僕はもう夢中だった。何も考えずに本能に従うのが一番だと思った。彼女と結ばれたと思った時、思いがけず彼女は痛がった。それに気づいて動きを止めると「やめないでお願い」としがみついて来た。

でも動き出すと抱きついている手に力が入るので痛がっているのが分かる。その表情は必死に耐えているようで見ていられなかった。

そのまま続ける気になれなかったので、力一杯抱きしめてから身体を離した。そして腕の中に入れて抱いた。沈黙の時が流れてゆく。

二人はベッドに潜り込むように寝ている。冷房が効いているので、彼女の柔らかい身体が暖かくて心地よい。僕は菜々恵の髪をゆっくり撫でている。菜々恵は黙って動かない。

「大丈夫?」

「大丈夫です。ありがとうござました。優しいんですね」

「いや、力が入ってごめんね」

「しばらくこのままで居させてください。今の時間を大切にしたいから」

「時間は十分ある。ゆっくりしよう」

そのまま菜々恵は眠ったみたいだった。寝息が聞こえた。女子はこんなに可愛いものなんだと初めて思った。そしてありがとうと言われたことが嬉しかった。僕も嬉しかったけど彼女も嬉しかったんだ。

僕も眠っていたみたいだった。菜々恵がベッドを抜け出すのに気がついて目が覚めた。

「どうしたの?」

「お風呂に入ってきます」

裸身の後姿が見えた。シーツに少量だけど薄い出血の跡らしいものがあった。彼女は衣類をすべて持ち去っていた。

僕は起きて身繕いをした。そしてベッドメイキングをしてからメインルームに戻ってソファーに座った。これで良かったんだ。なぜかホッとした。

芦ノ湖に遊覧船がゆっくり走っているのが見えた。時刻は3時半を過ぎたところだった。ちょっと長めのお昼寝をした、そんな時間感覚だった。菜々恵がお風呂から上がってきたらなんと話しかけようか? そんなことをぼんやりと考えていた。

菜々恵がお風呂から上がってきた。彼女はここへ来た時の服装に戻っていた。はにかんだ笑顔でこちらへ歩いて来る。僕は冷蔵庫のところへ行って「何がいい」と聞いた。

「ミネラルウオーターを下さい」

それを菜々恵に手渡すと同時に抱き締めた。もう僕は自分の気持ちに素直になっている。しばらく抱き合ってから、二人はソファーに座ってひとしきりのどを潤した。

「これからどうしたい?」

「ここから景色を見ていたい」

そう言って肩にもたれかかってきた。僕はそっと菜々恵の肩を抱いた。湖面は静かで周りの山々を映している。紅葉が始まっていて、緑と黄色と赤が入り混じってとても綺麗だ。いつまで見ていても飽きない。

「今が一番良い時だからこの時間をゆっくり楽しみたい」

「ああ」

先がないかもしれない菜々恵がとてつもなく愛おしい。今日と明日は彼女のために出来るだけのことはしてやりたい。もう後悔はしたくない。思い出を作りたいし、思い出を作ってやりたい。

◆ ◆ ◆
段々と薄暗くなってきた。僕たちはずっとソファーでお互いにもたれ合って坐っていた。菜々恵は何を思っていたのだろう。ただ、じっと湖面を見ているだけだった。それを僕は横目で見ていた。

何を話してよいか分からなかった。そういう自分がなんともなさけなかった。気の利いたことを言ってやれない。何もしてやれない。

「そろそろレストランへ行きませんか? 5時からビュッフェが始まると書かれていました。ここのビュッフェは美味しいと評判だそうよ」

「お腹が空いたね。いっぱい食べられそうだ」

レストランに着いたら客はまだまばらだった。浴衣に羽織の客と服のままの客と半々だった。

「浴衣と羽織でもよかったね」

「でも料理が取りづらいでしょ」

そう言って湖面が見える席を菜々恵は選んだ。あれからまた暗くなっていた。

「特等席だね」

「早く来てよかった。ここは和食、中華、洋食なんでもそろっているそうよ。少しずつ、色々食べてみたいわ」

「二人それぞれ好きな料理を選んで来て、シェアする?」

「それもありね」

まず、菜々恵は和食が良いと言って、席を立って料理を取りに行った。しばらくして戻って来たので、今度は僕が席を立った。僕はアペタイザーを選んで席に戻った。

「まず、アペタイザーね。あなたらしいね。私は順序にこだわらないで食べたいと思った料理を盛りつけてきたけど」

「好きな料理ばかり食べていると種類が食べられなくなると困るから、順序良くと考えたけど」

「私はそんなに食べられないの、すぐにお腹がいっぱいになるから。あなたはたくさん食べて、その生ハムの料理、貰っていい?」

「ああ、もちろん。そのために2個持ってきた。気に入ってもらえて良かった。その魚の焼き物もらっていい?」

「どうぞ、美味しいものには目がないのね」

僕と菜々恵は何回もビュッフェを行き来して料理を楽しんだ。菜々恵はとっても嬉しそうに食べていた。ただ、食べられる量はそんなに多くはなかったが、味わいながら少しずつ食べているのが分かった。

僕はというと、菜々恵の言うように美味しいものがあって気に入るとそれを何回か取ってきて食べてしまった。それでかなりお腹が膨れて、デザートはシャーベットを少量食べられただけだった。

菜々恵はというと、デザートは別腹とか言って、ケーキを3個も食べていたのには驚いた。ケーキを食べ終わるのを見届けると僕は聞いた。

「これからどうする?」

「まだ、早いから湖畔を散歩したい。食後の運動」

「大丈夫? 外は寒いよ」

「そういうことがあると思って、上着を持ってきたから」

散歩を考えていたんだ。それならなおさら散歩に出かけよう。

外に出るとやはり少し肌寒い。晴れた空に星が良く見えた。思わず見上げてしまう。街中よりずっとよく見える。一面の星空だ。

「星が綺麗でロマンチックね」

「ああ」

菜々恵が手を繋いできた。僕は自然とそれに応じていた。手を繋いで湖畔の方へ歩いて行く。そんなに寒いというほどではない。

水面は湖畔の建物の明かりを映している。この時間はもう遊覧船は走っていない。ただ、小さな波が湖岸を打つ音が聞こえるだけだ。

菜々恵はじっと湖面を見つめている。手は繋いだままだ。薄明りの中、僕はまた彼女の横顔を見ている。恋人同士だったらここはどうするだろう。

僕は菜々恵をこちらに向かせてゆっくり唇を重ねた。菜々恵は待っていたかのようにそれに応えてくれた。ケーキの甘い匂いがした。僕はどんな匂いがしただろう。

キスを終えても抱き合ったまましばらく二人で湖面を見ていた。

「身体のことを考えているの?」

「いえ、考えてもなるようにしかならないから、先のことを考えることはしなくなりました」

「なるようにしかならないか」

「神様しか知らないことを私が知る必要はないわ。それでくよくよしても何にもならないから。私はただ、今できること、したいことをするだけ、精一杯生きるだけ」

「僕は何にもしてあげられない」

「いえ、もう十分してもらっているから、ありがとう。もう、戻りましょう」

菜々恵は明るくそういうと僕の手を引いて歩き始めた。菜々恵の明るさが僕を少し慰めてくれる。