鍵を開けて部屋に入る。智恵《ちえ》の荷物は先々週に搬出されていた。智恵はマンションを不在にしてくれれば、勝手に必要なものを運び出すと言ってきた。丁度、転勤先の茨木研究所に打ち合わせのための1泊2日の出張の予定があったので、その日程を知らせておいた。
出張から帰ると、智恵の荷物がすっかり搬出されていた。家具と家電は結婚するときにそろえたものだが、必要ないのか共に残されていた。ただ、智恵の身の周りの物は食器や小物類に至るまで彼女の痕跡がないほどにすべて運び出されていた。鍵は郵便箱に入れられていた。
一緒に暮らした1年半は何だったのだろう。お見合いして付き合い始めてから2年を超える月日が流れていた。今思い返すと長かったようで短かった。でも、今はもうあまり思い出せない。思い出したくないのかもしれない。
僕がお見合いを始めたのは28歳になった時で、30歳前には身を固めろと故郷の両親がうるさいので、しかたなくというかしぶしぶ始めた。
東京に本社のある食品会社に就職した僕は横浜研究所に配属されて食品素材の基礎研究に従事していた。人付き合いが苦手で研究職を希望したら配属された。それからは研究が面白くなって、研究所と独身寮を往復する生活が続いていた。
研究所にも年頃の女性はいたが、あまり関心がなかった。恋愛というか、付き合うのがめんどうだったこともある。それと紗奈恵のことがどこかに残っていて、あの時のショックから立ち直れていなかったのかもしれない。それでその歳まで付き合った人はいなかった。それに気ままな独身生活が快適だった。
別れた妻の大野《おおの》智恵《ちえ》とはお見合いで初めて会った。2歳年下の同じ高校の後輩で大学を卒業して地元の信用金庫に就職していた。それは2回目のお見合いだった。1回目の相手は歳が離れていたがとても気が強いような気がしたのでお断りしていた。
智恵は可愛い娘で二人姉妹の妹だった。姉は僕と同じ年でもう結婚していた。末娘というのは甘えん坊の感じがして長男の僕には新鮮だった。まるで妹のような可愛さと安心感があった。ただ、今思うと智恵は随分両親に可愛がられて甘やかされていたのだと思う。
僕は彼女が気に入って交際をお願いした。彼女は始め気乗りがしなかったのかもしれない。ただ、僕が積極的にお付き合いを始めたものだから、徐々にその気になっていったと言うのが本当のところだろう。
僕は出来るだけ帰省した。研究のスケジュールで毎週とはいかなかったが、最低でも2週に1度は必ず帰省して彼女と会っていた。電話は毎日必ずするようにしていた。まあ、遠距離恋愛のまねごとのようなことをしていた。それで時々しか会えないので、付き合ううちにお互いに思いが募っていった。
3か月後に婚約をして、その5か月後に故郷で結婚式を挙げた。研究所の野崎部長と直属の上司の森本さん、同期の友人の鈴木君の3名を招待した。ほかに仲の良かった同窓生も招いた。
新婚旅行はハワイへ行った。僕は海外旅行より国内旅行の方が安心で落ち着けるからと国内旅行を提案したが、どうしても思い出に海外へ行きたいと言うので希望どおりにしてあげた。僕は仕事で海外出張があったので2回目の海外旅行だった。
住まいは研究所から5駅離れた通勤に便利なところで、駅から徒歩5分の2LDKの賃貸マンションにした。二人で生活するなら十分な広さがあった。彼女はこちらへ来たら専業主婦になると言ってそのとおりにした。僕もその方が研究に専念できるのでよいと思った。
Hをしたのは新婚旅行でのホテルがはじめてだった。僕はその時までほとんど経験がなかった。ほとんどというのは就職したてのころ、3回ほど風俗に行ったことがあるからだった。素人の娘とは智恵が初めてだった。
智恵とは初めのころはうまくできなかった。僕が不慣れなことと智恵が痛がったこともあった。僕はあえてそれを聞かなかったが、智恵は初めてだったと思っている。
