜々恵はじっと下を向いている。泣いているみたいだった。

「田村さんは何時がんが再発するか分からないし、それに抗がん剤の影響で赤ちゃんができないかもしれないので、井上さんを不幸にしてしまうと、それで井上さんとは結婚できないと別れたそうよ」

やはりそうだったのか。菜々恵らしい身の引き方だ。

「私は井上さんの気持ちを確かめたのか聞いたけど、そんなこと聞ける訳がない。彼を苦しめるだけだと言いました。それなら直接本人に会って確かめなさい。彼の幸せを考えて身を引くほど好きなのでしょうと言いました。田村さんは泣いていました」

菜々恵は下を向いた切り、顔を上げようとしない。

「田村さんは私が乳がんの手術をして抗がん剤の治療の最中に気弱になっていたところをあきらめないで毎日毎日を精一杯生きていればそれでいいと励ましてくれました。私もそうだったからとご自身の経験も話してくれました。でもご自分はこの先を毎日毎日精一杯生きていけないのかと聞き正しました。ご自分も同じではないかと。それに手術してから5年も経っているし、生理も規則正しくなってきたそうだから、もういいころじゃないと言って。それでようやく井上さんとのお見合いの同意を取り付けました。これで良いのですね。井上さん」

「奥様、大変なお骨折りありがとうございました。田村さんとは中学3年生の時に同じクラスになってそれ以来の間柄です。今思うと僕にとっては初恋の人です。それ以来付かず離れずで付き合っていましたが、彼女にがんが見つかってからはより親密になりました。相思相愛だった、そうだよね」

菜々恵は顔を上げて頷いた。

「僕は田村さんが好きでした。居なくなってそれが良く分かった。手術をしたあと、別れると言うメールが来てから消息が分からなくなって、もう5年が経ちました。部長からお見合いの話があって。もしやと思ってお相手の履歴書をいただいたら、彼女でした。その時は神様のお引き合わせだと身震いしました」

「そうだね。あの時の井上君の様子は今でも覚えている」

「僕は今日ここへ田村さんに正式に結婚を前提にしたお付き合いをお願いしようと参りました」

「田村さんはどうなの? 井上君はああ言っているけど」

「もう少し話し合ってからお答えしようと思っています」

「そうか。じゃあ、これから二人でじっくり話し合ってくれ。私たちの役目はここまでだ」

「そうね、これからどこか別のところで、二人でゆっくりお話ししたらいいわ。でもね、田村さんにこれだけは言っておきたいことがあります。くれぐれも後悔しないようにしてくださいね。せっかく神様がもう一度お引き合わせて下さった、そういうことだから。分かりましたね。そうですよね、あなた」

「ああ、僕たちも実は同じようなことがあった。今の会社で家内と付き合い出したけど、家内はそのとき契約社員だった。僕との立場の違いから引け目を感じていたところに、それをねたんだ同僚からいじめられて会社を辞めて行方知れずになった。2年ほどして異動があって、僕が関連会社に出向したら、部下に家内が配属されてきたんだ。僕も驚いたが家内はもっと驚いていた。これは神様のお引き合わせだと。それから間もなく僕たちは結婚した。ご縁は大事にしないといけない。分かったね」

「ありがとうございます。良いお話を聞かせていただきました。それでは僕たちはこれでお暇いたします。本日はお休みのところ、二人のために貴重なお時間を割いていただいてありがとうございました」

菜々恵は黙って、奥様に深々と頭を下げて、僕の後ろからついて来た。
部長のマンションを出ると僕は駅へ向かった。菜々恵は黙って僕の横を歩いている。

「駅前のコーヒーショップで話さないか?」

菜々恵は頷いた。店は混んでいなかった。奥の方に二人がけのテーブル席を見つけた。

「あそこに座ろう。席で待っていて、コーヒーでいいか? 僕が買ってゆくから」

菜々恵はテーブルの方へ歩いていった。マンションのリビングから僕は菜々恵の顔をしっかり見ていない。昔のシャイな自分が戻ってきている。これではいけない。彼女としっかり向き合わなければと思った。

