―1—
「茜はさ、『ドッペルゲンガーのドッペルちゃん』の噂って知ってる?」
バスケ部キャプテンの船木先輩が水分補給をしていた私にそう聞いてきた。
「ドッペルちゃんですか? 初めて聞きました」
私はペットボトルを鞄にしまい、体育座りをした。
尊敬する先輩に対して失礼があってはいけないからね。
「最近、白ヶ峰高校の間で流行ってるんだよ」
「都市伝説みたいな感じですか?」
「うーん、そうだね。そんなイメージかな」
船木先輩はダムダムダムとボールをつきながら噂について話しだした。
「放課後、1人で通学路を歩いていると背後に気配を感じることってない?」
「ありますあります。あれって怖いですよね。もし振り返って誰もいなかったらそれはそれで不気味なので、そういう時は早歩きで帰るようにしてます」
「フフッ、茜が無言でスタスタ歩いてるの想像できる」
船木先輩がクスクスと笑う。
「これはとある白ヶ峰高校生の話なんだけど、その子も茜と同じように下校中に気味の悪い視線を感じたんだって。でもその子は気が強かったんだろうね。びくびくしてても相手の思う壺だと思って周りに障害物が無いことを確認すると、勢いよく振り返ったの。そうしたらそれが立ってた」
船木先輩は雰囲気を作るためなのか声を低くしたり、間を置いたりして場を盛り上げようとする。
気がつけば部員の数人が船木先輩の話に耳を傾けていた。
「何が立ってたんですか? お化けですか? 私怖いのが大の苦手で」
両手で顔を覆い、指の隙間から船木先輩の表情を窺う。
他の人からすればオーバーリアクションに見えるかもしれないけれど、怖いものは怖いのだから仕方がない。
「茜、怖がり過ぎだって。可愛いなぁ、まったく」
船木先輩が優しく私の頭を撫でてくれた。
「先輩、それでその生徒は何を見たんですか?」
「自分と瓜二つの人影を見たんだって。暗くて顔はよく見えなかったみたいなんだけど、制服も同じ、部活で使っている鞄も同じ、おまけに腕につけていたミサンガも同じ。身長も体型も髪型まで一緒だったみたい」
「それってどういう?」
世の中には自分とそっくりな人が3人いると言われているが、身につけているものまでたまたま一緒だなんて、そんな確率は限りなくゼロに近い。
それこそ自分の姿を鏡にでも映さない限りありえない。
「それで、その生徒はどうなったんですか?」
「その子と仲が良かった友達の話だと、その子はある日を境に別人のように変わったんだって。元々明るくてクラスの人気者だったはずなのに人から距離を置くようになって、友達から話し掛けられても愛想笑いをするだけだったって」
「通学路での出来事が関係しているんですかね?」
「うーん、そこは私にもわからないな。茜もクラスメイトとか身近な人でここ最近性格が変わったなって人に心当たりはない?」
「そう言われてみれば同じクラスの読書好きの男子が突然金髪にしてきて先生に怒られてました。でも、それが今回の噂と結びつくかはわからないですよね」
学校にいる間は静かなだけで、私たちの知らない所ではやんちゃをしていたのかもしれない。
噂のせいだと決めつけるには情報が足りなさ過ぎる。
「私はその男子のことを知らないから断言できないけど、茜の話を聞いた感じだと可能性は高いんじゃないかな。すべての原因は通学路に現れる自分と瓜二つの人影、ドッペルちゃんにあると私は思ってる。だから、茜も背後に気配を感じたら絶対に振り返っちゃダメだよ。絶対だからね」
「は、はい」
船木先輩にそう強く念を押されたので私は深く頷いた。
「さっ! そろそろ練習再開するよー!」
船木先輩の掛け声で休憩していた女子バスケ部員がコートに集まる。
私は練習中もしばらく船木先輩の話が頭から離れなかった。
―2—
「船木先輩、おはようございます!」
翌朝、下駄箱で靴を履き替えていると船木先輩の姿を見かけた。