結婚したてのころは、ほとんど毎晩、彼女と愛し合った。だんだんお互いに身体がなじんでいくことが嬉しかった。お互いに満たされていて、あの頃が一番幸せだったと思う。
慣れと言うのは恐ろしいものだ。だんだんにそれが当たり前になると愛し合うことへの興味が薄れて行った。研究で疲れているときには彼女にかまわず眠ることが増えていった。智恵は僕のいびきがうるさいので離れて寝たいといった。
離れて寝ていると彼女に触れることも少なくなる。反対に僕が求めた時に拒絶されることも多くなった。隙間風が吹くというのはこういうことなのかもしれない。
研究所では研究成果をまとめて学術雑誌に投稿することが勧められていた。丁度そのころ、僕は上司の森本さんから研究成果をまとめて学位論文にすることを勧められていた。ここへきてからの一連の研究報告がかなりの数になっていたからだった。
そのためにはもう少し報告数を増やさなければならないのと、まとめのための研究をして研究報告を作成して学術雑誌に投稿しておかなければならなかった。そのために休日の土曜日や日曜日に出勤してそれを行っていた。
それで智恵をどこへも連れて行ってやれなかった。寂しかったのだと思う。ただ、僕は今の機会にこれをしておかなければならないことを何度も智恵に話していた。僕は彼女が分かってくれているものだと思っていた。
結婚して半年してから僕たちは避妊するのを止めた。子供ができればまた違ってくるのではないかと思ったからだ。しかし、智恵はなかなか妊娠しなかった。タイミングを合わせて試みてもしなかった。彼女は一人悩んで病院にも行っていた。ただ、異常なしと言われたと聞いていた。
そういう生活が1年ほど続いていた。智恵には単調な毎日だったのだろう。僕は学位論文のまとめで彼女をかまってやる心のゆとりと時間がなかった。毎日夜遅く疲れて帰って食事をしてお風呂に入って眠るだけの生活をしていた。土日も出勤していた。
彼女は僕に聞いたことがあった。
「あなたは何のために研究しているの?」
「学位を取ると将来の昇進に有利になるから、今後の二人の生活のために、どうしても今の機会にできることはしておきたい」
「本当に二人のためなの?」
「そうだ。それ以外に何がある?」
分かってくれていると思っていたから、詳しく説明はしなかった。僕はこれが二人のこれからの生活に最善だと思っていた。そしてこのチャンスは今しかないと思っていた。
数日後、帰宅すると、智恵の書置きがあった。「しばらく一人になりたいので実家に帰ってきます」とだけ書かれていた。
すぐに彼女の実家に電話したが、母親が代わりに出て「一人でしばらく考えさせてやってほしい」と言われた。
週末になって、僕は彼女の実家へ智恵を迎えに行った。彼女はしばらくここで一人になって今後のことを考えてみたいと僕と一緒に帰るのを拒んだ。僕はしかたなく一人で帰ってきた。智恵の両親にはもう少しで学位論文が出来上がることを伝えておいた。
1週間後に智恵の父親から彼女が離婚したいと言っていると連絡があった。智恵と直接話をさせてほしいと言ったが、聞き入れてもらえなかった。そしてほどなく智恵の分を記入した離婚届が送られてきた。添え状には僕の分を記入して返送してほしいと書いてあった。
丁度学位論文を大学へ提出したところだった。それを伝えて今後は今までのようなことはないのでやり直したいと智恵に伝えてほしいと父親に電話で話したが受け入れられなかった。智恵の決心は堅かった。
僕はこの時に復縁をあきらめた。せっかく彼女のために二人のために頑張ってきたのに、もう引き返せないところまで来ていたことが分かった。僕は自分の分を記入して離婚届を送り返した。3日後に父親から提出したとの連絡があった。
僕には何が足りなかったのだろう。僕は恋愛結婚よりも見合い結婚を選んだ。最良の人を妻にできたと思った。好感さえ持っていて、身体のつながりができれば、いずれ気持ちも通じ合えて、愛し合えると思っていた。実際にそういう風に進んでいるように思えた。だがどこからか隙間風が入って、それがどんどん二人を引き離していった。