「ご注文は?」

ぼんやり立っていた。聞かれてはっとした。しっかりしないと。

「コーヒーを、レギュラー2つ」

コーヒーを受け取ってトレイでそれを運ぶ。菜々恵は窓際に座っていた。その前に僕はトレイを置いて座った。菜々恵を正面から見た。

「今日は来てくれてありがとう。再会できてとても嬉しかった。もうどこへも行かないで僕と一緒にいてほしい。頼む」

菜々恵は黙ったままだ。でも僕を見つめていてくれた。目が潤んでいる。

「君からお別れのメールをもらってから、君のことを考えない日はなかった。元気でいるだろうかと。あれから5年も経っているのに、二人だけの同窓会の2日間を鮮やかに覚えている。たった2日間でも心の中にしっかり残っている。あのとき君は今を精一杯に生きていると言っていた。その精一杯生きた2日間のことが鮮やかに僕の心に残っているんだ」

「私もあの2日間のことを鮮明に覚えています。あなたの一言一句まで」

「君は先のことを心配して、僕の幸せを思って別れようとした。僕は例えこの先が短くても、一日一日を大切にして君と一緒に生きていきたい。そしてそれを思い出として心に刻んでおきたい。先のことなんか誰にも分からない。僕が突然事故死することだってありうる。僕にも腎機能に異常がある。急に腎不全になるかもしれない。自分のことばかり卑下して心配することなんか少しもない」

「そう言っていただけて、とても嬉しいです。私もあの時奥様が言われたように、後悔することのないように、一日一日を生きていきたいと思うようになりました」

「それじゃあ、僕と付き合ってくれるんだね。結婚を前提として。まあ、今日はお見合いだったから、当然のことだけど」

「はい、そこまでおっしゃっていただけるのであればお受けします」

「良かった」

菜々恵が笑った。でもまだ憂いが残っている笑顔だった。

「じゃあ、記念に君にプレゼントをしたい。指輪でもどうかな?」

「指輪って、婚約指輪? 随分せっかちですね」

「そう大袈裟に考えなくてもいい。ただ、付き合ってくれるのが嬉しくて、プレゼントしたいだけだから」

「せっかくだから、いただきます」

「じゃあ、これから渋谷にでも買いに行こう。まだ3時前だから。それとももう疲れた? それなら明日に日を新ためてもいいけど」

「今日でかまいません。私もせっかちですね。でも私には時間がないかもしれませんから」

二人は店を出て早速、駅から電車に乗り込んで渋谷に向かった。空いた席に菜々恵を座らせた。彼女を疲れさせたくない。僕はその前でつり革を持って彼女を見下ろしている。彼女は僕を見上げていて目が合っている。彼女の目が潤んで見える。

駅に着くとスクランブル交差点を目指して歩く。僕は菜々恵と手を繋いだ。柔らかい手だった。ベッドの中で握った感触を思い出した。

意外にも菜々恵は力を込めて僕の手を握ってきた。僕は菜々恵の顔を見た。菜々恵はいたずらっぽく笑った。その笑顔はシャイな僕を励ましてくれた。

「どんな指輪がいい。やっぱり最初は誕生石の指輪かな?」

「お任せします」

「誕生日はいつだったっけ?」

「7月13日です。誕生石はルビー」

「へー、ルビーか。それと僕より2か月も年上なんだね。僕は9月13日。だから僕は年上の君に気後れしていたんだ」

「今はもう違うと思います。私の方が気後れしていますし、私を完全にリードしてくれています」

「それならいいけど」

デパートに入って2、3か所見て回った。デザインもいろんなタイプがあるので目移りする。価格もピンキリだ。僕は菜々恵の気に入ったものを買ってあげようと思っている。

婚約指輪は給料3か月分だそうだが、僕の今の給料を考えると軽く100万円は超える。それも菜々恵のためならいいと思っている。

「価格は気にしなくていいから、気に入ったものを選んでくれれば僕は嬉しい」

「婚約指輪じゃないんでしょう。そんなに高価なものは必要ありません」

その言葉に少し気落ちした。婚約指輪のつもりだけど。

「これがいいかなあ」

菜々恵はプラチナ台に小粒のルビーが1列にちりばめられた可愛い指輪を選んだ。価格は考えていたよりもずっと安い。

「本当にそれでいいの。遠慮していない?」

「可愛くて好きなの、いつでもしていたいから」

それで購入を決めた。せっかくだからそのままここで嵌めて帰ることにした。菜々恵はその指輪を左手の薬指にゆっくりと嵌めて、その手を僕に見せて笑った。とても嬉しそうな笑顔だった。その笑顔を目に焼き付けておきたい。買ってあげてよかった。
歩いて駅へ向かう途中、菜々恵は時々左手を上げて指輪を見つめてから、僕を見て微笑む。それがとても嬉しい。