朝の挨拶は大きな声で元気よく。これは女子バスケットボール部のみんなで決めたルールだ。
「お、おはよう茜」
船木先輩は私の顔をチラッチラッと見てから小さくそう言った。
どこかよそよそしいというか、明らかにいつもと様子が違う。
「どうしたんですか? もしかして体調悪いんですか?」
「ううん、元気だよ」
「そう、ですか」
船木先輩と並んで歩き、階段を上がる。
いつもなら会話が弾んでついつい朝のホームルームまで話し込んでしまうのだけど、今日は全然会話のラリーが続かない。
「先輩、昨日ドッペルちゃんの噂のこと教えてくれたじゃないですか。私、昨日の帰り道怖くて大変だったんですよ」
冗談半分で笑いながら船木先輩に話題を振ってみた。
しかし、
「ごめんね。怖い思いをさせて」
「それじゃあ」と言って船木先輩が3年生の教室がある3階に向かって階段を上がって行った。
私はあまりの先輩の変わりようにただただ先輩の背中を見ていることしかできなかった。
―3—
モヤモヤとした気持ちを残したまま放課後の部活が終わり、時刻は夜7時を回っていた。
「じゃあね、茜!」
「うん! みんな、また明日!」
校門を抜け、駅に向かう組に別れを告げる。
私の家はここから歩いて20分行ったところにある。自転車通学にすれば楽ちんだということはわかっているけれど、それでは大事な前髪が崩れてしまう。
男子からすれば「たかが前髪が」と言われてしまうだろうが、女子にとって前髪は命の次に大事なものなのだ。
前髪が決まらないとその日の気分が急降下してしまう。
「うっ、冷えてきたな」
両手に吐息をかけて手を擦る。
もう10月だ。そろそろカーディガンを準備した方が良さそうだ。
あれから船木先輩とは、業務連絡的なやり取りしかしていない。
他の部員も船木先輩の異変には気がついていたのだが、「元気が無い日もある」、「あんまり突っ込んで聞くのもよくないと思う」という意見が多く、そっとしておこうということでまとまった。
確かに朝の会話を思い出してみても先輩の口から何か話してくれそうな雰囲気は無かった。
それでも私は真相を確かめたかった。
真相と言っても私が勝手にそうなんじゃないかと思っているだけなのだが。
先輩は昨日の夜、ドッペルちゃんと遭遇してしまったのではないか。
私の頭の中にはそんな最悪な事態がよぎっていた。
だが、そうだとすれば今日の先輩の振る舞いにもすべての説明がつく。
「嘘、だよね」
通りの街灯がチカチカと点滅している。
秋の冷たい風が私の体温を奪い、思考判断を鈍らせる。
背後から聞こえてくる靴の音。
冷えた手を温めるふりをして自分の耳を塞ぐ。
ダメだ。
心臓が強く脈打っている。
部活のみんなとは、学校を出たときにバラバラになったから部員ではない。
この辺りは住宅街だから仕事帰りのサラリーマンという可能性もある。
いや、それにしては足音が軽すぎる。
誰だ?
家まではまだ10分くらいある。
しばらく1本道だから戻るか進むかしか選択肢はない。
引き返すにも振り返ったとみなされるかもしれない。
つまり、私は進むしかないということか。
落ち着け私。焦っているときほど冷静になれ。
バスケの試合中、船木先輩にも言われていただろ。ヤバいと思ったときほど、頭を空っぽにして周りを見渡せ。状況を整理する癖をつけろと。
深く息を吐いて深呼吸。
「あれっ?」
背後から聞こえていた靴の音が聞こえない。
立ち止まったのか?
違う。
私の歩幅に合わせて歩いているんだ。私の足が地面に着地するタイミングに合わせて背後の誰かも足を着地させている。
足音も極力出さないようにしているから私の靴音しか聞こえないんだ。
「ねえ」
手汗で手がびしょびしょだ。
反応するな。反応したら負けだ。
「ねえ、聞こえてるんでしょ茜」
さっきより声が近づいた。
どうして私の名前を知ってるの?