出張から帰ると、智恵の荷物がすっかり搬出されていた。家具と家電は結婚するときにそろえたものだが、必要ないのか共に残されていた。ただ、智恵の身の周りの物は食器や小物類に至るまで彼女の痕跡がないほどにすべて運び出されていた。鍵は郵便箱に入れられていた。
一緒に暮らした1年半は何だったのだろう。お見合いして付き合い始めてから2年を超える月日が流れていた。今思い返すと長かったようで短かった。でも、今はもうあまり思い出せない。思い出したくないのかもしれない。
僕がお見合いを始めたのは28歳になった時で、30歳前には身を固めろと故郷の両親がうるさいので、しかたなくというかしぶしぶ始めた。
東京に本社のある食品会社に就職した僕は横浜研究所に配属されて食品素材の基礎研究に従事していた。人付き合いが苦手で研究職を希望したら配属された。それからは研究が面白くなって、研究所と独身寮を往復する生活が続いていた。
研究所にも年頃の女性はいたが、あまり関心がなかった。恋愛というか、付き合うのがめんどうだったこともある。それと紗奈恵のことがどこかに残っていて、あの時のショックから立ち直れていなかったのかもしれない。それでその歳まで付き合った人はいなかった。それに気ままな独身生活が快適だった。
別れた妻の大野《おおの》智恵《ちえ》とはお見合いで初めて会った。2歳年下の同じ高校の後輩で大学を卒業して地元の信用金庫に就職していた。それは2回目のお見合いだった。1回目の相手は歳が離れていたがとても気が強いような気がしたのでお断りしていた。
智恵は可愛い娘で二人姉妹の妹だった。姉は僕と同じ年でもう結婚していた。末娘というのは甘えん坊の感じがして長男の僕には新鮮だった。まるで妹のような可愛さと安心感があった。ただ、今思うと智恵は随分両親に可愛がられて甘やかされていたのだと思う。
僕は彼女が気に入って交際をお願いした。彼女は始め気乗りがしなかったのかもしれない。ただ、僕が積極的にお付き合いを始めたものだから、徐々にその気になっていったと言うのが本当のところだろう。
僕は出来るだけ帰省した。研究のスケジュールで毎週とはいかなかったが、最低でも2週に1度は必ず帰省して彼女と会っていた。電話は毎日必ずするようにしていた。まあ、遠距離恋愛のまねごとのようなことをしていた。それで時々しか会えないので、付き合ううちにお互いに思いが募っていった。
3か月後に婚約をして、その5か月後に故郷で結婚式を挙げた。研究所の野崎部長と直属の上司の森本さん、同期の友人の鈴木君の3名を招待した。ほかに仲の良かった同窓生も招いた。
新婚旅行はハワイへ行った。僕は海外旅行より国内旅行の方が安心で落ち着けるからと国内旅行を提案したが、どうしても思い出に海外へ行きたいと言うので希望どおりにしてあげた。僕は仕事で海外出張があったので2回目の海外旅行だった。
住まいは研究所から5駅離れた通勤に便利なところで、駅から徒歩5分の2LDKの賃貸マンションにした。二人で生活するなら十分な広さがあった。彼女はこちらへ来たら専業主婦になると言ってそのとおりにした。僕もその方が研究に専念できるのでよいと思った。
Hをしたのは新婚旅行でのホテルがはじめてだった。僕はその時までほとんど経験がなかった。ほとんどというのは就職したてのころ、3回ほど風俗に行ったことがあるからだった。素人の娘とは智恵が初めてだった。
智恵とは初めのころはうまくできなかった。僕が不慣れなことと智恵が痛がったこともあった。僕はあえてそれを聞かなかったが、智恵は初めてだったと思っている。
結婚したてのころは、ほとんど毎晩、彼女と愛し合った。だんだんお互いに身体がなじんでいくことが嬉しかった。お互いに満たされていて、あの頃が一番幸せだったと思う。