「あのー、せっかちついでに、これから君の家へ行って、ご両親にご挨拶するっていうのはどうだろう。今日のお見合いの話はしているんだろう」

「うちは父親が他界していて,母親だけですけど」

「これから、お母さんに会ってご挨拶できないかな? 善は急げで、君の言うように一日一日を大切にしたいから。せっかち過ぎるかな?」

「母には今日お見合することになったとは言ってあるけど、その相手が誰とは言ってないの。でも聞いて見るわ」

菜々恵はちょっと待ってと言って、少し離れたところから電話を入れた。

「いらしてくださいということです。簡単な夕食を準備すると言っていました」

「何て言ったの?」

「中学時代の同級生の井上さんが家へ来たいと言っていると話しました。母は井上さんのお母様を保護者会で会って覚えていると言っていました」

「へー、僕の母親を知っているんだ」

菜々恵の母親は今も池上線の久が原に住んでいた。僕たち家族は以前隣の御嶽山の賃貸住宅に住んでいたが、高校へ入ってから今の田園都市線の宮崎台のマンションに引っ越した。

駅前の和菓子店でお菓子の詰め合わせを買った。菜々恵は必要ないと言ったのだが、形がつかないと買い求めた。

10分ぐらい歩いたところに、小さな戸建てがあった。田村の表札が出ている。玄関を入るとすぐに母親が出てきた。

「よくいらっしゃいました。井上さん、お母様はお元気? 随分お会いしていないけど」

「おかげさまで元気です」

手土産を渡すと奥のリビングへ通された。菜々恵は母親に言われてお茶を入れてくれた。

「娘から今日お見合すると聞いていましたが、そのお相手が同級生の井上さんとは聞いていなかったものですから、私に会いに来られると聞いて驚いていたところです」

お茶を入れ終わった菜々恵が僕の横に座ったので僕は話始めた。

「田村さんとは5年前の同窓会以来お会いしていませんでした。この度、私の会社の元上司夫妻からお見合いのお話がありまして、そのお相手が田村さんで驚きました。私は田村さんが好きでお付き合いを望んでいたのですが、ご存じのようにがんになられて、それで僕のことを避けるように居なくなってしましました。一度お母様に菜々恵さんの連絡先を教えていただこうとしましたが、分からないと教えていただけませんでした。覚えておられますか?」

「覚えています。娘から友人に連絡先を教えないように言われていましたので。理由は聞きませんでしたが、察しはつきました」

「それで、今日お伺いいたしましたのは、菜々恵さんを私にいただけないかとお願いに参りました。菜々恵さんを幸せにします。どうか、結婚をお許しいただきたいのです。お願いします」

そう言って僕は頭を下げた。

「井上さん、そういうお話ではなかったはずですが?」

「僕はお母様にご挨拶と言ったはずだけど」

「娘はがんで一時は死を覚悟したほどでしたが、手術の結果、今の状態まで回復しました。でもいつ再発しても可笑しくありません。それに抗がん剤の副作用で子供が生めないかもしれません。それをご承知でのことでしょうか?」

「もちろんです。菜々恵さんはそれで僕から離れていかれました。僕の幸せを考えてのことだと聞いています。でも僕はこの後どのようなことになろうとも菜々恵さんと一緒に一日一日を大切に過ごしていくことに決めました。ですからそのことはもう二人ともおっしゃらないで下さい」

「菜々恵はそれでお受けするの?」

「はい、それで先ほど婚約指輪をいただきました」

菜々恵は婚約指輪と言った。確かに左手の薬指に嵌めてくれた。

「もっと高価なものをと言ったのですが」

「値段の問題ではありません。娘の嬉しそうな顔を見れば分かります。そういうことであれば、井上さん、どうか娘をお願いいたします」

「承知しました。菜々恵さんを幸せにします。ありがとうございます」

それから、菜々恵の母親が近くにある美味しいと評判のお店の幕の内弁当を夕食に出してくれた。お吸い物は母親が作ってくれた。確かに美味しいお弁当だった。

7時前にはお暇した。菜々恵は今日はここに泊まっていくと言う。母親と話がしたいのだろう。僕は菜々恵に明日都合が良ければ僕の両親に紹介したいから実家のある宮崎台まで来られるか聞いた。