怖い。どうしよう。お母さん。
「無視するなよ」
暗くて低い私の声が私の頭のすぐ後ろから聞こえてきた。
それと同時に氷のように冷たい手が私の腕をギッと掴んだ。
「お願い離して!」
「ダメだよ。茜にも交代の順番が回って来たんだよ」
茜にも? 交代の順番?
「嫌だ! 離して! 助けて! 誰か! 助けてください!!!!!!」
夜にこれだけ大声で叫べばきっと誰かが助けに来てくれるはず。
「無駄だよ。ここには誰も来ない。茜は入れ替わるんだよ。私と」
次の瞬間、私は地面の中に沈んでいた。
もがけばもがくほど底なし沼にハマったかのように体が地面の底へと落ちていく。
僅か5秒ほどで胸の辺りまで地面に浸かっていた。
もう頭のてっぺんまで沈み切るのも時間の問題。
私はここで死ぬのだろう。
それならばせめて私をこんな目に遭わせた犯人の顔をこの目で見てから死んでやる。
振り返らなくても殺されるだけなら犯人の顔くらい見ておきたい。
私は、極限状態に陥ったことでドッペルちゃんの噂のことや恐怖心が吹き飛んでいた。
「お前は誰だ!」
最後の力を振り絞って体を回転させる。
「!?」
「バイバイ、私」
目の前が真っ暗になった。
音も聞こえないし、方向感覚もない。もう沈んでいるのかすらわからない。
ずっとこのまま暗闇の世界を彷徨うのかな?
ここにはもう答えてくれる人はいない。
―4―
「んっ?」
無機質な目覚まし時計の音で目が覚めた。
太陽の光が眩しい。今日も良い天気だな。
身支度を済ませてから朝ご飯を食べる。今日のメニューはご飯に納豆に鮭とお味噌汁だ。
これぞ日本人って感じ。
「お母さん、行ってきます!」
「あれっ? 今日は自転車で行くの?」
玄関まで見送りに来てくれたお母さんが首を傾げた。
私が自転車の鍵を持っていたことに気がついたのだろう。
「うん、そろそろ帰りも寒くなって来たし、自転車の方が速いからさ」
「そっか。気をつけてね」
それっぽい理由を言ったら信じてくれた。
自転車を漕ぐと秋の冷たい風が私の髪の毛を乱暴に振り回した。でも、不思議と悪い気はしない。
今の私にとっては、どの体験も新鮮で1つ1つが楽しくて仕方がない。
「ねえ、茜。見えてる? もうあなたの体は私のものだよ」
私は自分の陰に向かって笑いかけた。
―5―
全てを理解した。
ドッペルちゃんの正体も私がこれからどうなっていくのかも。
昨日の夜、私は自分と瓜二つの人影に襲われて彼女と入れ替わってしまった。
ドッペルちゃんは人間の影だ。
人間の数だけドッペルちゃんは存在する。
私の体を手に入れたドッペルちゃんは、今この瞬間も何食わぬ顔で私を演じている。
身支度をして、朝ご飯を食べて、自転車通学に切り替えて。
前髪が崩れているというのに気にもしていない。
2日前、船木先輩は白ヶ峰高校生の中には突然性格が変わってしまう生徒がいると言っていた。
今だからわかる。その生徒はドッペルちゃんと入れ替わった生徒だ。
外見は変わっていないけれど、中身が別人に変わっているのだからそりゃあ性格も変わるはずだ。
ということは、船木先輩もドッペルちゃんと入れ替わってしまった可能性が高い。
この学校には本物の生徒が何人いるのだろうか。
男子からモテモテなあの子も、運動神経抜群な彼ももしかしたらドッペルちゃんなのかもしれない。
これは私から皆への忠告。
通学路で不気味な視線を感じても絶対に振り返っちゃダメ。少しでも怖いと感じたら周りの目なんて気にせず走って逃げた方がいい。
じゃないと私みたいになっちゃうから。
ドッペルゲンガーのドッペルちゃん、完結。
「茜はさ、『ドッペルゲンガーのドッペルちゃん』の噂って知ってる?」
バスケ部キャプテンの船木先輩が水分補給をしていた私にそう聞いてきた。