慣れと言うのは恐ろしいものだ。だんだんにそれが当たり前になると愛し合うことへの興味が薄れて行った。研究で疲れているときには彼女にかまわず眠ることが増えていった。智恵は僕のいびきがうるさいので離れて寝たいといった。
離れて寝ていると彼女に触れることも少なくなる。反対に僕が求めた時に拒絶されることも多くなった。隙間風が吹くというのはこういうことなのかもしれない。
研究所では研究成果をまとめて学術雑誌に投稿することが勧められていた。丁度そのころ、僕は上司の森本さんから研究成果をまとめて学位論文にすることを勧められていた。ここへきてからの一連の研究報告がかなりの数になっていたからだった。
そのためにはもう少し報告数を増やさなければならないのと、まとめのための研究をして研究報告を作成して学術雑誌に投稿しておかなければならなかった。そのために休日の土曜日や日曜日に出勤してそれを行っていた。
それで智恵をどこへも連れて行ってやれなかった。寂しかったのだと思う。ただ、僕は今の機会にこれをしておかなければならないことを何度も智恵に話していた。僕は彼女が分かってくれているものだと思っていた。
結婚して半年してから僕たちは避妊するのを止めた。子供ができればまた違ってくるのではないかと思ったからだ。しかし、智恵はなかなか妊娠しなかった。タイミングを合わせて試みてもしなかった。彼女は一人悩んで病院にも行っていた。ただ、異常なしと言われたと聞いていた。
そういう生活が1年ほど続いていた。智恵には単調な毎日だったのだろう。僕は学位論文のまとめで彼女をかまってやる心のゆとりと時間がなかった。毎日夜遅く疲れて帰って食事をしてお風呂に入って眠るだけの生活をしていた。土日も出勤していた。
彼女は僕に聞いたことがあった。
「あなたは何のために研究しているの?」
「学位を取ると将来の昇進に有利になるから、今後の二人の生活のために、どうしても今の機会にできることはしておきたい」
「本当に二人のためなの?」
「そうだ。それ以外に何がある?」
分かってくれていると思っていたから、詳しく説明はしなかった。僕はこれが二人のこれからの生活に最善だと思っていた。そしてこのチャンスは今しかないと思っていた。
数日後、帰宅すると、智恵の書置きがあった。「しばらく一人になりたいので実家に帰ってきます」とだけ書かれていた。
すぐに彼女の実家に電話したが、母親が代わりに出て「一人でしばらく考えさせてやってほしい」と言われた。
週末になって、僕は彼女の実家へ智恵を迎えに行った。彼女はしばらくここで一人になって今後のことを考えてみたいと僕と一緒に帰るのを拒んだ。僕はしかたなく一人で帰ってきた。智恵の両親にはもう少しで学位論文が出来上がることを伝えておいた。
1週間後に智恵の父親から彼女が離婚したいと言っていると連絡があった。智恵と直接話をさせてほしいと言ったが、聞き入れてもらえなかった。そしてほどなく智恵の分を記入した離婚届が送られてきた。添え状には僕の分を記入して返送してほしいと書いてあった。
丁度学位論文を大学へ提出したところだった。それを伝えて今後は今までのようなことはないのでやり直したいと智恵に伝えてほしいと父親に電話で話したが受け入れられなかった。智恵の決心は堅かった。
僕はこの時に復縁をあきらめた。せっかく彼女のために二人のために頑張ってきたのに、もう引き返せないところまで来ていたことが分かった。僕は自分の分を記入して離婚届を送り返した。3日後に父親から提出したとの連絡があった。
僕には何が足りなかったのだろう。僕は恋愛結婚よりも見合い結婚を選んだ。最良の人を妻にできたと思った。好感さえ持っていて、身体のつながりができれば、いずれ気持ちも通じ合えて、愛し合えると思っていた。実際にそういう風に進んでいるように思えた。だがどこからか隙間風が入って、それがどんどん二人を引き離していった。