明日の日曜日は休みなので行けるとの答えだった。それで実家に電話をかけて、明日両親が家にいるか確認した。居るというので、これから相談があるから行くと伝えた。菜々恵とは宮崎台の駅の改札口で明日の2時に待ち合わせすることにした。
僕は実家から駅に菜々恵を迎えに出た。2時少し前に着いたが菜々恵の姿がなかった。心配になってきょろきょろしていると向こうから菜々恵が手を振っているのが見えた。手にはバッグと紙袋を下げている。もう着いていたんだ。僕は駆け寄った。

「御免、もう少し早く来るんだった。見当たらないので心配した」

「御免なさい。随分早く着いたので、駅の周りを散策していました。ご両親にお会いするのが心配でした。反対だったらあなたの立場がなくなってしまう。どうしようって。もしそうなったらお断りしようと思っています」

「昨日、あれから両親に君のことを話した。君と結婚するからと。もちろん、君のがんと手術のことも話した。親父はお前がその覚悟なら何も反対する理由はないと言ってくれた。母親はお前の幸せを思って身を引いたのはよっぽどお前のことが好きだから、そういう人と結婚しなさいと言ってくれた。二人とも賛成してくれた。だから心配しないで会ってくれればいい」

「そうですか。あなたと同じでご両親もよい方ですね」

駅から徒歩10分くらいのところに両親のマンションがある。僕が高校生の時にここへ引っ越してきた。その時は新築だったけど、もう20年近くたっている。今はどこでもあるセキュリティもない。3階の305号室で、作りは3LDK、弟と家族4人で暮らしていた。

今は僕も弟も自立して両親だけの二人暮らしだ。父親は昨年リタイアして再就職もせずにブラブラしている。まあ、呑気な年金暮らしだ。父親は俺たちが死んだらリホームしてお前が住んだらいいと言っているが、そのときにはマンションは老朽化して住めないと思っている。

玄関ドアを開けると母親が出迎えた。

「田村さんね。よくいらっしゃいました。お母様とは中学校で一緒にクラスの役員をしていました」

「初めまして、田村菜々恵です。よろしくお願いします」

リビングで父親が待っていた。菜々恵がソファーに座るとすぐに父が口を開いた。僕と同じでせっかちなところがある。

「菜々恵さん、どうか聡のことをよろしくお願いします」

「いえ、私の方こそよろしくお願いします。私にはもったいない方です」

「うちは聡と次男の健治の兄弟で娘がほしかったので、とても嬉しい。聡ももう35歳だからこのまま独身でいるのかと心配していたところでした。菜々恵さんが聡のことを好きになってくれて、ありがたいことです」

「こうしてご両親に紹介していただいて聡さんに感謝しています」

「午前中に聡のアルバムをみていたけど、中学から大学までの写真にショートカットの可愛い女の子が聡の傍に時々写っていたのが気になっていた。それが菜々恵さんだった。今、一目見て分かった。これを見て」

父親は気が付いていた。そういえば同窓会の写真をもらうとアルバムに張っていた。このごろはもうスマホに保存するけど、あのころはそのままアルバムに張っていた。記念写真を撮るときはできるだけ菜々恵の近くにいるようにしたのを思い出した。

菜々恵は懐かしそうにアルバムをめくっていた。僕もそれを覗き込んでいたが、二人が映っている写真を見ると不思議にその時のことが思い出された。あの頃僕は菜々恵が好きだったけど、シャイで一言か二言しか口がきけなかった。

それが今は両親に彼女と結婚すると宣言している。シャイな僕を変えてくれたのも菜々恵だった。僕のアルバムを見ながら4人の話が弾んだ。

5時から近くの美味しい鰻屋さんに行って4人で夕食をすることになった。始め菜々恵は遠慮していたが、両親がどうしてもというので一緒に行くことになった。

確かに美味しい鰻だった。菜々恵も美味しいと言って食べていた。両親は満足そうだった。菜々恵を気に入ってくれたみたいで安心した。きっと菜々恵も安心したに違いない。僕は菜々恵と一緒に帰ることにした。

そういえば、履歴書には住所、携帯番号、勤務先などが書かれていたが、最寄りの駅名が分からなかった。それを聞くと最寄りの駅は東横線の日吉ということだった。勤務先の病院は横浜駅の近くだという。

僕たちは溝の口駅で別れた。僕は今、大岡山に住んでいる。今後のことは電話で相談することにした。