「ドッペルちゃんですか? 初めて聞きました」
私はペットボトルを鞄にしまい、体育座りをした。
尊敬する先輩に対して失礼があってはいけないからね。
「最近、白ヶ峰高校の間で流行ってるんだよ」
「都市伝説みたいな感じですか?」
「うーん、そうだね。そんなイメージかな」
船木先輩はダムダムダムとボールをつきながら噂について話しだした。
「放課後、1人で通学路を歩いていると背後に気配を感じることってない?」
「ありますあります。あれって怖いですよね。もし振り返って誰もいなかったらそれはそれで不気味なので、そういう時は早歩きで帰るようにしてます」
「フフッ、茜が無言でスタスタ歩いてるの想像できる」
船木先輩がクスクスと笑う。
「これはとある白ヶ峰高校生の話なんだけど、その子も茜と同じように下校中に気味の悪い視線を感じたんだって。でもその子は気が強かったんだろうね。びくびくしてても相手の思う壺だと思って周りに障害物が無いことを確認すると、勢いよく振り返ったの。そうしたらそれが立ってた」
船木先輩は雰囲気を作るためなのか声を低くしたり、間を置いたりして場を盛り上げようとする。
気がつけば部員の数人が船木先輩の話に耳を傾けていた。
「何が立ってたんですか? お化けですか? 私怖いのが大の苦手で」
両手で顔を覆い、指の隙間から船木先輩の表情を窺う。
他の人からすればオーバーリアクションに見えるかもしれないけれど、怖いものは怖いのだから仕方がない。
「茜、怖がり過ぎだって。可愛いなぁ、まったく」
船木先輩が優しく私の頭を撫でてくれた。
「先輩、それでその生徒は何を見たんですか?」
「自分と瓜二つの人影を見たんだって。暗くて顔はよく見えなかったみたいなんだけど、制服も同じ、部活で使っている鞄も同じ、おまけに腕につけていたミサンガも同じ。身長も体型も髪型まで一緒だったみたい」
「それってどういう?」
世の中には自分とそっくりな人が3人いると言われているが、身につけているものまでたまたま一緒だなんて、そんな確率は限りなくゼロに近い。
それこそ自分の姿を鏡にでも映さない限りありえない。
「それで、その生徒はどうなったんですか?」
「その子と仲が良かった友達の話だと、その子はある日を境に別人のように変わったんだって。元々明るくてクラスの人気者だったはずなのに人から距離を置くようになって、友達から話し掛けられても愛想笑いをするだけだったって」
「通学路での出来事が関係しているんですかね?」
「うーん、そこは私にもわからないな。茜もクラスメイトとか身近な人でここ最近性格が変わったなって人に心当たりはない?」
「そう言われてみれば同じクラスの読書好きの男子が突然金髪にしてきて先生に怒られてました。でも、それが今回の噂と結びつくかはわからないですよね」
学校にいる間は静かなだけで、私たちの知らない所ではやんちゃをしていたのかもしれない。
噂のせいだと決めつけるには情報が足りなさ過ぎる。
「私はその男子のことを知らないから断言できないけど、茜の話を聞いた感じだと可能性は高いんじゃないかな。すべての原因は通学路に現れる自分と瓜二つの人影、ドッペルちゃんにあると私は思ってる。だから、茜も背後に気配を感じたら絶対に振り返っちゃダメだよ。絶対だからね」
「は、はい」
船木先輩にそう強く念を押されたので私は深く頷いた。
「さっ! そろそろ練習再開するよー!」
船木先輩の掛け声で休憩していた女子バスケ部員がコートに集まる。
私は練習中もしばらく船木先輩の話が頭から離れなかった。
―2—
「船木先輩、おはようございます!」
翌朝、下駄箱で靴を履き替えていると船木先輩の姿を見かけた。
朝の挨拶は大きな声で元気よく。これは女子バスケットボール部のみんなで決めたルールだ。
「お、おはよう茜」
船木先輩は私の顔をチラッチラッと見てから小さくそう言った。
どこかよそよそしいというか、明らかにいつもと様子が違う。
「どうしたんですか? もしかして体調悪いんですか?」
「ううん、元気だよ」
「そう、ですか」
船木先輩と並んで歩き、階段を上がる。
いつもなら会話が弾んでついつい朝のホームルームまで話し込んでしまうのだけど、今日は全然会話のラリーが続かない。
「先輩、昨日ドッペルちゃんの噂のこと教えてくれたじゃないですか。私、昨日の帰り道怖くて大変だったんですよ」
冗談半分で笑いながら船木先輩に話題を振ってみた。
しかし、
「ごめんね。怖い思いをさせて」
「それじゃあ」と言って船木先輩が3年生の教室がある3階に向かって階段を上がって行った。
私はあまりの先輩の変わりようにただただ先輩の背中を見ていることしかできなかった。
―3—
モヤモヤとした気持ちを残したまま放課後の部活が終わり、時刻は夜7時を回っていた。
「じゃあね、茜!」
「うん! みんな、また明日!」
校門を抜け、駅に向かう組に別れを告げる。
私の家はここから歩いて20分行ったところにある。自転車通学にすれば楽ちんだということはわかっているけれど、それでは大事な前髪が崩れてしまう。
男子からすれば「たかが前髪が」と言われてしまうだろうが、女子にとって前髪は命の次に大事なものなのだ。
前髪が決まらないとその日の気分が急降下してしまう。
「うっ、冷えてきたな」
両手に吐息をかけて手を擦る。
もう10月だ。そろそろカーディガンを準備した方が良さそうだ。
あれから船木先輩とは、業務連絡的なやり取りしかしていない。
他の部員も船木先輩の異変には気がついていたのだが、「元気が無い日もある」、「あんまり突っ込んで聞くのもよくないと思う」という意見が多く、そっとしておこうということでまとまった。
確かに朝の会話を思い出してみても先輩の口から何か話してくれそうな雰囲気は無かった。
それでも私は真相を確かめたかった。
真相と言っても私が勝手にそうなんじゃないかと思っているだけなのだが。
先輩は昨日の夜、ドッペルちゃんと遭遇してしまったのではないか。
私の頭の中にはそんな最悪な事態がよぎっていた。
だが、そうだとすれば今日の先輩の振る舞いにもすべての説明がつく。
「嘘、だよね」
通りの街灯がチカチカと点滅している。
秋の冷たい風が私の体温を奪い、思考判断を鈍らせる。
背後から聞こえてくる靴の音。
冷えた手を温めるふりをして自分の耳を塞ぐ。
ダメだ。
心臓が強く脈打っている。
部活のみんなとは、学校を出たときにバラバラになったから部員ではない。
この辺りは住宅街だから仕事帰りのサラリーマンという可能性もある。
いや、それにしては足音が軽すぎる。
誰だ?
家まではまだ10分くらいある。
しばらく1本道だから戻るか進むかしか選択肢はない。
引き返すにも振り返ったとみなされるかもしれない。
つまり、私は進むしかないということか。
落ち着け私。焦っているときほど冷静になれ。
バスケの試合中、船木先輩にも言われていただろ。ヤバいと思ったときほど、頭を空っぽにして周りを見渡せ。状況を整理する癖をつけろと。
深く息を吐いて深呼吸。
「あれっ?」
背後から聞こえていた靴の音が聞こえない。
立ち止まったのか?
違う。
私の歩幅に合わせて歩いているんだ。私の足が地面に着地するタイミングに合わせて背後の誰かも足を着地させている。
足音も極力出さないようにしているから私の靴音しか聞こえないんだ。
「ねえ」
手汗で手がびしょびしょだ。
反応するな。反応したら負けだ。
「ねえ、聞こえてるんでしょ茜」
さっきより声が近づいた。
どうして私の名前を知ってるの?
怖い。どうしよう。お母さん。
「無視するなよ」
暗くて低い私の声が私の頭のすぐ後ろから聞こえてきた。
それと同時に氷のように冷たい手が私の腕をギッと掴んだ。
「お願い離して!」
「ダメだよ。茜にも交代の順番が回って来たんだよ」
茜にも? 交代の順番?
「嫌だ! 離して! 助けて! 誰か! 助けてください!!!!!!」
夜にこれだけ大声で叫べばきっと誰かが助けに来てくれるはず。
「無駄だよ。ここには誰も来ない。茜は入れ替わるんだよ。私と」
次の瞬間、私は地面の中に沈んでいた。
もがけばもがくほど底なし沼にハマったかのように体が地面の底へと落ちていく。
僅か5秒ほどで胸の辺りまで地面に浸かっていた。
もう頭のてっぺんまで沈み切るのも時間の問題。
私はここで死ぬのだろう。
それならばせめて私をこんな目に遭わせた犯人の顔をこの目で見てから死んでやる。
振り返らなくても殺されるだけなら犯人の顔くらい見ておきたい。
私は、極限状態に陥ったことでドッペルちゃんの噂のことや恐怖心が吹き飛んでいた。
「お前は誰だ!」
最後の力を振り絞って体を回転させる。
「!?」
「バイバイ、私」
目の前が真っ暗になった。
音も聞こえないし、方向感覚もない。もう沈んでいるのかすらわからない。
ずっとこのまま暗闇の世界を彷徨うのかな?
ここにはもう答えてくれる人はいない。
―4―
「んっ?」
無機質な目覚まし時計の音で目が覚めた。
太陽の光が眩しい。今日も良い天気だな。
身支度を済ませてから朝ご飯を食べる。今日のメニューはご飯に納豆に鮭とお味噌汁だ。
これぞ日本人って感じ。
「お母さん、行ってきます!」
「あれっ? 今日は自転車で行くの?」
玄関まで見送りに来てくれたお母さんが首を傾げた。
私が自転車の鍵を持っていたことに気がついたのだろう。
「うん、そろそろ帰りも寒くなって来たし、自転車の方が速いからさ」
「そっか。気をつけてね」
それっぽい理由を言ったら信じてくれた。
自転車を漕ぐと秋の冷たい風が私の髪の毛を乱暴に振り回した。でも、不思議と悪い気はしない。
今の私にとっては、どの体験も新鮮で1つ1つが楽しくて仕方がない。
「ねえ、茜。見えてる? もうあなたの体は私のものだよ」
私は自分の陰に向かって笑いかけた。
―5―
全てを理解した。
ドッペルちゃんの正体も私がこれからどうなっていくのかも。
昨日の夜、私は自分と瓜二つの人影に襲われて彼女と入れ替わってしまった。
ドッペルちゃんは人間の影だ。
人間の数だけドッペルちゃんは存在する。
私の体を手に入れたドッペルちゃんは、今この瞬間も何食わぬ顔で私を演じている。
身支度をして、朝ご飯を食べて、自転車通学に切り替えて。
前髪が崩れているというのに気にもしていない。
2日前、船木先輩は白ヶ峰高校生の中には突然性格が変わってしまう生徒がいると言っていた。
今だからわかる。その生徒はドッペルちゃんと入れ替わった生徒だ。
外見は変わっていないけれど、中身が別人に変わっているのだからそりゃあ性格も変わるはずだ。
ということは、船木先輩もドッペルちゃんと入れ替わってしまった可能性が高い。
この学校には本物の生徒が何人いるのだろうか。
男子からモテモテなあの子も、運動神経抜群な彼ももしかしたらドッペルちゃんなのかもしれない。
これは私から皆への忠告。
通学路で不気味な視線を感じても絶対に振り返っちゃダメ。少しでも怖いと感じたら周りの目なんて気にせず走って逃げた方がいい。
じゃないと私みたいになっちゃうから。
ドッペルゲンガーのドッペルちゃん、完結。